四方を深い森に囲まれた、活気溢れる人々の息衝く大きな町。
今から十数年前、この町はあるたった1つの噂話が元で大層な賑わいを見せるようになった。
その噂話とは、町の片隅に佇む納屋に幼い人間の少年を育てる雌竜が棲んでいるというもの。
だが今やそれは単なる噂話ではなくなり、町の人々からコリンと名付けられた不思議な竜の子の存在は遥か遠い地の人々にまで知られるようになっていた。
これは、20歳を目前に精悍な若者へと成長したコリンの新たな人生の転機を綴る物語である。

ガラッ
「ただいま!」
この町で物心付いた時から約17年間・・・
僕は1日も欠かしたことの無いそんな帰りの挨拶とともに母のいる納屋の扉を勢いよく開け放っていた。
その中で、橙色の鱗を纏った美しい雌竜がゆったりを寛いでいる姿が目に入ってくる。
かつてあの黒竜との戦いで負った酷い傷と火傷は何年も前にもうすっかりと完治し、"お母さん"は今日も納屋の中に敷かれた藁床の上で僕の帰りを待ってくれていた。
「どうしたコリン・・・今日は何時にも増して、随分と汗だくではないか」
「ああ・・・今日は、おじさんに勧められてさ・・・町の人達の畑仕事を手伝いにいったんだ」
やがてここまで走ってきたせいかまだしばらくは収まりそうにない息苦しさを堪えながら、何とか熱く乾いた喉の奥からそんな返事の言葉を吐き出していく。
「そうか・・・もう作物も収穫の季節なのだな・・・尤もその様子では、大層な足手纏いになったのだろうな?」
「うぐ・・・」
確かに、これまで遊ぶ以外ではほとんどロクに体を動かしたことの無かった僕にとって突然の畑仕事は想像以上に大変な重労働だった。
畑一杯にたわわに実った作物は丹念に手を掛けて育てられたお陰かみっちりと重く、僕は籠に盛られた野菜をほんの数回運んだだけですっかり息が切れてしまった程だ。

「そ、そうだね・・・多分、あんまり役には立てなかったと思うよ・・・」
「だが彼らは、そうやって苦労して作った食事でお前を育ててくれたのだ。しっかりと、感謝しなければな」
疲労と情けなさからか眼前でへたり込んだコリンにそう言いながら、私は自分でも胸の内で町の人間達に深い感謝の念を覚えていた。
無論私自身の食料を世話してくれているということもあるのだが、それ以上に彼らの協力がなければとてもコリンをこんなにも立派に育てることはできなかっただろうという思いが強かったのだろう。
20年近く前・・・この町で人間達とともに暮らさないかと問われたあの時、私は正直迷いに迷っていた。
それまで人間とはロクに出会ったことすら無かったというのに、突然共に暮らすことなど本当にできるのだろうかという激しい不安があったのだ。
だがそれでもこの町で暮らすことを決心したのは、ひとえにコリンの身を案じた結果に他ならない。

「コリン、帰ってるか?」
やがて酷く荒れ狂っていた息がようやく落ち着きを取り戻してくると、開けたままにしていた背後の入口から不意におじさんの声が聞こえてきた。
「う、うん、帰ってるよ」
「もう飯ができてるから、早く食いにきな。今日はお前の運んだ野菜で作った料理だからな。格別に美味いぞ」
「すぐに行くよ!」
そしてそんな元気のいい僕の返事に満足したらしく、おじさんが戸口に姿を見せることも無くそのまま自分の家へと引き返していく。

「相変わらず、気の利く人間だな・・・あの男は・・・」
最早完全に父親代わりとなったあの首領の男を追って外へ出ていくコリンをそっと見送ると、私は再び静かになった納屋の中でポツリとそう独りごちていた。
恐らく彼は、しばらくの間納屋の外で私とコリンのやり取りを窺っていたのに違いない。
そうでもなければ、食事に呼び出すのにわざわざ今日に限ってあんな一言を添えたりはしないだろう。
よい父親だ・・・私も、彼を見習わなければな・・・
そして今度は心の中でそう呟くと、私は普段通りに藁床へ蹲ったままゆっくりとコリンの帰りを待つことにした。

「そら、今日は疲れただろう?好きなだけ食べな」
おじさんの後についてもう第2の我が家ともなった彼の家の中へ入っていくと、そこには普段よりも一回り大きな鍋一杯に作られた美味しそうなカレーの匂いが充満していた。
鍋の中を覗き込んでみると、確かに今日僕が運ぶのを手伝ったニンジンやジャガイモ、それにカボチャの欠片が幾つも入っているのが目に入ってくる。
そして大盛りのご飯に掛けられたカレーが目の前に差し出されると、僕はそっとスプーンに手を掛けていた。
「どうだ、美味いか?」
「凄く美味しい!初めてだよ、こんなの・・・でも、何が違うの?」
「働いて疲れた後に食う飯ってのは、どんな高級な御馳走より美味いものなんだ。お前にも、これからわかるさ」
そう言いながら、おじさんも自分の分のカレーを皿に盛り付けて食べ始める。

「でもそれは別にしても、おじさんって何でもできるよね。料理も上手いし、畑仕事も人一倍働けるしさ」
「この町は、俺達の夢のようなところだったからな・・・」
「え・・・?どういうこと・・・?」
突然語調が弱まったおじさんの様子に、僕は食事の手を止めてそう訊き返していた。
「お前は知らないだろうが、この町はまだできて40年と経っていない新しい町なんだ」
できてから40年と経っていないだって・・・?こんなに大きくなって栄えている町なのに・・・
「若い頃の俺を含めた数十人の人々が、この森を切り拓いて町を作ったのさ。俺が15歳くらいの時のことだ」
「それからどうなったの?」
「町作りは順調だったよ。あまり人の往来がないことを除けば、少し寂しいながらも平和な町だった」
遠い過去を思い出しているかのように天井を見つめるそんなおじさんの目に、微かな懐かしさが滲み出している。
だが不意にその視線が僕の方へと戻ってくると、僕は真っ直ぐに彼と目を合わせてしまっていた。
「だが20年前、ある事件が起こった。お前も見たあの黒いドラゴンが、この町を襲ってきたんだ」
「生贄を要求したんでしょ?昔、お母さんからその話は少し聞いたよ」
「あの時は俺達も必死だったよ。10年以上掛けて築き上げてきたこの町が、踏み躙られそうになったんだからな」

そんなおじさんの話に、僕は以前お母さんから聞いた自分の生い立ちを密かに思い出していた。
産まれて間も無かった僕を育てるために、お母さんはこの町に食料を分けてもらいに来たという。
そして一時は目の前のおじさんを含む大勢の人達に、危うく殺され掛けたのだそうだ。
もちろん実際にはそのおじさんの協力もあって僕は今こうして元気に過ごしていられるわけだが、当時の町の人々はドラゴンに対して・・・いや、町を荒らされることに対して異常な程に敏感だったらしい。
でも今の話で、彼らがどうして強大なドラゴン相手にも戦う決意を固めたのかがわかったような気がする。
僕が両親の仇を取ろうとあの黒竜に挑んだのと同様に、彼らにもこの町を護りたいという強い動機があったのだ。
「まあその話は、俺よりも彼女の方が詳しいだろう。とにかく、俺達は何でも自分でできる必要があったんだ」
成る程・・・おじさんが町に住む誰からも慕われ頼りにされているのは、そういう背景があったからなのだろう。
「だが、俺ももういい歳だ。本当なら誰か新しい若者にこの町を取り仕切ってもらいたいんだが、それも難しい」
まあ、皆自分の生活があるだろうし、本当にリーダーシップを取って町を1つ切り盛りするとなったらそれが誰にでも引き継げるような簡単な仕事でないことは僕にだって想像が付く。

「でもなコリン・・・俺は、お前にならこの仕事を引き継げるんじゃないかと思ってるんだ」
「え・・・ええっ!?」
予想だにしていなかったそのおじさんの意外な言葉に、僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
「お前は町の誰からも慕われてるし、この町を盛り上げてくれた張本人でもある。正に適任なんだ」
「でも・・・僕・・・まだ何も出来ないんだよ?それに、いきなりそんなことを言われても・・・」
「お前は何も出来なくていい。お前に足りないものがあるとするなら、それは色々な知識と経験だけだ」
そう言われても、物心付いた時からほとんどこの町を出たことの無い僕に彼の言うような豊富な知識や経験など身に付くはずがない。
「だからまずお前には世界中を見て回って、この町の誰も知らないような知識を蓄えてもらいたいんだよ」
「世界中をって・・・一体どうやって?」
「お前には、何処にだって連れて行ってくれる翼があるじゃないか。彼女だって、きっとわかってくれる」
僕が・・・お母さんと・・・旅に・・・?
それは確かにあまりに突拍子も無い話ではあったものの・・・僕は何故か少しだけ心が躍ったような気がした。

ガララッ・・・
「ただいま・・・」
「・・・?コリン・・・どうかしたのか?」
納屋に帰ると、何時もと違う僕の声に異常を察したのかお母さんが微かに慌てた様子でそう呼び掛けてきた。
お母さんは、この町での暮らしをどう思っているのだろうか・・・?
時折やってくる小さな子供達にせがまれて一緒に遊びに出掛けていく以外では、お母さんは毎日毎日ほとんど1日中この納屋で体を休めているのだ。
食事は町の人達が1日に朝と夜の2回用意してくれるのだが、それでも相当な退屈を持て余しているように見える。
もちろんそれは人間の僕から見ての話だから、案外ドラゴンにとってはそれが普通なのかも知れないけれど・・・
「ねえお母さん・・・お母さんは、何処か別の所に行きたいって思ったこと、ある?」
「何・・・?何故そんなことを訊くのだ?」
「さっき、おじさんに言われたんだ。おじさんの仕事を僕に継がせたいから、もっと世界を回って勉強しろって」

それを聞いて、私は不覚にも内心の驚きを隠せないでいた。
あの男の言った言葉に対してではない。
もし本当に彼がこの町の指導者という重役をこの子に継がせたいと思っているのなら、コリンにより多くの見識を広めてもらいたいという願いは当然のことだろう。
それよりも寧ろ私の心を激しく揺さぶったのは・・・
その口調からコリンが当ても無い放浪の旅に出ることに些か乗り気なのが窺えたことだった。
確かにコリンは物心付いたときからずっとこの町で暮らしているし、町を出て遠出したことと言えばもう十数年も前にコリンの故郷だった廃村へと連れていった時くらいのものだろう。
つまりコリンはこの20年間という人間にとって多感な時期を、酷く狭い閉ざされた世界で過ごしてしまったのだ。

「成る程・・・確かに、お前はこの町のこと以外は何も知らぬからな・・・少し、外を巡るのもいいかも知れぬ」
「じ、じゃあ・・・僕を連れて行ってくれる?」
「何を言っているのだ。たとえお前が何処にいようとも、この私が護ってやるとかつて約束したではないか」
そんな私の返事に、コリンは元の明るい顔を取り戻していた。
先程までコリンが抱えていた不安はこの町を離れて見も知らぬ世界へと飛び出すことよりも、この私の同意を得られるかどうかに確信が持てなかったことなのだろう。
だがこれもあの男の提案だとすれば、彼は本当にコリンの父親としてその役割を果たそうとしていることになる。
本当はコリンをどんな危険が待っているやも知れぬ未知の世界へと送り出すことに躊躇いがあったのだろうが、彼はその露払いを、そして何も知らぬこの子の導き役を、ドラゴンである私に全て任せてくれたのだ。
初めてあの男に"彼女"と呼ばれた時から私は彼と心の何処かで通じ合うものがあると思っていたが、人間からこれ程の信頼を預けられてしまってはそれに応えてやらぬわけにもいかぬだろう。

「それで、何時出発するの?」
「まあそう慌てるな・・・町の者達に、一応は別れを告げておくのだ。きっと、長い旅になるだろうからな」
「そ、そうだね・・・それじゃあ、明日おじさんと相談して決めるよ」
コリンはそう言うと、昼間の労働の疲れに眠気を催したのかフラフラと私の胸元へやってきていた。
そして地面に蹲った私の横腹へ背中を預けるようにして、そっと藁の上へと随分大きくなった腰を下ろす。
フフフ・・・こんな長閑な生活とも、後数日でお別れか・・・
あまりにも幸せだったこの20年間の思い出が、早くも眠りに落ちてしまったコリンの横顔を見る度に胸の内へとまるで泉のようにコンコンと湧き上がっていった。

コリンと出会うまで人間はおろか他の同族とさえロクに交流を持ったことが無かったというのに、この20年という月日はそれまでの私の生涯のどんな記憶よりも強く強く輝き続けることだろう。
だがそれと同時に、私はこの旅が私自身にとっても興味深い経験になるであろうことを確信していた。
私もこんな翼がありながらあまり外の世界を見て回ったことが無く、同じくらいの歳の他の同族達に比べれば酷く世間知らずな方に分類されてしまうであろうことは否めない。
故にこれは、コリンを連れて行く私にも完全に未知の旅なのだ。
これから私達の行く先々に一体どんな経験と、どんな景色と、どんな思い出と、そしてどんな危険が待ち受けているのか・・・
そんな空想に思いを馳せながら、私は一足先に夢の世界へと旅立ったコリンを追ってもう残り少ないであろう穏やかな眠りへと落ちていった。

翌日、コリンは珍しく朝早くからあの首領の男のところへと出掛けていった。
それにしても・・・あの子は、旅に出るに当たって本当に寂しくはないのだろうか?
幼い頃から共に遊んできた友人とも、何の心配も無く過ごせるこの広い納屋とも、そしてもちろんコリンの父親代わりであるあの男とも、もうしばらくはお別れだというのに。
だがコリンの心情を読み取ろうと独り納屋の中で思索に耽っている内に、私はある1つの結論に辿り着いていた。
昨夜私に旅の話を切り出してきた時のコリンの表情・・・そこから感じられたのは、この先も私と一緒にいられるのかというたった1つの単純な思いだけだったのだ。
多くの友人もあの首領の男もコリンにとって大切な者達であることは確かだが、それでもあの子は・・・同じ人間ですらないこんな私を1番大切な存在として見てくれているのだろう。
そんな誰よりもコリンに慕われているのだという確かな事実に、私はともすれば漏れてしまいそうになる歓喜の声を必死に押し殺していた。

ガラッ
「ただいま!」
その日の夕方頃、私は元気なコリンの声で夢現だった頭を振りながら入口の方へと視線を向けていた。
だが意外なことに、あの首領の男がコリンと一緒に納屋へと入ってくる。
「話は纏まったのか・・・?」
「ああ・・・コリンと話して、出発は明後日の朝になった。あんたには寝耳に水の話だったろうが・・・」
「いいのだ。元々私もコリンも、町の人間達には世話になりっぱなしだったからな。それに・・・」
やがてそう言いながら藁床に横たえていた大きな体を静かに起こすと、私は相変わらず小振りの斧を持っている男の顔へ理解の視線を真っ直ぐに注いでやっていた。
「私も、何時かコリンに未だ知らぬ多くのことを学ばせたいと思っていたところなのだ」
「あんたにそう言ってもらえると、俺も気が楽になるよ。いいなコリン・・・必ずまたここへ戻ってくるんだぞ」
「うん・・・約束する」
やはり、あの男もコリンの身が心配で心配で仕方がないのだろう。
しかしその一方で、彼はこのままでは数奇な運命を背負ったコリンの人生が何も成さぬままに終わってしまうであろうこともまた知っているのだ。

「出発の時には俺が見送るよ。それに、旅に必要な物も粗方揃えておこう。だが行き先は・・・」
「わかっている・・・元々行く当てなど無い旅だ。自由に世界を回って、何時の日かまたここへ戻ってこよう」
「そうか・・・それじゃあコリン、今日はもう休めよ。町の連中への挨拶は、明日の内に済ませておくんだぞ」
やがてそう言い残して彼が出て行くと、再び納屋の中に普段の静けさが戻ってきた。
そして眠りに就こうと私の腹に寄り掛かってきたコリンを優しく抱き止めながら、小さな声で問い掛けてみる。
「コリン・・・お前は旅に出たら、一体何処へ行ってみたいのだ?」
「さあ・・・僕は、この町の外にどんな世界が広がっているのかもわからないんだ。正直、想像もつかないよ」
「では、風任せということだな・・・その方が、私も気楽でいい」
思えばコリンと出会う前・・・森で暮らしていた時も、私は気ままに空を飛び回るのが好きだった。
それ故に翼を持たぬ同族達との接点に乏しかったとも言えるのだが、この町へ来てから、殊にあの黒竜との戦いで負った火傷が完治してからは、もうほとんど空も飛ばなくなっていたような気がする。

「お母さん・・・笑ってるの?」
何だか背中を押し付けていたお母さんの柔らかい腹が上下に揺れた気がして顔を上げてみると、お母さんは目を閉じたままクックッと小さな笑いを漏らしていた。
もしかしたら、お母さんも本当は僕と同じようにこの旅を心の何処かで楽しみにしているのかも知れない。
尤も、仮にそうだとしても僕にはその理由が何となく理解できていた。
何しろこれまで僕の傍を片時も離れずにここまで育ててくれた1匹の巨大なドラゴンが、いよいよ20年振りにようやく元の野生の世界に帰ることができるのだ。
今はもう廃墟となったあの燃え尽きた村で僕を拾わなかったなら、お母さんは今もきっと森の奥深くに構えた住み処の洞窟で自由気ままな生活を送っていたのに違いない。
これまで考えもしなかったけれど、僕は知らず知らずの内にお母さんから自由な生活を奪っていたのだろう。
だが何時まで経ってもお母さんから返事が返ってくる様子は無く、僕はそのまま黙って目を閉じていた。

その2日後・・・
僕はいよいよやってきた出発の日の朝に清々しい目覚めを感じていた。
外から差し込んでくる明るい朝日の様子から察するに、天気はきっと快晴だろう。
お母さんと同じ橙色に輝く太陽も、きっと僕達の旅の門出を祝ってくれているのに違いない。
思えば昨日は、見知った人達に別れの挨拶をするために朝から晩まで町中を駆けずり回ったものだった。
だがそんな疲れも、これからの旅の楽しさを思えば大した苦にはならないだろう。
ガラッ・・・
「コリン、起きたか?」
とその時、まるで僕が起きるのを待っていたかのようにおじさんが納屋の扉を大きく開けていた。
「うん。もう準備はできてるよ」
「そうか。そら、数日分の着替えや食料だ。それに、町の連中からの餞別だ。礼は俺から言っておいたからな」
そう言いながら、おじさんが荷物とは別の小さな麻袋を僕に手渡してくる。
大きさの割にズッシリと重いその袋の中を覗いてみると、たくさんの金銀銅貨が詰まっていた。

「細かくは俺も数えていないが、それなりの大金だからな。大切に使えよ」
「うん、ありがとう」
「それで・・・あんたはどうだ?」
やがて一通りコリンとのやり取りを終えると、彼がいまだ藁床の上に蹲っていた私へと視線を向けてくる。
「私も、何時でもよいぞ・・・」
「その割には、暖かい藁の感触が恋しそうだな」
「多少はな・・・どうやら私も、随分と人間の町での暮らしに慣れ過ぎてしまったようだ」
そしてコリンが満面の笑みを浮かべたまま元気よく荷物を背負うと、私もそっとコリンとともに微かに寒さの感じられる納屋の外へと出て行った。
だが大勢の見送りの人間がいるのではないかという私の予想に反して、外に集まっているのはあの首領の男と数人のコリンの友人達だけらしい。
あまりにも予想外のその状況に男の方へと顔を向けてみると、彼は少しだけ苦笑いを浮かべて言った。
「あまり派手に見送ると、コリンの後ろ髪を引いちまうからな・・・」
「そうだな・・・私も、この方が助かる」

やはり、彼はよく気の利く人間だと言わざるを得ないだろう。
表向きはあまり騒げばコリンの後ろ髪を引いてしまうからと言っているが、コリンは今更どう騒ぎ立てられたところでこの見知らぬ世界への探求の旅を止めようとはしないに違いない。
それよりも寧ろ派手な見送りに後ろ髪を引かれてしまうのは、この私の方なのではないだろうか?
暖かい人間達の勧めでこの町に腰を落ち着けた20年間・・・
退屈を持て余したことが無いと言えば嘘になるが、それでも私は間違いなく毎日が幸せだった。
もちろんそれは幼いコリンの成長とともに歩んできたこととも決して無関係ではないのだが、ドラゴンである私にとってもこの人間の町は第2の故郷になってしまったのだろう。
そんな私に対しての気遣いで彼が見送りの人間達を呼ばなかったのであろうことは、コリンの友人達だけがこの場にいることからも容易に推察できることだった。

「さあコリン・・・そろそろ行くぞ」
友人達に別れの手を振っていると、不意に背後からそんなお母さんの声が聞こえてくる。
そして地面に身を低めた大きなドラゴンの背に攀じ登ると、僕はしっかりとその暖かい首筋に両腕を回していた。
「いいよ、お母さん」
やがてそんな僕の声を聞いて、町の中心にある広場から橙色の小さな太陽が天に舞い上がる。
こうしてお母さんと空を飛ぶのは、かつて僕の産まれた村に連れて行ってもらった時以来だろうか・・・?
だが十数年振りの遊覧飛行に胸を躍らせる間もなく、お母さんは十分に高度を稼ぐと左右に大きく翼を広げて雲1つ無い快晴の空を静かに滑空し始めていた。
目指す行き先はこれまで幾度か出掛けたことのある西方とは反対の、東の方角。
やがて初めて目を向けるそんな未知なる森の遥か向こうに、早くも地平線を貫くような大きな城の影が薄っすらと見えてきていた。

「最初は、あそこに行くの?」
「そうだな・・・見たところ、随分と大きな町もあるようだ。お前も、寄ってみたいのではないのか?」
「もちろん!」
顔に叩き付ける向かい風にも負けずにそう声を張り上げると、お母さんがそれまでゆったりと広げていた翼を大きく羽ばたき始める。
やがて力強い大気の流れに身を任せたまま、空を飛ぶお母さんの体がグングンとその速度を増していった。
ついさっきまで地平線から顔を出していたばかりだった灰色がかった城の尖塔が、見る見る内に眼下に広がる深緑の絨毯を割って近付いてくる。
お母さんの言う通り、徐々にその全貌が見えてきた城の周囲には今まで僕が住んでいた所よりも何倍も広い城下町が広がっていた。

「うわぁ・・・」
そこに見えるのは色取り取りに塗られたカラフルな屋根を持つ無数の建物や、これまで見たことも無い程に犇いている大勢の人々。
だが規模の割に畑や農園のようなものはほとんど見られず、食料や農産物に限らずほとんどの物を他の国や町から交易で仕入れているらしかった。
自給自足の染み付いた僕の町ではお金もほとんど使う必要などなかったのだが、成る程確かにこんな町で何かを手に入れようと思ったらとにもかくにも先立つ物が必要になるのだろう。
「どうする?降りるか?」
「うん。あまり目立たないように、少し離れた森の中に降りてよ」
ここは、ドラゴンがいることが当たり前になったあの町とは違う。
何も知らない人が突然お母さんを見たりしたら驚くだろうし、下手をすればかつて僕の町でもそうだったようにまたお母さんに対して理不尽な敵意を向けられる可能性だってあるのだ。

私はそんなコリンの言葉に静かに頷くと、町から少しばかり外れた木々の疎らな場所を選んで舞い降りていた。
幸い周囲にもほとんど人間達の気配は感じられず、しばらく身を隠しておくには丁度良さそうな所だ。
「さあ着いたぞ・・・取り敢えず、お前の好きに見て回ってくるといい。私はここで待っていよう」
「うん、わかった・・・大丈夫だよ、ちゃんと気を付けるからさ」
やがて私の次の言葉を予期したのかそんな二の句で図らずも声を封じられてしまうと、私は楽しそうに町の方へ向かって駆け出して行くコリンの後ろ姿を眺めながら小さく溜息を吐いていた。
もう20歳にもなるというのに周囲の同じ年の者達に比べて何処かコリンの子供っぽさが抜けないのは、きっと私があの子を甘やかしていたのが原因なのだろう。
直接的な血の繋がりなど何も無いというのに、どうして私はあの子にこうも甘くしてしまうのだろうか・・・?
思えばコリンを初めて住み処に連れ帰った日にあの小さな手で顔を引っ叩かれた時から、もしかしたら私は1度も経験すらしたことの無い母親というものの心境を本能的に理解していたのかも知れない。
だが今の私にとっては、それももう遠い日の思い出の1つでしかなかった。

辺りを飛び交う雑多な声、激しい騒音にも似た幾多の雑踏、辺りを柔らかく包み込む独特の匂い・・・
そんな何もかもが新しい町の様子に、僕はお金の入った麻袋を密かにギュッと握り締めながら胸を躍らせた。
町の入口から曲がりくねった大通りが遥か先に聳える城の前まで続いていて、その左右に無数の店や建物が所狭しと並んでいる。
流石にあの大きな城には近付けないだろうが、それでもこの町の広さはとても1日で見て回れるものではない。
しかし取り敢えずは、ゆっくりと初めての遠出の旅を楽しむとしよう。
そしてそう心に決めると、僕は見たことも無い食べ物の並ぶ賑やかな店の中へ颯爽と滑り込んでいった。

「遅いな・・・コリン・・・」
無数の木々の梢に切り取られた歪な空が次第に赤茶けた夕焼けの色に染まっていくのをじっと眺めながら、私はコリンが戻ってくるのを辛抱強く待ち続けていた。
空からほんの少し覗いただけでも、大勢の人々で賑わうあの町がこれまで田舎暮らしだったコリンにとって大層刺激の強い場所であることはドラゴンの私にさえ容易に窺える。
それ故にあの子の帰りがこの程度遅いことは最初から覚悟の上だったものの、やはり朱に染まった空がやがて藍色を深めていく様子を目にするとどうしても親だけが持ち得る独特の不安が私の胸を締め付けていった。

ガサッ・・・バサバサッ・・・
それから十数分後・・・煌く星々が暗いキャンバスの上に輝き始めた頃になってから、ようやくコリンが深い茂みを掻き分けながら私の前に姿を現していた。
その姿は一見するとここを出て行った時とほとんど変わり映えしないように見えるが、微かに膨らんだ腹とは対照的に手に持っていた麻袋が少しだけその身を痩せ細らせたような気がする。
きっと初めてお目に掛かる美味しそうな食べ物か何かにでもつられて、あちこち食べ歩いていたのに違いない。
「満足したか?」
「それがさ・・・あまりにも広いせいでまだ半分も町の中を見れていないんだ」
さしたる見学ができなかったのは町の広さ故というよりも寧ろあまりに寄り道が過ぎたせいであろうことは私にも一目でわかったものの、どうせ気ままな旅なのだからこの際ゆっくりしていくのもいいだろう。
「ならば今夜はここに泊まって、明日またあの町を見に行くか?」
「そうだね・・・そうするよ」

「ふう・・・」
ドサッ・・・
やがてそんなコリンの返事を聞くと、私は何故か今頃になってようやく張り詰めていた緊張が解けたらしかった。
思えばかつての唯一の憂いであったあの黒竜にこの手でとどめを刺してからというもの、私はコリンが1人で何処へ出掛けて行こうとも特に心配などしたことがなかったような気がする。
とは言えそれは、あの町が私やコリンに対して理解のある人間達で溢れていたからこそのことだった。
だが1歩町の外へ足を踏み出してみれば、そこに広がっているのはこの私にすら全くの未知の世界。
しかも元々野生に身を置いていた私ですらもが今も外敵や予想外の危機に備えて終始胸の鼓動を早めているのに、あの温室のような町で育ったコリンが私と同じ場所に立っていること自体が既に大きな不安の種になっている。
もちろんこの旅が最後まで無事に続けられればそれに越したことはないのだが、いざ何かがあった時に私は本当にこの子を護り通すことができるのだろうかというある種の恐れが、胸の内に消えないしこりとなって残っていた。

「お母さん・・・どうしたの?」
何時も納屋でそうしていたように僕の背中を受け止めてくれる暖かいドラゴンの懐に身を寄せながら、僕はふとお母さんが何やら大きな悩みを抱えているような思案顔をしていることに気が付いていた。
普段はフカフカと柔らかいお母さんのお腹も心なしか少し緊張に強張っているような気がする。
「私は、お前のことが心配なのだ。お前も初めての世界に手を触れて、少しは危機感が身に付いただろう?」
「確かに・・・皆、僕の町の人達とは大違いだったよ」
お母さんの言う通り、あの城下町で出会った人達は誰もが皆"他人"同士だった。
大勢の人々が擦れ違う通りを眺めているだけでも、彼らの関わりの薄さというものが僕にも伝わってくるのだ。
それは住人達が皆家族のような関係だった僕の町とは、あまりに遠く懸け離れた光景だったと言っていいだろう。
僕は今まで人間から敵意を向けられたことなど1度もなかったし、そういう人間がいることすら知らなかった。
だけどあの希薄な人間関係の中では、そういう類の人達がいたとしても決しておかしくはない。
そしてその人間に秘められた敵意の存在は寧ろ、その昔対峙したあの巨大な黒竜の直接的な威圧感なんかよりもずっとずっと静かで、冷たくて、そして恐ろしい物だということを何時の間にか肌で理解していた。

それを考えれば僕なんかよりも遥かに大きくて人間からは怪物と恐れられるドラゴンのお母さんの方が、どれだけ安心してこの身を預けていられることか。
しかしそれにしても・・・どうしてお母さんはこんなにもこの僕のことを気に掛けてくれるのだろうか?
たまたまあの廃村で産まれたばかりの僕を拾ったから?
でもそれは、僕を護るためにこれまで2度に亘り命懸けで戦ってくれたことの直接的な理由にはならないだろう。
そう考えると、血も繋がっていないはずのお母さんがまるで本当の母親のようにこの僕を可愛がってくれる理由はもう1つしか思いつかなかった。
「ねえお母さん・・・お母さんには、ドラゴンの子供はいなかったの?」
「何?」
流石にそれは予想外の質問だったのか、お母さんが僕の声を聞いて一瞬ビクッと身を震わせる。
「これまでは疑問にも感じなかったけれど、あの城下町で暮らす人達を見て思ったんだ」
だがそんな僕の顔を微かに不安げな面持ちで見つめながら、お母さんは後に続く言葉を静かに待っていた。

「人間同士だって他人には冷たいのに、どうしてお母さんは種族も違う僕に愛情を掛けてくれるんだろうって」
「そ、それは・・・」
「自分では無意識だったんだろうけど・・・お母さん、本当は心の何処かで子供が欲しかったんじゃないの?」
それを聞いたお母さんの顔に現れたのは、僕にもはっきりとわかる程の激しい動揺の表情。
そう言えばお母さんは以前、実の両親のことについて問い質した時もこんな困ったような顔をしていたっけ・・・
つまりお母さんが僕を育てているのは、明確な理由を問われても言葉に窮する程のある意味で本能的な行動の1つだということなのだろう。
例えるなら母親にどうして子供を育てているのかと問うたところで、自分の子供だからという答えしか返ってこないのと同じことなのだ。

真っ直ぐにこちらを見詰めながら放ったコリンのその言葉に、私は深い衝撃を受けていた。
言われてみれば、コリンと出会うまでの私はとても孤独な生活を送っていたような気がする。
住み処のあった森の周辺にはあの黒竜のみならず温厚な他の同族達も幾らか棲んでいたが、私だけが翼を持っていたお陰で彼らとはどうしても生活圏が噛み合わなかったのだ。
だがだからと言って、私は別段他の同族達を嫌っていたわけでも忌避していたわけでもない。
雌竜として産まれた以上雄を求める本能は当然のように持ち合わせていたし、その延長線上には確かに自分の子供を産み育てたいという強い願望があったはず。
しかしその渇望とも言える静かだが激しい欲求が、偶然にもコリンを見つけたあの日に別の形で実を結んだのだ。
この世に生を受けて間も無く両親を失い、燃え尽きた村の中でたった1人死を待つだけだった憐れな人間の赤子。
そのどうしようもなく無力で、孤独で、そして耐え難い程の悲哀に泣き叫んでいたこの子の姿を、私はきっと何時の間にか孤高の生涯を送ってきた自分に重ね合わせていたのだろう。
種族も境遇も何もかもが違うというのに、それでも私とコリンは何処か似た者同士だったのだ。

「そう・・・かも知れぬ・・・」
落胆しているのか、或いは何かに怯えているのか・・・
そう答えたお母さんの声は、今まで聞いたことが無いくらいに低く沈んでいた。
だけど僕には、何となくその理由がわかるような気がする。
きっとお母さんは、僕を育てようとした動機が本当は自分の心の中にあったことを認めたくないのだろう。
もし認めてしまえば、お母さんはその瞬間にこれまで僕に注いできた愛情が潰えてしまうと思っているのだ。
「お母さん、大丈夫だよ・・・お母さんが何を言ったところで、僕の感謝の気持ちは変わらないから」
慎重に言葉を選んでは吐き出そうとした声を喉元で詰まらせるお母さんの酷く不安げな様子に、僕は少しばかり申し訳無く思いながら目の前の巨竜を宥めていた。
「本当に、お前はこんな私を心の底から母親だと慕ってくれるのか?」
やがて僕の後押しが効いたのか、お母さんが本当に言いにくそうにゆっくりと言葉を濁していく。
「私は初めてあの村でお前を見つけた時・・・いっそ一思いに息の根を止めてやろうかと考えたのだぞ・・・?」
「でも、そうしなかったから僕は今ここにいる」

恐らくは僕が驚くと思って発したのであろうその言葉に、僕は努めて平静さを装いながら返事を返していた。
もちろん、僕にも全く動揺が無かったと言えば嘘になるだろう。
だが食料も乏しくなる真冬の最中に人間の赤子を見つけたドラゴンが取る行動を冷静に考えれば食われなかっただけでも僥倖だというのに、そればかりかお母さんは僕のために幾つもの大きな犠牲を払ってくれたのだ。
あの黒竜との戦いで負った怪我や火傷はもちろんのこと、自由奔放だったはずの森での暮らしさえをも擲って、今もお母さんは片時も離れずに僕の傍へと身を寄せてくれている。
それにお母さん自身は大したことはしていないと言うが、僕は毎日この大きな懐に抱かれるのが大好きだった。
「ねえお母さん・・・まだ何処か少し頼りないかも知れないけど、僕はもう1人の大人なんだよ」
恐る恐るといった様子でこちらに視線を戻すお母さんの大きな眼が、辛い告白のせいか微かに潤んでいる。
「だからもう、僕を子供扱いはしないで欲しいんだ」
「どういう意味だ?」
「これからは親子じゃなくて、夫婦になりたいって意味だよ。その、おか・・・あなたとさ・・・」
そんな僕の風変わりな告白の言葉に、彼女は大きな口を半開きにさせたまましばしの間固まっていた。

「な、何を・・・言っているのだ・・・?」
目まぐるしく移り変わる自身の感情の変化についていけていないのか、僕の何倍も大きな眼前の雌竜がその眼を大きく見開きながら狼狽えている。
まあ、それも無理のないことだろう。
これまで20年近くもの間実の子のように育ててきた人間からあろうことか今度は夫婦になって欲しいと言われたのだから、その混乱振りが相当なものであろうことは僕にも想像に難くなかった。
「それとも・・・僕じゃだめ・・・なのかな・・・?」
「そうではない・・・いや、その・・・つまりだな・・・な、何故突然そんなことを言い出すのだ?」
いまだ混迷を極める思考が暴れ回っているのか、それとも目のやり場に困っているのか、彼女がまるで照れ隠しをするように僕から視線を外して何とか震える声を絞り出していく。
「本当は、結構前から考えていたんだ。でも町にいた時は他の人の目もあるし、なかなか言い出せなくて・・・」

コリンが・・・私の・・・夫に・・・?
そのあまりにも唐突なコリンの提案に、私はかつて胸の内で静かに燃やしていた、しかしこの20年間忘れていた番いを求める雌としての本能を激しく刺激されてしまっていた。
人と竜の間には、元々寿命の違いという決して越えることのできない種族の壁がある。
それは言い換えれば、生きていく上での時間の流れや感じ方が違うということだ。
人の一生は短く、それ故にその生涯は濃密な記憶と経験によって細やかに積み上げられてゆくのだろう。
しかし、竜の一生は違う。
人間の何十、何百倍という永い永い生涯の中で、ゆっくりと引き延ばされた希薄な時間が延々と続いていくのだ。

そんな私にとってコリンと暮らしてきたこの20年間は、正にあっという間の出来事だったと言っていいだろう。
だが私にとってはあっという間でも、コリンにとっての20年という月日は生涯の中でも大きな比重を占めている。
故に彼はもう這って歩くことしかできない赤子でも、毎日森へ遊びに出掛けていく幼い子供でも、或いは心身共に目覚ましい発達を遂げる自身の成長に自ら驚く青年ですらなく・・・
竜の年齢に換算すれば優に200歳を超えるであろう1個の立派な雄だった。
生まれてからまだ数十年しか経っていない私にすれば、寧ろコリンの方が遥かに年上とさえ見ることができる。
そういう意味では、人と竜であるということさえ意に介さなければ私とコリンの関係が何れ母子から夫婦へと移り変わるのはある意味で当然の成り行きなのかも知れなかった。

「夫婦か・・・まさか、お前を私の夫として見ることになる日が来ようとはな・・・」
「じゃあ、いいんだね・・・?」
「私が断っても、お前はもう私をお母さんとは呼んでくれぬのだろう?ならば、受け入れるしかないではないか」
そう言って僕の顔を見つめ直した彼女の眼から、これまでのような慈愛に満ちた温かい輝きが消えている。
だがその代わりに、新たな生涯の伴侶に対する期待と信頼を示す力強い光が宿っていた。
「だがその前に・・・私の夫を名乗るのなら、夫婦の契りはきちんと交わしておかなくてはな」
「う、うん・・・そうだね・・・」
やがてそう言いながら巨大な体をゴロンと転がすと、彼女が柔らかな土の地面の上へと仰向けに寝そべっていた。
そして眼前に露出したその下腹部に、早くも興奮に戦慄いている大きな秘裂が静かに顔を出す。
だがふと彼女の顔に視線を向けてみると、淫らな雌の象徴を自ら雄の前に曝け出すのは初めてなのかその顔を覆う橙色だったはずの鱗が明らかな羞恥の紅色を浮かべて熱く火照っていた。

「さあ、何時でもよいぞ・・・お前のモノで、忌まわしきあの記憶を消してくれ・・・」
「えっ・・・?」
次の瞬間、私はその怪訝そうなコリンの声でハッと我に返っていた。
「い、いや、何でもないのだ・・・早く、身を重ねようではないか」
コリンの前に秘部を露わにした私の脳裏に幾度となく飛び交っていたのは、20年前に衆人環視の中で黒竜から受けたあの苦い凌辱の記憶。
だが着ていた服を脱ぎ捨てたコリンの懐かしい産まれたままの姿を目にすると、私は何故かホッと安堵の息を吐いてもう間も無く訪れるであろう雄の到来を待ち侘びていた。

微かに湿った森の地面に横たわる、ゆったりと弛緩した大きな雌のドラゴン・・・
橙色の鱗に覆われたその巨体に覆い被さるように、僕は彼女の柔らかな腹にゆっくりと両手をついていた。
その股間に花咲く紅い秘裂が、僕のモノを受け入れようとしてかヒクヒクと淫靡な戦慄きを繰り返している。
ずっと母親と慕い続け、お母さんと呼び続けてきたその尊い存在を貫かんとする背徳的な雄槍がまるでその蟲惑的な誘いに呼応するように漲っていくのを感じながら、僕は大きく1つ息を吸い込んでいた。
興奮のせいか、あるいは羞恥故なのか、紅色に染まった彼女の顔がこれから交わろうとする熱い雌雄の邂逅にじっと向けられている。
そして人間である僕にとってはあまりに大きなそのドラゴンの膣が左右へ遠慮がちに開かれると、僕は緊張に震えながらも自らの怒張を深い深い彼女の奥へと突き入れていった。

ズズッ・・・ジュブゥ・・・
「くぅ・・・」
まるで熱湯のように煮え滾った熱い彼女の愛液が、一気に僕のペニスへと襲い掛かってくる。
必死に両拳を握り締めて耐えないと、今にも腰が砕けてしまいそうだ。
だが彼女の方もそんな人間の脆さは熟知しているらしく、幾重にも折り重なった分厚い肉襞でそっと肉棒を包み込みながらやがて崩れ落ちるであろう僕を受け止めようと両腕を広げてくれていた。
ギュウッ・・・
「はっ・・・ああぁっ・・・」
決して激しくはないそんな歓迎の締め付けに、全身がビリビリと快楽の底へ沈められていく。
真っ直ぐに伸ばして突っ張っていたはずの両腕は何時の間にか肘をつくように彼女の腹の上へ這い蹲っていて、僕は早くも強大な雌の前に屈服した情けない雄の姿をその身をもって体現させられていた。

「どうだコリン・・・初めての体験だろう・・・?」
「う・・・うん・・・あふっ・・・」
かつてあの黒竜に無理矢理犯されかけた苦い記憶が、眼前のコリンの喘ぐ姿でゆっくりと塗り潰されていく。
突き入れられているのは雄竜のモノに比べればあまりに小さくて儚い人間の肉棒だというのに、20年間共に過ごしてきた大切な者と交わっているという事実が私の中で凄まじいまでの興奮を呼び覚ましていた。
火照った怒張の震えが膣壁から直に私の中へと伝わり、その周期の異なる2つの拍動が奇妙な旋律を奏でていく。
「す、凄い・・・う・・・ふあぁっ・・・」
肉棒を根元から軽く搾ってやるだけで激しく身悶えながらも射精だけは堪えようとするかつての息子の姿が、なおも私の雌の本能をより熱く燃え上がらせようと煽り立てていた。

だが、これはあくまで夫婦の契り・・・
人と竜で寿命は違えども、これから一生お互いに支え合って生きていくことを誓うための儀式なのだ。
人間達は竜に比べれば決して長くはないその歴史の内に唇を重ねることでお互いを認め合う術を身に付けたが、我々にとっては互いの身を重ねることこそが唯一無二の契りの証。
雌雄の意地と本能の鬩ぎ合いの果てに打ち解けてこそ、永遠の信頼はその形を成すことになる。
そしてその真意はコリンにも伝わっているのか、彼はブルブルと震える両手に力を込めるともう我慢も限界だというのにゆっくりとその雄で私を突き上げ始めていた。

ジュルッ・・・ズブッ・・・
「うぐぐっ・・・くっ・・・う・・・」
快楽に耐え切れずその精を放ってしまう前に懸命に私を満たそうと最後の力を振り絞るそんなコリンの姿を見て、私の中に彼に対するこれまで以上の不思議な愛しさが湧き上がってくる。
そして思わず私にとっては小さなコリンの体をきつく抱き締めてしまうと、彼はついにその熱い白濁の滾りを私の中へと盛大に放っていた。
ドクッドクッという大きな脈動とともに私の最奥を満たしていく肉棒を愛しげにしゃぶり上げながら、やがて私自身も昂った感情を抑え切れずに絶頂の高みへと堕ちていくのが感じられる。
だが精も根も尽き果ててドサリと私の上へ崩れ落ちたコリンの体をハッとして抱き止めると、私は業火のように燃え上がり掛けていた情欲の炎を踏み消して疲れ切った夫の顔をそっと舐めてやっていた。

淡い暗闇の中で頬に感じる、温かくて柔らかな感触。
僕はこれまでもずっと、こんな幸せな温もりに包まれて朝を迎えてきた。
今は肌が露出している背中を微かに冷たい風が撫でていくものの、もっちりと体の前面を包み込んだ大きなドラゴンのお腹がそんな肌寒ささえをも吹き飛ばしていく。
「う・・・ん・・・」
幸福の内に果てたまま眠ってしまったからか今も全身が心地良い気怠さに覆われていて、僕は目に突き刺さる朝日を手で遮りながらゆっくりとその瞼を持ち上げていた。
その眼前に、僕を抱き抱えたままぐってりと地面に横たわっている巨大な妻の姿が飛び込んでくる。

妻・・・か・・・
ずっとお母さんと呼んでいただけに、いざ突然夫婦になってみると何て呼んでいいのか分からないや・・・
だがそんなことを考えていると、僕が目覚めたことに気が付いたのか彼女がそっと体を起こし始めていた。
「ねえ、これから僕・・・あなたのことを何て呼べばいいの?」
「な、何・・・?」
寝起きのせいかまだ僕の言葉の意味がよくわかっていないらしく、彼女が怪訝そうに返事を返してくる。
「だって、もう僕達は夫婦になったんでしょ?お母さんって呼ぶのは変だもの」
「別に、これまでと変わらずに呼べばよいではないか。言葉の意味は、大した問題ではないだろう?」
「で、でも・・・」
確かに、彼女の言う通りなのかも知れない。
実際に今だって、ちょっと気を抜けばついお母さんと話し掛けてしまいそうになる。
それにもしかしたらこれは僕の気のせいかも知れないけど・・・
彼女の態度にはまるで僕にお母さんと呼ばれたがっているような節が見え隠れしていた。

諭す言葉にさり気無く滲ませた本心をコリンに見抜かれたような気がして、私は思わずじっとこちらを見つめる彼の視線から目を逸らしていた。
"もう僕を子供扱いはしないで欲しい"
そう思うコリンの気持ちは、私にもよくわかる。
長らく人間達の町で暮らす間に、両親に自分の成長を認めてもらえないことが子供達にとっては何よりも悔しいことであるという事実を見出していたからだ。
だがそれと同時に、私はどうして親達が自分の子供をなかなか一人前になったと認識することができないのかという理由にもまた気が付いていた。
私にとってのコリンがそうであるように、子供は、親にとっては何時まで経っても子供なのだろう。
それは裏を返せば、何時までも頼られる存在でいたいというある種の自己陶酔の表れ。
そしてそれはこの私にも例外なく当てはまったらしく、人と竜の番いだからこそ起こり得る奇妙な立場の変遷に翻弄されながらもやはり私は今もなおコリンからお母さんと呼んでもらいたかったのだ。

「わかった・・・お母さんがそれでいいなら、僕もそうする」
その複雑な心の内を悟られまいとしてか俯いてしまったお母さんの視線を呼び戻そうと、僕は静かにそう呟くと再び彼女の腹に頬を擦り付けていた。
今日もあの大きな町を見て回って、明朝には次の目的地を探しにここを発つことになるだろう。
僕が町に出掛けている間お母さんには随分と退屈な思いをさせてしまうかも知れないが、それはよくよく考えれば納屋に住んでいた時と何ら変わらぬ何時ものことだった。
「では、早く町を見てくるがいい。今度は、食い物にばかり釣られないようにな」
「う、うん・・・わかってるよ」
流石にお母さんにはバレていたかと少しばかりばつの悪そうな表情を浮かべながら、僕は地面に脱ぎ捨ててあった服を着るとそっと森の広場を後にしていた。
昨日はほとんど民家や店の建ち並ぶ町の外周部しか見て回ることができなかったから、今日はもう少し奥に入って城に近いところへも行ってみるとしよう。
町へ近付くにつれて徐々に漂ってくる美味しそうな食べ物の匂いにじっと耐えながら、僕はやがて遠くに見えてきた大きな城の尖塔を見上げると静かに人々の喧騒の中へと飛び込んでいった。

町の中央通りに漂う大勢の人々の活気が、まるで真夏の熱気のように立ち上りながら通りのずっと向こうに佇んでいる大きな城に微かな陽炎を纏わせている。
そう言えば、僕は城というものを実際にこの目で見るのはこれが初めてだった。
人から聞いたり本から得た知識で一目見た瞬間にそれが城だということはすぐにわかったものの、いざ実際に本物の城を目の当たりにしてみるとその想像以上の巨大さに驚かされてしまう。
だが町の方はと言えば僕の故郷とは売っている物や家の造り、或いはその規模が違うというだけで、相変わらず美味しそうな食べ物の匂いを除いて僕の興味を引く物は特に見当たらなかった。

それにしても大きな城だ・・・
あちらこちらへ混沌と流れる人々の群れを掻き分けながら進む内に、僕は次第に大きく見えてくる城の威容に図らずも胸を高鳴らせていた。
滑らかに見えるその広大な外壁を覆うのは純白の漆喰らしく、無骨な石作りの家々が立ち並んでいた僕の町とは一線を画した優美な景観を保っている。
尖塔や本殿のそこここに設けられた小さな窓からは時折誰かの人影が垣間見えるものの、中で何か騒ぎでも起こっているのか忙しなく行き来する人達の中に窓の外を覗く者は1人もいなかった。
だがいよいよ強固な城壁に囲まれた城のすぐ間近まで寄ってみると、突然僕のところからは少し離れた場所にある大きな城門が開いて中から大勢の兵士達が駆け出してくる。
見ればその全員が鈍い銀色に輝く重厚な鎧に武器を身に着けていて、何やら物騒な雰囲気を醸し出していた。

「ねぇ・・・何かあったの?」
だが流石に大勢でこちらにやってくる兵士達に声を掛ける勇気は湧かず、丁度僕の傍にいた他の町人に思わず小声でそう訊いてみる。
「ああ・・・最近、森で行方不明になる連中が妙に多くてな。城の連中が、ようやく調査に乗り出したんだろう」
「その割には、何だか戦争にでも出掛けるみたいな格好だね?」
「この辺の森は確かに深いが、かと言って遭難する程ってわけでもない。それに・・・」
そう言うと、彼が眼前を横切っていく兵士達に声を聞かれないようにかそっと僕の方へと顔を向けて声を潜める。
「行方不明者の数は1人や2人じゃないんだよ。わかってるだけでも、この2週間で30人近くが消えちまってる」
「ど、どういうこと?」
「土地勘のある連中が何人もいなくなる理由なんて1つしかないんだ。誰かに襲われたか、攫われたってことさ」

成る程・・・確かに、ある程度土地勘のある者ならば少しばかり深い森に足を踏み入れたくらいで遭難するようなことはまずないだろう。
僕もあの町に住んでいた頃は何度も何度も森へ遊びに出掛けたし、その度に違う場所へ行ってみたりもした。
何時も周りに他の友人達がいたというのもあるのだろうが、それでも道に迷ったという経験は1度も無かったし、仮に少しくらい来た道を見失っても町のある方角は常に把握できていたのを覚えている。
特に行き先を決めずに森で遊んでいた僕でさえもがそうなのだから、用あって森へ踏み込んだ人達が30人も行方をくらましてしまったというのは確かに不可解な事件だった。
「でも、別に他の国と争っていたりするわけじゃないんでしょ?町の人達も、とてもそんな風には見えないし」
「まぁね・・・だけど、襲ったのは猛獣かも知れないだろ?だから皆、あんな重装備で捜索に当たるのさ」

猛獣に襲われたかも知れない・・・か。
いや、待てよ・・・ということは、あの兵士達はこれから外の森を捜索するつもりなのだろうか?
あれだけ万全の戦闘態勢で出てくるくらいだし、もし森で待っているお母さんが彼らに見つかったらきっとお母さんが行方不明になった町の人達を襲ったんだと勘違いされてしまうに違いない。
とにかく、早く帰ってお母さんにこのことを知らせないと・・・
「教えてくれてありがとう。僕、もう行かなきゃ」
「ん?あ、ああ・・・何を急いでるのか知らんが、しばらく森には近付かない方がいいぞ」
そんな彼の忠告を背に受けながら、僕は慌てて大通りを行く兵士達の群れを追っていた。
時間はまだ昼過ぎ・・・あまりこの時間帯にお母さんと一緒にいたことはないのだが、恐らく彼女は十中八九あの森の広場で昼寝をしていることだろう。
何れにしても、この兵士達より先にお母さんのもとへ辿り着かないと少しばかりまずいことになりそうだ。
やがてそんな焦燥を胸に駆け足を速めると、僕は町行く人々の間を縫うようにしながら隊列を組んで町の外へと向かう兵士達を次々と追い抜いていった。

ザッ・・・ザッ・・・
規則正しい兵士達の足音が、次第次第に僕の前から背後へと遠ざかっていく。
そして首尾よく彼らより先に町を抜けると、僕はお母さんの待つ森の広場へと急いでいた。
それにしても何も知らない時は全然平気だったのに、何者かが森に入った人間を襲っているかも知れないなどという話を聞かされてしまうとどうしても心臓の鼓動が早くなってしまう。
お母さんのところまで行くのにはものの5分と掛からないのだが、それでも見えざる危険の存在に僕は不安と緊張感を募らせていた。
だが幸いなことにそれもどうやら杞憂に終わったらしく、案の定昼寝をしていたお母さんの姿が木々の切れ間の向こうに見えてくる。
そしてそんなお母さんの様子にホッと胸を撫で下ろすと、僕は寝ていたお母さんを起こすべくその大きな胸元に飛び込んでいった。

「お母さん!お母さん!起きて!」
「う・・・ん・・・コ、コリン・・・?どうかしたのか・・・?」
目覚めのおぼろげな視界の中に慌てたコリンの顔が飛び込んできて、私はロクに思考も纏まらないまま呆けた返事を返していた。
「城の兵士達が来るんだよ!とにかく訳は後で説明するから、今は早く隠れて!」
城の兵士達が来る・・・?私を探しに来るとでもいうのだろうか?
だが理由は判らないまでもコリンの慌てようから察するに、恐らく見つかれば面倒なことになりそうなのだろう。
「わかったわかった・・・とにかく、早く乗るのだ」
そしてそう言いながらコリンを背中に乗せると、私は大きく翼を羽ばたいて明るい空高く舞い上がっていた。

バサッ・・・バサッ・・・
「それで・・・一体何がどうなったというのだ?」
「う、うん・・・さっき町の人に聞いたんだけど、最近この近辺の森で何人も行方不明者が出てるらしいんだ」
「ふむ・・・恐らく、遭難したのだろうな」
深い山や森で人間が道に迷うことは、別段珍しいことではない。
だが単に森へ遭難者を探しに来るだけなのであれば、仮に私がその兵士達とやらに見つかったところでそれ程大きな問題にはならぬはずだ。
「それがさ、いなくなったのは皆土地勘のある人達で、遭難なんてするはずがないって言うんだよ」
「では、一体何が原因だというのだ?」
「町の人達は、猛獣か何かに襲われたって思ってるみたいだった」
成る程、初めからその兵士達が人間に対して敵対的な生物を探しに森へやってくるというのなら、確かにドラゴンである私は真っ先に疑われるに違いない。
ましてや町に程近い場所で呑気に昼寝などしているところを見つかりでもしたら、正に食事の後の一休みといった風情に見えることだろう。

「それでお前は、あんなに慌てて私を起こしに来たのだな」
町から離れるようにゆっくりと飛びながら、私はまるで独り言のようにそう呟いていた。
私がコリンの身を常に案じているように、コリンもまた私のことを気に掛けてくれているのだろう。
そう言えばあの黒竜との戦いで深手を負った時も、コリンはずっと私の胸の上で泣いていたのだったな・・・
互いに契りを交わして夫婦になったとはいえ、私達は結局のところ深い親子の情で結ばれているのだろう。
「とにかく、事情はわかった。だが、もう少し何処かで休ませてくれぬか?何分、眠気が激しいのでな・・・」
「あ、う、うん・・・そうだね・・・何処かに降りて休もう」
そんなコリンの了承の返事を聞くと、私は道を引き返すべくゆっくりと翼を翻していた。
「何処へ行くの?」
「休むのに丁度良いところだ。少しばかり、心当たりがある」
そう言いながら、私はついさっき上空を飛び越した澄んだ水を湛える大きな湖のことを思い出していた。
よくよく考えれば、私は町を出てからこの丸1日ほとんど何も口にしていない。
別に私は空腹感にさえ耐えられれば数日間は何も食べなくても平気なのだが、恵まれた人間の町での生活に慣れてしまったせいかこの喉の渇きだけはすぐにでも潤したい気分だった。

バサッ・・・バサッバサッ・・・
休憩場所を探すべく踵を返したお母さんが力強くその橙色の翼を上下に羽ばたかせる度に、一旦は遠く離れていたはずの森から突き出た城の尖塔が再びゆっくりとこちらへ近付いてくる。
だが眼下に延々と続く深緑の絨毯を眺めていると、その途中に突然大きな湖がその姿を現していた。
「あれ・・・湖?」
「そうだ。あそこで少しばかり休むとしよう。冷たい水も飲めるだろうしな」
そうか・・・森の広場から逃げてきた事情を説明するのに必死で見落としていたけど、お母さんはさっきここを通り掛かった時にこの湖を見つけていたのだろう。
「でも、こんなに目立つ場所にいて捜索の兵士達に見つかったら・・・」
「その時はその時だ。それにここなら、人の足で何かを探しながら来るのに30分は掛かるだろう」
確かに、遠くに見えている城の尖塔を見る限りこの湖は町から2キロ以上は離れている。
ちょっと水を飲んで小休憩するくらいの時間なら十分あるに違いない。

その数十秒後、私は湖の上空までやってくると付近に誰もいないことを慎重に確かめてから高度を下げていった。
今はコリンと一緒にいるから仮に人間に見つかったとしても何とかなるだろうが、それでもゆっくり気分と体を落ち着かせるのに邪魔者はいない方が望ましいというものだ。
そしてなるべく大きな音を立てないように湖畔へと着地すると、私は小さく身を屈めてコリンを地面の上へと降ろしてやっていた。
「へぇ〜・・・大きな湖だね・・・初めて見るや、こんなの」
そう言えば、コリンはまだ川や海も実際には目にしたことが無いはずだ。
博識な父親代わりのあの男の影響もあってか他の町や国の書物はコリンも多少読んだことがあるのだろうが、人間の文字や絵がどれ程高度な表現力を持っていたとしても自然の雄大さはとても語り尽くせるものではない。
そういう意味でこの当ての無い旅の目的を敢えて定めるとするなら、これはコリンが知識としてしか知らない事物を実際にその目で見てその手で触れさせるための旅だと言える。
まあ、自然の水の流れを見たことが無いということは泳ぐ方法も知らないということだろうから、迂闊に水場へと連れていくのは些か危険なことかも知れないのだが・・・

だがとりあえずコリンがいきなり水中へ飛び込んだりするような無茶をやらかす様子はないことを確認すると、私はようやく冷たい水にありつけると思ってその澄んだ湖面に鼻先を突っ込んでいた。
ゴクッ・・・ゴクッ・・・
美味い・・・!何という美味さなのだろうか・・・
かつて森に棲んでいた時も、私はこうして何処ぞにある湖や川で喉の渇きを癒していたものだった。
人間の町で飲んだ井戸水の透き通るような美味さもそれはそれでありがたいものなのだが、やはり野生に身を置いていた頃の懐かしい記憶は何時まで経っても忘れることができないらしい。

ゴクッ・・・ング・・・ング・・・
「う・・・ん・・・・・・?」
だが少しばかり腹が膨れる程に大量の水を飲み込んでから、私は湖の様子に何故か微かな疑問を感じていた。
何かがおかしい気がする。
湖の水は確かに冷たく冷えていて美味しいし何処がどうおかしいのかと問われても上手く表現できないのだが、本来あるべき何かが足りないというような漠然とした、それでいて不穏な違和感が頭の片隅から離れないのだ。
「お母さん、どうかしたの?何だか変な顔してるけど・・・」
「いや・・・何でもない」
気のせいだろうか・・・?
だがコリンを安心させようと彼の方へ視線を向けた途端に、もう1つどうしても気になる物が目に入ってきた。
微かに湿った黒土の湖畔に無数に残る、大小様々な人間達の足跡。
単純な距離で言えばこの湖がまだ町から程近い場所にあるのは確かだが、それを考慮したとしてもここは随分と人の往来が激しい場所のように思えるのだ。
だがそれが一体何を意味するのかに考えを巡らせようとしたその直後、不意に森の方から聞き慣れぬ人間達の声が聞こえてきていた。

「何だあいつは!?」
「ドラゴンだ!ドラゴンがいるぞ!」
まさかという思いで声の聞こえた背後の森へ視線を振り向けてみると、重厚そうな甲冑に身を包んだ2人の兵士達が手にした槍を構えながらゆっくりとこちらへやってくるのが目に入る。
ドラゴンを見ても逃げようとはしないところを見ると、どうやらそれなりに腕にも自信のある者達なのだろう。
「ま、待って!」
それでも異常に気付いたコリンが不意に私の前へ飛び出してくると、彼らが驚いてその足を止めていた。
「誤解しないで!このドラゴンは、人を襲ったりなんてしないから・・・」
「何だと!?どういうことだ?」
だがなおも語気を強めてコリンに食って掛かってきた血気盛んな若い兵士とは対照的に、そこそこ老齢に見えるもう1人の方がそんな仲間の肩を掴んで彼の勇み足を力強く押し留める。

「まあ待て・・・もしやあの橙色のドラゴン、隣町で暮らしているという噂のドラゴンではないのか?」
「えっ・・・?あの例の・・・人間の子供を育てているっていう奴のことか?確かコリンとか言う・・・」
どうやら、20年という年月の間に私とコリンの噂は随分とあちこちに広まってしまっているらしい。
「なあ、そうなのだろう?」
「う、うん・・・僕が、そのコリンなんだ」
「でも、その有名な親子がどうしてこんなところにいるんだ?」
有名な親子、か・・・
コリンにとっては心外かも知れないが、こんな見ず知らずの人間達からも彼の母親として認められているのはなかなか気分が良いものなのだな・・・
「それがその、僕達は・・・」
「少し、この子に旅をさせることにしたのだ。今よりももっと多くの見聞を広めるためにな」
だが私が兵士達にそう言うと、また子供扱いされたとでも思ったのかコリンが無言でこちらを睨み付けてくる。
まあそうは言っても、他の人間達にしてみれば私達の関係が母子であろうと夫婦であろうとそれが大した問題ではないということはコリンも理解しているだろう。

「それよりも・・・ここは町からもそれなりに離れているというのに随分と早く捜索にやってきたものだな」
お母さんにそう言われて、僕は初めて彼らの登場が予想よりもずっと早かったことに気が付いていた。
僕達があの森の広場を離れてからは、まだせいぜい20分かそこらしか経っていないはずだ。
最初からこの湖を目指して走ってでもこない限り、兵士達が姿を現すはずなんてないというのに・・・
「この湖は、森に入る連中のほとんどが最後に来る場所だからな。寧ろ、真っ先に来るべき場所なんだ」
「どうして?」
「魚を獲るためさ。あの町で出回る魚は、ほとんどがこの湖で獲れるものなんだよ」
成る程、確かに昔の僕のように遊びに行くというのでもなければ、こんな森の中に入る人達の目的なんて薬や食料の調達くらいしか思い付かない。
もちろんその中には草木の採集や獣の狩猟も幾らか含まれるのだろうが、町の近辺ではここでしか魚が獲れないとなればこの湖へ足を運ぶ人は多いのだろう。
だが納得したとばかりに背後のお母さんの方へ視線を向けてみると、その顔にさっき水を飲んでいた時にも見せた怪訝な表情がさらに色濃くなって貼り付いていた。

魚を獲るためだと・・・?
そんな兵士達の話を聞いて、私はさっき感じた違和感の正体にようやく思い当たっていた。
そうだ・・・何かがおかしいと思っていたが、そう言えば湖底すら見通せる程の澄んだ水だというのにさっきは何故か水中を泳ぐ魚の姿が何処にも見えなかったのだ。
湖畔に残る無数の人間達の足跡から察するに、本来ならこの湖ではかなり大量の魚が獲れるはず。
余程水質に劇的な変化があって魚達が全滅したなどということでもない限り、この広い視界の中にたった1匹の魚影すら見つけられないというのは少々考えにくかった。
しかしそうなると、魚達が消えた原因として他に考えられる可能性はもう1つしかない。
そして、森に入った人間達の多くが姿を消してしまったという奇妙な事件の原因も・・・
「尤も、最近は城の晩餐にも何故かあまり魚の料理が出なくなってしまったんだが・・・」
だが私が思考を巡らせている間に、何を思ったのか顎髭を生やした老兵がふとそんな独り言を呟きながら湖の様子を窺おうと静かに澄んだ湖面を覗き込んでいた。

「待て!迂闊に湖へ近付くな!」
思わず咄嗟にそう叫んだ次の瞬間、それまで静かだったはずの湖面が突然大きく持ち上がる。
そしてザバァッという盛大な音とともに、巨大な何かが水中からその姿を現していた。
そこにいたのは長さ2メートルはあろうかという太い乳白色の双角を戴き、薄紅色の鬣を揺らす長大な雄の龍。
金色の鱗に身を包み鬼のように鋭い双眸で眼下のちっぽけな老兵を睨み付けるその様は、正に湖に棲む龍神の如き尊大な威厳と風格を備えていた。
だがこの龍は、魚を獲るために湖へとやってきた人間達を次々とその手に掛けたであろう悪魔なのだ。
鬣と同じ薄紅色の皮膜に覆われた蛇腹がうねうねと妖しく蠢くその様を見ているだけで、大勢の人間達が必死の抵抗も空しく嬲られ食い殺されていった様子が目に浮かんでくる。

「う、うわっ・・・」
運悪く不意に出現した巨龍と鉢合わせてしまった老兵は反射的に逃げようと身を翻しはしたものの、一瞬にして伸びてきた龍の手に敢え無く背後から鷲掴みにされてしまっていた。
ガシッ
「ひっ・・・や、やめろっ・・・うわぁ!」
だが身に余る掌中から逃れようと必死に身を捩って暴れた途端に、鎧の拉げるメシッという鈍い音を伴って男の体が軽く握り締められる。
そして恐怖と苦痛に悲鳴を上げる老兵をその巨口の前へ持ってくると、龍が頑丈なはずの甲冑に覆われた彼の脚をあっさりとその牙で噛み砕いていた。



バキッ、ベキバキッ
「ぎゃああぁ〜〜!」
やがて下顎の牙を伝って滴り落ちた真っ赤な血の味を確かめるように、龍がペロリと舌を舐めずって激痛に気絶した獲物の顔を満足げに眺め回す。

「大変だ!くそっ、彼を放せ!」
それを見たもう1人の若い兵士が仲間の窮地に槍を構えて龍へと突進していったものの、僕は彼の死角で振り上げられていた極太の長い胴体がゆらりと揺らめいたのに気が付いていた。
その数瞬後、硬い鱗で覆われた龍の胴体が低い風切り音とともに振り下ろされる。
「危ない!」
ブォン!ドオォォン!
間一髪全力で彼を突き飛ばしたお陰で何とかお互いに難を逃れられたが、後一瞬遅かったら彼は柔らかな地面を抉った巨大な肉塊に叩き潰されていたところだ。
だがどうやら邪魔者の排除に失敗したことに腹を立てたらしく、龍がグオオオッという怒りの咆哮を上げながら再び長い胴体を高々と中空へ振り上げる。
まずい・・・僕もこの若い兵士もまだ地面から立ち上がれてすらいないというのに、もう1度あんなものを振り下ろされたら今度はとても身をかわせそうにない。

まずい、コリンが!
龍の尾撃が完全にコリンを標的としていることに気が付いて、私は弾かれたようにその場を飛び出していた。
幾ら私でも、力一杯振り下ろされたあんな太い尾を受け止めることなど到底できるはずもない。
だが少なくとも私がどうにかしなければ、このままではコリンの、息子の、夫の、掛け替えのない大切な者の命が目の前で失われてしまうことになるのだ。
「コリン!」
ドオオォン!グシャッボギボギベギッ・・・!
「があっ・・・はっ・・・」
やがて走ってきた勢いのまま両手でコリンと兵士の体を向こうへと押しやったその刹那、凄まじい重量と衝撃が私の背に叩き付けられていた。
翼の骨が砕け散った鈍い音と痛みが全身を駆け巡ったものの、霞んだ視界の中に助かったコリン達の姿が見えて一瞬安堵してしまう。
そして人間などよりも食いでのある獲物を仕留められたことに満足したのか、巨龍は手にしていた老兵をポイッとその口内に放り込むと今にも気を失いそうな私の体に太い尾を巻き付け始めていた。

「う・・・あ・・・あぁ・・・」
ものの2巻きもすれば私の体さえ覆い尽くしてしまう程の太い蛇体が、地面に這い蹲った私の腕を、首を、脚を、そして粉々に砕けた翼を持ち上げてはそのとぐろの中へと呑み込んでいく。
巨龍に少しずつ巻き付かれていくというその絶体絶命の状況に、私はかつてない程の恐怖を覚えていた。
ただ単に私にとどめを刺すだけなら、もう2度3度私の頭上にその尾を振り下ろせばいいだけのはず。
なのにこの龍にとっては人間と同じようにちっぽけに見えるはずの私をわざわざ捕らえたということは・・・
そしてそんな予想を裏付けるかのように、無造作に巻き付けられた極太の尾がゆっくりと引き絞られていく。

ギ・・・ギリ・・・ミシィ・・・
「ぐあっ・・・うああぁっ・・・」
次の瞬間、まるで巨人の手に握り潰されるかのような無慈悲な圧迫感が全身に襲い掛かってきた。
折れた翼の痛みさえ消し飛ぶような長く尾を引く鈍痛と息苦しさが、私の意識を遥かに遠い霞みの彼方へ押しやろうと躍起になっている。
苦悶の声を上げながら自分でも無駄だとわかっている抵抗を試みる度に、私の顔を覗き込んだ龍が実に愉しそうな笑みを浮かべながら更に私の体を締め上げていった。
「お、お母さん・・・!」
だがやがて押し潰された肺が今にも呼吸を堰き止めようと牙を剥いたその時、激しい焦燥に引き攣ったコリンの甲高い声が届いてくる。
私が何とか時間を稼げたお陰かコリンも兵士も既に湖からは十分に離れたところに立っていたものの、コリンの方は私が苦痛に顔を歪める度に今にもこちらへ向かって飛び出して来そうな気配を漂わせていた。

メキッ・・・メキメキメキィッ・・・
「ぐああああぁ・・・」
「お母さん!」
このままじゃお母さんが・・・
だが手の届かぬ湖上で敢え無くその身を締め上げられているお母さんの姿を眺めながら、僕はどうしようもない程の無力感に苛まれていた。
所詮人間なんかに、巨大なドラゴンと戦う術などあるはずがないのだ。
かつて僕の産まれた村で、僕の育った町で、そして深い森の奥の洞窟で、3度に亘って凶暴な黒竜がその猛威を振るった時でさえ、お母さんの存在無くして人間達に勝利は無かったに違いない。
だが今は巨大な龍がその身を妖しくくねらせる度に、骨の軋むような不気味な音とお母さんの悲痛な叫び声がしんと静まり返った湖の周囲に空しく響き渡っていく。
僕はこのまま、何も出来ずにゆっくりと締め殺されていくお母さんの最期を見せ付けられて黒々と淀んだ深い絶望の淵に叩き落とされるしかないのだろうか・・・
"よせ!近付くな!コリン!"
そんなお母さんの声にならない訴えが聞こえてくるようで、僕は地面に崩れ落ちたまま涙を流していた。

「かはっ・・・あう・・・」
いよいよ、頭の内で微かに放蕩っていた意識が遠くなってきたのが感じられる。
ただの力任せではない、獲物のもがき苦しむ様をじっくり愉しもうとするような緩急の付いた責め苦に、私は辛うじて金色のとぐろの外に飛び出している首や手足を動かす気力さえもが削り取られていった。
私は・・・ここで死ぬのか・・・?
コリンを遺して・・・コリンに世界を見せて、また町へ連れて帰ると・・・あの男に約束したというのに・・・
メシッ・・・ボギッ・・・
「・・・っ!」
また、何処かの骨が折れる音が聞こえた。
肺もこれ以上ない程窮屈に押し固められ、もう微かな呻き声も出せそうにない。
痛みとも苦しみともつかない熱く燃えるような感覚が、次第次第に私の全てを焼き尽くしていく。
コリン・・・どうか無事で・・・
「くそっ!こいつ!お母さんを放せぇっ!」
だが死への諦観とともにゆっくりと目を閉じた私の耳に、気のせいかそんなコリンの声が届いたような気がした。

コ、コリン・・・?
先程よりも明らかに近くで聞こえたその怒りのこもった声に、またコリンが何か無茶をしているのではないかという不安が込み上げてくる。
その証拠に今にも私を締め潰そうとしていた龍のとぐろが一瞬だけ緩み、私は辛うじて回復した呼吸と意識の中で周囲の様子を窺っていた。
そんな私の眼前で、あろうことかコリンが兵士達の持っていた槍を激しく振り回して巨大な龍を挑発している。
何と言うことを・・・到底勝ち目などあるはずがないというのに・・・!
やがて獲物にとどめを刺す至福の時を邪魔されて怒り狂った龍は再びグオオオオオッという大気を震わすような咆哮を上げると、槍を構えたコリンを一呑みにしようと大口を開けて彼に襲い掛かっていった。

ブゥン!
「うわぁ!」
だが流石に上下に大きく開けられた顎には槍を突く隙などなかったのか、コリンが先程までの威勢も空しく向かってくる巨口をかわそうと間一髪飛び退いていた。
万が一あの牙に捕らえられようものなら、小さな人間など一溜まりもないだろう。
「このっ!このぉっ!」
コリンはそれでも体の小ささを生かして隙を見せた龍の首や胴に槍を叩き付けていたが、その分厚い鱗が発するカァンというまるで金属を叩いたかのような甲高い音が彼の攻撃に全く効き目がないことを物語っていた。
ブオン!ズドォン!バグッ!
コリンの頭上を薙ぎ払い、大地に叩き付けられる強烈な尾撃・・・そしてコリンを噛み砕こうと噛み合わされた巨大な顎の立てる音が、それらから必死に身を守ろうとするコリンの悲鳴とともに私の胸を締め付けていく。

頼む・・・もう私のことは諦めて、どうかここから逃げてくれ・・・お前にもしものことがあったら私は・・・
今にも龍の攻撃をかわし損ねたコリンの断末魔が聞こえてきそうで、私はもう頭がどうにかなりそうだったのだ。
第一、今更私がどう足掻いたところで精々こ奴の意識をほんの少しコリンから離すことができる程度だろう。
この龍から逃げる意思がコリンにない以上、そんなことをしても無駄死にするだけなのは分かり切っている。
それに当のコリンにしても、こんな危険な綱渡りを幾ら続けてみたところで私が殺されるまでの儚い時間稼ぎにしかならないことは十分に理解しているはずだった。
なのに何故・・・?
コリンが時折無謀な行動に出ることは、もちろん13年前のあの事件を引き合いに出すまでもなく知っている。
だが、今回に限ってはただ感情に任せてこの龍に戦いを挑んだというわけでもないらしかった。
その証拠に、頻りに龍を挑発しながらもコリンの意識は完全に攻撃の回避へと注ぎ込まれている。
そんなコリンの様は、まるで何か希望のようなものの到来を待っているかのようにさえ思えてしまうのだ。
だがその数秒後、突然全く予想だにしなかった光景が私の目の前に広がっていた。

「見つけたぞ!あいつだ!」
「一斉に掛かれ!火薬の準備を忘れるな!」
あっと言う間に湖を囲む森の奥からまるで湧き出すように現れたのは、コリンが言っていた行方不明者の捜索隊らしき大勢の兵士達。
しかし元々ドラゴンのような敵を想定していたと見えるその捜索隊らしからぬ重装備の者達は、尖兵の2人とは違って全員が槍の他に見慣れぬ武器をその背に背負っていた。
更には鉄でできた長い筒の先に持ち手を付けたようなその奇妙な物をこちらに向けて構えながら、兵士達が統制のとれた様子で上下2段の隊列を組み上げる。
その者達の中に先程コリンと一緒にいた若い兵士の姿を認めて、私はコリンがあの後続隊の到着まで時間を稼ぐ役を買って出たのだということを初めて理解していた。
やがて兵士達の攻撃の準備が整ったことを確認して、コリンがそっと龍から離れて地面の上へと身を伏せる。
「構え!てぇっ!」
パパン!パパパパン!パン!
そして隊長らしき男の歯切れの良い号令が下された次の瞬間、火薬の弾ける乾いた音が周囲に響き渡っていく。
その数瞬後、薄紅色の皮膜に覆われた龍の腹に突如として鮮血を噴き出す無数の小さな傷跡が刻まれていた。

「グオアアアァッ!」
「やったぞ!」
龍に傷を負わせて沸き上がる兵士達をよそに、私は苦痛の叫び声を上げながらのたうつ龍の懐で粉々になった体を揺すられる痛みに耐えながら逃れる機会を静かに待ち続けていた。
見たところ龍の腹に空いた傷はその1つ1つの大きさこそ極小さいものの、かなり深いところまで抉れているらしい様子が窺える。
どうやら彼らが持っていたのは、火薬の爆発で小さな弾を撃ち出す武器らしい。
私が捕らわれているせいでその狙いは体の中心からは大きく離れた尻尾に近い場所に向けられたようだが、それでもかなりの痛手を負わせることに成功したところを見ると恐らくこの巨龍をも倒すことができるだろう。
そのためにはまず・・・私がこの恐ろしい牢獄から脱出することが先決だった。
だが既に手足の骨は砕けてしまっているせいで、今の私ではとぐろの中から自力で這い出すことさえできない。
せめてもう少しこの尾が緩んでくれれば、恋しい大地へと滑り落ちることもできるのだろうが・・・

幾重にも重なって聞こえた火薬の破裂音に続いて龍の苦悶の声が聞こえ、僕は伏せていた頭をほんの少しだけ持ち上げていた。
お母さんは相変わらず龍のとぐろの中でぐったりしているものの、先程までと違ってまだ生きようとする強い意志のようなものがその瞳に宿っているのが目に入ってくる。
お母さん・・・!
だがそう叫んで立ち上がろうとしたその時、背後からさっきの兵士の大声が僕の耳へと届いてきた。
「まだ立つな!もう少し伏せていなさい!」
そしてその声が終わるや否や、銃へ次の弾が込められるガシャガシャッという音が聞こえてくる。
「構え!てぇっ!」
やがて間髪入れずに飛んできた攻撃の合図に、僕は慌てて頭を下げていた。

パパパパン!パパン!パパパン!
「グガァ!アグオオオッ!」
明らかに先程とは違う方向へと向けられた彼らの照準を目で追った次の瞬間、その先にあった龍の片目から突然真っ赤な血が噴き出していく。
どうやら龍の顔に向けて無数に飛来した弾の1発が、硬い鱗の隙間を抜けて急所の1つである目に直撃したらしい。
これには流石に耐えることができなかったのか、ようやく私を絡め取っていた龍の尾が解けていた。
ドサッ
「う・・・ぐっ・・・」
そして微かに湿った地面の上へ零れ落ちると、全身を貫いた凄まじい激痛に思わず呻き声を上げてしまう。
何という痛みなのだろうか・・・まるで、体中がバラバラになってしまいそうだ・・・
だがあまりの痛みに今度こそ本当に意識が薄れそうになったところで、背後から龍が湖中に潜ったザバァンという音と水飛沫が届いてきた。
「お母さん!」
先程と同じく、気を失う間際に聞こえたコリンの声。
だがそれは、虚勢を張って巨龍に戦いを挑んだ勇敢な若者のそれではなく・・・
あの黒竜との戦いの後にも微かに聞こえた、母親を心配する幼子の悲痛な呼び掛けの声だった。

ズキッ
「あぐっ・・・うぅ・・・」
闇の中を漂っていたおぼろげな意識が、突如として全身に走った鋭い痛みに現実へと引き戻される。
そしてゆっくりと閉じていた目を開けて見ると、そこは冷たいそよ風の吹き抜ける湖の畔などではなく・・・
何処か懐かしささえ感じる藁が敷き詰められた木造の建物の中だった。
「き・・・気が付いた・・・?」
更にはそんなコリンの涙声が聞こえ、そっとそちらの方へと視線を向けてみる。
そこでは今にも私に飛び掛かってきそうになるのを必死に堪えているらしいコリンが、鎧を脱いだ数人の兵士達と一緒に心底心配そうな眼差しでこちらをじっと見つめ続けていた。

「こ、ここは・・・?」
「城の傍にある馬小屋だよ。あの後、皆でお母さんをここまで運んできたんだ」
馬小屋・・・道理で、私の為に追い出されたのであろう数頭の馬達の不満げな嘶きが外から聞こえてくるわけだ。
「あの龍はどうなったのだ?」
「片目を潰されたのが余程痛手だったのかあれからは姿を現さなかったが、近い内に正式な討伐隊を組む予定だ」
「そうか・・・」
やがて深い安堵の溜息とともにそう呟いた私を見て、コリンが遠慮がちに声を掛けてくる。
「ごめんね、お母さん・・・また、僕のせいで・・・」
心底申し訳なさそうにそう呟いたコリンの脳裏には、きっとあの日の思い出が蘇っているのに違いない。

確か以前は酷い火傷と黒竜に踏み潰された手の怪我が完全に癒えるのに、優に3ヶ月以上は掛かったものだった。
今回は体の何処を動かしても激痛が走るところから察するに、恐らく手足と言わず全身の骨が無残に砕けてしまっているのだろう。
それでも火傷と違って以前より治癒に時間は掛からないだろうとは思うが、しばらくの間は自力でこの場を動くことさえできそうにない。
だが、今回はどちらかと言えば私の不注意が招いた事態なのだ。
私がもう少し早く湖の異変に気付いていれば、龍が姿を現す前にあの場を離れることも出来たはず。
コリンに怪我がなかったのが不幸中の幸いだったものの、犠牲になった兵士のことを思うと私は気が重かった。

「お前が謝ることはない・・・お前は、立派に他の者の命を護ったではないか」
「そうだよ。君があの時突き飛ばしてくれなかったら、今頃俺はペシャンコにされて奴の腹の中だったろう」
何処か気落ちしたお母さんの言葉を受けて、あの時の若い兵士が僕の背後からそう声を掛けてくる。
だがまたお母さんに酷い怪我を負わせてしまったという罪悪感が、僕の胸をきつく締め付け続けていた。
「それにコリン・・・私はお前を護るためにこの身を奮わせる時が、何よりも生き甲斐を感じる瞬間なのだ」
喋るだけでも何処かが痛むのか、お母さんが微かに顔を顰めながら更に先を続ける。
「お互いに夫婦の契りは交わしたが・・・やはりお前は私にとって、大切な息子以外の何物でもないらしい」
だから彼女はあの時、さり気無く僕にお母さんと呼ぶように促したのか・・・
「でも・・・こんなに酷い怪我、本当に治るの・・・?」
お母さんは、あの見上げるような巨大な龍に執拗に締め上げられたのだ。
一見したたところお母さんの体には特に目立った傷は無いものの、僕の耳にも聞こえた骨の砕ける音とまるで血を吐くような悲痛な叫び声が、とても無事には済んでいないであろうことを物語っていた。

「多少時間は掛かるだろうが、何れは全快するだろう。だがそれでは・・・」
「いいんだ。あんたも俺の命を救ってくれたし、怪我が良くなるまで何日でもここでゆっくりしていくといい」
「そう言ってもらえるとありがたい・・・しかし、コリンは・・・?」
以前に住んでいた納屋とは違って、最低限の壁と屋根で囲まれただけの馬小屋ではほとんど屋外と変わらない。
私は雨や雪さえ凌げれば別に問題は無いのだが、コリンは流石にここで寝泊まりするわけにはいかないだろう。
「もちろん、城の中に彼の為の空き部屋を用意しよう。それで構わないだろう?」
「本当に?ありがとう!・・・でも、お母さんの怪我が治るのには何ヶ月も掛かるんじゃ・・・?」
「何も先を焦ることはない。それにお前は何れ、あの町を治める立場になるのだ。これも、よい経験ではないか」
実際、大きな町の政治を間近で見られることはコリンにとって貴重な経験になることだろう。
それにしても、納屋の次は馬小屋か・・・
コリンを見つけるまでは人間に出会ったことすら無かったというのに、私もつくづく人間の町での暮らしが当たり前になってしまったものだな・・・

何か考え事をしては苦笑いしているお母さんの様子に、僕はようやく元の落ち着きを取り戻していた。
そしてお母さんの為の食事を持って来てくれた別の兵士と入れ替わるようにして馬小屋を後にすると、そのまま大きな城の中に用意されたという僕の部屋へと案内される。
「さあ、ここだよ。あのドラゴンが良くなるまで、ゆっくりしていくといい。後で、王様にも挨拶を忘れずにね」
「ありがとう」
やがて兵士が離れていくと、僕はドキドキと胸を高鳴らせながらそっと目の前の大きな扉を押し開けていた。
ギイイィ・・・
「わぁ・・・」
そこにあったのは、人が4人は並んで寝られそうな程に大きなベッド、城下の町並みが一望できる両開きの窓、それによく手入れされていると見える古めかしい家具や調度品の数々。
城の中というものを初めて見た僕にもここが重要な来賓を迎えるための部屋だと判る程の、豪華絢爛な造り。
今日からお母さんの怪我が癒えるまでのしばらくの間、僕はここで生活することになるのだ。
そしてこれこそが世界中を見て回る僕の、長い長い旅の本当の始まりなのだった。

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