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幕府山事件とは、南京事件における捕虜殺害事件として大規模なものであり、南京事件論争の中で大きな論点の一つとなっている。
事件の概要は次の様になる。
日本軍が中華民国の首都南京を陥落させたのは昭和12年12月13日だったが、その翌日の12月14日、南京の東北に位置する幕府山で山田支隊(歩兵第65連隊基幹、山砲兵第19連隊第3大隊、騎兵第17大隊付属)は大量の捕虜を捕獲した。この戦果は東京朝日新聞12月17日号などでも報道され、捕虜の様子も写真で撮影されている。捕らえた捕虜の数は1万4777名と報道されたが、その後、捕虜の行方について報道はなかった。
▼幕府山・南京要図

戦後、この事件を初めて報じたのは、秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』昭和32年2月25日号)※である。秦の記事によれば、山田支隊(両角連隊)は軍から捕虜殺害の命令を受け、両角は殺害に反対だったものの軍命令には背けず全ての捕虜を殺害したという。※秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』昭和32年2月25日号)抜粋
この秦の記事に対し、福島民友新聞で1961年12月〜1962年12月に連載された「郷土部隊戦記」(後に『郷土部隊戦記1』(1964年)として出版される)では、その真相を次のように論じている。
山田支隊は軍からの捕虜殺害の命令を受けたが、捕虜殺害に反対していた両角連隊長は独断で捕虜を解放しようとした。しかし、捕虜を連行する途中で暴動を発生し、自衛のため捕虜を殺害した。
後に、この説を自衛発砲説と言い、防衛研究所戦史資料室によって編纂された『戦争叢書』や旧軍人組織の偕行社が編纂した『南京戦史』、もしくは南京事件否定論者の多くはこの自衛発砲説に準じる立場をとった。
一方、歴史学者やジャーナリストなどの集まりである南京事件調査研究会は、その後、多くの資料を発見し、自衛発砲説を否定し軍の命令によって捕虜は殺害されたと主張した。南京事件肯定論者=史実派の多くはこの説を採る。
その後、この論点は、自衛発砲説と捕虜殺殺害説、またはその他の説において論争を巻き起こしている。
今回検証する両角手記・日記は自衛発砲説の主要な根拠の一つであり、かつ、同説を主張した端緒となった史料である。ところがこの両角手記・日記は、歴史史料としては出自や引用方法に難点があり、語っている内容にも不信な点が多く見られ、その評価は複雑と言える。例えば、自衛発砲説を採る偕行社『南京戦史』は両角手記・日記について主要な根拠史料の一つとしているにも係らず、日記については「その原本との照合は不能の状況である」とし、手記について「他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない」と評している。
本稿では、両角手記・日記の史料批判をすることで、史料としての問題点を明らかにし、史料価値の限界を見極める一助としたい。また、あわせて両角手記・日記の周辺の史料を検証する。
事件の概要は次の様になる。
日本軍が中華民国の首都南京を陥落させたのは昭和12年12月13日だったが、その翌日の12月14日、南京の東北に位置する幕府山で山田支隊(歩兵第65連隊基幹、山砲兵第19連隊第3大隊、騎兵第17大隊付属)は大量の捕虜を捕獲した。この戦果は東京朝日新聞12月17日号などでも報道され、捕虜の様子も写真で撮影されている。捕らえた捕虜の数は1万4777名と報道されたが、その後、捕虜の行方について報道はなかった。
▼幕府山・南京要図

戦後、この事件を初めて報じたのは、秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』昭和32年2月25日号)※である。秦の記事によれば、山田支隊(両角連隊)は軍から捕虜殺害の命令を受け、両角は殺害に反対だったものの軍命令には背けず全ての捕虜を殺害したという。※秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」(『日本週報』昭和32年2月25日号)抜粋
この秦の記事に対し、福島民友新聞で1961年12月〜1962年12月に連載された「郷土部隊戦記」(後に『郷土部隊戦記1』(1964年)として出版される)では、その真相を次のように論じている。
山田支隊は軍からの捕虜殺害の命令を受けたが、捕虜殺害に反対していた両角連隊長は独断で捕虜を解放しようとした。しかし、捕虜を連行する途中で暴動を発生し、自衛のため捕虜を殺害した。
後に、この説を自衛発砲説と言い、防衛研究所戦史資料室によって編纂された『戦争叢書』や旧軍人組織の偕行社が編纂した『南京戦史』、もしくは南京事件否定論者の多くはこの自衛発砲説に準じる立場をとった。
一方、歴史学者やジャーナリストなどの集まりである南京事件調査研究会は、その後、多くの資料を発見し、自衛発砲説を否定し軍の命令によって捕虜は殺害されたと主張した。南京事件肯定論者=史実派の多くはこの説を採る。
その後、この論点は、自衛発砲説と捕虜殺殺害説、またはその他の説において論争を巻き起こしている。
▼「郷土部隊戦記」 『福島民友新聞』 | ▼秦賢助「捕虜の血にまみれた白虎部隊」 『日本週報』昭和32年2月25日号 |
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今回検証する両角手記・日記は自衛発砲説の主要な根拠の一つであり、かつ、同説を主張した端緒となった史料である。ところがこの両角手記・日記は、歴史史料としては出自や引用方法に難点があり、語っている内容にも不信な点が多く見られ、その評価は複雑と言える。例えば、自衛発砲説を採る偕行社『南京戦史』は両角手記・日記について主要な根拠史料の一つとしているにも係らず、日記については「その原本との照合は不能の状況である」とし、手記について「他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない」と評している。
本稿では、両角手記・日記の史料批判をすることで、史料としての問題点を明らかにし、史料価値の限界を見極める一助としたい。また、あわせて両角手記・日記の周辺の史料を検証する。
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