南京大虐殺 論点と検証 - 日本人の死体陵辱行為の事例
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 ネット上で議論をしていると、日本軍将兵の中国人に対する接し方を示す根拠として、犠牲者の死体に悪戯がされている場面を記した史料などを引用することがある。ところが、このような史料に対し否定派は「死体を侮辱するようなことは、日本のアイデンティティに無い行為である」として、史料を否定しようとする。例えば、掲示板サイト『2ちゃんねる』では次のような記述がある。
ラーベの日記には、強姦され殺された女性の死体の記述があるが、その死体の描写(陰部に木の棒を突っ込まれている死体がそこらじゅうにある等)はどうみても、日本人のアイデンティティからは、考えられないものであり、一方中国の側からすれば、チベットの拷問、通州事件をはじめとする強姦殺人の手口そのままである。

 ここで触れられているラーベの日記の記述とは、1938年2月3日の記述だと思われる。
ラーベ日記1938年2月3日
 今しがた張から聞いたのだが、私たちがかつて住んでいた家の近く、通りを入ったすぐのところの小さな家で人が殺されたそうだ。十七人の家族のうち、六人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたからだ。年寄りが撃ち殺されたあと、娘たちは連れ去れて強姦された。結局女の子ひとりだけ残され、みかねた近所の人が引き取った。
 局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえなんども暴行されているのだ。
ジョン・ラーベ『南京の真実』(講談社、1997年)P222

 そこで、このような主張に対し、日本人とて状況によって死体を陵辱するような行為をするという事例を集め、アイデンティティ論からの資料否定への反論としてみたい。

 なお、このような事例が存在することをもって、それが日本人のアイデンティティにあるなどと言うつもりは毛頭ない。人は、社会的状況や差別意識などによって、いくらでも狂気の行為をするものである。そういう意味で、われわれ日本人もその例外ではないことを銘記しなければならないだろう。
湊七良「その日の江東地区」(『労働運動史研究』第三七号、1963年7月、P31)
亀戸五ノ橋に朝鮮人夫人のむごたらしい惨死体があるから見て来い、といわれた。〔中略〕 近くもあることだから行って見た。〔中略〕 惨殺されていたのは三〇ちょっと出た位の朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。しかも妊婦である。正視することができず、サッサと帰ってきた。
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ――その国家責任と民衆責任』P190
「羅丸山の亀戸署体験」(崔承万「日本関東大震災時我が同胞の苦難」(崔承万『極熊筆耕−崔承万文集−』金鎮英、1970年、P83、原文は朝鮮文))
 私は八六名の朝鮮人を銃剣と剣で切り殺すのをこの目で見た。九月二日午前までに亀戸警察署の練武場に収容されている朝鮮人は三百余名になった。この日の午後一時頃、騎兵一個中隊がやってきて、同警察署を監視していた。その時から田村という少尉の指揮の下の軍人たちがみな練武場に入ってくると、三人ずつ呼び出して練武場入口で銃殺し始めた。すると指揮者は銃声が聞こえると、付近の人たちが恐怖感をもつだろうから、銃の代わりに剣で殺してしまえと命令した。それから後は軍人たちは剣を抜いて八三名をひとまとめにして殺した。この時、妊娠した婦人も一人いた。その婦人の服を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。赤ん坊が泣くのを見て、その赤ん坊を突き殺した〔下略〕
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ――その国家責任と民衆責任』P191-192
「当時、砂町に住んでいた田辺貞之助の回想」(『潮』71年9月号、P97-98)
 三、四日になると、軍隊が出動して朝鮮人狩りが本格的になり、ぼくの家にも剣付きの兵隊が十五人ほど乗り込んできて屯所に使われた。兵隊たちは、あっけにとられているぼくに台所から磨き粉を持ってこさせて、牛蒡剣についた血のりをぬぐっていた。(中略)
 近くの小名木川を、朝鮮人の死骸が、断末魔のもがきそのままに、腕をふり上げて立ったまま流されてゆく。かと思うと、その同じ死体があげ潮にのって、再びのぼってきて、ぼくはその凄惨な死骸を三度も見た。この付近でいちばんひどかったのは大島六丁目で、四、五百坪の空地に、裸体に等しい約二百五十体の死骸が遺棄されていた。ノドを切られて気管と食道の頚動脈がくろぐろと見えるもの、後ろから首筋を切られて、真っ白な肉がざくろのように割れているもの、ムリにひきちぎった跡が歴然としたバラバラの首と胴……、目をそむけないではいられない無残なものばかりだった。
 なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、六、七ヶ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中に転がっているのを見たときだ。その女の陰部には、ぐさりと竹ヤリがさしてあった。 なんというか残酷さ、あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった。
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ――その国家責任と民衆責任』P192-193
久保野茂次(野戦重砲兵第1連隊1等卒)日記 一九二三年九月二十九日より(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会『かくされていた歴史−関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版会、1975年、P18)
 午後常用倉庫の使役にゆく。望月上等兵と岩波少尉は震災地の警備の任をもってゆき、小松川にて無抵抗の温順に服してくる鮮人労働者二百名も兵を指揮し惨ぎゃくした。婦人の足を引張りまたは引裂き、あるいは針金を首に縛り池に投込み、苦しめて殺したり、数限りないぎゃく殺したことについて、あまり非常識すぎやしないかと、他の者の公評も悪い。〔欄外に「九月二日、岩波少尉、兵を指揮し鮮人二百名を殺す(特進少尉)」と記載〕
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ――その国家責任と民衆責任』P196
青木某(仮名)証言(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ 鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件―』教育史料出版会、1992年、P51)
 たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、三〇人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ――その国家責任と民衆責任』P201
軍隊の朝鮮人虐殺に関する大川某(仮名)証言(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会編『風よ 鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件―』教育史料出版会、1992年、P58-59)
 二二、三人の朝鮮人を機関銃で殺したのは旧四ツ木橋の下流の土手下だ。西岸から連れてきた朝鮮人を交番の所から土手下におろすと同時にうしろから撃った。一挺か二挺の機関銃であっというまに殺した。それからひどくなった。四ツ木橋で殺されたのはみんな見ていた。なかには女も二、三人いた。女は、……ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた。朝鮮人を連れてきたのはむこう岸(葛飾側)の人だった。寺島に連れていかれる前に四ツ木橋の土手下で殺された。兵隊は震災から二、三日してきたが、歩きで騎兵ではなかった。
山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺 ――その国家責任と民衆責任』P201-202