南京大虐殺に関する論争の解説と検証

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埋葬隊問題

紅卍字会とその経費について

【1】これまでの見解

紅卍字会埋葬隊の埋葬にかかった経費について、井上久士は次のように説明している。
『南京大虐殺否定論13のウソ』P130
 南京特務機関は二月と三月、紅卍字会の埋葬費のかなりを負担したと思われる。それがこのふた月埋葬がはかどった理由のひとつであろう。

井上の見解の根拠の一つは、『大阪朝日新聞北支版』1938年4月16日付けの記事「南京便り」ではないかと思われる。
『日中戦争史資料8』P393
東京裁判 弁護側不提出証書
昭和一三、四、一六『大阪朝日新聞』北支版より抜粋(弁証二六九〇)
南京便り第五章衛生の巻 林田特派員
『仕事は死体整理 悪疫の猖獗期をひかへて 防疫委員会も大活動』
 そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片づけた。約一万一千円の入費となってゐる。苦力も延五、六万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山のかげなどに相当数残ってゐるので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である。

この資料によれば、埋葬活動は、紅卍字会、自治委員会、日本山妙法寺の三者共同を行ったことになっている。その際に経費が1万1000円かかり、さらに8000円かかる予定であることが記されているが、その経費の出所については記されていない。


また、東中野修道は次のように説明している。
『「南京虐殺」の徹底検証』P307
埋葬の賃金
 紅卍字会の埋葬は、日本軍特務機関(と自治委員会)からの委嘱によるものであった。中華民国の警官の月給が三円から五円であった当時、一体あたり三十銭(今のお金にして七百円程度)の経費が支払われるという、いわば金になる仕事であった。南京に居残った「最も貧しい人々」には、魅力的な仕事であった。ボランティア活動ではなかったのである。
 そこで後になって、崇善堂その他の弱小団体が自治委員会に作業を申し込んできたが、自治委員会の方では埋葬事務の窓口を紅卍字会に一本化していた関係上、その種の申し込みを受け付けなかった。彼らが紅卍字会の下請けとして従事したことはあっても、その埋葬作業量は紅卍字会の作業量に組み込まれていた----と、氏は回想する。
 こうして一体あたり三十銭の謝礼金が支払われる関係上、埋葬の実績が、その都度、氏のもとへ報告されていた。だから、氏は埋葬状況を把握していたのである。

南京特務機関に所属していた丸山進の証言を基に、紅卍字会埋葬隊の経費は特務機関が支払ってたと主張する。そして、埋葬作業は慈善事業ではなく多分に営利目的の意味合いがあった、崇善堂などの団体も利益確保の目的を達成するために下請けとして埋葬作業に従事した、と主張する。


【2】特務機関の資料

いずれの説明においても、特務機関が紅卍字会埋葬隊の経費を負担していたとされているが、一方、特務機関が残した報告書には以下のように記されている。
井上久士編・解説『華中宣撫工作資料』P164
(三)紅卍字会の屍体収容
本会の屍体収容工作開始以来既に三ヶ月黙々として其■清に当りつつある点真に賞讃に価すへく而も何等訴へる事無く遂に彼等全額の準備金は既に消費し蓋し最近に至り初めて行動不能の域に達したる旨の■願あり
尚各城外地区に散在せる屍体も少からす然して積極的作業に取かかりたる結果著■の成績を挙け三月十五日現在を以て既に城内より一、七九三、城外より二九、九九八計三一、七九一体を城外下関地区並上新河地区方面の指定地に収容せり
春暖に伴れ更に収容埋葬に■数を要する事となり疫病の発生其の他を考慮して極力其方策に対し講究中なるか既に紅卍字会のみの資力にては到底至難の業たる事も明白となり何等かの方法を以て資金援助の方途を講すへき時機に逢着せり現在使用中のトラック毎日五―六両人夫二―三百名を要し既にガソリンの補給並人夫賃捻出も同会にては其方途無き迄に立至る
然して右収容開始以来同会の費消せし金額は一万一千一百七拾五元に及尚埋葬と称するも只アンペラ包の儘該地区一帯に大部分は放置しある状況にして、埋葬済み以前の屍体の土盛並墓地の消毒作業は絶対的な必要条件と思考せらる同会作成の予算表に依れは右経費八千九百五拾元を計上しあるも同会としての今後の活動は全く不可能の域に到達したる為右経費援助に関し目下研究中にあり

埋葬経費に関して要約するならば、次のようになる。
紅卍字会は、埋葬活動に準備した資金を使い果たしたが、まだ城外に死体が散在しており、また疫病を防ぐための作業も必要である。しかし、同会の資力では足りないことは明白となったため、特務機関としては経費援助の方法を考えている。

この文章が書かれた時期は、(1)タイトルに「南京班第三回報告(三月中状況)」とあるように、3月の状況をまとめた報告書であること、(2)「屍体収容工作開始以来既に三ヶ月」と書かれていることから、紅卍字会の最初の埋葬日である12月22日に3ヶ月を足すと3月22日となること、(3)埋葬数の成績を「三月十五日現在を以て」と書いていること、などから、1938年3月下旬から4月上旬だと考えられる。

重要な点は、「彼等全額の準備金」とは、特務機関や自治委員会が用意した資金ではなく、「既に紅卍字会のみの資力にては到底至難の業たる事も明白となり」と書かれていることから「紅卍字会のみの資力」であったと考えられる点である。

また、「何等かの方法を以て資金援助の方途を講すへき時機に逢着せり」と書かれていることから、特務機関はそれまで資金援助を行っていなかったことが読み取れる。

つまり、この資料からは、1938年3月下旬〜4月上旬までの時点において、紅卍字会は独自に準備した資金のみで埋葬を行い、また、特務機関はこれに対して資金援助をしていなかったことが読み取れる。この報告書は、南京特務機関の内部文書であり、この内容に関して事実誤認や虚偽を記しているという可能性は非常に少ないと考えられる。したがって、この問題を考える上では、この特務機関報告の内容を前提として考える必要があるだろう。


【3】『大阪朝日新聞北支版』と特務機関資料

大阪朝日新聞北支版では、埋葬活動は紅卍字会、自治委員会、日本山妙法寺の三者が協力して行ったと書いてあるが、その資金源に関しての記述はない。これら三者のうち、現地において最も財政基盤が明確なのは、日本軍特務機関を背景としている自治委員会であると考えるのは妥当だろう。洞富雄や井上久士が、この点から考えて資金源が自治委員会(ひいては特務機関)であると考えた点については無理がないと思う。このような考えを基にして、特務機関が埋葬資金を援助したと考察したのだろう。

しかし、特務機関報告によれば、少なくとも3月下旬〜4月上旬時点において、紅卍字会が特務機関の資金援助を受けていなかった。洞や井上の見解は妥当性がないと言わざるを得ないだろう。


【4】丸山証言における紅卍字会の埋葬経費

先に見た東中野の見解は、根拠として丸山進の証言に依拠している。そこで、特務機関資料から判明した事実を前提に、丸山証言と紅卍字会の埋葬経費について考察したい。
まずは、丸山証言の関係のある部分を確認する。
満鉄若葉会『会報』1997年夏季号、No.137 P39-40
 一月中旬頃になると中国軍の遺棄屍体は環境衛生上最大の問題になった。それを埋葬するためには厖大な経費と人手を必要とするのでそれを処理する能力をもった組織は日本軍を除いて何処にも存在しないのだ。その日本軍はすでに大部分は移動し残った一個師団の警備隊には全く余力がない。しかしこの問題の解決は佐方特務機関長に委ねられたのであった。佐方さんはそれを自治委員会に委ね三月十五日頃までに埋葬を終らせることにしてそれに要する経費は特務機関長が責任をもって支弁するということでその仕事の進め方を私に下命した。私は早速自治委員会の首脳とこの問題のすすめ方について打ち合わせた。自治委員会は一つの行政機構であってこのような事業を自ら行うためのスタッフを持ち合わせていなかった。尤も救済科なる組織があったが、それは民間の救済活動を指導支援するための機構であって自ら埋葬活動を行うことは殆どなかった。だからこの仕事を進めるためには適当な団体を見つけてそれに委託するよりほかはなかった。ちょうどその頃国際委員会の援助を受けて紅卍字会が屍体埋葬の作業にとりかかっていた。前にも述べたとおり自治委員会と紅卍字会とは密接な関係がり紅卍字会は屍体の埋葬をはじめて見たが資金面についてはわずかに国際委員会からの支援を受けているだけで困難な実情にあった。特務機関からの依頼を受けた自治委員会がその作業の推行を挙げて紅卍字会に委託するのは当然のなり行きであった。紅卍字会の外にはこの大きな仕事を実行する団体は全くなかったのだ。後でわかったことであるが国際委員会からの援助の内容は国際委員会が常雇人夫を百二十七人を雇ってそれに一人当四角(四十銭)を支払い、延べ五十日間紅卍字会に提供するもので国際委員会はそのために二五四〇元を支出している。自治委員会の方は出来高払の方式をとった。埋葬実績について一体当り約三角を支払うというものであった。埋葬作業は三月十五日頃までに終了することを一応のめやすとして概ね二月初めから本格化して、毎日日報を作成して自治印会に報告された。二月一杯までに約五千体を埋葬し三月は思い切って人数をふやして昼夜作業を強行して三月十五日までに合計三万一七九一体を埋葬したことになった。それまでに要した経費は一万一千円と算定されその分は自治委員会から紅卍字会に交付されることになった。しかし三月十五日をすぎてもなお取り残しがあって作業は更に一ヶ月ほどつづけられ最終的に紅卍字会がまとめた数字によれば四万三千百二十三体にあがったことになっている。とすれば追加分に対する経費は約四千元と考えられるがその分を南京市政府公署が交付したかどうかについては私には記憶がない。この作業によって紅卍字会が受け入れた援助金の額は国際委員会から二五四〇元、自治委員会と南京市政府公署から約一万五千元合計して一万七千〜八千元となろう。これを仮に日当三・五角で人夫賃に還元してみると延約五万人となる。死体埋葬という作業はそのような困難な作業であったのだ。戦後色々な団体や個人が数万体或は十数万体を埋葬したとはやしたてたが、彼等は経費のことについては一言もふれていない。私の見解によれば実際に埋葬活動を行ったのは紅卍字会のみであってその他の弱小団体が従事したとしてもそれは紅卍字会の仕事の下請けとして動いたにすぎない。しかもこの四万三千余体についてもつぶさに内容を点検すれば矛盾するところが多い、そのことについてはあとで述べることにする。

丸山は非常に詳細な説明をしている。その要点を埋葬経費の問題に限って摘出する。
(1)軍は、佐方繁木特務機関長に死体埋葬を委ねた。佐方機関長は丸山に対し、自治委員会に埋葬作業を依頼すること、3月15日を目途に作業を終了させること、経費は特務機関が払うこと、という方針をもって実行することを命じた。
(2)丸山は自治委員会の首脳と打ち合わせを行い、紅卍字会に埋葬作業を依頼することとした。
(3)経費は一体当り3角の出来高制として、毎日、日報を自治委員会に対して提出させた。3月15日までに、3万1791体を処理し、経費1万1000円が自治委員会から紅卍字会に支払われた。紅卍字会は3月15日以降の約1ヶ月間、残存する死体の処理作業が続けたが、その作業にかかった経費約4000元を南京市政府公署が支払ったかどうかは記憶にない。

先に見たとおり、特務機関資料によれば、1938年4月前後(3月下旬〜4月上旬)まで特務機関は紅卍字会に対して一切の埋葬経費を負担しておらず、紅卍字会は独自の資金のみでこの時期まで埋葬を行っていた事実が明らかになっている。

ところが、丸山資料によれば、佐方機関長が丸山に示した実務上の方針として経費負担が挙げられており、丸山はその方針に基づき自治委員会や紅卍字会に作業を指示している。そして、紅卍字会からは作業の進捗具合を日報として受け取っており、それらの集計として3月15日までに経費1万1000円を自治委員会を通じて支払ったと主張する。つまり、丸山資料では、特務機関は当初から埋葬経費を負担する計画であったのあり、実際に経費を負担していたということになる。

丸山の記述と特務機関報告とではまったく反対の事象が記されており、これらの資料の食い違いについて合理的な説明をつけることはできない。特務機関資料は、当時書かれた資料であり、特務機関の行動や把握していた状況を示す資料としては信憑性は高い。丸山が特務機関資料とはまったく違う記述を残しているということは、丸山の認識に重大な間違いがあったといわざるを得ない。もちろん、ただの記憶違いであったという可能性も否定できないが、これだけ詳細な記述が事実と食い違っているということ、そして丸山が一貫として南京大虐殺否定論に組しているという背景を考えると、そこに何等かの意図性があったと可能性が高いと思われる。いずれにせよ、この丸山の資料の信憑性は低いと結論付けざるを得ない。


【5】まとめ

以上見てきたように、特務機関資料では、1938年4月前後まで間、特務機関は紅卍字会に対して埋葬経費の援助をしていなかった。

洞富雄や井上久士は、大阪朝日新聞北支版を根拠に、特務機関が埋葬経費を援助していたと考えた。また、東中野修道は、特務機関員であった丸山進の手記を基に、特務機関が埋葬経費を援助していたと主張した。

しかし、これらの見解は、特務機関資料によって否定されるべきであろう。なぜならば、この特務機関資料は当時書かれた特務機関の内部資料であり、その記述の信憑性に関しては、大阪朝日新聞北支版や丸山進手記よりも極めて高いと考えられるからである。

今回判明した事実は、これまで余り論じられてこなかった部分であるが、その分、この事実を基に、再度、資料や論点を検証しなおす必要が出てきたと考えられる。



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このページへのコメント

未だに南京大虐殺等という明らかな捏造を本気で信じているとは、お前
ら反日ブサヨク共はどれだけ頭がお花畑な輩共なんだ?
お前ら反日ブサヨク共は南京大虐殺論争について、さも反日ブサヨク側
の勝利で決着が付いたように語っているが、そのような事実は当方が知
るかぎり存在しないんだが?

まず南京大虐殺があったかどうかについてだが、当時の資料で南京攻略
戦前に南京城内の安全区を管理していた「南京安全区国際委員会」が
食料配給の試算のために行った人口調査で、南京人口は約20万人と認識
されている。
そして、南京陥落の3ヶ月後に同じく「南京安全区国際委員会」の事務局
長であったルイス・S・C・スマイスが実施した戦争被害調査(スマイス
報告)では南京の人口は25万人とされている。

つまり、中国が唱える「犠牲者30万人説」が正しいとするなら、当時の
人口を超える人間が殺害され、且つ大量虐殺が行われている現場に、三
ヶ月で虐殺前よりも多くの人口が移り住んだことになる。

また、攻略戦終了後一ヶ月と経たない1938年1月1日、南京自治委員会の
発会式が挙行されている。式場には南京難民区に避難していた3万人の
市民も詰め掛け、新政権の出現を日の丸と五色旗を振って祝い、国民政
府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す
宣言が発表されている。

ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6

お前ら反日ブサヨク共はこういった歴史的事実を知らないのだろうか?
これらの事実からすれば、「戦闘が行われた都市だから当然死者はいた
だろうが、それが虐殺と言えるものではない」と考えるのが普通ではな
いだろうか?

更に言えば、1938年(南京陥落の翌年)には日本軍の進軍を遅らせる為、
中国軍(国民党)が黄河の堤防を決壊させ莫大な被害を出す事件があっ
たが、その際、日本軍は避難する民衆を救助し「中国軍により破壊され
た堤防の修復作業」まで行っている。
(因みに中国軍は民衆や民衆と協力して救助作業や防水作業を行う日本
軍を攻撃した)

ソース
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

こんな事をする軍隊が、都市1つの住人全てを殺すようなことをするだ
ろうか?

これだけの事実が有りながら、戦後半世紀経っても未だに増加を続ける
被害者数を言い張る中国の言が正しいと言い張るのであれば、まず被害
者の遺体、遺骨、遺品など何でも良いので被害者が存在するという証拠
の提示が第一なのではないだろうか?

お前ら反日ブサヨク共は日中戦争で南京問題は散々槍玉に挙げるくせに、
その半年後に起きた国民党軍による黄河決壊事件の際、日本軍が被害者
救助や堤防修復に尽力したのに対し、本来人々を守るべき中国側が日本
軍、及びそれに協力する市民や救出された被害者に対し航空機まで用い
た攻撃を行い、更に当初「洪水は日本軍の攻撃により発生した」と虚偽
の発表を行っていたという点を同等に取り上げない時点で、お前らの主
張は片手落ちどころか両手落ちと言わざるを得ない代物でしか無いだろ
う。

以上、反論できるなら反論してみろ。但し証拠付きでな。
尚、反論は↓此処でも受け付けて居るぞ。
ttp://jipangbito.blog93.fc2.com/blog-entry-54.html

0
Posted by ロン・セガン 2023年08月27日(日) 06:46:54 返信

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