支那駐屯歩兵第二連隊の桜井文雄小隊長は、信じられない光景を目の当たりにした。
「『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、
鼻に牛の如く針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここの埃箱の中や壕の中などから続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく
首と両手を切断され惨殺されていた。
婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった」
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これは兵士が垣間見た惨状のごく一部である。
盧溝橋事件から約3週間後にあたる昭和12年7月29日、シナ人による凄惨極まりない日本人虐殺が起きた。歴史教科書から抹殺された通州事件である。
日本人約380人が暮らしていた狭いエリアの中で、実に260人が犠牲となった…
武装したシナ人の群れは、駐屯する我が軍の関係施設を攻撃しただけでは収まらず、居留民の家をすべて襲撃。略奪・陵辱・惨殺など残虐の限りを尽くした。人のなせる業ではない。それらの残忍な行為は、中共が捏造する
虐殺ストーリーと重なる。つまり、戦後に脚色した“南京の惨劇”なるものが、シナ人の処刑スタイルそのままであることを皮肉にも浮かび上がらせる…
【本当の“屠城”は通州城にあった】
通州は現在、北京市内の一区であるが、事件当時は別の行政区であった。位置は、北京中心部から約20キロの地点だ。通州は古くからある街だが、事件が起きたのはごく限られたエリア内だった。城壁に囲まれた通州城の中で悪鬼のごとき残虐行為が長時間に渡って繰り広げられたのだ。
事件発生翌日の7月30日午後、現場に入った天津歩兵隊の萱島隊長は、こう語っている。
「旭軒(注:飲食店)では四十から十七〜八歳までの女七〜八名が皆強姦され、
裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は
陰部を銃剣で突刺されていた。
商館や役所に残された日本人男児の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した後があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
とりわけ凄惨を極めたのが、通州城北門近くにあった旅館・近水楼だったという。第二連隊歩兵隊の桂鎮雄隊長代理は、数少ない目撃者だった。
「近水楼入口で女将のらしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、きものは寝たうえで剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、掠奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった」
【シナ人特有の猟奇的な殺害方法】
また桂鎮雄隊長代理は、猟奇的な殺害の跡も目撃している。
「一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。
子供は手の指を揃えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、
内蔵が散乱していた」
内蔵引き出しや
陰部突刺などはシナ人特有の残虐な処刑スタイルだろう。その中でも特異な
「胸腹部断ち割り」という残虐な殺害方法を前述の桜井小隊長が目撃している。
「陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
数珠繋ぎにして引き回した上での殺害は、各所で行なわれていた。旅館・近水楼でも女中ら殺戮のあと十数人の男女従業員と宿泊客が麻縄で繋がれ、銃殺場に連行された。
その日本人大量処刑の模様は、発生直後には確認できなかったが、当日偶々宿泊していた同盟通信社の安藤利男特派員が命からがら城外へ脱出。後日になって蛮行が明らかになった。
しかし、なぜ安全だった筈の日本人居留地でシナ人武装勢力の蛮行を許してしまったのか。誰も虐殺の嵐を食い止める者は居なかったのか… そこに通州事件の計画性を見て取ることが出来る。
参照: 通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年
http://dogma.at.webry.info/200708/article_3.html