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武玉川とは、江戸時代の俳諧書『誹諧武玉川』のことです。

川柳は、宝暦七年(1757)に柄井川柳(からい せんりゅう)(1718-1790)が川柳評万句合(せんりゅうひょう まんくあわせ)を募集し、入選句を刷り物にして発表したことに始まりますが、『誹諧武玉川』は、それよりも7年早く、寛延三年(1750)に初代慶紀逸により初篇が出版されました。

『誹諧武玉川』は、その後、十篇まで出版されたあと、『燕都枝折(えどのしおり)』と改題されて五編が出されたところで初代慶紀逸は亡くなり、二代目慶紀逸により『誹諧武玉川』として十六〜十八篇が出版されました。現在では、『燕都枝折』を含めて全部で十八篇を『誹諧武玉川』と呼んでいます。

内容は、江戸座俳諧の高点句を集めたものです。点者(選者)は著者の慶紀逸(初代、二代目)で、高得点句だけが、前句なしで載せられています。

ちなみに、俳諧では、連歌のように36句を詠む歌仙や、50句、100句を詠む五十吟、百吟などを巻くのが本来の姿で、その場合、発句の五七五の句に関連した句を、七七で付け、さらに七七の句に関連した五七五の句を付けるという風に、交互に五七五と七七の句を付けていきます。
 例:「末若葉(うらわかば)」より
   発句 帆柱や若葉乗り越す谷の棚 
      山を見立つる楊梅(やまもも)の旬
      大名に八百屋が付いて下るらん
      袴を陰に寝たる月影
        ・・・

俳諧を習得するためには、句の作り方や前の句に合わせた句の詠み方に習熟しなくてはなりませんが、その習得方法の一つとして笠付とか前句付なども行われるようになりました。

笠付けとは、師匠などが最初の五音の言葉を出題し、弟子達などがあとの七五を付けて、一句を詠むものです。たとえば「飛んで行く」の題に「ときは尾になる鷺の足」と付けます。

前句付けでは、七七の句の出題に五七五を付けました。一休の作とされる有名な「正月(門松)や冥土の旅の一里塚」は「めでたくもありめでたくもなし」の七七の句に付けた前句と考えられます。ほかにも、「切りたくもあり切りたくもなし」に付けたものに「盗人を捕らえてみれば我が子なり」(『新撰犬筑波集』より)が有名です。

初めは習得法であった笠付けや前句付けなどは、その後、次第にそれ自体を楽しむようになり、得点を争ったり、さらには句の優劣を争って勝ち句には景品が出るようになったりし、一般大衆に普及して、ブームとなって行きました。

笠付けや前句付に景品を出す万句合興行は、そのようなブームの中で、多くの俳諧師達によって行われましたが、その後、万句合興行専門の点者も現れました。川柳評万句合興行をおこなった柄井川柳もその一人です。

『誹諧武玉川』の句は、万句合興行のものではなく、主として俳諧の連句の中から点者が選んだ高点句ですが、俳諧の句には五七五も七七もあるので、『誹諧武玉川』の句には、五七五も七七の句もあります。

一方、川柳評万句合では、七七の前句と笠付だけが出題されたので、入選句には五七五の句だけしかないところが『誹諧武玉川』とは異なります。現在の川柳では、通常は、五七五の句だけになっているのは、これから来ています。また、笠付は川柳評万句合の初期の頃だけに行われ、さらには、その後、前句さえもなくなって行きました。

慶紀逸は、『誹諧武玉川』が大変評判になったことから、当時の俳諧師の中では、もっとも知られた人になりました。慶紀逸は、また、炭太祇(たん たいぎ)(1709-1771)の師であったことでも知られています。ただし、炭太祇はのちに慶紀逸の元を離れ、与謝蕪村(よさ ぶそん)(1716-1783)らと親交を結びました。

『誹諧武玉川』はのヒットは、当時それだけ江戸の町に俳諧人口が多かったことをも意味しています。川柳にも
   表徳を俄に土手でつけてやり
   俳名のないのを遣手うれしがり
とあるように、江戸の町に住む人の7人に一人は俳名(「表徳」は正しくは「表徳号」といい、ここでは「俳名」と同じと考えてよい)を持っていたと、当時の洒落本に記されているほどです。ちなみに、句の、「土手」は吉原へ向かう日本堤を指しており、「遣手(やりて)」は吉原の遊女達の教育・監視、客の応対などをする女性です。

『誹諧武玉川』が川柳の源流の一つと呼ばれるのは、採られた句の傾向が川柳評万句合と似ていて、川柳評万句合の入選句の中には、『誹諧武玉川』に載っていたそのまま句や、少しだけ手を加えたものがかなりあることにも拠ります。実際、初代慶紀逸が亡くなったあと、川柳評万句合に投句する人が非常に増え、投句数が一万句を越えるようになりましたが、それは、句の傾向が似ているために、慶紀逸に句を出していた人々が川柳評万句合に投句するようになったからであると考えられています。また、川柳評万句合の入選句の中から選ばれた句は、のちに『俳風柳多留』として出版されましたが、このとき、前句は掲載されなかったことも『誹諧武玉川』に似ています。

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