トップ > 解説 グース氏のトンデモ否定論 > 例外として無裁判処罰は認められていたか?
ただし、ブラッセル宣言に間諜に対する裁判の必要が盛り込まれた事実から考えると、すでにこの考え方は、ブラッセル宣言当時(1874年)には慣習法として定立していたと考えるのが妥当でしょう。
その後、一般市民保護の意識が高まり、その後、裁判義務の慣習法が形作られ、その反映として1874年ブラッセル宣言の記述となったものと考えられます。
この裁判義務の考えは、1888年のオックスフォード提要でも確認できます。
グース氏の見解は、ハーグ条約以前には「処罰の際に裁判を行うという慣行は積まれていなかった」のであり、「間諜の処罰には裁判が義務である、という慣習法は存在しなかった」というものです。
グース氏は、この見解を導き出すために、ハーグ条約以前の慣行・慣習法の状況として、マルテンスの「すなわち間諜は決して従来一般に行われたるが如く、適当の取調べをなすことなく、直ちにただ総括的に之を殺すべきものにあらず」という記述を利用しています。
しかし、通常の読み方をするならば、マルテンスが書いた「従来一般」とは、ブリュッセル宣言以前の一般的慣行を示しています。そこでグース氏は、この「従来一般」を「作戦地域では一般に」と読み替えたわけです。この読み替えにより「従来」の意味を曖昧とさせ、本来の意味である「ブラッセル宣言以前」(1874年以前)から、「ハーグ陸戦規則以前」(1899年以前)とすり替えたのです。
そのようなすり替えを行った上で、ハーグ陸戦規則以前は「間諜の処罰には裁判が義務である、という慣習法は存在しなかった」と結論付けているわけですから、この結論に妥当性がないことは言うまでもないでしょう。
そもそも、ハーグ陸戦規則以前のものであるマルテンスの記述で、
「すなわち間諜は決して従来一般に行われたるが如く、適当の取調べをなすことなく、直ちにただ総括的に之を殺すべきものにあらず」
と、間諜の処罰に裁判が義務であることが示されています。つまり、ハーグ陸戦規則以前の国際法規範として、間諜が義務であることをマルテンスは主張しています。グース氏の主張は、このマルテンスの見解を曲解するものでしかありません。
【グース氏記述】基本的な日本語の問題ですが、グース氏は、マルテンスの書いている「従来一般」の意味として、『「作戦地域では一般に」という意味になると思われます』と説明しています。しかし、「従来」という言葉は、時間的に”以前から今まで”ということを意味します。当然、この場合も時間的な意味を指すのであり、”過去からブラッセル宣言以前までは一般的に”という意味となります。
>国際法(ロシア、フリードリッヒ・マルテンス著)
>早稲田大学出版部
>中村進午識訳 明治41年初版(下巻 P688)
> 間諜若し間諜をなす間に捕らえられたる時は、直ちにこれを殺し又は捕縛することは古来より行われるところなり。
>〜中略〜
> 間諜を厳罰するはその行為が敵に対し弊害多く危険の多きが故になり。間諜これ自身は犯罪にあらずまた不道徳の行為にもあらず、故にブルッセル宣言は間諜をなしたる者の動因如何をを顧みて、これを処理せざるべからずと言い、捕らえれたる間諜はこれを裁判所に移し、之を捕らえたる国家の法律により規則正しく之を判決判決すべしと言えり。すなわち間諜は決して従来一般に行われたるが如く、適当の取調べをなすことなく、直ちにただ総括的に之を殺すべきものにあらず。
この本の発行は明治41年ですが、前書きによると訳すのに3年かかり、終わったのが明治32年2月ということなので、原本に書かれた記述は、西暦1899年より前(ハーグ条約の前)の状況と考えてよいでしょう。
条約化以前の慣習法においても間諜は国際法違反ではないとされています。国際法違反ではないが、当事国の法律(作戦地では軍律)違反により処罰される事も示されています。が、同時に従来一般には、間諜(スパイ)は捕らえたらその場で殺害されていたという事も説明されています。
この「従来一般」というのは「作戦地域では一般に」という意味になると思われますが、いずれにしても処罰の際に裁判を行うという慣行は積まれていなかったと言えます。裁判を義務とするような慣行が積まれてない以上、間諜の処罰には裁判が義務である、という慣習法は存在しなかったと考えられます。
それを是正するべきであるというのがマルテンスの考え方で、1874年のブラッセル会議で間諜の処罰について裁判の義務化が提案され、1899年のハーグ陸戦法規において拘束力のある国際条約として定立したという流れになります。
ただし、ブラッセル宣言に間諜に対する裁判の必要が盛り込まれた事実から考えると、すでにこの考え方は、ブラッセル宣言当時(1874年)には慣習法として定立していたと考えるのが妥当でしょう。
ブラッセル宣言 第21条ブラッセル宣言以前の陸戦の規則に関する国際法の状況を示す直接的な文書というものは存在しないようですが、1863年にアメリカで公布された「陸戦訓令(リーバー法)」は、その後の陸戦規則に関する国際法に大きな影響を与えたものとして知られており、その当時の国際法の状況を知る手がかりになると思います。
間諜は現行を差押へたるとき之を捕擒したる軍隊に行はるる法律に依り審判し、処分すべし
【リーバー規則】このリーバー法では、間諜に対して次のような処罰方法を定めていました。
南北戦争時に、ドイツ生まれのアメリカの政治思想家リーバー(Francis Lieber、1800〜72)の委員会が成文化した戦闘行為に適用すべき法の規則。・・・略・・・1874年のブラッセル宣言もこの影響下にあり、1899年の陸戦の法規慣例に関する規則に踏襲されたところも多い。
『国際法辞典』(有斐閣)p338
リーバー法 第88条「間諜は情報の取得又はその敵への伝達に成功したると否とを問はず、之を絞刑に処す」と書いあるように、1864年当時の慣習法では、間諜に対する裁判義務はなかったようです。
間諜とは敵に通報するの意思を以て変装又は虚偽の口実に依り密かに情報を探取する人を謂ふ。間諜は情報の取得又はその敵への伝達に成功したると否とを問はず、之を絞刑に処す
『戦時国際法講義 第2巻』p544)
その後、一般市民保護の意識が高まり、その後、裁判義務の慣習法が形作られ、その反映として1874年ブラッセル宣言の記述となったものと考えられます。
この裁判義務の考えは、1888年のオックスフォード提要でも確認できます。
オックスフォード提要 第25条ブラッセル宣言・オックスフォード提要はともに条約としての効力を持つものではありませんが、その後のハーグ条約で、初めて国際法として明文化されることになったわけです。
間諜として論告せらるる者あるときは何人に限らず審問を経ずして之を厳刑することを得ず
ハーグ陸戦規則 第30条(間諜の裁判)以上の国際法の流れをまとめると、間諜に対する裁判は、1864年リーバー法時代は義務化されていなかったが、1874年ブラッセル宣言当時から裁判は義務化されていることが確認でき、1888年オックスフォード提要を経て、1899年ハーグ陸戦規則において条約化されたことになります。
現行中捕へられたる間諜は、裁判を経るに非されは、之を罰することを得す。
グース氏の見解は、ハーグ条約以前には「処罰の際に裁判を行うという慣行は積まれていなかった」のであり、「間諜の処罰には裁判が義務である、という慣習法は存在しなかった」というものです。
グース氏は、この見解を導き出すために、ハーグ条約以前の慣行・慣習法の状況として、マルテンスの「すなわち間諜は決して従来一般に行われたるが如く、適当の取調べをなすことなく、直ちにただ総括的に之を殺すべきものにあらず」という記述を利用しています。
しかし、通常の読み方をするならば、マルテンスが書いた「従来一般」とは、ブリュッセル宣言以前の一般的慣行を示しています。そこでグース氏は、この「従来一般」を「作戦地域では一般に」と読み替えたわけです。この読み替えにより「従来」の意味を曖昧とさせ、本来の意味である「ブラッセル宣言以前」(1874年以前)から、「ハーグ陸戦規則以前」(1899年以前)とすり替えたのです。
そのようなすり替えを行った上で、ハーグ陸戦規則以前は「間諜の処罰には裁判が義務である、という慣習法は存在しなかった」と結論付けているわけですから、この結論に妥当性がないことは言うまでもないでしょう。
そもそも、ハーグ陸戦規則以前のものであるマルテンスの記述で、
「すなわち間諜は決して従来一般に行われたるが如く、適当の取調べをなすことなく、直ちにただ総括的に之を殺すべきものにあらず」
と、間諜の処罰に裁判が義務であることが示されています。つまり、ハーグ陸戦規則以前の国際法規範として、間諜が義務であることをマルテンスは主張しています。グース氏の主張は、このマルテンスの見解を曲解するものでしかありません。
このページへのコメント
未だに南京大虐殺等という明らかな捏造を本気で信じているとは、お前
ら反日ブサヨク共はどれだけ頭がお花畑な輩共なんだ?
お前ら反日ブサヨク共は南京大虐殺論争について、さも反日ブサヨク側
の勝利で決着が付いたように語っているが、そのような事実は当方が知
るかぎり存在しないんだが?
まず南京大虐殺があったかどうかについてだが、当時の資料で南京攻略
戦前に南京城内の安全区を管理していた「南京安全区国際委員会」が
食料配給の試算のために行った人口調査で、南京人口は約20万人と認識
されている。
そして、南京陥落の3ヶ月後に同じく「南京安全区国際委員会」の事務局
長であったルイス・S・C・スマイスが実施した戦争被害調査(スマイス
報告)では南京の人口は25万人とされている。
つまり、中国が唱える「犠牲者30万人説」が正しいとするなら、当時の
人口を超える人間が殺害され、且つ大量虐殺が行われている現場に、三
ヶ月で虐殺前よりも多くの人口が移り住んだことになる。
また、攻略戦終了後一ヶ月と経たない1938年1月1日、南京自治委員会の
発会式が挙行されている。式場には南京難民区に避難していた3万人の
市民も詰め掛け、新政権の出現を日の丸と五色旗を振って祝い、国民政
府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す
宣言が発表されている。
ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
お前ら反日ブサヨク共はこういった歴史的事実を知らないのだろうか?
これらの事実からすれば、「戦闘が行われた都市だから当然死者はいた
だろうが、それが虐殺と言えるものではない」と考えるのが普通ではな
いだろうか?
更に言えば、1938年(南京陥落の翌年)には日本軍の進軍を遅らせる為、
中国軍(国民党)が黄河の堤防を決壊させ莫大な被害を出す事件があっ
たが、その際、日本軍は避難する民衆を救助し「中国軍により破壊され
た堤防の修復作業」まで行っている。
(因みに中国軍は民衆や民衆と協力して救助作業や防水作業を行う日本
軍を攻撃した)
ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
こんな事をする軍隊が、都市1つの住人全てを殺すようなことをするだ
ろうか?
これだけの事実が有りながら、戦後半世紀経っても未だに増加を続ける
被害者数を言い張る中国の言が正しいと言い張るのであれば、まず被害
者の遺体、遺骨、遺品など何でも良いので被害者が存在するという証拠
の提示が第一なのではないだろうか?
お前ら反日ブサヨク共は日中戦争で南京問題は散々槍玉に挙げるくせに、
その半年後に起きた国民党軍による黄河決壊事件の際、日本軍が被害者
救助や堤防修復に尽力したのに対し、本来人々を守るべき中国側が日本
軍、及びそれに協力する市民や救出された被害者に対し航空機まで用い
た攻撃を行い、更に当初「洪水は日本軍の攻撃により発生した」と虚偽
の発表を行っていたという点を同等に取り上げない時点で、お前らの主
張は片手落ちどころか両手落ちと言わざるを得ない代物でしか無いだろ
う。
以上、反論できるなら反論してみろ。但し証拠付きでな。
尚、反論は↓此処でも受け付けて居るぞ。
ttp://jipangbito.blog93.fc2.com/blog-entry-54.html