生田衣梨奈は車を停めると、シードベルトを外し、ため息をついた。
亀井絵里の叔父の行方はまだ一向に掴めない。
妻には昨日の昼、事情を確認しに行ったが、離婚後のことは知らないと突っぱねられ、収穫はなかった。
頭をガシガシ掻いていると、助手席のドアが開いた。
乗り込んできたのは果たして里保であり、「収穫は?」と訊ねた。

「ダメ。実家にも行ったけど連絡入ってないみたい」
「盲学校も田中さんの家も見張ってるけど、現れる気配はない。諦めたってことは考えられん?」
「いや、あれだけ亀井さんに執着してたのに、急に行方不明になってなにもしないってことはあり得ないと思う」

衣梨奈の意見を即座に里保は否定した。
正直、自分の考えが楽観的であるとは自覚していた。だけど、悪い方向にしか考えられない思考を転換したかった。
なにかが起こる予兆だけが顕在する。そんなのはもう、御免だ。

「頼んどいたの、やっといてくれた?」

里保からそう聞かれ、衣梨奈は眉間に皺を寄せた。
彼女の言う「頼んどいた」モノは、ダッシュボードの中にあるが、それを開けたくはなかった。

「道重さんと、付き合い始めたっちゃろ?」
「……だから?」
「だからじゃないやろ。同じ場所に立ちたいって、同じ目線に辿り着きたいって言ったのは里保やろ!」
「分かってる。分かってるよ……分かってるから、行かなきゃいけないんだよ」

里保はそうして祈るように両の手を重ねた。
ふと、昨夜のことが思い起こされた。


 -------


結わいた髪をほどかれ、ふたりは同時にベッドに伏した。
自然と、彼女が上、里保が下という形になった。
真っ直ぐに、視線が絡む。大きくて黒い瞳に捉われ、純粋に好きだと想う。

「道重さん……」

さゆみはその声に応えるようにそっと頬を撫でる。彼女の少しだけ冷たい指にぞくぞくした。目を閉じて、彼女の指だけに神経を集中させる。
頬を撫でた手はするりと唇をなぞる。シーツをぎゅうと握りしめてなにかに耐えていると、すぐにさゆみの手が重なった。

「怖い?」

その質問に目を開け、首を振る。
怖いわけじゃない。そうじゃなくて。そうじゃなくて―――?

「りほりほ……」

さゆみはまた頬に手をかける。
彼女の目が、口ほどにものを言う。なにを求めているか、すぐに分かる。
里保は素直に目を閉じて、さゆみを待った。
さゆみはその長い髪を耳にかけ、そっと顔を近づけてきた。
あと少しで唇が重なろうという瞬間、里保は両腕でさゆみを押し返した。
彼女は驚くこともなく、諦めたような、何処か寂しそうな瞳を見せて笑う。

「……やっぱ、怖い?」
「ち、違うんです……そうじゃ、そうじゃなくて……」

さゆみを拒むつもりはなかった。
自分の中にある想いは溢れ出しそうで、その指先に、その唇に、触れたかった。
だけど、どうしても里保にはそれができなかった。
頭の中に浮かんだ「精算」という二文字が、離れなかった。

「この仕事を、正式に降りられるまで……待ってくれませんか?」

絞り出した声は震えていた。だが、自分の中でケリをつけないことには前に進めない。
問題を先延ばしにして、自分だけがシアワセになって良いはずがない。特に自分が蒔いた種ならば、尚更だ。
さゆみに嫌われるかもしれないという不安もあったが、そんな心の声を掬ったのか、さゆみはそっと抱きしめた。

「分かった。待ってるからね」
「道重さん…」
「だいじょうぶ。信じてるから。さゆみは、りほりほのことを」

柔らかい温もりにまた泣き出しそうになったが必死に堪えた。
彼女の背中に腕を回し、此処に確かにある優しさをぎゅうと抱きしめる。
自分はこの人に、どうしようもなく、どろどろに甘ったれているのだと、気付いた。


 -------


里保はため息をつきながら、衣梨奈に言った。

「依頼人にケリをつけなきゃ、進めないんだよ」
「……そんな道具、使う必要ないやろ」
「一応だよ。手ぶらで立ち向かうのは危険だから」

衣梨奈から反論されても聞かなかった。里保は衣梨奈に右手を伸ばす。
どうあっても退かないつもりかと、衣梨奈はこめかみを掻いたあと、ダッシュボードを開けた。
その中にあった、車にはあまりに不似合いな黒い鉄の塊、拳銃を取り出すと、里保に渡した。

「死ぬことはないやろうけど、当たったら抉れる。元がエアガンやけん、強度的に2発が限度。護身用って言ったけん、また改造したとよ?」

衣梨奈の説明を聞きながら、空気圧等を弄った改造銃の肌触り、感触を確かめる。
田中れいなに使ったときよりもずいぶんと重くなったものだと里保は目を閉じた。
ふいに、さゆみの笑顔が浮かんだ気がしたが、瞼を開けて、振り払う。
もう、後戻りはできない。使わなければ良いだけだ。これはただの護身用で切り札だと必死に言い聞かせた。

「……こんなことさせて、悪いと思ってるよ」
「さっさとケリつけて、飲み行こう。道重さんと、聖と香音ちゃんとさ。新垣さんとか光井さんも呼んで、ぱーっとさ」

衣梨奈はそうして窓を開けた。
鬱屈した空気が少しだけ外に逃げていく。
里保はその言葉に頷くことはなく、銃を鞄に仕舞い込み、もういちど「ごめん」と言うと車から降りた。
彼女を止める術を衣梨奈は有していなかった。
冷たい空気と、寂しい色を纏った里保は、夜道へと紛れていく。

衣梨奈は下唇を噛む。
ふと、胸ポケットに入っていた写真を思い出した。
それは何処かの高校の生徒指導部長の不倫写真だった。
調査を依頼してきたのは別の高校の体育教師で、彼は「同僚を助けたい」とぽつりと語った。
不倫写真を撮ることが、どのように繋がって同僚を助けることになるのか衣梨奈には分からなかったが、少なくとも、大切な人を護りたいという気持ちだけは理解できた。

「あの人と、同じやっちゃね」

どんな意図があるかは分からないが、同僚を助けたいと願った体育教師は、さながら自分の姿の投影だと衣梨奈はフロントガラスを睨んだ。
もう、里保の姿はとっくに見えなくなっていた。


 -------


聖が「いらっしゃいませ」と声をかけると、客はふっと顔を上げた。
その人は顔見知りであり、「おひとりですか?」と笑いかける。
新垣里沙はジャケットを脱いでカウンターに座った。

「今日はえりぽんといっしょじゃないんですね」
「いっつもあのうるさいのといっしょだと疲れるからねー」

里沙はそうして笑うと、聖も「確かに」と肩を竦めた。
厨房の方から歩いてきた香音からおしぼりを受け取ると「生で」と声をかけ、香音は一礼して下がる。
聖はグラスを手に取り、ビールサーバーのレバーを傾けた。

「フクちゃんって、生田と幼馴染なの?」
「いえ。香音ちゃんと私はそうですけど、えりぽんとは、ここ2年くらいで知り合いになりました」

聖はそう言うと、並々に注いだビールを静かにコースターに乗せた。
里沙は「ふーん」とコップを傾ける。
ビール特有の苦みと、滑らかな泡が喉を通っていく。仕事終わりにはやはりこれだなと、実にオッサンらしいことを思った。

「気になりますか?」
「え?」
「えりぽんのちっちゃいころとか、高校生のころとか」
「……別に」

素っ気ない里沙に対し、聖はクスッと笑い、グラスを拭いた。
カウンターに座ったもうひとりの客が聖を呼ぶ。振り返ったが、すぐに香音が対応し、伝票に書き込む。
入れ替わるように厨房へ入った聖を見送りながら、里沙はビールに口づけた。

気にならない、といえば嘘になる。
こんなにも里沙を信頼し、まるで犬のように尻尾と笑顔を振りまく相手を、里沙は知らなかった。
あの愛情の暴走が時折困るのだが、直球の想いに対し、振り向いてしまう自分がいる。
彼女とちゃんと目を合わせて話したいってそう思う。

「あれ、衣梨ちゃんいないんですね」

クラッシュアイスをグラスに注ぎながら、もうひとりのマスターの香音は里沙に声をかけた。
自分は衣梨奈とセットに考えられているのだろうかと肩を竦めながら「ひとりだよ」と笑う。

「生田と、仲良いんだっけ?」
「はい。仲良いっていうか、頻繁に来てくれるので嬉しいですよ。たくさんお友だち連れてきてくれますし」

名も知らぬウィスキーを注ぎ、先ほどの客に渡した。
彼は黙って受け取り、喉の焼けるようなそれを口にした。
同じひとりで飲んでいる者同士、話しかけようかとも思ったが、その纏った空気が話しかけるなと伝えていたので、里沙は声をかけなかった。
40代半ば、中背中肉の至って普通の男性だ。
社会に疲れているという雰囲気ではないが、なにか暗いオーラに里沙は委縮する。
グラスを傾けたが、中身のビールは半分ほどなくなる。そろそろ次を考えようとカウンター奥のグラスを眺めた。

 
―――麦焼酎って良いんですよにーがきさん!新垣さん新垣さん!聞いてますかー!


あの小生意気な博多娘の声が不意に聞こえた。
出逢ってからずっと、気になって仕方のない存在。自分に懐き、嬉しそうな笑顔を振りまいてくる彼女が、愛しい。
そんな笑顔とは裏腹に、時折見せる静かな哀しい表情が、里沙の感情を狂わせる。
どんな過去を背負っていたら、どんな痛みを纏っていたら、衣梨奈はあんな瞳をするのだろう。

「ジントニックもらえる?」

香音にそう伝えると、彼女は一礼し、ジンの瓶をカウンターに置いた。
慣れた手つきをぼんやり眺めている間にも、頭の中には彼女の泣きそうな瞳が浮かんでいた。
衣梨奈のことは、好きか嫌いかの二択を迫られれば、好きだと答える。
だけど、彼女の優しさに甘えてしまいそうになる自分が居て、好きだとは言えそうになかった。

絵里がれいなと付き合い始めたことは、知っていた。直接本人の口から聞く前から、分かっていた。
あれほどシアワセオーラを振りまいていれば、気付かないほうが無理というものだ。
確認するほど、里沙も野暮ではない。
とうの昔に失恋は確定していたから、もう寂しいとか哀しいとか、そういう感情はなかった。
ただ、だからといって、すぐに傍に現れた彼女に好きだと云うのは、なにか違う気がする。
それでは単純に、衣梨奈から好きと言われて、その感情に甘えているだけのような気がしたから。

「お待たせしましたジントニックになります」

ふいに目の前に細長いグラスが置かれ、我に返った。
里沙は一気にビールを飲み干し、空になったグラスを香音に渡す。
香音は蛇口を捻ると、「KYはKYだけど、良いヤツですよね」と笑った。

「なにが?」
「生田ですよ。ちょっぴり頭は足りないですけど、裏表ないし、人を出し抜こうとか蹴落とそうとか、そういうのがない感じですよ」

手早くグラスを水で流したあと、厨房へと持って歩いた。
ただひとり残された里沙はグラスを傾けながら目を閉じる。衣梨奈が良い人だなんてことは、当の昔に知っている。
結局、どうしたいかは自分次第なのだ。
彼女とちゃんと向き合わなきゃいけないと決心したのなら、前に進むしかない。
里沙はくいっとジントニックを煽った。

「ありがとうございました」

ふと、端に座っていた客が上着を羽織って立ち上がった。
聖と香音は同時に頭を下げ、男が出て行くのを見送る。
里沙もなんの気なしに男の姿を見た。
まるで衣梨奈とは正反対のオーラを背負った男に対し、里沙は唐突な恐怖を覚えた。
何処かで彼を見かけたことはあるような気がしたが、記憶を辿っても、それがいったい何処でいつなのか、検索結果に浮かぶことはなかった。


 -------


「休みがほしいんですけどー」

仕事が終わり、助手席に乗った途端、さゆみはそうして不服そうな声を出した。
里保はキーを回し、シートベルトを締めるが、さゆみの追及は止まらない。

「沖縄から帰ってきて……てゆーかその前からさゆみ何連勤してると思うのさー」
「それを私に言われても……」
「労働基準法違反だー。休みよこせぇ」
「もっと偉い人に言って下さい。私にそんな権限はありませんよ」
「マネージャーがそういうこと言うかなぁ?」

さゆみは頬を膨らませてシートベルトを外した。
なんだ?と思ったのも束の間、助手席から体を乗り出し、運転席の里保に詰め寄った。その距離、わずか15センチもない。

「お休みちょーだい?」

至近距離でそんな笑顔を振りまかれては、ぐうの音も出ない。
ひたすらに心臓が高鳴り、早く目を逸らさなくてはと思うのに全く動けない。

「……な、なにがしたいんですか?お休み、もらって」
「そーだなー。とにかく寝たいっていうのもあるんだけど」

さゆみは里保の太腿に手を置いた。
指先で円を描くように動かすとさらにぞくぞくした。
顔が紅潮する。周囲が暗くて良かったと、心の底から思った。

「りほりほとデートがしたい」
「……は?」
「ね、デートしようよ、さゆみと」

真っ直ぐに見つめ合い、その距離は既に10センチにも満たなくなっていた。
鼻先が降れるか触れないか、なにかの衝撃があればキスをしてしまうような、そんな距離。
さゆみの黒目の大きな瞳に吸い込まれ、里保は思わず生唾を呑み込む。

「ど……どこに、行きたいですか?」

破裂しそうなほどに高鳴った心臓の音に支配されながら、里保は精一杯にそれだけ聞いた。
さゆみはまたにこっと笑って、「広島」と返した。
予想外の答えに眉を顰めたが、さゆみは同じことを繰り返す。

「りほりほの生まれた場所、行きたい」
「……私の出生地なんて、分かりませんよ」
「それでも行きたい。同じ広島なら、それでも良いの」

真っ直ぐな瞳に嘘はなく、ただ頷かせるだけの力を有していた。里保は困ったようにこめかみを掻き、押し黙る。
ただ、首を振る力は残っていなくて、ひとまず「車、出しますから」と声を絞り出した。
さゆみはまた不服そうに頬を膨らませたが、素直に助手席に戻った。
いままでさゆみが触れていた太腿の温もりが確かに残っていて、少しだけ切なくなる。
さゆみがシートベルトを閉めるのを確認し、里保はゆっくりと車を発進させた。
頭の中では、チーフマネージャーにどうやってさゆみの休暇を進言するか、そればかり考えていた。

「りほりほはどんなデートしたことある?」

さゆみがふとそんなことを聞いてきたが、里保は答えなかった。
里保はいままで、デートをしたことがないのだから、しょうがない。
そう考えると、さゆみとデートが初めての経験になるのかとウィンカーを出した。

自然と頬が緩んでしまいそうで、引き締めるのに必死だった。





第36話へ...
 

Wiki内検索

どなたでも編集できます