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「絵里から離れるのドMニャンコ!」
「うっさい!お前こそ離れろ変態うさぎ!!」
「あのー、ケガしないようにね……」

放課後、高等部の教室ではいつもの光景が繰り広げられていた。
かめい君を奪い合うれいなとみちしげ君。それを困った顔で見守るかめい君。
その近くの机に座って「また始まったよ」と笑うたかーし君とにーがき君。
さらに周縁には、この日常茶飯事の光景を見守ったり、あまりにも普通の光景に慣れてしまって、気にしていないクラスメートもいる。


平和な、本当にいつも通りの放課後だったが、事件は往々にして、そんな日常の中から始まるものだ。


「このうるさいニャンコめ!本物の猫にしてやるの!」

みちしげ君はそういうと、長い人差し指を立て、鋭くれいなの体を突こうとした。
それがみちしげ君が最近会得した秘儀「ツボ押し」だと気付いたれいなは素早く避ける。
「ツボ押し」とはご存知のとおり、性別が逆転したり、身体が動物に変化したりするかなり無茶苦茶な能力である。
れいなはいちどツボを押され、猫にされた経緯があった。

「そんなん反則やろ!」
「さゆみに不可能はないの。さあ大人しく猫になるの!」

此処まで来るともはや漫画の世界だが、そんなことは知ったことではない。
ツボを押そうと人差し指を突き出すみちしげ君とそれを必死に避けるれいな。徐々にヒートアップし、かめい君もさすがに焦る。

「もー、ふたりともやめなってば!」

かめい君はれいなを庇うように立ちはだかる。
一瞬だけみちしげ君も躊躇するが「邪魔しないで絵里。これも絵里のためなの」と涙ながらに語る。

「なんが絵里のためっちゃ!自分のためやろ!」
「さゆみのためということはつまり絵里のためなの!」

またわけの分からないロジックだが、再びツボ押し戦争が勃発する。
さすがに愛しのれいなを猫にされては敵わないと、かめい君はみちしげ君の手首を押さえる。
手首を掴まれたことで至近距離になり、「はぁん、絵里と近いの近いの♥」とみちしげ君の目はハートになる。
それも束の間、れいなが彼の股間を思い切り蹴り上げた。


 \エリニサワルナッ!/
 ∋oノハヽ  ノハヽo
  从+` ロ´)(゜ 。.゜;bヽ
 と⌒   | |   `つ
   | __,ニつ 、)    <コキーンッ☆
   L√   し し'


コキーン☆という音のあと、みちしげ君は「ハォォォォ…」と声にならない悲鳴を上げ、ゆっくりと倒れ込む。
が、手首を掴んでいたかめい君もまた同時に倒れ込む形となった。

「おぉ?……ってぇ!」

ドダンという音のあと、ふたりは同時に倒れ込んだ。
痛みを堪えながらみちしげ君が目を開けると、驚愕の事実に気付く。自分の人差し指が、かめい君のツボに当たっているのだ。

「え、絵里!?」

その事実にれいなも、そしてたかーし君もにーがき君も気付く。
思わず立ち上がり、倒れ込んだままのかめい君を覗き込んだ。

「絵里、だいじょうぶと?絵里!」

れいなはかめい君の体を抱き起すが、かめい君は「イテテ…」と額を押さえる。

「絵里、問題ない!?痛くない?女になっとらん?!」

見たところ動物に変化したり、性別が逆転している様子はない。
念のためにとれいなはシャツのボタンを外し、胸元を確認するが、問題なかった。
ハラハラと見つめるみちしげ君をよそに、かめい君は「うん?」とぼんやりした目でれいなを見た。
ふたりはしっかりと目を合わせる。いつものように真っ直ぐで熱いかめい君の視線に、思わずドキッとした。

「れーなってやっぱ可愛いよねぇ」
「は?」
「前から知ってたけど、ちょー可愛いよねぇ……もうずーっといっしょにいたい」

そうしてかめい君はぎゅうとれいなを抱きしめた。これもいつもの光景なのだが、なんだが様子がおかしい。
かめい君はそっと体を放すと、彼女の顎に手をかけた。この熱い瞳、先ほどのセリフ、このシチュエーション、導き出される答えはひとつしかない。
れいなの唇はかめい君に吸い込まれた。キスなんて日常茶飯事だが、こんな公共の場で、しかもクラスメートが大勢いる前ですることは滅多にない。

「うへへぇー、赤くなっちゃったぁー、かーわーいーい」

口をパクパクさせるれいなをよそに、かめい君はその髪を撫でる。
その様子を見ていたみちしげ君はこれはまさか…と「あの」ツボを押してしまったのでは仮定を立てた。

「お前、こんな目立つ場所でキスはないやろー」

ケガをしていないと知ったたかーし君は、いつものように肩を竦めて笑い、かめい君の頭を軽く叩いた。
くるりと振り返ったかめい君は、今度もまた真っ直ぐな目でたかーし君を見る。その様子はやっぱり、おかしい。

「たかーし君って顔立ち綺麗だよね…」
「は……?」
「目もパッチリだし、髪さらさらだしお洒落だし、カッコいいよねー」

かめい君はそう言うとたかーし君に距離を詰める。そのわずか30センチは、ただの友人同士の距離ではない。
おいおい、なに言ってんだお前とツッコむ前に、かめい君の手が頬にかかる。待て、待て、待て、待てー!!

「ちょっとま―――!」

それは一瞬の出来事だった。
言葉を紡ごうとした唇はかめい君のそれと重なり、すぐに離れる。

「ちょ、こ、な、お、なあああ!?」
「あれ?たかーし君ファーストキス?そんなことないよねぇー。えへへ、ごちそうさま」

クラスメートが呆気にとられている中、かめい君はヘラヘラと笑い、くるくると回った。
これは間違いないとみちしげ君は確証を持つ。

「絵里に押したツボはタラシのツボなの!」
「な、なんだよそれ!」
「男女関係なく、だれでも大好きになり、とにかく見境なく口説いてキスをしてしまう、ナンパ&キス魔になるという恐ろしいツボなの……」

そんなのアリかよと口をぽかんと開けるたかーし君のことなど意に介さず、みちしげ君は立ち上がる。
これはチャンスなの。男女関係なくだれでも大好きなら、さゆみのことも口説くはずなの。
さあ絵里!さゆみのこの可愛い唇に、濃厚で情熱的なキスをするの!

「カモン絵里!」

みちしげ君は鼻息を荒くし、両手を広げてかめい君の熱いベーゼを待つが、一向にキスは降ってこない、
ん?と不思議に思ったのも束の間、彼は今度はにーがき君の手を握りしめていた。

「ガキさんってちっちゃくて可愛いよねぇ」
「なななななななにを言ってるのだ!」
「でも童顔だけど演劇してる時はカッコいーしさ。優しいし、頼りがいあるし……ボク、ガキさんのこと好きだよ」

にーがき君は必死に反論の言葉を探すが、思考がショートしなにも言えない。
顔が紅潮し、膝が震える。段々と彼の顔が近くなる。このままではファーストキスを奪われてしまう。だが動けない。

「ガキさん……」
「待て待て待て待て待て待て待て待て!!待つのだカメ!!」

あと少しで唇が重なろうという瞬間、「やめろおおおおおお!」とたかーし君が強烈な右アッパーを繰り出した。
ガシャァン!という音のあとにガラスを破壊し、かめい君の体は青空の彼方へと飛んでいく。

「ガキさんだいじょうぶか!おい!」
「カカカカ、カメのくち、くち、くちびるが……」
「放心しとる……」

嵐が過ぎ去ったクラスはまだ騒然としていた。
れいな一筋で有名なかめい君が、だれでも大好きのナンパ野郎になってしまったのだ。混乱するのは仕方ない。
当のれいなはと言えば、ツボを押したみちしげ君への怒りもあるが、なにより誰彼問わずキスを振りまくかめい君に怒っていた。

「おい……あれ、マズくないか?」

そうして、クラスメートのひとりがなにかを指差した。
その指先には、中等部の校舎へと颯爽と走っていくかめい君の姿があった。どうやらブーメランの法則で青空の彼方から戻って来たらしい。

「キス魔のかめいが中等部で暴れたら……」

クラスメートの言葉に全員の血の気が引く。
かめい君と言えば、その可愛らしい顔立ちや甘い声、抜群の運動神経で後輩の人気も高い。
中等部校舎でちやほやされるのも日常茶飯事だが、いまの彼は見境のないナンパのキス魔だ。
もし仮に、生田君の恋人、聖ちゃんにキスでもしてしまい、それが生田君に見つかってしまったときには……

「戦争だな」

れいなは勢い良く立ち上がり、教室を飛び出した。
それにつられるように、たかーし君も立ち上がる。「ほら、行くぞ!」と半ば放心状態のにーがき君もいっしょだ。
クラスメートもこの騒ぎを楽しみたいのか、わらわらと中等部の校舎へと走った。

「納得いかないの…こんなに可愛くて美人でナイスバディーなさゆみを好きにならないわけがないの」

ただひとり、なぜかめい君が自分にキスをしなかったのか、みちしげ君はその原因をクラスで考えていた。


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「ねー、この問題分かんないよぉ〜」
「だから、教科書の此処に載ってんじゃん」

中等部1年の教室では、佐藤君が居残り勉強を行っていた。原因は、佐藤君が夢の世界に旅立ってしまったこと。
工藤君はと言えば、そんな佐藤君に付き添ってあげている優しいお兄さんだ。

「ホントだー!くどぅーすごーい!」

佐藤君は目をキラキラ輝かせて問題に取りかかった。
彼の笑顔に工藤君は思わずドキッとしたが、すぐに目を逸らし、窓の外を見つめた。
こんなこと、前にもあったような、とデジャビュを感じたが、工藤君は誤魔化すように脚をぶらつかせた。

「できたー!せんせーに出してくる!」
「転ぶなよー」
「わかってるぅ〜」

佐藤君は勢い良く立ち上がったあと、楽しそうに職員室まで走り出した。
やれやれと工藤君も立ち上がり、ゆっくりと帰る準備を始める。

佐藤君は嬉しそうにプリントを持って廊下を走っていると、高等部のかめい君の姿を見つけた。

「あ、かめいさーん!」

いつも隣にいる大好きなたなさたんはいないようだが、佐藤君はかめい君に手を振った。
かめい君も彼の姿を認めるとニコッと笑い、両手を広げた。佐藤君は迷わずにその腕の中に飛び込んだ。

「かめいさん、中等部に遊びにきたんですか?」
「うん、そんなところだけど……えへへ、まーちゃんって顔立ち整っててカッコいいね」

急に自分の顔を褒められた佐藤君はきょとんとするが、カッコいいと言われて悪い気はしない。
「そーんなことないですよー」とデレデレになり、体をくねらせる。
だが、かめい君は至って真剣に彼を見つめる。かめい君は腕の力を込め、佐藤君を強く抱きしめた。
ふたりの距離はほとんどなくなり、黙って見つめ合う。

「天然で可愛いし、なんかある意味、最強だよね」
「そーですかぁ?」

段々と佐藤君は、かめい君の様子がおかしいことに気付く。
本当にこれが彼の本心だろうか、なんだかいつものかめいさんじゃないような…と首を傾げる。
そんな佐藤君の気持ちとは裏腹に、かめい君は顎に手をかける。くいと顔を傾けると、その距離は僅か15センチにも満たない。

「好き、だよ」
「かめいさ……」

かめい君は目を閉じて顔を近づけてきた。
あと少しでキスをするというその瞬間、佐藤君は何処から取り出したのか木魚で彼の頭を思い切り叩いた。
ポクポク、なんて可愛らしい音はせず、ゴン!と実に痛々しい音が響き、「ぬぉぉぉ……」とかめい君は悶絶する。

「まーちゃん、かめいさんは好きですけど、たなさたんとどぅーが好きなので、ごめんなさい」
「こっ……ちょ…マジ、痛い……」

涙目になりながら蹲るかめい君にぺこりと頭を下げ、佐藤君は颯爽と職員室へと走っていった。
むむむ、ガキさんにつづき、二度もキスできなかったぞと、かめい君は気を取り直して立ち上がる。
すると、奥の教室から見慣れた顔が歩いてきた。
佐藤君の帰りが遅いと待ちくたびれた工藤君だった。

「あ、かめいさんこんちはー!」

工藤君はかめい君に向かって深く頭を下げたあと、「まーちゃん見ませんでした?」と訊ねた。

「あー…いま走ってったけど」
「えー。いまッスか。あいつなにしてたんだよ……」
「相変わらず、面倒見が良いね」
「別にそんなことないッスよ」

不貞腐れたような、だけど少し照れたような顔で工藤君は窓の外を見た。
眩しい西日に目を細める姿は、到底13歳には見えない。

「身長、また伸びたね」
「え。ああ、結構伸びました。もー膝とか超痛くてヤバいんすよー」
「身長高いくどぅーもカッコいいけどさ、僕より高くなったらちょっとヤだな」

かめい君は窓際に並び、彼の頭に手を置いた。
ぐしゃぐしゃと撫でると、工藤君はきょとんとする。

「なんでですか?」
「だってさ」

ぽすんという音のあと、工藤君の体はすっぽりとかめい君の腕の中に収まった。
いったいなにが起きたのか、一瞬、工藤君は把握できなかった。

「こうやって抱きしめられないじゃん?」

工藤遥、13歳。
幼馴染の佐藤君に抱きしめられることはあっても、他の奴に抱きしめられることはない。
確かにふざけ合うことはあるにしても、こんなに真剣に、そして甘く囁かれることもない。

「かめいさん、なにするんですか!」
「んー、イヤ?」
「イヤとかそう言うんじゃなくて!」
「くどぅーの子どもっぽいところとか生意気なところ、好きなんだよねー」

好き!?いまこの人好きって言った!?え、なに言ってんのかめいさん!!
かめいさんは田中さんとラブラブじゃないですか!なんなんスかもう!!

「キスしよっか?」
「はああ?!」
「大人のキス、教えてあげるよ」

段々とかめい君の唇が近づいてくる。
逃げようにも力が強くて逃げられない。ああくそどうしよう!
てかオレなんでキスの相手が2回とも男なんだよ!ヤダヤダヤダヤダ!ああああああああ!!

「がびんぼよ〜ん!!」

瞬間、再び木魚が飛んできた。
今度もポクポクと可愛らしい音はせず、ゴン!と実に痛々しい音が響く。当たったのは、工藤君だった。
工藤君は悶絶する間もなく気絶し、どさっと床に倒れ込んだ。

「どぅーにキスできるのはまーだけですよ!」
「へへ、ホントにキミたちは仲が良いですねぇ」

かめい君は困ったように頭を掻き、佐藤君に近づいた。
工藤君は相変わらず意識を遠くに飛ばしたまま、床とお友達になっている。

「かめいさん、ホントにどうしちゃったんですか?」
「どうもしてないよ。これがホントの僕なんだ」

かめい君はそうして笑うと、佐藤君の頭を撫で、口笛を吹きながら廊下を歩いて行った。
なにが起きているのか、いまひとつ分からない佐藤君は困ったように腕を組む。
そして思い出したように振り返り、工藤君に駆け寄った。

「あ、どぅーだいじょうぶ?!だれがこんなことを!!」

お前がやったんだろうというツッコミが聞こえてきそうな気がするが、佐藤君は意に介さず、工藤君の体を抱えた。
ぴよぴよと頭上をヒヨコが飛んでいる工藤君はまだ目を覚まさない。
佐藤君は寂しそうに眉を下げたあと「どぅー……」とその名を呼ぶ。

「王子様のちゅーで起きる?」

佐藤君はそう言うと、ゆっくりと工藤君に顔を近づけた。


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所要で中等部の校舎に来ていた光井君は、なにやら嫌な気配を感じた。
動物的勘なんて働く方ではないが、物凄く嫌な予感がする。
また先輩たちがなにかやらかしたのだろうかとこめかみを掻いていると、彼が来た。

「お、みっつぃーおつ!」
「なにしてはるんですか、かめいさん」
「なにって、キミを迎えに来たんですよ?」

颯爽と現れて歯の浮くような妙なセリフを口にしたかめい君に、光井君はぎょっとした。
そう言うセリフは田中さんにだけ言っていれば良いと思うのだが、それにしたってなにか妙だ。
かめい君は相変わらずニコニコしたまま、光井君の右手を握り、立膝を突く。

「可愛い王子様を迎えに来たんですよ?」

身長はかめい君の方が高いため、見下ろすのは新鮮だった。ていうかこの状況はどういうことだと光井君は眉間に皺を寄せる。
あまりにも非日常的で、非現実的で、どう対処すべきか悩む。
握られた手は温かくて柔らかくて、無下に振り払うことができなかった。

「僕と恋しよう?」
「は!?」

だが、さすがに次に出てきた言葉に、光井君は鋭く言い返した。
恋しようとはどういうことだ?

「気遣い屋さんで優しくて、そういうとこ好きなんだよね」

これはいわゆる告白と言うやつかと光井君は必死に思考を回転させる。
彼の目は真剣そのもので遊びで言っているわけでもないらしい。となると、どうせ高等部のみちしげ君になにかされたのだろうと合点がいく。
とはいえ、この瞳に見つめられたら動けなくなるのも事実だった。
ヤバいヤバいヤバい。絆されるな、バカ。僕が好きなのは田中さんであってかめいさんじゃない。

「ダメ?」

光井君が必死に状況を打開しようとしているのも束の間、かめい君は立ち上がる。
何処か寂しそうに瞳を潤ませると、どうしようもなくなる。これじゃ田中さんが惚れるのも仕方ないと納得した。
ってそうやなくて!!

「ダメとかそういう問題やなくて!かめいさんは田中さんのことが―――」
「愛佳……」
「その名で呼ぶなー!!!」

下の名前で呼ばれた瞬間、光井君はかめい君の胸ぐらを掴んだ。

「うぇぇ?」

自らの体を一気に沈め、振り向きざまにかめい君の体を背負い、そのまま投げ飛ばした。
最後、勢いに任せて胸ぐらを掴んだ手が外れてしまい、不完全ではあるが「一本背負い」が決まる。
ドダン!!という音のあと、「いでえええ!!」とかめい君の体は数メートル先まで飛んだ。

「もー、照れ屋だなあ」
「ふざけないで下さい!かめいさん、好きな人」
「あ、香音ちゃーん」
「僕の話を聞けぇ!って香音ちゃん逃げろおぉぉ!!」

かめい君は次の標的を、2階にちらりと見えた香音にしたようだ。
颯爽と階段を駆け上る彼を、光井君はまた追いかけた。とにかく被害を食い止めなくてはと、必死だった。


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下の方がなんだか騒がしいような、と思いながら、香音は先生から渡された大量のプリントを教室まで運んでいた。
いっしょに帰ろうと約束しているはずの鞘師君が待ちくたびれていないか、少し心配だった。
可愛い女の子に終始フラフラしている天然タラシの浮気者の変態野郎ではあるが、それでも心の底では気になる存在なのである。

「よく分かんないなー」

自分でも自分の感情がよく分からない。
鞘師君が女の子にフラフラするのは仕方ないと思っているけど、時折イライラするし、ムカつくし、なんだか寂しい。
こういう感情の名前を、なんと呼ぶんだろう?

「分からないからこそ、恋なんですよ?」

急に声をかけられて振り返ると、そこには高等部のかめい君がいた。
なぜかシャツが汚れ、髪の毛はボサボサ、しかもケガをしているようにも見えるが、いったいなにがあったのだろう。

「かめいさん、どうしたんですか?なんか、ボロボロですよ?」
「恋に障害はつきもの。山は高いほど登り甲斐があるものですよ?」

いや、言っている意味が分かりません、と喉まで出かかった言葉を呑み込む。
かめい君は柔らかく笑うと、香音が手にしていたプリントを持ってやった。
香音は慌てて「だいじょうぶです」と遠慮するが、かめい君はまた笑い、「男らしいことさせてよ」と言った。

「クラスまで持ってけば良いかな?」
「あ、はい」

香音はそうして、かめい君と並んで歩くことになった。


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一方そのころ、キス寸前に目を覚ました工藤君は佐藤君を本気で殴っていた。

「なーにんすんのさどぅー!いたいよぉー!」
「ばーかばーかばあああか!!なんでキスしようとすんだお前は!!」
「だってどぅーがぁ……」
「うるせえええ!!」

そんなケンカはさておき、廊下の奥、階段の下には高等部校舎から走ってきた野次馬で溢れ返っていた。
人が一斉に殺到したおかげで、早く先に進みたいのになかなか進めない状態になっている。
もどかしい気持ちを抱えていた光井君は、先輩のたかーし君と出逢った。

「あ、たかーしさん」
「おー、愛佳。絵里見らんかった?」
「見ましたけど……あれはいったい……」

たかーし君の隣には未だに意識が遠くに飛んで行ってしまったにーがき君がいる。
「カメのちゅー…ちゅー…きしゅー」となにやらわけの分からないことを呟いているが、どうやらあの被害に遭ったらしいと光井君は推察した。

「まあ、さゆの悪ノリでな……」

たかーし君から事の一部始終を聞いた光井君は、やっぱり原因はあの人かと納得する。
責任追及はさておき、早くかめい君の暴走を止めないと問題はさらに拡大してしまう。
香音に手を出せば鞘師君が、聖に手を出せば生田君が黙っちゃいない。
まだ被害に遭っていない生徒は、知り合いだけでも、亜佑美と春菜もいる。

「ま、早いとこ止めんとこっちもヤバいんで……」

たかーし君の視線を追うと、そこには負のオーラを纏ったれいながいた。
静かに怒るその姿はまさにヤンキーと言ったところで、光井君の背筋は凍る。
早くこの騒ぎを収集させなくてはと、光井君たちは野次馬をかき分けて2階へとつづく階段を上った。


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「香音ちゃんって鞘師君と付き合い長いんだっけ?」
「幼稚園のころからなんで、幼馴染って言うか腐れ縁ですよね。」
「いーなー、そういうの。僕の幼馴染ってシゲだけだしさぁ」

ニコニコと楽しそうに話すかめい君を、香音は不思議そうに眺めた。
なんだか今日のかめい君は何処かがおかしい。普段から笑顔を携えた優しい先輩だけれど、なにかが違う。
違和感の正体に気づかないままでいると、かめい君はぴたりと足を止めた。

「鞘師君のこと、好き?」
「え?」
「僕と鞘師君、どっちが好き?」

いきなり究極の二択を突きつけられ、言葉に詰まる。
鞘師君のことを聞かれたことも驚いたが、かめい君のことを聞かれたことも驚いた。
笑って誤魔化そうとしたけれど、ふいに頭を、あのジジくさい広島弁を使う生意気な幼馴染の顔がよぎった。
鞘師君は、ダンスがうまくて、運動神経抜群で、50メートル5秒台という脅威の脚力。
勉強はそこそこだけど、だれにでも優しいし、可愛いからモテる。女好きでだれにでもフラフラして、やっぱりムカつく。
フクちゃ〜んってベタベタするし、亜佑美ちゃんにはキスを迫るし、田中さんのお尻が可愛いとかふさげたこと言うし、エリカちゃんには手を出そうとするし。

「……最低じゃん」
「え、なにが?」
「あ、なんでもないです」

思っていたことが口をついて、慌てて首を振る。
でも、そんな女たらしの最低な鞘師君は、あの日、必死に香音に言葉を紡いできた。

 
―――香音ちゃんに、嫌われたら、たぶん、絶対、ムリ

―――都合良いかもしれんけど、香音ちゃんとは、いっしょに居たい、っていうか…その…

―――な、殴っても良いから、哀しそうな、顔、せんでほしいんじゃ


些細なことで喧嘩をしたあの日、彼は泣きそうになりながらも、想いを伝えてきた。
彼自身が言うように、随分と都合のよい、身勝手な想いは、さながら昭和の亭主関白のようだったけど。
それでも、不思議と不快だとは思わなかった。実に彼らしい、愛されたい願望の強い、可愛らしい願いだなと思った。
なぜだろう。だれかれ問わず好き好きと訴える鞘師君に頭が痛いのに、ふとした瞬間に見せる表情がカッコ良くさえも思う。
泣きそうになった彼に「もう良いよ。許したっ」と私は笑いかけた。ムカつくのに、イライラするのに、怒ってたのに。

「やっぱり分かんないです」
「うーん……そっか。じゃあ、試してみる?」

かめい君は手にしていたプリントをばさっと宙に放った。
まるで紙吹雪のように舞うプリントをぽかんとして眺めると、香音の体は一瞬でかめい君の腕の中に収まった。
なにが起きているのか、香音は把握できなくなる。

「僕と彼の、どっちが好きか」

くい、と彼の指先に顎を触れられ、顔を傾けさせられた。
見上げて絡む、かめい君の瞳に心が動く。まっすぐな瞳に映った自分自身の瞳は揺れていた。顔が紅潮するが、その瞳が逸らすことを赦さない。

「鞘師君とは、キス、したかな?」
「し、してない、です……」
「じゃあ僕と初めてのキス、しようか?」

情念のある眼差しに言葉を失くす。
笑って逃げるとか、冗談ですよねとか、なにかリアクションをしなきゃいけないのになにもできない。
初めてのキスって、なに?ふぁ、ファーストキスってこと?いやまだ早い!てかなんの話!?
軽いパニックに陥っている香音など気にせず、かめい君は相変わらず微笑んだまま、顔を傾けた。
その唇が重なりそうになったとき、その声は響いた。

「待てえええぇぇい!!」

かめい君は口角を上げたまま、眉間にしわを寄せた。
相変わらず良い所で邪魔が入るなあとその方向を見ると、廊下の端から凄まじい勢いで彼は走ってきた。
さすが、50メートル5秒台の男は伊達じゃない。横で結んだ髪が激しく揺れていた。

「な、なにしてるんですか!!」
「んー?キス、かな?」
「勝手なことしないで下さい……こんな、公共の場で」
「じゃあ公共の場じゃなかったら良いのかな?」

息を切らせて現れた鞘師君に対し、かめい君は軽くいなすような態度をとった。
香音は高鳴り続ける鼓動を抑えるように呼吸を整えながら、目の前で繰り広げられる言い合いを見ていた。
まだ自分の体は、彼の腕の中から逃れられない。

「香音ちゃんを、放して下さい」
「ヤダ。って言ったら?」

鞘師君はすぅっと息を吸い、前髪をかき上げた。
もともと一重の切れ長の目が曇る。同時に、焔が燃え上がるのを、香音は見た気がした。

「放せ、って言います」

低い声が静かに廊下に響く。
これほどに怒りを携えた鞘師君を、香音は初めて見た。一瞬、恐怖さえ覚える。
止めなきゃと思うのに、体が動かない。怖いのは、怒っている鞘師君に対してか、急にキスを迫ってきたかめい君に対してか、分からない。

「田中さんは、どうしたんですか」
「キミこそ、フクちゃんやだーいしちゃんは良いのかな?」
「関係ないです。いまは、香音ちゃんが大事ですから」

鞘師君は一歩、かめい君ににじり寄る。それに合わせるようにかめい君は一歩引く。距離は変わらない。
ギリッと歯が噛み締められる音が聞こえたかと思うと、「返せよ」と低い声が浮かんだ。

「香音ちゃんを、返せよ!」

同時に、強引に香音は腕を引っ張られた。勢い良く鞘師君の胸の中に飛び込む格好になる。
抜け出せなかったかめい君の体からこうもあっさり逃れられたことに驚くが、それ以上に、鞘師君の力に驚いた。

「僕の、香音ちゃんじゃけぇ」

ふいに聞こえたその声に、香音は「え?」と顔を上げた。
鞘師君は真っ直ぐにかめい君を捉えたままで、香音と目が合うことはない。
その言葉にかめい君は一瞬目を見開いたものの、大袈裟に肩を竦め、「やれやれですよ」と笑った。

「好きならちゃんと護らなきゃダメですよ」
「っ……僕は」
「どうせ、人生で護り抜けるのなんて、たったひとりだけなんだから」

かめい君は人差し指で軽く、鞘師君の額を小突いた。
その言葉は、先ほどから交わされたどんな言葉よりも重かった。
そうだ、とそこで香音は気付いた。
最初に逢ったときから携えていた違和感の正体。それは、今日のかめい君の言葉が、あまりにも軽くて、心がなかったということだった。

「かめいさ―――!?」

次の瞬間、なにかを言おうとした鞘師君の唇は塞がれた。
香音が見ている目の前で、かめい君はあっさりと鞘師君に対してキスをした。
数秒の沈黙のあと、かめい君は唇を放してにこっと笑う。

「隙ありぃ〜ってね!」

かめい君は「うへへへぇ〜」と笑い、楽しそうにスキップをしながら廊下を駆け抜けていった。
そのまま3階へとつづく階段を上る姿をただぼんやりと香音は見ているしかなかった。

我に返ったのは、鞘師君がガクンと膝を折ったときだった。

「ちょ!里保ちゃんだいじょうぶ!?」

鞘師君は男にキスされた屈辱と、先輩に歯向かった恐怖とでその魂を遠くへ飛ばしていた。
香音は必死に「里保ちゃーん!」とその体を支えるが、鞘師君は全く動かない。

「だらしないなぁもう……」

気絶したままの鞘師君を見ながら、香音はため息をついた。
先ほどまでその腕の中に強く抱いていたのに、いまではもう立場も逆転だ。
だが、腕の中で気絶する鞘師君は確かに云った。


―――「僕の、香音ちゃんじゃけぇ」


滅多に怒らない彼が、あれほど感情を前面に出すのを、香音は初めて見た。
なんだかそれが、嬉しかった。

「私、キミのモノじゃないんだけどなあ」

そう問いかけたが、鞘師君は当然のように答えない。
香音は困ったように笑い、さて、このあとどうしようと考え始めた。

「あちゃー。鞘師もやられたか……」

ちょうどそのとき、ドダドダと大勢の足音を引き連れてたかーし君がやって来た。
突然のことにきょとんとしたのも束の間、その横をすたすたとれいなが通り過ぎる。
彼女もまた、いままで見たことがないほどの怒りを携えていて、香音は恐怖した。

「次のターゲットは3年か…まずいな」
「えっと…なにが起きてるんですか?」
「説明はあと。香音ちゃんもちょっと来て。ほら鞘師!起きんか!」

たかーし君は鞘師君の頭をはたくと、慌てて廊下を走り出した。
そのあとをぞろぞろと野次馬と思わしき高等部の先輩たちがついていく。

「ホント、なにがあったんだろ…」

香音はそう呟きながら、とにかく3階へ行こうと、未だに気絶している鞘師君をいつものように引きずった。


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亜佑美は3階の窓からひとりグラウンドを眺めながらため息をついていた。黄昏れるなんてガラじゃないが、最近妙に悩むことがある。
中等部も高等部も、自分の周囲は恋とともに生活している。
同じ学年の聖は生田君と付き合い始め、隙あらばイチャイチャしている。
春菜とともにその現場に遭遇することがなんどかあるが、見ているこちらが恥ずかしくなってしまうほどだ。
そんな春菜も高等部のみちしげ君に猛烈にアタックしている。上手くいくかは分からないが、最近の風向きは悪くない。
後輩の佐藤君は、先輩のれいなと幼馴染の工藤君に過度のスキンシップを繰り返している。それが恋なのかは分からないけれど。
ただ、そうやって佐藤君と戯れる工藤君を見ると、亜佑美は少しだけ、寂しくなる。

「なんでだろ…」

最近、ひとつ年下の鞘師君に猛烈にアピールされることが多い。
ダンスの腕が立つ彼に負けたくないと思っていたけれど、いつの間にか、そんな彼を気になり始めていた。
でも最終的に鞘師君は「香音ちゃ〜ん」と歩み寄っていく。
結局、香音のことが好きなんだろうなと思いながら、亜佑美はこめかみをかく。

「全然ダメじゃん…私」

工藤君と鞘師君の間で、微妙に揺れている自分がいた。
ふたりとも大切な後輩で、友だちで、だけどそれ以上の感情を持っているような気がしないでもない。
そしてふたりとも、自分のことを振り向かない。
鞘師君は香音が好きなんだろうし、工藤君は佐藤君が好き、な気がする。
男同士だということを平然と受け入れる自分もどうかと思うけれど、仮に工藤君が佐藤君を好きじゃなくても、自分にその矢印が向くとは思えなかった。

「じゃなきゃ、チューしよう、なんて簡単に言わないっつーの」

それは先日のことだ。
なにを思ったのか工藤君は急に「よぉだーいしぃ、チューさせろよ」なんて言ってきた。
売り言葉に買い言葉、そのままキスしてしまいそうになったが、結果的になにもなくその日は終わった。
なぜ彼が突然あんなことを言い出したのかは分からないが、本心ではないことは間違いない。
本当に好きな人に、「チューさせろ」なんて言えるわけがない。

「ばーか…」

人の気持ちに気付けよ。なんて言いたくなるが、それを言う勇気なんてない。
そもそも自分自身の持っている彼に対しての感情の名前が、本当に「恋」と呼べるものなのかも、分かっていない。

「よぉあゆみぃん。チューさせろよぉ」

そのとき、背後から飛んできた言葉にぎょっとした。
まさかまた工藤君だろうかと思ったが、彼にしては声が高い。
振り返るとそこにいたのは、高等部のかめい君だった。

「な、な、なんですか!」
「うへへぇ。似てたかな?」
「に、似てないですよ!ていうかなんですか急に!」
「ん〜?黄昏れてる亜佑美ちゃんも可愛いなあって思ってさ」

この人に「可愛い」と言われて照れない女子生徒はいないだろう。
亜佑美もその例外ではなく、思わず紅潮した頬を隠すように目を逸らす。
急になんだろうと思うが、それ以上に耳まで赤くなってしまった自分が恥ずかしい。

「工藤君のことでも考えてたのかな?」
「べ、別にそんなことないです!」
「ほんとにぃ〜?」

からかうように笑いながら、彼は亜佑美の隣に並んでグラウンドを見た。
楽しそうな声が遠く聞こえる。
かめい君とこんなに近くで話すことは滅多にない。改めてみれば見るほど、綺麗な人だと思う。睫毛も長いし、羨ましくなる。

「じゃあ、僕のこと考えてくれてた?」
「え?そ、そんなことは……え?!」
「アハッ。ほんとかわいーなぁ、初々しくて」

かめい君はそうして、亜佑美の頭を優しく撫でた。
だれかにこうやって撫でられることなんてほとんどない。時々ふざけて工藤君がぐしゃぐしゃにするだけだ。
そのとき、なぜ工藤君のことを思い出したのか、亜佑美には分からなかった。

「好きな人がいるんだね」
「なっ……」
「いいねぇ、青春の一ページって感じですね」

心を見透かされているようで亜佑美は焦った。
先ほどからなんども頭を掠めるあの人の笑顔も憎たらしい。
どうして急に、胸が締め付けられるような痛みを携えているのかも、分からない。
かめい君をじっと見つめる。だが、彼の瞳はなにも語らずに、ただ困惑した亜佑美を映しているだけだった

「そのページに、僕も入れてもらって良いかな?」

歯の浮くようなセリフだが、この人が言うとなぜか様になる。イケメンとは得だ。
かめい君は少しだけ意地悪そうな、だけど大人な笑顔を見せるとそっと頬に手をかけた。
触れた掌が熱を帯びていて、図らずもドキッとする。

「亜佑美ちゃんを誑かす、悪い先輩として」
「は、はい?」

訳の分からない亜佑美は、ただそう返すのが精一杯だった。
だがかめい君はいたって真剣な瞳のまま、亜佑美を見つめている。
これは、これは、これは………と必死に考えたところで出てくる答えはひとつしかない。
春菜に借りた少女漫画でよく出てくるシチュエーションだ。だが、此処は現実世界。そう簡単にそんなこと起きやしないと、高を括る。

「鞘師君が狙うのも分かるよ」
「へ?」
「亜佑美ちゃん、可愛いよ」

高を括った途端に崩れ落ちる。
この人、本気でキスしようとしていると気付く。どうしよう。どうしよう。逃げられない。このままじゃ、キス、される。

「絵里いいいいいいぃぃ!!」

瞬間、金縛りにあったように動かなかったはずの体がびくっと撥ねた。
かめい君の向こうがわ、廊下の端の方には仁王立ちした茶髪の女子生徒がいる。それが紛れもなくかめい君の愛しの彼女、れいなだと気付く。

「アハハ、見つかっちゃいましたよ?」

だが、かめい君は怒りのオーラを背負ったれいなを見ても何処吹く風か、涼しい顔をしていた。
れいなが大股でこちらに詰め寄るのを確認し、ふっと手を離し大袈裟に肩を竦めてみせる。唐突に失くなった温もりを、寂しいと思った。

「いい加減にせんと、れな怒るっちゃよ」
「もー怒ってんじゃんかぁ」
「噛み付く。引っかく。蹴る。殴る。どれが良い?」
「うへへぇ。怒ったれーなもかわいいなー」

かめい君はヘラヘラ笑いながられいなの頬に手をかけた。
そのまま顔を近づけてキスをしようとしたが、れいなは頬を紅潮させながらも右手で彼の頬を鋭く叩いた。
ぱん!という高い音が廊下に響く。亜佑美は思わず口元を覆った。

「そんな絵里……れなは嫌い」
「きらい……?」
「絵里なんて、大嫌い!」

それだけ言い放つと、れいなはかめい君を突き飛ばし、その場から走り去った。
こ、これはいわゆる修羅場というやつか!と亜佑美が納得するのをよそに、かめい君は叩かれた頬を抑えた。
左頬が、痛い。痛い。痛い。
痛いのは、頬だけなのか?とぼんやり思いながら、彼女の背中を見つめる。

「絵里ぃ〜!!」

瞬間、亜佑美は突進してきたみちしげ君に勢いよく突き飛ばされた。
みちしげ君は鼻息を荒くしながらかめい君の腕にしがみつく。

「邪魔者はいなくなったの!さあ、心置きなくさゆみとキスするの!!」

みちしげ君は「ん〜」と唇を突き出す。
かめい君は暫くじっと彼を見るが、困ったように首を捻り、ゆっくりとその腕の拘束を解こうとしていた。

「ちょ、待つの絵里!どうしてさゆみにキスしないの!?」
「んー。だってさぁ…」
「だってなに!」
「それは私が説明しましょう!!」

何処から現れたのか、にょきっと姿を見せた春菜に亜佑美も、そしてみちしげ君も大いに驚いた。
春菜は手にしたビデオカメラを見ながら「私の分析によりますとですね」と急に語りだす。
が、それを即座にみちしげ君は制する。

「い、いつから録画してたの?!」
「えーっと、最初からです。初めにかめいさんが田中さんにキスしたところからばっちりと」
「なんで?!」
「ダーリンのことを把握するのがハニーの勤めです!あなたのハニーですから!」
「さゆみのハニーじゃないの!キモいの!この変態!」
「キャー!!みちしげさんにキモいって言われちゃった!変態って言われちゃったー!!あゆみんどうしよう!!」

興奮した春菜はぶんぶんと亜佑美の肩を持ってブンブン揺らした。
どうして私の周りには特殊な人しかいないんだろうと思いながら亜佑美は呆れる。もう慣れたものだけど。

「なにやってるんですかもう!」

ロクなことをしでかさないダメな先輩を尻目に、光井君はれいなの後を追い駆けた。
ホント、常識人は光井先輩と私くらいじゃないと思っていると、春菜は思い出したように「あ、だから分析によりますとね」と話し出した。

「確かにみちしげさんの押したツボはタラシのツボです」
「当然なの。さゆみにミスはないの」
「男女関係なくだれでも大好き、ではあるものの、それはあくまでも「男」か「女」かなんです」

いつの間にか周囲にはたかーし君をはじめとした高等部の野次馬や、後輩の香音や佐藤君に工藤君も集まり、春菜の話に耳を傾けていた。
工藤君の存在に気付いた亜佑美は少しだけ頬が赤くなり、慌てて視線を春菜に戻した。
その場には気を失ったにーがき君と鞘師君がうな垂れているが、その理由を亜佑美は知る由もない。

「みちしげさんは男とか女とか、そういう性別を超越した特別な存在なんです」
「当然なの。さゆみは特別な存在なの」

ただオカマでゲイなだけでしょ。というツッコミを亜佑美は呑み込む。

「そうなんです、だからダメなんです」
「はぁ?」
「かめいさんが好きになるのは男か女。だから性別を超えたみちしげさんはその対象外なんです!」
「なにぃぃぃ?!」

春菜の分析に一同は納得した。なるほど、確かに筋は通っている。
そもそもそんなツボがホントにあるのかという疑問も浮かぶが、あのかめい君を見れば信じざるを得ない。

「おい、絵里はどうした?」

たかーし君の声に一同は、当事者であるかめい君がいないことに気付いた。

「さっきあっちの階段のぼってくのをみましたー」
「なんで止めないんだよ!」
「だってー」

無邪気に笑う佐藤君を工藤君は叱り付ける。だが責任を追及しても仕方ない。
のぼったということは、行き先は屋上だ。そう気付いて亜佑美はハッとした。

「屋上……聖ちゃんがいるんです」

瞬間、たかーし君の血の気が引いた。
まずい。まずすぎる。

「生田は?」
「先生に呼び出されて職員室です。聖ちゃん、それ待ってるの暇だからって屋上に…」

冗談だろう?と思うが現実のようだ。
このままでは本当に全面衝突になってしまう。

「工藤!!急いで生田呼んで来い!」
「は、はい!!」
「まーも行く!まーも行くぅ!」

中等部のコンビが走り出すのと同時に、たかーし君も走り出した。
状況は最悪だが、とにかく最善を尽くすしかない。
どうか、どうか間に合えと、祈った。

「さゆみ、一生の不覚なの……」

みちしげくんはただひとり、廊下にへたり込んで動けなくなっていた。
しかしそこでふと、ある事実に気づいた。

「……そういえば、副作用のこと忘れてたの」





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