南京大虐殺 論点と検証 - 東中野の疑問08
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無人地帯となった城内になぜ夏家は留まったのか?


東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』P245-246
 第八に、この事件は十二月十三日、南京城内の東南部 southeastern part で発生したと説明されている。その「東南部」で激戦となることは、南京戦の前から、衆目の一致するところであった。(略)
 しかも十二月八日、南京市民には避難命令が出ていた。十二月八日の『東京朝日新聞』は、城内の危険区域の住民が雪崩をうって安全地帯に避難中と報じた。付近の人々が追い立てられるように避難し、すでに光華門(東南の門)や中華門(南門)付近は無人地帯となっていた。
 従って、犯行時間と言われる十二月十三日の数日前に、ほとんどの人が避難していたのである。ところが、この一家(二家族)だけは、日本軍猛攻の砲音を聞きながら、なぜか留まり続けた。そこから日本軍が侵攻して来るのは眼に見えていたが、その危険区域に、この二家族だけは留まった。そんなことがあるだろうか。


東中野が言うように、当時、南京市民は安全区に避難するように指示が出されていた。そして、実際に多くの市民が安全区に避難していた。また、南京市は安全区外に人が居なくなったといういくつかの記録も存在する。


一方で、これとは反対に、安全区外にも多くの人が残留していたという記録も存在する。この点の詳細については、『南京事件 小さな資料集』における以下の研究に詳しい。

残留外国人たちの見解としても、次に紹介する東京裁判におけるマギーの証言に集約されていると見るのが妥当であろう。
『日中戦争史資料8』 P100-101
我々委員会で推定した所では、安全地帯に入ったのは少くとも二十万は入ったと思ふ。其の外に安全地帯に来なかった者がどの位あったかは到底推定出来ないと思ふ。けれども三十万は最低の見境りであらうと思ふ。兎に角城外に居った者、市外に居った者がどの位居ったかと云ふことは到底推定出来兼ねる

この証言の内容は、南京陥落からその後も南京に留まり、その間にいろいろな情報を収集した結果としての見解だと考えられる。


以上の資料から、南京市民には、南京防衛軍司令官 唐生智から安全区へ避難するように命令が出ていたが、実際には多くの市民が安全区外に残っていたと考えられる。したがって、「犯行時間と言われる十二月十三日の数日前に、ほとんどの人が避難していたのである」という東中野の見解には妥当性がない。
新路口事件における夏家や哈家の避難状況が、以上の見解を裏付けていると言えるだろう。