あれから、26時間後、私は、地球の衛星軌道上に待機していた、長距離宇宙船「アイフラワー・シップ」に居た・・・・・・・・・・。
(AIFLOORE SHIP:船籍THE UNITED STATES)

 この深遠の宇宙空間に居ると、それまでの記憶など、どうでもよくなる。

 ここには、時間すら存在しないかのように、静かなる空間の広がりがある・・・・・。

 これまで、私が、記載してきた、私の記憶・・・、イタリアの地方からロンドンにやってきて、その後、このような宇宙空間に来てしまったという旅のジャーナル・・・、それは、いくつか、記憶の間違いから生じる誤りも含んでいると思う。

 しかし、そのような小さなことなど、ここでは、どうでもよくなってしまうのだ。

 ロンドンのニューカマーだった私だが、ここでは、ロンドンの正確な位置すら、なんの意味もなくなってしまうのだから・・・・・。

 船室のモニターに、ヴィデオ解説で、アイフラワーのコーポレート事業紹介が映っていた。
 AIFLOORE CORPORATION SPACE SCIENCE DIVISION has a moon base for
 their space trips.
 Some people always there and the moon base station is working great
 for their researches.

 
 さて、私は、地球衛星軌道に静止していたAIFLOORE号に2ヶ月ほど滞在した。これは、AIFLOORE社に、なりゆきで入社してしまった私だったが、2005年当時から動いていたAIFLOOREの、なにやら、考古学的PROJETに参加するためだった。
 私が登用された理由は、そこにあったのだ。私は、研究のために、おおくの世界遺産(THE WORLD HERITAGE)を調査していたし、そのファイリングも完成していた。実際に現地調査したANCIENT CULTURE PLACEも沢山あったが、ライブラリーの調査のみでとどまっていたものも多かった。しかしながら、考古学調査や、埋蔵金発掘、海底の沈没船の発見の多くは、じつは、そのほとんどの時間が、ライブラリーで費やされるのである・・。
 私は、前述の奇妙な事件(AIFLOORE号によって発見された遙か彼方の惑星QXQの巨大生物と、地球の死海(THE DEAD SEA)のほとりの壁画に描かれた怪物が、おなじであったという)に関わるために、AIFLOORE号について、多くのことに慣れねばならないのだ。
 前述のとおり、AIFLOORE号は、基本的に快適に、遠方の宇宙まで旅することが出来る、ワームホール発生装置を装備したスペース・クルーザーだが、その中での生活に慣れるためには、2ヶ月の訓練が必要だった。
 無重力空間に寝るというだけでも、はじめは困難であった。なんだか、意識だけが空間をただよっているような、そんな気持ちになったものだ。それから、私は、モンゴル系の乳酸菌飲料が好きだったのだが、宇宙空間で乳酸菌を飲むことは出来なかったので、ちょっとさびしかった。

 2ヶ月の訓練滞在期間を終了すると、私は、一度、地上に下ろされることになった。それは、地上の世界遺産について、文明のクロスカルチャーについて、いくつかの大規模な地上調査のスタッフの1人にならねばならなかったからだ。

 まず、もっとも、重要とされる死海の遺跡へ向かうことになった。
 その後、エジプトや、ジャポンのバンド・クルトゥーレに向かう。
 

 AIFLOORE号での2ヶ月は、いいものだった。私に与えられたROOMは、2M×3Mくらいの小さな部屋であった。

 私は、そこで、必要なナレッジで、まだ私が獲得していなかったものを学習しなければならなかった。

 基本的に、私は、人文学の世界に身をおいていたので、その方面の書物は、多くの人より読書してきていたと思う。わたしは、当然のことながら、シェイクスピアの全作品を読破して、そこにある意味について多くのジーシスを書いていたし、フランス文学を中心とした人間・そのヒューマニティ・合理のあり方・調和(ハーモニー)哲学・社会学を自分のものとしていた。
 しかし、今回は、これらに加え、多くの先端の宇宙工学や、理論、サイエンスジャーゴンなど、スペース・エンジニアリングや理論物理学の知識をある程度、頭に入れなければならなかったし、AIFLOORE号のコンピュータアシストを使用した操縦方法をマスターしておくことをスタッフに望まれていた。
 もちろん、基本的に私は、パイロットではないので、操縦をしないが、「IN CASE」として、操縦知識は獲得することが求められたのだ。
 それは、はじめてあつかうコンソールで、多くのパネルは、80CM×2MのコントロールDESKに、操縦コントローラーと、操縦アシストCOMPUTERインターフェイスも、うまくまとまったものだったが、使うとなると、緊張した。
 なんども、練習をしながら、衛星軌道付近を、イオン推進で移動するプラクティスを行った。
 ワームホール発生装置は、エナジー消費が多いので、練習では使用しない。
 宇宙科学のナレッジ学習は、難解ではあったが、いろいろ知ることになった。

 宇宙とは、永遠に広がり続ける空間らしい・・。
 ダークエネルギーが、そのキーとなる。
 ・・・というような宇宙の一般知識を学習するのは、かえって、哲学的に自らを思考することを可能にする。

 そうだ、それに、宇宙では、我々の筋肉がおちてしまうので、一定の運動も欠かせない。そして、それは、精神的にもよい。私は、フレンチ・スタイルのトレーニングを2ヶ月欠かさなかった。

 カルロス・ホンコン先生のトレーニングがよい。

 宇宙での生活を思い出すと、なかなか、このように充実していた・・。

 さて、やがて、私は、死海へと向かう飛行機に乗る。


 2005年・8月1日。

 3:00PM---

”The Plane is approaching THE DEAD SEA”

 機内コンピュータGPS液晶パネルに、そう表示された。

 私、サルバトーレ・メイヨー、・・・ロンドンを離れて、かなり時が経った。私は、いつか、あの、ふるめかしさと、新しさがクロスする街、LONDONへ戻る日はくるのだろうか、・・・そんな気になっていた。

 とにかく、今の私は、流浪の者だ・・・・・。

 死海は、目前だった・・・・・・・・・・。


 死海のほとりまでのフライトは、よいものだった。

 ハワードH財団がリラックス感覚の高いPINKY−VTOLを用意してくれていたから、空の長旅も、楽しいものとなったからだ。

 空飛ぶマンションといった感じのペントハウス・エアプレーンだったのだ。

 基本的に、私は、その機の中で、自由に歩き回ったり、休んだり、さらに、調理も好きなように出来た。

 その当時は、2005年の夏であった。比較的暑い夏だった。機のウインドウから空を見下ろすと、PINKY−VTOLは、大積乱雲の上空をゆっくり飛んでいた。

 私は、到着までの(世界のいくつかの場所から、その権威を連れてくるため、時間を要したのだが、)15時間あまりを悠々自適に過ごした。

 ハワードH財団のフライト・ケイタリングは素晴らしく、給油も、空中給油が当たり前だったが、さらに、どんな要望も、なぜか、叶うのだ。
 私は、機の中で朝を迎えたが、突然、ドライカレーを食べたくなり、機のケイタリング・スタッフに申し出た。 その用意もすでに機のなかにあった。さらに、私、サルバトーレ・メイヨーは、「食の国」イタリアの血筋。やはり、私自身が調理したい。それも、申し出、聞き入れられた。私は、悠々自適にドライカレーを調理し、食べ、その後、機内で、世界のオーパーツについての知識を得るために、比較的簡単な書物を読書した。

 やがて、時間が経過した。次の食事の時間だった・・。
 私は、ロンドンで日本食を覚え、そのせいで、時々、風流な日本食がたべたくなる。
 その日、私は、あの風流な「あじのひらき」をケイタリング・スタッフにたのんだ。

 それも、不備なく出現した。

 「あじのひらき」を「和風PASTA」でいただく。
 そして、オーパーツの学習・・・・・。

 そのように、私の死海への機の中の時間は過ぎたのだ。
 PINKY−VTOLの空調も快適に整えられていたので、しばし、眠ることも出来た。いいねむりだった・・・・・・・・・・。

 さて、機は、基本構造がVTOL式なので、滑走路を必要とせず、ランディングすることが出来た。

 しかし、実際の目的地からは、すこし離れたところに、機は着陸した。

 そこからは、歩きだ。

 数名の考古学オーパーツ研究チームが、荒れた道をかきわけて、めざすところへと進んでいった。私の胸は高鳴っていた。

 ***
 ***

 いよいよ、その「壁画」が姿を現したのだった。

 惑星QXQに行った探査ロボットが見た宇宙の果てのモンスター・・・。

 その壁画が、なんと、死海のほとりに存在している!

 PELDOLATH・・・壁画は、とつぜん現れた付近の老人から、そう呼ばれた。

 ペルドゥラス・・・・・・・・・・?


 死海沿岸でPELDOLATHの壁画を見てから、ある種のショックを受けた私、サルバトーレ・メイヨーは、その日、ちょっと考え事をするために、HOTELに戻った。
 ここは、アラビックな文化の影響も多い地域である。HOTELは、独特なデコレーションや、独特なサウンドに被われていた。
 私は、西ヨーロッパ地域を自らのルーツとしているが、そこには、イングランド、フランス、ベルギー、イタリア、ネザーランズ・・・など、それぞれの文化圏がある。それらは、いろいろな点で、異なる部分が沢山あるが、アラビックの影響を大きく受けた土地にやってくると、それらはたいした違いでもないと分かった。
 私は、ここで、あきらかに、カルチャーショックを受けていたのだ。
 しかし、それは、否定的なショックではない。
 私は、むしろ、心のどこかで、カルチャーショックを楽しんでいたのだ。
 しかし、大きな変化を体験することは、楽しいことだとしても、疲れも大きい。
 私は、HOTELの個室で、隊からはなれ、1人、考え事をしていた。
 この地域は、大昔からの伝説の宝庫でもあるのだ。

 ソドムとゴモラも、この辺りで栄え、滅びた。

*尚、ソドムとゴモラが滅びた本当の理由は、そこに暴力が蔓延したからである、と研究されている。暴力の蔓延する所には、祝福はない。

 しばし、私、サルバトーレ・メイヨーは、これまでライブラリーで読んできた多くの書物と、研究してきた伝説の結合点をさがしていた・・・・、ベッドの上で。

 隊の人間がノックした。
「ミスター・サルバトーレ・メイヨー、 ARE YOU ALRIGHT? (大丈夫ですか)」

 私は、その日、いくつか大きなカルチャーショックを受けて疲れていたため(それは、心地よい疲労ではあったが)、会食をお断りした。

 やがて、うとうとと眠くなった。

 夢心地になるとき、私は、イングランドの思い出を思い出していた。


 2008年!

 ・・・時の経つのは、ときとして、はやくも感じる。

 私、サルバトーレ・メイヨー、けっして、無為な時を過ごしていたわけではないのだ。

 このサルバトーレ、文献をめぐり、世界中を移動していたのだ、・・・そう、
 あのPELDOLATHの異様を見てから・・・。

 もう、あれから、3年が経過したのか・・・。

 ともかく、あのPELDOLATHの壁画遺跡を見てから、私には、まだまだ、その謎を解き明かす力量がないことを思い知らされた。

 それで、私は、再びロンドンに戻り、そこを拠点に、ヨーロッパ中の古文書ライブラリーをめぐることになったのだ。いや、そうしなければならない何か衝動にかられたのであった。

 そして3年近くものあいだ、ヨーロッパと地中海沿岸地域の古文書をあさっていた・・・。

 3年という時間は、世界をすこし変化させた。インターネットによる多くのサービスは、信じられない進歩をとげた気がする。

 世界のかなりの地域で、そのネットによる情報の公開・研究協力がすすんだ。

 古文書も、かなり、ネットで閲覧できるようになってきた。

 現代は、ものすごいスピードで進んでいたにも関わらず、私は、あのPELDOLATHの壁画遺跡にとりつかれたままだった。

 そんななかで、インターネット動画配信サービスを楽しみながら、仕事が出来るようになったことは、いいことだ。


 このサルバトーレ・メイヨー、いろいろ資料が混在していて、うまくまだまとめられない・・・・・。


 サルバトーレ・メイヨーの告白、2008年3月末、旅は終了した。
 我々は、世界中の図書館を調べ、PELDOLATHについて、かなりの情報を入手して、惑星QXQに向かった。
 PELDOLATHは、かつて地球にいたレビアタンに近い怪物であると分かった。
 古代の英雄は、PELDOLATHを宇宙の彼方に追放したのだ。
 そのPELDOLATHが、惑星QXQに生息しているのだ。
 ほかに、驚いたことは、惑星QXQに、人間がいるような反応があったことだ。
 モアナ・アイフラワーの祖父は、この反応を追って、1人で惑星QXQに降立ち、その後、行方不明だ。
 今回の我々のミッションは、行方不明のミスター・アイフラワーを探し出し、かつ、他の人間達は誰なのか、それを確認し、PELDOLATHに立ち向かわねばならない、ということだった。
 惑星QXQは、緑の少ない惑星だった。
 いや、かつては、緑が多かったのかもしれない。現在の地球も、このような道を辿ってはならない・・・・・。
 我々の宇宙船(アイフラワー号)は、軌道上に停まっていることしか出来ないので、探査ユニットによって、惑星QXQに降立った。
 ユニットは、2人乗り、それで、私とモアナ・アイフラワーが惑星QXQの地表に着陸した。
 そこは、ほとんど植物がなく、荒れた大地だった。
 私は、そこに、いまのまま、地球の砂漠化が進めば、このQXQと同じになってしまうという懸念を感じずにはいられなかった。

 私とモアナは、ユニットに乗って、しばらく砂漠を移動した。
 やがて、砂漠の遠方に、人影が見えた。
 近寄ると、それは、行方不明のミスター・アイフラワーであった。
 モアナは、祖父に再会することが出来たのだ。
 PELDOLATHについて、ミスター・アイフラワーは、私以上の知識を獲得していた。PELDOLATHは、再び、地球を襲おうと画策している、という。
 我々は、PELDOLATHを倒さねばならなかった。
 すでに、ミスター・アイフラワーは、PELDOLATHを倒すことの出来る『命の光』を放つ石を発見していた・・・・・・・・・・。

 PELDOLATHは、まさに『破壊者』だった。つまり、その存在は、『命』の真逆。
 『命の光を放つ石』の光は、PELDOLATHを消滅させてしまうのである。
 我々3人は、飛行ユニットに乗って、『その石』を持ち、PELDOLATH退治に向かった。
 砂漠を乗り越えて行くと、やがて、壊れかけたキリスト教会のようなドームを発見した。
 なぜ、それが、教会に見えたかと言えば、ドームの上に十字架が掲げられていたからだ。
 そこに近づくと、そのドームが、巨大な宇宙船であると分かった。球体の宇宙船で、半分は、砂に埋まっていた。


 我々3人は、そのドームの中に入った。中には、7人の子供たちがいた。1人は、高熱で寝込んでいた。

 ミスター・アイフラワーは、『命の光を放つ石』を使おう、と言い出した。
 しかし、それをここで使えば、PELDOLATHを倒す方法がなくなってしまう・・・。

 ミスター・アイフラワーは、躊躇せず、子供を治すために『命の光』を使った。

「PELDOLATHのことは、あとで考えよう」・・・そう、彼は言った。

 7番目の子供は、回復に向かい始めた。

 我々は、そこにいた7人の子供達は、一体どこから来たのか、その話を彼らから聞いた。

 その7人は、地球とは違うが、人類の住む星から来た。
 彼らの先祖は、なんらかの方法で、地球から、その星に移住したのだそうだ。
 その星に移住した民は、聖書を持って移住した。

 7人の子供たちは、春休みの旅行で、このQXQにやって来た。
 彼らの星の科学力は、地球以上のようだ。

 しかし、宇宙船のコンピュータをプログラムした7番目の子供が病気になり、帰れなくなっていた。

 ドームの上の十字架は、祈りのために立てたのだという。

 やがて、7番目の子供が、完全に回復したら、故郷へ帰れる。

 ドーム球体の宇宙船は、多少壊れていたが、プログラムさえきちんと組めば、帰路につくことが出来る。

 それが分かると、私と、モアナと、ミスター・アイフラワーは、PELDOLATHを倒すためのクエストに再び出発した・・・・・・・・・・。

 飛行ユニットは、いくつかのレーザー砲を備えている。
 それで、PELDOLATHを倒すことができるかもしれない・・・・・。

 PELDOLATHは、突然、砂漠を割って、我々の飛行ユニットの前に姿を現した。その圧倒的力で、ユニットは弾き飛ばされ、レーザー砲は全く役に立たなかった。

 我々は、PELDOLATHに追われ、逃げるだけでやっとのことだった。


 そこに、巨大帆船が現れた。無人で動く帆船だ。
 その帆船を動かしているのは、ロボットのようだった。
 帆船は、子供達のドームの中にあったものだ。
 7番目の子供が回復して、コンピュータのプログラムを組みなおしたのだ。

 コンピュータ・ロボット制御の巨大帆船は、PELDOLATHに鎖を放ち、PELDOLATHを捕まえ、そして、宇宙の果てに去った。

 7人の子供たちが我々のところにやってきた。
 7番目の子供は、それを「お礼」だと言った・・・・・。
 ミスター・アイフラワーの選んだ道は、間接的に正しかったのだ。
 いや、ベストの道だった・・・・・・・・・・。

 そのように、我々の旅は、終わった。

 *** *** *** ***

 
 これが、サルバトーレの記録だ。彼らの舟は、その後、約5ヶ月かけて、地球にもどった。そして、ロベルトくんたちが、その舟で再び、宇宙に旅立った。

 あれが、8月15日だった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 そうだ、あのロベルトくんたちだが、Eメールによれば、彼らは宇宙海賊に打ち勝ち、現在は地球への帰路にあるようだ。多くの旅路で、みな多くの経験をし、心を広げ、そしてまた何処かで再会する、・・・・・・・・・・それが人生の1つの醍醐味だ。

 私は、ロベルト・ディアスやサルバトーレ・メイヨーらと出会い、彼らの物語を知り、私が知らなかった世界を少し知った。人生のコネクションやリンクは計り知れない・・・・・・・・・・。

 1997年ごろだったかな、・・・香港がもうすぐ中国に返還されようとしてた時代だった。ウォン・カーウァイという香港映画界の映画監督・脚本家が『恋する惑星』という映画を作った。多くの熱狂的ファンを生んだ。そこでは、一瞬の出会いや人のリンクが、世界を、愛を、紡ぎ出していく事が語られた・・・・・・・・・・。

 私はこれから、どんなことを人生の旅路で経験するのか分からないが、それは私のために与えられる経験なのだ、と思う。何かの一瞬が、人生に大きな大切な意味を持つこともあるかもしれない。
 そんな気持ちを抱きながら、私は、今回の旅路の最後の土地を目差していたのだ・・・・・・・・・・。


   終章 エジプトの10日

 
 私の、これまでの、別の次元を探究するための、長い世界旅行も残すところ、あと10日だ。
 多くの宇宙人との出会いが起きたと言われているエジプトに入った。首都カイロにある国際空港から、私のエジプトでの行動は開始された。

 イスラミックなサウンドが響き渡るハウジングに、私は、数日の宿を取った。

 ここエジプトで、私は、生命について、その神秘について、そのプレシャスさについて、短期のセッションを通して学ぶことになっていた。そこの師が、やはり出会っていたからだ。そう、宇宙人に。
 何かが、ゼロに戻ったような気がした。
 私の気のせいかも知れない。
 かつて、母が、人生は螺旋階段のようなものだと言った。
 螺旋の円周の同じポイントに居るのかもしれない。

 2009年1月9日
 グローサリーで、米ドル28ドル分の買い物をした。
 自分の部屋に戻って、食事を楽しんだ。
 ミスター・ヌードルズ(ベジタブル)と、ハンガリアン・サラミ。
 そうだ、あの日と同じだ。
 ハンガリアン・サラミが、ベジタブル・スープに浸り、すこし固くなった時、ヌードルと一緒に食べるのが旨い。

 2009年1月10日
 カイロの街中で、ふとキリスト教の伝道者に出会い、ともに、祈りを捧げた。
 私は、キリストの教えを小さい頃から多く聞いたが、キリスト教会を離れたこともあった。しかし、キリストの教えは、真理であろうと感じることは変わらなかった。
 私の欲望が、教会を離れた原因であった。
 しかし、再び、教会に戻った私を教会は、温かく迎えた。
 
 私には、一種の放浪癖があった。
 長く、同じ状態に居られなかったのだ。
 人間は、難しい存在だと思う。
 
 聖書は、こういう存在である人間について、多くのインストラクションを内包している。
 
 命について、そこから、学ぶことができる。
 
 人間は、現在、多くの自然に対する危機的状況を作り出しているという。
 しかし、人間は、テクノロジーを必要とする。それがなければ、生きられない。我々は、自然環境とテクノロジーの共存を模索していかねばならないのだ。
 これは、『生命』への課題だ。

 2009年1月11日
 人生、地上での生命には、段階がある。時がある。
 だんだん歳を重ねると、意外と幸せが身近にあったと気付く。
 私の場合、フランスの片田舎の生活にも、幸せを見出せるようになったのは、35歳になってからだ。
 ローカルの小さな料理屋さんのオリジナルのスープの美味しさや、麦畑の美しさ。
 そうした幸せは、10代では気付かないし、気付けと言っても無理な話だ。
 若さは、まだ見ぬ遠い世界を見たい心だ。
 それは、大切な命の輝きだと思う。

 2009年1月12日
 フランス系のルーツを持つ私だったが、(これまでも、書いたように多くのアジアを含む国々での生活経験から)アジア料理が好きだった。しかし、生活空間の中で、いくつかのアジア言語を少しずつ覚えていたが、文字によってどのアジア言語であるかを読解することは、私には難しかった。こういう現象は、西洋人には、よくあることだ。我々は、ベーシックの部分でチャイニーズ・キャラクターズ(漢字)を習得していないのだ。
 その日、私がカイロを歩いていると、2人のアジア女性に出会い、日本のアニメーション(西洋では、アニメーションは、西洋産としてのアニメーション映画、『アニメ』は、日本産の独特なスタイルを持つアニメーションへのクラウン(王冠)的呼称として、呼び習わしている)についての花が咲いた。
 アジアでは、西洋より多くの日本アニメが流入しているようで、私の知識は、そこでは、大きくなかった。我々は、この頃、『アメリカン・アニメーション』と『アニメ』が、いろいろな所で「結婚しはじめている」(西洋では、2種の文化が混合してゆくことを、文化が結婚する、という表現を多く使用する)ことを面白く思っていることが分かった。
 『アニメーション』(ANIMATION)という単語は、英語の『アニメイト』(ANIMATE)=生命を与える、から出たわけだが、まさに、芸術家たちが、絵に命を与える、絵を動かす、という夢を持っていたことが分かる。神が人を造った、その精神が、人の中にもあって、それが、こうした創造物を生み出す原動力になっているのかもしれない。
 そんな話をしながら、我々は、アジア料理のお店で、食事をし、お酒を飲んだ。(私は、エジプトの現地料理であるコシャリやスパイシーチキンなども、すごく好きだったが、その日は、アジアンな1日となった。)
 
 アジアのディッシュ:

 ライス、アジアン・ポーク・スープ、アジアンビール、アジアンワイン、アジアン・スパイス・スープ、肉料理アジア風。110米ドル。
 
 ラウンジでデザート。17米ドル。

 その後、2人と別れて、1人、カフェで、コーヒーを飲む。4米ドル。

 そして宿泊先に戻る前に、付近のグローサリーショップで水とチョコレート(ミント味)購入。7米ドル。

 私は、富豪JSRから資金提供を受けていたものを、いくつかの銀行に分散して出し入れ出来るようにし、部分的にSONYのようなグローバル企業の株に変換していた。海外を大きく移動する時に比較的利便性が高いCITI系機関に、世界のいくつかのポイントでの現金引き出し用のアカウントを作っておいたのだが、ATMで調べてみると、そこに入っている利用可能現金は、3380米ドルになっていた。まあ、もうすぐ、この取材旅行も終わるので、OKだ。

 2009年1月13日
 午前中、宿のそばのインターネットカフェに行き、必要なグローバル通信を済ませた。インターネットの時代がスタートして、10数年、グローバル通信網のおかげで、仕事がやりやすくなっていると感じる。
 宿は、イスラミック音楽がいつもホールで鳴っている。
 午後は、私は、これまでの疲れも出たのか、夕食までベッドで寝ていた、・・・イスラミックのサウンドが、心を落ち着けてくれた。

 エジプト・カイロの日射しは、強い。ここは、北半球でも、赤道に近い。

 のどが乾いて起きた私は、腹が少しへっている事に気付いた。昨日はかなり肉料理を食べたので、この夕食は、粗食にすることにした。宿の自室を出ると、長い廊下があったが、ここの壁は、黄色でペイントされていた。ホールで流れるイスラミック音楽が、この黄色い廊下を吹き抜けてくるのは、気持ちがよかった。エジプトでは、かなり安い値段で宿を取ることが出来た。しかし宿の設備の点では、こうした安宿は、問題もあった。窓を開けようとすると、窓がスライドから外れたり・・・。

 私は、付近のグローサリーで、インスタント・ヌードルを買い込んで来た。袋には、フランス語が記載されていた。おそらく、フランス製のヌードルだ。
 たしか、こうしたインスタント・ヌードルは、日本の安藤百福さんがオリジナルだと思う。いまや、世界中にインスタント・ヌードルがある。チキン味のフランス製のヌードルを、宿のキッチンでフィックスして食べた。

 それから、すこし外を歩きたくなり、表へ出た。やや砂まじりの風が吹いていた。

 私は、少し賑やかな通りにある『バビロニアン』というミドルイースト・クイジンに入った。風に吹かれると、お腹が空くのだ。私のルーツがフランスであることを知っている知人はみな、私がフランス料理ばかり食べていると思っているが、私は、ミドルイーストのスパイスにも、なかなか惚れ込んでいた。

 チキンのシャワーマと、タプーリを食べた。コークと合う。

 店内には、かつてのバグダッドの大きな絵が飾られていた。

 2009年1月14日
 昨夜から、オフロードトラックに乗って、カイロから、海岸地域に移動した。エジプトに来てから受けていル短期のセッションのフィールドトリップで、スクーバを体験することになったからだ。地球の様々な生命を見ることで、生命の素晴らしさを知ることが目的だ。我々が普段、ほとんど目にすることのない水面下の世界にも、神は生命を溢れさせている!

 海に浮かぶボートの上での食事は、最高だ。(たまに、船酔いしてしまうと、きついが。)

 エジプトでは、主食につく野菜サラダとして、タプーリ(トマト、パセリ、タマネギ、ニンニクの微塵切りをあえて、オリーブオイルとスパイスをかけるサラダ)をよく食べるが、これが乾燥した気候の中で、食欲を増強するのに良い。

 ボートから見ると、イルカが時折、水上に見える。その向こうに、黄色い大地が時々見える。

 水は限り無く蒼い。

 カモメの泣き声も聴こえた。

 空は、快晴。深い青だ。

 これが、エジプトの海なのだ。

 旧約聖書のモーゼスの時代からの歴史がある海だが、海は、多くのものを飲み込んで、そして、水が全てを包んでしまった・・・。

 ボートから対岸を見ていると、アジア系の女優が、何かロケーション撮影をしているようだった。私の見たところ、それは日本人女優だった。多くの日本人が、ここエジプトに魅了されてやってくるのだ。それは、フランス人も同じだった。地理的にもフランスは、エジプトに遠くない。そして、フランス人は、かつてジュール・べルヌがそうであったように、世界旅行が好きだ。さらに、そこにミステリアスなものがあれば、なおのこと。エジプトは、ピラミッド、スフィンクス、古代神殿、・・・というふうに、フランス人の冒険心をかき立てるのに、十分な魅力を持っていたわけだ。

 2009年1月15日

 朝、目がさめると、9時AMごろだった。

 テーブルの上に置いていた、ショートブレッドとオレンジジュースで、イングリッシュ・スタイルのブレックファストをいただいた。イングランドは歴史的に、いくつかのアジアのスタイルを、その文化に取り入れているが、シンガポール風の食事も、その1つだ。シンガポールスタイルのヌードルを少しフィックスしてみた。

 私は、キッチンにいるのが好きな方である。


 昼、白身魚のフライ。
 それから、ダイブをしたあと、37人の天使図を見る。これは、未公表の考古学レリックだ。

 そして、この日、2回目のダイブをした。

 同じボートに、何人かの日本人とフランス人が乗っていた。

 私たちは、写真を撮りあって楽しんだ。
 
 ダイブの後は、用具を片付けて、塩水を落とすために真水のシャワーを浴びた。のどが渇いていたので、かなりエヴィアンを飲んだ。
 エジプトの日は、まだ明るかった。

 街に出た。コーヒーショップでチャイラテ(4米ドル)を飲んだ。ここは、エジプトに旅行に来るフランス人のためのカフェのようだった。フランス人は、何処に行っても、カフェオレとクロワッサンを必要とする。私は、ルーツがフランスにあると言っても、アジアでの経験からチャイのような味に癒しを感じることも多いのだった。チャイを入れてくれた女性は、オルガナというフランス系カナダ人で、すごく会話が弾んだ。私は、複数の言語を使うことが出来たが、エジプトの現地語は分からなかったので、本当の母国語であるフランス語で喋れたのが楽しい出会いであった。私のように、世界旅行をしてくると、多くの出会いがあり、また別れがある。そして、数年ののちに、それらの人々と再会することもある。オルガナは、私に「あの人も、フランスからこちらに来た人よ」と、ちらと目で合図して教えてくれた。その人は、白髪の洒落た老齢の紳士で、日の差す窓の横のテーブルについていた。窓からの光りが、その人に荘厳な雰囲気を与えていたが、その人の表情は、なにかウィットを感じさせるものがあり、私は彼に話しかけることが出来たのだった。

 紳士は、ムッシュー・H・ウウズと云った。ムッシューは、フランス語の「ミスター」だが、彼は、自分のことをムッシューと呼ばれることを気に入っている、と言った。
 私は、そのように呼んだ。
「ムッシューは、こちらエジプトに長いんですか?」
「そうだよ、お若いの。わしは、ナイルの治水技術の関連で、随分昔こっちにやってきた。そして住み着いたんだ。まあ、それで、それなりの金を持っておる。お若いの、あんたは、旅かい?」
「ウイ。(そうです。)信じてもらえるか、分かりませんが、地球外の生命、宇宙の生命の神秘について、研究しながら旅を続けてきました」
「そうかい。ま、信じたって損はないし、信じるよ。それに、おもしろそうな話も聞けそうだ。うちに来なさい。あいにく、今日は車がいかれてしまって、バスなんだ」

 ムッシューと私は、3米ドルのパブリックバスに乗り、ムッシューのお宅へ向かった。

 私は、ムッシューのお宅で、しばらくお孫さんたちとクリケットに興じ、そして、ムッシューに、これまでの経験の中から、特にコンフィデンシャルでない話を披露した。ムッシューは喜び、彼の給仕に、スシ、ハーブチキン、スキャロップ、サラダ、ワイン、ティラミスなどを作らせ、私に御馳走してくれた。感謝である。

 こうした同じ国・カルチャーにルーツを持つ者同士が、異国で語り合うことの面白さは、なんともいえない。素敵な時間だ。

 ムッシューは言った、「君を見ていると、若い頃に読んだフランスの冒険小説を思い出すよ。ええと、なんだったかな、有名なやつさ、LE TOUR DU MONDE EN QUATRE-VINGTS JOURS (80日間世界一周)だ」
 私は、答えた。
「あ、それ、僕も読みました。主人公、フィリアスが旅に出るとき、おとものパスパルトゥーに告げる言葉が忘れられません」
「なんだったかな」とムッシュー。
「トランクはいらない。手さげバッグひとつあればOKだ。その中に、ウール製のワイシャツを2つ、靴下を3ペアだ。君にも同じものを。あとは、旅の途中で買おう。私のレインコート、ひざ掛け毛布を出してくれ。靴は、いいやつを! しかし、歩くことはほとんどないだろうが。 さあ、出発準備だ!」

「最高の出発だ! わははは!」ムッシューは、大笑いした。

「1870年代に、こんな名台詞を書いたベルヌに乾杯です」

 
 それから、夜になり、私は宿舎まで帰路の途中、インターネットカフェで、JSRのヘッドクオーターズに報告をした。(ネット使用料12米ドル)

  
 2009年1月16日
 宿舎で目を覚ますと、TV画面でジョン・トラボルタがおどっていた。『ステイン・アライブ』が昼の映画でやっていた。TVをつけたまま、寝ていたようだ・・・。これは、たしか、大人気だったサタデーナイトフィーバーの続編だ。
 
 その日は、師と個人的に話をする時間を持つ日だった。

 この街で、いろいろ出会いがあり、また、その人々が温かく迎えてくれたことが、私の心をプラスの方向にパワフルに動かす、と師に言った。師は、エジプトのコプト・カルチャーで、マインドレッスンしていらっしゃったが、彼は、そのことを正しいと言ってくれた。
 人生の神秘は、地上での生活の最後の一瞬まで、少しずつ見てゆける、と彼は教えてくれた。
 私は、まだまだ、若すぎて、今見えない事も沢山ある、と。

 師は、私に言った、「あなたは、芸術家だ。それは、他を幻惑の世界に連れ込む、という大きな力を持っている。しかし、その力は、あなたに預けられたものであって、あなたのものではない。あなたが、それで慢心を持って振舞うなら、その特殊な力は、あなたを去るだろう。しかし、それが人々に夢を与え、あなたが、その働きの中で慢心を捨てるなら、そして、世界を繋げる役割の1部を果たそうとする意志があるなら、あなたは、その与えられた力によって、地上での時間を満たされるよ。その仕事が終われば、天上への時さ」

 2009年1月17日
 私は、師の家に泊まった。
 朝は、起きると、既にかなり気温が上昇していた。
 燦々と降り注ぐ太陽の光が眩しかった。
 師は、私に卵料理を作ってくれた。
 師は言った、「われわれ人間は、矛盾の固まりさ。しかし、それで、われわれは、うまく出来ているんだ。うまく造られているんだ。われわれが全て計算でうまくいくように出来ていたら、われわれは、慢心を捨てる事ができないだろう。慢心を捨てることが、命について分かっていく道なのだと思うな。」

 2009年1月18日
 師や友たちとの食事会だった。

 2009年1月19日
 
 
 -帰路-(そして最後の物語)

 
 広大な世界旅行の間にいくつかの取り決めがなされ、富豪JSRは、その本拠地を日本・熊本に移動させていた。私は、エジプトからカナダにJSRの専用機で移動した。それは、半日の空の旅だった。

 「セブンデイズムーバー」・・・それは、私のことだ。カナダは、バンクーバーから、いくつかの地点を経て、7日後に、日本・熊本の新JSR邸に着かねばならない。

 世界中を移動につぐ移動で、私自身、ずいぶん、混乱もあった。

 しかし、今は、非常に旅をするにはいい時代だ。1800年代末は、ニューヨーク-サンフランシスコ間を7日間で移動したそうだ。私は、7日間でバンクーバー-熊本間を、いろいろなデータを採りながら、比較的ゆっくり移動するのだ・・・。

 バンクーバーでは、富豪JSRのコンドーに一泊だ。ここには、JSRの優秀な役員がいるので、まず、DT(ダウンタウン)のオフィスにあいさつに行かねばならなかった。

 役員に挨拶を終えると、私は明日の宿を探しに行った。 コンドーは一泊のみで、明日は、DTのホテルに移動することになっていたのだ。初め、HOWE STREET のホリデーインに宿泊費を聞いたが、199ドル+TAXということで、旅の終盤に近付いた私としては、MONEYをセイブしたかったので、そこはやめた。つぎに、バラードINNに宿泊費をアスクすると、105+TAX。とりあえず、そこに明日の宿を取った。
 そして、ホーンビーにあるBOOK-OFFなどに立ち寄った。そこには、VISUAL ARTISTであり、映画監督でもあった池田満寿夫監督作品の映画や、エル・コロナドのような珍品DVDや、スチームボーイDVD(Tシャツつき)がUSEDで売られていた。なかなか、いいコレクションであったので、購入も考えたが、これから熊本まで移動するので荷物を増やさぬよう買い控えた。

 夕食は、コンドーで食べようと思い、いろいろテイクアウトで買い込んで、40ドルくらい使った。

 インド風カレーライス。(バンクーバーは、近年、インド移民が非常に増えている)
 ピクルス。
 チャイティー。
 ミルク。
 オレンジ。
 パイナップル。
 葡萄。
 ドリトスのナッチョチーズ味。
 水。
 チョコレート(モルティザーズ)。
 チキンナゲット(バファローウイング)。
 リンゴ。
  
 コンドーは、WATERFRONTにあり、いい風が吹いていた。

 コンドーには、最新鋭のPC設備が揃っており、そこで、映像資料をストレージに保存した。映像資料を整理したDVDは、この書籍の出版後に発表しようと考えている。

 その後、世界の仲間達にEメールを送った。今回の旅に大いに貢献してくれた素晴らしき友へ。
 
 2009年1月20日
 朝、コンドーを退出した。
 コンドーのドアマンに3ドルのチップ。
JSR(の関係者)が特別手当てのチェック(小切手)をコンドーのポストに入れていた。ドアマンが教えてくれた。私は、それをバラードストリートのBMO(バンク・オブ・モントリオール)で現金化した。
(銀行手数料5ドル)
 ランチに中華。12ドル。
 カフェ。4ドル。
 街のインターネットカフェを利用してみる。(6ドル)
 明後日、東京に立ち寄らねばならないが、その時の行動について、JSRのプロジェクトROOMから連絡が来ていた。
 INNでお腹が空いた時用に、グローサリーを買い込んだ。(21ドル)
 バラードINNの210号室に入った。
 かつて、アムステルダムにビジネス滞在した時のINNに似ている。
 
 SPACE CHANNELをつけてみた。
 バンクーバー市のSF専門ケーブルチャンネルみたいだ。
 SMALLVILLEを放送していた。クラークケント(スーパーマン)の青春を描いた傑作SFドラマシリーズだが、悪党ルーサーの青春も内包し、彼が心に葛藤を持った悪党であることが描かれるのは意味深いと思った。

 LOVE=LIFE=GODであると感じた。

 TOTAL ABSENSE OF LOVE が、ルーサーを悪にした。こういうことは、聖書にも書かれていた。

 LOVEが大切。

 次の旅の地点は、TYOに降り立つ。
 そこでは、YENが使用される。
 私は、カナダドルをYENに変換した。
 この日のレートは、1ドルが102YENであった。

 バラードINNの近くには、「Xファイル」が撮影された地区がある。Xファイル・シリーズは、カナダ・バンクーバーで前世紀末ごろ撮影されていた。

 ここには、たしかに、宇宙人との繋がりがある・・・。

 INNで、コンビーフをMADMAX2のメルギブみたいにほおばった。
 
 私の妹は、アメリカのアイダホで、アイリッシュ系のアメリカンと結婚して、いっしょに暮らしているが、そのアメリカンの夫は、セント・パトリック・デイ祭日には、コンビーフを作ってお祝いする。
 私も、彼のコンビーフを食べたことがある。(ちょうど、その祭日にアメリカにいたのだ)。
 なかなか腕のいいコックだと思った。

 ホテルに1人居ると、いろいろ考える。我々の生き方とか、そういうことについてだ。かつて、創造主はモーゼスを通して人間に10のルールを与えた。それはたしか・・・、
●創造主の存在への信仰を持て。
●偶像を崇拝するな。
●神の名を空しく使用してはいけない。
●週1の休みと礼拝を持て。
●父母への敬意を持て。
●殺人はいけない。
●うその証言はいけない。
●不倫はいけない。
●盗みはいけない。
●人の妻、家を欲してはいけない。

・・・だった。

これに加えて、イエス・キリストは、言った。
●神を愛しなさい。
●隣人を愛しなさい。

こういうことを今一度思い出すと、これらのルールはいいものだと思った。


 2009年1月21日
 ネットとカフェ。12ドル。
 チェックアウト。  ドル。
 チェックアウトして、全日空=エアカナダに乗り込んだ。

 カナダ・バンクーバー市 → TOKYO成田JAPAN。
  時間のフライト。
 飛行機の中で次の日となる。


 2009年1月22日
 TYO(東京)に到着。


 結局、私は宇宙人の軌跡を捜し求めながら、人生の旅路を深めていたのだ、JSRに会ったら、それが報告の最後につける言葉だ。

 今は、ゆっくりと、この東アジアの列島を移動中だ・・・・・・・・・・。
 それで、期日には間に合う・・・・・・・・・・。


 鈍行の列車は、ゆっくりとウエスト・オブ・ジャパンに向かっていた。


 (おわり)

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