ロンドン・・・、そこは、多くの物が入り乱れる街だった。それは、良い意味でも悪い意味でも、そうであった。しかし、これだけ多くの物品、情報、サブカルチャー、政治が入り乱れる街でありながら、1つの落ち着きを持っていた。私は、イタリアの地方から出てきた者だったので、最初にロンドンに到着した時には、その巨大さと複雑な要素が絡み合う構造に圧倒されてしまった。私は、私自身の思考を大きく変えなければ、そこに適応出来ないと、分かった。
 イタリアの田舎のワイナリーのシンプルな風景とは、ここは全く違うのだ。程なく、私は、ICAにも割と近い、レスタースクエア辺りが、ロンドンではお気に入りの場所の1つになっていた。レスタースクエアの映画館は、造りも綺麗で、時々利用した。そこから歩いて行ける所に、チャイナタウンがあり、安くて美味しい中華料理を出す店も知った。私をはじめ、多くの西洋人は、中国と韓国と日本の区別ははっきりしないのだが、ロンドンのチャイナタウンにも、中華料理以外に、日本料理の店があった。私は、いつの間にか、そこの常連客になっていた。そのころ、日本のビジネスマンは、アグレッシブに英国、米国をはじめ、世界中を営業に動いていた。私は、その日本料理店のテーブルで、多くのジャパニーズ・ビジネスマンと、ウエスタン・バイヤー達の商談を小耳に聞いていた。はじめは、実は、さっぱり、日本語が理解出来なかったが、彼らのアグレッシブな商売魂と、その仕草を、となりのテーブルから見ながら楽しんでいたのだ。それは、実に楽しいエンターテインメントだった。日本のビジネスマンは、商売=エンターテインメントであると教えてくれた。私は、そのように、滞在当初のロンドンで時を過ごしたのだ。

 あれから、半年が経過した。
 私は、ほとんど、日々、同様なタイムテーブルに於いて活動していたが、相変らず、チャイナタウンの日本料理店をちょくちょく出入りしていた。イタリアのワイナリーに居た頃は、ほとんど知らなかった日本のカルチャーを、間接的な方法で、自分のものにしていた。その日本料理店に出入りする内に、ロンドンにあるセントポール寺院の近くに、ヤオハンという日本雑貨店がある事を知った。私は、サブウェイに乗り、セントポール寺院駅に行くようになった。ロンドンでは、サブウェイの事を、アンダーグラウンドとか、チューブとか言うのが、何だか面白かった。ヤオハンでは、当時、日本のサブカルチャーであったマンガ雑誌が売られていたので、それを購入するようになった。SHONEN JUMPとか言う雑誌だったと思う。私は、それによって、日本語の理解をさらに深めることが出来た。そして、それからも、チャイナタウンの日本料理店で、しょっちゅうジャパニーズ・ビジネスマン達とウエスタン・バイヤー達の商談を聞いていたので、日本語を半年の内にかなり理解出来るぐらいになっていた。こういう経緯で、私は、日本語を覚えたのである。
 
 ロンドンに出てきた事から、そのように、自分の可能性を広げることが出来た事も、私にとっての事実であったが、同時に、この雑然とした大都市の中で、その要素を上手く自分の中で消化し切れず、吐き気を催す事があったのも、また事実である。特に、私のように、田舎のシンプルな世界から、このように大都市に出てきた者は、同様の感覚を覚えるだろう。まず、自分の立ち位置が分からなくなってしまう、という感覚が起こる。多くの要素や可能性が豊富にあるのが、ロンドンであり、それは、比較的民主的な可能性を提示しながら運営されている、という事は、非常に恵まれているのである。その中で、自分の立ち位置を見つける事は、時間を要する。幼い時からのロンドンっ子なら、その立ち位置が、自ずと分かり、成人になる頃には、自らのポジショニングも完成されているかもしれない。しかし、私は、そのポジショニングを、彼らより短期間で獲得せねばならない、という事が分かった。私は、前述の倉庫での研究に於いて、ポジショニング獲得のための考察もしていた。考えを一般化するためには、論理が、一般的合理性、人間性を伴なっていなければ難しい。しかし、雑然としたロンドンで、多くの新しい経験をしながら、それらを統合し、自分の中で消化してゆくという作業は、想像以上に頭を使い、必要以上に哲学的になってしまう場合も多かった。ともあれ、こうした経験は、私自身のために良いことだと、いつも良い方向に考えた。フランス人の作家ベルヌは、彼自身の著作の中で、良い哲学者は、物事をいつも良い方向に考える、と言っている。私は、ベルヌの人生観が好きだった。
 とにかく、良くも悪くも、この雑然としたロンドンという異国の大都市の中で、19歳を迎えた事は、私にとって、大きな影響があったと考えている。
 ロンドンは、ヨーロッパの中にある1つの国だが、島国であるためか、他のヨーロッパの国々と、少し距離を置いているような所もあった。そこに私は、1年半程居たことになる。それは、1990年代の前半だった。ロンドンは古臭い所もあったが、底知れぬ力も秘めている街だった。そのため、あらゆるインターナショナル・パワーを持つ団体が、多くの人材を、ここに派遣している事もまた、常識となっていた。
 私は、相も変わらず、「人間とは何か」とか、それこそ答えのない古臭い研究を文学に於いて実行していた。その間、ロンドン大学を拠点として、ヨーロッパ中の図書館を巡り、古文書の文献を漁っていた。これまで、人間について、何が論じられて来たか、を知るためだった。そして、それは、多くの場合、宗教とリンクしていた。そのため、私は、実際のところ、レバノンや、その周辺地域、そして死海などに於いての、ある種の発掘調査をしたい、と考えるようになっていた。しかしながら、私には、先立つ物が多くはなかった。いや、通常の生活に全く困窮する事はなかったし、文献の上で研究を深めて行くには、十分に事足りる資金はあったのだ。多くの発掘調査というものは、実は、現場ではなく、文献、つまり、図書館に於いて行われるのである。

 先程も述べたような、ロンドンに集まっていた、インターナショナル・パワーを持つ団体(ある時は企業体)が、その時、私の人生の中の大きなポイントとなった。
 私は、その日も、例のロンドン・チャイナタウンの日本料理店に居たのだが、
私の日本語も、かなりの腕前になっていたものだから、隣のテーブルに居た2人の商談をかなり正確に聞くことが出来た。1人は、日本企業の人間で、もう1人は、米国カリフォルニア州に拠点を置く企業の人間だった。2人の会話は、英語と日本語が混じって進んでいた。どうやら、そのカリフォルニアに拠点を置く企業は、宇宙産業に関係する開発を行っているようだった。はじめ、私は、単なるエンターテインメントとして、その話を聞きながら、スシを食べていたため、その部分は正確に聞き取れなかったのだが、ロスチャイルド家の資金提供も受けているようにも聞こえた。この点については、私のヒアリングに自信が持てない。まあ、そういう事は、所詮、私などには何の関係も無い話なのだ。その企業名は、アイフラワーというらしかった。一方の日本企業の方は、どうやら、何か、宇宙空間で稼動する空間静止ユニットの内部構造と、ソフトウェア・アーキテクチャーを開発しているようだった。2人の会話は、そのマシンの外観デザインについての話だった。どうやら、アイフラワー社は、マシンの外観に、かなりのこだわりを持っているようで、デザインにおいては、世界に冠たるイタリアのトップデザイナーに依頼したい考えのようであった。
 この辺で、彼らと私の接点が出来てきたのである。

 アイフラワー社が1997年に打ち上げを予定していた、宇宙空間静止型ユニットに関して、私は、当時、あまり情報を与えられなかった。それは、当然の事である。そのユニットは、非常に珍しい、尚且つ、最先端の、つまり、ステート・オブ・ジ・アートなユニットだったからである。ともあれ、私は、今までの経緯から、英語、日本語、もちろんイタリア語を、ほぼ、完璧に喋れたし、使いこなせたので、以下に叙述するジョブを与えられた。つまり、それは、通訳である。日本料理店で知り合った、アイフラワー社の人間は、このプロジェクトに関係する人間は、メイン・ユニット(彼は、プロジェクトの中枢をそう呼んだ)以外は、アメリカ合衆国と関わりを何も持たない人間で、その上、英語と日本語とイタリア語に長けている事を、その採用条件にしていた。しかも、プロジェクトそのものが、大規模であったため、メイン・ユニット以外の人事に、長い時間がかけられなかった。また、私が、そのプロジェクト(といっても、私が通訳に関われるのは、ユニット外観デザイン関連に関わる業務のディヴィジョンのみ)の通訳係に選ばれた理由は、私が宇宙産業・宇宙工学に使用するジャーゴン(専門用語)をかなり理解していたからでもある。この点については、私は、自らのSF映画好きに感謝する。私は、イオン推進、月面着陸、バンアレン帯、GPS、VTOL、オービター、ゼロ・グラヴィティ訓練、スペースラブ、ニュークリア・フュージョン・システム・・・など、多くの宇宙開発ナレッジを、そこから得たからだ。
 とりあえず、私は、そのジョブ・オファーを、その場でOKした。その後、1時間ほど、彼ら、アイフラワー社の事業関連のインターナショナル・ビジネスマン達と談笑したり、英国文化について論じたりした。我々は、皆、英国出身ではなかったので、かえって、客観的に英国文化を見て、それを楽しんでいたのであった。
 我々の見解では、映画はアメリカ映画の方が面白い、しかし、音楽(特にロック)は、重層構造の英国が勝ちだ、と勝手に決めて、楽しんだ。他の英国文化では、食文化に於いて、「フィッシュ&チップス」のマニアックな味の楽しみ、それも、話題だった。(いや、フィッシュ&チップスは、英国では日常の食文化なのだが、我々オーバーシーの人間にとっては、マニアックであったのだ)
 小一時間、そんな時を過ごした後、私は、私のロンドンでの連絡先を、彼らに正確に伝えて、そのチャイナタウンの日本料理店を出た。私は、帰り道、レスタースクエアを通ると、なんとなく、スクエアのベンチに腰掛け、ポケットに入れていたノベルの続きを読み始め、しばらく過ごした。ふと気づくと、レスタースクエアの映画館で、スティーブン・スピルバーグ監督の新作『フック』を上映していた事に気づいた。私は、スピルバーグ監督の映画作品を幼い時から観ていたので、新作が上映される度に、胸躍らせた。もちろん、その日も、その映画館に入ってしまった。
 マクミラン・ホールに戻ると、香港からの留学生、白玉が、ホールの食堂で、映画雑誌『EMPIRE』を読み耽っている様子が見えた。彼は、私が映画を結構よく観ている事を知っていたので、私に話しかけた。「よお、サルバトーレ・メイヨー、イタリアの、もてもて男、映画でも、一緒に行かないか?」と、白玉は訊いてきた。アジア人の中には、イタリア人というと、「もてもて男」だと考えている人間が結構居るのだが、私は、どちらかといえば、内向的なイタリア男だった。「よお、白玉。で、今、どんなの、やっているの? 今、フック観てきたとこだけどね」と、私は答えた。
「そうだなあ、フックも、まあ、話題性としては、悪くないだろうけど、どっちかっていうと、僕は・・・そうだなあ、今上映している中では・・・」そう言いながら、白玉は、EMPIREをぱらぱらとめくっていた。
「・・・裸のランチとか、UNTIL THE END OF THE WORLDが、観たいな」
彼はそう言って、私にウインクした。ロンドン大学の学生達は、ARTISTICで、COOLな映画を皆観たがった。(イタリアの私の住んでいた地方では、比較的シンプルで、アクション満載のアメリカ映画が、人気があった)
まあ、私は、白玉と共に、ドックランドの映画館に『裸のランチ』を観に行った。私は、その映画を見ながら、あまり映画に集中できず、アイフラワー社の仕事の事ばかり考えていた。まあ、それはそれで、面白くなりそうだった。
しかし、アイフラワー社の仕事は、予想していたより突然スタートした。私は、まだ、ロンドン大学のターム(学期)の途中だったので、焦ってしまった。アメリカ大陸とロンドンを行き来せねばならなくなったからだ。それから、とても忙しい日々がしばらく続いた。旅費は全てアイフラワー社が負担すると言うのだが、体力がついていくか、それが問題だった。
 私は、恋人(イタリアのトスカーナで出会った)にも、両親にも、姉妹にも、兄弟にも、誰にも言わず、突然メキシコに旅立つ事になってしまった。ご存知の通り、アイフラワー社は、アメリカ合衆国・カリフォルニア州、正確に言えば、サンフランシスコ市・ノースビーチ地域に、その本拠地を構えていたのだが、『アイフラワー・ユニット』(それが、その新規開発メカニカル・オービターの名前だ)の生産ドックは、メキシコにあったのだ。メキシコの古代遺跡ウシュマルの地下、240メートルの所に、ユニット製造のドック・工場、そしてコントロールセンターが置かれているというのだった。私は、意図せず、とんでもない開発計画の一部に参加してしまったのだった。

 アイフラワー社のパワーは、信じられない程であった。私は、ロンドン大学に在籍しながら、(さらに、文学メジャーを専攻し、クラスに顔を出しながら)かなりの頻度で、メキシコまで往来する事をこなしたのだが、やはり、多くのLIMITがあり、そのままでは、ロンドン大学での出席日数が規定を満たさなくなる可能性が出てきた。しかし、アイフラワー社は、どういうマジックを使ったのか、私は、出席日数が足りなくても、エッセイを出し、規定のQUIZEをパスすれば、そのタームをクリアする事が許可されたのだった。
 今から、私の最初の『アイフラワー・ユニット・ドック』への渡航について、記そう。それは、英国らしい、少し小雨の降る日の朝だった。マクミラン・ホールの、私のROOMの、ドアの下から、オレンジのエンベロープが、すり込まれた。ドアを開けて、コリドーを眺めたが、エンベロープをすり込ませた人物は、もう見当たらなかった。そのエンベロープを、愛用のインドネシア民芸のペーパーカッターでOPENすると、いくつかのフライト・クーポンと、MAIL、そして、2週間程生活が出来そうなぐらいの現金が入っていた。MAILを読むと、ヒースロー空港に、既に用意されているダッソー・アビアシオンのファルコン50があるので、11時AMに、ヒースローの臨時用滑走路に着くように、という内容だった。手が込んでいるが、それは、その『アイフラワー・ユニット』の開発が、トップシークレットである、という事を窺わせた。私は、即座に、出発した。現金が入っていたので、移動しながら、必要な物品、衣類等は購入可能であると考えたのだ。しかも、あまり時間の余裕がなかった。マクミラン・ホールを出る時に、白玉とすれ違ったが、彼は「ワオ、急いでいるね。デートか」と相変わらずの言葉を私にかけた。私は、彼の、そうした独特のライトな言葉が結構好きだった。私は、少し彼に笑いかけて去った。
 マクミラン・ホールを出ると、ロンドンの下町の、やや乾いたドライな雰囲気のストリートがあるのだが、ちょっと空腹を覚えた私は、ホールの向かいのコーナーにあった雑貨SHOPで、ショートブレッドを購入し、ヒースロー空港までのミニキャブの中で食べた。 私は、その頃、まだそれ程ロンドンという街に慣れていなかったから、実際、ヒースローがロンドンのどの辺りに位置しているのか、よく知らなかった。英国ロンドンからの国際線と言えば、まあ、ヒースローがCENTREだったのだ。ミニキャブのドライバーに「ヒースローへ」と告げると、私は、乗り込み、移る外の景色を見ていた。ロンドンは、割と渋滞も多い。キャブドライバーは、紙袋から、彼のブレックファストを取り出して、もくもく食べていた。それは、良い匂いがした。多分、シンガポール・フライド・ヌードルだ。私は、そっちの方が食べたくなってしまったが、しょうがない、ショートブレッドをボリボリと食べながら、英国らしい牧草地の緑の美しさを眺めていた。ヒースローの近くには、そういった景色も結構ある。
 ヒースローの臨時用滑走路には、確かに、ファルコン50ビジネスジェットが泊まっていた。私は、それでまず、英国を出て、フランス・パリのシャルル・ドゴール空港に行くのだそうだ。手の込んだ移動経路だが、まあ、それも面白かった。シャルル・ドゴール空港にはすぐに到着した。飛行機でドーバーを越えるのは、すぐなのだ。シャルル・ドゴール空港からは、フライト・クーポンを利用した一般路線だった。パリ発のトランス・ワールド航空(TWA・・・現在はもうない)のフライトで、私は、人生で最初のアメリカ大陸の地を踏んだのだった。最初の土地は、合衆国のフロリダ州・マイアミ市だった。(ここで、私は、ふと思い出したのだが、確かに、私には、アメリカに親類はいない、しかし、関連性と言えば、1つあった。私は、イタリアでローマンカソリックのハイスクールに居たのだが、その頃のハイスクールの聖堂に務められていた神父が、カリフォルニア州の1つのメイジャー・シティであるサンフランシスコ(SF)の、ノースビーチに位置するカソリックチャーチに赴任していた。  Saint Peter and Paul Churchという所だったと思う。まあ、マイアミとは、全く反対の位置にあるが)
 マイアミ国際空港には、ある人物が迎えに来る事になっていた。その人物は、マイアミ市から近いコーラルゲーブルズに位置するUNIVERSITY OF MIAMIのドクターであった。ドクター・イニス、そう、彼の名は、ドクター・イニス。知る人は知る、その世界のビッグネームだったのだが、私は、あまり知らなかった。私は、イタリアの田舎の小さな社会で育ったので、世界の大きな動きに関わるインスティテューションとは、全く些細な繋がりも当然無かった訳である。ドクター・イニスとの最初の対面は、このような感じであった。
 私が、トランス・ワールドの飛行機を降りて、コンコースを通り、一般ゲートから外に出ると、そこで、税関の男(彼は警備員の服装だった)に呼び止められ、出口の脇にあった白いコリドーの方へ連れて行かれた。私は、内心ちょっと動揺していた。白いコリドーの奥に小さなホワイトウォールの部屋があった。そこは、どうやら、税関の取調室のようだった。「そこで、ちょっと待っていて」、そう税関の男は言った。しばらく待っている間、フロリダオレンジのトロピカーナのJUICEや、フロリダ・ラテン地域で人気があるらしいピニャコラーダ等が出てきた。私は、それらを飲みながら、しばらく待っていた。
 ドクター・イニスがやって来た。彼は、当時UNIVERSITY OF MIAMIのデパートメント・オブ・インターナショナル・スタディーズで教鞭を執っていた。私は、その分野に於いて、前述したように知識が無かった。その事を察知してか、ドクター・イニスは、そのデパートメントの主旨となるミッション・ステートメントの載ったカタログを私に渡した。
 カタログによれば、国際学(インターナショナル・スタディーズ)の学部は、その中心となる目的として、
University of Miami(マイアミ大学)のその学部生と大学院生に、しっかりした社会科学、とくに政治学と経済学を講義してゆき、彼らの、別の角度からも見た世界的なシステムの、創造的な開拓を計画する先見性を養う、とある。そして、その学部の修士課程プログラムは、生徒たちに国際関連業務、国際ビジネス、貿易、そしてファイナンス事業の専門職に精通することを準備させ、同時に、政府や非政府機関そして国際公務や研究施設での仕事のためのナレッジを会得させることに力を注いでいる。これが、その主旨だ・・・・・。そして、ドクター・イニスのプロフェッションなのだ。
 つまり、その『アイフラワー・ユニット』のコンストラクションは、世界の経済の動きや、多くの国益、産業に影響を与える可能性があるため、開発されても、長ければ30年ほどは、シークレット事項になる(可能性がある)、ゆえに、それに関わる(たとえ、ほとんどを知らされていないとしても)従業者は、CIAレベルの機密コンフィデンシャルを宣誓しなければならず、(ゆえに、この記録もLIMITが存在しているのだが)その私に対する教育係が、そのドクター・イニスの役割だったのだ。彼は、USAの人間らしく、(私のようなヨーロッパ・オリジンの人間は、USAの人間をある種のステレオタイプに見る事があるのだが)POPな男であった。彼のタイは、UNIVERSITY OF MIAMIのマスコット・キャラクターであるアヒルのアイビスの柄だったし、彼の重要書類の入ったバッグも、その大学のスクールカラーであったオレンジ&グリーン・デザインの異様にPOPな出で立ちであったのだ。
 私は、USAのジェットヘリ・アパッチに彼と共に搭乗すると、アパッチの中で、ドクター・イニスから、アイフラワー社の事業に於いての情報に関する対応、ドックでの振舞い方などを教えられた。(振る舞いについては、USA企業の特性を反映し、フランクな物であり、私は、タイをすることはなかった)アパッチは、ジェットヘリだったので、マイアミからメキシコのメリダ(ウシュマル近郊のエアポート)まで、そう時間はかからなかった。
 そこから陸路でウシュマルに着いたのは、夜だった。ウシュマルの夜空は美しかった。ウシュマル遺跡を見下ろす連山は、夜の闇で真っ黒に連なり、後方にそびえ、その山頂辺りには雲がかかっていた。
 その入口は、遺跡の目立たない所にあったが、地下240メートルに達するエレベーターシステムチューブ(EV−ROOMとも呼ばれていた)が、我々を『アイフラワー・ユニット・ドック』へと運ぶEVの地上ステーションとなっていた。(エレベーターシステムチューブは、かなりの大型で、最近見たJAPANドキュメンタリーの「首都圏外郭放水路」と似ていた。この建設には、秘密裏に日本企業が関わっているらしかった)エレベーターは、約5分で、地下240メートルに達した。そこには、分厚い金属製の巨大なドアがあった。ドアには、大きく『AUD』(おそらく、AIFLOORE UNIT DOCKのイニシャル)と書かれていた。AUDのドアがゆっくり開いた・・・。アイフラワー社のCEOが、私を迎えてくれた。彼は、7歳になる女の子のお孫さんを連れていた。その向こうには、ユニットの内部機構が装甲なしのむき出しで、見えていた・・・。
 
 それは、1992年頃の事だったかなあ。私は、多くの驚異的体験を非常な密度で経験・体験してしまったので、どうも、どれが何時起きた事だったか、ハッキリしなくなっている。
たしか、その時、アイフラワー社のCEOは、52歳だった、と聞いた。7歳の、お嬢さんの名前は、モアーナ・アイフラワー。
 私は、アイフラワー社のCEO、ミスター・アイフラワーに快く迎えられた。
「サルバトーレ・メイヨー君、会えてうれしいよ。君は、英語、日本語、イタリア語に精通しているそうだね。我社の軌道静止ユニットの外観デザインチームは、イタリアンのインコーポレイテッドなのだが、君が通訳をしてくれると聞いてうれしく思っていますよ」そう言う、彼は蝶ネクタイのお洒落な紳士であった。

 私の通訳の仕事は、日々、進んでいった。アイフラワー・ユニットがどんな機能を持つ、軌道静止ユニットなのか、全く私は分からなかったのだが、外観デザインは、内部構造の理解とは、ほとんど関係無かった。

 しばらくして、アイフラワー・ユニットに関する仕事の第一期目が、終了した。イタリアンのインコーポレイテッドが完成させたデザインは、美しかった。

 私は、チチェン・イツァの遺跡を見たり、本場メキシコのタコスを食べたり、カンクンの青い海を満喫したりして、しばし過ごした。私にとって、そうしたトロピカルな世界で過ごす事は、人生初であった。
 その後、いまや、古巣となっているロンドンに戻った。恋人が、マクミラン・ホールにやってきた。彼女は、トスカーナの女性だ。彼女の一族は、イタリアの地方の銀行家一族であったので、ある意味、どこか、浪費家でもあった。特に、ファッションには、よく浪費していた。彼女の、当時のお気に入りのブランドはKOOKAIだった。私は、よく、彼女のショッピングにお供した。彼女は、料理は上手かった。イタリア風の肉料理が得意だったので、私は、それを美味しく味わう事が出来た。私は、パスタ料理が得意であったので、2人で、パスタ&お肉、そしてサラダをつくって、マクミランの連中に振舞う事もあった。彼女は、トスカーナのファッション・スクールに通っていたので、我々は遠距離LOVEだった。
 1993年の秋のセメスターから、私は、1年程、UNIVERSITY OF MIAMIに通うことになった。当時の私の、勉学の本拠地は、それでもロンドン大学であったが、UNIVERSITY OF MIAMIで履修したUNITSをロンドン大学のUNITSに変換する事が可能になったのである。こうした多くの手続き全て、アイフラワー社が代行で行ってくれていた。私は、1年ほど、UNIVERSITY OF MIAMIのピアソン寮に滞在した。これが、アイフラワー社にも都合が良かったのである。私は、そこから、用件があれば、ちょくちょくメキシコ・ウシュマル等に出かけられたからである。その間、どうしてもヨーロッパの方で、いくつかのレクチャーを聴かなければならない時は、ロンドンに戻った。マイアミとロンドンの2都市は、かなりアトモスフィアが異なるのだが、私は、頭の切り替えスイッチを上手く使い、適応した。非常に若かったのである。若い、という事は、適応力が大きいのだ。こうしたUSA滞在の中で、USAのいくつかの都市を見ることも出来た。カリフォルニア州は、アイフラワーのブレイン的なヘッドクオーターズが存在していたので、何度もお世話になった。しかも、私のオリジンであるイタリア人が多く暮らすシスコのNORTHBEACHも存在しているから、イタリア人の面倒見の良い性質に甘え、いくつかのHOMEに滞在出来た。
 アイフラワー・ユニットの第二期プロダクション・タームも無事に終了したので、ほぼ、私のアイフラワーでのジョブは、もう無い、私は、それでも、アイフラワー社の作っていた、ある種のサテライト(?)が、何の目的であったのか、知らされなかった。それは、1999年頃、なんらかの方法で打ち上げられ、地球の何処かの軌道にあるはずだ。

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