当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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殺戮にいたる病

 完全にネタバレをします。ミステリーなので、本稿を読むのは作品の読了後をお勧めします。
 『十角館の殺人』の重大なネタバレもしているのでそちらもご注意ください。

















 2025年夏の我がミステリーブームに読んだ1作です。
 本作も叙述トリックの名作だという情報を得ていたので、手を出してみました。作者は、私のようなゲームファンにとっては『かまいたちの夜』シリーズのシナリオを手掛けたことで名高い我孫子武丸先生です。

 本作は、犯人である蒲生稔が逮捕される場面から始まります。その後、物語はこの蒲生稔、息子が殺人犯ではないかと疑う蒲生雅子、事件を追う元刑事の樋口の3人の視点を順々に描きながら進んでいきます。時系列は、敢えて引っ掻き回されており、お話が色々と行ったり来たりします。
 さていきなり叙述トリックのネタバラシをすると、実は雅子が「殺人犯ではないか」と疑っていた息子とは稔ではないのです。稔は、雅子の夫なのです。「雅子が疑っている息子」=「稔」であると読者に誤解させるのが一つ目の叙述トリックです。ということは、稔のシーンで語られる彼の母親も実は雅子ではありません。「稔の言う母親」=「雅子」であると読者に誤解させるのが、二つ目の叙述トリックです。雅子が疑っている息子は蒲生信一という名前であり、稔の言う母親は蒲生容子という名前です。信一と容子は、本作における叙述トリックを奏功させるためにその存在が巧妙に隠されているので、最後の最後まで読まないと名前が(というより、存在自体が)明らかになりません。
 というわけですが、私はネタバラシがあった時にあまり衝撃を受けませんでした。おそらく、信一と容子が隠され過ぎであることが原因だと思います。この2人を隠し過ぎたせいで、「あっ、あのシーンで言及されているあの人は実は信一(容子)だったのだ!」という驚きが生じませんでした。覚えている「あのシーン」が特になかったからです。『十角館の殺人』の真犯人は、読者に「守須」というもうひとつの姿を全然隠していませんでした。だから、ネタバラシの一行を読んだ時に、「あいつが実は真犯人だったのか」という衝撃が生じるのです。そういった仕掛けが、本作には希薄だったと言わざるを得ません。
 具体的には、どうすれば良かったでしょうか。例えば信一に関して言うと、雅子に殺人犯ではないかと疑われていた以上、疑われるような行動をいちいちとっていたということになります。読了後に考えてみれば、彼も彼なりに父親の稔を疑い、稔が家に隠蔽していた証拠をこっそり調べたりしていた(そして、発見した証拠を自分の部屋に保管したりしていたせいで雅子に疑われた)んだろうなあというのは想像はつきます。想像はつきますが、具体的な描写がほとんどないので、そもそもネタバラシをされた際に印象に残っていません。ゆえに、衝撃が軽くなるのです。例えば、信一の正体を隠したうえで探偵役として(他の主要登場人物と同程度の頻度で)登場させるというようなやり口は考えられます。尤も信一の場合蒲生家の内部にいたために調査ができたという側面があるので、蒲生家の人間であることを隠したうえで探偵として登場させるのはかなり難しいでしょう。実際にやるなら、もっと色々な工夫が必要です。なんであれ、信一と容子の影が薄いせいで叙述トリックの衝撃が弱まってしまっているので、もっと登場頻度を上げて欲しいのです。
 もう一つ言いたいのは、やはり動機面が弱いということです。本作の稔は、合計6人の人を殺しており、そのうち5人については死体損壊や屍姦にまで及んでいます。動機面を描くのはミステリーで必須ということではないですが、私はちゃんと描いてくれた方が好きです。加えて本作においては、裏表紙のアオリ文に「とらえようのない時代の悪夢と闇、平凡な中流家庭の孕む病理を鮮烈無比に抉る問題作!」との記載があるので、どうしても動機面の描写がちゃんとあることを期待してしまうじゃないですか。「平凡な中流家庭の孕む病理」を具体的に描写されているという期待をしてしまうじゃないですか。そのうえ本作のタイトルは、明らかにキルケゴールの『死に至る病』を典拠としています。各章の冒頭にキルケゴールの引用まであります。そうなると、上記のアオリ文と合わせてこの『殺戮に至る病』(=稔の凶行の原因となった病理的な何か)の具体的な内容(手っ取り早く想像できるところでは、稔が両親から受けてきた虐待その他)が克明に描写されると想像してしまうじゃないですか。しかも、本作において読者を引っ張る「謎」はこの動機面だけと言っても過言ではありません。前述のとおり稔が犯人であることは冒頭に明かされてしまいますし、叙述トリックもそもそも仕込まれていること自体に気付けないほど信一と容子が隠されているので、読者は何を期待して本書を読み進めるかというと、息を飲むような動機(=稔の過去)だけだと思うのです。でも、はっきり言えば大した描写はないのです。そのせいで、非常に肩透かしを食らいました。大した原因が無いのに残忍な犯行を繰り返したヤバめのサイコパスを描く小説というのもあり得ますが、本作はそういう形でのプロモーションはされていないと思います。稔の死体損壊や屍姦の描写はしつこいぐらいに微に入り細を穿っているのに(ゆえに本作はかなり読み手を選びます。グロ描写が苦手な人は読めないと思います)、動機面の描写が弱いのは片手落ちだと思います。明らかに、力の入れどころを間違えています。アオリ文の内容に作者がどれほど口出しをできるかは未知数なので、作者本人の意図とは違う形でのプロモーションが為されている可能性もあります。ゆえに作者ばかりを責めることには躊躇を覚えますが、売り手側の責任であることに変わりはありません。

※稔の凶行のBGM(と言っても、小説なので歌詞が書かれているだけです)に岡村孝子の「夢をあきらめないで」を持ってきたセンスは大好きです。曲調がミスマッチすぎて、作りものではない天然ものの狂気を感じることができました。私は、ミスマッチなBGMに狂気を感じやすいのかもしれません。是非、映像化したものを見てみたいです。

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