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あとがき

 書き上げた時点での筆者自身の感想は、「自分は理論肌であり、応用には向いていない」というものです。本書も、現実に生起する笑いの現象を説明する道具としては向いているかもしれませんが、笑いの現場に応用する局面においては、大して役に立たないものであるという感が多分にあります。まあ、それが掛け値なしの本書の到達点であるということで、あとは応用の人たちに任せましょう。

 まえがきでは触れませんでしたが、本書のようなマニュアル化にはもうひとつの難点があります。
 マニュアル化とは、当然ながら、初心者にも伝えられるように、マニュアル化の対象を言語で説明することです。これは、完璧に為されてしまうと、関係者を「所詮言葉で説明できるようなことに過ぎなかったのだ」という絶望に陥れてしまう危険があります。
 笑いについていえば、何をどうすれば笑いがとれるかということを完璧にマニュアル化すると、笑いのプロや、笑いが好きな人は、「笑いとは言葉で説明できるような矮小な、陳腐なものに過ぎなかったのだ」という考えに至ってしまい、自分が入れ込んでいた笑いに対するモチベーションが削がれてしまうという危険性があるのです。
 しかし、少なくとも本書は笑いの全てを説明しきっていません。あくまで、部分的な説明に過ぎないのです。最も重要な、「一段階目のズレとして適切なズレをどのように作出するか」という点は、ほとんど説明していないと言っても過言ではないです。笑いの深奥なる部分は依然として解明されぬまま残っており、本書によって絶望するのは早計というものです。
 この事態は、副次的な弊害を別に生みます。笑いを例にとれば、深遠玄妙なる笑いは言葉で説明し尽くせるようなものではないということを信じてやまない者たちが、本書のような、たとえ部分的な説明の試みであっても、これを頭ごなしに排撃してくるという弊害です。これには、笑いについての知識を独占しようとする者が、マニュアル化による知識の散逸を防ぐという動機が含まれている可能性も考えられます。
 しかし、マニュアル化の対象が社会的な価値を有する知識である限り、それは、マニュアル化して社会に広く門戸を開くべきものであります。笑いについての知識がそのような社会的な価値を有する知識かどうかは措くとしても、そのような言語化の努力をしないと、その知識を教え込むことが非常に困難になり、結果として非効率な教育しかできなくなります。マニュアルという言語による説明ができない場合にその知識を教育するには、実際に経験してもらい、非言語的なレベルでその知識を獲得してもらうという形しかほとんど考えられなくなります。これは、往々にして非常に長期の時間を必要とするものです。
 世の中において長期の修行が必要とされている技術のほとんどは、言語化されたマニュアルがないためにそのようなことになっていると筆者は考えています。数年から数十年にわたる修業が必要とされる、調理や伝統芸能についての技術はその典型例であります。これらの知識は、本当に言語化できないものである可能性も考えられますが、独占あるいは単なる自己陶酔のために言語化の試みを故意に怠っている疑いも、完全に否定し去ることができません。そうだとすれば、斯界への参入を志す者にとってはこれほど不幸なことはないのではないでしょうか。
 筆者がここまで言語のポテンシャルを信じているのは、まあ、単なる好き嫌いの問題です。

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