当wikiは、高橋維新がこれまでに書いた/描いたものを格納する場です。

※メディアゴンにも掲載されています。

 今年も放映された「笑ってはいけない」である。

去年の記事
2016.12.31ガキの使い 笑ってはいけない

 今回のテーマはアメリカンポリスであり、2006年(大晦日に移ってからの初年)の「警察」とかぶっているような気もしたが、毎年のことながらこの「テーマ」自体にさほどの意味はないので、あまり気にせずに話を進める。

 まあ、今年は、ヤマがなかったというのがいの一番に出てくる感想である。「笑ってはいけない」は、毎年出来について云々されるボージョレ・ヌーヴォーのような番組なのだが、筆者は去年の「科学博士」は近年の「笑ってはいけない」の中では比較的良い出来だったと思っている。レクリエーションでのダウンタウンと、ジミーちゃんと、蝶野ビンタの前に顔が発光する方正のくだりで笑い転げることができたからである。今年は、特にダラダラしたところもなく、鬼ごっこなんかは去年よりだいぶいい出来だったが、逆にムチャクチャおもしろいところも特になかった。レクリエーションでのダウンタウンはほぼ去年の焼き直しだったし、ジミーちゃんもちょっとしか出てこなかったし、蝶野ビンタにも去年ほどのインパクトはなかった。

 蝶野に関しては、途中アクシデントらしき流れで松本がいったんビンタされそうになるというクダリが挟まれていたが、あれは最初から全部仕込みだった可能性もあるとは思う。ただまあ、だからおもしろくなかったというわけでもないので、あまり気にしなくていいと思う。

 方正がこまわり君に扮していたクダリにはかなりの尺が割かれていたので、作り手も自信を持っていたのだとは思うが、筆者にはあまりハマらなかった。方正が蝶野ビンタの時のようにグズグズ抵抗するわけでもないので、意地汚い部分が映らず、少し可哀想になってしまうのである(=方正が理不尽な仕打ちを受けることを自分の心の中で正当化できないということである)。ただこれは、好みの問題である。

(2018.1.10追記)
 番組中、浜田が映画『ビバリーヒルズ・コップ』に出演していたエディ・マーフィに扮して顔を黒く塗っていたことが人種差別的な表現だとして問題になっています。欧米でも、BBCやニューヨークタイムズで取り上げられているようです。

 インターネット上に出ているBBCとニューヨークタイムズのニュース記事を確認しました。いずれも浜田のこの扮装を「ブラックフェイス」だと報じる論調でありまして、黒人で日本在住のBaye McNeil氏というコラムニストがこのようなブラックフェイスの表現をやめるようツイッターで呼びかけているということを紹介しています。


以下、若干両記事を引用します。なお日本語訳は筆者です。拙訳のうえ若干意訳しているのでご容赦ください。
BBC(2018年1月4日付)
http://www.bbc.com/news/world-asia-42561815

The New Year's Eve show featured celebrity comic Hamada appearing in a Beverly Hills Cop skit with his face blacked up.

Using makeup to lampoon black people - a practice known as blackface - is seen by many to be deeply offensive.
(その大晦日の番組には、有名な芸人の浜田が顔を黒く塗った状態でビバリーヒルズ・コップの一幕を演じているシーンがあった。黒人を風刺するためにメイクを使う手法―ブラックフェイスという名で知られる―は多くの人から非常に攻撃的だとみなされている)


ニューヨークタイムズ(2018年1月4日付)
https://www.nytimes.com/2018/01/04/world/asia/japa...

A Japanese comedian is facing criticism for performing in blackface in a widely viewed television show……,
(ある日本の芸人が、広く見られているテレビ番組に「ブラックフェイス」のメイクで出演したことで批判に直面している)


 「ブラックフェイス」というのは冒頭でも紹介しましたが、黒人でない演者が黒人を演じるために施すメイクと、その演者による演目そのもののことを指す言葉です。そして、伝統的なブラックフェイスにおいては、顔を黒く塗るだけでなく、白人の考える黒人のステレオティピカルな部分が強調されていました。“blackface”で画像検索していただければ分かりやすいですが、唇は分厚く誇張されるのが常であり、演じられるキャラクターも、英語が下手で、ひょうきんで、怠け者で、好色という白人の考える黒人の「特徴」を強調したものでした。
 そして、黒人は、こんな人ばかりではありません。むしろこのステレオタイプにカッチリとあてはまる黒人は非常に少数でしょう。黒人には、唇が分厚くない人もいれば、英語がきちんと喋れる人もいるし、真面目な人もいるのです。ブラックフェイスによる黒人表現は明らかに間違いを誇張して黒人を笑うためのものであったため、黒人はこれを快く思っていませんでした。だからこそ、これらの表現は人種差別だとみなされるようになったのです。
 そして、1950年代から60年代にかけてのいわゆる「公民権運動」に伴って黒人の差別が解消・撤廃されていくにつれ、これらステレオティピカルな「黒人像」も間違いだということが盛んに喧伝され、ブラックフェイスという人種差別的な表現も排除されていくようになりました。

 これらの歴史的・文化的背景があるため、最早ブラックフェイスという表現は少なくともアメリカでは「黒人をバカにするためにやるもの」という独立の記号としての意味を帯びるに至っています。それは、唇や間違った性格の誇張といった揶揄的表現を伴っていないものでも、すなわち今回の浜田のように顔を黒く塗っただけでも、黒人をバカにするためにやっているとみなされてしまい、少なくともアメリカにバックボーンのある黒人はこれに不快感を覚えてしまうということです。中指を立てるいわゆるファックサインが挑発・侮蔑の意味を持っている記号であるのと同じように、ブラックフェイスはそういう意味を持っている記号なのです。
 ではなぜ、唇や間違った性格の誇張をしておらず、単に顔を黒く塗っただけでもそういう意味を持つようになったのでしょうか。もともとのブラックフェイスはそういった間違った特徴の誇張をしていたからこそ、黒人をバカにする意味合いがこもっており、快く思われていなかったものに過ぎないはずです。ここはおそらく、ブラックフェイスで一番視覚的に目立つ部分が「顔を黒く塗っている」ということであるため、この「黒塗り」がブラックフェイスそのものの「象徴的な特徴」と理解されるようになり、その結果「黒塗り=黒人をバカにするブラックフェイスである」という一種のすり替えが起きたのだと思います。

 さはさりながら、ブラックフェイスが上記のような揶揄・侮蔑の意味を持った記号的な表現だという事実は動かしようがありません。これをアメリカの黒人に対してやることは、要は欧米人に中指を立てるのと同じような意味合いがあります。だから、「浜田はあくまで顔を黒く塗っているだけであって黒人の間違った特徴を誇張してはいないし、浜田本人や番組の作り手に黒人を揶揄する意図がない」と言ってもあまり意味がありません。そういう誇張の有無や主観的意図とは関係なしに、黒く塗られた顔という表現自体の客観的・外観的な視覚要素が揶揄や侮蔑の意味合いを持ってしまうのです。

 とはいえこのような「意味合い」もあくまで前記のようなアメリカの文化的・歴史的背景に根差したものであり、世界中に通じるものではありません。中指を立てても挑発や侮蔑の意味が生じない国・地域があるのと同じことです。
 他文化の尊重が一定程度大事なのはその通りであり、今回の「笑ってはいけない」ではその点あまりに無防備だったとは思いますが、「郷に入っては郷に従え」という言葉もある通りで、自文化が全面的に譲歩しなければならないわけでもありません。他文化と自文化が折衝する局面においては、場面場面でどちらをどの程度優先させるかを適切に調節していくものでしょう。例えば、他文化の人間をお客様としてもてなす時は、配慮をした方がいいでしょう。ムスリムを観光客として日本に招き入れたいならイスラム教の行動規範を尊重してやった方がいいだろうし、東京オリンピックでは世界中の人間が日本に来るわけですから、できるだけ不快な思いをせずに帰ってもらった方がいいと思います。他方で、私は日本でやっている日本人向けの番組でそこまで他文化に配慮する必要があるとは思えません。
 ただ、「笑ってはいけない」は英語圏でも人気のコンテンツで、私的に作成された英語字幕が付いている動画がインターネット上に出回っています。だからこそアメリカの方々にも浜田のブラックフェイスが視聴されて、問題になったという側面はあると思いますが、その英語字幕版はあくまで勝手に作られたものであるため、番組の作り手がそこにまで配慮する義理はないと思います(むしろ、その英語字幕版を見ている人たちは、アメリカより人種差別的な表現に対する規制が「緩い」日本のバラエティを積極的に見たかったのかもしれません)。逆に、日テレが今後公式に「笑ってはいけない」の海外輸出を目指していくのであれば、もっと配慮した方がいいに決まっています。場面場面に併せた他文化と自文化の適切な調節というのは、そういうことです。

 筆者がここまでに述べたのは、「ブラックフェイスを見て不快に思う人に配慮する必要があるときはブラックフェイスを控えた方がいい」というある意味で当たり前のことです。ただ筆者はここから更に進んで、「配慮のしすぎもまた良くないのではないか」と考えるに至っています。ブラックフェイスが忌避されているアメリカの今の状態は、差別に対する配慮が行き過ぎていて笑いの表現が過度に制約されていないでしょうか。日本で障碍者や皇室を笑う表現がタブー視されていることや、ドイツでたとえ冗談でもナチスを礼賛するのが許されないのと同じで、黒人自体が腫れもののような扱いにくい存在になっている気がするのです。前述の通り、黒人には実に色々な人がいます。であれば、笑われたい人もいるかもしれません。白人が自分の顔を黒く塗って黒人に扮することで大笑いできる黒人もいるかもしれません。今のアメリカでは、黒人を笑うこと自体がのべつ幕なしに禁止されていて、むしろ息苦しい状態が生じている感じがします。だから、せめてそういった文化的背景がない日本ではそれを解禁してやった方がいいのではないかと思います。そうすれば、烏滸がましい言い方ながら、そういった表現で笑いたい人々の受け皿になることもできると思います。エディ・マーフィは自分の顔を白く塗って白人に扮したこともあります。それが大丈夫で逆が大丈夫ではない社会の方がむしろ不健全ではないでしょうか。現代に至ってアメリカ社会における黒人のプレゼンスはどんどん増しており、むしろ白人を凌駕するほどにもなっているので、そろそろ今の「文化」を見直してもいいのではないでしょうか。
 無論、そうは言っても笑われるのが嫌な黒人もいるでしょう。私も白人が釣り目に出っ歯のメイクをして日本人に扮したら腹が立つと思います。笑われるのが嫌な人が、笑われたことに抗議するのは全くもって自由です。でも、そのような揶揄の表現を禁止するのは行き過ぎだと思います。そのような表現が禁止された社会よりも、お互いの表現の自由を認めた社会の方が確実に豊かでしょう。白人も黒人を揶揄できるけど、黒人も白人を揶揄できるのです。そうすれば、おあいこではないですか。
 笑いを信奉する筆者は、世界には笑いを表現する手法ができるだけ多い方がいいと思っています。どうしても、笑いというものは、表現というものは、他者に伝えるものである以上、不快に感じる人を一人も出さずにやり過ごすことは不可能なのです。

 日テレの今回の表現は、無思慮・無配慮なものであったのは明らかです。ただ逆に言うと、無思慮・無配慮だったからこそポンと出せたものでもあります。筆者は、ブラックフェイスが禁止されている息苦しい社会よりは、ブラックフェイスが許容されて白人も黒人もお互いの扮装をして笑いあえる社会の方がいいと思っています。浜田の扮装は、後者のような社会を目指すための、先鞭となり得ます。本来ブラックフェイスが許容されて白人も黒人もお互いの扮装をして笑いあえる社会では、白人も何も考えずにただただポンと黒人の扮装をすることができるはずですから。

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