*これから語られる物語は、作者の創作であり、フィクションである。














         『ドリームズ・ウィズイン』               東義真   














 フランチェスカのボイスMDより

 私の名前はフランチェスカ。
 ローマで生まれた。ダディはトーキョーからローマに移住した後、マミーに会った。彼女は十七で私を出産した。ダディは映画の仕事だった。
 ダディは仕事で一年間、トーキョーに滞在する事になった。
 その時、マミーは研究所で『生態系』を研究してて、トーキョーに行けなかった。それどころか、その九月から、マミーはしばらく研究のためにイングランド湖水地方へ移り住むことになった。
 マミーは言った。
「イングランド湖水地方、私の研究に最高の場所なのよ」
 割りと無関心な私は「ふうん」とだけ言った。
でも、私はロンドンの街が好きだから、心の中で「湖水地方に行くの嫌だな」と思った。
 私は選択をすることが可能だった。
 ダディに付いていってトーキョーに住む事、マミーに付いて湖水地方に行く事、それから私は十五歳になってたから、一人で残り、寄宿学校に入る事も出来る。

 マミーは私に聞いた、「フランチェスカ、どうする? ダディに付いていく? マミーに付いてくる?」
 私は、すぐに返事しなかった。私は頭の中で思い巡らせるタイプ。だから返事のタイミングを逃してしまう事もあった。
 とりあえず、私は「考える時間を頂戴」と言った。








 いつの間にか、ダディがトーキョーへ出発する日になっていた。私は、ダディの出発日を完全に忘れていた。
 この時までに、マミーの質問に答えてなかったので、両親は、私が『湖水地方へ行く』と思っていた。
 ダディのフライトはヒースロー発だった。五月に入り、私は夏季休暇に入っていたから、ダディを見送るためにヒースローまで同行。

 ヒースロー・エアポートでダディを送った。
 ロンドンは『ザ・オールデスト・シティ・イン・ザ・ワールド』(現在も機能する最古の都市。)
 そう、ある男が教えてくれた。
 それが、どういう基準からの判断か分からないし、その男がロンドン市民だったから、ただの故郷自慢だったかもしれない。それに、私にはどうでもいいことだ。
 私は、あれこれ考えるわりには単純な結論を出してしまう。

 ギャラリーに行った。ジャパン・フォークアート(民芸)の特別展示を開催していた。
 ダディはトーキョー生まれだが、私はトーキョーに行った事がない。
 従姉妹がバックパック旅行でトーキョーに行った。彼女はそこで旅費が底をつき、露店でアクセサリーを売る仕事で旅費を稼いだ。トーキョーはロンドンのように地下鉄だらけらしい。
 
 ジャパンは不思議だ。私の家には、メイド・イン・ジャパンが沢山で、それらはソニー、シャープ、パナソニックのハイテク・プロダクツだった。
 しかし、フォークアート展示室には、鶏の絵が描かれた和紙が置いてある。

 ギャラリーを出た私は、ロンドンをぶらぶら。
 私は、レスタースクウェアで映画を観たりするのが好きだったが、センターから離れた地区『ニュークロス』も気に入っていた。そこには、レンガ長屋のショップが並んでいた。庶民文化は、人間の生の楽しさを感じさせる。
 グローサリー、テレビ&ビデオ店、コミックブック店、コインランドリー・・・。
 庶民のストリートには、だいたいケバブ屋があり、私のお気に入りだった。

 ダディは、私に、一二〇〇ポンドくれた。シティのブティックでドレスを買っても、おつりが出る額だ。
 ドレスに興味が無かった私は、翌朝起きてシャワーを浴びた後、朝市に行ってみた。
 市で、猫のイラストレーションがプリントされたタンクトップを見つけた。
 私は猫好きだった。
 言うのを忘れていたが、自宅に猫を飼っていた。
 白いオス猫。名前はブランカ。

 ロンドンのチャイナタウンに『ワンキー』という、お気に入りのレストランがある。私は、そこの『麺』が好き。スイート&サワーポークも好き。
 
 話が脱線している。
 私の話は次々に脱線していく。
 実は私には、あなたに伝えたい、信じられないような話がある。それを伝えるのは、もう少し後にする。

 ロンドンで私は突然、思いついた。所持金を使って列車旅行する、というアイディアを。
 グレート・ブリテン島からフランスの港カレイまでは海路。
 そこから列車旅行をスタートすることにした。









 その日の午後、カレイに上陸した。小さい町だった。
 八時だったにもかかわらず、町中のレストランはクローズド。それが小さい町というものだが、私はお腹が減っていた。
 部屋を取ったホテル内のレストランもクローズドだった。

 食堂を探して町を歩いた。ストリートのどの店の明かりも消えていた。
 一軒、明かりがついているショップあった。
 近付くと、小さいブックストアだった。ウィンドーから、ウィークリーマガジンの並んだ棚が見えた。
 
 私は、英語、イタリア語、それとダディが使うのを聴いて覚えた日本語が分かる。フランス語はさっぱり。だけど、私はフランス映画をよく観ていた。英語字幕がなければ、理解出来なかったが。
 そのブックストアの『カイエ・デュ・シネマ』(フランスの映画雑誌)を、立ち読みしてみたくなった。もちろん写真を見るだけだ。
 ブックストアの手押しドアを抜けると、ダリのような髭の中年店主がいた。彼は、一度ちらっとこちらを見ただけで、後は何か自分の仕事をしていた。

 『カイエ・デュ・シネマ』は、映画の革命、ヌーベルヴァーグが起こった時期にも刊行されていた。
 私が生まれた頃には、ヌーベル・ヌーベルヴァーグ(ジャン=ジャック・ベネックス、リュック・ベッソンに代表される、八〇年代のフランス映画革命)が起こっていた。
 それだってもう昔の事だったが、ヌーベル・ヌーベルヴァーグ映画は沢山ビデオで見た。
 手に取った『カイエ・デュ・シネマ』の中の写真を眺めた。
 フレンチカルチャーは斬新だった。

 ふと、そんなことをしている場合じゃなかったことを思い出した。
 私のお腹は極限の空腹だった。
 私は雑誌を置き、急いで外に出、ストリートを歩き、ホテルからかなり離れた所まで行った。
 見覚えのあるゴールデン・アーチがあった!
 プレーンのハンバーガーをオーダー。
 その後、ホテルでぐっすり眠った。
 
 私が起きた時、世界はまだ朝を待っていた。
 石畳のストリートは生命の痕跡をなくしたままだった。
 窓の外のただ物質的な町・・・。
 空が、だんだん青白さを帯びてきた。
 部屋のTVをONにした。ある人が、自身の若い頃の経験を語っていた。
 彼はアートを見るために、ヨーロッパ諸国をバックパックで旅した。その経験が仕事に役立っている、と言っていた。
 これだ!











 私はパリへ向かった。

 ルーブル。
 訪れる人々が必ず見るという『モナリザ』・・・。
 婦人モナリザは微笑している。私は一瞬哲学的になった。

 翌日私はブリュッセルを越えて、アムステルダムへ向かっていた。
 ブリュッセル駅側のギャラリーでは、現代芸術展が開催されていた。
 一見、何なのか具体的に分からない幾何学外観の彫刻等が置かれていた。その種の展示を見るのは初めてだった。
 心地よいと思った。

 アムステルダム。
 庶民的佇まいのアムステルダム。
 気取りのない街だ。
 部屋を取ったホテル側のカフェに入った。私はよくカフェに入り、本を読みながら過ごす。
 ハム、チーズ、カフェオレをオーダーした。
 読書を楽しんだ後、無数の運河が流れる街を歩いた。
 私は、レンブラントの事を知り、街に数多く残る彼の作品を見て回った。

 広場で、ホットドッグ・スタンドを見つけた。
 青空だった。薄い雲がいくつか、ゆっくり漂っていた。空気は乾燥していた。
 広場の木々は、葉を付けていなかった。
 時々、肌寒い風が吹いた。しかし気温は低くなかったし、ちょうどいいと思った。
 ベンチにバックパックを置き、ホットドッグにかじりついた。
 私はしばしばホットドッグをかじっていたが、その広場で、それまででベストのものを食べた。ストリートカルチャーは、ウォーキングの楽しみだ。
 マミーに、列車旅行を始めたと電話連絡した。マミーは「気を付けて楽しんできなさい」と言った。







 列車でアルプスを抜け、南下してイタリアに行く・・・、そのルートにロマンチシズムを感じた。

 アムステルダムを出発。
 国境を越え、中立国スイスに入った。スイスの公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語。
 湖に挟まれた土地インターラーケンに二泊。
 湖のペイントされたようなブルーが私を驚かせた。
 ログハウスの一室が、私のベッドルームだった。
 部屋には窓があった。
 私は木製ブラインドを開けた。
 正面に湖の景色が広がっていた。
 アルプスの山岳地帯。人工物はまばらだ。

 何も無い、と考えられる所に何かがあるものだ。
かつて人は空気が分子の集合だと知らなかった。
 宇宙は加速しながら膨張し続けているという。
 やがて星々は互いの引力同士に引き合い、宇宙は収縮を始め、最後には無くなってしまう、という説があった。
 しかし、さらに新しい科学は、真空の中に、星々の引力に反発する何かが存在し、それが宇宙の収縮を防止している事を発見した。


 ロンドンでパート・タイマーだったことがある。
 大好きなピカデリーサーカスを通って職場へ行ったが、時々疲れを感じた。
 そんな時、木々のある公園へ行った。ある日、そこでぼんやりしていると雨が降り始めた。雨粒は空から落ちてきて木々の葉を滑り、地面に落ちていく。
 当たり前の自然の法則の中で、私のエゴが消えた。
 それは癒しだった。
 
 窓から射し込む光がテーブルを照らした。
 光は、テーブルの上の籠の中を明るくした。中には、銀紙で包まれたチョコレートがいくつか置いてあった。
 スイスチョコを舌の上で転がしながら、私は窓からの絶景を楽しんだ。
 正面に湖。
 観光船が岸に着いた。
 私は観光船に乗った。
 観光船に乗っている時間がランチタイムと重なった。
 観光船のデリでスイスチーズを食しながら、コバルトブルーの湖を眺めた。

 私は十歳頃まで想像力があった。妖精物語が好きだった。よく物語に登場する妖精をクレヨンで描いたものだ。いくつか傑作もあったと思っている。
 もしかしたら・・・、そんな私だったから、あんな事に巻き込まれたのだろうか?

 桟橋に、おそらく合衆国からの観光客がいた。五歳くらいの男の子が桟橋の先に行けないでいた。
「マミー、ホントに大丈夫? 落ちない?」彼は何度も聞いた。
 私も、彼ぐらいの頃から水が恐かった。海を見るのは好きだったが、カナヅチだった。

 次の日の夜、巡業の一座の人形劇を見た。演目は『赤ずきん』だった。
 恐い話だと思った。
 私は、木製の操り人形が好きになった。やたらデカい口に大袈裟な牙がいくつもついた、頭でっかちの木製の狼にユーモアを感じた。
 上演中、雨が降ったらしい。
 テントを出ると、アスファルト道路が、街灯のオレンジ色をきらきらと映していた。

 ペンションに戻ると、私は久しぶりにお祈りした。
「Father: May your holy name be honored; may your Kingdom come.
Give us day by day the food we need. Forgive us our sins, for we forgive everyone who does us wrong. And do not bring us to hard testing.」

 明日、鉄道で南下してイタリアに入る。





 イタリアン・アルプスを越える時、最上の光景は人がどんなに真似ても造ることは出来ないだろうと感じた。
 私が乗った列車は、アルプス連山の谷間に長く延びる鉄橋の上を走っていた。
 列車内の室温が少し下がった。
 私は列車の窓から外を見た。ものすごい高さの山々が列車の両側に迫っていた。
 深緑の木々が、その山々を覆っていた。
 外から鉄橋の上の列車を眺めたら、模型のように小さく見えただろう。
 山々の頂上の方から麓へ、巨大な霧の塊が静かに下りてきていた。それはまるで、とてつもなく大きな生き物みたいだった。
 
 私はロードムービーが好きだった。映画の中の旅人たちに憧れた。映画の旅人たちは、何かの使命を持って旅に出ていくというケースが多かった。
 何かの理由があり、故郷を離れた主人公が、旅の中で愛する異性や仲間に逢い、その助けを借りて問題を克服していく、というジャンルがある。
『スターウォーズ』もそれだ。私は、あの映画をとても楽しんだ。
 そして人生そのものが『心の旅路』だ。

 列車はフィレンツェ駅に停車していた。
「フィレンツェか」
 私は駅のキオスクでデニッシュブレッドを買って、しばらくの間、駅の待ち合い椅子で休んでから、『芸術の都』と称されるフィレンツェに出た。
 その街は私が生まれる何百年も前から、芸術の都としてそこにあった。

 『ダビデ』が所蔵されているアカデミア美術館に向かった。
 『ダビデ』に生命を感じた。
 人が造った物では、『ダビデ』を最高の物だと思った。











 ここに、フランチェスカのノートがある。
 表紙には、『二〇二〇年』と、ある。

 フランチェスカは一九八七年生れ。
 二〇〇五年・・・十八歳。マルチェロ・モリナリと結婚。
 二〇二二年・・・三十五歳。十六歳の男子がいる。
 
 
 ノートをめくる。

 一ページ目 
 
 マルチェロは仕事でクレタ島へ行った。二週間は帰らないらしい。
「さびしい」と私が言うと、「これを聞いて楽しんで」と出発前に音声録音用カセットテープをくれた。
 ラベルに『二〇〇二年』と記されている。
 二〇〇二年といえば私が『列車旅行』した年。
 カセットをPLAYし、そのまま、このノートに記録する。
 
 二ページ目以降は、マルチェロの、声で録音した日記だ。

 ボクの名は、マルチェロ・モリナリ。
 一九八二年、ローマ生れ。
 両親はイタリアンだが、仕事の関係で、ボクを連れイングランドへ移住した。
 その時、ボクは十七歳だった。
 はじめ、言葉に慣れるのに苦労した。
 イングランドのハイスクールを出た後、あまり言葉のハンディがないアートを専攻した。

 二〇〇二年・・・二十歳になった。
 過去二年間、アートの知識を深めた。様々なアートフォーム(芸術の形態、つまり絵画、版画、彫刻、テキスタイル、デザイン、映像等)創作をした。
 ボクは、特に映像に興味を持った。

 二〇〇二年六月三十日。
 学校は夏休みに入っていた。
 通常なら、六月、七月、八月の三ヶ月間の夏休みだ。
 夏休みは予定も何も無かった。もちろん夏休みの間、仕事をする者も多い。しかし、多くの者は旅に出る。
 ボクは今、ドイツのシュトゥッツガルトから出るチェコ共和国のプラハ行き夜行列車の寝台車両に乗っている。
 外の風景を見ても真っ暗で、時折民家らしい明かりが、ひゅっと進行方向と反対方向へ過ぎ去る。

 途中のキオスクで、雑誌を買った。ドイツ語読めない。写真を見る。
 ハッブル望遠鏡で撮影された宇宙の写真があった。
 考えてみると、旅を出来るボクは幸せだ。
 考えてみると、感謝する事が沢山あった。

 ボクに与えられたコンパートメントには、ベッドが四つ。
 下の段にはドイツ女性がいる。もう夜更けで、彼女はベッドに用意されていた毛布にくるまって眠ってしまった。
 ボクは、同じコンパートメントの人たちを起こさないように、ヒソヒソ声でウォークマンに向かって、日記を記録している。
 ボクは、気が向いた時、日記を記録する。
 突然一週間とぶ、という事もある。

 この列車が向かう、プラハに、合衆国アカデミー賞受賞映画『アマデウス』監督ミロス・フォアマンが学んだ映画学校がある。
 そこのサマースクールには、他学校からの参加が許されていた。
 ボクは、この夏休み、六月だけ休んだら、サマースクールに行くことを決めた。

 プラハは日々、新たに革新している都市だ、と聞いた。ヨーロッパは大きく分けると、北欧、西欧、中欧、東欧に分かれる。
 プラハは中欧だ。
 中欧となると未知だ。
 長い間、ヨーロッパは、政治的主義によってに分かれていた。
 カーテンがひかれ、向こうを見ることができなかった。

 七月一日。
 列車はカーテンを越えた。

 中欧は異国情緒を持っていた。
 チェコの人々は、アフター・コミュニズムのカオスを体験しているという。
 チェコ共和国がある地域は、かつてローマ人たちが移動して来た所だ。現在のチェコ人は、ローマ人の子孫たちだ。
 プラハは喧騒のまっただ中だ。

 クラスの人数は、ボクを含めて八人。

 マックス・・・二十二歳。男性。合衆国からの参加。ミュージックビデオアーティストを志している。

 アリー・・・二十六歳。女性。合衆国からの参加。将来は、小さな映像制作会社を企業したい。

 タカシ・・・二十歳。男性。日本からの参加。映画監督志望。

 オーリー・・・二十歳。女性。特に映像に興味はない。プラハに滞在したかったから参加。

 スタンリー・・・二十一歳。男性。合衆国南部出身。天才的映像センスを持っているが、何を考えているか、周囲には分かりにくい。
 
 キャメロン・・・二十二歳。女性。シアトル出身。ファッション・センス抜群。よい意味で個人主義者。

 アン・・・二十五歳。女性。感受性が強そう。

 七月二日。 
 アリーとボクは近くのベーカリーでクロワッサンを買って、ドミトリーに戻った。
 マックスはハイテンション・ガイで、ラテンの血筋。
 彼は言った、「君たち、知ってる? チェコはね、ビールの一大産地なんだって! 安くてうまいビールを今から飲みに行こう!」
 
 マックス、アリー、タカシ、そしてボクの四人はカレル橋を歩いた。カレル橋の上では、多くの観光客が、それぞれの楽しみ方をしていた。
 橋の上に、陽気なバンドマンたちが居た。
 ボクたちは夕暮れまで、橋の上に居た。
 川面が夕日で染まり始めると、バンドマンたちは明日の幸せを願うように、スローなロックを奏ではじめた。
 橋の上の人々は、身体でサウンドに調子を合わせはじめた。
 ボクたちは橋の上で一体となった。

 七月四日。
 ボクは聞いた「タカシ、この国で一九八八年に終了した共産主義体制について、どう思う?」
「人間はみんな違うから、みんなが一つの考えを持つ事は無理だよ。はじめから無理な体制だった」彼は答えた。
 
 ボクは、バスに乗りながら一人、哲学にふけった。
 『快楽』について。
 『快楽』に警戒しなければ危険だ。過剰な快楽追求が人間共生を滅ぼす事がある。『快楽』は、行き着く所、自分のみを満たす行為になる。快楽のバランスをどう取るか、が考えるべき事かもしれない。

 八〇年代、ベルリンの壁がなくなった。

 はじめに、自分と神の関係を考えないと。
 その時に自分が何をするべきか見えてくるかもしれない。
 ボクは神の存在を感じる体験に会った事はある。ボクは、キリストの教えに救いを感じる。

 サマースクールの最後に、ボクたち参加者は、学校にエッセイを提出した。


 
 






       ***エッセイ***
 チェコスロバキア(現チェコ共和国)で初めて映画がスクリーンに映し出されたのは、他の国々とほとんど同じ時期の一八九六年だったという。一八九八年以降、チェコには、数々の映画作家が現れて、盛んに映画を撮るようになったが、一九四七年、チェコ映画産業は国営化された。
 チェコ映画の中では、人形アニメーション・ジャンルが、際立っている。
 それらは、主に伝説や童話をベースにしているが、現代を風刺した作品もある。
 内容は、ハリウッド映画的娯楽ではない。
 チェコには、インディーズ映画作家が多く、映画を娯楽として考えるハリウッド的産業はない。
 フランスでヌーベルヴァーグが起こったのとほとんど同時期に、チェコでもまた、当事の若手作家が革命を起こした。
 一九六五年、映画作家ミロス・フォアマンは『LOVES OF ONE BLOND』を監督した。その映画は、分かりやすい、という点でアメリカ的だった。
 フォアマンは五〇年代をアクターとして過ごし、その後、脚本と監督術を学んだ。
 彼は、合衆国に移り、『アマデウス』の監督としてオスカーを受賞した。
 チェコは、よく知ると、映画が盛んな国だ。
 BARRANDOV STUDIOで、実際に人形アニメーション・セットを見た。
 そこで制作される、チェコが誇る人形アニメーションは、どれも非常に良く出来ている。セットの大きさは予想以上だった。
 無血革命後、スタジオが国営から民営化。

 チェコの人形アニメーション映画をいくつか見て、一つ、気になった。
 人形の動きは完璧なのに、人形の顔には、表情がない。いつも同じ顔をしていた。



                    









 (2)

 フランチェスカのボイスMDその二より

 私にとって色んな事が、それまでと変化したのは、寄宿学校に入ってからだ。
 まだ、ロンドンっ子をやめられなかった私は、マミーと湖水地方には行かなかった。
 
 ある日のランチタイムに、当時の自宅で、マミーと話してる最中に、私は自分の意志でロンドンに残ると決めた。
 それは、二〇〇二年八月だった。

 マミーは、七月に一度湖水地方に下見をしに行った。
 そのとき、その広大な湖の上空をチョッパーで飛んだらしい。
 珍しくマミーは興奮していた。
 マミーは言った「私たち人間が知らない事が、湖と周囲の森林の中にまだまだあるのよ」
「そして、湖水地方では、純粋自然を研究できるのよ!」
 私は、マミーの興奮をよそ目に、HDTV『ベガ』の画面に映る、ロンドンの街角を見ていた。
 『パチーノ』という店のパスタが紹介された。
 それがとても美味しそうだった。
 マミーは、テーブルに数枚の写真を並べた。見ると、それらは、ほとんどが湖と森の写真だった。中に、マミーがヘリポートで、オレンジにペイントされたチョッパーと共に写っているものがあった。
「これ、かわいい!」私はオレンジ色のチョッパーなんて、それまで見た事なかったから、そう言った。
 私は、そんな女の子だった。

「それで、フランチェスカ・・・。あなた、湖水地方に行く事にしたんでしょ? 結局、ダディに付いて行かなかったから・・・」彼女は、私に尋ねた。
「私、ロンドンの寄宿学校に入りたい」私は、初めて、その考えをマミーに伝えた。
 その時、私たちが居たダイニングルームに、飼い猫のブランカが入ってきた。
 ブランカは一日中、家の中をウロウロするのが日課だった。
 ブランカはオスだからか、時々荒っぽかった。
 しかし、私にはなついていた。

「でね、寄宿舎にブランカを連れてってもいいよね?」と私はマミーに聞いてみた。
「エッ!」彼女はびっくりしていたようだ。「寄宿舎でしょ? フランチェスカ、私は、動物を持ち込めるとは思わないわ」
「その時はマミーに送る」私は、気楽に返事した。「ところでさ、この家、どうするの?」
「荷物を全部あっちに輸送して、引き払うつもり。休暇中は、ダディが湖水地方に来るって。だけど、フランチェスカ、あなたが寄宿学校に行くなんて言いはじめるとは、私考えてなかった。多分、きついわよ」とマミー。
「どこに行っても同じ事だと思う。ロンドンを離れたくないの」私がそう言うと、マミーは「まあ、いいわ」と言った。

 真夏が来た。
 ヨーロッパの夏は暑い。
 それでもヨーロッパ諸国に住む人々は夏が好きだ。
 トーキョー出身の父は、「ヨーロッパの夏の方が、トーキョーの夏よりはずっと気持ちいいよ」と言っていた。
「トーキョーの夏ってどんな?」私が尋ねると、父は「黒澤映画の『野良犬』に出てくるみたいさ」と答えた。

 夏の風物はジェラート。
 私はプレーンが好きだった。
 
 その日、私はセンターから少し離れた、住宅街を歩いていた。ボストンバッグとブランカが入った猫籠を持って。
 両親とも、ロンドンから出てしまい、私は、『セント・ジョンズ・スクール』という寄宿学校に入学手続きを済ませていた。
 それで私は、その寄宿舎に向かっていたところだった。
 なかなかその場所が見つからず、私はイライラしていた。
 籠の中のブランカも暑さのせいか、ご機嫌ななめで、籠の中でグルングルン回っていた。
「ギャッ、ギャッ」ブランカは不快な音を出した。
「歩く? ブランカ」
 私は、猫籠の出口を開けた。
 ブランカは勢いよく出た。
 私は寄宿学校を探して歩き続けた。
 ブランカは、私の後をトコトコついてきた。
 前から、その辺りは、私の散歩道でもあった。しかし、その辺りに寄宿学校があるなんて全然知らなかった。その辺は、私の大好きな風景の一つだった。

 私とブランカは歩きながら、ジェラート・ワゴンの前を過ぎた。
「君! ジェラートいらない?」
 若い店員が話しかけた。
 私は「じゃ、ひとつ」とオーダーした。
 
 それから私は、道ばたでジェラートを舐めていた。
「この辺は、昔からの建築物が多いんだよ」
 店員がしつこく話しかけるから、私は思わず、「うるさい」と言いそうになった。
 私は、ジェラートを舐め続けていた。
「君、あまり歴史に興味ないみたいね」
 全く、うるさい店員だ。
「私は今が好き」
 私が主張すると、店員は言った、「君、ユニークだ。またここに寄ってよ。名前は?」
 「フランチェスカ」
 答えながら、私はジェラート・コーンの残り部分をブランカにあげた。










 
 私は地図をもう一度よく見直し、ようやく寄宿舎を見つけた。
 それは白壁の建物だった。
 私は、寄宿舎敷地の前に着いた。そこは女子校だったから、寄宿舎には香水の臭いが漂っていた。
 夏休みを、親元に帰らず過ごす人が、数名いるようだった。
 どこかの部屋のステレオからはマドンナの曲が聞こえ、アンダーウェアが干されたテラスも見えた。
 私は、その敷地へ入る門を抜けた。すると、後からブランカが入ってきたから、私は彼を両手でサッと抱え上げ、門の外に放った。
「ブランカ、しばらく外で遊んできて」

 寄宿舎・・・。
 私は、一階エントランスから舎内へ入った。
 一階は寄宿生たちの共同ホールになっているようだった。
 右を見ると、木製テーブルがあった。
 そのテーブルの陰のソファに、寝そべってコミックを読んでいる少女がいた。
 少しの間、彼女を見ていたら、彼女は私に気付いたらしく、コミックをパタンとたたんで、私の方を見て言った。
「誰?」
「私、フランチェスカ。九月から、この寄宿学校に入るの」
 私がそう言うと、彼女は、目をきらっとさせた。
 その少女は、サッと立ち上がると、テーブルの引き出しから、一冊のノートを取り出した。
 彼女はパラパラパラとページをめくった。
「あなたの部屋、二〇四号室よ。階段で上に行ってね」彼女は、奥の大理石の階段を指差した。
 私が階段を昇ろうとすると、少女は私に声をかけた。
「私、マリアンナ! よろしくね」
 屈託のない笑顔だった。
 階段で立ち止まり、私は尋ねた。
「あなた、寮母さん?」
 彼女が「まさか! 私まだ十五歳よ。サマーバケーションのパートタイマー!」と大声で言ったのが、ガラーンとしたホールでよく響いた。
「ねえ、マリアンナ、この寄宿舎で、動物を飼ってもOK?」私は聞いてみた。
「だめだめ、フランチェスカ。ここの寮母さんは動物嫌いよ」
 それを聞いて、ブランカの事どうしよう、と思った。
「まあいい、後で考えよ・・・」
「フランチェスカ、何かペットを飼いたいの?」と、マリアンナの優しい声。
「ううん、別に」私は話を終わらせた。

 二〇四号室に入った。何もない部屋だった。
 ベッドが一つ、本棚付きの机が一つ、クローゼットが一つ。ベッドは、大きな窓の側に置かれていた。
 私は、荷物を床に放り、ベッドに飛び乗って、そのまま眠りに落ちた。
 薄れていく意識の中、横目に窓の外の大きな広葉樹が、窓から手を伸ばすと届きそうな枝を風にゆらしているのが見えていた・・・。

 『コン、コン、コン、コン』
 ノックの音が静寂を破った。
「私。マリアンナよ。ランチ、一緒にしない、フランチェスカ? 今、ランチタイムで安いのよ」
 ノックの主はマリアンナらしい・・・。

 ロンドンは、様々な時代の風物が混在した街だ。
 百年前からある街並み、美術館、カフェ、観光客の似顔絵描き、ソニーやニンテンドーのTVゲームショップ、最新のブティック・・・、私とマリアンナは、そんな中を通り抜け、パスタレストランへ歩いた。

 パスタレストラン『パチーノ』
 店員の女性が両手の皿の上にパスタを載せて、私たちのテーブルまで運んできた。
 私はフレッシュトマトのパスタ、マリアンナはリゾットをオーダーしていた。

 マリアンナは、リゾットをスプーンで彼女のキュートな唇へ運んだ。
 ガーリックブレッドが二つ残った。それを私がドギーバッグで持ち帰る事にした。
 夜食になる、と私は考えた。
 私たちは食後のカフェオレを楽しんだ。 

 私はボヤーンとしているのが割りと好きな人間。

 食後、私たちはトラファルガーの泉がある広場で休んだ。私は、泉の冷たい水に足を浸していた。
「ねえ、フランチェスカ、どうして寄宿学校に?」とマリアンナ。
 私は答えた、「ダディは、トーキョーに。マミーは、湖水地方に行った。私はロンドンが好きだから残った」
「フランチェスカ、あなた、これ知ってる?」と言いながら、マリアンナは泉に背を向けて座り直し、コインを肩越しに泉の方へ投げた。
 そのコインは泉の中にポチャンと落ちた。
「やった! こうやってコインが泉の中に落ちたら、そのコインを投げた人は、一度ロンドンを去っても、いつか戻ってくるんだって! 街の伝説!」
 マリアンナはキュートだ。
「私もロンドン好き。だけど、ダディがスイミングプール施設のエンジニアだから、私、よく引っ越ししてきたし、これからも色々移動すると思う。それでもいつかロンドンに戻ってきたい」

 当時のマリアンナの家は、寄宿舎の近くのアパートメントだった。
 それで、寮母のサマーバケーション中、寄宿舎のレセプションに居るんだと言ってた。

 私は、寄宿舎の二〇四号室に戻った後、ベッドに倒れ込んだ。
 もう夕方になっていた。窓の中には、広葉樹のシルエットが見えた。室内に深紅の光線が射し込んでいた。
 『みゃあ、みゃあ、みゃあ、みゃあ』
 猫の鳴き声・・・、私は、その音の方向を見た。
 窓の外の広葉樹の枝に乗っているのは、ブランカだった。
 私は立ち上がり、窓を開けた。
 ブランカは、枝からこちらへ跳び移り、私の部屋に入った。彼は、部屋に入ってくると、私の足に頬をすり寄せてきた。
「ごめん、ブランカ。君の事を忘れてた・・・」
 私は申し訳なくなった。『パチーノ』のドギーバッグから、ガーリックブレッドを取り出し与えた。彼はペロリと食べた。

 突然、マリアンナが来た。
 ドキッとして、私はドアの方を向いた。
 マリアンナにブランカを見られてしまった!
「ごめん! フランチェスカ。鍵がかかってなかったから・・・」
 ブランカは驚く様子もなく、私の足にすり寄っていた。
 マリアンナは静かに言った、「それ、どこから持ち込んだの?」
「寮母さん、怒る?」私は戸惑った。
 マリアンナは笑いはじめた。
「ふふふ・・・。その猫、随分あなたに慣れているようね。あなたを大好きみたいよ。その猫は、あなたの事が大好きで、これからもこの部屋に遊びに来るんでしょう? 当たり?」
 マリアンナは優しい。逆の立場だったら、私はこんなウィットを持てただろうか?
 マリアンナは笑いながら「もう彼の名前は決めたの? それとも彼女?」と尋ねた。
「彼、ブランカよ」私は彼を紹介した。
 マリアンナは手に持っていた紙袋から、手作りのラザニアを出した。
「これ、マミーが作ったの。あなたの話をしたら、持っていきなさいって」
「ありがとう」私はうれしくなった。


 
 十二月。

 クリスマスが近づいた。
 寄宿学校のホールで、聖歌の練習が始まっていた。
 私は聖歌隊のうしろの方で、目立たないようにしていた。
 ある日、練習の途中、マリアンナが話しかけてきた。
「フランチェスカ、明日、温水プールに行かない?」
「エッ?」
「前に言ったけど、私のダディ、スイミングプール施設のエンジニアなのよ。それで、ダディがプロジェクトに関わったプールを、私はフリーで利用できるの。私と一緒なら、あなたもフリー」

 そこは、ガラス張り天井の温水プールだった。
 古代人が、今日の建築を見たら何と言うだろう?
 それは、五〇メートルプールだった。
 マリアンナは、派手に飛び込み台からジャンプした。
 やがて水面から彼女の顔が出て来て、言った「フランチェスカ! カモン!」
 私は白状した。
「実は私、泳げない」
「じゃ、そこのデリでコーヒーでも飲みましょ」彼女は明るく言った。
 コーヒーを飲みながら語った。
「話すことって大切だと思う。でしょ、フランチェスカ?」とマリアンナ。















 二〇〇三年春期休暇。

 私は、湖水地方に居た。
 朝、アパートメントの中庭にある、野外テーブルにマミーと座っていた。
「フランチェスカ、あなたがロンドンの寄宿学校に入って、私から離れて暮らし始めてから、半年過ぎた・・・」
「うん」
「どう?」
「平気よ」
「気を付けてね」
「うん、私、楽しんでるよ」
「ね、今日、ディナーを一緒にしよう」とマミー。
「OK」私は答えた。
「じゃ、フランチェスカ、研究所図書館ビル前で、午後7時に会いましょう」
 マミーはそう言って、その場を慌ただしく去った。マミーの出勤時間だった。
 マミーは立ち止まって、私の方に振り返った。
「カメラ持って来てよ、ディナーの時!」とマミー。

 マミーが勤務していた研究所は、田舎町にあった。
 私は、その周囲を散策したが、あまり興味を持てる場所がなかったので、早々と図書館ビルに行った。


 私は図書館ビルの地階に下りた。
 そこにも、無数の書架群が並んでいた。
 それらは高さ三メートルくらいだった。誰かが、上の方の書籍を取るには、脚立を必要とした。
 地階にある書籍群は、あまり一般的でなかったのだろうか、書籍を捜す者たちは、そこに居なかった。
 四十メートル程の奥行きの書架が十二列あった。
 私は、一列目から十二列目まで歩いてみた。
 十二列目の書架を整理中の老男性が見えた。
 老男性は私に気付いた。
「お嬢さん、この列の奥のドア、見えるよね。あそこから外に出てはいけないよ。あの向こうは迷い道だから」
「ふうん」私は他人の言う事を聞くのが下手だった。私の事を本当に考えて言ってくれていることに対して、「他人が私の事を分かるはずない。他人は私じゃないんだから」という、曲った気持ちを持ってしまっていた。
 四十メートル先にあるドアは木製だ。
 ドアが、少し開いているようだった。隙間から、うっすらと霧が部屋の中に入ってきていた。
 私は、隣の十一列目に入った。
 人さし指で、書籍群の背表紙を撫でながら、奥へ向かって歩いた。
 ふと見ると、ある背表紙が目に入った。
 『生態系』
 それは、マミーの研究課題だ。
 私は自然の中で、癒しを感じるから、それは私にとっても興味のある分野だったが、私は細かい研究が苦手の感性型人間だったから、実際に、その分野を仕事にしたいと思わなかった。しかし、大切な研究課題だと感じていた。
 私は、その専門書を書架から取り出した。
 
 すぐに退屈した。
 生態系専門書を元の書架に戻そうと思った。
 見ると、十二列目に居た老男性は去っていた。
 私は、奥のドアが少し開いているのを閉めようと思った。 
 だが、そのドアに近づくと、向こう側を見たくなり、思いきり押し開けてしまった。
 霧が私を覆った。
 私の視界は、白一色になった。
 だんだん視界が開けて来た。
「えっ? ウソ!」
 目の前は深い森だった!
 図書館ビルの裏に、こんな森が? 
 森の木々は巨大だった。
 野生鳥たちが、木々の枝々を跳び移るのが見えた。

 私は前へ、歩を進めた。

 図書館ビルのドアは、次第に私の後方で遠のいていった。
 私の周囲から人工物がなくなった。
 私は図書館の本を抱えたまま、木々の間を歩いていた。
 私はその中で、きっとミニチュアの人形のように見えただろう。巨木群の中で、様々の鳥の鳴き声がこだましていた。

 三十分程歩いただろうか? 木々の間から、キラキラ光が漏れているのが見えた。
 近づいていくと、光を反射していたのは大きな湖だった。
私は手に、生態系専門書を抱え続けていた。

 私は湖の岸辺に歩いていった。
 岸辺にお尻をついて座った。岸辺の地面には、手の平大の無数の小石が敷き詰めていた。
 私は本を地面に降ろした。
 私は、ぼうっと対岸の岸辺を見ていた。
 そこに、赤い車のような物が停まっていた。
 私は、図書館の本を置いたまま立ち上がり、そこを離れた。
 立ち去る時、後ろの木の影で、小さな声が聴こえた。
「あの娘についてってみよう」
 私は、それを空耳だと思った。

 対岸までは、結構な距離だった。
 車に近づいて見ると、その車は不思議な形をしているような気がした。
 ポルシェのような面影があったが、テレビ番組『スタートレック』の宇宙船のフォルムにも似ていた。しかし、私は、全く、車に詳しい人ではなかったから、そんなことはすぐに、どうでもよくなった。
 その車のドライバーズ・シートに人影が見えた。
 私は静かに、シート側に接近し、ウィンドーから中を覗いた。
 十六くらいのブラウンヘア・ボーイがシートを倒して昼寝していた。
 彼はサングラスを掛けていたから、本当に眠っているのか、私には分からなかった。
 私は、マミーに言われて、カメラを持ってきたのを思い出した。
 そのカメラは、スパイが持っていたような、超小型デジタルカメラだった。
 パンツのポケットに入れていた。
 私は、その時、そのカメラで、ドライバーズ・シートの彼を撮影したい、という気持ちになった。
 そしてシャッターを切った。

 彼が、ガバッと、シートから起き上がった。
 モーターウィンドーが、スーッと、開いた。
 私を見て、彼はサングラスを外した。
「ごめん!」私は言った。
「いや、別に、何も謝る必要はないさ」彼は言った。「窓越しだと、写真にうまく写らないよ。ダディが言ってた」
 彼は、どうせ撮るなら、車全体を撮ってよ、と主張した。
 パートタイムの仕事で、なんとか買った中古車らしかった。
 私は、彼と、彼の車全体をフレームに入れて撮影した。
 私には、その車がSF映画に出そうな物に見えて仕方なかった。
「珍しい自動車・・・ネ、新機種?」
 彼は言った、「ちょっと前のタイプだけど・・・。君のダディはアンティーク趣味?」
 
 私は彼の名を尋ねた。
「レオナルド」あくびをしながら彼は答えた、
「ディカプリオと同じ名前ね」私は言った。
 彼は、車のナビゲーターズ・シート側のドアを開けて、茶色の紙袋を取り出した。
 紙袋に、『BLUE*FLOWER』の文字がプリントされていた。
「これ、ボクが、この森の入口にあるベーカリーで買ってきたんだよ。よかったら、君も一緒に食べる? ハハハ」微笑みながら彼は言った。

 車の陰から、ヒソヒソ声が聴こえた。
「別の時代の人間どうしが出会ってしまった」
「この森は時間を越えた空間だから」
「でも大丈夫。別の時代の人間どうしは、この森から同時に出られない。それが法則。この『時のない森』の法則」

 その時、遠くの木々で、野生鳥が「キーイ、キーイ」と鳴いた。
 私たちはびくっとした。
 私たちは、木々の奥に目を凝らした。
 暗がりに、だんだんボンヤリと、独りの少女が見えてきた。
 彼女は、こちらに向かってきた。
「あの少女の服! とても、珍しいね!」とレオナルド。
 その少女の服は、ひと昔前の服だった。
「あれは、オールドクローズ。半世紀前のファッションね」
 私は写真集で、それを見たことがあった。
 少女の足取りはユラユラしていた。
 彼女は頭に、ブルーの花飾りを付けていた。
 少女は、私たちの側に来た。
 彼女は、空腹そうだった。
 レオナルドは、『BLUE*FLOWER』のパンを彼女にあげた。
「おいしい。これ、だれが作ったの?」と彼女。
「この森の入口にあるベーカリーで買ったんだよ」レオナルドは答えた。
 少女は不思議そうな顔をして、言った、「森の近くには何の店もないよ」
「えっ、知らないの?」レオナルドは言った。
「もう帰る」少女は言った。
 そして森の奥の暗がりに歩き去った。
 私とレオナルドが呆然と見ていると、突然、大風が霧を運んで来た。その霧が少女を包んだ。霧が吹き去った。少女は居なくなっていた。
 私たちは、車体にもたれて森の奥を見ていた。
「ヘンな子だったね」と私。
 レオナルドは、「君もわりとヘンだよ」と返事した、「君、この車を初めて見たようなこと言ってた」
「こんな形の車、SF映画でしか見た事ない」私は言った。
 レオナルドは変な顔をした「ふーん。パンなくなっちゃったし、ボクはそろそろ家に帰るよ。乗ってく?」
「うん」私は答えた。

 車は、驚く程、静かに動いた。
 車は、森を抜けていった。
 街が見えた。
 だけど、何か違っていた。
「なんか、街が変わってる。ビルが増えてる!」私は驚いた。
「君、ほんとヘン!」とレオナルド。

 その時、私は思い出した。
「あ! 図書館の本を湖に忘れた! ここで降ろして」
 私は、車を出た。
「BLUE*FLOWER、もうすぐ閉店だから、ボクは行くよ。じゃ、ここでバイバイ」レオナルドが言った。
「また、私、あなたと会える?」私は彼に興味を持った。
 彼は答えた、「明日も、湖に居ると思う。2時にね。好きな場所なんだ」

 私は、湖の岸辺に戻った。
 図書館の本があった。
 小石が敷き詰まった岸辺に、静かな風が吹いていた。
 揺れる水面を見ていたら、私は、もうしばらく、そこに居たくなった。
 本を枕にして、横になった。
 静かに雲が流れていた。
 私は、眠りに落ちていた。
 私の頭の側で、話し声が聞こえてきた。
「この娘が、枕にしてる本は、人間たちが自然の研究を記した本だ」
「自然は彼らの英知を数段越えている。私たちにもよく分からない所。ただ、その恵みをもらえばいいのさ」と別の声。
 私は、ゆっくり、目を開いた。
「娘が目覚めた!」
「隠れなきゃ! 急いで!」
「急がすから、袋の中の道具がこぼれてしまったよ!」
 私は、そんな慌てた声を聞き、身体を起こした。
『タタタタタタタタ』
 何かの足音が、すばやく、草むらの中へ消えていった。
 私は地面を見た。
 削られたような石が落ちていた。
 私は、その石を一つ拾った。
 他に三つ落ちていた。




 小さなレストランで、マミーとディナー。
 若者たちが、道路沿いのパティオに集まっていた。数件のレストランの電光広告が、蒼い夜に輝いていた。
 私たちは、子羊のプレートを味わった。
 マミーが特に何も話しを切り出さなかったので、私は言った、「今日、私、面白い物拾った」
「何を拾ったの?」マミーは、興味深そうに聞いた。
「誰かが削ったような石のかけら」
「えっ、それ、妖精の持ち物なのよ! 人間が持ってきちゃいけないわ、フランチェスカ」マミーはそう言うと、しばらくして笑い出した。 
 私は、食事の手を止めた。マミーは続けた。
「この辺のお年寄りはそう言うわ。研究では、それは、先住民の道具だったらしいけど」
 
 私たちは沢山話をした。
 私は、不思議な形の車の話もした。
 マミーは、その車の写真を見たいと言った。私は、デジタルカメラの液晶画面で、それを見せた。
 マミーは車に詳しいわけでもない。
 
 そこへマミーの知り合いが現れた。彼は、妻と、レストランに食事に来たところだった。マミーが言うには、彼は車に詳しい。私は、彼に写真を見せた。
「これはポルシェ911に似てる。一九六三年フランクフルトで、ポルシェ社は、901を発表した。リアエンジンを載せたポルシェだった。901という名前が、プジョー社からクレームを付けられ、911になった。911は、当時はすばらしい性能を誇っていた。美しいボディラインも持っていた。その後のポルシェの基本だ」と彼は言った。
 私は、聞いているうちに、どうでもよくなった。彼は最後に付け加えた。
「これはポルシェの新車種だろうか? 見た事ないなあ」
「持ち主は、中古って言ってた」私は言った。
彼は「ヘンだ」と言った。

 その夜、私は、マリアンナの事を考えていた。
 この春期休暇の間に、彼女に湖水地方に遊びに来るように、言っておいたから。
彼女はアンブルサイドへのバスに乗ったはずだった。一人で観光しながら湖水地方までぶらぶらと来る、と言っていた。彼女は、地平線に昇る朝日を見たい、と言っていた。
 マリアンナは一体、今どの辺に居るのだろう?
 私は想像した。
 そうこうしているうちに、私は眠りに就き、気が付くと、朝だった。

 私は、洗面台で、鏡を見ながら歯磨きしていた。私の口の中は、泡だらけだった。
 その時、アパートの呼びベルがジリリリと鳴った。私の口は泡だらけだったから、慌てて、大声でマミーを呼んだ。
「マミー、誰か来たよ!」
 私は、また、歯磨きを続けていた。
 私が、洗面台の鏡を見ていると、鏡の中に、マミーと、マリアンナが映り込んできた。
 私は、目を丸くした。
 そして、鏡に映るマリアンナを見て言った、「今日だったっけ?」
 鏡に映るマミーを見て、私は聞いた「今日は何日だっけ?」
「四月八日」とマミー。
「そうそう。私、四月八日なら、湖水地方に大分慣れているだろうから、その辺で遊びに来てって言ったよね、マリアンナ」私は、鏡に映る彼女を見て、そう言った。
「私、カレンダー見ずに日々を過ごしてた。もう、八日か。まあいい。そうねえ、お土産屋さんにでも行こうよ、私と今から」

 そして私たちは、考えなく、歩きまわっていた。

 歩く私たちの視界の中に『手作りパン屋BLUE*FLOWER』という看板が見えた。
「ああ、これが、BLUE*FLOWERか」と思った。
「ここで、ランチにしよう!」マリアンナが言った。
 彼女は、外のテーブルで食べるのが好きだと言った。
 私たちは、外のテーブル席に座った。側に、大きな花壇があった。
 私たちはコーヒーを手に、話し始めた。話を切り出したのは私。
「私、おもしろい物、持って来たよ」
マリアンナは聞き返した、「何?」
 私は、バッグの中から紙袋を取り出した。
「両手を出して、マリアンナ」私はマリアンナの両手の上で、紙袋を下に傾けた。
 そこから、矢尻のような形の四つの石が、マリアンナの掌に落ちた。
「何、これ?」とマリアンナ。
「森で拾ったの。それ、妖精の持ち物よ、マリアンナ」と私は言った。
「どういうこと?」彼女は不思議がった。
 私は、四つの石を指しながら説明した、「この辺の森には、妖精伝説があるの。お年寄りの中には、それは妖精の落とし物だから触っちゃいけないって言う人がいる」
「あなた、それを拾ってきたの? フランチェスカ」とマリアンナ。
「ハハハ、妖精の落とし物というのは、ただの伝説! 研究によると、昔々の森の先住者の道具だった」私は、物知りのように言った。
「脅かさないで、フランチェスカ」マリアンナは、少しビックリしたようだった。
「四つあるから、二つあげる」私は彼女に言った。

 彼女は、一つ、石を手に取り、よく見ていた。

 私は、なんとなく、ストリートを見た。
 ストリートに、ブランカと雌猫が連れだって歩いていた。
 私は大声で呼んだ。
「ブランカ!」
 ブランカは私を無視した。
「行っちゃった」とマリアンナ。
「ガールフレンドが出来て、家にも戻らないのよ!」私はそう言って、マリアンナを見た。彼女は、笑っていた。
 その時、私たちのテーブルの側で、ガサガサ音がした。小動物が、草むらを動くような・・・。
 私は、テーブルの下の、私の足元に、何かの気配を感じた。私は、それがブランカだと思い、嬉しくなった。
「キャハハ、くすぐったいよ、ブランカ」と、思わず私が口にしたら、マリアンナが言った、「ブランカなら、あなたの後ろの花壇の所に来てるよ、ガールフレンドと」
 私は驚いて、振り返った。
 私の椅子の後ろの花壇に、ブランカと茶猫が居た。
 私は、恐る恐る自分の足元を覗いた。
「キャー」
 私の足の脛を棒登りのように登ってくる、一フィート大の緑色の妖精を見た!
 妖精は、怒って言った、「矢尻を返せ! 私は、あれで小動物を射て、食ってる。矢尻がなくなって、まる一日間なにも食ってない!」
 私は驚いてしまって、口を開けたまま、身動き出来なかった。
 さらに、妖精はしゃべった。
「名をなのろう! 私はスピー。それは鼻がきくフォス」
 妖精スピーは、私の左肩を指さした。
 私の肩の上にチョコンと乗り、鼻をクンクンさせる妖精フォスがいた。
「この髪の匂い! 矢尻を盗んでいった人間だ!」フォスが怒って言った。
 マリアンナは、震えながら口を開いた。
「それは、おかしい。フランチェスカは、落ちていた物を拾ったのよ。それには、名前も住所も書いてなかった。あなたたちの物だという証拠がない。それはもう、フランチェスカの物よ」
 私も言った。
「そうよ! あなたたちが、自分の物だと言い張るなら、返してもいいけど、あなたたちは私に、お礼ぐらいしてもいいんじゃない」
 その時、二匹の猫は、フギャッと鳴いて逃げた。
 もう二匹の妖精が、猫がいた所に座り込んだ。
 一方が喋った、「私は、考え事が好きなプッチだ。君たちの言う事も頷ける」
 もう一方も喋った、「ワカッタヨ。私たち四匹が、フランチェスカの願いを何でも叶える・・・、それがお礼」   
 妖精スピーが割り込んだ「ヘイ、クーロ、勝手にそんな面倒な約束するな」
 彼女は、クーロというらしかった。
 クーロは言った、「しょうがないよ。取り引きしましょ」
 私は「そんなことが出来るの?」と疑った。
「私たちは妖精だ。君たちが想像できないような能力を持ってる」と、スピーは言った。

「四つの願い事が叶うということね」私は聞き返した。
 クーロは答えた、「そうね。一匹が、一つの願い事を叶えるからね。四匹で四つ」
 私は言った、「さっき私、二つの矢尻をマリアンナにあげたの。だから、私の願い事を二つ、そして、マリアンナの願い事を二つ、あなたたちが叶える事になるわよ」
 クーロは答えた「あなたたちは二人、願い事を二人で分けるとしたら、一人には二つね。まあ、一と三に分けるのもあなたたちの勝手よ」 

「どうやって願い事をすればいいの?」私は、方法を知らなければならない、と思った。

 スピーが答えた。
「私たちの名前を言って願えばいい。お願い、スピー、こんな事をしてよ! ってね」

 四匹の妖精・・・か。
 妖精スピー・・・男。 妖精フォス・・・女。
 妖精プッチ・・・男。 妖精クーロ・・・女。
 二組のカップルなのかなあ。
 
「スピーとプッチは、私の願いごとを。フォスとクーロは、マリアンナの願いごとを聞いてね」私は、妖精たちと約束した。
「ワカッタヨ!」妖精たちは、声を揃えて言った。
 スピーが、テーブルの上の四つの矢尻を、さっと取り返した。
 そして、妖精たちは、ストリートを横切り、林の中へ消えた。

 ふと、マリアンナが言った「ホントに何でも願いが叶うのかな?」
「どうかしら?」と私。
「一つだけ試してみようか、フランチェスカ」
 そう言って、マリアンナが願い事を唱えた「お願い、フォス、チャーミングな男の子に会わせてよ!」

 周囲には、何の変化も感じられなかった。

 私は、マリアンナが、さっそく一つ願い事を言った事に、ちょっとびっくりだった。
「何か、変わった? マリアンナ」

 その時、頭にブルーの花飾りを付けた、六十半ばの女性が、私たちのテーブルに近づいてきた。
「さっきから話が弾んでるようだけど、お腹空いてないの? 焼き立てのパンはいかが?」その女性は言った。
 私は、彼女の頭のブルーの花飾りに目を留めた。
「マダム。私、その花飾り、どこかで見た事があるような気がする」
 彼女は、私の顔をじいっと見た。そして、言った。
「私も、あなたの顔に見覚えがあるのよね。私がまだ、ちっちゃい頃、森の中で、二人の変わった男女に会った。彼らは、私に美味しいパンをくれた。そのパンは本当に美味しかった。私がベーカリーをやりたい、と思ったきっかけよ。あなたはね、その時会った女性にそっくりよ」

 私は、当惑した。

 私はレオナルドの事を思い出した。
 腕時計を見ると、1時半だった。
 私は慌てて言った「行かなくちゃ! マダム! 三人分の美味しいパンを、適当に袋に詰めて頂戴!」

 私は、マリアンナを連れて、図書館ビル裏の森へ急いだ。
 森を歩き、湖の側まで行くと、そこにレオナルドの、宇宙船のような車があった。
「ヘンな車!」大きな声でマリアンナが言った。
 私たちは、その車の方へ歩いていった。
 レオナルドは、サングラスを掛けたまま、車のシートを倒して昼寝していた。
 私は、ひょいと彼のサングラスを取り上げた。
 レオナルドは目を開けた。
「君か。今日は、友達と一緒なんだね。みんなで湖の周囲を歩いてみようか?」
 彼は提案した。

 美しいレイクサイドだった。
 私たちは、レオナルドを中心にして歩いた。
 湖は、L字型に折れていて、歩き進むと、木々に隠れていた所が見えてきた。
 奥に、垂直にそびえる巨大な白い岩山が見えてきた。その壁面には穴が開いていて、そこから水の筋がキラキラと湖に落ちていた。
 美しい滝だった。
「岩の上へ行ってみようか」レオナルドが言った。
「オッケー!」マリアンナが元気に答えた。
「・・・・・」私は無言になった。

 私たち三人は、なんとか岩の上に着いた。
 岩の上は平面で、私たちはそこでくつろいだ。
 私は、BLUE*FLOWERのパンを取り出した。
「お腹空いたよね。私、パンを持って来たんだ」
 私の言葉を聞くと、レオナルドが「それは、BLUE*FLOWERのだね。ブルーの花飾りを付けた、おばあさんの店だ」と言った。
 私は、彼の言う事に納得できなかった。
「何言ってるの? 彼女はまだ『おばあさん』じゃないよ! 彼女はまだ六十半ばだよ!」
 レオナルドは不思議そうな顔をして言った、「彼女は、銀髪のおばあさんだよ! 八十過ぎだって言ってた。だけどブルーの花飾り付けて、いかした人だよ」
 八十過ぎ・・・? 彼の言う事は、訳が分からなかった。
 その時、マリアンナが言った、「まあ、どうでもいいじゃない。食べよ」
 レオナルドは、マリアンナに、それまでの堅い顔でない笑顔を見せた。そして、彼はパンをちぎって、マリアンナの口元に差し出した。
 マリアンナは、口を大きく開けた。パンが、マリアンナの口の中に入った。そして、彼女はパンを噛んだ。
「明日も君と会いたいな」マリアンナは、レオナルドに言った。
「ボクは明日もここにいる。2時に」
 レオナルドは、マリアンナに優しく笑った。










 図書館ビル地階、書架十二列目、その奥のドア・・・。
 私とマリアンナは、そのドアから帰還した。
 そのドアを通る度、私は奇妙な感覚を味わっていた。
 しかし、その時、それはどうでもよかった。 
「図書館ビル地階のドアから、森に行けるのね」
 マリアンナが私に話しかけたが、私は返事しなかった。
「とにかく、妖精が言った事は本当ね。私は今日、チャーミングな男の子に会った!」

 私は、つらくなった。私は弱かった。
 私は言った、「ちょっと、ウォッシュルームに行ってくる」
「どうしたの、フランチェスカ? 顔、青いよ。気分が悪いの?」とマリアンナ。
 私はすぐに、その場を離れた。
 私は、ウォッシュルームに入った。
 そして洗面台の前に立った。鏡に映った、私の顔は青ざめていた。
 私は、水で顔を濡らした。
 私は願っていた。
「妖精たち! 聞いてる? 願い事があるの!」鏡に映っていた私の顔は、邪悪な感じになっていた。
「スピー、お願い、マリアンナを外国へ遠ざけて! 二十年くらい」
 ウォッシュルームのブースの一つから、コトンと音が聴こえた。
 そこからスピーの声がした、「確かに私は、どんな願い事だって一つ叶える。だけど、これは止めといた方がいい」
 私は、声のするブースを見た。
 ドアは開いていた。
 ブースの便座に、スピーが腰掛けていた。
 私は、「黙って!」と言ったが、スピーは話し続けた、「聞きなさい。私は、あの森に住んでいる。そして、一部始終を見ていた。君のそれはジェラシー、嫉妬だ。君は本来、とても素直な人間だ」スピーは、私の目をしばらく見つめた。そして、こう言った、「だから、私は君に、あの森の秘密を教える。あの場所では、過去や未来の人間たちと出会うことがある。レオナルドは、未来から来たんだよ。彼は、君の時代より未来から来た。考えれば分かるよ。例えば、レオナルドの宇宙船のような形の車、あれは、まだ君の時代にないだろう? 私たちは、あの森を『時のない森』と呼んでいる」
 私は、スピーの言う事を理解出来なかった。
 だから、私は言った。
「何を言いたいの、スピー?」
「つまりね、フランチェスカ。君の嫉妬は無意味だ。君は、君に与えられた時代を生きる者。君の時代と、レオナルドの時代の間には、大きな時間的距離がある」と、スピーは答えた。
 しかし、私は怒鳴った「黙ってよ! 願いを叶える約束だよ!」
 沈黙があった。
 スピーはため息をついた、「ふう。もう君と会う事はないだろう、私の仕事はこれで終わるから!」
 スピーは、便器に落ちていった。
 私は、排水口を見た。
 彼は、もう居なかった。





 

 私とマリアンナが、マミーのアパートメントに帰宅すると、マミーは電話中だった。
 マミーは、私たちに気付くと、私たちの方に振り向いた。
 マミーは、受話器をマリアンナに渡した。
「ちょうどよかったわ、マリアンナ。あなたのダディから電話が入ってるの。あなたと大事な話をしたいって」

 しばらく、マリアンナは受話器に耳を付けて、彼女のダディの話をじっと聞いていた。

 そして彼女は、電話を切り、静かに受話器を私のマミーに返した。
 マリアンナは、私を見た。
「フランチェスカ・・・。私、引っ越す事になった。私のダディが、カナダで仕事する事になったから。ダディは、家族を連れて行きたいって。それで、私、あなたと会えなくなるわ・・・」

 私は、黙っていた。








 翌日、マリアンナが乗ったバスが去った。私は、それを見ていた・・・。

 それから、私は、『時のない森』へ行った。
 2時だった。
 岩の上にレオナルドがいた。
 私は背後から、彼に近づいた。
「レオナルド!」
 私は彼を呼んだ。
 彼は振り返った。
「やあ、君か。マリアンナは?」そう彼は尋ねた。
「いないよ!」私は答えた。
 私はレオナルドに歩み寄った。
 どんどんレオナルドに歩み寄った。
 私は、コワい顔だったかもしれない。
 レオナルドは、後ろも見ずに後ずさった。
 後ろは崖だった。

 レオナルドの天地が逆転した。

 私は目を閉じた。
 悲鳴が聴こえた。
 目を開くと、レオナルドの姿がなくなっていた。
 私は青ざめた。
「どうしよう! プッチ、お願い! 今の無かったことにして!」私は叫んだ。

 恐る恐る、私は岩の下を見た。
 レオナルドの姿は無かった。
 静かな湖が広がっていた。

 私は、森の中を全速力で逃げた。







 * * *

 二年以上過ぎた。
 私は一時期、誰にも関わらずに生きたい、と思うようになっていた。しかし、それは不可能な事だと、だんだん気付いていった。時間が必要だ。
 日常で、間接的にも、色々な人たちと関わっていると分かってきた。
 水道、電気、ゴミ処理、私は一人で生きていた訳ではなかった。
 だけど、直接、他人に会う事を、私は避けるようになっていた。
 相変わらずロンドンに住み続けていた。
 十八歳になっていた。
 二〇四号室が、まだ私の部屋だった。
「寄宿学校を、今日、卒業・・・」つぶやきながら私は、ソファに仰向けに寝そべり、宙をぼうっと見ていた。
 私は考えていた、「森のある場所へ行こうかな。そこで暮らそうかな。そうだ、湖水地方へ行こう」

 両親は、湖水地方で生活していた。
 私は、そこでアパートを借りて住もうと思った。





 再び、湖水地方・・・。

 私は、映画好きだったから、映画館で仕事した。両親は、いくらか私の生活の援助をした。











 『時のない森』に行った。二年振りだ。
 そこは、何も変わってなかった。
 どこまで続いてるのか、分からない森・・・。
 私は巨木群生地帯の中を歩いた。
 しばらく行くと、木々のない開けた所があった。そこに、日射しがキラキラ降っていた。私は、初めてその場所を見つけた。
 そこに、テントがポツンと建っていた。
 テントに近寄った。
 そして、入口の布を静かにめくり、隙間から中を覗いた。
 ラテン系の青年が身体を丸めて寝ていた。そして彼の脇にノートがあった。
 彼の頬に、涙が伝っていた。
 私が開けた隙間から、太陽光線が彼を射した。彼は、目を見開いた。そして立ち上がり、私に歩み寄った。
「ごめんなさい」私は謝った。
「謝らなくていいよ」彼は言った。
 私たちは、互いをしばらく見つめたまま、じっとしていた。
「君は、寂しい表情をしているね」彼は言った。
「本当は、あなた自身が寂しさを感じてる。だから私のそういう面がよく見える」私は言い返した。
「うん。きっとそう」と彼。
「人間は色々発見してきたけど、確信的な事は分からないね。今ほど、人々が孤独を感じている時代はなかった、という人もいる」私は言った。
 彼は微笑んだ。
「ボクは技術の進歩に感謝してる。技術に助けられてる。電気系の自動車とかね」
 私は、ハッとした、「エッ。あなた、未来の人?」
「何だって?」彼は、森の秘密を知らないようだった。
 彼は右手を出した、「名を言ってなかったね。マルチェロ、二十六歳」
「私、フランチェスカ」私たちは握手を交した。
 彼は話してくれた、「ボクは創作活動をしてきた。短編映画とかね。真理を探究したかったんだ。時代の変化で、人間を取り巻く環境は変わっていくけど、人間の本質は変わらないと思う。もし出会えるなら、人間は、過去や未来から来た人とも、心の交流が出来るだろうね。そして、葛藤もあるだろうね」
 葛藤・・・。私は二年前を思い出した。
「もう帰る」私は言った。
「ヘンな話したから嫌になった? ごめん」彼は、そう言ったが、それは全く違っていた。私は彼の話をおもしろいと思った。
「マルチェロ・・・。私、過去にとても悪い事をした。それを思い出してた」私が、そう言うと、マルチェロは話した。
「ボクにも、失敗したと感じた事はいくつもある。ボクたちには欠点が沢山ある。失敗したくなくても、失敗になってしまう事もある」
 彼は、ノートの一枚を破り取り、何か書いて私に渡した。
「ボクのアドレス。遊びに来てくれる?」

 私は、湖水地方に越してから、ストゥディオ(一人部屋)を借りて住んでいた。
 ベッドにうつ伏せになって考えていた、「電気系の自動車・・・。マルチェロは未来の人なのね・・・」

 私は、床に転がっていたTVのリモコンを取った。そしてONにした。
 モータースポーツ番組が映った。
「ソーラーカーレース二〇〇五。このイベントでは、太陽光発電の電力で走る自動車のレースを実施してきました!」興奮したレポーターの中継だった、「電気系の自動車は環境保護に最適です。このようなレースで培われた技術が、やがてより良い電池系自動車を生み出すでしょう。それは近い未来です」

 ふと、思った。
「マルチェロは、近い未来からの人だったのかな・・・。だとすると彼は、私と同じ時にも存在してる・・・?」

 私はマルチェロのアドレスを見た。

 マルチェロのアドレスに行った。
 その場所に、古いアパートメントがあった。
 彼の部屋のドアが少し開いていた。中を覗いた。窓が一つ。壁は白。テーブルが真ん中にあり、他に、ベッド、シンク、冷蔵庫、電気調理器、電子レンジがあった。
 電子レンジが、ブーンと音を鳴らしていた。
 奥から、シャワー後の素っ裸のマルチェロが現れた。
 電子レンジが、温め終了のベルを鳴らした。マルチェロは、そこからピザを取り出し、素っ裸で食べ始めた。同時にペットボトルから、グイグイ水を飲んだ。
 そして彼は、テーブルに付いて長い間ぼうっとしていた。

 私は、いつの間にか、部屋の入口のドアにもたれて眠ってしまった。

 私は随分眠っていたみたいだった。
 気が付くと、私の上に人影が落ちていた。
 マルチェロの影だった。
「中から開けようとしたけど、ドアが開かなかった。それで窓から出てみたら、君がドアにもたれて座り込んで寝ていた・・・」マルチェロは言った。 

「ワタシ・・・、フランチェスカ!」私は言った。
 マルチェロは微笑んだ。
 私は彼に聞いた、「あなた、今いくつ?」
「突然どうして?」マルチェロは言った、「二十一」

 私が森で出会ったマルチェロは、五年後から来たマルチェロだった。

 











 ・・・ それから私は、マルチェロと会うようになった。 ・・・







 ここにいくつかのフォトグラフ(写真)がある。

 フォトグラフ#1
 日付け・・・二〇〇五年八月一日。
 教会。結婚式。
 正装のマルチェロとフランチェスカ。
 二人の微笑。

 フォトグラフ#2
 日付け・・・二〇〇六年四月一日。
 病院のベッドの上のフランチェスカ。
 その隣の小ベッドの上のベビー、マルチェロとフランチェスカの息子。
 フォトグラフの中に、サインペンで書き込み。
 『レオナルド・・・ダヴィンチにちなんで、マルチェロが名付けた』

 フォトグラフ#3
 日付け・・・二〇一〇年六月七日。
 牧場の子馬の背中に乗っている幼児に成長した『レオナルド』

 フォトグラフ#4
 日付け・・・二〇一六年八月三日。
 夏の海。
 ボディボードを抱える少年レオナルド。

 フォトグラフ#5
 日付け・・・二〇一九年七月七日。
 ムービーカメラのファインダーを覗くレオナルド。
 カメラの前の友人。
 映画撮影中。
 
 フォトグラフ#6
 日付け・・・二〇二二年四月三日。
 あのポルシェの面影のある、宇宙船のような車のシートに居るレオナルド。
 彼は、まさに、あの十六歳のブラウンヘア・ボーイ、『レオナルド』だ!











 その日、マルチェロは、庭の花壇に水を蒔いていた。
 私は、窓から、庭の様子を見ていた。
 レオナルドが庭に現れた。彼は、犬の散歩から戻ったのだ。
 レオナルドは、ガレージに入ると、彼の宇宙船のような車に乗って出て来た。
 マルチェロが、ドライバーズ・シートのレオナルドに尋ねた、「どっか行くの?」
 レオナルドは答えた。
「昨日、マリアンナって女の子に会ったんだ。彼女かわいいんだ。笑顔がかわいい」
 マルチェロは、¬ただ、「ほお」とだけ言った。
「じゃねっ、ダディ」と言って、レオナルドは再び車を動かしはじめた。マルチェロはレオナルドに手を振った。
 車は走り去った。
  
 私は、とぼとぼ、庭に出た。
「私、自分の子供を消してしまった!」
 私は、マルチェロにそう告白した。
 すると、マルチェロはキョトンとした、「何言ってるの? レオナルドは今、車で出たばかりだよ」
 私は泣き出した。なんとか声を出した、「レオナルドの行き先は、ある森・・・。十五歳の私は、そこで彼と出会った。彼は、私の友人、マリアンナと会いたがっていた。十五の私は、嫉妬して、彼を消してしまった。信じられないような話だけど」
 静かに、マルチェロは言った、「信じるよ・・・。それで、ボクはどうしたらいい?」
「分からない。もう決定された過去なんだもん」私は答えた。

 私を乗せて、マルチェロのバイクは、森へ疾走した。
 森は、流れる緑に見えた。
 
 白い岩が見えてきた。
 誰も、そこに居なかった。
 私は戸惑った、「誰も居ない・・・。誰も居ない・・・。レオナルドも、十五歳の私も、居ない!」
 マルチェロは、木陰にバイクを停めて、辺りを見回し、言った。
「レオナルドは、ボクたちとは違う時間空間に居るんだよ、フランチェスカ! 今の君と過去の君は、出会ってはならない! 時空の矛盾が起きるから!」
 私は、マルチェロの言う事を理解出来なかった。
 さらに、彼は言った。
「時空の矛盾が起きると、三十五歳の君も十五歳の君も、共に消滅してしまうんだよ!」
 辺りで風が静かにそよそよ吹いた。
「フランチェスカ、よく聞いて。神が定めた、この世界の全ての法則は、ボクたち皆を守ってるんだよ。この森の何かの法則が、時空の矛盾を防いでるんだ。時空の矛盾は、宇宙を崩壊させる危険があるから」
 その時マルチェロが言った事は、私にはさっぱりだった。
 私はどうしようもなくなっていた。だからマルチェロに言った、「私たちを守ってるものが、私たちを妨げるなんて!」
 マルチェロは座り込んで、静かに言った、「待ってみよう。何かが起こるかもしれない」
 私も、となりに座った。
 雲が静かに流れていった。
 トゥルルルル・・・・と、突然、私のポケットに入っていた携帯電話が鳴った。
 私は電話に出た。
「ハロー・・・」私の声は涙声になっていた。
 受話器の向こうから、聞き覚えのある声が聴こえた。
「ハロー、フランチェスカ! 私よ!」
 それは、マリアンナの声だった。
「私、マリアンナよ! 私、ロンドンに戻ったの。覚えてる、フランチェスカ? 私たち二人で、トラファルガーの泉に行った事があったでしょ? あの時、私が投げたコイン、泉の中に落ちたわ。だから、また私、ロンドンに戻れるって信じてた」
 私は嗚咽していた。
 マリアンナは「泣いてるの、フランチェスカ?」と優しく私に聞いた。
 私は、複雑な気分になった。そして、言った、「私、取り返しのつかない事した。あなたにもよ」
「何言ってるの? 私はとても幸せよ。ダーリンもいるわ。あなたに、私の分の願い事をあげるわ。まだ私、クーロの名前で願い事をしてないのよ。だから、何でも願えば、一つだけ叶うよ」

 私は、マルチェロに妖精たちの話をした。
 マルチェロは、超常的出来事の連続で、どうしていいか分からないと言い、それからの行動のリーダーシップを私に任せた。
 私は、妖精クーロに願った。
「お願い、クーロ。私とマルチェロを、レオナルドたちが居る、時間空間に連れてって!」
 側の木の上から、声が聴こえた、「フランチェスカ、久しぶりね」
 私たちは、木を見上げた。
 枝にチョコンと座っている、クーロが居た。クーロは言った「でもね、フランチェスカ、あなたはその時間空間に居る、十五のあなたに気付かれてはいけない。出会ってはいけない。そうなったら、あなたは消滅してしまう。その条件の中で、レオナルドを助けなさい!」
 私とマルチェロは頷いた。
 マルチェロは私に忠告した、「フランチェスカ、君の表情は険しくなってる。リラックスしてやろう、お互いに」

 私の考えで、マルチェロは、大岩の下に待機した。
 
 レオナルドが落ちて来た!
 マルチェロは、バイクフードを使って、レオナルドを受け止めたが、バランスを崩して二人とも湖に落ちた。
 私は湖に飛び込んだ。
「フランチェスカ、君が泳ぐの見た事ないよ!」マルチェロは叫んだ。













+++++ 私たちは、イカダに助けられた。 +++++







 イカダを漕いでいたのは、妖精たちだった。
 クーロは笑いながら言った。
「人間は面白いね。森に来る人間を見るのは楽しい」












 レオナルドは失神していた。
 私とマルチェロは、レオナルドを岸辺に寝かせ、その場を去った。













 私は、マルチェロと二人で、湖の周囲を歩いた。
 マルチェロは、歩きながら、いろんな話をしてくれた。
 私も、彼にいろんな話をした。
「もう妖精たちと会う事はないかしら?」
「ないと思う。彼らも、人間に会わないようにしてるみたいだった」
「私たちの記憶しかなくなるのね」
「全てが夢だったとしたら・・・?」
「私たち、同じ夢を見ていたって事?」
「かもね!」













                     ・終・    
 
 

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