「大丈夫だよ、絵里ちゃん…」

男の声が聞こえた。
普段は絶対に聞かないような猫撫で声に絵里は震えた。

「怖くないからね」

そうして絵里は上着を脱がされた。
怖くて抵抗が出来ない。動くことができない。その男が叔父だと認識したのは、そのときだった。
だが、認識したところで絵里はどうすることもできない。

「いやっ!」

叔父の手が絵里の乳房に触れると、絵里は高く声を上げる。
だが、叔父はそんな絵里の声ひとつで欲情し、ニタニタ笑いながら胸を舐めまわした。
絵里は必死に抵抗するように腕を突き出したが、あっさりと叔父によって組み敷かれた。

「大丈夫、すぐ気持ちよくなるから」

そうして叔父は空いた手で絵里のズボンに手をかけた。
だれか、だれか、だれか助けて―――!
声にならない声を上げるが、それはだれにも届くことなく、絵里は欲望で貫かれた。


絵里は猛烈な吐き気と頭痛に襲われて目を覚ました。
当たり前ではあるが、周囲は暗い。光など、ない。そんなもの、存在しないのだ。
絶望にはまだ生温いのだろうかと思いながら、絵里は荒くなっている呼吸を自覚しながらも、此処は何処だろうと考えた。

「絵里…」

声が聞こえ、絵里は体を震わせた。
だが、その声は確かな温もりと優しさを携えていることに絵里は気づいた。

「れな、此処におるけん」

空気を震わせた持ち主は、紛れもなくれいなだった。
れいなの声の位置、絵里の感じることのできるれいなの色から判断し、その距離はさほど遠くない。
彼女の色は、普段の水色でも、まして嬉しいときの黄色でもない。

これは…

「此処、引っ越した家やけん、ちょっと匂いとか違うかもしれんけど」

れいなはそう言って絵里の傍に近寄る。
ひとつひとつの言葉を理解するように、絵里はゆっくりと頷く。
れいなの纏う色、その感じる重さが、絵里には、怖かった。

「……れーな」
「うん?」
「お願い……来て…」

絵里の小さな声に、れいなは応えた。
彼女が横になっていたベッドのすぐ目の前のにれいなは片膝を立てて座る。
絵里はそれを感じ取ったのか、そっと右手を前に出すと、れいなはそれを掴み、両手で握り締める。

「此処におる。だいじょうぶ」

れいなの強く真っ直ぐな声に絵里はなんどとなく頷く。
絵里の感じたれいなの色は、怒りの灰色などではなかった。
それは、なにものにも染まる、『無色透明』だった。
怖いくらいの清純なその色が、れいながなにを思い、なにを考えているかが分からずに、怖い。

「ごめんなさい…」
「なんで謝るとや。れなこそごめん。急に撮影やって、無理、させたけん」

れいなはそうして寂しそうに笑い、絵里の頭をそっと撫でた。細くて長い指が絵里の髪を梳いていく。
れいなに触れられると、心が落ち着いていくのが分かる。
あの男に触られた痛みや苦しみがゼロになることはなくても、徐々に軽減していくのが実感できる。

でも、絵里は、怖かった。
れいなが絵里に、絵里の汚い体に触れることが。

―……絵里は汚くなんかないとよ

れいなと出逢ったあの日、れいなは迷わずにその言葉を絵里に渡した。
それが本心であると、彼女の何物にも代えられない優しさだと、絵里でも分かる。
だけど、それでも絵里は怖かった。

「れーな…」
「うん?」

優しい声が降ってくる。
あの雨の日に差し出された温もりはいまもなお、絵里を包み込み、絵里の唯一の支えになっていた。
その優しさに、彼女の降らせてくれる無償の雨に甘えて良いのだろうかと絵里は思う。
れいなが絵里の頭から手を離し、ゆっくりと立ち上がろうとしたとき、絵里は彼女の手首を掴んだ。
不意にやって来た衝撃にれいなは目を向けるが、絵里はなにも言わずにただ手首を握り締めている。
れいなは「どしたと?」とも聞くことなく膝を折り、絵里の頭を再び撫でる。

「……お風呂、入りたいの」

絵里の言葉に、れいなは胸が締め付けられる。
過去の蓋を、故意にではないとはいえ開けてしまったがために、記憶の波に絵里は呑み込まれた。
そのために彼女が苦しんでいて、それから逃れようとするための策ならば、れいなはなにがあっても、逃げてはいけない。
彼女の、亀井絵里の痛みも哀しみも、真正面から受けなければならない。

「分かった…」

れいなはそう呟くと、絵里の膝の後ろに腕を滑り込ませる。
もう片方の腕で肩を抱くと、絵里の体は簡単に持ち上がった。
どうしてこんなにも、絵里は軽いのだろうとれいなは不意に目頭が熱くなった。
そのまま脱衣場へと歩き、絵里を右脚から下ろす。

「此処がお風呂場やけん……シャワーはこれ。蛇口はこっち」

れいなは絵里の手を握り、新しい風呂場の使い方を説明する。
絵里はれいなの言葉に耳を傾け、ひとつひとつ頷く。
シャンプーとボディーソープのボトルの説明を終えたところで、れいなは「じゃあ、ゆっくり入っとって」と脱衣場から出てこうとする。

しかし、その腕を再び絵里に取られ、それが叶わなかった。
れいなは「え?」と振り向くが、絵里はなにも言わず、ただ床をじっと見つめているだけだった。
絵里がなにを考えているのかが、れいなには分からない。彼女はいま、なにを言おうとしているのだろう?

―絵里……?

れいなが言葉を紡ごうとしたとき、絵里はおもむろにシャツのボタンに手をかけた。
なにをする気だろうと思ったときにはもう遅かった。絵里はボタンを外し、するりとその服を脱ぎ始めた。

それは、最初に出逢ったあの日と同じ光景のようだった。
叔父にすべてを奪われ、光を失い、希望を失い、自暴自棄になってれいなにさえ体を曝け出したあの夜。
そんなこと、もうそんなことするなと、れいなはスカートに手をかけた絵里の手を握った。

「っ……なん、でよ…?」

息が荒くなっているのが分かる。手が震えているのが分かる。それでもれいなは、絵里を止める。
こんな彼女が見たいわけじゃない。ただ、ただ絵里の優しい笑顔が見たかっただけなんだ。
それなのに、どうしてこんなことになっている?

「違うの…れーな」
「え…?」
「……お願い…離して…」

絵里がなにを伝えようとしているのか、なにを思っているのか、れいなには分からない。
だが、彼女が過去の記憶を振り払おうと必死に闘っているのだとしたら、やはりれいなはそれを見届けなくてはならない。
たとえそれが、正攻法でなくても、ただ痛みしか残さない結果になったとしても、逃げるわけにはいかない。
最初に引き金を引いたのは、自分だったのだから―――

震える手を絵里から離すと、ぶらんと力なく落ちた。
絵里はただ小さく「ごめんね…」と呟くとスカートのホックに手をかけた。

するりと床に服が落ちていく。1枚落ちていくその度に、絵里の姿が露わになる。最初に出逢ったあの夜のように。
絵里が下着を脱ぐと、彼女はなにも身に纏っていなくなった。
生まれたままの、絵里の姿。真っ白い肌には、なんの痕もない。
それなのに、どうして彼女の心には、無数の傷痕がいまでも残っているのだろう。
れいなは知らぬ間に、右の拳を握り締めていた。だが、決して目を逸らすことはしなかった。

「れーなにはさ…」

絵里をぽつんと呟き始めた。

「絵里の体、どう見える?」

その言葉はナイフのように光ったかと思うと、ぐさりとれいなの胸に突き刺さる。
血は流れることはなかったが背中に嫌な汗はかいていた。
どう答える?なんて言ってやることが、彼女のためになる?
れいなは瞬時に頭を回転させるが、なにも出てこない。言葉が浮かんでも、音として外に出すことが出来ない。

なんで、なんで、なんで?

分からない。どうしてこんなにも、なにも言ってやれないのか。
どうしてこんなにも、自分が成す術なく立ち尽くすしかないのか。

れいなは一歩前へと踏み出し、絵里の左手をそっと取る。
そのまま目線の高さまで持ち上げ、ぎゅうと両手で強く握った。
額に両手を重ね合わせるその姿は、さながら、神への祈りのようにも見えた。

なにも返してやることなんてできなかった。
だが、それでも絵里には伝わることがあった。
無茶苦茶なことを言っているのは分かる。困らせていることも分かる。
だけどその中で、れいなは必死に考えて、絵里を傷つけないように一歩ずつ進もうとしていた。

それが、怖い。

れいなが降らせてくれる、無償の優しさの雨。
絵里に最初に手を差し伸べてくれたあの日から、冷たくて心を殺すような雨に傘を差し出してくれたあの日から。
れーなが迷うことなくくれる温もりが、愛しくて、怖いの。

ねえ、どうして?
どうしてれーなは、絵里のために……

「れーな…」
「うん?」

絵里の言葉にれいなは顔を上げた。

「……抱きしめても、良い?」

絵里の言葉にれいなは揺れた。
急にやってきた彼女の言葉の真意を探るが、それをれいなは掴むことが出来ない。
だが、迷うことは赦されなかった。いま躊躇することは、絵里をひとり、闇の中に放り出すことと同じだとれいなは息を呑む。
れいなは「かまんよ」とだけ言うと、絵里の次の動作を待った。

絵里は、その言葉を受けると、震えながらも、自分の両腕をそっと伸ばした。
絵里の腕がちょんとれいなの肩に触れると、絵里はぴくっと指を引っ込めようとするが、暫くしたあと、再び伸ばす。
そして、ある程度伸ばしきると肘を畳み、右手で左腕を、左手で右腕を掴んだ。
最後に絵里は頭をちょんとれいなの肩に乗せる。れいなの髪から柔らかい匂いがした。

絵里はれいなの温もりを確かめるように、腕に力を込める。
泣きそうになりながらも、絵里はれいなの名を呼び、必死に自我を保とうとしていた。
自分がなぜこのようなことをしているのか、どうしてれいなを抱きしめたいと思ったのか、絵里にその答えは見つけられなかった。
それでも絵里は、その腕を外そうとはしなかった。
ただ、ただ絵里は、れいなを優しく抱きしめ、その耳元で「れーな……」と囁いた。

怖かった。
れいなに触れることも、その温もりを確かめることも、その優しさを感じることも。
れいなが絵里に触れられることで、れいな自身までも穢してしまうのではないかと思った。

それなのに。
それなのに、離したくないと思ってしまう。
もう、ひとりにしないでと。
この暗闇の中、れいなというたったひとつの光りが、凍っていた絵里のすべてを溶かしていくから。
だからもう、お願い。

一緒にいてほしいの………


「れなも、抱きしめて良い?」

不意に発せられたれいなの言葉を絵里が理解すると、絵里は無意識のうちに頷いた。
恐怖も絶望も、確かに存在しているのに、いま、絵里はれいなを感じたかった。

絵里が頷いたのを確認したれいなは、両腕を絵里の背中に回した。
なにも身に纏っていない彼女の体から、鼓動が聞こえた。必死に生命を奏でている、絵里の心臓がそこにはあった。
絵里の香りを胸一杯に吸い込むと、れいなはその隙間を埋めるように強く抱きしめた。
たったの少しの隙間さえも許さないほどに、心まで重ね合わせるほどに、れいなは腕に力を込める。

「絵里……」

絵里の体は温かかった。
どうしようもなく温かくて、どうしようもなく愛しかった。
それなのになにも言うことが出来なかった。
どう足掻いても、絶望しか見えなかった。
こんなにも言葉が無意味で、自分の行動が陳腐だと思ったことはない。

自分が大きな人間だとは思ったことはない。だけど、写真で人の心を変えることが出来ると信じていた。
自分の撮影する青空や、木々の色や、光の屈折や、鳥の羽ばたき、人の笑顔、必死に走る姿で、
人々の思いを変え、悩みを軽減し、生きる意味を見出すことが出来ると、そう信じていた。

だけど、それは間違いだった。
此処にいるたったひとりの女の子でさえ、れいなは救ってやることが出来ない。
それは、光りを失ったからでも、叔父に襲われたからでもない。
ただ単純に、れいなが無力で、ひとつの想いも伝えることができなかったからだった。

だかられいなは、抱きしめる以外に方法がなかった。
こんなやり方しか、れいなには分からなかった。
絶望を知らない自分が、絶望を知っている絵里に、いったいなにをしてやれる?

「絵里さ…」
「うん」
「…ずっと、このままかな」

絵里の発した言葉にれいなはなにも返せなかった。
だが、絵里はさらに続ける。

「見えないまま……あの人に襲われたことに怯えながら…ずっと生きていくのかな」

その言葉を、絵里の絶望を否定できたら、どんなに良かっただろうか。
そんなことはない。必ず目は見えるようになると、強く言えたら、どんなに良かっただろうか。
れいなのその言葉を、絵里が待っていることも分かっていたのに、れいなは思わず言葉を詰まらせた。

なんて言ってやれば良い?
闇を知らないれいなが、絶望を知らないれいなが、希望の光りを失った絵里に、なんて言ってやれば良い?

「ごめん…困らせて……」

結局、絵里は諦めたように寂しく呟いた。
彼女の言葉に、れいなは最後までなにも返せることができず、ただ強く抱きしめた。
怒りと哀しみに震えるその腕は、たったのひとつも、絵里の想いを掬ってやることなどできなかった。

れいなにできることは、ただこの腕を離さないことだった。
この腕を離してしまえば、なにもかも諦めてしまえば、れいなは絵里を見失ってしまうと思った。

なにも分かってやれないけど、救ってやれないけど、それでも、どうか、とれいなは祈る。
無力な自分を知っているから、なにもできない自分を知っているから、れいなはただ、絵里のために想いを紡ぐ。

それだけしかできない自分を恥じながらも、れいなは絵里を真っ直ぐに、想った。




第13話へ...

Wiki内検索

どなたでも編集できます