仕事が急遽休みになったれいなは、なんの宛てもなく車を走らせていた。
今朝、絵里を朝陽盲学校へ送り出してからというもの、れいなは無意味に街を走っていた。
本当は、絵里の傍に居てやりたいのだが、そうしたところでなんの意味があるのだろうと自問し、結局れいなは意味もなく車を転がした。

―無力…やなぁ……

昨日、痛いほど思い知らされた事実。
れいなが隣にいたところで、絵里を救えないのではないかという、現実。

れいなは前方の信号が点滅したのを認めながらもアクセルを踏み込んだ。
加速した車は交差点を一気に通過したが、後方からクラクションの音が追ってきた。
白バイにでも見つかっていたら確実に反則点を切られるなと苦笑しながら、徐々に速度を落とす。

果たして、れいなになにができるだろう?

ずっと、考えていた。
絵里に出逢ったあの日から。
最初は、可愛いとか、声が柔らかいとか、雰囲気が優しいとか、ただそれだけの存在だったのに。
それなのにいまは、彼女のあの笑顔が見たくて、この青空を見せたくて、れいなの隣に居てほしいと願ってしまう。

この青空を見せるのに、どうすれば良い?
どうすれば、この世界の美しさを、彼女に伝えてやれるだろう。

れいなはハザードを出し、減速しながら車を路肩に寄せた。
深く息を吐き出して天井を仰ぐ。
もともと行動派なれいなにとって、考えることはどうも苦手だった。
どうする?なんて考えたところで答えが出ないことも知っていた。

れいなはもう一度息を吐き、ウィンカーを出して車を走らせた。結局、盲学校へは向かわずに、別の場所へと目指していた。



自宅に車を停めたれいなは、そのまま最寄り駅まで歩き、電車に飛び乗った。
14時過ぎという中途半端な時間であるためか、電車内に人はまばらであり、れいなは空席に腰を下ろした。
持っていた携帯電話の電源を切り、そのまま静かに目を閉じる。
この電車が上りなのか下りなのか、快速なのか急行なのか、それすらもれいなには分からなかったが、ただ黙って電車に揺られた。

電車に乗って15分ほど経ったとき、れいなは目を開き、電車から降りた。
乗り換えもない、各駅停車の電車しか停まらない駅名を見て、れいなは好都合だと改札をあとにした。
閑散とした駅前を抜け、商店街へと歩く。まだ夕飯時でないせいか、人は少ないものの、各商店が軒並みを連ねている。
れいなはニッと笑い、カメラを構えた。

迷ったときにはひたすら写真を撮るというのがれいなの信条でもあった。
もともとデスクワーク派ではないれいなにとって、考えることはどうしても苦手だった。
特に今回のように、考えても仕方のないことであるならば、れいなはただ写真を撮る以外になかった。

抜けるような青空・ちぎれた白い雲・光りの反射する水たまり・踏みつけられたコンクリート・子どもの泣く姿
木々のざわめき・ポツンと置いてあるベンチ・割れたガラス・忙しそうに行きかう人々・一瞬の笑顔。

その瞬間にしかない姿を、れいなは次々に写真に収めていった。
風景を切り取っても、その瞬間の感動はたったの10%も語ることはできない。
そんなことなどとっくに分かっていても、れいなは写真を撮り続けた。


れいなは「ふう」と息を吐き、公園のベンチに座った。
噴水とベンチしかない実にシンプルな公園は閑散としていたが、こういう雰囲気は嫌いではない。
れいなが「あー」と声を上げて天を仰ぐと、そこには相変わらず青い空が浮かんでいた。
快晴とまではいかなくとも、今日もよく晴れていた。青い海にぽつんとちぎれて浮かんだ白い雲は島のようだった。


この空の名前をなんと呼ぼうと考えていたそんなとき、れいなの前髪を撫でるような風が吹いた。
優しいその風は、れいなの横を通り過ぎ、ふわりと舞って走っていく。
風に撫でられた木々が囁く声がした。噴水に乱反射した光の粒が地面から跳ねていた。

瞳を閉じて考える、空の名前。
先ほどまで、青・白・水色という色でしか考えていなかったのに、れいなの頭の中にはふと、違う感覚が浮かんだ。
この空を、単純な色ではなく別のなにかで言える気がした。いや、言えるとは違う。この感覚は―――

「あったかい……」

瞬間、れいなはそう“感じた”。
目を閉じて、空気をめいっぱいに吸うと、風が肺に流れ込んできてチクチクと痛みだした。
それでも、それでも確かに「あたたかい」のだ。

ああ、そうか。

そう、れいなは唐突に理解した。

もしかすれば、見えるか見えないかは重要じゃないのかもしれない。
この青空が見えなくても、感じることなら出来るんだ。

世界は確かに綺麗なものばかりではない。
それでも、この空も、この風も、この木々も、確かな温もりをもった世界は、真っ直ぐな想いで汲み取ることはできる。

見えないことが良いとは思わない。
だけど、見えないからこそ分かるものだってあるはずだった。

―れーなは、水色なの

絵里はあのとき、確かにそう言った。
明るい色を纏ったれいなは水色だと、そう感じたのだと言った。
見えない彼女は、無意識のうちに、世界を感じようとしていたのかもしれない。

「絵里……」

れいなはそう、盲学校で点字の勉強をしているであろう彼女の名を呼んだ。
この声も、見ることはできないけれど、感じることはできる。温もりをもった、想いであるならば。
れいなは優しく微笑み、そのままベンチに横になった。
そうすれば、あの日、奥多摩で見た彼女の笑顔が、見える気がした―――

だれかの声が聞こえて、れいなはうっすらと目を開けた。
時計を見ると、眠ってからそんなに時間は経っていないようだった。
れいなはぐっと伸びをすると、噴水の方に人がいた。遠目でよく分からないが、どうも女の子がふたりいるようだ。
すると、白っぽいワンピースを着ている女の子が、おもむろに履いていた靴を脱ぎ始めた。
おいおい、いったいなにをする気だと思っていると、声が聞こえてきた。

「噴水は入るためにあるんですよ?」
「は?なんそれ」

入るためにある?なんのことだと思っていると、彼女は噴水に足を入れた。

「うぉー、冷たっ」

それはそうやろ、なにをいまさら分かりきったことを思うのも束の間、彼女は「冷たい」と言いながらも足で水を蹴りあげては遊んでいる。
その姿がなんだか妙に可愛くて、れいなが苦笑していると、もうひとりの女の子も水へと入っていった。
ワンピースの女の子は、ニッと笑って右足で水を蹴りあげる。
危うくそれがもうひとりの女の子のスカートにかかりそうになり、慌ててよける。
ああもう、なんかれな邪魔やねと苦笑しながら、れいなはカメラを構えた。
夕陽に照らされ反射した水しぶきと、子どもっぽいことをして遊ぶ彼女たちの笑顔は、とても綺麗だった。

れいなは写真を数枚撮り終えると、「がんばれよー」と呟き、公園をあとにした。
あんな風景を、きっと青春って呼ぶのだろうなと、自分の高校時代を振り返りながら、れいなは駅へと歩いた。


いま、無性に絵里に逢いたくなった。




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