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完全にネタバレをします。ミステリーなので、本稿を読むのは作品の読了後をお勧めします。
とある小説紹介系YouTuberの動画でミステリの中で「1位」(それも、一応読者投票を集計している体の動画でした)だったので、期待していました。確かにおもしろいはおもしろいです。水準には達していると思います。でもまあ、1位になるほどではないと思います。
私は、小説という手法は、画のある表現手法には、「制作・入手・視読の際のコストが低くなる」という点以外の点では基本的に勝てないと思っています。画のある表現手法(映画・ドラマ・舞台・アニメ・ゲーム・漫画その他。以下、有画表現といいます)には、基本的に文章しかない小説は、刺激の強さという点でどうしても劣後するからです。無論有画表現は、文章を書きさえすればいい小説と異なり、制作時のコスト(金銭面のことだけではなく、労力も含みます)が跳ね上がるため、それが入手時のコストにも反映され(=単価が高くなる)、更には視読の際には専用の機器(主には、画面です)も用意しなければならないため、このコストも小説よりは上がります。逆に言うと、このあたりのコスト問題が無視できるほどの差になってしまうと、小説は有画表現に勝てなくなり、淘汰されてしまうのではないかという危惧があるわけです。現に昨今はスマートフォンという「画面」やサブスクリプションという仕組みが世に蔓延したため、有画表現もかなり低コストで入手・視読できるようになっています。
そのような状況下で私は、小説がコスト面以外で(=純粋なおもしろさという面で)有画表現に勝てるのは何かということを考え続けています。その一つが、小説という表現手法の制約の多さ(=基本的に画は使えない)を逆手に取った、叙述トリックでしょう。そして、私はこの叙述トリック以外に小説が有画表現に勝っている部分を思い付いていません。考え続けてはいますが、未だ思い付いてはいません。
ゆえに、全ての小説には叙述トリックを仕込んで欲しいと思っています。
長々と話しましたが、本作には叙述トリックはありません。期待して読み始めたのですが、要は探偵役が真犯人であり、しかもモリアーティ教授や高遠遙一みたいなとんでもない大犯罪者だった、というのがオチになります。この最後の最後の展開の前に、真犯人が探偵として嘘の真相を暴き出すのですが、それ自体は硝子の塔の主人である神津島が招待客に仕掛けた偽装殺人でした。神津島は死んだふりをしておいて本当は死んでいなかったのですが、その状況を利用して神津島ほかの被害者役を全て殺してしまったのが本作の真犯人になります。
大オチ自体、探偵が真犯人というのも最早珍しくないですし、モリアーティ教授や高遠遙一みたいなとんでもない大犯罪者というキャラ付けも、この2人の名前を出せていることから分かる通りそこまで新鮮でもありません。しかも大オチ前に探偵本人が「探偵が真犯人というミステリも珍しくない」という趣旨のことを言ってしまっており、わざわざ読者のハードル上げたうえでこのオチなので、どうにも白けます。また作中で実在のミステリ小説の名前を出して褒めちぎる展開が何度もあるのですが(特に島田荘司と綾辻行人に対する称揚が顕著です)、この2人は本作の帯にもコメントを寄せており、業界内部で持ち上げ合っている構図が気持ち悪いです。2人の代表作である『十角館の殺人』と『占星術殺人事件』は奇しくも本作の直前に読んでいましたが、いずれも手放しで褒められるほどの出色の出来ではありません。それがこの構図の気持ち悪さに拍車をかけています。
真犯人の犯行も、よくよく考えてみると本当に可能だったのかというのが結構なあなあに誤魔化されている感じがします。一条遊馬を、自分の顔を見られないように階段から突き落とし、「しばらくの休息が必要だけど休息さえとれば自由に動き回れる」絶妙な程度のケガを負わせ(足の骨を折って歩行が困難になるレベルまでいくのは望ましくない)、彼を睡眠薬で眠らせた後に約6時間で3人殺して工作もする、というのを成し遂げる必要があります。
まあ、私がハードルを上げ過ぎただけでしょう。期待せずに読むと十分おもしろいと思います。登場人物のキャラ立ちはしっかりしていますし、クローズドサークルの緊張感はちゃんと出せていると思います。
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とある小説紹介系YouTuberの動画でミステリの中で「1位」(それも、一応読者投票を集計している体の動画でした)だったので、期待していました。確かにおもしろいはおもしろいです。水準には達していると思います。でもまあ、1位になるほどではないと思います。
私は、小説という手法は、画のある表現手法には、「制作・入手・視読の際のコストが低くなる」という点以外の点では基本的に勝てないと思っています。画のある表現手法(映画・ドラマ・舞台・アニメ・ゲーム・漫画その他。以下、有画表現といいます)には、基本的に文章しかない小説は、刺激の強さという点でどうしても劣後するからです。無論有画表現は、文章を書きさえすればいい小説と異なり、制作時のコスト(金銭面のことだけではなく、労力も含みます)が跳ね上がるため、それが入手時のコストにも反映され(=単価が高くなる)、更には視読の際には専用の機器(主には、画面です)も用意しなければならないため、このコストも小説よりは上がります。逆に言うと、このあたりのコスト問題が無視できるほどの差になってしまうと、小説は有画表現に勝てなくなり、淘汰されてしまうのではないかという危惧があるわけです。現に昨今はスマートフォンという「画面」やサブスクリプションという仕組みが世に蔓延したため、有画表現もかなり低コストで入手・視読できるようになっています。
そのような状況下で私は、小説がコスト面以外で(=純粋なおもしろさという面で)有画表現に勝てるのは何かということを考え続けています。その一つが、小説という表現手法の制約の多さ(=基本的に画は使えない)を逆手に取った、叙述トリックでしょう。そして、私はこの叙述トリック以外に小説が有画表現に勝っている部分を思い付いていません。考え続けてはいますが、未だ思い付いてはいません。
ゆえに、全ての小説には叙述トリックを仕込んで欲しいと思っています。
長々と話しましたが、本作には叙述トリックはありません。期待して読み始めたのですが、要は探偵役が真犯人であり、しかもモリアーティ教授や高遠遙一みたいなとんでもない大犯罪者だった、というのがオチになります。この最後の最後の展開の前に、真犯人が探偵として嘘の真相を暴き出すのですが、それ自体は硝子の塔の主人である神津島が招待客に仕掛けた偽装殺人でした。神津島は死んだふりをしておいて本当は死んでいなかったのですが、その状況を利用して神津島ほかの被害者役を全て殺してしまったのが本作の真犯人になります。
大オチ自体、探偵が真犯人というのも最早珍しくないですし、モリアーティ教授や高遠遙一みたいなとんでもない大犯罪者というキャラ付けも、この2人の名前を出せていることから分かる通りそこまで新鮮でもありません。しかも大オチ前に探偵本人が「探偵が真犯人というミステリも珍しくない」という趣旨のことを言ってしまっており、わざわざ読者のハードル上げたうえでこのオチなので、どうにも白けます。また作中で実在のミステリ小説の名前を出して褒めちぎる展開が何度もあるのですが(特に島田荘司と綾辻行人に対する称揚が顕著です)、この2人は本作の帯にもコメントを寄せており、業界内部で持ち上げ合っている構図が気持ち悪いです。2人の代表作である『十角館の殺人』と『占星術殺人事件』は奇しくも本作の直前に読んでいましたが、いずれも手放しで褒められるほどの出色の出来ではありません。それがこの構図の気持ち悪さに拍車をかけています。
真犯人の犯行も、よくよく考えてみると本当に可能だったのかというのが結構なあなあに誤魔化されている感じがします。一条遊馬を、自分の顔を見られないように階段から突き落とし、「しばらくの休息が必要だけど休息さえとれば自由に動き回れる」絶妙な程度のケガを負わせ(足の骨を折って歩行が困難になるレベルまでいくのは望ましくない)、彼を睡眠薬で眠らせた後に約6時間で3人殺して工作もする、というのを成し遂げる必要があります。
まあ、私がハードルを上げ過ぎただけでしょう。期待せずに読むと十分おもしろいと思います。登場人物のキャラ立ちはしっかりしていますし、クローズドサークルの緊張感はちゃんと出せていると思います。
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