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姑獲鳥の夏

 完全にネタバレをします。ミステリーなので、本稿を読むのは作品の読了後をお勧めします。


















 残念ながら、わたくしの好みには全く合いませんでした。世の中には「短いけどおもしろくない話」や「長いけどおもしろい話」など色々なお話がありますが、本作は私にとっては「長いしおもしろくない話」でした。
 私の手元にある文庫版の解説(笠井潔先生執筆)では本作が「本格ミステリ」と評されています。本格ミステリの定義も色々とあるので話がややこしくなるのですが、「解決篇より前の情報だけで犯人や真相が読者にも特定できる」という意味での本格ミステリではないと思います。だから本作が悪いと言いたいわけではありません。京極先生本人も本作を(本格ミステリはおろか)ミステリとすら考えていなかったという話も仄聞しております。ジャンルは何でもいいのです。問題は、おもしろいかどうかです。

 本作は、最初に100頁超をかけて探偵役の京極堂(本名:中禅寺秋彦)が延々と講釈を垂れています。この冒頭シーンで、私みたいな本作が合わない読者は一気にふるい落とされます。京極堂が何を述べているかというと、科学的(生物学的あるいは医学的)なことを述べているようでいて、独自の二元論を展開しており、いまいち要領を得ません。そのあたりが読み取れる京極堂の台詞をいくつか引用してみます(以下、頁数は文庫版のものです)。

世界は二つに分けられる(中略)つまり人間の内に開かれた世界と、この外の世界だ。外の世界は自然界の物理法則に完全に従っている。内の世界はそれをまったく無視している。人間は生きて行くためにこの二つを巧く添い遂げさせなくちゃあならない。生きている限り、目や耳、手や足、その他身体中から外の情報は滅多矢鱈に入って来る。これを交通整理するのが脳の役割だ。脳は整理した情報を解り易く取り纏めて心の側に進呈する。(34頁〜35頁)
君の今見ているもの、聞いているもの、触覚も味覚も、何から何まで脳という卸問屋が卸したものなんだぜ。専売だ(39頁)

 私がすんなり理解できるような先駆者の議論に無理矢理当てはめて考えると、人間は自らの認識(感覚器やら脳やら)を通してしか世界(宇宙)を認識できない、というプラトンのイデア論みたいな話をしようとしているのではないかという理解も不可能ではないです。すなわち、真なる世界(=イデア)の認識の際には人間の認知の仕組みに基づく誤謬が介在する可能性が常にある、という話です。
 しかし京極堂は上記のとおり「脳」と「心」の二項対立で議論を展開しています。また、39頁〜41頁を読むと分かりますが、記憶は脳に格納されているかどうかは定かではない、という前提のもとに、「脳が得た情報」と「記憶」を対立させた二元論も滔々と開陳しています。
 京極堂の言う「心」が何なのか、は実ははっきりしないのですが、素直に感情という意味だと解すれば、感情も脳が生成しているものだというのが現代の通常の理解であり、記憶についても脳が重要な役割を果たしているというのが通常の理解です。ゆえに脳と心や、脳と記憶に対立構造を導入する京極堂の議論は、畢竟独自の見解と言わざるを得ません。
 更に付言するならば、京極堂は幽霊について「死者に会いたい」という「心」からの欲求に沿う形で脳が見せている幻覚である(41頁〜42頁)というようなことを言っておきながら、別の箇所では「科学では扱えない」(30頁)と宣っています。幻覚を見せる脳の機能(あるいは誤作動)を追求するのも立派な科学だと思うのですが、なぜかこれを非科学と位置付けて科学と対置させるので、より一層混乱します。このような形で科学を相対化しておきながら講釈の後半では自説の補強に科学のど真ん中に位置する量子力学やらシュレディンガーの猫やらを持ち出してくるので、自分を正しいと信じ込ませるためにはそれっぽい言説を何でもかんでも取り込むカルト教祖の詭弁を聞かされているようで、うんざりしてきます。
 そうなると、ひょっとして科学的知見の話ではなくて、本作独自の特殊設定を説明しようとしているのかな、という気もしてきます。そうだとしても、特殊設定の説明としては長きに失します。特殊設定なんてものは、シンプルな内容にしないと読者も覚えきれず、ネタバラシを受けたときもさほどのカタルシスが生じません。あるいは京極堂にカルト教祖のような強烈なキャラ付けをしたかったのかもしれませんが、そうだとしても長すぎます。更に、本作で取り扱われる事件はそのキャラ付けがなければ解決できなかったものだとは思えません。解決篇における京極堂は、(恰好こそ陰陽師っぽくしていましたが)普通のミステリの普通の探偵役のように真相についての推理をしゃべっていただけであり、詭弁で悪役を論破したというようなシーンは一切ないのです。
 特殊設定の説明でも京極堂のキャラ付けでもなく、前述したイデア論のような科学的な説明をしたいのだったとしたら、拙きに失します。前述のとおり脳と心や脳と記憶を対立的な関係として捉えるのは近代科学の知見からは外れており、読者に誤解と混乱を生んで振り落としてしまうだけです。本作の真相も、「客観的な世界と、脳その他の認知機能を通して捉えられた主観的な世界は一致しない」というシンプルな命題だけで全てが説明できます。長くて分かりにくい京極堂の演説は不要なのです。更に言えば、この手の説明をするからにはもっと芯を食った具体例を色々と出して欲しかったです。人間の脳は世界をありのままではなく歪めて理解していることを示す例は枚挙に暇がありません。相貌認知とか、目の錯覚とか、カクテルパーティー効果とか、京極堂の話よりもおもしろくて分かりやすい具体例はいくらでもあります。ひょっとしたら、作中の舞台である1952年当時の学問水準を京極堂に語らせたのかもしれませんが、わざわざそんな形で分かりにくくする必要性が感じられません。

 そして残念なことに、本作は京極堂の説明をブラッシュアップするだけで完全無欠の作品に生まれ変わるわけではありません。上述の「客観的な世界と、脳その他の認知機能を通して捉えられた主観的な世界は一致しない」という命題自体、今となっては別に新鮮でも何でもない話だからです。プラトンが2000年以上前からすでに主張していたことですから、本作が執筆された1994年当時の時点でも新鮮さはなかったと思われます。ゆえに、これをメインテーマにされてもさほどの感動は生じません。
 加えて言うなれば本作の真相も、一応は京極堂の講釈を前提にしたものになっていますが、多重人格に想像妊娠というオチは新鮮味もなくて拍子抜けしました(決して解離性同一障害が簡単に治る疾病だと言いたいわけではなければ、作中でその発病の原因とされている性被害や児童虐待を軽んじたいわけでもないので、悪しからずご了承ください)。唯一、語り手の関口が実は信頼できない存在だったということだけは「おっ」と思えましたが、小さな驚きが生まれただけでした。

 不要な部分を削れば、短編程度の分量にできるお話です。

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