†みことばきこまい!! - 神のみことばの著作権
 いろいろと記事を書きたいのに、いろいろな滞る要因があり、なかなか記事が書けないでいるのですが、その一つが聖書の著作権問題です。今回は、それを逆手にとって記事にしてみます。
 記事に聖書を引用する際、色々な制限があるのをご存知でしょうか。少なくとも、聖書翻訳の出版社に承諾を得なければ、引用はしてはいけないのです。と聖書発行者は主張しています。記述に若干の差異はありますが、どちらも、引用は250節までと決められています。また、他にも引用の約束事があります。実は、私がこれを書いている2010年10月6日現在も、まだ私は許可はとっていないため、その翻訳の聖書引用ができません。(後日注:著作権法32条の引用に該当するため、許諾なしに引用可能であると判断できると今は思います)

新共同訳など(財団法人 日本聖書協会 翻訳部)
新改訳など(新改訳聖書著作権管理事務局)

 聖書の原典では、誰も著作権を主張はしていませんでした。ウルガタというラテン語訳でも、ルターのドイツ語訳でも、著作権による制限はありませんでした。しかし、時代の宿命なのか(私にはそう思えないのですが)、今の聖書翻訳には著作権という縛りが生じているのです。正直なところ、本当に不便です。教会での使用に関しては、250節という縛りなどなく(あったら大変です)、のびのびとやれるのですが、WEBなどでは非常に不便な思いをしています。これに対して、著作権が発生しない(最初から放棄、もしくは使用に制限のない)別の翻訳をしようという試みが起きています。翻訳に私も関わらせていただいている「公協訳」もその一つです。

 神様が私たちに語ってくださっている御言葉、それが聖書です。それに対して、私は誰も著作権を主張してはならないように思えてなりません。少なくとも、私は、自分のメッセージや自分の聖書翻訳に対して、著作権を主張しようとは思いません。誰もが自由に引用し使えるパブリック・ドメインとして、著作権を放棄します。人間の法規上は、翻訳者に著作権があるのかもしれませんが、神の御言葉に人間が著作権なんて持てる方がおかしいと思うからです。
 神殿で、捧げものなどを売り買いしたり、両替したりすることに対して、主イエス様は、厳しくお叱りになりました。それは、確かに目に見える神殿は人間が建てたものかもしれないけれども、神様のものであることを心に留めなければならないという意味が含まれているからです。聖書に関しての著作権は、神様のみにあると私は、信じています。