マキャベリ

マキャベリ

 マキャベリは、哲学者としてよりも、政治学者、歴史家、政治思想家であると認識されることが多く、マキャベリは哲学書というよりも歴史書を書いています。
 中でも、マキャベリといえば君主論という著書があり、が、これが1つのその時代のパラダイムシフトにつながっているということが大きな理由だといえます。
 マキャベリは、1469年、ルネサンスの華やかなフィレンツェで、中級貴族に生まれます。
 マキャヴェッリは、法律家の父から好奇心を、詩人の母から文才を受け継いで、ギリシア・ローマの古典に傾倒しました。
 マキャヴェッリはピエロ・ソデリーニ政権下の第二書記局長に登用されました。
 そして、マキャヴェッリ自身が各国との交渉に関わることも多くありました。
 そのため、外国に派遣されることも度々でありました。
 マキャヴェッリは、派遣先で見聞きした各国為政者や古典から学んだ歴史上の人物の中から、権謀術数にたけた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになりました。
 マキャベリは外交官としての経験を活かし、理想の君主像とはどういったものか考察してました。
 これは、マキャヴェッリは、外交官としての経験と考察から、国の根源は、当時の主流だった職業軍人としての傭兵に拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画しました。
 このマキャベリの計画に、貴族や富裕層の中には国民軍創設反対する者もいたが、その企画は実現しました。
 しかし、国民軍は期待された成果を挙げることなく、スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第二書記局長の職を解かれました。
 ボスコリ事件という、当時の権力者メディチ家殺害しようとした陰謀事件に連座したマキャヴェッリは、莫大な罰金を科せられて一時拘束されてしまいました。
 ただ、この事件で、ボスコリは、メディチ家の男たちを殺し暴政からフィレンツェを救う目的であったと自白しましたが、ボスコリが持っていた列記された人名は、陰謀加担者ではなく、加担者になりうる人々の名前であるにすぎないといわれていました。
 激しい拷問を受けた後に釈放されたマキャヴェッリは、自らの領地にある山荘に隠棲し、その時の執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、彼の喜劇は大好評を博し著作家としての名声を得ました。
 マキャベリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになり、その後、ロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴリに謁見の機会が与えられ、謁見の場でマキャヴリがロレンツォ・デ・メディチに献上したのが、マキャベリの代表作である君主論でした。
 君主論には、理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始されたといわれています。
 ロレンツォ・デ・メディチに献上された君主論には、君主たるものがいかにして権力を維持し、政治を安定させるか、という政治手法が書き記されていました。
 メディチ家政権下で顧問的に用いられました。
 マキャヴェッリは、私は我が魂よりも、我が祖国を愛すると愛国者を自認、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言しました。
 そんななか、ローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャベリもまた政権から追放されるはめになりました。
 このような君主論を書いたマキャベリですが、意外にも、マキャベリ自身は、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげない人物だったと言われています。
 ただし、君主論のリアリズムは、現代の政治にも通用する政治哲学が記されていたともいえるでしょうねぇ。
 追放後、マキャベリは、一貫した共和制支持派からは、メディチ家に擦り寄った裏切り者、ある者からは目的のためには手段を選ばない狡猾者と非難され、失意のうちに病を得て急死してしまいました。
 マキャベリは、フォルトゥーナとヴィルトゥという概念を用いました。
 フォルトゥーナは、運命って意味で、マキャベリは、国家のあるじたる君主には、フォルトゥーナ、運命を引き寄せるためには、それだけの、ヴィルトゥ、技量が必要だと主張しました。
 これは、現代においてはそうかもしれませんが、マキャベリの生きていた時代である中世のせかいでは、国家を政治的な観点で議論されることは稀でした。
 さて、中世のキリスト教の世界では、国家とは神の遺志の現れであるという考えが根付いていて、国家は神学という観点から論じられていました。
 そのため、政教分離の原則をもつ国の日本で教育を受けた人には違和感を感じるかもしれませんが、逆に、中世の世界では政治と宗教は非常に関係の深いものでした。
 これまでの中世の哲学の基盤は、神学が主に語られていたよう、国家もまた同じ観点だということです。
 そんな中、マキャベリは、神学的な見方から抜け出し、国家や君主のありかたを道徳や倫理といういったことから切り離すべきだと論じました。
 これは、混乱するイタリアにあって、国を治めるためには、キリスト教的な道徳や倫理よりも、いわゆる武力がものをいわせていた時代背景があります。
 ですから、マキャベリは、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いています。
 特に、マキャヴェッリは君主論の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じました。
 チェーザレ・ボルジアは、自らの野望の為に、父親の教皇の権力を最大限に活用して、北イタリアのロマーニャ地方から、トスカーナまでを侵略した軍事と政略の天才といわれています。
 ただ、その手段は冷酷で、南イタリアのナポリでは虐殺と略奪だったり、同盟さえ反故にして侵略し、部下を殺してで自分の保身をはかるなど悪名をはせていました。
 マベリは君主の権力は、けっして神の意志なのではなく、君主自身のきわめて個人的な意思や行動によるものだとしたわけです。
 当時の中世の国家の秩序の維持や外敵からの侵入を防ぐために、君主は統治の技術にたけているべきだとマキャベリは冷徹に君主論で説かれました。
 マキャベリは君主論において、君主のとるべき術策として、イオンの力と狐の狡智が必要だと主張します。たとえ、徳性はなくても、徳性あるふりをし、信義や約束は必ずしも守る必要はないとしました。
 このマキャベリの君主論の考えは、政治をキリスト教的モラルから解放したといえるでしょう。
 そして、マキャベリの君主論は当時の政治を既存のキリスト教的モラルから解放した一方で、国家そのものに倫理的価値を与えたのです
 これは、たとえ、徳性はなくても、徳性あるふりをするということは、常に、信義や約束を常に敗れということではありません。
 むしろ、徳性のありふりをしなければいけないので、基本的には、信義や約束をまもるようにし、信義や約束によって、四部五裂で内憂外患に苦しむよりは、強力な統一国家の樹立こそ急務とする政治観をマキャベリの君主論はしめしているのです。
 つまり、徳性があるふりをするってことは、意図的に徳性があるようにふるまわなくちゃいけないから、常に倫理観を意識しておかなくてはいけないということになります。
 君主論は当日の君主に衝撃をあたえ、目的のためには手段を選ばい権謀術数主義として、マキャベリズムという言葉が生まれました。
 このマキャベリズムは現代の政治にも通用するほど高く評価さています。



WRITER:呟き尾形
(注:呟き尾形の解釈です)
2015年05月10日(日) 22:27:34 Modified by tubuyaki1




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