当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

メディアゴン没記事

基本的な視座について

 私がお笑い論やお笑いコンテンツの感想を書くに当たり、基本的にどのような視座に立っているか、を明らかにした方が誤解がないと思ったので、それをここにまとめておきます。

 結論から言うと、私のやっていることは『美味しんぼ』における「究極のメニュー」の探求が一番近いです。私は、「究極のメニュー」ならぬ「究極の笑い」を探しているのです。

 ただ、あくまで私に「究極の笑い」をもたらしてくれるものを個人的に見つけようとしているだけであって、私にとっての究極の笑いが他者にとっても究極の笑いになり得るとは限りません。「究極の笑い」であれば客観的なおもしろさも高いので、他者にとっても笑えるものである可能性は高いでしょうが、食と一緒でどうしても個々人の好みが影響してくるので、好き嫌いの発生は避けられないところです。
 この「究極の笑い」を探す中で全ての笑いにある程度共通する理屈や技術は抽出できたので、それは「お笑い論」という形で別にまとめています。ただこの共通項というものは本当に最低限の内容でしかなく、残りの膨大な部分は個々人の好み(趣味や興味のある分野、スベリやシュールが好きか嫌いか、お笑いの知識の量、キツさや汚さやエロなどをどの程度許容できるか、といったあたりで変わってきます)にかなり左右されます。ここは、あまりまとまった議論のできない分野です。なので、ネタやコンテンツの感想を原稿に書く場合にも、この「好み」のエリアに入ってくる部分での議論は極力しないようにしています。「私は好きだ」とか「○○が趣味の人は好きかもしれない」みたいな程度のことは書きますが、それ以上に詳しく(例えば私の個人的な好き嫌いの理由を延々)説明しても意味はないからです。

 美味しんぼは未だ連載が終了していないようですが(2014年から休載中とのことです)、単行本も100巻を超えているのに究極のメニューの内容はまだ決まっていません。連載初期は作中で扱った素晴らしい料理を「究極のメニュー」に加える、というトリコのフルコース作りのような展開もあったのですが、だんだんそういう話もしなくなり、ただの美味しい食材と料理の紹介漫画になっていきました。美味しんぼが目指す「究極のメニュー」がどういうものなのかは実ははっきりしないのですが、「地球上の人間全てが納得する料理」という意味だとしたら、個々人の好みがある以上、土台作りようがありません。そして、それは笑いも同じことです。だから、「地球上の人間全てが納得する笑いのコンテンツ」というものは作りようがありません。笑い全てに共通する理論はお笑い論として抜き出していますが、それは前述の通り最低限の内容でしかありません。だから私はそんな不可能なことは諦めて、あくまで私個人が一番笑えるコンテンツを探すことに決めたわけです。私が笑いたいだけなので、私がそういうコンテンツを作りたい、ということでもありません。私が作り手に回ったら、私自身は笑えないじゃないですか。
 ただ、すごく笑えるコンテンツがたまに見つかっても、それが究極の笑いの仲間入りを果たすのかというとそれも違うと思います。笑いというものは1回見てしまったら、原則的にそれ以降に見返しても1回目以上の笑いは生じないので、そうやってコンテンツを固定化するようなものでもないと思うのです。私がこれまでに出逢った「すごく笑えるコンテンツ」がもたらした笑いが究極の笑いと言えるのかも分からない(もしかしたらそれを上回る笑いが今後見つかるかもしれません)以上、最後まで究極の笑いは見つからないと思います。そういう結論でも、仕方ないと諦めています。

 そして、あくまで究極の笑いを見つけたいだけなので、コストを無視しがち(というか、ほぼ無視します)という芸術家的な傾向があります。そこも「究極のメニュー」との類似点です。コストをかければ内容が良くなるほど単純なものでもないのですが、究極の笑いが発生しそうなのであればそれを作るためにかかる種々の費用のことはなるだけ無視して考えます。こちらは商業として成り立つ笑いをやりたいわけではないからです。あくまで究極の笑いに出会いたいだけなのです。だから、「落語という手法はなぜすべて1人でやることに固執しているのか」というようなことも平気で言います。あれは、「ネタ合わせの手間が0にできる」というコスト面以上の理由はないと思うのです。同じ演目をやるにしても、落語の登場人物に全員違う演者を当てた方が分かりやすく、かつおもしろくなるのは自明だと思うのです。ただこれをやるには全演者に名人並みのしゃべりの旨さが必要になってくるので、それだけの頭数を用意するのは大変ですし、稽古を重ねて全演者に名人の話芸の間や動きや表情の妙を体得させる必要があるので、ものすごくコストがかかることです。だから、そういうやり方をしないのです。ただ、コストをかければ究極の笑いに近付くのであれば、かけてみたいじゃないですか。
 ネタも同様です。「ネタは笑いを生み出す手法としてはさほど優れておらず、下から数えた方が早い位置にいる」ということを私はよく言いますが、それもネタという手法にあまりコストがかかっていないからだと思います。掛け合い漫才だったら、落語では1人だった演者が2人に増えただけです。演者は当然もっと人数がいた方が色々なことができます。中身を見ても、基本的には事前に決められた内容(=台本)を再現するだけなので、慣れてしまえば自然とできることです。それが簡単なことではないというのは分かっていますが、もっとコストはかけられるはずなのです。
商業として成り立つ笑いをやりたいわけではないので、笑いの広告も敵視しています。「爆笑動画」なんて形で笑いを広告すると、見る方のハードルが上がります。ハードルを上げるのは、不意打ちが重要な笑いにおいては大敵です。商業として笑いをやるとそういうデメリットはどうしても生じてきます。広告は、究極の笑いをもたらすにあたっては排除しなければなりません。厚塗りの広告の向こう側には決して究極の笑いはないと思います。究極の笑いは、ひっそりと裏街道から訪れるものなのです。

 前述の通り、究極の笑いは未だに1個も見つかっていません(もしかしたらもう見つかっているのかもしれませんが、気付けていません)。笑いにおいては不意打ちが重要なので、どうしても天然ボケの方に究極の笑いは多く隠れている気がします。人工ボケは、太刀打ちできません。ネタがさほどおもしろくない理由の一つです。今のテレビも、人工ボケを漫然と垂れ流すのではなくて、演者の天然を引き出すギミック作りにどんどん傾いています。

 冒頭に述べた通り人間には好き嫌いがあるので、落語や、ネタや、人工ボケの方が好きですという人もいるでしょう。その事実や、その趣味を否定するつもりは毛頭ありません。あくまで、私の探している究極の笑いがそこから生まれる可能性は低いだろう、ということが言いたいだけです。

 なんかあんまりまとまりの内容になりましたが、一応結論を簡潔にまとめておきます。
‐个い剖δ未垢詬論やルールとして最低限のものはあるが、極力その範囲でしか論評はしないようにしている。
∋笋砲箸辰討竜羔砲両个い鮓つけるのが第一目標なので、笑いを作るために必要なコストは無視しがちであり、商業の笑いとは相反する部分がある。
5羔砲両个い蓮多分一生見つからない。

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