NHKの大罪 NHKスペシャル「JAPANデビュー・第一回 アジアの“一等国”」についての情報をまとめるWikiです。

「JAPANデビュー」 「第3回 通商国家の挫折」 番組全内容文字起こし 「夕刻の備忘録」様より転載


Part1

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.1
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★オープニングタイトル

JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた
そしてどう生きる

NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第三回 通商国家の挫折
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語り・濱中博久:
100年に一度とも言われる経済危機に直面している日本。通商国家JAPANは150年前に、貧しい島国として世界にデビューした時に始まります。

★現在の三井物産社内

その時代に、世界の市場と貿易を始めた日本初のグローバル企業があります。総合商社三井物産です。明治、大正、そして昭和。貿易によって富を得ようとする通商国家を支えた企業です。

★三井物産戦略研究所会長・寺島実郎さん

三井物産の商社マンとして、海外貿易の第一線で働いてきた寺島実郎さん。

★日米通商摩擦について議論―アメリカ上院にて(1989)

日本が大きな岐路に立つ今、未来に向けてどんな視点が必要なのでしょうか。

寺島実郎:
「冷戦後と言われた時代のですね、そのアメリカが世界の中心となって、ドルの一極支配、唯一の超大国ってメカニズムが崩れてきて、新しい秩序形成を巡って蠢き始めてますよね。このG8と言われてきた仕組、八つの国って仕組が、G20っていう二十ヶ国の仕組になりね、で、全員が参加して新しいルールを形成するような、大きな過渡的状況に入っていきますよね。こういう時にね、我々が学ばなければいけないものってのは、この戦前における世界秩序の再編期においてね、日本が犯した失敗とか、判断のミスだとかね、そういうものを再び繰り返してはならないっていうかね……」

貿易を始めた日本が、先ず向かったのは、巨大な中国市場でした。そこで既に市場を手中に収めていた西洋列強に競争を挑みます。1933年、日本は綿製品の輸出で世界一を達成し、経済成長を加速させました。ところが、世界貿易の枠組が突然変わってしまいます。列強がブロック経済圏を作り、弾き出された日本は、世界市場を失っていきます。国の命運を分けたのは、石油を巡る攻防でした。石油資源を求めて、日本は海外に進出、戦争へと突き進みました。世界市場の中で、私達はどう生きたのか、そしてどう生きるのか。

通商国家の歩みを辿ります。

横浜港、世界にこの港を開き、貿易を始めた日本は、貧しさに喘いでいました。明治の初め、輸入が輸出を常に上回り、国内の金や銀の流出が止まりませんでした。西洋列強と結んだ通商条約です

★改税約書

輸出、輸入に掛かる関税は、一律5%と設定されていました。列強は自国の産業を保護するため、20%から40%の輸入関税を設けていました。しかし、日本は関税を自主的に変更する権利が認められていなかったため、輸入超過を止められなかったのです。国の富の流出に直面した政府のリーダー、内務卿・大久保利通は、打開策として建議書を提出しました。

★海外直売の基業を開くの議(1875)

「農業、工業を奨励しても、国内には消費するものが少ないので限りがある。輸出を増やすため、今こそ商人を海外に送り出さなければならない。海外通商の道に熟達している者はいないが、通商を発展させ、世界に販路を広げることが最も重要である」

寺島実郎:
「福沢諭吉がね、この脱亜入欧というキーワードを言い始めたと。で、それは何だったかというとね、実は、日本はね、アジアのトラブルなんかに目をやってですね、手を取られている場合じゃなくて、分かり易く言えば、七つの海を広く見渡してですね、世界に向けてね、あの、通商をテコにですね、飛躍していくべきであるという考え方を、謂わば理論的に正当化したもので、あの、極端に言えば、その路線をですね、まさに別な言葉でもって言い換えたものが通商国家モデルだとも言えるわけですよ」

政府の大隈重信の求めに応じ、江戸時代からの豪商三井が貿易会社三井物産を興します。

★三井物産 創業(1876)

社長には益田孝という27歳の若者が起用されました。益田孝は、アメリカ駐日公使ハリスの下で英語を学び、明治維新を迎えた後、横浜の外国商館の店員になっていました。貿易の実務と英語に通じた人物ということで、井上馨が推薦したのです。会社設立に当たり、三井家は貿易はリスクが高いと考え、出資しませんでした。資本金ゼロ、社員16人で三井物産はスタートしました。

★中国・上海

創業の翌年、益田は中国上海に渡りました。中国の表玄関である上海には、列強の商社が集まり、競争を繰り広げていました。

★旧三井物産上海支店

三井物産初の海外支店を構えます。ここを拠点に、米や石炭などの一次産品の輸出で、中国との貿易を始めました。貨物の積み降ろしのため、三井物産が設けた埠頭に案内して貰いました。上海万博のための再開発が今進められています。

東華大学人文学院教授・陳祖恩さん:
「当時、三井物産の埠頭は、あの辺りまででした。先に来ていたヨーロッパ系の会社が広い場所を占領していたので、日本が大きな埠頭を設けることは出来なかったのです。三井物産が支店を立ち上げた時、上海に日本人は100人も居ませんでした。そんな環境の中で始まったので、非常に苦労したと思います」

清朝の治める中国の人口は、世界最大の三億人と言われていました。ヨーロッパに産業革命が起きるまで、中国は世界の富の中心地でした。その巨大な購買力を目指し、イギリス、フランス、オランダ、ロシアなど、列強の貿易商が殺到していました。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス経済史学部教授ジャネット・ハンターさん:
「ヨーロッパの商業関係者には、中国市場神話という言い回しがあったほどです。中国は宝の山として見られていたのです」

日清戦争の頃になると、日本の工業化が進みます。三井物産は中国市場に向けて、綿製品の輸出を始めました。しかし、売り上げは惨憺たるものでした。当時、中国市場で圧倒的なシェアを誇ったのは、右のように細い糸で織られたイギリス製の綿布でした。左のように太い糸で織られた日本製の綿布とは、品質に大きな差がありました。1840年に起きたアヘン戦争以来、日本より40年も早く中国市場に進出していたイギリス。ビクトリア女王が君臨したこの時代、黄金期を迎えていました。

ビクトリア時代の栄華を支えたのは、綿産業でした。イギリス綿製品の輸出額は、年間7000万ポンド。輸出額の1/3を占める大英帝国の看板商品でした。東京中野にある三井文庫には、戦前の三井物産の全貌を知ることの出来る経営資料が、保存されています。この資料を元に、イギリスが支配する中国市場に、三井物産がどのように参入していったのかを辿ります

★商況視察復命書

日清戦争の最中に行われた市場調査の報告書です。報告者は、上海支店の山本条太郎です。

★営口の風景

山本は、一人で中国東北部、当時の満州に乗り込みます。その様子を報告書につぶさに記録しています。

「遙河の河口をさかのぼること三里。冬は寒気ですこぶる烈しく、十一月下旬より四月初めまでは結氷す」

山本は満州で流通している綿布について調査しました。すると、意外なことに、ここで売れているのは、イギリス製品ではありませんでした。

「アメリカ製の綿布が売れている。金巾と雲齋の二種類である。厚地のほうがよく売れていて、薄地は好まれない」

満州は冬は酷寒、夏も涼しいため、アメリカ製の厚手の綿布が、市場の九割を占めていました。地元では、土布と呼ばれる布です。イギリス製の品質には歯が立たないが、厚地のアメリカ製なら競争出来るかもしれない。三井物産の経営会議では、アメリカ綿布への対抗策が話し合われました。

「日本の綿布は、値段で競争するより他、良策は無い」

語り・礒野佑子:
アメリカの綿布には、日本が真似出来ない有利な点がありました。アメリカ南部は、世界最大の綿花地帯でした。その綿花を原料にして、東部ニューイングランドでは、世界第二位の綿産業が発達していました。

★アメリカ東インド艦隊司令長官:マシュー・C・ペリー

日本を開国させたマシュー・ペリー司令官。アメリカがペリーを派遣した主要な目的は、綿製品を中国へ運ぶことでした。日本の港で石炭が補給出来るようになると、中国への貨物船に積む石炭が減らせます。その分、綿製品の積載量を大幅に増やすことが出来るのです。ところが、日本経由で中国への輸出を始めた途端、南北戦争が勃発し、貿易は中断。それから30年、漸く念願の中国市場に進出していたのです。

寺島実郎:
「アメリカが中国に、本格的に登場してきたタイミングと、日本が中国に登場していったタイミングとがですね、あのシンクロナイズしたっていうか、同時化したってところにね、日本の二十世紀の歴史の悲劇の始まりがあるわけですよ。この日本近代史の宿命的な構図がですね、僕は日米中という日本と中国とアメリカと、このトライアングルの関係だと思うんですね」

語り・濱中博久:
インド、ムンバイ。アメリカに対抗するため、三井物産はここに支店を置きました。その頃の三井の活動を知る手掛かりがあります。

★インド・ムンバイ

「昔の取引が記載された帳簿です。三井&カンパニー。これが取引内容です。彼らは非常に積極的で奥地まで買い付けに行っていました」

三井物産の社員は、デカン高原の奥地まで足を運びました。その一つ、ダヂャコット村です。
彼らはこうした村で綿花を直接買い付けました。中間商人のコストを省き、自分の目で商品を確かめるためです。他の国がやらない方法で、安い原料を輸入しました。

★日露戦争(1904〜1905)

日露戦争。三井物産は、この戦争を切っ掛けに、満州のアメリカ製綿布を一気に追い落とします。戦争が始まると、三井物産は軍のために食料や資材の調達、通訳などの後方支援に当たりました。上海支店長となった山本条太郎は、物資を買い占め、ロシア軍が中国で石炭や食料などを調達出来ないようにしました。やがて、ロシアのバルチック艦隊が日本に向かって来ます。進路は太平洋か、日本海か。計りかねていた時、山本の部下、森恪(もりつとむ)は小型船でフィリピン沖から艦隊を追跡しました。森は、バルチック艦隊がバシー海峡を通過するのを確認、艦隊が日本海へ向かうと推測し、打電したと言われます。

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.1

Part2

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★山本条太郎宛 益田孝書簡(1904年9月29日)

三井物産本社の益田孝から、上海の山本に送られた手紙です。

「こちらでは、清国で綿布を売るために専ら用意していいる」

益田には綿布を大量に売る秘策がありました。軍用手形です。
軍用手形とは、日本軍が戦争中に発行した代用通貨のことです。戦地で、物資調達などの支払いに使われました。
軍用手形を受け取った人は、日本が現地においている金融機関で本物の通貨に交換出来ることになっていました。

これが日露戦争中に発行されたものです。日本軍は、当時の額で一億四千万円分を中国で使いました。国家予算の半分に相当します。しかし、政府は交換のために国外に銀を持ち出すのを嫌ったため、五千万円分が交換されないままになっていました。

益田はそこに目を付けました。生活必需品の綿布なら、中国人は軍用手形と交換するはずだと政府に申し出ます。条件として、綿布の輸送代は一年間、南満州鉄道を無料に、一年半、船賃を半額にして欲しいと政府に要求しました。三井は回収した手形を日本の金融機関との決済に使います。これならば、銀が国外に流出することはありません。こうして三井は、アメリカ綿布よりも二割安い価格を実現しました。満鉄の主要な駅ごとに、手形と綿布の交換所が設けられました。

★三井物産 交換所

日露戦争開戦時に、満州で0.2%しか無かった日本綿布のシェアは、1907年に一挙に24%。1910年には60%に上昇。瞬く間に、アメリカから満州市場を奪っていきました。

寺島実郎:
「日本国というのは、通商国家モデルってキーワードとね、その、要するに、殖産興業を通商によって実現しようという流れと、日本国のですね、最初は独立を維持するためにってことだったんだけども、要するに軍事力を高めていかなければいけないってですね、あの、まさに、富国強兵のね、という路線と、このね、通商国家と、富国強兵っていうね、この二つのキーワードがね、糾える縄のように絡み付いてね、きたことの持つ可能性と限界とってのを示したのが、日本の近代史だったともいえるのではないかと、こう思うんですね」

辛亥革命(1911)

辛亥革命。日本はこれを中国市場に食い込む、次の大きなチャンスと捉えました。清朝が滅び、中華民国が建国されると、革命の指導者孫文が臨時大総統に就任しました。

★中華民国 臨時大総統 孫文

三井物産は、この孫文と関係を築き、事業を広げようとします。日本はこの時代に、綿を中心とした軽工業だけでなく、重工業へと産業を拡大して行きます。三井物産は、重工業の分野でも国家との結び付きを更に深めます。重工業化の決め手として政府が作ったのが、官営八幡製鉄所でした。八幡製鉄所では、原料の鉄鉱石を中国有数の鉄鉱山である大冶鉄山の輸入に頼っていました。しかし、辛亥革命の影響で、供給が止まる恐れが生じました。

西園寺公望内閣は、資金を貸す代わりに、革命政府が支配する大冶鉄山を日中合弁化する案を閣議で決定します。その交渉が三井物産に任されました。益田の命を受けた森恪が革命政府との交渉に南京に向かいました。日露戦争の時に、小型船でバルチック船隊を追跡したあの森です。

交渉相手は孫文でした。孫文は南京に臨時政府を成立させたものの、政権を維持するための資金を必要としていました。これがその時に作られた契約草案です。協議の結果、大冶鉄山を中国、日本、両国人共同の会社、とする代わりに、日本側が五百万円の借款を提供することで、合意されました。草案には孫文が調印しています。

しかし、直ぐに中国で反対運動が起こります。大冶鉄山を所有する会社の株主総会が圧倒的な多数で、合弁案を否決します。日本が中国進出を加速させたのは、この二年後に起きた第一次世界大戦でした。

★第一次世界大戦(1914〜1918)

ヨーロッパ諸国は、中国市場を相手にする余裕を失いました。

★井上馨

「今回欧州の大禍乱は日本国運の発展に対する大正新時代の天佑なり」

三井物産支店長会議の議事録です。

「我々の畢生の力を中国に伸ばす。千載一遇の好機である。そのために訓練した千五百の精兵がいる」

日本は中国市場に輸出攻勢を掛けます。その結果、僅か五年間で、日本のGNPはおよそ三倍に急増。明治維新以来、対外債務に苦しんできた日本は、初めて債権国になりました。しかし、日本は中国市場から大きな反発を受けるようになります。

戦争中、大隈重信内閣は、山東省のドイツ権益を日本に渡すこと、大連、旅順の租借や満鉄権益の期限延長などを求める、所謂二十一ヶ条の要求(1915)を中華民国政府に突き付けました。中華民国政府がこれを受諾すると、激しい排日運動が起こります。それは日本製品のボイコット運動となって大きく拡がりました。

列強の中で、日本の中国に対する二十一ヶ条要求に、特に異議を唱えたのが、アメリカ政府でした。

★アメリカ国務長官 ウイリアム・J・ブライアン

ウイルソン政権のブライアン国務長官が声明を発表します。アメリカ政府は、中国の門戸開放に反する場合、日本の政策を断じて容認しない。アメリカは、日本が中国を独占することに、明確なNOを突き付けました。

語り・礒野佑子:
アメリカは、何故門戸開放を唱えたのか。アメリカは1898年、ハワイを併合します。続いてスペインとの戦争で、フィリピン、グアムを獲得。太平洋からアジアへ足場を築いたアメリカは、中国への進出に弾みを付けます。ところが、中国は既にイギリス、フランス、ロシアなどにより、勢力範囲の分割が進んでいました。利権を持たないアメリカが、列強に示したのが、中国における門戸開放、機会均等、領土保全の三原則でした。

寺島実郎:
「アメリカが掲げたのが、門戸開放、機会均等ね、で、中国にしてみれば、欧州の列強に蝕まれね、はたまた日本が中国に触手を伸ばしてきているタイミングで、アメリカが中国に登場して来たってことはですね、そもそもの関係においてね、要するにカウンターパワーってやつで、欧州と日本を牽制するカードとしてはね、アメリカの中国への進出ってのは、むしろ歓迎されたっていうかですね、それが米中関係の近代史におけるね、ある種の相思相愛的構造っていうのかな、で、これがですね、延々と引き摺るわけですよ、今日に至るまで、で、極端に言えばね、二十世紀の日米中、トライアングルの歴史ってのは、何だったかっていうと、太平洋戦争と言われている戦争だってね、突き詰めていけば、中国を巡る日米の対決、対立だったとも言えるわけですよね」

語り・濱中博久:
第一次世界大戦後のパリ講和会議で、中国は日本に山東省の返還を要求。しかし、それが認められなかったため、「五・四運動(1919)」と呼ばれる大規模な排日運動が全国的に拡がります。孫文も日本に対する態度を変えます。

★孫文

「東隣の志士よ
日本政府を促しすぐに反省して対外方針を変更させ
中国方面への侵略をやめさせなければならない
東京朝日新聞 一九一九年六月二十二日」

寺島実郎:
「ベルサイユにね、中国の代表団が現れてですね、アメリカの支援を受けながらね、日本のですね、所謂中国利権、山東利権というものをね、否定するという側に、アメリカを向かわせるように、もう懸命に動くわけですよ。で、その辺りでね、あの、日本の中国に対する野心というものを、決定的に印象づけてしまった。要するに、中国を巡る日米の対決っていう構図がですね、ぐんと明確に見えてくるのが、まさに、その第一次世界大戦
を前後した時期だったんですよね」

★世界恐慌(1929年10月〜)

大恐慌。この経済危機で、日本は世界各国と貿易を巡り対立を深めることになります。日本では、アメリカの不況に円高が重なり、生糸の輸出が激減。米貨も暴落し、農村は深刻な打撃を受けます。都市部では企業倒産やリストラが続出。失業者が溢れました。不況のどん底の中で政権に就いた犬養毅内閣の大蔵大臣高橋是清は、景気対策に乗り出します。高橋は、円安によって輸出を促進することで、不況を克服しようとしました。金本位制を離脱し、円安を誘導します。円がドルに対して、半分まで下落します。

★三井物産の支店網

円安により三井物産も息を吹き返します。世界の支店を一気に拡張。これまで市場にしていなかった地域に貿易を広げました。玩具や自転車、そして機関車まで、扱う品目は百を越えていました。特に、輸出の主力、綿製品は世界中に輸出攻勢が掛けられました。その結果、1933年に日本の綿製品の輸出は、遂にイギリスを抜き、世界一になりました。こうした輸出拡大により、日本はこの年、10%を超える実質経済成長率を達成。大恐慌の影響を受け、欧米の経済が低迷する中、逸早く不況から抜け出しました。高橋財政により、大企業は潤いました。しかし、農民や中小企業は取り残されます。富める者と貧しい者の格差が拡がりました。

日本が金本位制を離れる前に、ドルを買って巨額の差益を得たとして、三井などの財閥は、国民の非難を浴びることになります。1932年、益田孝の後継者として三井財閥を率いていた団琢磨が殺害されます。世界市場では、輸出攻勢を掛ける日本と、各国との貿易摩擦が激化します。

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.2

Part3

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.3
★イギリス 旧貿易省

日本とイギリスは綿製品を巡る貿易摩擦を解決するため、二国間の交渉を重ねました。

★日英会商(1933〜1934)

イギリス側は日本側に、最長三年間の輸出自主規制を要請します。日本側はこの要請を拒絶。あくまで自由競争を主張しました。両者の主張は噛み合わず、交渉は決裂します。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス経済史学部教授ジャネット・ハンターさん:
「イギリス人の多くは、綿製品の国際市場で、日本が自分達の競争相手であるということを受け入れたくありませんでした。イギリスは、世界市場を長い間支配してきましたから。日本が世界一位を獲得したのは、不正競争によるものだと考えた人も多くいました。こうした日本の競争力への懸念が、紛れもなく、日本の輸出に対抗する、保護主義の政策を増幅させたのです」

イギリスは、長い間の国策であった自由貿易主義を放棄します。大英帝国に北欧などを加えたポンド・ブロック経済圏を強化。特に日本製品に対して、高い関税を掛け、市場からの締め出しを計りました。これに続き、フランスはフラン・ブロックを、アメリカはドル・ブロックを形成。世界貿易は保護主義に傾いていきます。

寺島実郎:
「特にその、大恐慌を境にしてね、欧米が、物凄く、この立ち尽くしている時にね、ひたひたとね、力を付けていく日本に対する警戒心が、ある種のブロック化なんていうね、流れを、恐慌の後、作っていく中で、日本もね、えー、結局、欧米がそういう路線を取ることに、呼応するような形で、えー、自分達も自分達の共栄圏というかですね、ブロックってものを作っていかざるを得ないっていうような思考に向かってってしまったというかですね、だから、要するに、脱亜入欧論がね、機能しなくなっちゃって、で、えー、再び、思い起こしてですね、えー、アジア帰りってやつで、その、あうー、それをね、正当化して言い換えたものが大東亜共栄圏で、えー、国境を越えた、現在でいうグローバリズムのようなね、流れに対する激しい反発、憎悪ってものが、増幅してくるっていうかね」

この時代、一つの商品が通商国家JAPANの命運を握ることになります。石油です。日本海軍は1930年代になり、ほぼ全ての軍艦を、石炭燃料から石油燃料に切り替えていました。重油タービンエンジンは、スピード、燃費、補給の容易さなどで石炭エンジンに勝りました。三井物産は、海軍に依頼され、三菱商事や浅野物産などと共に、石油の輸入を行ってきました。三井物産が石油事業の方針を立てた計画書です。

「軍事上、文化上、石油はまさに国家の生命」

しかし、三井物産が輸入出来たのは、重油、ガソリン、灯油などで精製していない原油は、自由に輸入出来ませんでした。綿花をはじめとし、世界中から原料を買い集めてきたこれまでとは違っていました。

語り・礒野佑子:
世界の石油産業の始まりは、日本が横浜を開港した年、1859年です。アメリカ東部、ペンシルベニア州タイタスビル。この年、この田舎町で、初めてパイプを通して地中から石油を取り出すことに成功しました。石油ビジネスに逸早く目を付けたのが、ジョン・デイビソン・ロックフェラーです。ロックフェラーは、スタンダード石油会社を設立。世界に輸出する事業に乗り出しました。同じ頃、ロシアでも大油田が発見されました。カスピ海沿岸のバクー油田です。この油田を開発したのは、ヨーロッパの実業家達です。バクー油田から石油を運び出すのに、樽詰めではなく、タンカーという新しい船を使うことを考え出し、成功を収めたのが、イギリスのマーカス・サミュエルです。横浜の貝殻細工の商人から身を立てたサミュエルは、自分の会社をシェルと名付けます。続いて、アジアでも油田が発見されます。

1903年、オランダ領東インド、現在のインドネシアのスマトラ島です。オランダ資本のロイヤルダッチ社と、イギリス資本のシェル社が合併し、開発に当たりました。すると、すぐにアメリカのスタンダード社も進出して来ました。ロイヤルダッチ・シェルとスタンダード、この二大石油資本が激しい競争を繰り広げながら、世界の石油資源を手中に収めていきます。日本が石油の時代を迎えた時、既に世界はこの巨大石油資本によって支配されていたのです。

ケンブリッジ・エネルギー研究所所長・ダニエル・ヤーギンさん
「石油という商品は、他の一次産品とは、ビジネス規模において異なります。始まった時からグローバルなビジネスでした。世界中、何処の国でも必要とされる商品という意味で特殊です。そして、石油のもう一つの特筆は、戦略的な一次産品であるということです。二十世紀初めに、アメリカ、日本、そしてイギリスの海軍が皆、石油へと移行したため、国家の安全保障にとって、極めて重要な一次産品になったわけです」

語り・濱中博久:
満州事変後、石油を輸入に頼っていては、有事の際に不足を招くと懸念が拡がりました。
★徳山海軍燃料廠

更に軍関係者を焦らせる事実が発覚していました。これまで戦闘機などの航空機用燃料は、軍艦などに使う重油を分解して製造出来るので、輸入が止まっても対応出来ると考えられてきました。しかし、海軍はそれが不可能なことを知ります。

★日本海軍燃料史 執筆者 元海軍少将 渡辺伊三郎

重油を分解したものでは、ゴムのような物質が発生し、エンジンが詰まってしまうという致命的欠陥が分かりました。当時の技術では、航空機用燃料は、原油からしか作ることが出来なかったのです。戦闘機が使えなくなる。このことが大問題になりました。海軍は、商工省と共に石油についての国家の方針、「燃料国策の大綱(1933)」を定めました。この中で、原油を確保するため、海外油田への進出を掲げます。

★大連の風景

日本が油田を探した場所は、日本の傀儡国家、満州国でした。満州国が出来た時、既に石油製品の販売は、スタンダード社とロイヤルダッチ・シェル系の二社が抑えていました。

「ここは当時、シェルが使っていた埠頭です。中国ではそれまで大豆油を使っていましたが――シェルが来て、灯油を使うようになりました」

★「満州国」国務院跡

ロイヤルダッチ・シェル、スタンダードの支配を破るため、満州国政府は法律を制定します。石油専売法(1934)です。

「満州での石油の製造や輸出入は、全て政府の許可を要する」

この法律を元に、石油を自らの手で支配しようとしたのです。

★中国遼寧省 阜新

中国遼寧省、阜新市郊外。石油専売法に基づいて作られた満州石油の調査隊が訪れています。

劉永艘さん:「これは日本人が作った道ですよ」

広大な満州で石油資源を探そうと、油田の探査が行われました。満州石油には三井物産も出資しており、資材の調達や情報収集には、その力が使われました。

当時、十二歳だった劉さんは調査の様子を見ていました。

劉永艘さん:「ここに油井があったんです。やぐらはとても高かったです」

試掘は二十ヶ所で行われ、1700メートルまで掘削を試みました。

――結局 油は出ましたか
劉永艘さん:「いいえ」

調査は、ソビエト国境地域まで行われました。しかし、有望な油田は一ヶ所も見付かりませんでした。

★日中戦争(1937〜)

日中戦争勃発後、近衛内閣は東亜新秩序声明を発表。日本は、「日満支」、日本と中国からなる独自のブロック経済圏の建設を宣言します。それは、一貫して中国市場の門戸開放を主張してきたアメリカとの対立に発展しました。国務省特別顧問・スタンレー・ホーンベックの言葉です。

「日本に中国を支配させないことがアメリカの重要な国益である。アメリカは議論よりも強い武器を行使する意志を持たなければならない。我々がとりうる最も現実的な選択は中国に援助を与えることである。決意を持ってそうするべきだ」

国務省では、通商条約の破棄、報復関税措置、貿易の制限など対日経済制裁の検討が始まりました。アメリカが、建国以来初めて検討する、外国への経済制裁です。

寺島実郎:
「第二次大戦と称し、太平洋戦争と称する戦争にね、踏み切っていく直前の日本の貿易においてね、資源の八割ぐらいはアメリカに依存していたわけですよ。で、逆に言えば、アメリカにとってみれば、日本は大変いい市場だったわけですよ、その時期ね。だから日本はね、そのアメリカがですね、完全に中国を支援する形で動くとは思わなかった、つまり日本の主張にもある程度ね、配慮していくであろうと思ってたわけですね。絶対、決定的なダメージは与えてくるような決断はしませんよって、高括ってたんだけども、そうでもないってですね、何故そうなっちゃってたかっていうと、米中間の連携で、やはりアメリカの中国を支援した人の側から言えば、中国を近代化させて、工業化させて、市場を大きくして、今と似てるわけですよ、で、アメリカにとって、日本なんかよりも、もっと期待出来る市場がそこにあるはずだってことの思いがあるからね、えー、日本をですね、えー、決定的に追い詰めてやろうという方向のシナリオに舵切ってたっていうかですね、そういうことだと思いますよ」

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.3

Part4

【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.4
★アメリカ国立公文書館

日本は、アメリカの政策にどう対応したのか。アメリカ国立公文書館には、戦争開始と共に接収された三井物産サンフランシスコ出張所の営業文書が残されています。1937年9月、三井物産サンフランシスコ出張所は、本社に打電しました。

「ゼネラル石油の社長から聞いた。合衆国大統領から日本への石油積み出し差し止めの可能性を打診されたという」

この直後、サンフランシスコ出張所は、管轄のメキシコ駐在員に命令を出します。メキシコから石油を購入する方策を練るように、というものでした。連絡を受けたのは、駐在員の鈴木勝です。メキシコは1910年代に大油田が発見された産油国でした。しかし、国内の石油産業は、アメリカ、イギリスに牛耳られていました。ところが、ラサロ・カルデナス大統領は、外国の石油資本を仰天させる行動に踏み切ります。

「石油生産に関する資産の国有化を宣言する。施設は国家のものとして接収する(1938年3月18日)」

石油施設を奪われたアメリカとイギリスと、メキシコの外交関係は険悪になりました。三井物産メキシコ駐在員の鈴木は、早速石油輸入のための行動を開始しました。向かったのはメキシコ東部の街、ミナチトラン。ここには外国企業を接収して出来たメキシコ石油公社がありました。この時、三井とどのような取引があったのか。石油公社で石油の積み出しに関わっていた社員を訪ねました。

元メキシコ石油公社社員・ラウルサリナス・アラゴンさん:
「アメリカやイギリスから報復として、メキシコの石油を買わないという圧力を掛けられていたんです。だから、買いたいという他の国に売らざるをえませんでした」

――三井という日本企業が当時石油を買いに来ていたかご存じですか
「どの会社に売っていたかは、分かりませんね。当時、それは機密事項だったんです」

★メキシコ石油公社歴史文書館

石油公社の記録を読み込んでいく中に、漸く三井物産の取引の形が見えて来ました。メキシコの石油産業が国有化された1938年頃から、長渕商店という会社が、取引書類に現れます。長渕商店は三井物産の代理店をしている現地法人でした。現地法人の取引にすることで、三井の名を出さず、石油を輸入しようとしていたのです。

テレサ加藤さんの父親、ヒデオ加藤さんは、当時メキシコの日本人社会のまとめ役でした。ヒデオ加藤さんは、生前、三井物産の鈴木勝と会っていました。

「これは1938年8月8日の写真です。コアツァコアルコス、当時メキシコ港と呼ばれていました。これは、この港に来ていた船の一つです。」

★建川丸の入港記念。三井のマサルさん…

三井物産の鈴木勝は、メキシコから石油を積み出すことに成功しました。

★建川丸 横浜へ出港(1938年8月8日)

その第一便、タンカー建川丸が日本に向け出港しました。ところが、二年後。メキシコ政府は、日本への石油輸出を突然停止します。メキシコ外務省の機密文書に、停止の理由が記されていました。

「我が国が締結した米州諸国連帯政策により――メキシコ政府は、日本への石油の輸出を禁止する」

第二次世界大戦の枢軸国であるドイツ、イタリアは、南米から石油などの物資を輸入していました。アメリカは、メキシコと関係を修復し、南北アメリカとイギリス以外には、石油を輸出しないという経済協定を締結していたのです。

寺島実郎:
「日本は日本でね、石油っていうなんか死命を制せられるカードを、こうだんだんだんだん真綿で首を絞められるように握られて、締め付けられてくるっていう被害者意識ね。えー、石油っていうキーワードがね、えー、国家の死命を制する、血の一滴に近い、イメージのものにですね、作り上げてしまっていたっていう状況がね、また、日本の戦争っていうシナリオに結び付いてった、流れだったって言ってもいいかもしれませんね」

★ニューヨークの風景

この頃、アメリカ政府は、新たな事実に気付きます。ニューヨーク連邦準備銀行の検査が切っ掛けでした。横浜正金銀行ニューヨーク支店の帳簿に、出所の不明な多額の預金が突如現れたのです。不審に思い調べたところ、奇妙な口座が見付かりました。アメリカ財務省に報告された調査の結果です。口座の残高は一億ドル、日本の国家予算の7%に相当する巨額の資金です。口座の持ち主は、日本銀行でした。日銀は、アメリカで金を売却して得たドルを、この口座に集めていました。横浜正金銀行は、この口座について、アメリカの法律で義務づけられた報告をしていませんでした。そのため、アメリカ財務省は、これを隠し口座と認定。

★意図的な隠ぺい(willful concealment)

日本が巨額のドル資金を密かに蓄積していたことが明らかになったのです。アメリカ国立公文書館の資料を元に、この事実を探ったエドワード・ミラーさんです。

歴史家・エドワード・ミラーさん:
「日本の資産凍結は、1937年から研究され始め、アメリカの専門家達は、日本の金融資産を注意深く観察していました。日本は中国との戦争に、貿易で稼いだ多額の資金を投入しなければならないので破産する、と予測していました。しかし、実際にはそうなりませんでした。日本はドルを稼ぎ、ニューヨークに隠していたんです。非常に多額のドル資産を持っていましたが、アメリカ当局、連邦準備銀行には一度も報告されていませんでした。これで勢いづいた政府の強硬派は、日本人は我々を騙した、嘘を吐いたと、より対決姿勢を強めたのです」

1940年1月、アメリカは「日米通商航海条約(1940年1月26日)」を破棄。航空機燃料などの輸出制限を開始、いよいよ経済封鎖が始まりました。

★第二次世界大戦(1939年〜)

ヨーロッパでは、ドイツに攻められたオランダ政府が、イギリスに亡命しました。日本政府は、この混乱に乗じ、オランダ領東インドから石油の購入を計ります。日本は、オランダ領東インド政庁に対して、315万トンの石油購入を希望。当時の日本の一年間の輸入量にほぼ相当します。実現すれば、アメリカへの過度な依存から脱却出来る量です。

★日本・オランダ石油交渉(1940年9月〜1941年6月)

バタビア、現在のジャカルタで交渉が始まります。会議には、スタンダード社、ロイヤルダッチ・シェル社も参加しました。日本側の実務トップは、三井物産会長の向井忠晴。政府の役人では警戒されるという理由で、民間企業の向井が選ばれました。交渉は順調に滑り出し、日本の要求も受け入れられるかに見えました。

★オランダ領東インド経済省長官・フーベルタス・ファン・モーク

しかし、突然オランダの代表が、口を濁すようになります。実は、この交渉の舞台裏では、アメリカ政府が動いていました。オランダ・ハーグの国立公文書館で、今回、それを示す記録が見付かりました。ロイヤルダッチ・シェルの社内文書です。

★電信文:患者(PATIENT)―JAPAN、家主(landlord)――オランダ政府

第三者に情報が漏れないように、電信文には隠語が使われていました。日本を患者、オランダ政府を家主と表現。この中に、医者と表記される人物がいました。スタンレー・ホーンベック、アメリカ国務省特別顧問のことでした。ホーンベックは、オランダ、イギリス政府に対して、日本に大量の原油を輸出しないこと、また、十二ヶ月以上の長期契約はしないことを要求していました。

★日独伊三国同盟締結(1940年9月27日)

交渉開始から二週間後、日本がナチスドイツと同盟を結んだことが、交渉の行方を決めました。

★外交史料館「日蘭会商関係」(1940年10月26日)

日本側の交渉団が、外務大臣松岡洋右に報告した記録です。

「オランダ側から質された。日本はドイツへの輸出を禁止することを確約出来るか」

オランダ戦争資料研究所主任研究員・ピーター・ポストさん:
「オランダやイギリスは、もし日本が求めている通りに、300万トンの石油が、日本側に渡れば、その石油はシベリア鉄道を経由して、ソ連を通過し、ドイツに供給され、ドイツの軍事力が強化されると考えました。もし、それが現実になれば、オランダ領の石油がオランダ人の弾圧に使われてしまいます。イギリス人を征圧するために、使われてしまうのです」

日本交渉団のトップ、向井忠晴は食い下がりました。しかし、要求量315万トンに対して、購入出来たのは、726500トン。航空機用燃料は全く契約出来ませんでした。目標の1/4しか契約出来ないまま、交渉は打ち切られました。

★在米日本資産凍結(1941年7月25日)

ルーズベルト大統領は、翌月、アメリカの日本資産を凍結。横浜正金銀行ニューヨーク支店などに蓄えたドル資金が使えなくなり、日本は輸入の手立てを失います。日本は、フランス領インドシナ南部への進駐を開始。アメリカは、日本に対し、遂に石油輸出を全面停止します。四ヶ月後、太平洋戦争が始まりました。

★木炭自動車

これは1936年頃に、日本で作られた木炭自動車です。ドアの横に取り付けた装置で、木炭からガスを発生させて走らせます。実は、この木炭自動車は、三井物産初代社長の益田孝が最晩年に使っていたものです。石油の禁輸が迫る中、益田は木炭自動車が実用に耐えるのか、自宅のあるこの坂道で試していました。

益田孝の子孫 益田信一さん:
「元々でも、木炭車っていう自動車自体がそれほど力のある車じゃなかったと思いますから、勿論坂道も、こういった急峻な坂道っていうのはね、あの、かなりしんどい思いをして上がられたでしょうし…」

通商国家JAPANを背負ってきた益田孝。木炭自動車が坂道で止まってしまった時、深い溜息を吐いたといいます。

寺島実郎:
「戦後の日本はね、大東亜共栄圏という眦決した展開に、一敗地にまみれてね、懲りて、今度は新手のね、脱亜入欧論として、まあ謂わば登場させてきたのがね、要するに通商国家帰りなんですよ、戦後の日本はね。通商国家っていうのは、別の言い方すると、あのー、例えば地域主義だとか、イデオロギーだとかってものに拘らないで、この、ある種の政治性を越えてね、日本を豊かにしていこうっていうコンセプトでもあるんだけれども、一方でね、日本国の国益、利害っていうことで、何をもって国益とするかって時、常にね、悩ましい問題が起こって来るっていうかですね…」

150年前、貧しさから逃れようと通商国家を目指したJAPAN。世界に市場を求めて孤立し、資源を求めた末に破滅を迎えました。国家の利害がぶつかるグローバル経済の中で、一人ひとりの真の豊かさを齎す通商国家をどう作っていくのか。模索は続きます。

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★エンドロール
NHKスペシャル
シリーズJAPANデビュー
第3回 通商国家の挫折

資料等協力(略)

タイトル映像:西郡 駿
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:相馬大輔 野瀬典樹
音声:鈴木隆之 鈴木彰浩
編集:松本哲夫 田村 愛
ディレクター:小林竜夫 小倉洋平
制作統括:増田秀樹 河野伸洋
制作著作:NHK
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文字起し:夕刻の備忘録
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【転載歓迎】「JAPANデビュー第3回」全内容-Part.4

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