2016年5月19日放映の「アメトーーク」、テーマは「日本語ポンコツ芸人」だった。日本語が苦手な芸人の苦手っぷりを笑う典型的なケナシ回である。
主に印象に残ったのは、漢字の書き取りにおける雛壇メンバーのポンコツっぷりだった。
この手の間違いを笑うコンテンツとしては、めちゃイケのテスト企画などもあり、特に目新しさはない。とはいえ、きちんとした天然を出せる芸人を集め、きちんとした作法に則って、きちんとした天然を出してもらえば、きちんとおもしろくなる鉄板の企画でもある。
とはいえ今回は、この「作法」がちゃんとしていなかったため、番組側の狙いは十分に奏功していなかった。
番組の冒頭、出川が「頑張らないとお客さんを引かせてしまう」という趣旨の発言をしたことが紹介されたが、この危惧の通りになっていたのである。ポンコツ芸人のポンコツっぷりは常軌を逸しており、確実に笑えないレベルに達していた。
スタジオで観覧していたお客さんも引いており、宮迫や横にいたオリラジ中田が間違いを面白がるリアクションで変になった空気をなんとか冗談めいた雰囲気に引き戻そうとしていたが、戻し切れていなかったというのが正直なところである。それほどポンコツ芸人たちの間違い方の程度が甚だしかったのである。
こういう感じになってしまったのは、「ポンコツ芸人」たちにも責任があると考える。もっと、冗談めいた雰囲気を出すために「フリ」と「リアクション」をしないといけない。「フリ」というのは、具体的に言うと、自分の漢字テストの解答が発表される前に「これは絶対合ってますよ」「間違っているはずがないですよ」などという自信満々の発言をすることである。これによって、間違いの回答が発表された時の「ズレ」が、フリの自信満々さとの対比で際立つことになる。また、視聴者の側で間違いを笑うことに対する抵抗感が幾分薄れる。見ている方の思考回路としては、「これだけ偉そうに言っていたのに間違ってやがる」と考えた結果、その間違いを笑うことが自分の中で正当化されるのである。
出川は、さすがに慣れているので大方の場合にコテコテのフリを入れられていたが、他の芸人は全体的に弱かった。芸人は学校の漢字テストをやっているのではなくて、お笑いのショウをやっているのである。であれば、どんな場合においても笑いにつながるような立ち居振る舞いをしなければならない。たとえ自分が間違っているという自覚があったとしても、お笑いのショウを成立させるために、敢えて自分の本心からは離れて、自信満々に自分を正当化する発言をしなければならない。いつだかのめちゃイケのテスト企画で岡村が言っていた、「フリは大きく」である。フリが弱い結果、「漢字が苦手なのに無理矢理テストを受けさせられて笑われている可哀想な人」という印象がどうしても拭えなかった。憐憫は、笑いを阻害する。これも岡村が常々言っていることであるが、「お笑いはかわいそうと思われたらアカン」ということである。
次にリアクションである。ポンコツ芸人たちは、全体的に自分の間違いが笑われた後のリアクションが薄かった。黙るとか、若干ムッとするとか、苦笑いとか、そんなもののオンパレードである。これだと、正直言って素人の反応と変わらない。そうなるとやっぱり見ている側には「漢字が苦手なのに無理矢理テストを受けさせられて笑われている可哀想な人」という印象が付きまとってしまう。
例えば、逆ギレしてMCと喧嘩するとか、妙な理屈を振りかざしてどう見ても間違っている自分の回答を正当化するといった、きちんとお笑いの演者としてのリアクションが必要であろう。そうやってMCと喧嘩したり、妙な理屈に対してMCがツッコミを入れたりすれば、また笑いが生まれる。またこういうリアクションをすると、視聴者はポンコツ芸人たちを「間違っているのにエラそうに切れる人」「変な理屈を言う変な人」とみなすことができるので、やはり笑うことに対する抵抗感が薄れるのである。
同じケナシ回でも「絵心ない芸人」とはえらい違いである。あちらは、ひな壇の連中がきちんとフリもリアクションもできていた。自分のヘタクソな絵が発表される前に「これは得意な題材だから描けてますよ」という自信満々の発言ができていた。発表された後も、「でもま、四本足っていうのは合ってましたよね」といったような強引な正当化ができていた。
今回のひな壇の面子は、これができていない。こうなると、日本語がポンコツなのではなくて、芸人としてもポンコツなのではないかと断じざるを得ない。まあ、日本語がちゃんとできないときちんとした芸人としての立ち振る舞いはおぼつかないので、間違ってないかもしれない。そうなると、出川や狩野みたいな常軌を逸した天然がないと、あの世界で生き残っていくことはできない。
主に印象に残ったのは、漢字の書き取りにおける雛壇メンバーのポンコツっぷりだった。
この手の間違いを笑うコンテンツとしては、めちゃイケのテスト企画などもあり、特に目新しさはない。とはいえ、きちんとした天然を出せる芸人を集め、きちんとした作法に則って、きちんとした天然を出してもらえば、きちんとおもしろくなる鉄板の企画でもある。
とはいえ今回は、この「作法」がちゃんとしていなかったため、番組側の狙いは十分に奏功していなかった。
番組の冒頭、出川が「頑張らないとお客さんを引かせてしまう」という趣旨の発言をしたことが紹介されたが、この危惧の通りになっていたのである。ポンコツ芸人のポンコツっぷりは常軌を逸しており、確実に笑えないレベルに達していた。
スタジオで観覧していたお客さんも引いており、宮迫や横にいたオリラジ中田が間違いを面白がるリアクションで変になった空気をなんとか冗談めいた雰囲気に引き戻そうとしていたが、戻し切れていなかったというのが正直なところである。それほどポンコツ芸人たちの間違い方の程度が甚だしかったのである。
こういう感じになってしまったのは、「ポンコツ芸人」たちにも責任があると考える。もっと、冗談めいた雰囲気を出すために「フリ」と「リアクション」をしないといけない。「フリ」というのは、具体的に言うと、自分の漢字テストの解答が発表される前に「これは絶対合ってますよ」「間違っているはずがないですよ」などという自信満々の発言をすることである。これによって、間違いの回答が発表された時の「ズレ」が、フリの自信満々さとの対比で際立つことになる。また、視聴者の側で間違いを笑うことに対する抵抗感が幾分薄れる。見ている方の思考回路としては、「これだけ偉そうに言っていたのに間違ってやがる」と考えた結果、その間違いを笑うことが自分の中で正当化されるのである。
出川は、さすがに慣れているので大方の場合にコテコテのフリを入れられていたが、他の芸人は全体的に弱かった。芸人は学校の漢字テストをやっているのではなくて、お笑いのショウをやっているのである。であれば、どんな場合においても笑いにつながるような立ち居振る舞いをしなければならない。たとえ自分が間違っているという自覚があったとしても、お笑いのショウを成立させるために、敢えて自分の本心からは離れて、自信満々に自分を正当化する発言をしなければならない。いつだかのめちゃイケのテスト企画で岡村が言っていた、「フリは大きく」である。フリが弱い結果、「漢字が苦手なのに無理矢理テストを受けさせられて笑われている可哀想な人」という印象がどうしても拭えなかった。憐憫は、笑いを阻害する。これも岡村が常々言っていることであるが、「お笑いはかわいそうと思われたらアカン」ということである。
次にリアクションである。ポンコツ芸人たちは、全体的に自分の間違いが笑われた後のリアクションが薄かった。黙るとか、若干ムッとするとか、苦笑いとか、そんなもののオンパレードである。これだと、正直言って素人の反応と変わらない。そうなるとやっぱり見ている側には「漢字が苦手なのに無理矢理テストを受けさせられて笑われている可哀想な人」という印象が付きまとってしまう。
例えば、逆ギレしてMCと喧嘩するとか、妙な理屈を振りかざしてどう見ても間違っている自分の回答を正当化するといった、きちんとお笑いの演者としてのリアクションが必要であろう。そうやってMCと喧嘩したり、妙な理屈に対してMCがツッコミを入れたりすれば、また笑いが生まれる。またこういうリアクションをすると、視聴者はポンコツ芸人たちを「間違っているのにエラそうに切れる人」「変な理屈を言う変な人」とみなすことができるので、やはり笑うことに対する抵抗感が薄れるのである。
同じケナシ回でも「絵心ない芸人」とはえらい違いである。あちらは、ひな壇の連中がきちんとフリもリアクションもできていた。自分のヘタクソな絵が発表される前に「これは得意な題材だから描けてますよ」という自信満々の発言ができていた。発表された後も、「でもま、四本足っていうのは合ってましたよね」といったような強引な正当化ができていた。
今回のひな壇の面子は、これができていない。こうなると、日本語がポンコツなのではなくて、芸人としてもポンコツなのではないかと断じざるを得ない。まあ、日本語がちゃんとできないときちんとした芸人としての立ち振る舞いはおぼつかないので、間違ってないかもしれない。そうなると、出川や狩野みたいな常軌を逸した天然がないと、あの世界で生き残っていくことはできない。
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