当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

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学問

A.法学部の定期試験

 法学部というのは、基本的には厳しい学部です。
 何が厳しいかって、法学部の定期試験では、ちゃんと問題に答えないと点が入りません。
 理系の人に言うと当たり前だろうということを言われるのですが、大学の、特に文系の試験なんてのは、「○○について論ぜよ」みたいな抽象的な問題が多くて、出題者の意図を読み解くというよりは、いかに論理的に問題を歪めながら自分の得意分野に論述を引っ張り込めるかの勝負という部分が強いです。
 例えば、筆者は言語や脳や性の話が得意なので、哲学の試験で「ソクラテスは何を試みていたのか」という問題が出たとすると、どうにか頑張って筆者の主戦場であるソシュール言語論や売春の防止にまつわる話に論述を持っていこうと考えます。ただあくまで論理的に、です。売春規制に話を持っていく場合は、ソクラテスの試みと売春規制にどのような連関があるかを説得力をもって説明しなければなりません。
 ところが、法学部の試験ではこれが通じません。「窃盗罪における『占有』概念について論ぜよ」という問題が出たら、筆者がブルセラ規制の在り方についていかにハートフルな議論を展開したところで、1点も入りません。問題に答えないと点が入らないというのは、こういうことです。
 これは、何を意味するかといえば、試験に通るためには、きちんと勉強をしないといけないということです。自分の得意分野というのは、得意分野であるだけに何も勉強していなくてもかなりの程度アドリブで対応できるのですが、そうでなければそうじゃないのです。
 だから、法学部は厳しいのです。

B.学問の試み

 学問はどのように進んでいくかというのを簡単にまとめておきます。
 まず日々の生活の中で、色々な疑問や推理が立ちます。ここから、仮説というものができます。
 例えば、筆者は納豆を1食に1パック食べるのがどうしても苦手で(しょっぱいからです。ご飯1杯では受け止めきれていないほどのしょっぱさがあると思います)、半分くらい残して翌朝にまた食べるのですが、一晩冷蔵庫に置いた納豆は、きちんと前の日にタレを入れて混ぜていたにもかかわらず、なぜか塩味が雲散霧消しています。ここで「なぜだろう」という「疑問」を抱くわけです。この疑問から、色々な仮説が立ちます。「納豆菌が塩化ナトリウムを分解しているのだ」「ただ単に気のせいなのだ」みたいな仮説です。
 以上に挙げた例はあくまで日常に題材を得ています。もうちょっとちゃんとした研究者なら、日々の研究活動の中でこのような疑問や推理を抱くわけです。研究者は、基本的には日中はずっと研究にかまけているので、少なくとも他の人よりは(自分の研究分野について)様々な疑問や推理を抱きやすい生活を送っています。

 この仮説は、あくまで仮の説でしかないので、単なる印象論に過ぎないことが多々です。
 次に、この仮説が正しいかどうかを検証する作業に入ります。検証の手法については、学問分野ごとにそれぞれ長年をかけて練磨してきたやり方があるので、基本的にはそれに則ります。
 ただ大抵どの学問分野でも、まず先行研究を参照することを義務付けられます。自分が感じた疑問や、立てた仮説について、先人がすでに同じことを考えて、同じ検証をしてはいないかということを調べるのです。これが義務付けられるのは、すでに誰かがやっていたことをまたやってしまうという無駄足を避けるとともに、似たような研究を数々参照することで自分の仮説の検証についても色々とヒントが得られるからです。
 この先行研究は、大抵の場合膨大な量の蓄積があるので、これを網羅的に渉猟するのはかなり根気の要る作業であります。こういうことが苦も無くできる人が、学問には向いています。たまにあまり先行研究が見つからないことがありますが、だからといって何も参照しなくてもいいという話にはなりません。そういう場合、「日本でやってないならアメリカでやってるかもよ」みたいな雲行きの怪しい話になってきます。そうすると、英語を読む必要が出てきます。そうなるよりは、日本語での蓄積がある方がまだ楽だったりします。
 先行研究の参照を通して、自分の仮説がまだ誰も学問的検証を行ったことのない新たなものだということが分かれば、やはり似たような先行研究を参考にしつつその仮説の正しさを検証する手法を自分で考え、それを実行に移すわけです。
 この検証過程も、基本的にはひたすらにインダストリアスな世界です。統計的な手法なら膨大な量のデータをひとつひとつとっていく必要があるし、文学や歴史学の研究ならたくさんの史料や文献を読み漁る必要があるのです。自分の頭の中で考えたことだけでスパっとスマートにとはなかなかいかないのです。おそらく数学では、ものすごく能力があれば自分の論理的思考を開陳するだけで足りるのですが、大部分の数学者はそこまで能力がないので、やはりうず高く積み上がった先人の業績を参考にしつつうんうん唸る必要があると思います。
 検証の結果、最初に立てた仮説が正しいということが分かれば、それを論文という形で発表します。論文は、今までに述べた学問の手法を全て一つ一つ言語化してまとめたものです。自分がどのようなきっかけでどのような疑問を抱き、どのような仮説を立てたか。どのような先行研究があったか、どのような手法でその仮説の正しさを検証したかを、いちいちまとめるのです。
 逆に仮説が正しくないことが検証の結果分かってしまった場合は、普通は発表しません。ただ仮説の内容が一般に流布しているような言説である場合は(「B型はマイペース」みたいな)、それは実は正しくなかったと発表することが意味のある場合もあるので、そういう場合は発表することもあるでしょう。
 そして、上記のような膨大な量の作業が必要であるにもかかわらず、仮説が正しかったという結果が得られることは、稀です。仮説が正しくないことが分かった場合、また日々の研究活動に戻り、正しいという結果が得られそうな仮説は何かをまた考え始めるわけです。
 学問というのは、こういう泥臭い世界なのです。ここで少しでも怠惰さが出てしまうと、検証がいい加減になり、誤謬を生む危険性が生じてきます。仮説が正しいという結論を得たいがために、敢えていい加減な検証しかやらないという場合もあるでしょう。とにかく、学問には様々な場面にサボる契機が潜んでいるわけですが、この泥臭さときちんと向き合って、膨大な量の先行研究と文献とデータときちんと格闘した研究が、基本的にはいい研究として仕上がってきます。それは、紛れもない事実です。

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