当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

 私の考えていることを論理的につなげてまとめていったら一つの哲学というか教義のような実体を帯びてきたので、ここにまとめて記します。世が世なら、カルト扱いなんでしょうな。小見出しだけ見るとセンセーショナルな言説が並んでいるように見えて、私が生そのものを否定しているようにも思えますが、そんなことはありません。中身をよく読んでください。実体は、生の無上なる礼賛のはずです。
 なおここに書いてあるのは筆者が既に何度も折に触れて述べていることの集合体です。興味のある方は『シトラス三国志』『チン太のこと』も読んでみてください。でも、そうやって物語化すると中身が間接化してしまうので、やっぱりこうやってダイレクトに伝えた方が早いと思っています。これも折に触れて述べていることですが、何かにつけて物語の形で何かを伝えようとしている人は、物語から言いたいことを抽出する能力がないだけという場合も多分にあるのではないでしょうか。

1.生きている意味のある人間は一人もいない

 生きている意味のある人間なんて、一人もいない。そこを肯定することから全ては始まります。

 地球ができたのが、46億年前でしたっけ。宇宙ができのたは、もっと遡って138億年前らしいです。そんな膨大な歴史の中で、人間(ホモ・サピエンス)が生まれたのはわずか25万年前です。
 「地球の歴史を1年に置き換えると」という有名な話があります。地球の歴史を1年に例えると、ホモ・サピエンスの誕生は大晦日の午後11時37分のことです。紅白ももうすぐ終わるような時刻です。人間なんていない時代も、この地球も、この宇宙も、膨大な量の歴史を積み重ねてきてるのです。
 ヒトも、いずれ絶滅するやもしれません。筆者はなんとなく、早晩絶滅する可能性が高いと考えていますが、ヒトを絶滅に導くような諸々(核戦争やら隕石やら化石燃料の枯渇やら破局的噴火やら氷河期やらなんやらかんやら)を持ち前のガッツと技術でどうにかこうにか振り切ったとしても、約50億年後には太陽が寿命を迎えると言われています。正確なことを言うと、寿命を迎える前に地球に影響を与えるような変化が太陽に色々と起きるようですが、細かいので省略します。何であれ、太陽がなくなったらヒト(というより地球上のほぼ全ての生物種)はどうやっても生きてはいけないでしょう。現在の地球の気温を保っているのは太陽からの熱です。太陽から地球よりちょっと遠いだけの火星ですら、平均気温がだいたい-43℃という有様ですから、太陽がなくなったらもう氷河期どころの騒ぎではありません。そもそも太陽があるから地球は公転をしているわけで、太陽がなくなったらどこにどうすっ飛んでいくか分かったもんではありません。太陽の消滅によって地球が死の星になっても、どこかにすっ飛んでいっても、宇宙はなおも厳然として存在するわけです。誤解を恐れずに敢えてセンセーショナルな物言いをすれば、我々はどうやってもいずれ絶滅する(太陽がなくなっても生きていける環境を人工的に作り出せるなら別ですよ。作り出せるなら、ですがね)のに今必死にあくせく動いているわけです。傍から見れば、これほど滑稽なこともないでしょう。

 これまでヒトの歴史がいかにちっぽけかという話をしてきましたが、ちっぽけだから意味がないというわけではありません。ヒトが仮に50億年ぐらいの歴史を持っていたとしても同じことです。ヒトが生まれる前にも宇宙はあったし、ヒトが絶滅した後も宇宙はあるのです。宇宙を尺度として考えるのもそもそも不適切なんでしょうが、そこに踏み込むと分かりにくくなるので敢えて避けます。
 ヒトが生まれる前も、ゴキブリはいました。ヒトが絶滅した後もゴキブリは恐らくしぶとく生き続けるでしょう。別にゴキブリに限定する必要はありません。ワニだってアメーバだっていいんです。逆に言うと、例えば恐竜はもう絶滅してしまいましたが、我々は今も変わらず生きています。ヒトが生きていようがいまいが、他の生物は変わらず生き続ける、その逆もまた然り、ということです。敢えて分かりやすい言い方をすれば、ヒトが生きていようがいまいが、外界の何かに影響を与えることはないのです。ヒトに生きている意味なんてないし、生きている意味のある人なんかいません。

 この主張には、こういう反論が予想されます。

「私は、自分の妻子を養うために生きている。私には生きている意味がある」

 この反論は、様々なバリエーションが観念できます。「妻子」の部分を「親」に変えても通用します。あるいは、「私が死ぬと友人知人が悲しむから、私には生きている意味がある」というのも同根の主張です。
 でもこれは反論になっていません。あなたの生きている意味があなたの妻子にあるとすれば、あなたの妻子に生きている意味がないとあなたの生きている意味を論証したことになりません。毎日毎日しなくてもいい仕事だけをしている窓際族が「俺は仕事をやっているから、俺は会社にいる意味がある」とだけ言っても通らないとの一緒です。その仕事に意味があるかどうかを検証しないと話が前に進みません。
 ここで、大前提を思い出してください。「全ての人にはみな生きている意味がない」ということです。となれば、あなたの妻子も「人」である以上、生きている意味はありません。ということは、妻子の役にしか立っていないあなたにも生きている意味はありません。実に、鮮やかな論理です。
 この論理は、妻子の部分を親や友人知人に変えたものにも応用できます。何らかの「他人」に生きている意味を見出しても、その他人も人である以上皆等しく生きている意味はありません。だから、その他人に生きている意味を託している人物にも生きている意味は生じません。
 ちなみにヒト以外の生物でも同じことです。冒頭に述べたように、「いようがいまいが宇宙は厳然として存在する」というのは、全ての生物種に言えることです。恐竜だろうがコウガイビルだろうがハダカカメガイだろうが、いようがいまいが宇宙は厳然として存在するので、全ての生物種に生きている意味などありません。むろん、ヒトにとって役立つ動物(家畜やペットなど)というのはいますが、それはあくまでヒトに役立つかどうかという尺度でしかないので、ヒト自体に生きている意味はない以上、ヒトに役立つ動物もいようがいまいが意味はありません。となると、「俺がいないと飼っている犬のポチが死んじゃうから俺は生きている意味がある」という(情緒的でしかない)反論も一掃できることになります。ポチにも生きている意味はない以上、その反論であなたの生きている意味を論証したことにはなりません。ネコのタマだろうが、オカメインコのピーちゃんだろうが同じことです。

2.人間はみな平等である

 生きている意味のある人間なんて一人もいない、ということは分かっていただけたと思います。無論、筆者も人である以上生きている意味なんてありません。

 これはすなわち、みな平等に意味がないということです。裏を返せば全員がゼロなので、人の価値に差は付けられないということになるのです。

 もちろん、違う尺度を導入すると人に差をつけることはできます。例えば「稼ぐ力」という尺度を導入すると、ジョブスやゲイツはかなり高い順位にくるでしょう。「他人に役立つかどうか」という尺度でも、2人ともマッキントッシュやらウィンドウズやら人に役立つツールを作ってこれを全世界的に普及させたという実績を持っているので、かなり高い位置にくるのではないでしょうか。マザー・テレサやガンジーも他人のために色々なことをやった人なので、「他人に役立つかどうか」という尺度だと高い位置に来ると思います。
 でもまあ、その尺度はいずれもさほど意味のあるものではありません。
 まず稼ぐ力があるとどうかということですが、稼いでいる本人は裕福な暮らしを送れるうえに、金の力でいろいろなことができて幸せでしょう。本人の周囲の人もそのおこぼれに預かれて幸せでしょうし、本人が余った金を他者にも分け与えようとすればその他者の幸福度も幾分上がるでしょう。でも、結局人間が幸せになるかどうかという話に過ぎません。人間には、そもそも生きている意味がない以上、どのくらい幸せかなんていうのは輪をかけて意味のないことです。
 「他人に役立つかどうか」という尺度についてはもっと直接的です。他人に役立っても、その他人にも生きている意味自体がない以上、どうというものではありません。マザー・テレサはたくさんの人を救ったのでしょうが、その救われた人にそもそも生きている意味がない(これは、救われた人が貧民だからとか、孤児だからというわけではなく、冒頭から述べている通り全ての人にみな平等に生きている意味がないからです)、彼女のやったことにも意味はありません。ジョブスはiPhoneを作って人間のコミュニケーションに革新をもたらしましたが、革新がもたらされた人々にそもそも生きている意味がない以上、その暮らしが便利になったかどうかなんてのはどうでもいいことです。

 あなたは、ジョブスやゲイツのように稼ぐことはできていないかもしれません。ガンジーやマザー・テレサのように他人に役立つことができていないかもしれません。私もそうです。でも、消沈する必要はありません。彼らのやっていることにも意味はないのだから、彼らも我々も皆生きている意味がないという意味では、対等です。あなたも私も、胸を張っていればいいのです。
 例えば、精神的・知的な障害を持っている人もこういう意味では対等です。稼げるかどうか、人の役に立つかどうかといった尺度を導入すると、客観的な現実として、こういった障害を抱えている人が健常者より稼ぐのは難しいでしょうし、人様の役に立つのも難しいでしょう。それは、厳然としてそうです。でも、そこを誤魔化して「みんな違ってみんないい」なんて目くらましの言説を並べ立てるより、「お前には価値がないけど、ジョブスにも価値はないんだ。だからお前も胸を張っていな」って言ってやれている私の方が、よっぽど優しいと思いますけどね。どうなんでしょうね。

 ここにきて、この考え方はジョブスやゲイツやガンジーやマザー・テレサのように自己実現を為し得ていない私が彼らとせめて精神面では同じ位置に立つための奴隷道徳的なものではないかという気がしてきました。その側面は否定しませんが、だからといってこの考え方が真理である以上それを私が述べることを止めることはできません。他者がこの考え方に共感することも止めることはできません。思想の中身を、きちんと見てください。思想の発祥だけを見てその中身の正誤を云々するのは理性的とは言えないやり方です。

3.どう生きるか

 「お前には生きている意味がない」と言われると、悲しみや憤りを覚える人もいるでしょう。「そんなことを言われてもどうすればいいのか」と不安や焦燥に駆られる人もいるでしょう。ここからでは、それを前提としてどうすればいいのかということを説明します。
(1)好きなようにやればいい
 既に述べたように、人はみな平等です。みな生きている意味はありません。だから、自分の好きなようにやればいいです。自分の好きなことをやった方が、人は「快」を得られるでしょう。あなたが快を得るかどうかは散々述べてきたようにどうでもいいことなのですが、どうでもいいからには快を得てもいいのです。あなたの妻子にも生きている意味はないと言いましたが、あなたの妻子に尽くすことであなたが快を得られるのであれば、大いにやってください。どうしようが意味のないことなので、他者にそれを止めることはできません。ジョブスもゲイツもガンジーもマザー・テレサも、おそらく自分の好きなことをやっていただけだと思います。自分の好きなことをやったからこそ、あそこまでのクオリティを発揮できたのでしょう。あなたも彼らと同じように自分の好きなようにやればいいのです。彼らは運よく、自分の好きなことの内容がお金を生むことだったり、社会的な評価を得られることだったりしました。あなたの好きなことが、裏庭の雑草の本数を数えるといったお金にも社会的評価にもつながらないことだったら、運が悪かったとしか言えないですが、好きなことをやっているという意味ではジョブスやマザー・テレサと対等なので、大いにやってください。というより、何度も述べているように人間に貴賤なんてないのです。みな対等なのです。逆に、お金や社会的評価を得たい人がいるのであれば、その方面で頑張ってみればいいのではないでしょうか。そういう人はそれが好きだということでしょうから、これも他者から止められることではありません。

 何をやっても意味はない以上、指標になるのは「自分が好きかどうか」「自分が快を得られるかどうか」だけではないでしょうか。
(2)自殺の全面的肯定
 そしてもう一方で、生きていても楽しくないという人もいるかも知れません。人が生きていることに意味はないので、生きていても楽しくない人がいるのであればその人が人生をやめる決断をすることも止められるものではありません。これが、純粋に論理的な帰結です。私は、自殺を全面的に肯定します。
 何度も述べていますが、全ての人に生きている意味はありません。先ほど生きていることで楽しい人は自分が楽しく感じられることをやって生きていればいいのではないかと述べましたが、逆に言うと人が生きるのは「自分が楽しいから」という以上の理由はないと思います。かくいう私も、ここに書いているような自分の考え方を披見するのは楽しいですが、それ以外では楽しいことはほとんどないので、特に生きている理由はないと思っています。現在私が生きているのは、「死ぬのが怖いから」に過ぎません。人生が楽しくなく、かつ死への恐怖を克服できる人が自らの真に自由な意思に基づいて楽しくないものを終わらせる決断をすることが、どうして止められるでしょうか。「野球部には入ってみたけど、やっぱり楽しくないから辞める」というだけのことですよ。しかもその野球部は、自分で入った野球部ではないんです。親に勝手に入らされていた野球部なのです。
 ちなみに今の日本では自殺(と自殺未遂)はそのものは犯罪ではありません。しかし、自殺を手伝うと自殺関与罪・同意殺人罪等に問われる可能性がありますし、社会的にも自殺はまだまだ「悪」とされているでしょう。だから、自殺それ自体は、グレーな行為です。グレーだからこそ、隠密にひっそりと行われます。これは、生きていたい人にも色々と迷惑をかけます。死体の第一発見者は大変でしょうし、警察も事件性等を考えて最低限の捜査はしないといけないでしょうし、事故物件も生まれてしまいます。飛び降りなんぞを敢行したら、他人を巻き込んでしまうかもしれません。なので、もっと自殺したい人が大っぴらに、オフィシャルに、そして安全に自殺できる環境を作るための法整備をすべきだと考えています。自殺したいと言っている人の意思をきちんと確認して(後でクレーマー的な家族に文句をつけられないように、同意書みたいな書面を残すだけじゃなくて意思表明の模様を録画しておくべきでしょうね)、きちんと楽に死ねる手段を用意して、遺体にもきっちりと然るべき処理をする。とまあ、こういうことです。
(3)親も自分の都合だけで子をこの世に生み落とした
 私の母なんぞは、「お前が死ぬと私が悲しいから死なないでくれ」ということを言います。でもまあ、母にも生きている意味はないので、母が悲しむかどうかは輪をかけてどうでもいいことです。「そう言われるのが辛いからやっぱり死ぬのはやめた」と思える人は死ななくても結構ですが、なおも死にたいという人が死ぬのを止められるものではないでしょう。死にたいという人を「私が悲しいから死なないでくれ」という人は、自分の都合だけでその人の理性的な決断を邪魔しようとしているのですから、せめて死のうとしている人のその後の生活の面倒を見てやる覚悟がないとそういうことを言ってはいけないと思います。特に親は、自分が勝手に子を生み落とした立場にあるのだから、最後ぐらい子供に自分のことの決定権を与えたらどうでしょうか。
 子というものは、常に親の都合だけで生まれてくるものです。親が自分がいい思いをしたいがためだけに生み落とされる存在に過ぎません。セックスの快楽を得たいから、生きるアテが欲しいから、自分のことを無条件に承認しくれる乳幼児から癒されたいから、世間体が気になるから、生まれてくるものに過ぎないのです(逆に言うと、これらが抗い難い快楽だからこそ、ひとりでに子は作られて、人間が増えていくのでしょう)。「子どもにもこの楽しい人生を経験させたい」と思って子どもをもうけた人がこの世にどれほどいるでしょうか。特に今のこの激動の世の中、子供の人生が楽しいものになる保障は全くないんですよ。
 とはいっても、親は自分の好きなように振る舞っただけなので、止めることはできなかったことです。「何をやっても意味はないのだから、自分のやりたいようにやれ」というのは散々述べてきたとおりです。親が自分の都合だけで生命を作り出したことを悪だというつもりはないですし、悪だと言うこともできません。ですが、子にも同じ権利はあります。子は親が自分の好き勝手で子をもうけたのと同じように、自分でも好き勝手に生きることができます。当たり前のことかもしれませんが、子が自分の言うことを聞かなくなるリスク、自分の思う通りには動いてくれないリスク、楽しくないので自ら死を選んでしまうリスクぐらい、親は含み置いておくべきでしょう。「私が悲しいから死なないでくれ」なんていう理屈は通りません。親と子は一人の人間として対等です。親の都合だけが優先されるいわれはありません。死なないで欲しいのなら、せめて子が生きていてもいいと思えるような条件を提示しないとお話にならないでしょう。
 ちなみに私は、今の人生がそんなに楽しくないので、子をもうける気になりません(それ以前にそういうパートナーがいないのは確かですが)。子の人生が豊かなものになるとは思えないし、今の人生を楽しく思えなかった子から「お前が勝手に生んだんだろ」とか言われたら途轍もなくいたたまれなくなるからです。それ真理だと確信している私には、反論ができません。
(4)人殺しも対等
 さて、「人はみな平等に価値がない」という命題の論理的帰結として、人殺しも平等です。私もあなたも人殺しも、みな価値が0という意味では平等です。「人を殺すのだから人殺しは0ではなくてマイナスではないか」という反論が聞こえてきそうですが、思い出してください。殺された被害者も生きていることに意味はないので、価値は0です。だから、0のものを壊すからといってマイナスが生じるということはありません。人殺しも、価値は0です。
 それは同じような悪人にも言えます。盗人も、詐欺師も、放火魔も強姦魔もみな価値は0であって、対等です。みんな人に迷惑をかけますが、被害者が生きていること自体に意味はないのは同じなので、被害者が精神的・肉体的・財産的な種々の被害を受けることなんてどうでもいいことなのです。だから彼ら「悪人」の価値も0に止まるものであって、マイナスではありません。
(5)法と道徳
 じゃあ人殺しは野放しになるのか、というとそんなことはありません。少なくともこの国には、刑法199条という法律があって、殺人は犯罪とされています。人を殺した人は、原則的に然るべき処罰を受けることになります。そして、それ以上でもそれ以下でもありません。
 ここで言いたいのは、法律という発明がなければ、人殺しは悪にはならないということです。少なくともこの国には殺人を悪とする法律があるので、人殺しは法的な意味での悪です。逆に言うと、法的な意味の悪でしかありません。道徳的な意味での悪ではないのです。そもそも、法律に先立つ道徳などというものは存在しません。

 人の歴史を勉強すれば分かることですが、昔はもっと簡単に人が殺されていました。ホモ・サピエンスが生まれたばかりの時代は、殺人が悪だなどという法律はなかったことでしょう。人は、エサをめぐって、配偶をめぐって、盛んに殺し合いをしていたことでしょう。
 ではなぜ法律が作られて人殺しが悪とされたのでしょうか。おそらく、私のように殺されたくない人の方が多数派だったからだと思います。殺されるのがたまらないゆえに、痛い思い・苦しい思い・怖い思いをするのを阻止すべく、多数派の合意という形でルールを作って人殺しを禁止したのです。このルールがあると、自分一人では人殺しに対抗できない「弱い」人も生きのびることが可能になります。力はないけど頭のいい人を始めとして多種多様な人間が生き残ることが可能になり、人口の減少も単純に抑えられるので、このルールが作られた社会の方が発展しました。人殺しが悪とされていない「万人の万人に対する闘争」状態のディストピアは、駆逐されていきました。
 このようなルールそれ自体の発明の経緯は、他の犯罪についても一緒です。自分の財産がかすめ取られたり壊されたりしたら困るので、盗みや詐欺や放火は多数派の合意として形成したルールによって禁止したのです。すると、財産を長期的な視点で保持して利用・投資していくことが可能になる(盗みや放火が悪とされていない社会では、財産は得たら他人にどうにかされる前にすぐに消費してしまうのが合理的な行動になるので、長期的な視座に立った利用や投資が難しくなります)ので、そういうルールを設けた社会の方が発展し、そうでない社会を圧倒していきました。

 でもこれらのルールを維持するにはコストがかかります。殺人禁止ルールを実効的なものとするには、殺人を犯した違反者にきちんと制裁を加えることが必要です。これがないとみなルールを軽視するようになり、ルールそれ自体がオオカミ少年化してしまいます。制裁を科すには、警察組織・司法組織・刑の執行組織(刑務所)が必要で、これらの維持には社会的なコストがかかります。特に違反の件数が多いと、運用もままなりません。では、どうすればいいでしょうか。こういう制裁の仕組みがなくても、社会の成員が自発的にルールを守ってもらえるように仕向ければ手っ取り早いです。それには、ルール違反の行為を考えたり口に出したりするだけで「不快」な思いをするようになれば、自ずとルール違反それ自体から遠ざかっていくことでしょう。現在の平均的な日本人には、こういう面が多かれ少なかれ存在します。殺人を考えたり話題にしたりするだけで、大なり小なり一定の抵抗感を覚えるのではないでしょうか。まして実際の人殺しなど、頭が拒否するはずです。このように、ある価値観が、「その価値観に反する言動をとったり見聞きしたりするだけで一定の抵抗感を覚える状態」にまでその人に浸透している状態のことを、価値観の内面化といいます。今の平均的な日本人には、「殺しはダメ」「盗みはダメ」「嘘をつくのもダメ」「人に暴力を振るってはいけない」「ゴミはゴミ箱へ」「信号は守る」「糞尿はトイレへ」などといった価値観が内面化しています。普通の人は、これらに反する言動をとったり見聞きしたりするだけで、一定の抵抗感を覚えるものでしょう。これがあるからこそ、多数派は自発的に殺人や盗みを控えるので、違反の件数自体が減り、制裁にかかる社会的なコストも抑えられるのです。またこのシステムの賢い点は、価値観それ自体が連綿と社会の新たな構成員にも受け継がれることです。この価値観が内面化している人は、盗みや盗みを正当化する言説を見ただけで心理的な抵抗感を覚え、これを是正しようとするので、自分の子どもを始めとする社会の新入りにそれはそれは無意識に「殺しはダメだよ」「盗みはダメだよ」ということを教えます。教育が、自発的に行われて、価値観が自動的に維持されていくのです。
 さてこの考え方は「人殺しに嫌悪感を感じるのは後天的な教育によって得た感情である」という理解を前提にしていますが、これに対してはほぼ判で押したように「人殺しを嫌悪するのは人間に生来備わっている先天的な感情である」という反論が為されます。これは、本当にそうでしょうか。
 無論、先天的な部分がある可能性もあります。ただ、私は完全に先天性のみに由来するものだとは思いません。人間全員に生来そのような人殺しを嫌悪する感情があったとすれば、現在までの歴史で積み重ねられてきた殺し合いの数々が説明できなくなると考えるからです。時代が下るにつれて人殺しは社会から次第に排除されるようになってきたので、人殺しを嫌悪する感情の発露となる遺伝子があるとすれば、それが進化によって多数派になっていく(あるいは、もうなっている)可能性もあるとは思いますが、そうであったとしても先天的な由来は部分的であって、生まれた瞬間に人がみな殺し合いを嫌悪しているというものではないと思います(現在も、さほどの躊躇なく人を殺す人間が世界中にいます)。この感情は、後天的なものと相俟って初めて発露するものでしょう。これは、人間に先天的に人殺しを嫌悪する感情の「種」のようなものが備わっていて、生まれた後の教育その他の環境次第で発芽する場合も発芽しない場合もあるというイメージです。人殺しがこの国より珍しくない地域では、「人を殺してはいけない」という価値観の教育の不徹底さや、子供の周りにさほどの躊躇なく人を殺そうとする大人がたくさんいるという環境のせいで、この「種」が発芽しにくいのではないでしょうか。

 上記のとおり、先天的な「種」があるにせよ、ないにせよ、人殺しに対する嫌悪が後天的な教育や環境によって初めて発露する感情であることは違いがありません。そもそも植物の種だって、無条件に発芽するものではありません。水や温度といった周囲の環境条件が整って初めて発芽が生じます。人間も一緒です。放っておけば勝手に人殺しを嫌悪してくれるというものではないと思います。社会の新入りに対しては無意識に徹底的な「殺しはダメ」「盗みはダメ」という価値観の刷り込みが行われ、これが構成員たちに内面化していきます。もともとこの感情の発露となる種があるのか、それともないのかは些細な違いでしょう。

 そして、この内面化した価値観こそが道徳の正体です。普通の人は、人殺しはそれだけで「なんとなく悪」だと感じているため、法律がなくても悪だというような意識を持っていますが、そう考えてしまうのはあくまで人殺しは悪だという価値観が内面化しているからに過ぎません。そしてその価値観が内面化されたのは、最初に「人殺しは悪だ」という法律ができて、そのルールを維持するために人殺しは悪だという価値観の刷り込みが何代にも渡って行われてきたからです。敢えてレトリカルな物言いをすれば、まず法ができて、そこから道徳ができたのです。最初に「人殺しはダメだ」という道徳があって、それを具現化したのが殺人罪という法であるというのが直感的な理解でしょうが、逆なのです。コペルニクス的転回なのです。略して、コペ転と言います。
 だから、人殺し自体は法に先立つレベルの根源的な悪だなどという言説は間違っています。あくまで法があって初めて悪とされるものです。そうであっても、成熟した近代社会には普通人殺しを禁止する法があって、それを反映した価値観も当該社会の構成員に内面化されています。それで充分人殺しは抑制できるのですから、それでいいではないですか。
 かく言う私も、死ぬのは怖いです。「人殺しは法がないと悪ではない」とか、「全ての人に生きている意味はない」とか「自分も生きていて楽しくはない」だとと言ってはいますが、殺されるのは御免です。私は、痛い思いも苦しい思いも怖い思いもしたくありません。私は、自分の好きなように生きろと言ったはずです。私は殺されるのは嫌いなので、それをされたくないと言っているだけです。今の人生はそんなに楽しくはないので死んでしまってもいいとは思っていますが、死ぬのは怖いです。だから、生きています。多分、「これを飲めば安楽死できるよ」という薬を渡されても、怖くて飲めないと思います。それほど、死ぬのは怖いです。だから、生きています。
 別に、これは矛盾してはいません。「死という結果は得たいけど、その結果を得るまでの過程に苦しい部分があるから結果自体を諦める」と言っているだけです。「プロ野球選手になってはみたいけど、キツイ練習はごめんだからやっぱいいや」というのと一緒です。よくある、心理でしょう。
 好きなようには生きろと言っていますが、人殺しが趣味の人(この世には、太陽が眩しかっただけで人を殺してしまうような人がいるのは事実です)はなかなか好きなように生きるのは難しいでしょう。そういう人が自分の好きなように生きるには、バレないようにやるか、法律を変えるか、人殺しが大丈夫なフロンティアを自分で見つけるかしかありません。バレないように人殺しをやるのは、「道徳的」な意味では止めることはできません。そんな「道徳」は存在しないからです。人殺しは、法的な悪だということでしかなく、それ以上でもそれ以下でもありません。でも、それでいいではないですか。少なくとも法的には悪なんですから。

※分かりにくくなるのであまり書きたくはないのですが、「道徳などというものは存在しない」という筆者の考え方に対しては、「先天的な種」が備わっている感情に合致する価値観を道徳と定義すればいいのではないかという反論が想定されます。でも、「種」のある感情だけを抜き出して特別視することに意味があるとは思えません。前述のように、「種」はあっても環境次第で発芽する場合も発芽しない場合もあるというのが筆者の考え方であり、環境次第で生まれる可能性も生まれない可能性もあるというのは、種が全くない感情と特に異なるところがありません。両者を区別する実益は、今のところ特にないのです。だったら、同一視した方がよほど論理的でしょう。
 人間の感情は、先天的か後天的か、言い方を変えれば「氏か育ちか」という二項対立だけで割り切れるほど、単純なものではないと思います。だからこの二項対立をベースにして、一方を特別視する考え方は大雑把に過ぎるのです。生まれた時から将棋ばかりやらされて育った子は将棋が好きになるでしょう。卓球ばかりやらされて育った子は、卓球が好きになるでしょう。これは、幼少時に将棋や卓球にどっぷり漬かっていたという「育ち」(=後天性の由来)が大きいと思いますが、両親に当たる人物が将棋や卓球が好きで、そこから遺伝的な何かを得たという「氏」(=先天性の由来)の部分もあるのかもしれません。流石に将棋や卓球みたいな複雑なゲームが好きだという感情が人間に先天的に備わっているとは考えにくいとは思いますが、そういったゲームを通じて相手を負かす喜びみたいな感情は、長い闘争の時代を経てきた人間には先天的に(「種」として)備わっている可能性はあると思います。ならば、相手を負かす喜び、自分が勝つ喜びという感情の「種」が、将棋漬けで育ったという環境のために、「将棋を通して勝つのが好き」という形で発芽したのが「将棋好き」という感情だということになります。そうやって、先天的な部分と後天的な部分が複雑に絡み合って生起してくるのが人間の感情なのでしょう。だから、先天的な由来のあるものだけを抜き出すのはそもそも不可能だと思いますし、それを特別視するのも誤謬を生む原因になるだけだと思うのです。
(6)殺人を正当化する法と憲法
 さてそうすると、殺人を正当化する法も、多数派が望む限りは問題なく作れるということになります。生きている意味のある人間は一人もいないのであって、殺人が禁止されるのもあくまで多数派の合意でそうしたというだけですから、多数派が同じように合意すれば、人間の命を奪うのも何も問題はないということになります。その人に、生きている意味はないわけですから。

 とはいえ闇雲に命を奪えば万人の万人に対する闘争状態のディストピアと変わらない社会に戻ってしまうため、殺人を正当化する法を作るにしても、きちんとその人の命が奪われる理由がないと多数派の合意は得られないでしょう。現代日本で人の命を奪う法として現実に動いているものには、死刑制度がありますが、この制度で命が奪われることにはちゃんとした理由があります。すなわち死刑制度の根本にあるのは、社会に大きな迷惑をかける人間には相応の罰を与えねばならず、更生の可能性もない者は、社会から永遠に追放した方がいいという発想であります。この発想には、少なくとも日本人の多数派が合意できているということだからこそ、この国で死刑制度が存続しているのでしょう。
 別の例として、今の日本で議論が巻き起こっているのは終末期医療を受けている患者の扱いです。この議論の根っこにあるのは、終末期患者を生かすには色々と社会的コストがかかるので、合法的にその医療を終えて、延命措置を停止する仕組みが必要ではないかという問題意識です。これも、延命措置を停止してその患者に早めの死をもたらすわけですから、ある種の殺人です。生かしておくと社会的コストのかかる人間の命を、社会全体の効用の増加のために奪うという発想は死刑制度と一緒です。この制度も、多数派が合意して法律を作れば何の問題もなく動かすことができるのが私の「教義」からの帰結です。

 ただ殺人を正当化する法については、憲法違反なのではないかという問題は常につきまといます。
 憲法というのは、法律よりもランクの高いルールで、憲法に反する法律はたとえ国会の多数決できちんとした手続のもとに作られたとしても、無効になるというのが基本的な考え方です。そもそも、このような仕組みがあるのはなぜなのでしょうか。憲法の存在意義については色々な説明がありますが、筆者が理解しているのは大体以下のようなところです。
 法律というのは、日本のような民主主義国家のもとでは、多数決で作られます。逆に言うと、全員一致までは必要ありません。これは、ルールというものがそもそも対立する利害の調整のために作られるものである以上、自明の理であります。ゴミ捨て場に十分なキャパシティがあって、全ての利用者がいつどんな時にゴミを捨てても支障を生じないのであればルールは必要ありません。キャパシティに限界があって、順番や時間帯を決めなければゴミが溢れるような状態があるからこそそれについてのルールが必要になるのです。「ゴミは朝に捨てなければならない」というルールを作れば、深夜にしかゴミを捨てる時間がとれないような極端に忙しい人には不利な状態がもたらされるので、この人はこのルールの設置には賛成しないかもしれません。でも全員一致が必要だと何もルールが作れず、結局「ゴミ捨て場が溢れる」という問題が解決しないので、多数決で良しとしたのです。
 そうなると、少数派の意見が採り入れられていない状態でもルールというものは作ることができるようになります。多数派の合意によって少数派の利益を奪うことが可能になるのです。深夜にゴミを捨てる権利は奪われるし、殺人が趣味の人の「人を殺す自由」も奪われてしまうのです。これは、ルールを作る以上ある程度仕方のないことですが、他方でそういう多数派の意思決定によっても奪えない最低限の権利があるのではないか、それを奪う法律はさすがに問題ではないかという発想も出てきます。その「多数派の意思決定によっても奪えない最低限の権利」を定めているのが憲法の基本的人権の規定であって、これを奪う法律を無効とするのが憲法なのです。
 この基本的人権にも色々な種類がありますが、「生きる権利=(無闇に命を奪われない権利)」は最低限ここに入ってくるというのが通常の理解だと思われます。私は、日本国憲法をそのように解釈するのは間違っていないと思いますが、それはあくまで法律と同じくそのような憲法を多数派の合意で作ったからに過ぎません。憲法については、法律に先立つ道徳のようなものが存在しており、それを具現化したものが憲法であるという考え方(だから憲法違反の法律は法律以前の道徳に反しているということになり、無効になる)という考え方がありますが、それは間違っていると思います。
 前述のとおり、法律に先立つ道徳というものは存在しません。日本国憲法が法律よりも強い基本的人権なるものを定めたのも、多数派がそのように合意したからです。日本国憲法それ自体、総国会議員の3分の2以上の賛成で発議し、その後国民投票で過半数の賛成を集められれば改正が可能です。過半数の多数決より要件が厳しいとはいえ、反対する人がいても憲法の内容を変えることはできるのです(日本国憲法96条)。基本的人権も、反対者が一人でもいれば制約できない強い権利ということではなく、憲法改正の要件さえ満たせば憲法を改正するという形で制約はできるのです。これは、生きる権利を含めた基本的人権もあくまで多数派の合意によってはじめて権利として認められるものだということの証左です。
 ではなぜ「生きる権利」には強い権利が与えられたのでしょうか。過半数の多数決で決められる法律だけでこれが奪われるとなると、いつ自分に矛先が向いてくるか分からないので、簡単に奪えないようにした先人の知恵だというのが今のところの筆者の推定です。
 このように生きる権利は道徳上認められる絶対不可侵のものではありませんが、日本の現行のルールの下では、これを無闇に奪うには憲法改正という重い手続が必要です。そして、それで十分ではありませんか。
 かく言う筆者も、憲法のこの発想自体は歓迎したいと思っています。前述のように筆者も死ぬのは怖いので、多数決だけで無闇に命が奪えるとなったら、いつ自分が標的になるか分かったもんではありません。そして、どんな人であっても、社会に生かしておく余裕があるのであれば、生かしておいた方がいいのではないかと筆者は考えています。たとえ社会に多少の迷惑をかける存在であっても、社会に何らのプラスをもたらさない存在であっても、です。どこでどう役に立つかは、分かったもんではありませんからね。「生物多様性を守れ」という主張と同じ発想です。今は役に立たない人間でも、将来地球に侵攻してきた宇宙人の細菌兵器に耐性があることが分かるかもしれません。なら、余裕があるうちは自活できない人間であっても周りが面倒を見てやって生かしておいたほうがいいじゃないですか。まあでもこれは逆に言うと、生かしておく余裕が社会になくなったのであれば見捨てるのもしょうがないということでもあるんですけどね。
 そこらへんは、多数派の理性に期待したいと思っています。

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