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欧州サッカー小百科

European soccer
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【FIFA】の歴史



FIFA創設
国際サッカー連盟(FIFA)は、1904年5月21日、パリにあるフランス運動競技連合本部の奥で創設された。創設文書には次の協会の正式代表が署名した。

フランス フランス運動競技連合(USFSA)
ベルギー ベルギー・スポーツ協会連合(UBSSA)
デンマーク デンマーク・サッカー協会(DBU)
オランダ オランダ・サッカー協会(NVB)
スペイン マドリード・サッカー・クラブ
スウェーデン スェーデン・サッカー協会(SBF)
スイススイス・サッカー協会(ASF)

組織の足固め
2日後の1904年5月23日に開催された最初のFIFA総会で、ロベール・ゲラン(フランス)が会長に選出された。副会長として、ビクトル・E・シュナイダー(スイス)とカール・アントン・ヴィルヘルム・ヒルシュマン(オランダ)が指名を受けた。ルイス・ムリングハウス(ベルギー)が事務局長と会計担当に、ルーズヴィ・シュロウ(デンマーク)がその補佐にそれぞれ指名された。創設されたばかりのFIFAは言わば紙の上の組織に過ぎなかったため、この先駆者たちの前にはなすべきことが山積していた。FIFAに形を与え、真に国を代表する組織として作り上げ、新しい加盟協会を獲得する必要があった。中でもまず第一にすべきことは、この新生組織への加入が不可欠であることを、英国に納得させることだった。1909年までは、FIFAは欧州の協会だけで構成されていた。その後、次の順序で海外の協会が加入した。1909/1910年に南アフリカ、、1912年にアルゼンチンとチリ、1913年に米国。これがFIFAの国際活動の始まりであった。しかし組織が現在の形になるまでには、まだ長い道のりが待っていた。

加盟協会の増加
第一次世界大戦の勃発(1914年)によって、FIFAの活動は長い中断を余儀なくされた。しかし、小規模なものであったとはいえ、国際的関係が途切れることはなかった。1921年3月1日、フランス人のジュール・リメが第3代会長に就任した。当時48歳のリメはその後、生涯をFIFAに捧げることとなった。リメが第一次世界大戦で揺らいでいたFIFAの会長の座を引き継いだとき、加盟協会数は20であった。英国の協会は申し合わせたように脱退し、ブラジルもウルグアイも参加していなかった。しかしリメが会長となってからの33年間、FIFAは第二次世界大戦があったにもかかわらず信じられないほどの発展を遂げた。この期間は「ジュール・リメ時代」と呼ぶべきであろう。なぜなら、リメ会長はFIFAを再編し、FIFA ワールドカップという夢を実現させたからである。1954年、第5回FIFA ワールドカップのスイス大会開催後にリメが会長職を退いたとき、FIFAの加盟協会数は85にまで増えていた。

第1回FIFA ワールドカップの企画
オリンピックの反響を受け、独自の世界選手権を開きたいというFlFAの願いはますます強いものになっていた。1928年5月、FIFA総会は、実行委員会の画期的な提案を受けて、FIFA主催による世界選手権の実施を決定した。となれば、開催国を決定する必要がある。ハンガリー、イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデン、ウルグアイが候補に名乗りをあげた。しかし、ある重要な理由から、本命は最初からウルグアイと目されていた。1924年と1928年の2回のオリンピックで優勝したウルグアイは、1930年に独立100周年を盛大に祝うことになっていたからである。 第1回FIFA ワールドカップは、1930年7月18日、モンテビデオのセンテナリオ(100周年記念)スタジアムで開幕した。ワールドサッカーの新しい時代が始まったのである。 その4年後、母国フランスでの第3回FIFA ワールドカップ開催の決定により、「ワールドカップの父」ジュール・リメは自分自身の夢を実現した。 1942年には、FIFA ワールドカップ第4回大会が開催されるはずであった。しかし、1938年のパリ総会では開催国の指名が断念され、1942年のFIFA ワールドカップが開催されることはなかった。次の総会は1946年7月1日まで待たざるを得なかった。次回のFIFA ワールドカップの開催地は、唯一の候補国であったブラジルが満場一致で選出された。

英国の協会が復帰
1946年には、英国の4つの協会がFIFAに復帰した。これもまた、アーサー・ドルリーならびにスタンリー・ラウス卿という先見性に富んだ人材を見出した、ジュール・リメ会長による外交手腕の賜物であった。 4年後、第5回FIFA ワールドカップ スイス大会のとき、ベルンで開催された総会で80歳のリメ会長は引退した。ジュール・リメは、1954年6月21日、初代名誉会長に選ばれた。「FIFA ワールドカップの父」は、優勝したドイツチームのキャプテンに「ジュール・リメ カップ」を最後に授与し、会長職を離れた。

50周年
FIFAの第4代会長を務めたのは、ベルギー出身のルドルフ・ウイリアム・ジルドライヤーだった。新会長はFIFA創設50周年を祝うという幸運に恵まれた。加盟協会数は85になっていた。ジルドライヤー会長は副会長としてジュール・リメを25年以上支え、1955年10月に亡くなった。後継会長のアーサー・ドルリーは1956年6月9日に選出されたが、ドルリーはすでに半年以上にわたって暫定的な会長としてFIFAの指揮をとっていた。ドルリー会長は新しいFIFA規約の検討委員会の議長を務め、1958年に第6回FIFA ワールドカップ ストックホルム大会を開催、極めて優れた運営手腕を発揮した。アーサー・ドルリー会長は1961年、70歳でこの世を去った。FIFAの運営は、1961年9月28日の特別総会まで、スイス人のエルンスト・B・トメンが担当した。トメンは1954年、1958年、1962年のFIFA ワールドカップ組織委員会委員長として、FIFAに大きく貢献した。FIFAの第6代会長には、スタンリー・ラウス卿が選出された。新たに独立した諸国が次々にFIFAへ加盟したため、加盟協会数は着実に増え続けた。FIFA ワールドカップのテレビ放映も、組織の世界的な拡大に大きく貢献した。民間組織であるFIFAは、政府の補助金も他の組織からの資金援助も受けておらず、すべての活動資金は、FIFA ワールドカップからの利益だけでまかなわれていた。リスクを冒すことなくこれ以上活動の幅を広げることは不可能であると思われた。そこで、多大な自己犠牲を払い、FIFAは事業の整理統合に着手した。これをすべて成し遂げたのが、スタンリー・ラウス卿である。その功績を認められ、1974年6月11日、ラウス卿はフランクフルト総会でFIFA名誉会長に任命された。その日、ブラジルのジョアン・アベランジェ博士がFIFAの会長職を引き継いだ。

新たな時代へ
1974年の第39回総会で会長に選出されたとき、アベランジェ博士はサッカーを競技としてとらえるだけでなく、世界的な技術発展のための新しい手段を見出し、新世代の選手たちを育成することを目標とした。 FIFA本部でのアベランジェ会長の就任は、新しい時代の幕開けを告げるものであった。4年ごとのFIFA ワールドカップからの収益に活動資金をほぼ頼っていたそれまでのFIFAは、意思決定についてはいくぶん保守的で消極的であった。また、その運営も現状維持に焦点を当てたものであった。アベランジェ会長はあっという間に、この管理志向の組織を、新しいアイデアとこれを実現する意欲に満ち溢れたダイナミックな組織に変貌させた。チューリッヒの本部所在地こそ変わっていないが、1974年にチューリッヒベルクのロマンチックなデルヴァルト ヴィラでわずか12人のスタッフがワールドサッカーの運命を握っていたのに対し、今では5つのオフィスビルで120人を超える職員が増え続ける業務をこなしている。

グローバリゼーション
過去25年間で、サッカーは、流行に左右されない世界の主要競技として根付いただけでなく、社会、経済、政治の分野でも花開いた。サッカーは、他のどんなスポーツよりも、地域、人々、国全体を包み込む魅力に満ちている。約2億人の現役プレイヤーがいるサッカーは、現在ではレジャー産業の大きな一角を占め、サッカーだけでなく他のビジネスの世界でも新たな市場を造り出している。

加盟協会数204
1998年6月8日、ジョゼフ・S.・ブラッター(スイス)が第8代FIFA会長としてジョアン・アベランジェ会長の後任に選出された。FIFAで23年間にわたりさまざまな職責を担ってきたブラッターは、パリで開催されたこの第51回FIFA通常総会で会長選出選挙に勝利し、ワールドサッカーの世界で最高の地位に就くこととなった。
2006年10月13日(金) 18:44:35 Modified by kmasaya1816

添付ファイル一覧(全1件)
5be82a2cf851e8fa.gif (2.56KB)
Uploaded by kmasaya1816 2006年10月13日(金) 15:37:45



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