Fate/XXI 27
Fate/XXI
ACT27 『世界』の運命(中)
切嗣は一瞬、呼吸すら止めてその光景を見つめていた。冷酷無情の魔術師殺しでさえ我を忘れる光景。
仮面の縁から突き出た幾つもの骨針によって、脳を貫かれる言峰綺礼。
異様な輝きを放つ石仮面。
綺礼の頭から引き抜かれ、仮面内部に戻っていく骨針。
十秒にも満たないそれらの現象が終わった後、しばし綺礼はたたずんでいた。
たたずんでいた。何事も無かったかのように。
フーゴには、その何事も無いことが異常であると理解していた。
ウイルスが、左腕からそれ以上侵食していかない。既に、全身をウイルスに喰い尽され、溶けてなくなっていてもおかしくはない頃だというのに。
あるいはそう、ウイルスの侵食力と、肉体の再生力が同じ程度であれば、ウイルスを喰いとめることもできるかもしれないが、それはただの人間ではなしえない。
やがて、脳を深く突き刺されたはずの綺礼は、平然と右腕を上げた。銃弾を受けて、酷い傷を負っていたはずの右腕は、何事も無かったかのように動き、
ザシュッ
ウイルスに侵された左腕を切り落とした。左腕は脆くも落ち、崩れ溶けて消えて行く。
「………!?………!!」
ウイルスに感染した部位を排除したのだろうが、苦渋の決断といったような悲壮感はまるでなく、汚れた雑巾をゴミ箱に放り棄てるかのような無造作な仕草だった。
その異様な空気に呑まれかけた切嗣だったが、その体は自然と反応していた。
おそらくそれは、本能的に感じた、『捕食者に対する恐怖』が引き起こした自衛行動。
切嗣の手は、鉄板をも貫く強弾を、極めて正確に、綺礼のいまだに仮面の下にある顔の中央へ撃ち込んでいた。
「ふむ………」
綺礼は、素手で『受け止めた弾丸』を見つめ、何かに納得した様子で頷くと、弾丸を地に捨てた。
「なるほど」
ダンッ!!
大地を蹴る強い音がしたかと思うと、綺礼の姿は既にフーゴの目前に迫っていた。
「なっ!?」
反射的にスタンドの拳を繰り出したフーゴだったが、ウイルスを仕込んだ拳が当たるより前に、綺礼の手はフーゴの首を掴んでいた。
「ぐっ!!」
「こうか」
ズブリ
フーゴの首にかけられた綺礼の手。その指が、首の皮膚を突き破り、血管に食い込んでいった。
そして、
ドクン ドクン ドクン ドクン
(こ、こいつは、か、感じるッ! 首から、僕の血液が吸い取られて、奴の方へ流れ込んでいくのが、感じられるッ!)
人生において初めての体験でありながら、フーゴは自分が『喰われている』ことが理解できた。呼吸器を絞められ、意識が霞んでいき、まともにスタンドを振るうこともできない。
自分が絶体絶命であることが理解できた。そして、目の前の相手が何者であるのか。何者に成り果てたのかを。
「吸、血鬼……」
フーゴが呟くと同時に、綺礼が動いたことで顔からずれた仮面が、地に落ちる。
露わになった綺礼の顔には笑みがあり、口元からは鋭く伸びた牙が覗いていた。
ドゥンッ!
綺礼の二の腕を銃弾が貫いた。衝撃でフーゴの首から手を離してしまう。
血は吸われたものの、人間を屍生人(ゾンビ)と化すエキスは注入されなかったため、フーゴが怪物となることはなかった。
「ゲ、ホッ! グ、パ、【パープル・ヘイズ】ッ!!」
解放されたフーゴは、敢えて逃げることなく、スタンドで殴りかかる。しかし、綺礼はその拳を容易く避けると、身を引いて間合いをとった。フーゴと切嗣、双方から10メートル離れた辺りまで離れる。
その頃には、既に弾丸で穿たれた腕の傷は、消えていた。
「フ……フハハハハハハ!!」
そして、ようやく自分の状態に実感が沸いたというように、高らかな笑いをあげる。石のように鉄のように、静かで冷たい印象であった男が、心からの哄笑をあげていた。
「かつて狩る側であった私が死徒となるとは。ククク………しかも、この晴れ晴れとした気分はどうだ? 堕落とは、かくも清々しいものであったか」
子供のように素直に喜びを表し、綺礼は切嗣の方に振り向く。
「虚ろなる心を満たすものを欲し、美酒や美食を味わってもみたが、これほどの恍惚は味わったことがない。アサシンの言う通りだ。『人間の血』、『人間の生命』を超える美味は存在しない」
新たなる快楽、新たなる愉悦に目覚めた綺礼は、吸血鬼の怪力を、己が武術に込めて、構える。
舌舐めずりを見せると、
「貴様の生命も味あわせてもらうぞ。衛宮切嗣」
◆
勝利宣言をしたエンヤ婆は、更に『死人』の数を増やし、舞弥たちを囲んでいく。
「さて……足掻くのは構わぬが時間の無駄………降伏するか、死を受け入れるか、どちらか選んだ方が楽にすむぞ?」
嗤うエンヤ婆に対し、ナランチャの【エアロスミス】が銃火によって返答する。
「ふざけんなババア!!」
放たれた弾丸はエンヤ婆を貫くが、その途端、またもエンヤ婆の姿は消えてしまう。
「クカカカカ、無駄無駄無駄、それも幻じゃ。貴様らにわしは捉えられぬよ! クヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
ナランチャは悔しげに表情を歪めるが、実際に捉えられないので反論できない。【エアロスミス】は『二酸化炭素探知』という能力もあるが、サーヴァントであるエンヤ婆は呼吸していないため、二酸化炭素を放出していない。二酸化炭素レーダーでは見つけられない。
一方、形兆はまだ希望を持っていた。
(確かに奴は幻を見せられる。だが、本体も必ずここにいるはず。奴のスタンドは特殊であるが、遠隔操作型に入る。だが、視覚や聴覚は無い。その場に本体がいなければ、状況はわからないタイプだ。でなければ、この空間の、もっと遠くから、そもそも姿を現さずに『死人』をけしかけていればいいのだから)
どこかにいる。形兆たちの姿が見えるどこかに。
(しっかりと見える場所………建物内部は見づらい。この大通りのどこか。あまり遠くではないだろうが………)
形兆が考え込んでいる横で、ナランチャが【エアロスミス】の機銃をそこら中に乱射しはじめた。
「どこにいるかわかんねえならよぉー! どこもかしこもぶっ飛ばしてやらぁ!!」
『死人』を撃ち倒しながら、建物から道路まで、勘を頼りに滅茶苦茶に撃ちまくっている。だがどれだけ大通りを穴だらけにしようと、エンヤ婆に当たる気配は無かった。
エンヤ婆の姿が、霧の中からまた現れ、指を刺して哂う。
「無駄じゃ無駄じゃーッ! 草むらの中にいるかどうかもわからん兎に、石を投げて当てるようなものよッ!」
そのエンヤ婆も、【エアロスミス】の銃弾に蜂の巣にされ、そして消える。かと思えば、また別方向に現れるのだった。
「くっそぉ〜〜〜!」
ナランチャは苦い顔をしながらも、銃撃を続ける。他にやり様を思いつかないのだろう。
(虱潰しにそこいら一体を銃撃してみるというのは、現実的ではない。【バッド・カンパニー】を放ち、探索するという手もあるが、防御網から人手を割くと、『死人』から身を護りきれなくなる……)
形兆はつとめて冷静に、思考を進める。
(この状況ではどうにもならん。見つけ出す上手い手段はない。しかし、いつまでもこのままではないだろう。こちらもつらいが、向こうだって決して楽ではないはず)
固有結界は大魔術の領域。自然、費やすエネルギーも相応に大きなものとなる。長時間、展開し続けられるものではない。
(遠からず、力尽きる。だから奴は、そうなる前に、何かしら仕掛けてくる。それによってこちらは更に追い込まれるだろうが、状況の変化はこちらにとってもチャンスになりうる……)
そして形兆の読みどおり、エンヤ婆は手を打ってきた。
それに気付いたのは、億泰に抑えつけられていたままの、舞弥だった。
「あれは……」
彼女は、大通りの両脇に並ぶ建物の窓から、影が覗いているのを目にした。影は3階の窓から身を乗り出し、ためらうことなく、空中に躍り出た。
「上から来るッ!」
影の正体はもちろん『死人』であり、建物の高い階の窓や、屋上から、次々と跳び下りてくる。その数、約20体。
人間にとって死角である頭上からの攻撃。いやそもそも、『死人』どもは落ちる以外に行動は必要ない。手足や舌を動かして攻撃する必要などなく、ただ人間大の質量が落下し、ぶつかるというだけで、充分致命傷を狙えるのだ。
「クソが……一斉射撃!」
仕方なく、形兆は直撃コースにある数体を優先し、【バッド・カンパニー】で狙い撃つ。空中にいるうちに『死人』たちはバラバラに千切れ飛ぶ。ぶつかっても問題ない大きさに四散したが、肉片や臓物が降りかかるのは止められない。
「ウゲッ! きったねえ!」
億泰が生理的嫌悪感に表情を歪めるが、こればかりは仕方ない。形兆は悲鳴を上げる億泰を無視し、空中にいる間には仕留めきれなかった『死人』たちを見据える。落下したものたちは、立ち上がらずに、横たわって蠢きもがいている。大地と衝突した衝撃で体が砕け折れ、すぐには立つことはできないようだ。いくら『死人』に痛覚がないといっても、物理的に体が壊れていては、機敏に動けない。
問題は今まで防衛できていた周囲の『死人』たちが、落下する『死人』たちを攻撃しているうちに、今までより近くに迫ってきていることだ。
「くっ……【バッド・カンパニー】!!」
今はまだ防衛できるが、あと2度も同じことを繰り返されたら『詰み』だ。
「おら億泰! てめえもいい加減に舞弥の方は諦め……」
形兆がもう一度、億泰に舞弥を見捨てるように言おうとする。
だが、
ドスッ!
「………ッ!!」
足元に鋭い痛み。形兆が視線を降ろすと、そこには右かかとを突き刺す舌と、舌を伸ばす『生首』があった。
(しまった………こいつらは『死人』、操り人形。バラバラにしたからといって、動けなくなるわけじゃなかった)
焦る形兆はその『生首』をアパッチからのミサイルで粉々にする。だが既に、かかとの傷には霧が纏わりつき、丸い穴へ変えていた。
「グウッ……」
「やった! これで貴様もおしまいよ!」
エンヤ婆は飛び跳ねて喜悦しながら、指揮棒を振り上げるように右の腕を上げる。同時に白霧が形兆の足を吊り上げた。
「釣り針に引っかかったミミズのように! 振り回して投げつけて叩きつけてやろう!!」
形兆は逆さまにされて空中に跳ね上がり、何メートルも持ち上げられる。このまま落とされただけで、死にかねない。
「くっそぉ! 兄貴ぃ!!」
億泰は舞弥の腕を掴んでいた【ザ・ハンド】の代わりに、自分自身の腕で舞弥の腕を掴む。そして、【ザ・ハンド】によって空間を抉り、兄を手繰り寄せる。
バンッ!
瞬時にして形兆の体は【ザ・ハンド】の前に移動する。そして【ザ・ハンド】は、今度は形兆の足に、糸のように絡まった霧に狙いをつけて右手を振るった。
霧は空間ごと、どこかへと消え去った。
ドサッ!
「大丈夫かよ、兄貴!」
「つつ……もう少し丁寧にやれ!」
逆さになったまま頭から落ちた形兆が、文句を言いながらも身を起こす。
「助かったんなら文句を言う前に、こっちを手伝えよ!」
形兆が吊り上げられている間に、全ての『死人』の相手にしていたナランチャが叫ぶ。一方、エンヤ婆は思惑が外れて表情をしかめていた。
「………ち。やはり厄介じゃな」
もう一度霧を仕掛けようとするエンヤ婆。その右側の小指から血が垂れ落ちる。
(………!)
形兆はそれを見て、今のエンヤ婆は幻影ではないと判断した。偽物にまで血を流させるほど、あの老婆の芸が細かいとは思えない。
(今の内に……)
形兆は無言で【バッド・カンパニー】の一体を動かす。
特殊工作兵『グリーン・ベレー』の役割を持った兵士だ。敵の視線を巧みに外れ、足音一つ立てることなく、エンヤ婆の背後に機敏に回り込んでいく。
しかし、『グリーン・ベレー』がエンヤ婆に辿り着く前に、形兆の足には再び霧が絡む。持ち上げられる前に【ザ・ハンド】が形兆を掴むが、これでは【ザ・ハンド】も動けない。
「このっ……ボラボラボラ!!」
更に人手が足りなくなった状態で、ナランチャは必死で『死人』を薙ぎ倒していく。だがじわじわと追い詰められ、包囲の輪が狭まっていく。
【バッド・カンパニー】の兵士たちも、形兆がコントロールしきれない状況にいる間に、20体以上が『死人』に捕まり、押さえつけられている。
『死人』が舞弥たちを完全に制圧するのも、時間の問題だった。
「あ、兄貴ぃ〜、これやばいんじゃねぇかぁ〜?」
「わかっている……だがまだチャンスはある」
形兆は、静かにその時を待つ。
そして、『死人』の群れがあと一歩と言うところまで来た時、丁度『グリーン・ベレー』がエンヤ婆の足元に到達した。
だが、
「フンッ!」
グシャッ!!
エンヤ婆はその足を上げて、踏みつける。『グリーン・ベレー』はエンヤ婆の靴の下敷きになりもがくが、抜け出すことはできない。
「虹村の息子よ。貴様も父親に似て出来が悪いのぉ。この程度のこと、気付かぬと思っていたか! ヒャハハハハハハッ!!」
エンヤ婆が勝ち誇る。
『グリーン・ベレー』は蹴り飛ばされ、そのままエンヤ婆の姿は完全に掻き消えて、また現れることはなかった。
『死人』の群れが舞弥たち4人全員を完全に取り囲み、腕を伸ばせば届く位置にまで辿り着き、そして、実際に腕を伸ばした。
◆
パンナコッタ・フーゴが宙を舞い、大地に叩きつけられる。
「ガフッ」
倒れたフーゴに目もくれず、綺礼はあくまで己の宿命の敵と定めた相手、切嗣へ目を向ける。
切嗣の手には、銃弾を込め直したコンテンダーがあるが、それが甚だ心もとなかった。
近距離パワー型のスタンドを、軽々といなす戦闘力を目にした今となっては。
(人間など容易く引きちぎる力、野獣の速度、そこに、中国拳法の技術が加わると、こうなるというのか………怪物、いや)
その力は、もはや怪物の上、怪物を殺す者。
(サーヴァントに近い)
ザッ!
綺礼が切嗣の左真横に出現する。瞬間移動でもしたような突然さだったが、純粋な高速と、歩法の組み合わせによる動きである。
次に繰り出されたのは肘打ち『頂肘』。大地を砕き散らすほどの震脚の後に放たれたそれは、威力は厚さ5センチの鉄板も、一撃で貫くだろう。吸血鬼の筋力に、武術が掛け合わさったそれは、ともすればDIO以上の力となる。
シュッ!
風切る音。切嗣はすんでのところで『頂肘』をかわす。既に3倍速の時間加速をしていたおかげだ。2倍速程度では、かわしきれずに骨が砕かれていただろう。
かわした切嗣は、必死に距離をとるために動く。超近距離での戦闘を得意とする八極拳相手に、近接戦は無謀すぎる。だが綺礼の方も簡単には逃さない。
吸血鬼の特殊な肉体操作はDIOから聞いているが、それを使うまでもない。むしろ慣れないやり方は隙を見せてしまう。綺礼は愚直に、身に染み付いた体術によって、切嗣を追い詰める。
「く!」
綺礼に向けて切嗣が投げたのは手榴弾。投げられた直後、綺礼から10センチと離れていない距離で爆発する。
ゴッ!!
綺礼の胸元で光が弾ける。その爆風を、地面を転がりながら避け、綺礼から遠ざかろうとする切嗣。もちろん、あの程度の爆発で綺礼を仕留められたなどと微塵も思ってはいない。
案の定、三十秒とたたないうちに、爆煙を薙ぎ散らして人影が躍り出てくる。衣服が焼け焦げ、裂傷、火傷を負っているが、四肢は健在だ。動きにも不備は無い。せいぜい、巻き上がった土や煙が目くらましになり、速度がやや鈍ったくらいか。
(手榴弾一発くらいでは、足止め程度か)
しかしそれでも、距離を稼ぐことはできた。切嗣は身を起こし、コンテンダーを構え、狙う。
狙う先は頭部。頭蓋骨の丸みで弾丸が軌道を外れ、致命傷が与えられないこともあるため、実戦では忌避される狙いだ。だが、今の綺礼には、頭部以外に弱点となる場所が無い。
(ギリギリの距離だ。だが3倍速であれば、奴の拳がこの身に辿り着くよりも速く、撃ち放つことができる!)
切嗣はそう確信し、綺礼が自分の本当に1歩手前まで来た瞬間、相手の拳が伸びる直前に、トリガーを引いた。
ドゥンッ!!
(なっ………)
銃口から弾丸が飛び出した時、切嗣は綺礼の姿を見失った。煙のように、吸血鬼となった神父が消え去った。
そして、
バオンッ!!
巨人に薙ぎ倒されたかのような、強烈な衝撃が、切嗣に与えられた。
宙を飛びながら、切嗣の目に、消えたはずの綺礼の姿が映っていた。
綺礼が行ったことは、その場で反回転しただけのこと。最小の動きで、切嗣の視線からも、銃の射線からも外れ、攻撃をかわし、そして、その回転した動きを以て、切嗣へと背中から体当たりした。
攻防一体の技を受け、切嗣はトラックに撥ねられたような衝撃に、吹き飛ばされる。
(そうか、これがあの有名な、『鉄山靠(てつざんこう)』か)
意識の霞みそうな脳で、そんなことをぼんやりと考える。大地を3度バウンドし、衝撃で身を貫かれ、全身を痺れさせて、切嗣は仰向けに倒れる。砕けた骨や潰れた内臓は治癒されていくが、すぐには起き上れない。そんな切嗣の胸の上に、綺礼の足が乗る。
「ぐああッ!!」
「そろそろ本当に終わりだな、衛宮切嗣」
綺礼は冷酷に声をかけた。
◆
億泰は顔を青ざめさせて、迫りくる『死人』どもの手を見つめていた。
(チクショー! よくわからねえけど、兄貴のしようとしたことも見破られちまったみたいだし、もう本当にどうしようもねーのかぁ!?)
両腕で舞弥の腕を抑えつけて立っている、今の状態では、まともに逃げることもできない。億泰の頭では冴えたアイデアなど浮かんではこなかった。
「……億泰、今からでも遅くない。私を見捨てなさい。貴方と形兆だけでもどうにか逃げて、切嗣を助けに言ってほしい」
一方、舞弥は冷徹に自分を殺す発言をする。操られていない側の手で、2つの手榴弾を抜き出していた。
「じ、自爆する気かよ、馬鹿! それにいくらなんでも、ここから逃がしてくれるほど甘い相手か!」
確かにこれは億泰の言うとおり、ここまできて見逃すエンヤ婆ではない。しかも形兆は脚一本を相手に奪われている状態だ。【バッド・カンパニー】は操れるにせよ、本体が動けないのではよりいっそう、逃げるは難しい。
冷静に見えて、流石の舞弥も精神的に限界であると見るべきだった。
「………確かにそうですね。ではもはや私たちにできることは、人質にとられるより前に、自決することくらいですか」
「だからよぉ! そう自分を殺す方向で物事考えるのやめろってんだよぉ!!」
舞弥はどこか不思議な気分で億泰を見た。億泰の方こそ絶望し、このまま敗北するであろうことを認めているというのに、舞弥の死に対しては嫌だと言う。その心のありようがよく理解できなかった。
「俺は馬鹿だからよぉ〜、これからどうすりゃいいのかわかんねぇし、もう諦めるしかねぇのかもしれねぇけど、それでも、自分から死ぬっつーのだけは、悪いことだぜぇ〜、舞弥」
その億泰の言葉を聞いていたらしく、姿を消したままのエンヤ婆はフンと鼻で笑う。
「ほざきおる小僧じゃの〜。まあ死のうが生きようが、貴様らもわしの操り人形になることに変わりは無い。どうせどうにもならんことじゃ。ケケケ」
「どうにもならない………そいつはどうかな?」
どこからか嘲笑っているエンヤ婆に対し、そう言ったのは【ザ・ハンド】に足を掴まれて横に倒れている形兆だった。
「ああ? そんな無様な格好で何を言うか。大人しくしておるがいいわ」
「そうだな。俺は大人しくしてやってもいいぜ? だがな………」
ゴオンゴオンゴオンゴオンゴオン………
唸りをあげて、【エアロスミス】が飛んでいる。だがその銃口は、『死人』の群れではなく、一見、何も無いと見える空間に向いていた。
「………!? こ、これは」
「『グリーン・ベレー』は、役目を果たしていたんだ。貴様を暗殺するまでは至らなかったが……」
姿を消したエンヤ婆だったが、彼女は気付いていなかった。彼女の履く靴と、足の間に、小さな筒が挟まっていたことを。煙草ほどの大きさも無いそれは、小さいながらも確かに役割を発揮していた。
「『発煙筒』を置いてくることはできていたのさ!」
ガガガガガガガガガ!!
その言葉と同時に、【エアロスミス】の機銃が火を噴いた。銃弾の雨を浴び、エンヤ婆がはね飛ばされる、幻影をまとう余裕が無くなり、姿を現した老婆に、更に【バッド・カンパニー】が一斉射撃を叩きつけた。
「ウギャアアアァァァァ!!」
アパッチのミサイルや、戦車の砲弾も含め、立ち昇る煙で姿見えなくなるほどに、エンヤ婆は打ちのめされていた。
(あのヘリのスタンドには、俺たちの居場所を探る、何らかの探知能力がある。それは、エンヤ婆が、奴が現れたことに驚いたことから掴めた。ならば何を探知しているか。姿を消したエンヤ婆を探知できないことから、探知していたのはエンヤ婆ではないとわかった)
ならば、何を探知していたのか?
視覚的情報? 否。それなら、周囲をしらみつぶしに探すしかなく、探しあてるのに、もっと時間がかかるはず。レーダーのように、探知したものがどこにあるのか、すぐにわかる仕組みになっていると考えられる。
動き? 否。それなら街を蠢く『死人』たちと見分けがつかない。おそらく、『死人』が持っていないものを探知している。
生命エネルギーのような何か? 推測であるが、おそらくは否。それなら現界しているサーヴァントも持っていていいはず。ならば、エンヤ婆が姿を消していても、すぐにどこにいるかわかるはず。エンヤ婆が持っていないもの。舞弥たちが持っているもの。
(サーヴァントが持っていなくて、俺たちが持っているもの。二つ、見当をつけてみた。『呼吸』と『体温』。その二つが候補。ゆえに、『二酸化炭素』と『熱』を同時に発生させる『発煙筒』を、エンヤ婆に仕掛けたのだが………当たったみたいだな)
確証は無かった。形兆が仕掛けたものに、ナランチャが気付かなくても駄目だった。だからこれは賭けだったが、どうにか上手くいったようだ。
形兆は安堵し、胸をなでおろす。
同時に固有結界が消失し、『死人』たちも消え、世界は元のコンサートホールへと戻った。
◆
胸骨を圧し折らんばかりに、強く踏みつけ、うっすらと笑みを浮かべてこちらを見下ろす綺礼を見上げ、切嗣は静かに、敗北を認めていた。
(もはやこれまで、か………)
諦観が切嗣の内に満ちていた。
アイリスフィールを失い、悲願を賭した戦いに敗れ、そして聖杯そのものがもはや使いものにならなくなっていたことを思い知り……全てが無駄に終わったことで、切嗣は自分自身で考えているより、ずっと打ちのめされていたのだ。
そして、もはや勝利の可能性は無い。このまま胸から頭へと綺礼の足が移動し、脳を踏み潰されれば終わる。抵抗のしようもない。
(結局……僕はここまでの男だったということか………)
人生を賭けてきた信念が圧し折れ、精神は萎え、肉体は再生しながらも、動かす気力がわき上がらない。
「……さて、あとは貴様を殺すだけだが」
そんな切嗣を、綺礼はつまらなそうに見下ろしていた。今となっては、綺礼が切嗣へと向けるものは感傷めいた、微かな心の澱みに過ぎない。切り捨てるべき禍根。決着をつけるべき汚濁。靴の裏のガムのように、気にせずにはいられない存在であるが、終わってしまえば記憶に留めることもない存在だ。
「お前たちに奪われた『左腕』………このままでは具合が良くない。義手をつくるには時間がかかる。なあ、衛宮切嗣……」
だが、今はまだ、綺礼は切嗣へ強い感情を向けていた。このまま呆けた切嗣を殺すのは、『面白くない』。もっと抵抗してほしい。それを蹂躙したい。もっともっと、楽しんでいたい。
だから、綺礼はこう言うのだ。
「貴様の腕、私にくっつかないかな?」
綺礼は切嗣の左腕に手を伸ばす。指先が肩に触れた。
少し掴んで、手を捻ればそれだけで左腕はもぎ取れる。それがわかっていながら、切嗣の反応は無かった。
綺礼は顔をしかめ、他にこの男の心を切り裂くようなことは無いものか、衛宮切嗣の情報を、脳内で読み返した。そして、試してみるべき情報を探し当てる。
「ああ………そう言えば、アサシンから聞いた話によると、他人の体を自分の体にくっつけてもすぐには馴染まない。大量の人間から血を取る必要があるそうだが………」
綺礼は切嗣の顔を見ながら、口元に嗜虐的な笑みを浮かべる。その表情は、吸血鬼と言う存在に、非常によく似合っていた。
「特に良く効くのは肉親の血なのだそうだ」
切嗣の息が止まった。
「調べたところ、貴様には娘がいるそうだな。貴様の腕を使って、貴様の娘を殺し、その血を奪うというのも……面白そうだ」
切嗣を挑発するための言葉であったが、言葉を並べるうちに、綺礼は本当に、そうするのも楽しそうだと感じていた。浮き立つ心が、まだここが戦場であることを忘れさせ、油断を生む。
「『固有時制御(タイムアルター)』―――『四倍速(スクウェアアクセル)』」
小さく唱えられた呪文の直後、目にも止まらぬ速さで抜き放たれたナイフが、切嗣の胸の上に乗せられた綺礼の足に突き刺さり、腱を切り裂く。足に込める力が、一瞬弱まった時を逃さず、切嗣は地を蹴り、地表を滑って足の下から脱出する。
「!!」
綺礼は心から驚いていた。挑発し、切嗣が何か行動しようとするのを期待はしていたが、実際に逃げられるつもりはなかった。どう行動しようと捩じ伏せ、無駄な努力を嘲笑いつつ踏みにじってやるつもりだった。
(遊びが過ぎたか……!!)
今までに、心底楽しんだことが無かったゆえに、我を忘れて遊ぶという経験が無かったゆえに、締めるべきところで、気を緩めてしまった。それを理解して己を罵り、再び殺意を引き絞り、神経を鋭く尖らせる。
対する切嗣は、コンテンダーに銃弾を込め終えていた。
ドガウッ!!
銃弾が発射され、綺礼の右頬の肉をちぎり、右耳を引き裂き、頭蓋骨の側面を削る。だが、脳には至らなかった。綺礼を殺しうる唯一の攻撃をまたも外した切嗣だったが、今度は絶望しなかった。
それどころではなく、熱い感情が、うねり猛っていたからだ。
(正直、意外だ。こんな僕に、まだ家族を想う気持ちが残っていたなんて。言ってはならないことを言われて、怒るという感情が残っていたなんて)
荒れ狂う怒りの中でも、切嗣が切嗣であるがゆえに残っている冷静な部分が、そんな感想を抱く。
もはや絶望だの諦めだの、悠長なものに沈み込んでいる余裕など無かった。勝算も方法も関係なく、ただ切嗣はこの目の前の敵を倒すのだ。
(イリヤのために―――!!)
衛宮切嗣は、生まれて初めて、正義の為ではなく、自分の我儘の為に戦うのだ。
今この時の切嗣をブローノ・ブチャラティが見たら、羨望や嫉妬を微かににじませながらも、祝福を贈ったことだろう。
『今のお前は生きている』――と。
「調子に乗るな………これ以上、時間はかけない。すぐに殺す」
綺礼のその冷たい予告は、まず間違いなく実行される。
いくら精神的に持ち直そうと、二人のポテンシャルの差異は圧倒的すぎる。たとえ4倍速を以てしても、綺礼にとってはやや手間取る程度でしかないだろう。
そう、このまま、1対1であったなら。
ズワアアアアァァァァァァ……………………
丁度その時、空間が歪み、周囲の風景が、霧が晴れて行くかのように掻き消えていく。
「!! これは……【妖霧嘲笑・幽街結界(ジャスティス)】が消えて行く。エンヤ婆?」
綺礼がコンサートホールの観客席に戻った空間を見回すと、全身に銃痕を開けられ、座席の一つにもたれて倒れる、エンヤ婆の姿があった。まだ消えてはいないが、これ以上動ける様子ではない。
その逆に、舞弥たちは全員生き残っている。完全な形勢逆転。しかしこの圧倒的に不利なはずの状況で、
(こう数が多いと面倒だな)
綺礼が思ったことはそれだけだった。危機感などまるでなく、ただ少し、面倒が増えたとだけ感じているのだ。そしてそれは慢心ではない。単純な戦闘能力で言えば、綺礼は『死人』の群れなどより遥かに強力なのだから。
「切嗣、無事ですか!」
舞弥が声をあげ、
「おい、フーゴ! 大丈夫か!?」
ナランチャが倒れているフーゴに気付き、心配する。
「くっ……ああ、何とか無事だ。それより気をつけろ。そいつ、もう人間じゃない。化物だ」
フーゴがヨロヨロと立ち上がり、綺礼に視線を向けて言う。そんな周囲の声も、綺礼は全く関心を向けなかった。
(早めに衛宮切嗣だけでも始末をつけるとしよう)
邪魔をされぬうちに、切嗣の脳を砕くために動こうとしたところで、綺礼の身は強制的に移動させられた。
(瞬間移動か!)
自分が【ザ・ハンド】による瞬間移動をさせられたのだと瞬時に悟り、綺礼は億泰に目を向ける。億泰は特に計算は無く、切嗣が危ないと思って咄嗟に綺礼を引き寄せただけだったので、その先のことを考えていなかった。
ゆえに、ただ敵に対しての怒りを燃やし、
「ドラァァッ!!」
遮二無二、抉りにかかる。
(遅い)
弧を描いて迫りくる右手を、綺礼は踊るよりも軽やかな動きで避け、素早く億泰の背後に回り込む。
ドズッ!!
「お……う………」
億泰の口から呻き声と、血が漏れる。綺礼の手は、億泰の背中から腹まで貫いていた。
「億泰っ!!」
傍にいた舞弥が、【正義(ジャスティス)】から解放された腕を動かし、銃を撃つ。しかし、綺礼は億泰の体から腕を抜くと、放たれた銃弾を手で弾き返す。
(………これは技術でも、魔術でも無い。この男、人間ではなくなっている)
舞弥は、目の前の男が人外であることをようやく理解できた。この男のサーヴァントが何者かを思い出し、そこから、今の綺礼がどうなっているのかを推察することは難しくなかった。
そしてその推察の内容は、舞弥では言峰綺礼を倒せないことを意味していた。
「【バッド・カンパニー】!!」
「【エアロスミス】!!」
舞弥が手も足も出ない中、形兆とナランチャが行動を起こす。無数の銃口が綺礼へと向けられた。だがそれらから綺礼を蜂の巣にする弾丸が飛び出す前に、
「フンッ!!」
まず近場の観客席を掴むと床から引き剥がし、ナランチャに向けて投げつけた。
「な! ぐあっ!?」
名ピッチャーの投げる野球ボール並みの速度で投げられた座席にぶつかり、ナランチャは吹き飛ばされる。
「ハッ!」
残された形兆の【バッド・カンパニー】は弾丸を放つ。それを綺礼は、黒鍵を発生させ、令呪の魔力も使い、無数の弾丸を弾き飛ばしていく。
(なんて奴……!!)
流石の形兆も、涼しい顔で一秒に百発以上放たれる弾丸を弾き続ける綺礼に、背筋を冷たくする。十秒も弾き続けたところで、綺礼は黒鍵を形兆に向かって投げ放つ。
「くっ! 防御しろ【バッド・カンパニー】!」
銃弾の標的が放たれた黒鍵に変わったところで、綺礼はカモシカよりも高く跳躍していた。全員を見下ろせる位置にまで跳んだ綺礼は、右手で3本の黒鍵を掴み、狙いを絞る。
(着地するまでに、3度は投げ放てる。全員刺し貫いて……)
そこで綺礼は気付く。
(数が………足りない?)
1、2、3………5人。1人足りない。
久宇舞弥――綺礼に向かい、こりずに銃を向けている。
虹村億泰――貫かれた腹を押さえて倒れている。もうそう長くは持たないだろう重傷だ。
虹村形兆――黒鍵は防御できたようだ。エンヤ婆によって、足に穴を開けられたため、思うように動けないでいる。
ナランチャ・ギルガ――吹き飛ばされた衝撃で意識を失ったらしく、倒れている。
パンナコッタ・フーゴ――スタンドを出現させ、こちらを見ていたが、すぐに動き出し、舞弥たちの方へ走っている。
(衛宮切嗣が、いない……!?)
直後、背後に気配を感じた。
(背後? 馬鹿な、この高さで……)
そう思いながらも、体は咄嗟に首を回し、背後を振り向いていた。
そして、その眼に飛び込んできたのは、幾度となく向けられた、銃口。
「切嗣ッ!」
衛宮切嗣はそこにいた。綺礼よりもなお高く、覆いかぶさるように空中で銃を構えていた。
タネを明かせば、酷く単純なことだ。
無論、切嗣に綺礼を超えるジャンプ力など無い。魔術を使ったわけでもない。
切嗣は、フーゴの【パープル・ヘイズ】の強靭な腕力で、その体を投げ飛ばされたのだ。砲丸投げのように振り回されて、体に無理を強いながら、その視線は、敵の姿から1ミリもずれてはいない。
「くっ!」
綺礼は苦し紛れに手にしていた3本の黒鍵を、切嗣に向けて投げる。その内、2本は外れたが、1本はコンテンダーの銃身の当たり、銃の射線を狂わした。
ドウンッ!!
ボグッ!!
綺礼の額を狙っていた弾丸は、綺礼の右目を貫き、頭蓋骨を破って真後ろから抜けて行った。
二人はそのまま落下し、共に観客席を圧し折りながら墜落した。
コンサートホール全体に響いた落下音の後、一瞬の静寂が広がり、その場の全員が見守る中、一方が立ち上がった。
「とど……め、を……」
先に立ち上がったのは、言峰綺礼の方であった。
脳を粉砕されるとまではいかなくとも、脳を弾丸が抉り通過したことによるダメージは大きく、その身は震えており、吐き気をも覚える。だが、まだ致命傷ではない。見下ろせば、すぐ横に切嗣が横たわっている。落下の衝撃が効いているらしく、意識はあり、目も開いているが、起き上ってこない。
(まずは切嗣の血でこの傷を癒す)
聖剣の鞘の力で回復される前に切嗣を殺すため、綺礼の手が切嗣の首に伸びる。その時、銃弾が放たれて綺礼の腕を穿つが、綺礼は銃弾が飛んできた方向を見もしなかった。おそらくは舞弥だろうが、効かないものなど気にはしない。
「ふむ……」
切嗣の目を覗きこむが、そこには諦観も絶望もなく、こちらを迷いなく見据えていた。そのことに綺礼は喜びを感じる。
(そうでなくては面白くない。そんな貴様を踏み躙り殺してこそ、この決着に意味がある)
心をときめかせながら花を摘む少女のように、綺礼は甘い気分で切嗣の首を潰し、引きちぎろうとした。だが、突如視界から切嗣の姿が消える。
「!?」
驚き。だが、すぐに何が起こったかを悟り、そしてもう一度驚いた。
「なぜ!?」
綺礼は背後を見る。思った通り、そこには少年が立っていた。その眼には闘志が燃え、自分を殺しかけた相手への怯えは欠片も無い。穴が開いていたはずの腹部は、衣服が破れているだけで、体は何事も無かったかのように綺麗に治っている。
致命傷を負っていたはずの少年、虹村億泰はその傷を完全に治癒させていた。
「瀕死だったはず……!!……そうか、貴様、鞘を……!」
そう、少し前まで切嗣の体内に納められていた聖剣の鞘は、今は億泰の中にある。
フーゴがスタンドで切嗣を投げ上げるよりも前に、既に聖剣の鞘は引き浮かれ、フーゴに渡されていたのだ。切嗣を投げた後、フーゴは鞘を持って走り、今にも死にそうな致命傷を受けた億泰へと渡した。
切嗣は自らの肉体への負担を覚悟で、億泰の傷を癒すことを優先した。慈愛からではなく、億泰の能力に期待して。そして、億泰はその期待に答えた。
「お、おおおおおおおッ!!」
雄叫びをあげ、切嗣が立ち上がる。
「……『固有時制御・三倍速(タイムアルター・トリプルアクセル)』」
落下によって負った傷と、魔術の副作用とが重なりあった、強烈な激痛に襲われる。今度は鞘の治癒は無い。だが切嗣にはそんなこと関係無かった。
もとより、痛みなど精神によって乗り越えている。この程度の無茶など、両手の指でも数えきれないほどしてきた。
瞬時にコンテンダーに弾丸を装填し、構え、
ドッンッ!!
撃つ。
狙いは髪の毛一本ほどもずれることなく、過たず綺礼の眉間へと吸い込まれていく。綺礼が降りあげ、かざした右手のひらも撃ち抜き、威力衰えることなく、綺礼を襲う。
ザウッ!!
「やったぜ!」
億泰が喝采をあげる。
「馬鹿野郎! まだだッ!」
形兆の【バッド・カンパニー】が、綺礼に向けて一斉射撃を浴びせかける。人間一人は粉々に粉砕できる量の弾丸。
しかしそれは綺礼に命中することなく、虚空を抉る。綺礼は切嗣に向かって鋭く跳びかかる。
(今のは危なかった。アサシンから『空裂眼刺驚(スペースリパー・スティンギーアイズ)』を教わっていなければ、やられていた……)
左目から放った圧縮体液によって、起源弾を撃ち落とした綺礼は、一瞬にして切嗣の目前に到達する。脳の傷はまだ癒えきってはいないが、吸血鬼となっても感じる痛みと不快感を押し殺し、無理矢理に体を動かす。他の誰もが、切嗣の援護には間に合わない。【ザ・ハンド】の瞬間移動も、今回ばかりは救えない。
「「今度こそ――」」
「「終わりだッ!」」
切嗣と綺礼。
お互いが、同じ言葉を吐く。
綺礼の攻撃は、どんなふうに打ったとしても人間など泥のように叩き潰せる。
切嗣の方には、もうコンテンダーに弾丸は無い。装填は間に合わない。
(殺った)
確信を胸に、綺礼は切嗣の頭蓋を砕く拳を繰り出す。
対する切嗣もまた動く。コンテンダーを宙に投げ、ナイフを抜く。狙いは、
(……心臓?)
間違いなく、切嗣の視線、体勢から、左胸へと攻撃は向けられている。だが、吸血鬼となった綺礼に、心臓への攻撃は無意味だ。
綺礼は戸惑う。
(何か策がある……? いや構わん。押し通るのみ)
アサシンから与えられたのは、小賢しい策を力づくで押し破るパワー。
人間は知性の生き物だが、知性で練り上げた行動は、予期せぬ小さな綻びから崩壊する。それが人間の限界。
ならば、人間を超えた存在が手にするのは、知性を踏み躙る怪物的暴力。それがアサシンの回答。
ならばアサシンについていくと決めた綺礼は、それに従うのみ。
暴力に身を任せる。それが、今や綺礼にとってはこの上なく幸せだった。
(ああ、愉しいな。愉しいぞアサシン! 愉しいぞ衛宮切嗣ッ!!)
脳の傷さえ忘れる気分の高揚に酔う。大気を切り裂き、空間を揺るがして渾身の拳が放たれる。
「『固有時制御・四倍速(タイムアルター・スクウェアアクセル)』」
メキャアッ!!
唱えた途端に、切嗣の肉体が絶叫する。肉体が崩壊するような感覚。激痛があまりに大きく、痛みが痛みと感じられないほどで、意識が白く消えそうになる。
けれど、するべきことは失わない。
(避ける)
拳が髪の毛をかすめる。音速に達する拳が髪の毛を引きちぎっていく。皮膚が裂ける。
(だがかわした)
更に接近する。接近戦を得意とする八極拳に、接近戦を仕掛けるなど無謀だ。
だがそれを敢えて踏み込む。
(ナイフを)
吸血鬼の心臓に、ナイフが突き立てられた。だが、心臓に杭を突き立てるだけで死ぬような、生易しい吸血鬼ではない。綺礼は右拳を引き戻し、再度、切嗣の頭部へ必殺を撃ち放とうとする。
直前、
ゴッオオオオオォォォン!!
爆音。
綺礼の背後で爆発が起こった。切嗣がナイフを抜く前に、コンテンダーを投げたとき、手榴弾も一緒に投げられていたのだ。
「ぐ、うう!」
出し抜けの轟音、背中を打つ爆風と灼熱、撒き散らされた瓦礫に、吸血鬼となった綺礼も体を竦ませる。それが狙い。この一瞬の隙が無ければ、切嗣に勝ちは無かった。だが、成功した。
狙いは、空中で撃ち抜いた、まだ癒えていない右目。左手の二本の指、人差し指と中指のみを伸ばした。
「フッ!」
その指を、綺礼の右目の傷に突き込む。傷を押し広げ、指をめり込ませて、抜いた。
「貴様! 何を!」
綺礼がその行動の意味を理解しきれず、叫ぶ。何かした。何かされた。ナイフも、爆弾も全てがフェイント。今のが本命。だが魔術などではない。何をされたかわからない。
(その何かが効果を発揮する前に、この男を殺す!)
怒りと焦りを感じた綺礼が、切嗣の左腕を掴む。メキメキと骨に罅が入る音がする。
もう避けることはできない。このまま腕から血を吸われれば、それだけで切嗣は死ぬ。
が、そこまで待つつもりもない。このまま振り回し、床にでも叩きつける。技も何も無く、ただ殺す。絶対に逃がしはしない。
けれど、切嗣にももう、逃げるつもりなど無かった。
「あ、あああ」
切嗣の心が恐怖する。もともと弱い人間である切嗣は、これから実行することへ、心が悲鳴をあげることを抑えきれない。自分の死は怖くない。今更ここまで擦り切れた心と体の消滅など、惜しくは無い。
だがこの場で自分が死ねば、今度は娘であるイリヤが死ぬことになる。今までのように、自分が消えればそれで済む戦いではない。それが酷く、恐ろしい。
ここまでは上手くいった。
まずナイフで心臓を貫こうと見せることで、相手を惑わせ、接近に成功した。もし最初から、ナイフで脳を突こうとしたり、右目に指を抉り込ませたりしていたら、警戒されて成功しなかっただろう。
次に手榴弾を爆発させ、隙をつくり、その隙に指で右目を貫けた。
だが最後の手が失敗すれば、全て水の泡だ。
成功するのか?
恐れる。だから、叫ぶ。恐怖を忘れるための言葉を、
「アリアリアリアリアリアリアリィィィッ!!」
自然と、そのかけ声を口にしていた。
ゴギャアッ!! ピキッ!
切嗣の右拳が、綺礼の右目を、更に殴っていた。加速した拳は綺礼の脳にまで衝撃を及ぼす。だが、流石に脳を破壊するような威力は無い。
「こんなものが何を――ッ!!」
叫ぼうとした綺礼の言葉が途切れる。
意図して止めたのではない。急に声が出なくなった。
なぜなら、舌が無くなったからだ。
「!!??」
やがて、綺礼は右目に続いて、左目も失う。
右耳が聞こえなくなり、左耳もまた聴覚を失う。
何かが顔から流れ落ちているのが、綺礼にはわかった。汗ではない。溶けた皮膚だ。
(これは……あの『殺人ウイルス』………)
切嗣が、指を綺礼の目に突きこんだ時、【パープル・ヘイズ】の『殺人ウイルス』のカプセルをねじ込んでいたのだ。
いくら吸血鬼となっていても、左腕は再生しきれなかったことから『殺人ウイルス』が効かないわけではない。ならば、脳付近にまで押し込み、再生不能の脳を、直接ウイルスで侵したらどうなってしまうか。
(こんな、危険な。下手をすれば自分までウイルスに感染するというのに……)
カプセルを持ち歩くだけで危険。指で突きこんだ時に、既に割れていてもおかしくない。最後に右拳で殴り、カプセルに衝撃を与え、割った時も、近くにいた切嗣が感染しない保証はなかった。
(……愉しみ、過ぎたか)
策を成功させたのは切嗣の覚悟や努力もあるだろうが、綺礼の精神状態の影響も大きいだろう。切嗣と戦い、吸血鬼の力で蹂躙し、殺すことを愉しみ過ぎた。もっと警戒し、真剣に対応していれば、充分防げた策だったはずだと、綺礼は思う。
(………いや)
防げたと、そう思ったことを、綺礼は訂正した。
たとえ吸血鬼になる前の自分と同じ心構えであったとしても、切嗣に勝てる気がしなかった。
そもそも、策などと言ったが、あんな一か八かの行為を策などとは言えない。あの行動の成功の根底にあるもの。それは、綺礼やアサシン、少し前までの切嗣が、本当には持ち合わせていなかったもの。
死ぬことを覚悟しながらも、その果てに光明を見出し、生きる道を歩む行為。夢の中で見た、アサシンをも殺した力。
(策ではない………勇気、か。全く、忌々しい)
それが、言峰綺礼の最後の思考だった。
……To Be Continued
ACT27 『世界』の運命(中)
切嗣は一瞬、呼吸すら止めてその光景を見つめていた。冷酷無情の魔術師殺しでさえ我を忘れる光景。
仮面の縁から突き出た幾つもの骨針によって、脳を貫かれる言峰綺礼。
異様な輝きを放つ石仮面。
綺礼の頭から引き抜かれ、仮面内部に戻っていく骨針。
十秒にも満たないそれらの現象が終わった後、しばし綺礼はたたずんでいた。
たたずんでいた。何事も無かったかのように。
フーゴには、その何事も無いことが異常であると理解していた。
ウイルスが、左腕からそれ以上侵食していかない。既に、全身をウイルスに喰い尽され、溶けてなくなっていてもおかしくはない頃だというのに。
あるいはそう、ウイルスの侵食力と、肉体の再生力が同じ程度であれば、ウイルスを喰いとめることもできるかもしれないが、それはただの人間ではなしえない。
やがて、脳を深く突き刺されたはずの綺礼は、平然と右腕を上げた。銃弾を受けて、酷い傷を負っていたはずの右腕は、何事も無かったかのように動き、
ザシュッ
ウイルスに侵された左腕を切り落とした。左腕は脆くも落ち、崩れ溶けて消えて行く。
「………!?………!!」
ウイルスに感染した部位を排除したのだろうが、苦渋の決断といったような悲壮感はまるでなく、汚れた雑巾をゴミ箱に放り棄てるかのような無造作な仕草だった。
その異様な空気に呑まれかけた切嗣だったが、その体は自然と反応していた。
おそらくそれは、本能的に感じた、『捕食者に対する恐怖』が引き起こした自衛行動。
切嗣の手は、鉄板をも貫く強弾を、極めて正確に、綺礼のいまだに仮面の下にある顔の中央へ撃ち込んでいた。
「ふむ………」
綺礼は、素手で『受け止めた弾丸』を見つめ、何かに納得した様子で頷くと、弾丸を地に捨てた。
「なるほど」
ダンッ!!
大地を蹴る強い音がしたかと思うと、綺礼の姿は既にフーゴの目前に迫っていた。
「なっ!?」
反射的にスタンドの拳を繰り出したフーゴだったが、ウイルスを仕込んだ拳が当たるより前に、綺礼の手はフーゴの首を掴んでいた。
「ぐっ!!」
「こうか」
ズブリ
フーゴの首にかけられた綺礼の手。その指が、首の皮膚を突き破り、血管に食い込んでいった。
そして、
ドクン ドクン ドクン ドクン
(こ、こいつは、か、感じるッ! 首から、僕の血液が吸い取られて、奴の方へ流れ込んでいくのが、感じられるッ!)
人生において初めての体験でありながら、フーゴは自分が『喰われている』ことが理解できた。呼吸器を絞められ、意識が霞んでいき、まともにスタンドを振るうこともできない。
自分が絶体絶命であることが理解できた。そして、目の前の相手が何者であるのか。何者に成り果てたのかを。
「吸、血鬼……」
フーゴが呟くと同時に、綺礼が動いたことで顔からずれた仮面が、地に落ちる。
露わになった綺礼の顔には笑みがあり、口元からは鋭く伸びた牙が覗いていた。
ドゥンッ!
綺礼の二の腕を銃弾が貫いた。衝撃でフーゴの首から手を離してしまう。
血は吸われたものの、人間を屍生人(ゾンビ)と化すエキスは注入されなかったため、フーゴが怪物となることはなかった。
「ゲ、ホッ! グ、パ、【パープル・ヘイズ】ッ!!」
解放されたフーゴは、敢えて逃げることなく、スタンドで殴りかかる。しかし、綺礼はその拳を容易く避けると、身を引いて間合いをとった。フーゴと切嗣、双方から10メートル離れた辺りまで離れる。
その頃には、既に弾丸で穿たれた腕の傷は、消えていた。
「フ……フハハハハハハ!!」
そして、ようやく自分の状態に実感が沸いたというように、高らかな笑いをあげる。石のように鉄のように、静かで冷たい印象であった男が、心からの哄笑をあげていた。
「かつて狩る側であった私が死徒となるとは。ククク………しかも、この晴れ晴れとした気分はどうだ? 堕落とは、かくも清々しいものであったか」
子供のように素直に喜びを表し、綺礼は切嗣の方に振り向く。
「虚ろなる心を満たすものを欲し、美酒や美食を味わってもみたが、これほどの恍惚は味わったことがない。アサシンの言う通りだ。『人間の血』、『人間の生命』を超える美味は存在しない」
新たなる快楽、新たなる愉悦に目覚めた綺礼は、吸血鬼の怪力を、己が武術に込めて、構える。
舌舐めずりを見せると、
「貴様の生命も味あわせてもらうぞ。衛宮切嗣」
◆
勝利宣言をしたエンヤ婆は、更に『死人』の数を増やし、舞弥たちを囲んでいく。
「さて……足掻くのは構わぬが時間の無駄………降伏するか、死を受け入れるか、どちらか選んだ方が楽にすむぞ?」
嗤うエンヤ婆に対し、ナランチャの【エアロスミス】が銃火によって返答する。
「ふざけんなババア!!」
放たれた弾丸はエンヤ婆を貫くが、その途端、またもエンヤ婆の姿は消えてしまう。
「クカカカカ、無駄無駄無駄、それも幻じゃ。貴様らにわしは捉えられぬよ! クヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
ナランチャは悔しげに表情を歪めるが、実際に捉えられないので反論できない。【エアロスミス】は『二酸化炭素探知』という能力もあるが、サーヴァントであるエンヤ婆は呼吸していないため、二酸化炭素を放出していない。二酸化炭素レーダーでは見つけられない。
一方、形兆はまだ希望を持っていた。
(確かに奴は幻を見せられる。だが、本体も必ずここにいるはず。奴のスタンドは特殊であるが、遠隔操作型に入る。だが、視覚や聴覚は無い。その場に本体がいなければ、状況はわからないタイプだ。でなければ、この空間の、もっと遠くから、そもそも姿を現さずに『死人』をけしかけていればいいのだから)
どこかにいる。形兆たちの姿が見えるどこかに。
(しっかりと見える場所………建物内部は見づらい。この大通りのどこか。あまり遠くではないだろうが………)
形兆が考え込んでいる横で、ナランチャが【エアロスミス】の機銃をそこら中に乱射しはじめた。
「どこにいるかわかんねえならよぉー! どこもかしこもぶっ飛ばしてやらぁ!!」
『死人』を撃ち倒しながら、建物から道路まで、勘を頼りに滅茶苦茶に撃ちまくっている。だがどれだけ大通りを穴だらけにしようと、エンヤ婆に当たる気配は無かった。
エンヤ婆の姿が、霧の中からまた現れ、指を刺して哂う。
「無駄じゃ無駄じゃーッ! 草むらの中にいるかどうかもわからん兎に、石を投げて当てるようなものよッ!」
そのエンヤ婆も、【エアロスミス】の銃弾に蜂の巣にされ、そして消える。かと思えば、また別方向に現れるのだった。
「くっそぉ〜〜〜!」
ナランチャは苦い顔をしながらも、銃撃を続ける。他にやり様を思いつかないのだろう。
(虱潰しにそこいら一体を銃撃してみるというのは、現実的ではない。【バッド・カンパニー】を放ち、探索するという手もあるが、防御網から人手を割くと、『死人』から身を護りきれなくなる……)
形兆はつとめて冷静に、思考を進める。
(この状況ではどうにもならん。見つけ出す上手い手段はない。しかし、いつまでもこのままではないだろう。こちらもつらいが、向こうだって決して楽ではないはず)
固有結界は大魔術の領域。自然、費やすエネルギーも相応に大きなものとなる。長時間、展開し続けられるものではない。
(遠からず、力尽きる。だから奴は、そうなる前に、何かしら仕掛けてくる。それによってこちらは更に追い込まれるだろうが、状況の変化はこちらにとってもチャンスになりうる……)
そして形兆の読みどおり、エンヤ婆は手を打ってきた。
それに気付いたのは、億泰に抑えつけられていたままの、舞弥だった。
「あれは……」
彼女は、大通りの両脇に並ぶ建物の窓から、影が覗いているのを目にした。影は3階の窓から身を乗り出し、ためらうことなく、空中に躍り出た。
「上から来るッ!」
影の正体はもちろん『死人』であり、建物の高い階の窓や、屋上から、次々と跳び下りてくる。その数、約20体。
人間にとって死角である頭上からの攻撃。いやそもそも、『死人』どもは落ちる以外に行動は必要ない。手足や舌を動かして攻撃する必要などなく、ただ人間大の質量が落下し、ぶつかるというだけで、充分致命傷を狙えるのだ。
「クソが……一斉射撃!」
仕方なく、形兆は直撃コースにある数体を優先し、【バッド・カンパニー】で狙い撃つ。空中にいるうちに『死人』たちはバラバラに千切れ飛ぶ。ぶつかっても問題ない大きさに四散したが、肉片や臓物が降りかかるのは止められない。
「ウゲッ! きったねえ!」
億泰が生理的嫌悪感に表情を歪めるが、こればかりは仕方ない。形兆は悲鳴を上げる億泰を無視し、空中にいる間には仕留めきれなかった『死人』たちを見据える。落下したものたちは、立ち上がらずに、横たわって蠢きもがいている。大地と衝突した衝撃で体が砕け折れ、すぐには立つことはできないようだ。いくら『死人』に痛覚がないといっても、物理的に体が壊れていては、機敏に動けない。
問題は今まで防衛できていた周囲の『死人』たちが、落下する『死人』たちを攻撃しているうちに、今までより近くに迫ってきていることだ。
「くっ……【バッド・カンパニー】!!」
今はまだ防衛できるが、あと2度も同じことを繰り返されたら『詰み』だ。
「おら億泰! てめえもいい加減に舞弥の方は諦め……」
形兆がもう一度、億泰に舞弥を見捨てるように言おうとする。
だが、
ドスッ!
「………ッ!!」
足元に鋭い痛み。形兆が視線を降ろすと、そこには右かかとを突き刺す舌と、舌を伸ばす『生首』があった。
(しまった………こいつらは『死人』、操り人形。バラバラにしたからといって、動けなくなるわけじゃなかった)
焦る形兆はその『生首』をアパッチからのミサイルで粉々にする。だが既に、かかとの傷には霧が纏わりつき、丸い穴へ変えていた。
「グウッ……」
「やった! これで貴様もおしまいよ!」
エンヤ婆は飛び跳ねて喜悦しながら、指揮棒を振り上げるように右の腕を上げる。同時に白霧が形兆の足を吊り上げた。
「釣り針に引っかかったミミズのように! 振り回して投げつけて叩きつけてやろう!!」
形兆は逆さまにされて空中に跳ね上がり、何メートルも持ち上げられる。このまま落とされただけで、死にかねない。
「くっそぉ! 兄貴ぃ!!」
億泰は舞弥の腕を掴んでいた【ザ・ハンド】の代わりに、自分自身の腕で舞弥の腕を掴む。そして、【ザ・ハンド】によって空間を抉り、兄を手繰り寄せる。
バンッ!
瞬時にして形兆の体は【ザ・ハンド】の前に移動する。そして【ザ・ハンド】は、今度は形兆の足に、糸のように絡まった霧に狙いをつけて右手を振るった。
霧は空間ごと、どこかへと消え去った。
ドサッ!
「大丈夫かよ、兄貴!」
「つつ……もう少し丁寧にやれ!」
逆さになったまま頭から落ちた形兆が、文句を言いながらも身を起こす。
「助かったんなら文句を言う前に、こっちを手伝えよ!」
形兆が吊り上げられている間に、全ての『死人』の相手にしていたナランチャが叫ぶ。一方、エンヤ婆は思惑が外れて表情をしかめていた。
「………ち。やはり厄介じゃな」
もう一度霧を仕掛けようとするエンヤ婆。その右側の小指から血が垂れ落ちる。
(………!)
形兆はそれを見て、今のエンヤ婆は幻影ではないと判断した。偽物にまで血を流させるほど、あの老婆の芸が細かいとは思えない。
(今の内に……)
形兆は無言で【バッド・カンパニー】の一体を動かす。
特殊工作兵『グリーン・ベレー』の役割を持った兵士だ。敵の視線を巧みに外れ、足音一つ立てることなく、エンヤ婆の背後に機敏に回り込んでいく。
しかし、『グリーン・ベレー』がエンヤ婆に辿り着く前に、形兆の足には再び霧が絡む。持ち上げられる前に【ザ・ハンド】が形兆を掴むが、これでは【ザ・ハンド】も動けない。
「このっ……ボラボラボラ!!」
更に人手が足りなくなった状態で、ナランチャは必死で『死人』を薙ぎ倒していく。だがじわじわと追い詰められ、包囲の輪が狭まっていく。
【バッド・カンパニー】の兵士たちも、形兆がコントロールしきれない状況にいる間に、20体以上が『死人』に捕まり、押さえつけられている。
『死人』が舞弥たちを完全に制圧するのも、時間の問題だった。
「あ、兄貴ぃ〜、これやばいんじゃねぇかぁ〜?」
「わかっている……だがまだチャンスはある」
形兆は、静かにその時を待つ。
そして、『死人』の群れがあと一歩と言うところまで来た時、丁度『グリーン・ベレー』がエンヤ婆の足元に到達した。
だが、
「フンッ!」
グシャッ!!
エンヤ婆はその足を上げて、踏みつける。『グリーン・ベレー』はエンヤ婆の靴の下敷きになりもがくが、抜け出すことはできない。
「虹村の息子よ。貴様も父親に似て出来が悪いのぉ。この程度のこと、気付かぬと思っていたか! ヒャハハハハハハッ!!」
エンヤ婆が勝ち誇る。
『グリーン・ベレー』は蹴り飛ばされ、そのままエンヤ婆の姿は完全に掻き消えて、また現れることはなかった。
『死人』の群れが舞弥たち4人全員を完全に取り囲み、腕を伸ばせば届く位置にまで辿り着き、そして、実際に腕を伸ばした。
◆
パンナコッタ・フーゴが宙を舞い、大地に叩きつけられる。
「ガフッ」
倒れたフーゴに目もくれず、綺礼はあくまで己の宿命の敵と定めた相手、切嗣へ目を向ける。
切嗣の手には、銃弾を込め直したコンテンダーがあるが、それが甚だ心もとなかった。
近距離パワー型のスタンドを、軽々といなす戦闘力を目にした今となっては。
(人間など容易く引きちぎる力、野獣の速度、そこに、中国拳法の技術が加わると、こうなるというのか………怪物、いや)
その力は、もはや怪物の上、怪物を殺す者。
(サーヴァントに近い)
ザッ!
綺礼が切嗣の左真横に出現する。瞬間移動でもしたような突然さだったが、純粋な高速と、歩法の組み合わせによる動きである。
次に繰り出されたのは肘打ち『頂肘』。大地を砕き散らすほどの震脚の後に放たれたそれは、威力は厚さ5センチの鉄板も、一撃で貫くだろう。吸血鬼の筋力に、武術が掛け合わさったそれは、ともすればDIO以上の力となる。
シュッ!
風切る音。切嗣はすんでのところで『頂肘』をかわす。既に3倍速の時間加速をしていたおかげだ。2倍速程度では、かわしきれずに骨が砕かれていただろう。
かわした切嗣は、必死に距離をとるために動く。超近距離での戦闘を得意とする八極拳相手に、近接戦は無謀すぎる。だが綺礼の方も簡単には逃さない。
吸血鬼の特殊な肉体操作はDIOから聞いているが、それを使うまでもない。むしろ慣れないやり方は隙を見せてしまう。綺礼は愚直に、身に染み付いた体術によって、切嗣を追い詰める。
「く!」
綺礼に向けて切嗣が投げたのは手榴弾。投げられた直後、綺礼から10センチと離れていない距離で爆発する。
ゴッ!!
綺礼の胸元で光が弾ける。その爆風を、地面を転がりながら避け、綺礼から遠ざかろうとする切嗣。もちろん、あの程度の爆発で綺礼を仕留められたなどと微塵も思ってはいない。
案の定、三十秒とたたないうちに、爆煙を薙ぎ散らして人影が躍り出てくる。衣服が焼け焦げ、裂傷、火傷を負っているが、四肢は健在だ。動きにも不備は無い。せいぜい、巻き上がった土や煙が目くらましになり、速度がやや鈍ったくらいか。
(手榴弾一発くらいでは、足止め程度か)
しかしそれでも、距離を稼ぐことはできた。切嗣は身を起こし、コンテンダーを構え、狙う。
狙う先は頭部。頭蓋骨の丸みで弾丸が軌道を外れ、致命傷が与えられないこともあるため、実戦では忌避される狙いだ。だが、今の綺礼には、頭部以外に弱点となる場所が無い。
(ギリギリの距離だ。だが3倍速であれば、奴の拳がこの身に辿り着くよりも速く、撃ち放つことができる!)
切嗣はそう確信し、綺礼が自分の本当に1歩手前まで来た瞬間、相手の拳が伸びる直前に、トリガーを引いた。
ドゥンッ!!
(なっ………)
銃口から弾丸が飛び出した時、切嗣は綺礼の姿を見失った。煙のように、吸血鬼となった神父が消え去った。
そして、
バオンッ!!
巨人に薙ぎ倒されたかのような、強烈な衝撃が、切嗣に与えられた。
宙を飛びながら、切嗣の目に、消えたはずの綺礼の姿が映っていた。
綺礼が行ったことは、その場で反回転しただけのこと。最小の動きで、切嗣の視線からも、銃の射線からも外れ、攻撃をかわし、そして、その回転した動きを以て、切嗣へと背中から体当たりした。
攻防一体の技を受け、切嗣はトラックに撥ねられたような衝撃に、吹き飛ばされる。
(そうか、これがあの有名な、『鉄山靠(てつざんこう)』か)
意識の霞みそうな脳で、そんなことをぼんやりと考える。大地を3度バウンドし、衝撃で身を貫かれ、全身を痺れさせて、切嗣は仰向けに倒れる。砕けた骨や潰れた内臓は治癒されていくが、すぐには起き上れない。そんな切嗣の胸の上に、綺礼の足が乗る。
「ぐああッ!!」
「そろそろ本当に終わりだな、衛宮切嗣」
綺礼は冷酷に声をかけた。
◆
億泰は顔を青ざめさせて、迫りくる『死人』どもの手を見つめていた。
(チクショー! よくわからねえけど、兄貴のしようとしたことも見破られちまったみたいだし、もう本当にどうしようもねーのかぁ!?)
両腕で舞弥の腕を抑えつけて立っている、今の状態では、まともに逃げることもできない。億泰の頭では冴えたアイデアなど浮かんではこなかった。
「……億泰、今からでも遅くない。私を見捨てなさい。貴方と形兆だけでもどうにか逃げて、切嗣を助けに言ってほしい」
一方、舞弥は冷徹に自分を殺す発言をする。操られていない側の手で、2つの手榴弾を抜き出していた。
「じ、自爆する気かよ、馬鹿! それにいくらなんでも、ここから逃がしてくれるほど甘い相手か!」
確かにこれは億泰の言うとおり、ここまできて見逃すエンヤ婆ではない。しかも形兆は脚一本を相手に奪われている状態だ。【バッド・カンパニー】は操れるにせよ、本体が動けないのではよりいっそう、逃げるは難しい。
冷静に見えて、流石の舞弥も精神的に限界であると見るべきだった。
「………確かにそうですね。ではもはや私たちにできることは、人質にとられるより前に、自決することくらいですか」
「だからよぉ! そう自分を殺す方向で物事考えるのやめろってんだよぉ!!」
舞弥はどこか不思議な気分で億泰を見た。億泰の方こそ絶望し、このまま敗北するであろうことを認めているというのに、舞弥の死に対しては嫌だと言う。その心のありようがよく理解できなかった。
「俺は馬鹿だからよぉ〜、これからどうすりゃいいのかわかんねぇし、もう諦めるしかねぇのかもしれねぇけど、それでも、自分から死ぬっつーのだけは、悪いことだぜぇ〜、舞弥」
その億泰の言葉を聞いていたらしく、姿を消したままのエンヤ婆はフンと鼻で笑う。
「ほざきおる小僧じゃの〜。まあ死のうが生きようが、貴様らもわしの操り人形になることに変わりは無い。どうせどうにもならんことじゃ。ケケケ」
「どうにもならない………そいつはどうかな?」
どこからか嘲笑っているエンヤ婆に対し、そう言ったのは【ザ・ハンド】に足を掴まれて横に倒れている形兆だった。
「ああ? そんな無様な格好で何を言うか。大人しくしておるがいいわ」
「そうだな。俺は大人しくしてやってもいいぜ? だがな………」
ゴオンゴオンゴオンゴオンゴオン………
唸りをあげて、【エアロスミス】が飛んでいる。だがその銃口は、『死人』の群れではなく、一見、何も無いと見える空間に向いていた。
「………!? こ、これは」
「『グリーン・ベレー』は、役目を果たしていたんだ。貴様を暗殺するまでは至らなかったが……」
姿を消したエンヤ婆だったが、彼女は気付いていなかった。彼女の履く靴と、足の間に、小さな筒が挟まっていたことを。煙草ほどの大きさも無いそれは、小さいながらも確かに役割を発揮していた。
「『発煙筒』を置いてくることはできていたのさ!」
ガガガガガガガガガ!!
その言葉と同時に、【エアロスミス】の機銃が火を噴いた。銃弾の雨を浴び、エンヤ婆がはね飛ばされる、幻影をまとう余裕が無くなり、姿を現した老婆に、更に【バッド・カンパニー】が一斉射撃を叩きつけた。
「ウギャアアアァァァァ!!」
アパッチのミサイルや、戦車の砲弾も含め、立ち昇る煙で姿見えなくなるほどに、エンヤ婆は打ちのめされていた。
(あのヘリのスタンドには、俺たちの居場所を探る、何らかの探知能力がある。それは、エンヤ婆が、奴が現れたことに驚いたことから掴めた。ならば何を探知しているか。姿を消したエンヤ婆を探知できないことから、探知していたのはエンヤ婆ではないとわかった)
ならば、何を探知していたのか?
視覚的情報? 否。それなら、周囲をしらみつぶしに探すしかなく、探しあてるのに、もっと時間がかかるはず。レーダーのように、探知したものがどこにあるのか、すぐにわかる仕組みになっていると考えられる。
動き? 否。それなら街を蠢く『死人』たちと見分けがつかない。おそらく、『死人』が持っていないものを探知している。
生命エネルギーのような何か? 推測であるが、おそらくは否。それなら現界しているサーヴァントも持っていていいはず。ならば、エンヤ婆が姿を消していても、すぐにどこにいるかわかるはず。エンヤ婆が持っていないもの。舞弥たちが持っているもの。
(サーヴァントが持っていなくて、俺たちが持っているもの。二つ、見当をつけてみた。『呼吸』と『体温』。その二つが候補。ゆえに、『二酸化炭素』と『熱』を同時に発生させる『発煙筒』を、エンヤ婆に仕掛けたのだが………当たったみたいだな)
確証は無かった。形兆が仕掛けたものに、ナランチャが気付かなくても駄目だった。だからこれは賭けだったが、どうにか上手くいったようだ。
形兆は安堵し、胸をなでおろす。
同時に固有結界が消失し、『死人』たちも消え、世界は元のコンサートホールへと戻った。
◆
胸骨を圧し折らんばかりに、強く踏みつけ、うっすらと笑みを浮かべてこちらを見下ろす綺礼を見上げ、切嗣は静かに、敗北を認めていた。
(もはやこれまで、か………)
諦観が切嗣の内に満ちていた。
アイリスフィールを失い、悲願を賭した戦いに敗れ、そして聖杯そのものがもはや使いものにならなくなっていたことを思い知り……全てが無駄に終わったことで、切嗣は自分自身で考えているより、ずっと打ちのめされていたのだ。
そして、もはや勝利の可能性は無い。このまま胸から頭へと綺礼の足が移動し、脳を踏み潰されれば終わる。抵抗のしようもない。
(結局……僕はここまでの男だったということか………)
人生を賭けてきた信念が圧し折れ、精神は萎え、肉体は再生しながらも、動かす気力がわき上がらない。
「……さて、あとは貴様を殺すだけだが」
そんな切嗣を、綺礼はつまらなそうに見下ろしていた。今となっては、綺礼が切嗣へと向けるものは感傷めいた、微かな心の澱みに過ぎない。切り捨てるべき禍根。決着をつけるべき汚濁。靴の裏のガムのように、気にせずにはいられない存在であるが、終わってしまえば記憶に留めることもない存在だ。
「お前たちに奪われた『左腕』………このままでは具合が良くない。義手をつくるには時間がかかる。なあ、衛宮切嗣……」
だが、今はまだ、綺礼は切嗣へ強い感情を向けていた。このまま呆けた切嗣を殺すのは、『面白くない』。もっと抵抗してほしい。それを蹂躙したい。もっともっと、楽しんでいたい。
だから、綺礼はこう言うのだ。
「貴様の腕、私にくっつかないかな?」
綺礼は切嗣の左腕に手を伸ばす。指先が肩に触れた。
少し掴んで、手を捻ればそれだけで左腕はもぎ取れる。それがわかっていながら、切嗣の反応は無かった。
綺礼は顔をしかめ、他にこの男の心を切り裂くようなことは無いものか、衛宮切嗣の情報を、脳内で読み返した。そして、試してみるべき情報を探し当てる。
「ああ………そう言えば、アサシンから聞いた話によると、他人の体を自分の体にくっつけてもすぐには馴染まない。大量の人間から血を取る必要があるそうだが………」
綺礼は切嗣の顔を見ながら、口元に嗜虐的な笑みを浮かべる。その表情は、吸血鬼と言う存在に、非常によく似合っていた。
「特に良く効くのは肉親の血なのだそうだ」
切嗣の息が止まった。
「調べたところ、貴様には娘がいるそうだな。貴様の腕を使って、貴様の娘を殺し、その血を奪うというのも……面白そうだ」
切嗣を挑発するための言葉であったが、言葉を並べるうちに、綺礼は本当に、そうするのも楽しそうだと感じていた。浮き立つ心が、まだここが戦場であることを忘れさせ、油断を生む。
「『固有時制御(タイムアルター)』―――『四倍速(スクウェアアクセル)』」
小さく唱えられた呪文の直後、目にも止まらぬ速さで抜き放たれたナイフが、切嗣の胸の上に乗せられた綺礼の足に突き刺さり、腱を切り裂く。足に込める力が、一瞬弱まった時を逃さず、切嗣は地を蹴り、地表を滑って足の下から脱出する。
「!!」
綺礼は心から驚いていた。挑発し、切嗣が何か行動しようとするのを期待はしていたが、実際に逃げられるつもりはなかった。どう行動しようと捩じ伏せ、無駄な努力を嘲笑いつつ踏みにじってやるつもりだった。
(遊びが過ぎたか……!!)
今までに、心底楽しんだことが無かったゆえに、我を忘れて遊ぶという経験が無かったゆえに、締めるべきところで、気を緩めてしまった。それを理解して己を罵り、再び殺意を引き絞り、神経を鋭く尖らせる。
対する切嗣は、コンテンダーに銃弾を込め終えていた。
ドガウッ!!
銃弾が発射され、綺礼の右頬の肉をちぎり、右耳を引き裂き、頭蓋骨の側面を削る。だが、脳には至らなかった。綺礼を殺しうる唯一の攻撃をまたも外した切嗣だったが、今度は絶望しなかった。
それどころではなく、熱い感情が、うねり猛っていたからだ。
(正直、意外だ。こんな僕に、まだ家族を想う気持ちが残っていたなんて。言ってはならないことを言われて、怒るという感情が残っていたなんて)
荒れ狂う怒りの中でも、切嗣が切嗣であるがゆえに残っている冷静な部分が、そんな感想を抱く。
もはや絶望だの諦めだの、悠長なものに沈み込んでいる余裕など無かった。勝算も方法も関係なく、ただ切嗣はこの目の前の敵を倒すのだ。
(イリヤのために―――!!)
衛宮切嗣は、生まれて初めて、正義の為ではなく、自分の我儘の為に戦うのだ。
今この時の切嗣をブローノ・ブチャラティが見たら、羨望や嫉妬を微かににじませながらも、祝福を贈ったことだろう。
『今のお前は生きている』――と。
「調子に乗るな………これ以上、時間はかけない。すぐに殺す」
綺礼のその冷たい予告は、まず間違いなく実行される。
いくら精神的に持ち直そうと、二人のポテンシャルの差異は圧倒的すぎる。たとえ4倍速を以てしても、綺礼にとってはやや手間取る程度でしかないだろう。
そう、このまま、1対1であったなら。
ズワアアアアァァァァァァ……………………
丁度その時、空間が歪み、周囲の風景が、霧が晴れて行くかのように掻き消えていく。
「!! これは……【妖霧嘲笑・幽街結界(ジャスティス)】が消えて行く。エンヤ婆?」
綺礼がコンサートホールの観客席に戻った空間を見回すと、全身に銃痕を開けられ、座席の一つにもたれて倒れる、エンヤ婆の姿があった。まだ消えてはいないが、これ以上動ける様子ではない。
その逆に、舞弥たちは全員生き残っている。完全な形勢逆転。しかしこの圧倒的に不利なはずの状況で、
(こう数が多いと面倒だな)
綺礼が思ったことはそれだけだった。危機感などまるでなく、ただ少し、面倒が増えたとだけ感じているのだ。そしてそれは慢心ではない。単純な戦闘能力で言えば、綺礼は『死人』の群れなどより遥かに強力なのだから。
「切嗣、無事ですか!」
舞弥が声をあげ、
「おい、フーゴ! 大丈夫か!?」
ナランチャが倒れているフーゴに気付き、心配する。
「くっ……ああ、何とか無事だ。それより気をつけろ。そいつ、もう人間じゃない。化物だ」
フーゴがヨロヨロと立ち上がり、綺礼に視線を向けて言う。そんな周囲の声も、綺礼は全く関心を向けなかった。
(早めに衛宮切嗣だけでも始末をつけるとしよう)
邪魔をされぬうちに、切嗣の脳を砕くために動こうとしたところで、綺礼の身は強制的に移動させられた。
(瞬間移動か!)
自分が【ザ・ハンド】による瞬間移動をさせられたのだと瞬時に悟り、綺礼は億泰に目を向ける。億泰は特に計算は無く、切嗣が危ないと思って咄嗟に綺礼を引き寄せただけだったので、その先のことを考えていなかった。
ゆえに、ただ敵に対しての怒りを燃やし、
「ドラァァッ!!」
遮二無二、抉りにかかる。
(遅い)
弧を描いて迫りくる右手を、綺礼は踊るよりも軽やかな動きで避け、素早く億泰の背後に回り込む。
ドズッ!!
「お……う………」
億泰の口から呻き声と、血が漏れる。綺礼の手は、億泰の背中から腹まで貫いていた。
「億泰っ!!」
傍にいた舞弥が、【正義(ジャスティス)】から解放された腕を動かし、銃を撃つ。しかし、綺礼は億泰の体から腕を抜くと、放たれた銃弾を手で弾き返す。
(………これは技術でも、魔術でも無い。この男、人間ではなくなっている)
舞弥は、目の前の男が人外であることをようやく理解できた。この男のサーヴァントが何者かを思い出し、そこから、今の綺礼がどうなっているのかを推察することは難しくなかった。
そしてその推察の内容は、舞弥では言峰綺礼を倒せないことを意味していた。
「【バッド・カンパニー】!!」
「【エアロスミス】!!」
舞弥が手も足も出ない中、形兆とナランチャが行動を起こす。無数の銃口が綺礼へと向けられた。だがそれらから綺礼を蜂の巣にする弾丸が飛び出す前に、
「フンッ!!」
まず近場の観客席を掴むと床から引き剥がし、ナランチャに向けて投げつけた。
「な! ぐあっ!?」
名ピッチャーの投げる野球ボール並みの速度で投げられた座席にぶつかり、ナランチャは吹き飛ばされる。
「ハッ!」
残された形兆の【バッド・カンパニー】は弾丸を放つ。それを綺礼は、黒鍵を発生させ、令呪の魔力も使い、無数の弾丸を弾き飛ばしていく。
(なんて奴……!!)
流石の形兆も、涼しい顔で一秒に百発以上放たれる弾丸を弾き続ける綺礼に、背筋を冷たくする。十秒も弾き続けたところで、綺礼は黒鍵を形兆に向かって投げ放つ。
「くっ! 防御しろ【バッド・カンパニー】!」
銃弾の標的が放たれた黒鍵に変わったところで、綺礼はカモシカよりも高く跳躍していた。全員を見下ろせる位置にまで跳んだ綺礼は、右手で3本の黒鍵を掴み、狙いを絞る。
(着地するまでに、3度は投げ放てる。全員刺し貫いて……)
そこで綺礼は気付く。
(数が………足りない?)
1、2、3………5人。1人足りない。
久宇舞弥――綺礼に向かい、こりずに銃を向けている。
虹村億泰――貫かれた腹を押さえて倒れている。もうそう長くは持たないだろう重傷だ。
虹村形兆――黒鍵は防御できたようだ。エンヤ婆によって、足に穴を開けられたため、思うように動けないでいる。
ナランチャ・ギルガ――吹き飛ばされた衝撃で意識を失ったらしく、倒れている。
パンナコッタ・フーゴ――スタンドを出現させ、こちらを見ていたが、すぐに動き出し、舞弥たちの方へ走っている。
(衛宮切嗣が、いない……!?)
直後、背後に気配を感じた。
(背後? 馬鹿な、この高さで……)
そう思いながらも、体は咄嗟に首を回し、背後を振り向いていた。
そして、その眼に飛び込んできたのは、幾度となく向けられた、銃口。
「切嗣ッ!」
衛宮切嗣はそこにいた。綺礼よりもなお高く、覆いかぶさるように空中で銃を構えていた。
タネを明かせば、酷く単純なことだ。
無論、切嗣に綺礼を超えるジャンプ力など無い。魔術を使ったわけでもない。
切嗣は、フーゴの【パープル・ヘイズ】の強靭な腕力で、その体を投げ飛ばされたのだ。砲丸投げのように振り回されて、体に無理を強いながら、その視線は、敵の姿から1ミリもずれてはいない。
「くっ!」
綺礼は苦し紛れに手にしていた3本の黒鍵を、切嗣に向けて投げる。その内、2本は外れたが、1本はコンテンダーの銃身の当たり、銃の射線を狂わした。
ドウンッ!!
ボグッ!!
綺礼の額を狙っていた弾丸は、綺礼の右目を貫き、頭蓋骨を破って真後ろから抜けて行った。
二人はそのまま落下し、共に観客席を圧し折りながら墜落した。
コンサートホール全体に響いた落下音の後、一瞬の静寂が広がり、その場の全員が見守る中、一方が立ち上がった。
「とど……め、を……」
先に立ち上がったのは、言峰綺礼の方であった。
脳を粉砕されるとまではいかなくとも、脳を弾丸が抉り通過したことによるダメージは大きく、その身は震えており、吐き気をも覚える。だが、まだ致命傷ではない。見下ろせば、すぐ横に切嗣が横たわっている。落下の衝撃が効いているらしく、意識はあり、目も開いているが、起き上ってこない。
(まずは切嗣の血でこの傷を癒す)
聖剣の鞘の力で回復される前に切嗣を殺すため、綺礼の手が切嗣の首に伸びる。その時、銃弾が放たれて綺礼の腕を穿つが、綺礼は銃弾が飛んできた方向を見もしなかった。おそらくは舞弥だろうが、効かないものなど気にはしない。
「ふむ……」
切嗣の目を覗きこむが、そこには諦観も絶望もなく、こちらを迷いなく見据えていた。そのことに綺礼は喜びを感じる。
(そうでなくては面白くない。そんな貴様を踏み躙り殺してこそ、この決着に意味がある)
心をときめかせながら花を摘む少女のように、綺礼は甘い気分で切嗣の首を潰し、引きちぎろうとした。だが、突如視界から切嗣の姿が消える。
「!?」
驚き。だが、すぐに何が起こったかを悟り、そしてもう一度驚いた。
「なぜ!?」
綺礼は背後を見る。思った通り、そこには少年が立っていた。その眼には闘志が燃え、自分を殺しかけた相手への怯えは欠片も無い。穴が開いていたはずの腹部は、衣服が破れているだけで、体は何事も無かったかのように綺麗に治っている。
致命傷を負っていたはずの少年、虹村億泰はその傷を完全に治癒させていた。
「瀕死だったはず……!!……そうか、貴様、鞘を……!」
そう、少し前まで切嗣の体内に納められていた聖剣の鞘は、今は億泰の中にある。
フーゴがスタンドで切嗣を投げ上げるよりも前に、既に聖剣の鞘は引き浮かれ、フーゴに渡されていたのだ。切嗣を投げた後、フーゴは鞘を持って走り、今にも死にそうな致命傷を受けた億泰へと渡した。
切嗣は自らの肉体への負担を覚悟で、億泰の傷を癒すことを優先した。慈愛からではなく、億泰の能力に期待して。そして、億泰はその期待に答えた。
「お、おおおおおおおッ!!」
雄叫びをあげ、切嗣が立ち上がる。
「……『固有時制御・三倍速(タイムアルター・トリプルアクセル)』」
落下によって負った傷と、魔術の副作用とが重なりあった、強烈な激痛に襲われる。今度は鞘の治癒は無い。だが切嗣にはそんなこと関係無かった。
もとより、痛みなど精神によって乗り越えている。この程度の無茶など、両手の指でも数えきれないほどしてきた。
瞬時にコンテンダーに弾丸を装填し、構え、
ドッンッ!!
撃つ。
狙いは髪の毛一本ほどもずれることなく、過たず綺礼の眉間へと吸い込まれていく。綺礼が降りあげ、かざした右手のひらも撃ち抜き、威力衰えることなく、綺礼を襲う。
ザウッ!!
「やったぜ!」
億泰が喝采をあげる。
「馬鹿野郎! まだだッ!」
形兆の【バッド・カンパニー】が、綺礼に向けて一斉射撃を浴びせかける。人間一人は粉々に粉砕できる量の弾丸。
しかしそれは綺礼に命中することなく、虚空を抉る。綺礼は切嗣に向かって鋭く跳びかかる。
(今のは危なかった。アサシンから『空裂眼刺驚(スペースリパー・スティンギーアイズ)』を教わっていなければ、やられていた……)
左目から放った圧縮体液によって、起源弾を撃ち落とした綺礼は、一瞬にして切嗣の目前に到達する。脳の傷はまだ癒えきってはいないが、吸血鬼となっても感じる痛みと不快感を押し殺し、無理矢理に体を動かす。他の誰もが、切嗣の援護には間に合わない。【ザ・ハンド】の瞬間移動も、今回ばかりは救えない。
「「今度こそ――」」
「「終わりだッ!」」
切嗣と綺礼。
お互いが、同じ言葉を吐く。
綺礼の攻撃は、どんなふうに打ったとしても人間など泥のように叩き潰せる。
切嗣の方には、もうコンテンダーに弾丸は無い。装填は間に合わない。
(殺った)
確信を胸に、綺礼は切嗣の頭蓋を砕く拳を繰り出す。
対する切嗣もまた動く。コンテンダーを宙に投げ、ナイフを抜く。狙いは、
(……心臓?)
間違いなく、切嗣の視線、体勢から、左胸へと攻撃は向けられている。だが、吸血鬼となった綺礼に、心臓への攻撃は無意味だ。
綺礼は戸惑う。
(何か策がある……? いや構わん。押し通るのみ)
アサシンから与えられたのは、小賢しい策を力づくで押し破るパワー。
人間は知性の生き物だが、知性で練り上げた行動は、予期せぬ小さな綻びから崩壊する。それが人間の限界。
ならば、人間を超えた存在が手にするのは、知性を踏み躙る怪物的暴力。それがアサシンの回答。
ならばアサシンについていくと決めた綺礼は、それに従うのみ。
暴力に身を任せる。それが、今や綺礼にとってはこの上なく幸せだった。
(ああ、愉しいな。愉しいぞアサシン! 愉しいぞ衛宮切嗣ッ!!)
脳の傷さえ忘れる気分の高揚に酔う。大気を切り裂き、空間を揺るがして渾身の拳が放たれる。
「『固有時制御・四倍速(タイムアルター・スクウェアアクセル)』」
メキャアッ!!
唱えた途端に、切嗣の肉体が絶叫する。肉体が崩壊するような感覚。激痛があまりに大きく、痛みが痛みと感じられないほどで、意識が白く消えそうになる。
けれど、するべきことは失わない。
(避ける)
拳が髪の毛をかすめる。音速に達する拳が髪の毛を引きちぎっていく。皮膚が裂ける。
(だがかわした)
更に接近する。接近戦を得意とする八極拳に、接近戦を仕掛けるなど無謀だ。
だがそれを敢えて踏み込む。
(ナイフを)
吸血鬼の心臓に、ナイフが突き立てられた。だが、心臓に杭を突き立てるだけで死ぬような、生易しい吸血鬼ではない。綺礼は右拳を引き戻し、再度、切嗣の頭部へ必殺を撃ち放とうとする。
直前、
ゴッオオオオオォォォン!!
爆音。
綺礼の背後で爆発が起こった。切嗣がナイフを抜く前に、コンテンダーを投げたとき、手榴弾も一緒に投げられていたのだ。
「ぐ、うう!」
出し抜けの轟音、背中を打つ爆風と灼熱、撒き散らされた瓦礫に、吸血鬼となった綺礼も体を竦ませる。それが狙い。この一瞬の隙が無ければ、切嗣に勝ちは無かった。だが、成功した。
狙いは、空中で撃ち抜いた、まだ癒えていない右目。左手の二本の指、人差し指と中指のみを伸ばした。
「フッ!」
その指を、綺礼の右目の傷に突き込む。傷を押し広げ、指をめり込ませて、抜いた。
「貴様! 何を!」
綺礼がその行動の意味を理解しきれず、叫ぶ。何かした。何かされた。ナイフも、爆弾も全てがフェイント。今のが本命。だが魔術などではない。何をされたかわからない。
(その何かが効果を発揮する前に、この男を殺す!)
怒りと焦りを感じた綺礼が、切嗣の左腕を掴む。メキメキと骨に罅が入る音がする。
もう避けることはできない。このまま腕から血を吸われれば、それだけで切嗣は死ぬ。
が、そこまで待つつもりもない。このまま振り回し、床にでも叩きつける。技も何も無く、ただ殺す。絶対に逃がしはしない。
けれど、切嗣にももう、逃げるつもりなど無かった。
「あ、あああ」
切嗣の心が恐怖する。もともと弱い人間である切嗣は、これから実行することへ、心が悲鳴をあげることを抑えきれない。自分の死は怖くない。今更ここまで擦り切れた心と体の消滅など、惜しくは無い。
だがこの場で自分が死ねば、今度は娘であるイリヤが死ぬことになる。今までのように、自分が消えればそれで済む戦いではない。それが酷く、恐ろしい。
ここまでは上手くいった。
まずナイフで心臓を貫こうと見せることで、相手を惑わせ、接近に成功した。もし最初から、ナイフで脳を突こうとしたり、右目に指を抉り込ませたりしていたら、警戒されて成功しなかっただろう。
次に手榴弾を爆発させ、隙をつくり、その隙に指で右目を貫けた。
だが最後の手が失敗すれば、全て水の泡だ。
成功するのか?
恐れる。だから、叫ぶ。恐怖を忘れるための言葉を、
「アリアリアリアリアリアリアリィィィッ!!」
自然と、そのかけ声を口にしていた。
ゴギャアッ!! ピキッ!
切嗣の右拳が、綺礼の右目を、更に殴っていた。加速した拳は綺礼の脳にまで衝撃を及ぼす。だが、流石に脳を破壊するような威力は無い。
「こんなものが何を――ッ!!」
叫ぼうとした綺礼の言葉が途切れる。
意図して止めたのではない。急に声が出なくなった。
なぜなら、舌が無くなったからだ。
「!!??」
やがて、綺礼は右目に続いて、左目も失う。
右耳が聞こえなくなり、左耳もまた聴覚を失う。
何かが顔から流れ落ちているのが、綺礼にはわかった。汗ではない。溶けた皮膚だ。
(これは……あの『殺人ウイルス』………)
切嗣が、指を綺礼の目に突きこんだ時、【パープル・ヘイズ】の『殺人ウイルス』のカプセルをねじ込んでいたのだ。
いくら吸血鬼となっていても、左腕は再生しきれなかったことから『殺人ウイルス』が効かないわけではない。ならば、脳付近にまで押し込み、再生不能の脳を、直接ウイルスで侵したらどうなってしまうか。
(こんな、危険な。下手をすれば自分までウイルスに感染するというのに……)
カプセルを持ち歩くだけで危険。指で突きこんだ時に、既に割れていてもおかしくない。最後に右拳で殴り、カプセルに衝撃を与え、割った時も、近くにいた切嗣が感染しない保証はなかった。
(……愉しみ、過ぎたか)
策を成功させたのは切嗣の覚悟や努力もあるだろうが、綺礼の精神状態の影響も大きいだろう。切嗣と戦い、吸血鬼の力で蹂躙し、殺すことを愉しみ過ぎた。もっと警戒し、真剣に対応していれば、充分防げた策だったはずだと、綺礼は思う。
(………いや)
防げたと、そう思ったことを、綺礼は訂正した。
たとえ吸血鬼になる前の自分と同じ心構えであったとしても、切嗣に勝てる気がしなかった。
そもそも、策などと言ったが、あんな一か八かの行為を策などとは言えない。あの行動の成功の根底にあるもの。それは、綺礼やアサシン、少し前までの切嗣が、本当には持ち合わせていなかったもの。
死ぬことを覚悟しながらも、その果てに光明を見出し、生きる道を歩む行為。夢の中で見た、アサシンをも殺した力。
(策ではない………勇気、か。全く、忌々しい)
それが、言峰綺礼の最後の思考だった。
……To Be Continued
2015年06月28日(日) 23:01:09 Modified by ID:U2AS0iGpzg