「カメぇ、入るよぉ」

新垣里沙はそう言うと、絵里の部屋へと入った。
朝陽盲学校内に設けられた各自の寮で、絵里は黙々と点字の勉強をしていた。
もともと覚えが良いのか高校時代は成績も良かったのか、絵里は点字をほとんどマスターしていた。

「あー、ガキさぁん」

里沙の声を認めた絵里は優しく微笑み、里沙に向かって敬礼をした。
おどけた仕草を見せるが、今日の絵里に元気がないことくらい、里沙にも分かっていた。
里沙は絵里の隣に腰を下ろすと、絵里はきょとんという顔を見せる。

「なんか、あった?」

里沙にそう聞かれ、絵里はドキッとする。
思わず放たれた質問は、絵里の心を捉えるが、どう答えて良いか判別できず、そのまま黙っていた。

「悩みなら聞くよー」

そうして里沙は絵里の頭を撫でた。
不意にやってきた優しさが、絵里の心に温もりを与えた。
れいなの手よりも少し大きめな里沙のそれに、絵里は安心感を覚える。

―れーなの手ってやっぱちっちゃいんだなぁ

与えられる温もりと、触れられた優しさに目を細めていると、瞬間、絵里は「あれ?」と思った。
どうして、いま、絵里は無意識のうちに、れいなの手を思い出してしまったのだろう?

「カメ…?」
「あ、いや…だいじょうぶです」

絵里は里沙の声に首を振る。
どうしてれいなを思い出したのかは分からないが、なんとなく絵里は心が落ち着いていった。
里沙の手の平の温もりが、絵里の心に安らぎを与える。それは間違いないはずなのに、どうしてか、絵里はれいなを想う。
れいなの表情も、笑顔も、身長も、髪の長さも、分からない。
だけど絵里は、れいなの香りも、優しい声も、その手から伝わる温もりも、絵里のために降らせてくれる優しい雨も知っている。
だからだろうか、絵里はどうしようもなく、れいなを想う。

いま、無性に、れいなに逢いたかった。

「あの…ガキさん」
「うん?」
「えっと……あの…」

絵里がなにかを言おうとしたそのとき、再びノックされた。
里沙はそちらを向くと、絵里に「ちょっと行くね」と声をかけて立ち上がる。
去っていった温もりが恋しかったが、絵里も黙ってドアの方に意識を向けた。
すると絵里はその人物の色をハッキリと感じ取った。

「あ……」

里沙がドアを開けた瞬間、彼女と目が合う。
れいなも同じように「あ…」と口を開けると、慌てて一礼をした。

「すいません…あの、絵里は…」
「れーなぁ」

れいながなにか言う前に、里沙の後方から声が走ってきた。
里沙が振り返ると、絵里はだらしなく笑い、「れーな」と声を出している。
その表情にズキッと胸が痛むが、里沙はれいなに向き直り、「どうぞ」と部屋へと招き入れた。
れいなは再び一礼して絵里の元へと歩く。絵里はれいなに両腕を伸ばし「お仕事終わった?」と話しかけた。

里沙は彼女の笑顔を見て、無性に胸が痛くなる。
知りたくなかったこの感情が、いま、ハッキリと色をつけて出現したことに里沙は苦笑する。
どうして、よりによって、カメなんだろうなと思いながら部屋を立ち去ろうとすると、後方から声が追ってきた。

「ガーキさんっ」

絵里に呼ばれて振り返ると、絵里は相変わらず嬉しそうな顔をしていた。

「ありがとう」

真っ直ぐに伝えられたその言葉は、そのまま里沙の心を射抜いた。

―ああ、もう、なんで……

里沙は軋んだ胸を押さえるように視線を絵里から外し、天井を見つめる。
れいなは訝しげに里沙を見つめるが、里沙は敢えてその視線を受け流し、「どういたしまして」と絵里に笑った。
そしてれいなに「面会が終わったら呼びに来て下さい」と告げると部屋を後にした。

れいながなにか言いかけようとしたことには気づいていたが、里沙は振り返らなかった。
里沙は頭をぐしゃっとかくと廊下を歩いた。
どうして、とも、なんで、とも聞いたところで、答えは出ない。どう足掻いたって、結果が変わらないことも分かっている。
それなのに里沙は、どうしようもない想いを胸に抱えていた。


「好き」というこの感情に最初に気付いたのはいつだろう?
絵里がこの盲学校に入学してから、職員としてずっと見続けているうちに、軋む胸の音がうるさくなり続けた。
その音に耳を塞ぐことだってできたはずなのに、毎日、部屋を訪れるたびに優しく微笑む彼女に、里沙は心を奪われた。
光を追えないその瞳は、里沙と重なることはない。それでもなお、里沙は絵里の心を追い続けたかった。
なぜと聞かれても、理由が答えられないこの感情。

狂おしいほどに想い、どうしようもなく声に出して叫びたくなる。


そんな恋、知りたく、なかった―――。


逢いたいと思ったのは突然だった。
だから、急に目の前にその人が現れた瞬間、絵里はどうして良いか分からなくなる。
私、普段どういう風にして、れいなと話していたのだろうと急に不安になった。
変な風に思われていなければ良いと絵里は努めて真面目な顔を見せた。

「なあ、絵里」
「んー?」
「……今度の日曜さ、れなと、デートせん?」

突然のれいなの申し出と「デート」という言葉に絵里はドキッとする。
れいなの口を突いた言葉を噛み砕いても、理解できたのはほんの僅かしかなく、絵里は口をパクパクさせる。
真面目な顔をしていたつもりが、たったの一瞬で崩れ去ってしまった。

そんな絵里の動揺に気付いたのか、れいなは慌てて訂正するように言葉を挟む。

「あ、えっと、ちょっと一緒に行きたい場所があって」
「行きたい…場所?」
「うん。仕事休みやけん、れなと出掛けん?」

そう言われて、絵里は高鳴った心臓を押さえる。
どうして、彼女の言葉のひとつひとつにこんなにもときめくのだろうと思う。
たったのひと言でこんなにも気持ちが揺れたこと、いままでになかったのに。
ヤバい、まさか心臓病とか持ってないよねと勘繰ってしまう。

だが、出掛けたい気持ちは絵里にもあった。
確かに昨日、れいなに写真を撮られたことで、絵里の心は乱れ、過去の扉が開き、記憶の波にのまれた。
それでも絵里は、れいなと出掛けたい。
れいなが見せたい場所、れいなが行きたい場所、れいなと同じ空間にただ一緒にいたかった。
光を失ったからこそ、太陽の輝く場所に連れて行ってくれるというのなら、何処へでも行こうと思う。
それが、れいなと一緒ならばなおさらだった。
絵里はふっと微笑み、れいなに返した。

「ガキさんが良いって言ってくれるか聞いてみる」

絵里の答えにれいなはホッとする。
昨日、あんなことがあっただけに、外に出たくないという絵里の気持ちは分かる。
だが、絵里はそれでもゆっくりと前に進もうとしているのだから、れいなも必死に顔を上げるしかない。
れいなは絵里の頭をぐしゃりと撫でると、「れなから聞いとく」と笑った。


「外出許可…ですか」

れいなの言葉を反復するように里沙は言った。
食堂で珈琲を飲みながら彼女と話すのも、もう日常茶飯事だが、相変わらず、ここの珈琲は美味しくないと思う。
いい加減に美味しい珈琲豆でも買おうかと里沙は検討していた。

「昨日の今日ですし、無茶苦茶言ってるのは分かるんですけど…」

れいなが申し訳なさそうに話すのを、里沙は黙って見ている。
彼女の真意が分からないわけではない。だが、今日の絵里の落ち込み具合を見る限り、里沙はどうしても首を縦に振りたくなかった。
外の空気を吸って気分転換をする。室内の鬱屈した空間から出ることがいまの絵里のためになることくらい里沙にも分かる。
分かるのに納得できないのは、たぶん、心に矛盾を抱えているから。

「昨日、なにがあったんですか?」

里沙の鋭い指摘にれいなは思わず言葉を詰まらせる。
昨日の出来事―――
自分が絵里を撮りたいと思ってしまったがために、絵里の記憶の蓋を開け、苦しめてしまったあの瞬間。
痛みも哀しみも絶望も、なにひとつ分かってやれない自分の不甲斐なさにれいなは拳を握り締める。

「傷つけたんです…れなが」
「え?」
「……守りたいって、想ったのに…」

守りたかった。ただただ純粋に、絵里のことを。
でも、独り善がりな正義は、結局は絵里を傷つけ苦しめるだけだった。
だけど、だからこそ、これからはもっと分かりたい。
絵里の抱え得る闇のひとつも晴らすことなんてできないかもしれないけど、その闇に少しでも寄り添いたかった。
傍にいることしかできないかもしれない。なにもできない無力な存在かもしれない。
それでも、一緒にいたかった。
同じ風景を、同じ空気を、絵里と一緒に感じたかった。

「……傷つかせたあなたと、行かせたくありません」

沈黙を破ったのは、里沙の重い言葉だった。
彼女は飲み干した珈琲のカップをぎゅっと握りしめ、テーブルの一点を見つめる。

「職員という公人としては、行かせたいですけど」

そう言って里沙は真っ直ぐにれいなを見つめる。
里沙の瞳に映るれいなは一瞬、彼女の真意を掴みかねて揺れるが、彼女はそれに反して、全く揺れない。
それがそのまま、里沙の想いだと気付いたとき、れいなはなにも言えなくなる。
だが、此処で引き下がることも、想いに気付かない振りをすることもれいなにはできなかった。

「絵里のためです」
「あなたのためじゃなく?」

里沙の言葉に、れいなは再び言葉を詰まらせた。
自己満足でないという確証はない。
この行動が、絵里のためでなく自分自身のためだと言われれば、違うとは言い切れない。
だが、それでもれいなは引き下がらない。

「どうしても、ダメですか?」

れいなが真っ直ぐに里沙を見つめると、彼女もまた真っ直ぐな視線をれいなに返す。
その瞳の奥に、れいなは確かな里沙の想いを見た。
絵里が盲学校に入学してもうすぐ3ヶ月が経とうとしている。
その間、ずっと、真っ直ぐに絵里を見つめてきた里沙の想い。
それが分かってもなお、れいなは自分の想いに正直に生きたかった。

里沙は溜息をひとつはいたあと立ち上がった。

「…校長には私から話しておきます」

里沙の答えを噛み砕いたれいなは思わず立ち上がった。

「ただ、」
「…ただ?」
「……もう二度と、傷つけないと、約束して下さい」

里沙の目は、真っ直ぐにれいなを射抜いていた。
これが彼女なりの優しさであり、宣戦布告なのだろうかとれいなはぎゅっと拳を握り締める。
確かな想いを受け取ったれいなは、強く「はい」と返すと、里沙も困ったように笑って一礼し、食堂をあとにした。


ひとり残されたれいなは、手強いライバルだなと頭をかいた。





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