ガラッ
「ただいま!」
長閑な夕暮れの陽光に照らされた質素な納屋の中に突然扉を開ける音と子供の張りのある高い声が響き渡り、私は数年の内にすっかりと踏み拉かれて丁度よい寝床となった藁敷きに蹲ったままゆっくりと顔を上げていた。
その眼前で、もうすぐ7歳になろうという元気な男の子が薄っすらと額にかいた汗を拭っている。
町の人々の提案でこの子にはコリンという名が付けられたものの、私自身はあまり彼を名前で呼ぶことがないせいでそれは専ら町の人々に呼ばれるための名前になっていた。
「随分疲れているようだが、今日は一体何処へ遊びに行って来たのだ?」
やがてそんな私の問い掛けを待っていたかのように、彼が興奮した様子で今日の出来事を話し始める。
「今日はね、他の皆と一緒に初めて森に遊びに行ったんだよ!そしたらね・・・」
この町に住む誰にも明かしたことはないのだが、私は毎日楽しそうに遊び回ってはグッタリと疲れて帰ってくる彼の話を聞くのがここ最近の密かな楽しみになっていた。
そして今日見たことや聞いたことをすっかり話し尽した彼を、そっと尻尾で包んで夕食まで過ごすのだ。

私はコリンがこの世に生を受けた7年前の冬、その年明けのあの日まで、この町からずっと西方にある森の中の洞窟でひっそりと暮らしていた。
だが他の竜達と違って唯一翼を持っていた私は他者との交流などほとんどしたこともなく、ましてや人間の姿などそれまで1度として見かけたことがなかったくらいなのだ。
そんな私が偶然にもとある人間の村の滅亡とその生き残りである1人の赤子・・・つまりこの子を見つけることができたのは、一体どんな運命の気紛れによるものだったのだろうか?
そして今にして思えば到底信じられないような幾つもの奇跡的な偶然が重なって、私は1匹の雌竜でありながら活気溢れるこの町で人間であるコリンの母親代わりとなっている。
まあ尤も、私がこの子にしてやれるのは精々一緒の時間を過ごしてやることくらいなのだが・・・

「・・・それで僕が木に登ってる途中に、突然何処からか変な声が聞こえたんだ」
「変な声?」
しばしの懐古に浸っていたお陰で彼の話を大分聞き逃してしまったことに気が付き、私は慌てて彼の話に相槌を打つとそう聞き返していた。
「なんていうかこう・・・グオオオォッていう、動物の唸り声みたいだったよ」
「それで、どうしたのだ?」
「僕、それを聞いてちょっと怖くなっちゃってさ。夕暮れも近いからって、皆で走って帰って来たの」
成る程・・・どうやら、もう冬も近いというのに汗をかく程疲れていたのはそのためらしい。
「そうか・・・森には獰猛な獣がいたりするからな・・・少しでも身の危険を感じたら、すぐに逃げるのだぞ」
「うん、わかってる」
彼はそう言うと、淡い橙色の鱗に覆われた私の横腹に背を預けるようにして藁の上へと座り込んでいた。
コリンが育つにつれて当初は藁の山しかなかった納屋の中にも何時しか人間の使うベッドやテーブルというものが置かれるようになっていったものの、何故か彼は毎日決まって私の懐へと身を寄せてくる。
人間の子供に必要な世話らしい世話など何もしてやれぬ私が仮初めの母親などを演じていられるのも、彼が求めているのがこうした硬い鱗の奥に秘められているほんのりとした温もりだからなのだろう。
やがて彼の頭を優しく撫でながら夕食の時間を待っていると、ガラリという音とともに納屋の扉が開いていた。

「おうコリン、帰って来たか。もう飯ができてるぞ」
大きく開け放たれた扉の先に姿を現したのは・・・この町を取り仕切っているあの首領の男だ。
今日もまた小振りの斧を手にしているのを見るとまるでそれが体の一部ではないかとさえ疑ってしまうのだが、あれこそが7年前にこの町を襲った黒竜を撃退するのに一役買った救いの斧なのだ。
彼が助けてくれなければ私も今頃は命が無かったかも知れないと思うと、そんな一見奇妙にも見える彼の行動を揶揄する気にはとてもなれそうにない。
それに私達が町へ来てからずっとコリンの食事やその他の世話をしてくれているのだから、彼は最早この子の父親代わりと言っても差し支えのない存在になっていた。
だが何時もと違ってコリンと一緒には納屋を出て行こうとしない男の様子に、コリンが訝しげな声を上げる。
「ありがとう。おじさんは一緒にこないの?」
「ああ、ちょっと彼女と話をしてからすぐに行く。ほら、飯が冷めちまうから先に行ってな」
「う、うん。じゃあ、先に食べてるよ」
やがてコリンが出て行くと、首領の男はそれをそっと見送ってから静かに納屋の扉を閉めていた。

「どうかしたのか?」
「コリンのことさ・・・あんた、あの子に本当の母親のことについて、何か話したことはあるのか?」
「いや、何も話したことはないが・・・どうしてそんなことを聞くのだ?」
そんな何時もとは少し雰囲気の異なる彼の様子に、何かまずいことでもあったのかとつい不安になってしまう。
「正確に何時産まれたのかを知る人間は誰もいないが、あの子ももうすぐ7歳になる。とても多感な年頃なんだ」
「ああ・・・」
「まあ幸いあの子はあんたを本当の母親のように慕っているし、同じ年代の子供達とも仲がいい。だが・・・」
戸口に立ったまま喋り続けるのもおかしいと思ったのか、彼はそこまで言うと私の近くまでやってきて床に敷かれた厚い藁の上にドサッと無造作に腰を下ろしていた。
「コリンも近い内にきっと、本当の母親について知りたがる時が来る。何がきっかけになるかはわからんがな」
「確かにそうかも知れぬが、私もあの子の母親についてはほとんど何も知らぬのだぞ」
「それはわかってる。でもいざあの子に問い詰められた時のために、心の準備だけはしておいた方がいい」
彼はそう言うと、しばらく無言のまま私と視線を絡ませてからそっと納屋を出て行った。

思えば私が生まれて初めて見た人間が、あの子の母親だったのではないだろうか?
人間についての知識や人語は自分の母親からしか教わらなかった私だが、それでもあの瓦礫の下から覗いた人間の娘の亡骸を目にした時の衝撃は相当なものがあったのを覚えている。
これ程までに華奢でか弱くて、しかし無力な赤子を守るために命をも懸けられる人間の存在を目の当たりにして、私も内心では母親という生き物の持つ母性的な強さというものを本能的に理解したのかも知れない。
あの惨劇の夜、降り注ぐ火の粉と崩れ落ちる天井の中で必死に我が子を抱え込んだ彼女を衝き動かしていたのは、恐らくは何としてでもこの子の命だけは護り切ろうという母親だけが持ち得る強い信念だったのだろう。
あれからというもの、私は母親である彼女にも負けないくらいの愛情をコリンに注ぎ込んできたつもりだった。
しかしそれでも、コリンが本当の母親について知りたがる時はくるらしい。
もしその時がきたら・・・私にできることは彼をあの場所へと連れて行ってやることくらいだろう。
私の深い記憶の奥底だけに微かに残っている、失われてしまった彼の故郷の村へ。

翌日、僕は数人の友達とともに再び町外れの森へと遊びに行った。
町とは言っても、ここは所詮深い森に囲まれた小さな集落。
隣町へ行くには森に張り巡らされた街道を通ってそれなりに長い距離を歩かなければならないし、建物だって町に住んでいる人々の家の他には小さな集会所と幾つかの店が並んでいるくらいだろう。
正直に言って、僕達子供の遊び場なんてほとんど無いと言っても言い過ぎではないと思う。
まあ僕はドラゴンのお母さんと一緒に空を飛ぶ楽しみがあるからまだいいようなものの、他の友人達が一体どうやってこの退屈な毎日を楽しいものに変えているのかについてはずっと不思議だったのだ。
そしてつい昨日知ったその答えが、森に遊びに行くというものだった。
歪な形をした木に登るのも面白いし、鬼ごっこやかくれんぼだって町中でやるのとは随分と勝手が違う。
しかも樹木しか生えていないように見える森の中にも所々大きな洞窟や岩壁があったりして、スリルも満点だ。
大人達の話ではここ数年は獣の数も少なくなっているということだから、これ以上の遊び場は他にないだろう。
「コリン、早く来いよ!」
「待って!今行く!」
やがて仲間の1人に名前を呼ばれると、僕は薄暗い森の中へと勢いよく駆け込んで行った。

「ん・・・もうこんな時間か」
楽しい時間が過ぎるのは早いもので、森の中をあちこち走っている内に梢の間から覗く空の色は何時しか透き通るような青から夕焼けの燃えるような橙色へと変わっていた。
そろそろ帰る時間だろう。
夢中になって遊んではいても町の方角だけは見失わないように気を付けているから迷うことはないだろうが、森の中は鬱蒼と立ち並ぶ木々の葉に陽光が遮られて暗くなるのも比較的早いのだ。
「皆、そろそろ帰ろうよ」
「そうだね、もう暗くなってきちゃったし」
「また昨日みたいに走ってこうか?」
だが皆で笑いながらそんな相談をしていたその時・・・
「グオオオォ・・・」
僕らの耳に、またあの奇妙な唸り声が聞こえてきていた。

「何・・・今の声・・・?」
「き、昨日も聞こえたよね・・・?」
これまで何度も森に遊びに来ている他の友人達ですらほとんど聞いたことがない声なのか、誰を見ても皆一様に不安げな表情を浮かべている。
「ね、ねぇ・・・早く戻ろうよ」
だが僕がそう言うと、友達の1人がとんでもないことを口にした。
「だけどさ、一体何の声なのか確かめてみた方がいいんじゃない?」
「ええっ!?でも・・・」
「だって何かもわからないまま森に遊びに来る度にあの声に怯えてたら、楽しくないもの」
まあ、彼の言いたいことはわからないでもない。
でもお母さんが言うようにあれがもし獣の声だったとしたなら、余計な危険は冒さない方がいいに決まっている。
「コリンも来いよ。あの声の正体がわかれば、お前もすっきりするだろ?」
「う、うん・・・」
しかし流石にその場の流れには逆らい切れず、僕は小さな2つ返事とともに頷いてしまっていた。

「グオオオオォ・・・」
随分と薄暗くなった森の中を生い茂った草や枝を掻き分けながら進んでいくと、またしても大気を揺らすような謎の声が辺りに響き渡る。
聞きようによっては何かの寝息のようにも聞こえるのだが、それにしては間隔が長すぎるようが気がした。
お母さんもこんな風にゆっくりとした呼吸をしていたのを見て理由を聞いてみたことがあるのだが、生き物というのは体が大きくなればなる程呼吸が深くその間隔も総じて長くなるものらしい。
ということは、この声の主も相当に大きな体の持ち主である可能性が高いのだ。
「グオオオォ・・・」
やがて5度目の声が聞こえた頃には、僕達の眼前にこれまで見た物の中では1番大きな深い洞窟が姿を現していた。

「・・・この中から聞こえるよね・・・?」
「ま、まさか・・・中に入るの?」
「入らないと何の声なのか確かめられないだろ。大丈夫だって、多分寝てるだろうからさ」
そう言われて渋々彼らと共に洞窟の中へと入ると、僕は岩陰からそっと顔を出して暗い穴倉の奥へと目を向けた。
その広い岩の空洞の中で、1匹の巨大な黒いドラゴンが静かに蹲っている。
全身は厚くて頑丈な鱗に覆われているものの翼は無く、両目は怪我をしているのか痛々しい傷口で潰れていた。
「あれ、ドラゴン・・・だよな?」
「うん・・・コリンのお母さんと同じだね」
「でも僕・・・何だか怖いよ」
理由はわからないが、何だかこのドラゴンを見た途端に背筋が冷たくなったのはきっと気のせいではないだろう。
とにかく、あのドラゴンが目を覚ます前に早くここから出た方がよさそうだ。
「も、もういいでしょ?早く帰らないと日が暮れちゃうよ」
やがて我先にと競うように真っ暗な洞窟から出て来ると、僕らはそっと町への帰路についていた。
他の友人達も、あんなドラゴンを見たのは初めてのことらしい。
お母さんならもしかしたらあのドラゴンについても何か知っているのかもしれないが、しばらくは森に遊びに来るのは止めた方がいいだろう。

ガラ・・・
「ただいま・・・」
昨日とは打って変わって何処か元気のないコリンの声が聞こえると、私はそっと寝床から顔を上げた。
急いで走ってきた様子も汗をかいている様子も見受けられなかったものの、そのあどけない少年の顔には私の目から見ても確かに不安の色が浮かんでいる。
「随分と帰りが遅かったようだが、どうかしたのか?」
「うん・・・あのね・・・僕、森の中でドラゴンを見たんだ」
「何?」
だが全く予想だにしていなかったそんなコリンの一言に、私は思わず大きく目を見開いていた。

「ドラゴンを見ただと?どんな奴だ?」
「翼が無くて真っ黒で・・・凄く大きかったよ。多分お母さんよりも・・・それに、目が両方とも潰れてたんだ」
やはり、あ奴のことか・・・
盲目の黒竜と言えば、もう思い付くことは1つしかない。
7年前にコリンの村を焼き尽くし、この町にもやってきたところを私とあの首領の男とで追い払った悪しき竜。
まさかあ奴が両目の光を失ったまま近くの森の中で今まで生きていたとは思わなかっただけに、態度にこそ出さなかったものの私の内心の衝撃は相当なものがあった。
「そ、そ奴は・・・一体何処にいたのだ?」
「昨日、森で変な声が聞こえたって言ったでしょ?今日もそれが聞こえて、皆で声の正体を確かめにいったんだ」
「それで・・・?」
本来ならば危険なことはするなという私の言い付けを破ったコリンを叱るべきなのだろうが、内容が内容なだけに今回ばかりは横槍を入れずに彼の話を促してやる。
「そしたら突然大きな洞窟が見えてきて・・・こっそり中を覗いてみたんだよ」
「そこで、奴が眠っていたのだな?」
「う、うん・・・他の友達も初めて見たらしいんだけど、お母さんはあのドラゴンのことを知ってるの?」

それを聞いて、私はコリンに本当のことを話すべきかどうか迷っていた。
あの出来事が起こったのはコリンが産まれて間もない頃のことだ。
彼と同年代の子供達がそのドラゴンについて何も知らないのは当然のことだろう。
彼らの両親も決して何か意図があって隠し立てしているわけではないのだろうが、徒に子供達の不安を煽るようなことは敢えて言わないようにしているのに違いない。
「ああ・・・よく知っている。だが、あ奴は私と違って人間を憎んでいるのだ。決して近付いてはならぬぞ」
「わかってる。何だか、凄く怖かったもの。あの寝息を聞いてるだけで、体中鳥肌が立っちゃってさ・・・」
それはそうだろう。
産まれたばかりではっきりとした記憶にはもちろん残っていないだろうが、コリンは産まれて間もない頃からあの身の毛のよだつようなドラゴンの怒りの咆哮を何度か聞いているのだ。
頭では覚えていなくても、その小さな体には当時の恐怖が深々と刻み込まれているのではないだろうか。
まあ目が見えぬ以上向こうからこの町を襲ってくることはまずないだろうから、コリンがもうあのドラゴンに近付きさえしなければ特に大きな問題はない。
「それはそうとさ・・・友達に言われて気が付いたんだけど、どうして僕のお母さんはドラゴンなの?」
だが心の中で一段落ついた途端に今度は別の難題を持ち掛けられて、私はまたも大きく目を見開くことになった。

「そ、それは・・・」
そして傍目にも明らかな動揺を示した私の様子に気を遣ったのか、コリンが慌てて言葉を付け加える。
「もちろん僕は、お母さんのことは大好きだよ。でも、僕にもちゃんと人間の両親がいたんでしょ?教えてよ!」
何ということだ・・・あの首領の男に忠告されてからこの時のために心の準備は十分に整えていたはずなのだが、いざ面と向かって本当の両親について聞かれると何から話していいものかついつい迷ってしまう。
「本当に・・・知りたいのか?」
「うん。僕は知らない方がいいのかも知れないし、お母さんが言いたがらないのも何となくわかる。でも・・・」
「わかっている。どうしても知りたいのだろう?」
だがそんな私の返事にコリンが大きく頷いた途端に、ガラッという音がして納屋の扉が開けられていた。

「コリン、今日は遅かったな。とっくに飯はできてるから、早く食べにきな」
「あ、うん・・・でも・・・」
折角知りたかった自分の過去を聞けると意気込んだ矢先に出鼻を挫かれて、コリンの顔に何とも弱り切ったような情けない表情が浮かんでいく。
「言う通りにするのだ。その話は、また明日にするとしよう。お前を連れて行きたい所もあるからな」
「本当だね?約束だよ?」
「ああ・・・まずは、早く夕食を食べてくるといい。焦らずに、よく噛んで食べるのだぞ」
話をはぐらかすように少しおどけた調子で私がそう言うと、子供扱いされたコリンが”もうっ!”とでも言いたげに頬を大きく膨らませる。
そんな可愛い息子の顔が男とともに外へ消えて行ったのを見届けると、私はふうっと大きく溜息をついていた。

パシッパシッ・・・
「起きて、お母さん・・・早く起きてよ」
おぼろげな意識の中に突如として感じた、小さな手で背中を叩かれる感触。
まだ眠気も十分に抜け切っていないことから察するに、日の出からもそう時間は経っていないだろう。
「う・・・ん・・・どう・・・したのだ・・・?」
だがゴシゴシと目を擦りながら体を起こすと、もうすっかりと目を覚ましたコリンがその顔に何処か期待に満ちた表情を浮かべながら私をみつめていた。
「両親の話、教えてくれるんでしょ?僕、何だか眠れなくてさ・・・朝になるのをずっと待ってたんだよ」
成る程・・・昨夜食事から戻ってきても何も言わずに黙って床に就いたのは、きっとこう言えば私が断れないと思ったからなのだろう。
「ああ・・・わかったわかった・・・竜に育てられているとは言え、お前もやはり人の子なのだな」
やがてそう呟きながら未練がましい眠気を吹き飛ばすようにブルンブルンと首を振って目を覚ますと、私は既に出かける準備も万端といった様子のコリンを伴って冷え込む納屋の外へと出て行った。

「まずは乗るのだ。お前の母親のことを話す前に、知っておいてもらいたいことがある」
「う、うん」
僕はそう言われると、地面の上に身を伏せたお母さんの背中へそっと攀じ登っていた。
数年前まではお母さんの手に抱かれて空を飛んでいた僕も、今ではこうして背の上から眼下の絶景を見下ろすことができる。
お母さんは頼まれれば他の人々もその背に乗せて空を飛ぶことがあるのだが、やはり物心付いたときからお母さんに抱かれていた僕以外の人は生身で空を飛ぶのが怖いらしい。
そのお陰で、今やこの遊覧飛行の特等席はこの町でも僕にだけ許された特別な場所だった。
そして僕がしっかりとその首に腕を回したことを確かめると、お母さんが大きく地面を蹴ってまだ白さの残る早朝の空へと飛び上っていく。

バサッ・・・バサッ・・・
「それで・・・何処に行くつもりなの?」
緩やかに揺れるドラゴンの背の上から眼下の森を見下ろし続けること数十分、僕は一向に明かされる様子の無い目的地についてついに我慢できなくなってそんな疑問を漏らしていた。
それを聞いて、お母さんがようやく僕に見えるように前方の1点を静かに指差してくれる。
「あそこだ」
その橙色の鱗に覆われた大きな指先をじっと辿るように目で追っていくと、何処までも続くかに見える森の真ん中にポツンと小さな広場のようなものが見えてきた。
「何なの?あそこ・・・」
「お前の、故郷の村だ」
僕の故郷・・・?じゃあ僕は今住んでいる町じゃなくて、あの村で産まれたということなのだろうか?
だがそんな事を考えている内に、お母さんは何時の間にか辿り着いた村の真ん中にそっと降り立っていた。

「ここって本当に・・・村・・・なの・・・?」
地面に降りたコリンが口にした疑問は、至極真っ当なものだと言わざるを得ないだろう。
閑散とした辺りに見えるのは、灰と化した家屋の残骸やすっかり風化して崩れ落ちた農耕具の類ばかり。
7年の歳月によって荒廃の進んだ"かつて村だった場所"の様子に、ついさっきまで元気一杯だったはずのコリンもじっとその場に立ち尽くしている。
そしてそんなコリンを後押しするようにして、私はあの場所へと1歩1歩踏み締めながら歩を進めていった。
「ここだ・・・」
やがて辿り着いた1つの倒壊した建物の残骸・・・その瓦礫の山の中に、長年の風雨に曝されてもうボロボロになった1人の人間の白骨が静かに横たわっている。
更にその骸の傍らには私がコリンの入った籠を掘り出した小さな空洞が空いていて、今はそこに白い砂埃のようなものが堆く降り積もっていた。

「これが・・・お前の母親だ」
「こ、この人が・・・僕の・・・?」
目の前に横たわるこの白骨が、僕の本当の産みの親・・・
それを聞いて、僕は地面にしゃがみ込むとその今にも崩れてしまいそうな脆い骨にそっと手を伸ばしていた。
7年間雨曝しだったせいなのか、暖かい笑みさえ浮かべているように見えるその母の顔の骨が触った傍からボロボロと細かい粉のようになって吹き溜まっていた砂埃の中へと舞い落ちていく。
「どうしてこんなことに・・・この村で、一体何があったの・・・?」
「この村はお前が産まれて間もなく、ある1匹のドラゴンによって焼き滅ぼされたのだ」
「え・・・?」
ドラゴンがこの村を・・・僕の両親を・・・殺した・・・?
もちろんそれがお母さんでないことは十分に理解していたものの、思わず反射的にお母さんへと向けた僕の視線には微かに怒りの感情のようなものが混じっていたことだろう。

「恐らくは、生贄の提供を断ったがためにそ奴の怒りを買ったのだろう」
自分の両親を殺したのが私と同じドラゴンだったという事実を知って、コリンは竜族のそれにも引けを取らぬ程に鋭い刺すような視線を私に向けていた。
だが流石にそんなコリンとは目を合わせられず、地面に視線を落としたまま彼の母親を指差して先を続ける。
「そして村が滅んだその翌日の朝・・・私がそこで籠に入ったお前を見つけたのだ」
「じゃあ・・・」
「産まれたばかりの赤子がこんな廃墟に取り残されては、到底生き延びることなどできるはずもない」
それから私が一体どうしたのかについては、コリンは言わなくても理解しているらしかった。
先程まで黒々とした炎を宿し掛けていた彼の瞳に、幼い子供本来の明るい輝きが戻ってきたからだ。
この際、コリンを見つけた時に彼にとどめを刺してしまおうと考えてしまったことは黙っていた方がいいだろう。

「でも、一体誰がこんな酷いことを・・・それに、何でこの村が生贄を断ったから滅ぼされたってわかるの?」
「そ奴はこの村を滅ぼした後、今度は私達の町へも姿を現した。そして、同じように生贄を要求したのだ」
僕が今住んでいるあの町にも、ドラゴンがやってきて生贄を要求した・・・?
あの小さな町でそんな事件があれば大抵の人は知っているはずだが、僕は今までそんな話は聞いたことが無い。
それとも、大人達は皆そのことを自分の子供に敢えて伏せているのだろうか?
「それで・・・そのドラゴンはそれからどうなったの?」
「私とあの首領の男でそ奴の目を潰し、何とか町から追い払うことには成功した。その後の行方は、誰も知らぬ」
だがそう言ったお母さんの目は、僕に何かを気付いて欲しいと訴えているように見えた。
自分の口からは言いたくない、しかし僕には知ってもらいたい何かが、今の話の中に隠されている。
そしてそれに思い当たった途端に、僕は思わず怒りで声を震わせてしまっていた。
「あ、あの森で見た黒いドラゴンが・・・僕の両親を・・・」
「・・・そうだ・・・この私も、あ奴がまだ生きているとは思わなかったがな・・・」

知らぬ間に両親の仇との邂逅を果たしていたことに気が付いて、コリンはその顔に今まで見たことが無い程の悔しげな表情を浮かべていた。
きっと心の中で、燃え上がる激しい怒りを必死に鎮めようと闘っているのだろう。
だがしばらくの葛藤の後でようやく収まりがついたのか、顔を上げたコリンの表情は元の可愛らしい少年の笑みを湛えていた。
「わかったよ・・・ありがとう・・・僕を育ててくれて」
「では、そろそろ町へ帰るとしよう・・・もうじき昼時だ、腹も空く頃だろう」
「うん!」
私の背に跨ったコリンの口から発せられる、甲高くも元気の良い返事。
どうやら彼に両親のことを伝えるという難儀な仕事は、これで無事に済んだらしい。
そして彼の小さな腕が私の首筋にしっかりと絡ませられたことを確認すると、私は天頂から照らす真昼の太陽へと向かって勢いよく大地を蹴っていた。

この世に生を受けて間もなく両親を失ったというのに、コリン程幸せそうに暮らしている子供は多くないだろう。
町へ向かって翼を羽ばたく私の背の上でスリスリと赤い髪の流れに頬を擦り付けている可愛い息子の様子に、私は彼の辿ってきた数奇な生涯の一端を担う一翼となれたことに対して不思議な感謝を覚えていた。
厳しい野生に生きる動物達とは違い、人間は産まれてから生物として成熟するまでの期間が長い。
そんな人間の微笑ましい成長の様子を間近で見れるというのも、正に役得と言ったところだろう。
やがて真昼の活気に溢れる町へと帰り着くと、コリンはそのまま首領の男の家へと食事に出掛けていった。
朝早くから叩き起こされたせいなのか、私も納屋の藁敷が妙に恋しい。
今日のところはコリンもこのまま何処かへ遊びに行くだろうから、中断されてしまった安眠はこれからゆっくりと取り戻すことにしよう。

ガララッ
だがそれから数時間程経った頃、私は納屋の扉を開ける大きな音で再び夢の世界から現実へと引き戻されていた。
そして大きく開いた扉の所に立っていた首領の男の姿を目にして、何とはなしに奇妙な違和感を覚えてしまう。
「どうかしたのか・・・?」
「コリンはまだ帰ってきていないのか?」
「あ、ああ・・・お前の所へ食事に出た後、ここへは戻って来ていないぞ」
それを聞いて、私は彼の表情が明らかに曇ったのを見逃さなかった。
「昼食後ちょっと目を離した隙にコリンがいなくなっちまったんだが、誰に聞いても姿を見ていないらしいんだ」
「食事は全部食べたのか?」
「ああ・・・すっかり食べ終わってから、しばらく俺と話をしていたところだ」
食事の途中でいなくなったというのならともかく、全部平らげたというのなら別に問題という程でもないだろう。

「それなら、独りで何処かへ遊びに行ったのではないのか?一体何をそんなに慌てているのだ?」
「テーブルに立て掛けてあった俺の斧が、何時の間にか無くなっちまってたんだ」
「何・・・?」
そうか・・・寝起きだったとは言え彼の姿を最初に見た時に奇妙な違和感を感じたのは、彼が何時も手にしているはずのあの小振りの斧を持っていなかったからだ。
ほとんど斧を持っている姿しか見たことがなかったせいで、それも彼の一部だと認識していたが故の感覚だろう。
「まさかコリンがあの斧を持ち出したとも思えないんだが・・・あんた、何か心当たりはないのか?」
コリンが彼の斧を持ち出しただと・・・?まさか・・・いや、そんなはずはない。
コリン自身、あ奴には恐怖を覚えたからもう近付かぬと言っていたではないか。
だがもし私の想像が当たっているとすれば、このままでは取り返しのつかぬことになる。
そしてそんな最悪の結末が頭を過ぎった瞬間、私はそれまで蹲っていた寝床から弾かれたように飛び起きていた。

「森だ!私はあの子を探しに行く!お前も、出来るだけ大勢の人間を集めてくれ。コリンの遊び友達もだ」
「ど、どうしたんだいきなり?」
「今は説明している時間はない。一刻も早くコリンを見つけないと、あの子の命が危ないのだ」
全身から滲み出す私の焦燥を読み取ったのか、その言葉を受けて首領の男がすぐに行動を起こす。
流石に町を1つ束ねているだけあって、こういった緊急時の行動力があるのはありがたい。
「わ、わかった。森だな?何だかよくわからんが、人を集めて俺もすぐにいく」
やがて彼が慌てた様子で飛び出して行くと、私も胸を締め付けられるような思いとともに納屋を後にしていた。
私の思い違いであってくれればいいのだが・・・

ガサ・・・ガサガサ・・・
欝蒼と生い茂る厚い茂みを掻き分けながら、僕は穏やかな日の光に照らされた森の中をゆっくりと進んでいた。
そんな僕の両手には今、昼食の際におじさんの目を盗んでこっそりと持ってきた斧が握られている。
もしかしたらこの斧も大人にとっては片手で扱えるような比較的小さいものなのかも知れないが、ずっしりとした重量があるせいで少なくとも僕にとっては両手でやっと満足に振り回せる程度の武器だった。
小さい割に重い理由は、投擲した時に刃の部分を中心とした2重円を描かないよう持ち手となる柄の先端に重心のバランスを取るための金属の錘が仕込まれているせいだろう。
だがこれから相手をすることになるあいつに対しては、むしろその方が好都合というものだ。
あの無残に蹂躙され尽くした村の様子と痛々しい実の母親の最期を見せられてなお怒りを堪えられる程、僕はまだ大人にはなり切れそうもない。
そしてしばらく独りで森の中を彷徨った末にようやく目的の洞窟を探し当てると、僕は例の寝息が聞こえてくるまでじっと傍にある大きな木の陰に潜んで息を殺していた。

ドオン・・・ドオン・・・
やがて森の上空にあった太陽が夕焼けの朱色を伴って西に傾き掛けた頃、微かな震動とともに何処からともなく大きな足音のようなものが聞こえてきた。
森で遊んでいる時は夢中になっていた上に木の葉の擦れる音や風の音に紛れて足音には気が付かなかったが、あのドラゴンは毎日今頃の時間に洞窟へと帰ってきて眠りに就くのだろう。
そして大木の陰からそっと顔だけを出して洞窟の様子を窺っていると、巨大な黒鱗を纏ったドラゴンがゆっくりと僕の前にその姿を現していた。
だがやはりドラゴンの両目は完全に潰れていて光を失っているらしく、広い洞内へ入る時ですら入口の形を手で探るようにして慎重に首先から闇の中へと入っていくのが目に入る。
あれが、あのドラゴンが、僕の実の母親を殺したのだ。
流石にお母さんも僕の父親がどうなったのかについては何も知らなかったものの、完膚無きまでに破壊し尽くされたあの村の様子から察するに恐らくもう生きてはいないことだろう。
いやもしかしたら、僕が助かったのも母の遺骸が残っていたのも全てはその父のお陰だったかも知れないのだ。

あいつさえ・・・あいつさえいなければ・・・
僕は決して今の生活に不満を抱えているわけではなかったし、ドラゴンのお母さんも時間が許す限り一緒にいたいと思える程に大好きだ。
だがそれでも、真実を知ってしまった今となってはあの黒いドラゴンを許すことなど僕にはできそうにない。
たとえどれ程育ての親であるお母さんを慕っていたとしても、それが実の両親を蔑ろにする理由にはならないことくらい僕にも十分に理解できた。
そしてドラゴンが洞窟に入ってから数分後、あのグオオオォッという大気を震わせるようなドラゴンの寝息が平穏な静寂を保っていた夕暮れの森の中へと響き渡り始める。
いよいよ、無残に殺されてしまった両親の仇を討つ時がやってきたのだ。
そんな覚悟にも似た強い思いに、斧を持つ両手にも自然と力が入ってしまう。

だが幾ら復讐に気が逸ったとしても、焦りだけは禁物だろう。
前に友達とあの洞窟へ忍び込んだ時のように、足音を殺し、息を殺し、ドラゴンの鼻先まで静かに近付くのだ。
後はこの斧を、ドラゴンの頭目掛けて思い切り振り下ろしてやるだけでいい。
たったそれだけで、僕の復讐は終わる。
その後でお母さんやおじさんにこっ酷く叱られることになるかも知れないが、それも今は些細な問題でしかない。
そしてドラゴンが普段と変わらず深い眠りに落ちていることを慎重に確かめると、僕はそっと足元を確認しながら薄暗い洞窟の中へと足を踏み入れていった。
西の彼方に沈み掛けた太陽の赤い斜光が、洞窟のかなり奥までをやんわりと照らしてくれている。
その奥の方で向こうを向いたまま蹲っているドラゴンの姿を目にして、僕は胸の内に例えようも無い怒りが込み上げてくる実感があった。

「グオオオオォ・・・グオオオォッ・・・」
外の森にまで聞こえる程の大きなドラゴンの寝息が、閉鎖された洞窟の中で激しく反響を繰り返している。
その大音響にも似た騒音のお陰で、僕の気配はほとんど消えてしまっていることだろう。
洞内にはゴツゴツした岩や壁が無数の凸凹とした内壁を形作っているものの、ドラゴンの寝ている部分はさながらある種の寝室のようにぽっかりと広く平坦な空間になっていた。
そして高鳴る胸を押さえながらようやく眠っているドラゴンの前に立つと、両手で持った重い粛清の斧をゆっくりと頭上に振り上げる。
よくも僕の村を、僕の両親を・・・これでも食らえ!
やがて心を落ち着けるように数回大きく深呼吸すると、僕は持ち上げた斧をドラゴンの頭に向かって全力で振り下ろしていた。

ズガッ!
次の瞬間、重々しい音とともにビリビリと痺れるような凄まじい衝撃が両手に伝わってくる。
渾身の力を込めて振り下ろした斧は眠っていたドラゴンの頭を見事に捉え・・・驚くべきことにきつく握っていた木の柄の部分から粉々に砕け散っていた。
「グウ・・・何だ・・・?」
そしてあれだけの一撃を受けたというのに、ドラゴンが何事もなかったかのようにむくりと顔を上げる。
そんな・・・あんなに思い切り斧を叩き付けたのに・・・ビクともしないなんて・・・
「あ・・・あぁ・・・」
「何処の誰かは知らぬが、我にこのような真似をして生きて帰れると思っているのではなかろうな!」
「う、うわああああっ!」
だがその猛り狂ったドラゴンの声が聞こえると同時に、僕は恐怖に駆られた悲鳴を上げながら入り組んだ岩壁の陰に飛び込んでいた。

次の瞬間、ゴオオッという激しい轟音とともに真っ暗だった洞窟内がまるで昼間のように明るく照らし出される。
ドラゴンの吐き出した紅蓮の炎が周囲の空気を焼き尽くし、僕の隠れた岩の反対側が真っ赤に焼け焦げていった。
「ひっ・・・ひっ・・・」
まさかあのドラゴンが炎を吐くなどとは夢にも思っておらず、早鐘のように打ち始めた心臓の鼓動を押さえながら荒くなってしまった息を整えようと大きく肩を上下させる。
どうしよう・・・唯一の武器だった斧はもうないし、おまけに外はじきに日が暮れようとしている。
それに洞窟の入口と反対側を向いていたドラゴンに斧を振り下ろしたために、僕はますます洞窟の奥の方へと逃げ込まざるを得なかったのだ。
眠っていた時ならともかく、たとえ両目が見えないとはいっても頭を殴り付けられて怒っているあのドラゴンがすんなりとこの僕を外まで素通りさせてくれるとは到底思えない。
このままでは日も暮れて洞窟の中は完全な真っ暗闇になってしまうだろうし、行き先を告げていなかったせいでお母さんやおじさんが助けにきてくれることもないだろう。
そして万が一あいつに捕まったら、両親に続いて今度は僕が・・・

ふと脳裏に浮かんだそんな最悪の結末を、僕はブンブンと頭を振って追い払っていた。
とにかく、相手も目が見えないのは一緒なのだ。
それに体の小さい僕にとって、この入り組んだ自然の洞窟の中には隠れるところがたくさんある。
何とか明日の朝までドラゴンに捕まらずにいられれば、もしかしたら外に逃げ出すチャンスがあるかも知れない。
「おのれ・・・何処へ行った小僧!」
ゴオオオッ
先程上げてしまった悲鳴で僕が人間の子供だということを悟ったのか、ドラゴンが怒りを孕んだ声でそう叫びながら再び激しい炎を撒き散らす。
その火の粉が岩陰から顔を出していた僕の髪を掠り、チリチリとした熱さが頬に感じられていた。
「う、うわっ・・・」
本当に、こんなことで朝まで逃げ続けることができるのだろうか・・・?
あのドラゴンがこの洞窟内の構造をどの程度把握しているのかはわからないが、人間の隠れられそうな場所を虱潰しに焼き払われたらその内に逃げ場が無くなってしまうことは目に見えている。
そしてそんな僕の予想を裏付けるかのように、またしてもドラゴンが真っ赤な炎を噴き上げていた。

ボオオオッ!ゴオオオオッ!
「わわわっ・・・」
僕を外へ逃がさないようにか洞窟の入口をその巨体で塞ぎながら、ドラゴンが高熱の猛火を手当たり次第に辺りの岩壁へと吐き掛けている。
僕の肉の焦げる匂いがドラゴンの鼻に届くまで、この無差別な攻撃は終わらないだろう。
一見すると1度炎に曝された場所はしばらく安全のようにも思えるのだが、何しろ相手は目が見えぬまま適当に周囲を焼き払っているのだ。
何時その矛先が僕の隠れ場所を捉えるかわからないことを考えると、寧ろ炎が届いた場所は全て危険地帯だと考える方が妥当だろう。
だがそうすると、今度は何処に隠れるのが最も安全なのかがわからなくなってしまう。
そこここに吐き出されるドラゴンの炎から逃げ惑う内に、やがて何処か身動きの取れない場所へと追い詰められてしまうのではないかという不安が常に僕の胸を締め付け続けていた。

コリン・・・何故私に何も言わずに、そんな危険を冒そうというのだ・・・?
既に真っ暗になった森の中を走りながら、私はかつて感じたことがない程の激しい焦燥に駆られていた。
確かに、自分の両親を殺めたドラゴンが近くにいることを知ってどうしてもあ奴が許せなかったという気持ちは理解できなくはない。
だが仮にあの子がドラゴンに対して復讐を望んだのだとしても、これまで私に断りもなくこんな行動を起こしたことはただの1度としてなかったのだ。
なのによりによって私の爪すら全く歯の立たなかったあのドラゴンにたった1人で戦いを挑むなど、無謀にも程があるというものだろう。
物心付いた時からドラゴンである私とともに暮らしていたせいで、あの子にはドラゴンという生物の持つ恐ろしさが分からなかったのかも知れない。
それ故にもしあの子に何かあったとしたら、それは全て私の責任なのだ。
「コリン・・・!」
そして普段は滅多に呼び掛けることのない我が子の名を呟きながら、私はなおも深い闇に覆われた木々の間を潜り抜けていった。

走り続けるうちにドラゴンの棲んでいそうな洞窟を見つけては恐る恐る中を覗き込んでみるものの、誰もいないことに安堵と不安を交互に味わいながら時間だけが無情にも過ぎていく。
私はコリンが町で遊んでいる間にフラリと森に散策に出掛けることが何度かあったし、それ故に子供達が何時も比較的樹木の少ない町の西側の森で遊んでいることを知っていた。
あの首領の男もそれは知っているはずだから、何も言わずともきっと私の後を追いかけて来てくれることだろう。
だが流石にそれだけの情報では闇に沈んだ広大な森の中から目的の洞窟を探し出すのは難しく、今にもコリンの悲痛な叫び声が聞こえてきはしないかという不安が徐々に膨らんでいった。

ゴオオオオッ!
「う、うわああっ!」
次第次第に逃げ場を失っていく獲物をじわじわと追い詰めるように、ドラゴンがなおも激しい業火を辺りに吐きながらゆっくりと僕の方へ向かって躙り寄ってくる。
最早炎から逃げ惑う僕がこの洞窟から出ていくことはできないだろうと確信したのか、明らかに自らの手で僕を捕らえようという意思がその黒鱗に覆われた巨体からヒシヒシと感じ取ることができた。
あの巨大な手に捕まったら最後、どんな恐ろしい目に遭わされるのか想像するのも憚られる。
とは言え漆黒の暗闇に包まれた洞窟の中ではドラゴンの吐く炎だけが唯一の光源なだけに、多少の危険を伴ったとしても岩陰から顔を出さなければ僕は満足に逃げることすらできなくなってしまうのだ。
だがドラゴンが辺りの岩陰を焼き払う度に、僕とドラゴンとの距離は確実に縮まりつつあった。
助けて・・・お母さん・・・おじさん・・・

少しずつだが紛れもなく死へと向かって追いやられているという実感が、まだ7歳にも満たぬ小さな少年の心をジリジリと恐怖の炎で炙り続けていた。
ドラゴンの方も散々に辺りを焼き尽くしたお陰で生意気な人間の子供が何処に隠れているのか大体の見当は付いたらしく、無力な獲物に肉薄する足取りも先程までより大分速くなっている。
そして盲目のドラゴンがヌッと突き出したその巨腕に、いよいよブルブルと震えている少年の足が触れてしまっていた。

ガシッ!
「わっ・・・わああああっ!」
あまりの恐ろしさにもう1歩も動けぬまま岩陰で震えていた僕の足首を、突然何かが凄まじい力で握り締める。
その正体がドラゴンの手だと悟った瞬間に、僕はほとんど半狂乱になって悲鳴を上げていた。
そんな万策尽き果てた僕を、ドラゴンが片手で空中へと逆さまに吊り下げる。
そして何も見えてはいないであろうその潰れた眼で眼前の獲物を見据えるかのように、ドラゴンが巨大な顔をゆっくりと僕の前に近付けてきた。
「ククククク・・・ようやく捕まえたぞ・・・」
間近で改めて見ると、なんて巨大なドラゴンなのだろう・・・
「う・・・うぅ・・・くそっ・・・放せよっ・・・」
今にもその大きな口がパックリと開いて丸呑みにでもされるかも知れないという恐怖に、僕はまだ自由の利く両手と片足をバタバタと精一杯暴れさせていた。
もちろん今更そんなことをしても無駄な抵抗だということは心の何処かでわかっていたものの、僕はもうとにかく怖くて怖くて仕方がなかったのだ。

だがドラゴンはそんな僕の儚い抵抗にむしろ意地の悪そうな笑みを浮かべると、それまでじっと閉じていた口をゆっくりと上下に開いていた。
その凶悪な牙の森の向こうで、灼熱の炎が轟々と唸りを上げて燃え盛っているのが目に入ってくる。
「あ・・・ああ・・・や、やだ・・・いやぁ・・・」
この状態で炎を吐き掛けられたりしようものなら、僕なんて一瞬で黒焦げにされてしまうだろう。
「ククク・・・生きたまま丸焼きにされたくなければ、無駄な抵抗など諦めるのだな・・・」
「うぅ・・・ふぐっ・・・お、お母さぁん・・・」
そしてそんな到底逆らい難い脅迫に屈してダラリと全身の力を抜くと、僕はドラゴンに宙吊りにされたまま両目からポロポロと大粒の涙を零して泣き出していた。

「ククク・・・」
成す術もなく泣きじゃくる僕の声を聞いて愉しんでいるかのように、ドラゴンが不気味な含み笑いを漏らす。
さっきの口振りから察するにいきなり食い殺されたりするようなことはないのかも知れないが、仮にも僕はこのドラゴンに思い切りあの斧を振り下ろした人間なのだ。
それ自体はドラゴンにとって蚊に刺された程度の感触しかもたらさなかったとは言え、心地良く眠っていたところを邪魔されてドラゴンが見た目以上に激怒しているだろうことは容易に想像が付く。
それだけに、これから何をされるのかという先行きの見えぬ不安が僕の胸を締め付けていた。

「貴様が何を血迷って我の住み処に立ち入ったか知らぬが、我の眠りを妨げてくれた礼はしてやらぬとな・・・」
やがてそう言いながら、ドラゴンが僕を吊り下げていた手を突然パッと離してしまう。
ドサッ
「うっ・・・あっ・・・」
暗闇の中で何の予兆もなくいきなり落とされたせいで、僕はロクに受け身を取ることもできないまま背中からゴツゴツした硬い岩床の上に激しく打ち付けられていた。
それだけでも僕にとっては耐え難い程の痛みだったというのに、更に背後からドラゴンがゆっくりと何かを振り上げる気配が伝わってくる。
そして反射的に逃げようとドラゴンに背を向けた僕の上へ、黒鱗に覆われた巨大な足が振り下ろされていた。

ドシャンッ
「ぎゃんっ!」
次の瞬間、我の足に踏み付けられたまだ幼いらしい少年が息を吐き出すようにして苦しげな悲鳴を上げる。
一息に潰さぬように加減したとはいえ、これでもうこ奴は手足の1本たりとも動かすことはできぬことだろう。
数年振りに聞くであろうその無力な人間の苦悶の喘ぎが何とも耳に心地良く、我は更にその声を絞り出そうと足元の子供をグリグリと踏み躙っていた。
「ああっ・・・や、やめ・・・いたっ・・・ああああっ・・・!」
「クククク・・・なかなか良い声で鳴くではないか・・・」
だが必死に泣き叫びながらも何とか我の拘束から逃れようと小さくもがいている生意気な様子に、思わず少しだけ足を持ち上げて再びその小さな体を踏み拉いてやる。
ドスッ
「うぐっ・・・!」
そしてその一撃で完全に抵抗する気力が砕け散ったのか、少年がグッタリと地面の上に両腕を投げ出していた。

「はぁ・・・はぁ・・・あはぁ・・・」
お母さん・・・苦しいよ・・・助けてよぉ・・・
ドラゴンがほんの少し僕に体重を掛けるだけでメキメキという骨の軋むような音とともに肺が圧迫され、荒い呼吸の内に何とか吸い込むことができた微かな空気さえもが強制的に吐き出させられてしまう。
それでもまだ何処にも怪我らしい怪我をしないでいられるのは、僕が体の柔らかい子供だからなのだろう。
だがそれは同時に、ドラゴンがまだまだ僕を痛め付けるつもりなのだということを暗に示していた。
どうやっても敵わないようなこんな怪物にじわじわと嬲られるだけでももう耐えられないくらい恐ろしいのに、こいつはあろうことか僕の両親を殺した憎い仇なのだ。
そんな奴に・・・そんな奴に・・・ううっ・・・

やがて捌け口のない悔しさに歯を食い縛って悲鳴を堪えていると、再びドラゴンがそっと足を持ち上げた。
そしてまた踏み付けられるという予感に震えていた僕の上へ、今度は太い尻尾がゆっくりと振り下ろされる。
ズゥン!
「ぐはっ!」
決して思い切り叩き付けられたわけではないのだが、それ自体の馬鹿げた重量のせいか僕は背中へ尻尾を載せられただけでまたしても地面へときつく縫い付けられた。
やがて重い尻尾の下敷きにされて喘ぐ僕の顔を正面から覗き込むようにドラゴンが向き直り、しばらく何の声も発そうとしなかった大きな口をほんの少しだけ開いていく。
ゴオオ・・・ゴオオオッ・・・
「あ・・・ああっ・・・」
そのドラゴンの口内では、先程も見せ付けられたあの喉の奥で渦を巻く真っ赤な炎がいよいよ噴出の時を迎えて轟然と不穏な唸りを上げていた。

「うぅ・・・うぐ・・・ふぐ・・・」
もう自分ではどうしようもないという絶望感からか、さっき1度は止まったはずの涙が再び溢れ出してしまう。
だが眼前に広がったドラゴンの口内から突如としてゴオッという音とともに軽く炎が噴き出すと、僕は咄嗟に両腕で頭を抱えて地面に身を伏せていた。
「わぁっ!」
そして背に載せた尻尾で慎重に僕の位置と感触を探りながら、ドラゴンが僕の体を掠めるようにして幾度も短い火柱をその口から迸らせる。
ボッ・・・ゴオォッ・・・
「ひっ・・・や、やめ・・・うわああっ・・・」
そんな何時燃え盛る炎をこの身に浴びせられるかも知れないという恐怖に、僕はもう岩床へ突っ伏したままガタガタと震えていることしかできなかった。

だがしばらくしてそのまるで拷問のような火炙りの刑がようやくの終わりを迎えると、今度はドラゴンが涙と鼻水でクシャクシャになった僕の顔をベロリと思い切り舐め上げる。
「た、助けて・・・お願いだから・・・もう許してぇ・・・」
ドラゴンに顔を舐められたことでいよいよ食い殺されてしまうのではないかという冷たい予感が脳裏に過ぎり、僕は決してそれだけは口にすまいと決めていたはずの屈服の言葉を喉から漏れ出させてしまっていた。
心の底から憎んだはずの親の仇に命乞いをすること程悔しいことが、果たして他にあるのだろうか?
やがてすっかり心折れた獲物の様子に満足したのか、ドラゴンがまるで勝ち誇ったかのような笑い声を上げる。

「ククク・・・いいだろう・・・貴様も、そろそろ楽になりたいだろうからな・・・」
「え・・・?」
ほ、本当に・・・助けてくれるのだろうか・・・?
まだその言葉が持つ裏の意味を知らなかった僕は、もしかしたら見逃してもらえるかも知れないなどという冷静に考えれば決して有り得ない淡い希望に思わず素直に身を委ねてしまっていた。
だがそんな期待とは裏腹に、ドラゴンがそっと尻尾を退けながら僕の体を片手で掴み上げる。
そして巨竜の手に鷲掴みにされた僕の眼下で、ドラゴンが天を仰いだまま大きくその口を開いていた。
「えっ・・・えっ・・・ど、どうして・・・?」
「精々力の限り足掻くがいい・・・活きが良ければ、もう少しだけ長生きさせてやるぞ・・・クククク・・・」
「そ、そんな・・・さっき許してくれるって・・・う、うわああああーーーー!」

しんと静まり返った森の中に響き渡った、甲高い子供の悲鳴。
その胸を引き裂かれるような不穏な残響が不意に耳に届いて、私はハッと顔を上げていた。
「コリン・・・?」
私はコリンを拾ってからのこの7年間、あの子の成長とともに毎日彼の声を耳にしてきたのだ。
よもやその私が、コリンの助けを求める声を聞き間違えることなどあろうはずがない。
そして声の聞こえた方角へと素早く身を翻して駆けていくと、欝蒼と茂った木々に隠れるようにしてこれまで見た中で1番大きな洞窟が思ったよりもすぐにその姿を現していた。
間違いない・・・ここだ・・・!
やがてそんな確信めいた思いを胸に一切の迷いもなく洞窟の中へと飛び込むと、真っ暗な闇の中にじっと夜目の利く竜眼を凝らしていく。
だが次の瞬間、そんな私の目の前で到底信じられないような光景が展開されていた。

洞窟の天井スレスレに高々と持ち上げられたコリンの下で、あの黒い雄竜が獲物を一呑みにしようと大きな口を開けている。
ガッシリと体を掴まれたコリンはしばらくの間その掌中から逃れようと空しい抵抗を続けていたものの、やがて私の見ている前で力尽きてしまったのかガックリと雄竜の手に凭れかかるように崩れ落ちていた。
恐らくは私に悲鳴が聞こえてから今まで、あの恐ろしい巨口に投げ込まれる恐怖を存分に味わわされたのだろう。
そしてもう声を上げる元気も失ってしまった幼い子供に愛想を尽かしたかのように、雄竜がフンと小さな鼻息を吐きながらコリンを持ち上げていた手をその凶悪な顎と牙の上でそっと離していた。

やがて支えを解かれた小さな少年の体が、巨竜の口内に向かって酷くゆっくりとした落下を始める。
コリン・・・!!
それを見た次の瞬間、私はまるで強靭な弩に弾かれた矢のように眼前の雄竜に向かって全力で突進していった。
ズガァッ!ドドオォン・・・!
その数瞬後、硬い竜の鱗同士がぶつかり合う大音響が洞窟の中に響き渡ると、激しい衝撃で辛うじて雄竜の口から零れることができたコリンがこちらへと転がり落ちてくる。
そしてそんな弱り切った愛しい息子の体をそっと優しげに抱き止めると、私はまだ彼に意識があることを確かめてから地面の上に降ろしてやっていた。
「お前は外へ出ているのだ。直に、町の者達が来るからな」
「う、うん・・・!」
まだ何が起こったのかよくわからないというような顔をしていたものの、私がそう言うとコリンが取り敢えず大きく頷いて洞窟の外へと駆け出していく。
そしてコリンが無事に洞窟の外へ逃げられたことを確かに見届けると、私は雄竜がゆっくりと体を起こす様子を油断無く睨み付けていた。

「おのれ・・・今度は一体何だというのだ・・・?」
愉しい食事の瞬間を何者かに邪魔されて、盲目のドラゴンが険しい表情で怒りの声を上げる。
そんな怒れる雄竜の剣呑な雰囲気に、私は心中の不安を気取られぬように静かに呼吸を整えていた。
たとえ両目が潰れているとは言え、まともに戦えば7年前のあの時のようにその強大な力で捻じ伏せられてしまうであろうことは目に見えている。
先程私が自分よりもずっと体の大きなこの雄竜を突き飛ばすことが出来たのは、単に無防備だった所を不意打ちしたからに他ならないのだ。
もちろんコリンを助け出した今このまま逃げるという選択肢も頭の中にないわけではなかったものの、散々に痛め付けられたであろう我が子の痛ましい姿を見せられてはそんな道を選ぶことなどできるはずもない。
やがて胸の内で困難な戦いに対する決死の覚悟を決めると、私は新たに出現した敵の居場所を探るように低く身構えた雄竜に向かって大声で開戦の啖呵を切っていた。

「よくも年端もいかぬ幼いあの子を酷い目に遭わせてくれたな!今日という今日こそは生かしてはおかぬぞ!」
「ヌゥ・・・その生意気な声は・・・あの時の小娘か!」
雄竜の方もかつての屈辱的な記憶が脳裏に蘇ったのか、不届きな邪魔者の正体を知って鼻息を荒げている。
そして長い首を仰け反らせながら大きく息を吸い込むと、雄竜がまるで洞窟内を全て焼き払うかのような激しい炎を吐き出していた。
ゴオオオオオッ!
その途端真っ赤な炎の嵐が、一面の燃える壁のようになって私に襲い掛かってくる。
ジュ・・・ジュウゥ・・・
「ぐ・・・うぅ・・・」
私の鱗にも強い耐火性が無いわけではないのだが、あんな猛火に包まれたら先に気管が焼けてしまうことだろう。
だが人間の子供と違って咄嗟に岩陰に隠れることなどできるはずもなく、私は自らの翼を体の前で交差しながらじっと身を焼かれる苦痛に耐え忍んでいた。

しかし多少苦しくとも、これに耐えることができればまだあ奴を打ち倒す希望は残っている。
それは潰れたあ奴の眼の傷を再び抉り、その内に潜んでいる脳を貫くこと。
以前あの雄竜の眼に傷を負わせた時は私も必死だったせいで深手には至らなかったものの、今回の私はコリンを手酷く痛め付けられたことで心の底からこの悪竜を憎んでいた。
あの子のボロボロに擦り切れた服や何度も泣き腫らした跡、それに所々に負っていた小さな擦り傷や火傷の跡が、7歳にも満たぬ少年には到底耐えられぬ程の拷問にも似た責め苦を受けたであろうことを如実に物語っている。
決して私の実の子供ではないとは言え、産まれて間もない時期から精一杯の愛情を傾けて育ててきたあの子が無残な嬲り者にされたという事実は普段温厚な私を激昂させるのに十分過ぎる程の理由だったと言えるだろう。
そしてようやく苦しかった紅蓮の炎が多少の収まりを見せると、私はすっかりと焼け焦げた翼膜を振り払って眼前の巨竜に躍り掛かっていった。

だが次の瞬間、見えないながらも私の接近を感じ取ったのか、雄竜が狭い洞窟の中だというのに構わず自慢の太い尾を思い切り薙ぎ払う。
その暴風のような尻尾に巻き込まれ、洞窟の内壁や歪な岩肌がガリガリという音とともに削り取られていった。
とは言え流石に私との正確な距離までは測り切れなかったらしく、ピタリと足を止めた私の目と鼻の先を砕け散った細かな岩の破片とともに尖った尻尾の先端がブオンという唸りを上げて通り過ぎていく。
そして身を捩った雄竜がこちらに向けて隙を晒したことに気が付いて、私は所々焼けてしまった翼を一気に羽ばたきながら一足飛びに雄竜までの間合いを詰めていた。
バサァッ・・・
「おのれ小娘が、ちょこまかと小賢しい!」
洞窟の中に響いた翼の音で今度こそ間違いなく私が手の届く距離にいることを確信したのか、そんな怒声とともにまるで刃のように鋭い爪が私の着地した場所を目掛けて一閃する。

ザクッ!
「グゥッ!」
一応硬い鱗に護られているとは言っても、これ程巨大な竜の爪撃をまともに受ければたとえ私とて大きな痛手を被ることは避けられないだろう。
しかしそれでも何とか片腕を犠牲にしてその強烈な一撃をやり過ごすと、私は眼前に突き出されていた雄竜の顔へこちらも負けじと爪を突き出してやった。
ガッ!
だが不運にもというべきか、起死回生となるはずのその爪先があろうことか雄竜の顎に受け止められてしまう。
バグ・・・メキ・・・ボキボキボギ・・
「う・・・ぐああぁっ!」
そしてしまったと思った瞬間に咥え込まれた右手を粉々に噛み砕かれると、私は凄まじい激痛に抗う術も無くまたしても強大な雄竜に地面の上へ押し倒されてしまった。

「クククク・・・未熟な小娘めが・・・目が見えずとも、捕らえてしまえば貴様に成す術などあるものか」
「くっ・・・は、放せっ・・・ぐぅ・・・!」
だがいくら必死に抵抗を試みたところで、これだけの巨躯に組み敷かれてしまってはどうすることもできない。
しかも幾本もの牙に刺し貫かれて無残に砕けた右手からは、絶え間ない痛みとともにボタボタと大量の血が流れ出し始めていた。
「貴様には光を奪われた恨みもあるからな・・・この溜飲は、ゆっくりと下げさせてもらうぞ・・・」
「こ、今度は何をするつもりなのだ・・・?」
やがて私がそう訊くと、底冷えのするような言葉とともに雄竜が音も無く自らの左手を持ち上げる。
「そうだな・・・まずは手始めに・・・こうだ!」
グシャァッ!
そしてその黒い意図を理解するのとほぼ同時に、雄竜が酷く傷付いた私の右手を思い切り叩き潰していた。

「がっ・・・うがあああっ・・・!」
体の一部が跡形もなく粉砕されるかのような、想像を絶する鋭い痛み。
その焼け付くような苦痛の波が、まるで電流のように全身をビリビリと駆け巡っていく。
「おお・・・何とも胸の空くような良い声ではないか・・・この時を一体どれ程待ち侘びたことか・・・」
この雄竜はただ残虐な性格だというだけでなく、獲物を痛め付けることに天才的だったと言ってもいいだろう。
捕らえた獲物をすぐには殺さずに、こうして恐怖と苦痛で心身ともに徹底的に弱らせてからとどめを刺すのだ。
尤もそのお陰でコリンを救い出すのが間に合ったのは寧ろ僥倖というべきなのかも知れないが、いざ自分がその獲物の立場に立たされたときの恐ろしさは到底筆舌に尽くし難いものがある。
しかも私がコリンを痛め付けられたことでこの雄竜を恨んでいるのと同じように、こ奴もまた目を潰された上に雄の象徴である肉棒に痛々しい傷を負わされたことで私を恨んでいるのだ。
だとすれば私はこれから、この7年もの長い間に際限なく膨れ上がったであろう激しい怨嗟に釣り合うだけの想像するのさえ躊躇われるような凄惨な報復を受けるのに違いない。
そのこの上もなく絶望的な自身の状況を思い知らされて、私は痛みに顔を顰めながらも思わずゴクリと息を呑んでしまっていた。

暗い森の中をヒュウッと吹き抜ける、冬の訪れが近いことを示す冷たい一陣の風。
僕はお母さんに言われた通り、洞窟の外で町の人達がやってくるのをじっと待ち続けていた。
だがそんな何時まで続くとも知れない静寂の中に、突然誰かの悲痛な叫び声が響き渡っていく。
「・・・うがあああっ・・・!」
「今の・・・お母さんの声・・・?」
日々の生活の中で何度も聞き慣れた、しかし1度も聞いたことの無いその母の悲鳴に、僕は思わず地面に座ったまま丸めた背中をビクンと震わせた。

まさか・・・お母さん・・・?
一体、この洞窟の中で何が起こっているというのだろう。
巨大なドラゴンの口に落とされてもう駄目だと思ったその時、何時の間にか僕を抱き止めてくれていたお母さん。
やっぱり僕を助けに来てくれたというその事実が何よりも嬉しくて、僕はお母さんの表情をロクに確かめもせず言われるがままに洞窟から出て来てしまったのだ。
お母さんなら、あんな恐ろしいドラゴンを相手にしても何の心配もない。
詳しい過去の経緯を知らない僕が子供心にそう信じ込んでしまったのは決しておかしは話ではないのだが、もしかしたらあの暗闇の中でお母さんの顔にはもっともっと暗い、不安げな表情が浮かんでいたのかも知れない。
とは言え流石に洞窟の中を覗き込む程の勇気は湧いて来ずに、僕は黙って町の人達の到着を待つことにした。

「ぎゃっ・・・があっ・・・ぐああああっ・・・!」
だがそう心に決めた次の瞬間、またしても背後にぽっかりと口を開けた巨洞の中からお母さんの物らしい断続的な苦悶の声が僕の背中を痛い程に叩いていく。
そしてついに我慢できなくなってその場から立ち上がると、僕は恐る恐る真っ暗な洞窟の奥に目を凝らしていた。
その闇の中に、重なり合う2つの大きなドラゴンの影が薄っすらと浮かび上がっていく。
微かに動いているのが見える翼の様子から察するに、下になっている方がお母さんなのに違いない。
ということは、お母さんはあろうことかあのドラゴンに捕まってしまったのだ。
「そ、そんな・・・」
僕にとってはそれだけでも信じられない程に衝撃的な光景だったというのに、更にドラゴンがゆっくりと片方の腕を振り上げていく。
その大きな手の先には、ここからでも見える程に長くて鋭そうな爪がさながら悪魔の持つ矛か何かのように禍々しく天を衝いていた。

ガッ!ガスッ!ドスッ!
「ぐあっ!う・・・あがっ・・・」
「ああ・・・お、お母さん・・・」
やがて僕の見ている前で容赦無く振り下ろされたドラゴンの爪が、地面の上へ組み敷かれたお母さんの顔を右へ左へと切り裂いていく。
暗闇に鱗と爪がぶつかる鈍い音が2度3度と響く度、お母さんが耳を塞ぎたくなるような苦しげな声を上げていた。
そしてもう僕から見ても虫の息といったお母さんの様子に満足げに顔を歪めたドラゴンが、胸の内に湧き上がる喜悦を隠そうともせずに血塗れになったお母さんの顔を舐め上げていく。
「どうやら、もう指先すら動かせぬようだな・・・だが、まだ甘美な鳴き声を上げる気力だけは残っておろう?」
「がふっ・・・ぐ・・・き、貴様・・・」
「その声すら枯れ果てた暁には消し炭など生温い・・・一握の灰も残らぬ程に、我が炎で焼き尽くしてくれるわ」

どうしよう・・・このままじゃ、お母さんが・・・
だが今度は僕の目の前でお母さんが殺されようとしているのに、僕はドラゴンの前に出ていくことすらできない無力な自分を心底呪っていた。
それにたとえその勇気があったとしても、命を懸けて僕を護ろうとしてくれているお母さん自身が決してそんなことを望んでいないであろうことは僕にだってわかる。
やがてどうしてよいかわからぬままにハラハラしながら彼らのやり取りを窺っていると、ドラゴンが再びお母さんを殴り付けようと腕を振り上げていた。

だめだ・・・もう見ていられない・・・!
もう逆らう力も残ってはいないだろうお母さんをなおも痛め付けようとするドラゴンの様子に、僕は岩陰から飛び出そうとして静かに足を前に踏み出していた。
コツッ・・・
だがその足先に不意に何か固いものが触れたことに気が付いて、足元を探るように視線を落としてみる。
「これは・・・石?さっきまで、こんなものなかったような気がしたけど・・・」
そこには、ドラゴンの尻尾で破壊された洞窟の壁や岩の破片が手頃な大きさの石となって無数に転がっていた。
そうだ・・・これを使えば、もしかしたらあのドラゴンの意識をお母さんから逸らすことができるかも知れない。
あいつに押さえ付けられている体が少しでも自由になれば、お母さんならきっと何とかしてくれるはずなのだ。
もちろんその思い付きには何の確証もなかったものの、僕はそこらに転がっていた無数の石飛礫を自分の足元に掻き集め始めていた。

バシッ!ガスッ!
「ぐっ・・・がぁっ・・・」
やがてそんな作業に夢中になっていた僕の耳に、先程の続きとでも言わんばかりに乾いた打撃音とお母さんの呻き声が交互に聞こえてくる。
待ってて、お母さん・・・もうすぐ、僕が何とかするから・・・
それからしばらくしてこんもりとした石ころの山をその場に築き上げると、僕はその中でも比較的大きな石を手に持って立ち上がっていた。
ガッ!
「グッ!な、何だ・・・?」
「こいつ!お母さんにそれ以上手を出すな!」
最初に投げた石がたまたまドラゴンの眼の古傷に当たったのか、斧の一撃にすらビクともしなかったはずのドラゴンがその投石に思った以上の反応を見せる。
そしてまだドラゴンが混乱している隙を突いて、僕は足元の石を次々とドラゴンに向かって投げ付けてやった。

ガツッ!ゴッ!ドスッ!
「ウグ・・・おのれ小僧めが・・・いい加減にせぬか!」
とは言え流石にそれ以上の目立った効果は見込めなかったらしく、先程までのニヤついた表情から一転して怒りを露わにしたドラゴンがお母さんの腹を片足で踏み付けたまま大きく体を起こす。
更には声で僕の居場所がバレてしまったのか、僕のいた岩の方へ向かって激しい炎が吐き出されていた。
ゴオオオオッ!
「う、うわああっ!」
「危ない!」
だが目前にまで燃え上がる真っ赤な炎の波が襲い掛かってきた次の瞬間、誰かがそう叫びながら僕の体を素早く地面の上へと伏せさせてくれる。
そしてようやくドラゴンの炎をやり過ごすと、僕は隣にいた人の正体を知って思わず驚きの声を上げていた。

「お、おじさん・・・」
「全く、無茶ばかりしやがって・・・俺達がどんなに必死にお前を探し回ったか、わかってるのか?」
やがてそのおじさんの声に合わせるように、何人もの人達が恐る恐るといった様子で洞窟の中に顔を出してくる。
「どうしてここがわかったの?」
「お前が俺の斧を持ったままいなくなったことを知って、彼女が珍しく随分と慌てていたからな・・・」
だがそこまで聞いたところで僕と一緒にここでドラゴンを見つけた数人の友人達の姿が目に入り、おじさんがどうやってこの洞窟を見つけたのか大体の状況が頭に入ってくる。
「子供達に奴の話を聞いてすぐにピンと来たよ。"コリンが1人でドラゴン退治に出掛けて行った!"ってな」
「それで、皆で僕を探しに来てくれたんだね」
「まあな・・・それはそうと、彼女は一体何をしているんだ?」
さっきは僕をドラゴンの炎から救ってくれたというのに、どうやらおじさんはまだお母さんがどうなっているのかを知らないらしい。
そしてその問いに答える代わりに、僕はそっと岩陰から顔を出すと依然としてドラゴンに踏み付けられたままのお母さんを指差しておじさんに訴えるような視線を投げ掛けていた。

不意に洞窟の奥へと向けられたコリンの指先を追うようにして視線を滑らせてみると、あの憎たらしい雄のドラゴンの足に踏み付けられた彼女の無残な姿が目に入ってくる。
「ああっ・・・なんてこった畜生・・・あの野郎に捕まっちまったのか?」
「うん・・・それで僕、石を投げることくらいしかできなくて・・・早く何とかしないと、お母さんが・・・」
確かに、このままでは遅かれ早かれ彼女は奴にとどめを刺されてしまうことだろう。
奴にとっての最大の敵は、同じドラゴンである彼女だけなのだ。
それに俺達は、数こそ多いものの洞窟の入口近くにいるお陰で逃げようと思えば何時でも逃げられる。
だからたとえ虫の息だろうと彼女の生きている間はあの盲目のドラゴンが俺達を追ってくることはないだろうが、これ以上無暗に奴を刺激したら一体どういう行動に出てくるのかについては正直想像もつかなかった。

「取り敢えず状況はわかった。だが、お前はもう外に出ていろ。お前の安全を守ることが、俺達の役目だからな」
「でも・・・どうするの?」
「俺達が、奴の気を引く。心配無いさ・・・彼女のことを心から信じているのは、何もお前だけじゃない」
それを聞いて、僕はもう1度だけお母さんに心配そうな視線を向けてから無言で小さく頷いていた。
そうだ・・・おじさんの言う通り、重要なのは僕達がどうするかじゃない。
炎を吐いて暴れるドラゴンに僕達が近付けない以上、お母さんが自力であの窮地を脱する以外に方法はないのだ。
だったら、僕は黙ってお母さんを信じるより他にないのだろう。
そして僕がそっと洞窟から出て行くと、それと入れ替わるように松明を持った大勢の町の人達がドラゴンの待つ暗闇の中へと入っていった。

粉々に噛み砕かれた挙げ句に無残に踏み潰された右手の痛みと出血で意識が朦朧とする中、私はすぐ近くに感じる大勢の人間達の気配に微かな安堵と新たな不安を覚えていた。
あの首領の男を初めとして町の人達が駆け付けてくれたことは素直にありがたいのだが、不覚にもこ奴に捕らえられてしまった今となっては私にもこの状況を打開する術が全く思い付かない。
しかしどうやら、彼らはそれでもまだ私に希望を持ってくれているらしかった。
長時間嬲られ続けた体がギシギシとまるで悲鳴のような軋みを上げ、雄竜が炎を吐こうと立ち上がったお陰で手足はほとんど自由になったというのに全くもって何もできずにいるこんな私にだぞ?
確かに、巨大な火竜と人間達との力の差にはそれ程までに絶望的な隔たりがあるのだろう。
だがいかに彼らがこの雄竜の意識を私から逸らしてくれたところで、逆転の糸口がまるで見えてこないのだ。
寧ろ、彼らを牽制するために吐き出されるであろうこ奴の炎で犠牲者が出やしないかの方を危惧してしまう。
そしてそんな私の胸中を知ってか知らずか、洞窟の入口近くの岩陰から顔を出した大勢の人々が手にした岩の破片を雄竜に向かって一斉に投げ付け始めていた。

ドッ!ドスッ!ゴッ!ガン!ガキッ!
同時に飛んでくる幾つもの歪な岩の塊が、雨あられと無防備な雄竜の頭上に降り注ぐ。
「ウヌゥ・・・鬱陶しい人間どもめ・・・」
もちろんあの雄竜の硬い鱗の前では石飛礫などぶつけられたところで私同様ほとんど何も感じないことだろうが、こ奴の意識の中から私の存在が薄れていっている実感は確かにあった。
後は、一体どうやってこの巨竜のもとから逃れるのかということなのだが・・・
コッ、コツン・・・カッ・・・コン、カシッ・・・
「・・・?」
とその時、私は地面に落ちる無数の石の音に時折奇妙な軽い音が混ざっていることに気が付いていた。
やがて足元から聞こえてきたその音の出所を探るようにそっと尾を動かしてみると、その先端に驚く程に滑らかな細長い感触が微かに触れる。

これはもしや・・・?
ふと脳裏に浮かんだそんなおぼろげな想像に、私は一縷の望みを懸けてみることにした。
やがて先程触れたその何かを尻尾で静かに引き寄せると、雄竜に気付かれぬようにそれを左手に受け渡す。
やはりか・・・どうやら、まだ私の運も完全に尽きたわけではないようだ。
だがもしこ奴を仕留める機会があるとすれば、恐らくそれはたったの1度、あの瞬間を狙うより他に無い。
万が一しくじれば、まず間違いなく私の命は消えることになるだろう。
いや・・・今更何を迷う必要がある。
ここまで来たら、後は覚悟の問題だけだろう。
そして何度も何度も自分にそう言い聞かせて何とか乱れ掛けた気持ちを落ち着けると、私はグッタリと力尽きた振りをして"その瞬間"が来るのをじっと待ち続けることにした。

何だ、今のは・・・?
ドラゴンの気を引こうと石を投げるのに夢中で危うく見落としそうだったものの、俺は彼女が地面の上から何かを拾い上げた仕草に辛うじて気が付いていた。
それに、ゆったりと全身の力を抜いた彼女の様子からさっきまでの諦観に彩られた暗い雰囲気が払拭されている。
もしかして彼女は、何かあのドラゴンへの反撃の糸口でも見つけ出したのだろうか?
そして石を投げる手を止めてそんなことを考えていると、俺は不意にこちらへと視線を向けた彼女と図らずも目が合っていた。
"もう大丈夫だ。後は私に任せろ"
そんな思念が言葉となって聞こえてきそうな力強い視線とともに、ある種の覚悟のようなものが彼女の顔に凛とした美しい表情となって浮かんでいる。
やがてそれを確かめるように小さく頷いて見せると、彼女も何処か安堵した様子でコクリと首を振っていた。

「全員、何時でも逃げられるようにしておけよ。奴が堪らず動いたら、すぐにここを離れるぞ」
「あ、ああ・・・でも、あの雌竜はあのままでいいのか?」
「彼女は心配無い。だから、もっと奴を怒らせるように徹底的に煽ってやるんだ」
俺が小声でそう言うと、それに呼応するように数人の男達が大きく頷く。
7年前のあの時も、彼女は奴に出来たほんの小さな隙から思わぬ反撃をしてのけたのだ。
それにこれはあくまでも俺の個人的な感想なのだが、あのドラゴンは獲物を残酷に弄ぶのは得意でも他者から侮蔑や嘲笑の類を浴びせられることにはあまり慣れていないらしい。
そういう相手から油断を誘うには、激しい感情に流されて安直な行動を取るように仕向けるのがベストだろう。
そして正に俺達の思惑通り、次々と投げ付けられる石の雨についにドラゴンが怒りの咆哮を上げていた。

「グヌヌ・・・もう許せぬぞ貴様ら・・・グオアアアアァーーー!」
次の瞬間、怒り狂ったドラゴンが邪魔な人間達を焼き払おうと大きく息を吸い上げる。
「隠れろ!」
だが炎の予兆を感じ取って咄嗟に放った号令にその場にいた全員が機敏に反応し、ドラゴンがこちらへ口を向ける頃には既に岩陰から身を晒している者は誰もいなかった。
ゴオオオオオッ!
そんな俺達の脇を、頭上を、目の前を、真っ赤な炎を纏った灼熱の熱風が駆け抜けていく。
何という熱さなのだろうか・・・
巨大な火竜の前では所詮生身の人間など敵ではないという事実を、俺は目も開けていられない程に強く顔を炙るその炎の熱からも十分過ぎる程に感じていた。
だからこそ、奴を倒すには同じドラゴンである彼女の力が必要不可欠なのだ。
そしてその彼女が、この俺にもう大丈夫だと言ってくれた。
だったら、俺に残された役目はここにいる町の人々を全員無事に自分の家へと帰してやることだろう。
やがてやたらと長く感じられた数秒間が過ぎ去ると、俺は獲物を仕留め損なったドラゴンの顔に更なる怒りの表情が貼り付いたのを確認して大声を上げていた。

「よし、逃げるぞ!」
「おう!」
やはり流石は町を1つ纏め上げているだけのことはあるというべきか、その首領の男の声が聞こえるとそれまですぐそばに感じられていたはずの大勢の人々の気配がまるで引き潮のように一斉に遠ざかっていく。
目の見えぬ雄竜も自分を侮辱した人間達にまんまと逃げられたことを感じ取ったのか、激しい悔しさを滲ませながらまだ高熱を保ったままの鼻息を大きく荒げていた。
「本来ならばもう少し貴様と遊んでやりたかったところだが、それももう終わりだ」
やがてそう言いながら大きな手で私の首を地面の上へときつく押さえ付けると、今度は足元の私に炎を浴びせ掛けようと雄竜が硬い甲殻に覆われた胸を再び大きく膨らませる。
「約束通り、貴様は跡形も残らぬように焼き尽くしてやる。その後で、あ奴らの町も同様に滅ぼしてくれるわ」
だがそんな雄竜の喉に蓄えられた激しい業火が私に向かって吐き出されようとしたその刹那、私は左手に隠し持っていた最後の希望を大きく開けられた雄竜の口目掛けて思い切り突き入れていた。

ズッ・・・ドシュッ!
「ガ・・・アッ・・・」
その数瞬後、私の左腕に雄竜を貫いた確かな手応えが伝わってくる。
雄竜が吐き出そうとしていた巨大な炎の塊はまるで吹き消された蝋燭のそれであるかのように儚く消え散り、開けた視界の先では予想外の私の一撃に驚愕の表情を浮かべた黒竜がこちらへと顔を向けていた。
先程私がそっと地面の上から拾い上げたそれ・・・
途中で折れたために先端が槍のように鋭く尖った堅い斧の柄が、夥しい量の鮮血を纏って開いたままの雄竜の口から飛び出している。
私は、まさかまたこの斧に命を救われることになるとは夢にも思っていなかった。
恐らくこの最後の望みを懸けた一刺しは、柔らかい雄竜の口内を通して脳にまで達しているに違いない。
その証拠に雄竜は私に向って炎を吐き掛けようとした姿勢のままピクリとも動かなかったものの、ややあってまるで止まっていた時間が再び動き出したかのように巨大な体がグラリと傾ぐ。
だがこんな奴の下敷きにされては敵わぬと最後の力を振り絞って何とか雄竜の腹下から転がり出ると、ついに長年人間達を苦しめ続けてきた稀代の悪竜が地に墜ちていた。

何時あの凶暴なドラゴンが出て来てもいいようにと木の陰へ身を潜めたまま洞窟の様子を窺っていると、しばらくして一瞬地震かと思うような地響きとともにドドオォォン・・・という大きな音が聞こえてくる。
「・・・お母さん・・・!」
その途端、僕は周りにいた他の人達とともに隠れていた木の陰から勢いよく飛び出していた。
「ま、待てコリン!危ないから、1人で入って行くんじゃない!」
「でも・・・でも僕・・・もう待てないよ!」
慌てて僕を制止しようとするおじさんの声も、もうほとんど耳に入らない。
お母さんは、あれからどうなったのだろうか?
ドラゴンからロクに声も上げられなくなる程に痛め付けられるお母さんの姿を見せられて、僕の胸はもう絶望的なまでの不安で一杯だったのだ。
そしてそんな苦しみに耐えながら暗い洞窟の中に飛び込んで行った僕の目に、地面の上に倒れ伏した2匹のドラゴンの姿が飛び込んできていた。


「う・・・ん・・・」
「ああ・・・よかった・・・おーい!彼女が目を覚ましたぞ!」
何処かぼんやりと霞みの掛かったような意識の中に、そんな誰かの声が鋭く響いてくる。
目を覚ました?ということは、私は今まで眠っていたのだろうか?
だが薄っすらと瞼の向こうに感じる明るい光に誘われるようにして目を開けてみると、その視界の中に見覚えのある人間達の顔が幾つも並んでいた。
「ここは・・・?」
「あんたの住んでる納屋だよ。コリンが洞窟で気を失ってたあんたを見つけて、皆でここへ運んで来たんだ」
そして誰かの言ったその言葉の後を続けるように、あの首領の男の声が聞こえてくる。
「全く、あんたを荷車に載せるのは大変だったんだぞ。深夜だってのに、町の連中全員叩き起こしてよ・・・」
「その割には、随分と嬉しそうだな?」
「あんたが3日振りにやっと目を覚ましてくれたお陰で、もうコリンに泣き付かれなくて済むからな」
3日振りか・・・どうやら、随分と長く眠っていたような気怠さがあるのは気のせいではなかったらしい。

「フフフ・・・それは随分と気の毒な事をしたな・・・ところで、そのコリンは一体何処にいるのだ?」
「今日も朝からずっと、あんたの胸に抱き付いてるよ。もう泣き疲れて眠っちまったようだがな。ほら・・・」
やがて彼の言葉に従ってそっと視線を落としてみると、どうして今まで気が付かなかったのか藁敷きの上で仰向けになっていた私の胸にコリンが必死にしがみ付いていた。
その目の周りには何度も泣き腫らしたのか洞窟で見た時よりも更に多くの涙の跡が付いていて、私が気を失っている間に随分と彼を心配させてしまったことが窺える。
だがそんな可愛い息子の顔をそっと舐めてやろうとしたその時、私の身動ぎで気が付いたのか不意にコリンがガバッと勢いよく顔を上げていた。

何時まで経っても目を覚ます様子の無い、力尽きたお母さんの体。
僕はこの3日間心配の余り食事もロクに喉を通らず、時間が許す限りお母さんの大きな体を抱き抱えていた。
そこに感じる確かな命の温もりとあの黒いドラゴンと同じく深くて長い呼吸に上下するお母さんの胸だけが、今にも爆発してしまいそうな僕の不安をほんの少しだけ鎮めてくれるのだ。
だがそんな暖かいお母さんの胸元が微かに動いたような気がして、僕はふと眠りから目が覚めるとほとんど無意識に目の前を見上げていた。
その眼前で、僕の顔を舐めようとでもしていたのか大きな赤い舌先を出し掛けたお母さんの顔が固まっている。
「あ・・・ぁ・・・お・・・お母さん・・・」
そしてそれを見た瞬間、もう何度も流したはずの涙が再び両目一杯に込み上げてきた。

「ごめんね・・・ごめんねお母さん・・・心配掛けて・・・僕・・・もうあんなことしないから・・・」
「コ、コリン・・・」
折角顔を上げたというのにまたしても私の胸に縋り付いて泣き出してしまったコリンの様子に、私は何と言ってやればいいのかわからぬまま声を詰まらせていた。
この子は私があの雄竜から受けた苦痛や傷の責任が自分にあると思っているようだが、それは違う。
コリンを無事にあ奴の手から救い出した時、私はそのまま逃げることもできたはずだった。
にも拘わらず力不足を感じながらもあの凶暴な巨竜へと戦いを挑んでしまったのは、両親を殺された上に手酷く痛め付けられたコリンの仇を討ってやろうと思った私の自己満足でしかない。
だからこの怪我も痛みも、本来ならばコリンには全く関係の無いことなのだ。
むしろコリンに心配を掛けてしまった私の方こそ彼から咎められるべきだというのに、それでもこの子は今私のためにこうして泣いてくれている。
コリンから本当の両親のことを訊ねられた時、私は密かに彼らに嫉妬してしまったものだった。
所詮ドラゴンである私に人の子の親は務まらぬのかと、深夜に独り不甲斐無い自分を責めもした。
だがそれが杞憂だったことに気が付いて、不覚にも感情が昂ってきてしまう。

「少し、外してくれぬか?」
やがてコリンの頭を優しく撫でながら小声でそう言うと、首領の男が小さく頷いて静かに腰を上げていた。
「さあ、皆ももういいだろ。3日振りに顔を合わせた親子なんだ、邪魔すると彼女に食い殺されるかも知れんぞ」
更には少しおどけた調子でその場にいた人間達にそう言うと、彼が微かな笑みを浮かべて私の顔を一瞥する。
「あ、ああ、そうだな・・・俺もそろそろお暇しよう」
「あんまり騒いじゃ、彼女の怪我にも障るだろうしな」
ややあって他の者達もそんな彼の言葉の意味を汲み取ってくれたのか、それからものの1分も経つ頃には静まり返った広い納屋の中に私とコリンだけがただポツンと取り残されていた。
その途端に、じっと堪えていた大粒の涙がまるで堰を切ったように私の目から溢れ出してしまう。
そしてなおも泣きじゃくるコリンの小さな体を抱き締めながら、私は嗚咽にも似た擦れ声を絞り出していた。
「私の方こそ、随分とお前に心配を掛けてしまったようだ。許してくれ・・・」
「お・・・母さん・・・?」

何処か何時もと違う気がするその声に伏していた顔を上げてみると、お母さんが真っ直ぐに僕の顔を見つめたままポロポロと涙を零している。
「お前が無事で本当によかった・・・お前にもしものことがあったら私は・・・」
「お母さんこそ一杯怪我をしてるし、大事な翼だって焼けちゃったんだよ?僕なんて・・・」
そしてそう言いながら、僕はそれまで心の何処かで直視するのを避けていたお母さんの怪我へと目を向けていた。
そんな僕の視界に入ってきた無数の痛々しい爪跡や炎に焼かれて所々黒く焼け落ちた翼が、僕のしてしまったことの重大さを如実に物語っている。
「私なら大丈夫だ。時間は掛かるが、体の傷はいずれ癒える。空だけはしばらく飛べぬかも知れぬが・・・」
それに・・・と、何かを言い掛けた僕の口を胸に押し付けて塞ぎながらお母さんが先を続ける。
「今の私に、お前より大切なものなどあるものか・・・たとえ何処にいようとも、お前だけは私が護ってやるぞ」
「うぶ・・・じゃ、じゃあ・・・また、何処かへ連れて行ってくれる?」
「そうだな・・・では翼の傷が治るまで、外の森へ散歩にでも出掛けぬか?もちろん、お前の友人達も一緒にな」

その数日後、町の西側に広がる広大な森に大勢の子供達の楽しげな声が響いていた。
だが彼らの目当ては木登りやかくれんぼなどではなく、広い道の真ん中にゆったりと蹲った大きな橙色の雌竜だ。
そして彼女の広い背中に跨ったコリン達がお互いに押し合い圧し合いしながら大声で笑い合う度に、子供達の遊び場にされた雌竜が彼らを喜ばせようと微かにその背を揺らす。
「フフ・・・たまには、こういう過ごし方も悪くはないな・・・」
気が緩んだのか不意に漏らしてしまったそんな彼女の声は、きっと彼らの歓声の前に消えてしまうに違いない。
雌竜も、コリンも、そして他の子供達も、そこにいた誰もが皆、心から理解していたのだろう。
大切な者の傍にいられることこそが、本当の幸福なのだと。

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このページへのコメント

続編希望。大人になったコリンが見たいです。

0
Posted by 竜好き 2009年05月20日(水) 00:55:39 返信

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