キミはホントにネコみたい―――


ちらりと学生服の上着のポケットから見えるアクセサリーに目をやった。
数日前から付けている、れいなのケータイのストラップ。ちょっと可愛いなんて思う。
その趣味、キミのじゃないよね。

「バリさむか〜……」

れいなは水色のマフラーで顔半分を覆い、白の吐息を漏らしながら学校へと歩く。
春は明け方が良い。冬は朝が良い。なんて昔の……だれだっけ、あ、そう、清少納言さん。清少、納言じゃなくて、清、少納言さんは言ったらしい。
絵里は冬生まれだけど、ハッキリ言って、朝が良いなんて思わない。だって寒いもん。

「れーなぁ、寒いよぉ」
「んなこと言われても…オレも寒い」

絵里の右隣を歩くれいなはそうして肩を竦めた。
まあ寒いのは冬のせいであってれいなのせいではないからその答えは間違っちゃいない。だけどさ、絵里ちゃんの手を見て下さいよ!
コートのポケットには左手しか突っ込まないで、れいなのすぐ横にある右手はプラプラと自由の身なんですよ!
歩くたびにれいなの腰のあたり少〜しだけ当たってるの!そりゃもう気付くか気付かないか微妙なラインですけど!

「つか寒いっちゃったらポケット手入れぇよ」

この鈍感野郎、そんなことまで言いやがるんですよ。
超がつくほどの鈍チンに期待した絵里も大概バカだけどさ、ちょっとは感じてほしいじゃん、この乙女心。
れーなに手を繋いでほしくて出しっ放しにしてるなんて、口が裂けても言えない絵里も、意地っ張りでツンツンしてるって分かるけどさ。

「つか終業式とかめんどっちぃー」

れいなは絵里のそんな気持ちも分からないで呑気に空を見上げて呟いた。
声が音として外に発散するたびに、周囲の風景は白の吐息で染まっていく。雪も氷もそうだけど、冬の朝に白はよく似合う。
それは確かに綺麗な光景だから、そんな意味では、「冬は早朝」って云った清少納言さんの気持ちもわかるような感じがした。

でも結局、右手はだれからの温もりも受けることはなく、宙ぶらりんのまま。
校門まではあと10分程度。このペースだともしかしたら15分かかるかもしれない。まだ此処は住宅街。
いつも一緒に登校するえりぽんこと衣梨奈ちゃんは、日直とかで聖君と一足先に学校に向かっていた。
そういえば聖君、今年中に告白って言ってたけどできるのかな?
だからいまは、絵里とれーなはふたりっきり。
学校の近くまで来たらクラスメートにも会うだろうけど、せめてあと7分程度はだれにも会うことはない。
そんな状況でも、意地っ張りで鈍チンで強情でツンデレでヘタレなれーなは、絵里の手を握ることはないんだよね。

「さーむーいぃぃ」

絵里はまたそうして、今度はもっと拗ねたように言う。でも、反応は変わらない。
そう。ホントにキミはそういうタイプ。

「えーりっ、れーいなっ!」

そんな声に前を向くと、自分たちの数メートル先の横断歩道近くに彼女はいた。大親友のさゆみはこちらを見て手を振る。
絵里も笑って手を振りかえすと、れいなも同じように手を振った。ねえ、なんでそんな笑顔なの?なんか嬉しそうに見えるんですけど。

「さゆ、ほっぺ真っ赤やねえ」
「だって寒いもん。しょうがないよー」

れいなはそう言ったあと、さゆのほっぺをぺたって触った!はぁ?!って声に出すことも忘れてぽかんとした。

「ちょっと!冷たい!」
「ニシシ。まっかっかやけん、あったかいかと思った」
「もー。そんなわけないでしょバカ」

ぴっきーん。
絵里ちゃんの不快指数、急上昇ですよ。
いや、良いんですよ別に?絵里とれーなは付き合ってるわけじゃないし、
女の子のほっぺに触るなんて、男の子ならだれでも普通にする自然の行為……かなぁ?
あ、あれ、自信無くなった……ってそんなのどうでも良い!……よね?

「えりぃー。行くっちゃよー」

気付くとさゆとれいなは数メートル先に立っていた。
無邪気に笑うアイツの顔に苛立ったけど、同時に心の中に“なにか”が掠めた。でも、その“なにか”の正体なんて分かってるからなにも言わない。
絵里は右手をポケットにしまってふたりに並んだ。改めて3人で歩き出す。いちばん左が絵里、真ん中にれいな、そして右にさゆ。
今日終業式だねー、とか、通知表ヤバいかも、なんて他愛のない話をしながら学校を目指す。
離してる最中、絵里は自然とポケットから右手を出していた。結局、ポケットに入っていた時間はわずか1分にも満たなかった。
校門をくぐるときには、すっかり右手は真っ赤に染まっていた。こんなことなら、片方失くした手袋、つけてくるんだった。


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「カメもさゆも田中っちも、遅刻寸前!」

教室に入った瞬間、ガキさんがいつもの小言を零すので、3人仲良く耳を塞いだ。
全く、終業式まで真面目すぎる。どうせ今日は校長先生の話を寒い体育館で聞いて大掃除して通知表貰うだけなんだから勘弁してほしい。

「ハイハイ。ガキさんそんなに怒ると小じわが増えるの」
「余計なお世話なのだ!」
「ガキさんごめんっ!絵里がまた寝坊したっちゃん!」
「………」

そうやってすぐに絵里のせいにする。
まあ正確に言えば、半分失くした手袋を探しているうちに遅くなったんだけど、わざわざ訂正する気にもなれなかった。遅くなったの、事実だし。
絵里は曖昧に笑って席に着いた。相変わらず右手は真っ赤のまんま。正直、感覚がない。
ゆっくりと力を込めて指を曲げるけど、ちゃんと「グー」をつくれずに中途半端な位置で止まる。あー、いったいよぉ。
これ、ちゃんともとに戻るまで結構な時間がかかるかなー。

「カメ?」

座った途端に右手を見る絵里を不思議そうにガキさんが覗き込んだ。
いつものようにだらしなく笑って「なに?」と返すと、それ以上はなにも言わないでガキさんも椅子に座った。

「あ、そういえば愛ちゃんが来てたよ。ちょっと遅れたクリスマスプレゼント渡したいって」

ガキさんは絵里の斜め前に座ったれいなにそう話しかけた。
当の本人は「えぇ?マジか!」とこの世の春みたいな顔して笑ってる。もう怒る気力も嫉妬する気にもなれなかった。

「いや〜、愛佳も放課後なんかくれるとか言いよったしなあ……」

ちょっと待て。絵里そんな話聞いてない。なんていつもなら立ち上がって抗議するところだけど、残念ながら今日の絵里は不発です。
相変わらず凍ったままの右手を見たまま、深く「はーっ」って息を吹き替えた。少しは温かくなった気がする。
そっか。愛ちゃんも愛佳ちゃんもれーなにクリスマスプレゼント買ったんだ。
斜め前のれーなは絵里の視線を少しだけ気にしたけど、垣間見える笑顔はだらしなくてどうしようもないって感じ。

ねえれーな、キミはなんにも言わないけどさ。ああ、さゆもだよ。さゆからプレゼント貰ったの、絵里は知ってるからね?
どうせ絵里には内緒ねとか、嫉妬するから言わないでねとか、友だち同士だし、とか言ってもらったんでしょ、そのケータイのストラップ。
ホント、キミは分かりやすい。嘘もつけない正直者だよ。隠しごとが恐ろしく下手。不器用。
ねえ、まさかそのストラップ付けたの、絵里を試すためとか、そんなんじゃないよね?

そんなことを考えながら机に伏した。
あーーー、さゆの視線を感じるけどもういーや。


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結局、頭の中はごちゃごちゃしたまま放課後を迎えた。
絵里の思考の9割を占めていたのは、2とか3が並んだ壊滅的な通知表や、補習のお知らせのプリントなんかじゃなく、当然、れーなだった。
れーなは現在、愛ちゃんと愛佳ちゃん、ガキさんにさゆ、ついでに中等部校舎からやって来たえりぽんに囲まれている。
だらしなく顔を緩ませて嬉しそうなれーな。
アハ、うーわー、ハーレムじゃん。良かったねれーな、オメデトウ。

そんなとき、ちらりとさゆがこちらを見た。なにを言わんとすのか大体わかったけど、絵里は視線を絡ませる気はなかった。
「れーなは絵里のなのぉ!」なんていつものように叫ぶ気力は今日はないの。今日は絵里、不発だから。
てか疲れたよ。そもそも不発ってなんだよ。ってツッコミを入れながらそっとカバンを持って教室を抜け出した。
これ見よがしに泣いて走って立ち去る悲劇のヒロインっぽくならないように、気配を消してそーっと抜け出す。絵里、こういうの得意。幸、薄いから。

で、そのまま帰れば良いんだけど、黙ってすごすご帰るほどの力もないのが絵里のダメなところ。
わざと階段をゆっくり降りて、忘れ物したわけじゃないのに階段をまた昇って、だけど教室に戻る勇気もなくてまた降りる。
こんなことを繰り返すのにも限界が来て、絵里は肩を落として靴箱へと向かった。

「ばーか……」

さて、だれに呟かれたかなんて考えるのは面倒だったから思考をシャットアウト。あれ、シャットダウンだっけ?いーや、どっちでも。
ローファーを穿いて空を見上げた。冬の灰色の空が見下ろしていた。しかも雪降ってるし。
雪が降るといつもならなんとなく楽しいのに、今日はすんごい憂鬱です。こんな日はこたつで丸くなりたい。
これでも絵里はネコじゃない。ネコなのは、あいつだ。
こっちがどれだけ好きって言っても、キミは自分から頬を寄せてくることはない。
嬉しそうに駆け寄ってくるのは、ちょっとエッチなことをするときだけ。それも大抵、絵里が誘ったときだけ。
そう。キミはさながらネコのよう。マタタビや豪華なキャットフードを差し出して漸くこちらに振り返ってくれる。キミからはひとつも、絵里にくれない―――

右手は凍ったまま。だけどコートのポケットには入れないでおく。
握る人なんていない。左手はしっかり温かさを感じているのに、右手はいつまでも待っている。
バカバカしいというかなんというか。これもひとつのマタタビにはならないのかな?なんて思う自分に呆れる。

「傘……」

そういえば傘、持ってないや。
2週間前、午前中に雨が降って午後から晴れた日に教室に忘れた傘があるけど、取りに帰る気にはなれない。
本当のチャンスを活かさないで佇む絵里ってなんだろう。絵里ってもしかして結構アホ?っていうか、絵里ってれーなのなに?

ねえ、私はキミのなに?
キミにとって、絵里って大事な存在?
絵里にとっては、れーなは大切な人なんだよ?
片想いかもしれないけど。一方的な想いかもしれないけど、絵里はれーなが好きなんだよ?

絵里は思わず笑った。
10年以上も心に浮かんで、だけどただのいちども本人に伝えられなかった想いが溢れ出る。
バカみたい。朝は少しは余裕あったのに、なんで放課後にはこんなに弱気になってんの?冬は早朝なんでしょ、清少納言さん。
絵里はぐしぐしと目を擦り、一歩、踏み出す。
降りしきる雪が絵里の肩や髪に降り注ぐ。寒い。冷たい。痛い。だけど凌ぐ術がなくて歩く。右手は出しっ放し。凍った校庭を、絵里は、歩く。

「待って―――」

そんな絵里の右手が掴まれた。
ぎゅうってやってきた唐突な温もりが絵里の手を解かす。
え、だれ?れーな?なんて期待したけど、その低い声は、聞き馴染んだ彼の声じゃなかった。
それでも、何処かで聞いたことのある声は、持ち主をすぐに絵里に教えた。

「……聖君」

校庭のど真ん中で彼の名を呼ぶと、彼はすぐに右手に持った傘を差しだした。
ひとつの傘の中にふたりで収まる。少しだけ、聖君の背中が濡れるけれど、いまはそんなこと気にしてられなかった。

「なんで、傘、持ってないんですか?」
「え……あ、ああ。今日忘れちゃって」

突然の質問に絵里は笑って返した。ついでに「絵里ドジだからさー」なんて付け加えた。
でも、聖君は納得しないように眉を顰め、一瞬だけ躊躇したあと、「田中さんは……?」と聞いた。
「またケンカですか?」って付け加えたのはたぶん、優しさだよね。
絵里は肩を竦めて首を振った。

「今日は、別々に帰るの」

その理由は特に言わなかった。
まさか、「彼がネコだからです」、なんて言えない。言えないし、理由になってない。
聖君はまたなにか言いたげに顔を歪ませたが今度は躊躇した後も、なにも言わずに、改めて傘を傾けた。
いっそう彼の肩が濡れるから押し返そうとしたけれど、そうしたら聖君が絵里に距離を詰めてきた。完全に、とは言えないけれど、絵里と聖君は傘に収まる。
れいなとふたりで入るときは、彼が小さいからすっぽりと収まるけど、聖君は身長も高いからそうはいかない。肩は時折、氷の粒に打たれる。

「いっしょに、帰りましょう」
「え?」
「僕も、今日はひとりですから」

聖君はそうして少しだけ寂しそうに笑った。
えりぽんは?なんて聞き返すような野暮なことはしなかった。彼女なら先ほどまでうちのクラスでれーなと騒いでいた。
「今日はひとり」ということは、えりぽんは聖君に「今日はいっしょに帰れない」とでも言ったのだろう。
その理由を彼が深く問いただしたかは知らないけれど、いまの絵里の現状を鑑みれば、聖君はすべての解答を知るだろう。
絵里はそのことを感じ取ると、曖昧に笑って頷いた。

聖君の左手はまだ、絵里の右手を握ったまま、放そうとはしない。もしかしたら、勢いに任せて繋いでしまったため、放すタイミングを失ったのかもしれない。
それとも繋いだこと自体を忘れてしまったのか、果ては「放すことができない」のか、絵里には分からなかった。
だけど、絵里もその手を放すことはできず、聖君の左手に自然と指を絡めた。冷たい指先でごめんって思ったけれど、彼もまた同じように力を入れた。
その温もりが恋しくて、絵里は寒いせいだと言い聞かせながら鼻を啜った。


 -------


聖君と手を繋いだまま、絵里たちはのんびりと歩いた。
右手で傘を持ち、左にいる絵里に傘を傾けるため、聖君の右肩は随分と濡れていた。
押し返しても、「だいじょうぶですから」と笑ってやめようとしない。繋いだ手も、放すことはない。

傍から見れば、ひとつの傘にふたりで仲良く入って手を繋いで歩く、仲の良い高校生カップル。
まあ違うところは、ふたりはカップルじゃないことと、聖君は中学生だってこと。
そんな聖君はなにか言おうとして、でもやめる、ってことを繰り返していた。気遣い屋さんだなぁって笑う。

「聖君はいーの?」
「え?」

そんな気遣い屋な彼を、これ以上巻き込んじゃダメだよねって、絵里は唐突に思った。
絵里、こう言うのもなんだけど結構今日は凹んでる。悲劇のヒロインじゃないって言い聞かせたいけど、実は傷ついてる。
そんなときにこうして優しくされたら、転んでしまう。もたれかかってしまう。その優しさに甘えたくなっちゃう。

「えりぽんが、好きなんでしょ?」

引き合いに出すのはずるいって分かってた。でも口をついてしまった。
いま、大好きなえりぽんはれいなと逢ってるんだよ?そしてれいなは女の子に囲まれてニヤニヤしてるんだよ?
絵里になんて、構ってる暇ないんだよ?

「……雪降ってるのに、傘なしに帰るなんてあり得ないですから」
「コンビニで買うから大丈夫だったのにぃ」
「学校からコンビニまで歩いて5分かかりますよ」
「5分くらい平気だって」
「平気じゃないですよ!」

軽口をたたいていた絵里をいなすように、聖君は叫んだ。
一瞬だけ周囲の空気が凍るが、すぐに動き出した。重たい雪がぼたっと傘に落ちてくる。その音は耳を刺激する。そして目は、彼に囚われる。
真っ直ぐで、大きくて、そして熱い瞳。なにも言えなくなる、言葉を失うその視線。綺麗な輝きが、怖い。

「右手、メッチャ冷たいし……」

絵里の右手をもう一度、聖君は強く握った。
私のせいで彼まで冷たくさせるような気がしたけど、彼はその手を放そうとはしない。ぎゅうと指を絡め、じっと見つめている。
どうしよう、なにか言わなきゃ。これは別に君のせいじゃないんだよって。でも、やっぱり言葉にはならない。
右手は徐々に熱を帯びてきた。漸く氷が解け始めるように、ゆっくりと動く指をしっかりと感じる。それが嬉しくてまた強く握ると彼もそれに応じる。
繋がれた手が離れない。呼応するように、黙って見つめ合う。長いまつ毛が綺麗だった。整った鼻筋が綺麗だった。聖君がカッコいいって、想った。

「……行きましょう。風邪引きますから」

先に目を逸らしたのは聖君の方だった。
微かに頬を染め、絵里の手を引くように大股で歩く。絵里も置いて行かれないように、というか勢いでにつられながら小走りでついて行った。
言葉の代わりに白の吐息が短く世界を染める。しんしんと雪が降りつづける。本当に、冬は寒い。

大通りを曲がり、住宅街へと入る小道で、ぴたり、と、聖君が立ち止まった。絵里も慌てて立ち止まり、彼の横顔を見上げた。
聖君は下唇を噛み、自分の少し先の道路を見つめていた。なにも見ていないのだと気付いたけど、特になにも言わない。
なんとなく、彼の次の行動が読めてしまった。
彼の中の心音メトロノームは小刻みに振れ、理性と欲望の振子はそれに比例するように大きく振れている。
求めているもの、求めたいもの、確かにそこにある理性、自分の気持ち、彼女の笑顔、そんなものが一気に押し寄せている。
ぐっちゃぐちゃに湧いて出たものを閉じ込めるのは容易ではない。

たぶん、正解なんてなかった。
でも、聖君の気持ちを推しはかった場合、最も適切な答えは、それでも絵里が一歩前に進むことだったんだと思う。
その手を放すかどうかは関係なく、とにかく立ち止まらずに歩くことが、次の行動を防ぐ手立てになったはずだ。
そんなこと、分かっていたけど、絵里にはどうしてもできなかった。
あのバカネコの笑顔は浮かんでいたけど、この手の温もりがあまりにも優しかったから。

「聖君―――」

だから、いちばんやってはいけない答えを導いた。
彼の手に少しだけ力を込め、彼の名前を優しく呼ぶこと。そしてその瞳は真っ直ぐに、彼と絡ませる。
そうすれば自ずと、次に発生する出来事は決まってくるのだから。

「亀井さん―――」

泣きそうになる声で、聖君は絵里の名を呼んだ。
普段よりも熱っぽいその声に胸が締め付けられ、思わず泣きそうになった。その理由にはたどり着けない。

聖君は軽く左手を引っ張る。繋がれた絵里の右手が引かれ、そのまま聖君との距離が詰まる。
ふわりと彼に間合いを詰めた。その差はわずかに30センチ程度。たぶんそれは、ただの先輩・後輩関係の距離ではない。
ゆっくりと彼の顔が近づいてきたのを感じたとき、絵里は拒むことはできなかった。
そっと目を閉じて、聖君を待った。

「―――――――」

触れるだけの冬のキスは、冷たくて、温かかった。
彼にとってなんどめのキスかは分からないけれど、少なくとも絵里に対しては初めてのキスだった。
甘くて柔らかい口付けはすぐに終わり、ふたりは目を逸らさずに見つめ合った。逸らすことが許されないかのように、真っ直ぐに、交錯する。
そのまま10秒経っても、ふたりは歩き出そうとも、手を放そうとも、距離を取ろうともしなかった。

辛うじてできたことといえば、絵里がまた目を閉じてそっと顔を傾けたことだった。
聖君はなにか言いたげに眉を顰めたが、抗うことはなかった。
傘を持ち、手を繋いでいるために、髪や頬に触れることはなかったが、ゆっくりと顔を近づけ、キスを落とした。
甘い二度目の口付けは、先ほどよりも少しだけ長かった。

心に浮かんだそれぞれの笑顔が、ゆっくりと遠くなった気がした。





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