まだあどけない少年だった10年前とは見違える程に逞しいハンターへと成長した、赤髪を靡かせた若者との再会。
そんな生涯で唯一心を許した人間との心休まる時間を久し振りに満喫した我は、美しい夕焼けを背景に島から遠ざかっていく彼の乗った船を崖の上からじっと見送っていた。
この先、我が生きている間にまたあの人間に出逢うことはもう無いかも知れない。
我がそう思ったのは日に日に強力な武具を身に纏って我を討伐せんと襲い掛かって来る無数のハンター達に明日にも仕留められてしまうかも知れないという危惧ももちろんあったのだが・・・
最大の理由は、番いとなる雌火竜を探す為に我が近々この島を離れるつもりでいたことだった。
まああの人間の振るった剣でものの見事に尻尾を斬り落とされてしまったこんなみすぼらしい姿では気の強い雌に求愛したところで鼻で笑われるか、悪くすれば毒棘を剥いたあの太い尾で顔を張り飛ばされてしまうかも知れない。
それでも人竜の両親の許を離れてからの10年間を孤独に過ごして来たことを考えれば、これ以上ここに留まって滅多にやって来ることの無い雌火竜の訪れを待つ気にはなれそうもなかったのだ。

それから1週間後・・・
我は痛々しい傷口を覗かせていたはずの尻尾が僅かに回復の兆しを見せ始めたことを確かめると、いよいよ終生の番いを探しに新天地を探す旅に出ることを決断していた。
そして雲1つ無くすっきりと晴れ渡った空を見上げると、その抜けるような青さを写し取ったかのような深い蒼色の甲殻に覆われた翼を大きく羽ばたいて一気に上空へと舞い上がる。
バサッ!バサァッ!
緑掛かった翼膜が大気を叩く音が心地良く耳に響き、我は遥かな高空をただひたすらに南へと向かったのだった。

これから我が目指すのは、火竜族が多く生息している熱帯地方。
そこには熱砂の吹き荒れる広大な砂漠や地底でひっそりと炎を噴き上げる火山が幾つも点在し、人間であるハンター達にとっては過酷な環境であるが故に熱に強い飛竜達にはある種の楽園となっているらしい。
だが子供を育てるには餌となる小動物達の数が少ないせいか、火山を塒にする雌火竜は極稀なのだそうだ。
となれば当然、最初に向かうべきは砂漠ということになる。
そこに我の気に入る雌が独りで棲んでいてくれれば、これ程話が早くて助かることは無いのだが・・・

ほとんど休み無く翼を羽ばたくこと一昼夜・・・
我はようやく地平線の彼方に見えて来た広大な不毛の大地に安堵の息を吐き出しながら、疲労の溜まり始めた体に後少しだと言い聞かせて再び大きく大気を煽っていた。
バサッ・・・バサッ・・・ドサァッ・・・
そして灼熱の白い砂に覆われた大地に疲れ切った体を静かに着地させると、ようやく休めるとばかりに力尽きた両翼を畳んで周囲に視線を巡らせてみる。
その視界に映るのは何処までも続く砂丘と疎らな樹木、荒れ果てた岩、そして薄暗い地下洞窟ばかり・・・
火山に比べれば餌は多いのかも知れないが、こんな場所でも子供を育てられる雌火竜の逞しさには素直に舌を巻く。
雌とは違い空を縄張りとする我には、昼夜で寒暖の差が激しいこの土地は生活に適しているとは言い難かったのだ。

荒涼とした岩地を我が物顔で闊歩する、小柄な2頭の草食竜達・・・
私はまだ己に忍び寄る危険に気付いていないらしいその哀れな獲物達の姿を上空からしばらく観察すると、やがて大きく翼を広げて急降下しながら両脚の爪を剥いて彼らに襲い掛かっていた。
ズガッ!ドドォッ・・・!
そして緊張の緩んでいたその背中に鋭利な鉤爪を突き立てると、強烈な落下の勢いと圧倒的な体重を浴びせ掛けて獲物を大地に押し倒す。
「グオオオオーン!」
更には自身のすぐそばで仲間が巨竜の餌食になったことに驚いたらしいもう1頭の草食竜がくぐもった嘶きとともに後ろ脚で立ち上がったのを目にすると、私は唸りを上げて振り回した太い尾でその獲物も硬い岩に叩き付けていた。
バキッ!ガスッ!
「ア・・・ガゥ・・・グオゥ・・・」
尾の先に感じた重々しい衝撃と数瞬遅れて聞こえて来た盛大な激突音に、苦しげな呻き声が微かに混じる。
尾撃と同時に猛毒を含んだ棘が全身に突き刺さったらしく、草食竜は背中を覆った堅牢な甲殻のお陰で辛うじて致命傷だけは免れたにもかかわらずほんの数秒で地面に横たわったまま動かなくなってしまっていた。
さてと・・・無事に食料も確保出来たことだし、住み処に戻るとしようか・・・
私はそう思って足元で息絶えている最初に仕留めた1頭をその場で平らげると、もう1頭を両脚で掴み上げたまま晴れ渡った空へと舞い上がったのだった。

取り敢えず、何時までもこんな砂漠の真ん中に突っ立っていても仕方が無い。
ここよりもう少し何処か住み処に適していそうな場所に、雌を探しに行ってみるとしよう。
我はカンカンと照り付ける太陽を見上げながら僅かに目を細めると、もっと休ませろと抗議の声を上げている翼を再び左右に大きく開いていた。
さっき上空から見た限りでは、確か北西の方に多少なりとも樹木の多いオアシスのような場所があったはず・・・
こんな不毛の地に暮らしていたとしても、塒には少しでも快適な場所を選びたいというのが本能というものだ。
もしそこへ行っても誰の姿も無かったなら、素直にここは諦めて他の場所に雌を探しに行った方が賢明だろう。
そして先程から疲労という名の軋みを上げている両翼を力一杯はばたくと、我は遠くに見える窪地に囲まれたオアシスに向かってゆっくりと滑空していったのだった。

「グルゥ・・・」
私は住み処のオアシスで捕まえて来た2頭目の草食竜をゆっくりと味わいながら、今日も雲の欠片すら浮かんでいない澄み渡った快晴の空をぼんやりと見上げていた。
この荒涼とした砂漠に棲み始めてから、もう間も無く5年が経つのだろうか。
元々資源に乏しい土地だからなのか、砂漠に生息する奇妙な蟹や砂竜、それに変わった植物を目当てにやって来るハンターの姿はたまに目に付いたものの、私の命を目的にわざわざこんな辺境を訪れる人間はほとんどいない。
だがその傾向はどうやら人間だけに当てはまるものではなかったらしく、私の番いとなるであろう雄火竜の姿もまたこの砂漠では極めて縁遠いものになってしまっていた。

まあ、それはある意味仕方の無いことなのだろう。
煮え滾る溶岩の海に浮かぶ灼熱の岩床にさえ平気で身を横たえる雄火竜は飛行能力に秀でている反面、体の軽量化の為か雌に比べて身を包む甲殻が薄く、冷たい外気に曝されることを余り好まないらしかった。
日の沈む夜には氷点下にまで気温が下がることもあるこの砂漠は、そんなある意味で寒がりの雄にとってはとても過ごしにくい気候なのだろう。
だが仮に私の方から雄火竜に出逢う為に彼らが好んで棲むという地底の火山に赴いたとしても、あの土地では子を育てるのに十分な餌が獲れないだけに共棲するのは難しいのが実情だった。
雌雄の共棲にも子育てにも適している広大な岩山も一応あることにはあるのだが、多様な鉱石が産出される場所柄故かハンター達の姿も多いらしく、出逢えるかどうかも分からぬ雄の為に危険を冒す程の覚悟は私には無い。

結局、私は今日も冷たい砂漠の夜を独り寂しく過ごすことになるのだろう・・・
私はそんな何処か自虐的な思いに微かな苦笑を浮かべると、不貞寝にも似た昼寝に興じようと満腹の腹を抱えたまま静かに地面へと蹲っていた。
バサッ・・・バサッ・・・
「・・・?」
だが小さな岩を枕にそっと目を閉じた数秒後、何処からともなく翼を羽ばたく音が耳に飛び込んで来る。
普段自分で聞いているから断言出来るが、これは間違い無く火竜の翼の音だろう。
とは言え雄火竜がわざわざこんなところにやって来るとも思えないから、また何時ぞやのように別の雌が住み処を求めてやって来たのに違いない。
あの時は全身を美しい桜色の甲殻に包んだ不思議な同胞の姿に驚いたものの、噂を聞き付けたハンター達が大勢押し掛けて来たせいで彼女とは対立する前に協力せざるを得なくなり、砂漠は一時修羅場と化したものだった。
結果的に私達はお互いに自分の身を護ることが出来たお陰で円満に別れることになったのだが、その時聞いた話では何らかの突然変異によって彼女のように原種とは異なる姿形や体色を持って産まれる者が最近増えているらしい。
今回やって来た雌火竜も、もしかしたらまたあの時のような桜色の鱗を持っているのか・・・も・・・・?

「グオッ!?」
やがてそんな数年前の記憶を辿りながらぼんやりと空を見上げていた私の目に、突然ある意味で最も意外な存在が飛び込んで来ていた。
そこにいたのは、心なしか必死そうに翼を羽ばたいている1匹の雄の火竜。
だがその全身は燃えるような炎を象徴する赤ではなく、むしろ冷たささえ感じられる深い蒼色に染まっている。
そればかりか本来長く伸びているはずの尻尾がまるで途中から斬り落とされたかのように寸詰まりになっていて、私はまた新たな奇形種でも産まれたのかと一瞬我が目を疑ってしまっていた。

周囲を崖のような背の高い岩地に囲まれた、まるで隠れ家のような趣きを放つ静かなオアシス。
その広場の中央で食後の昼寝を楽しもうと地面に蹲っていた雌火竜の姿を目にして、我は心中を満たした安堵と緊張に少しばかり息を荒げながら滑空の為に広げたままにしていた翼を再び羽ばたき始めていた。
母と別れて以来10年振りに見る、その全身を覆った深みのある緑色の甲殻。
我と同時期に産まれた双子の姉は人間である父の影響故か我と同じく特異な体色の持ち主だっただけに、そんな"ごく普通"の雌火竜の姿が奇妙な安心感を我にもたらしていた。
だが大気を震わせる翼の音に気が付いたのか今にも眠りに就こうとしていた雌がふとこちらを見上げた次の瞬間、彼女が何やら驚いた様子でその目を大きく見開いたのが我にもはっきりと見えていた。

一体、彼女は我の何を見てそんなに驚いたのだろうか・・・?
確かに我は普通の雄とは違って蒼い竜鱗を身に纏ってはいるものの、姿形は火竜のそれなのだから同族からそこまで奇異の目を向けられる覚えは特に無いはずなのだが・・・
だが少しずつ高度を下げるとともに依然として地面に蹲ったままの雌火竜との距離が縮まっていくと、我は彼女の視線の先が途中からスッパリと切断された我の尻尾に向けられていることに気付いていた。
成る程・・・やはりハンターに尾を斬り落とされた同族の姿には、何がしかの衝撃を受けるものなのだろう。
とは言え我は今もこうして生きているのだから、この傷は寧ろ屈強なハンターと戦いを交えて生き残った証・・・
言わば、名誉の勲章といった見方も出来ないわけではない。
尤も、彼女がそう言う好意的な目で我を見てくれるという保証は何処にも無いのだが・・・

やがて2匹の火竜が動き回るには些か狭いオアシスに降り立つと、ようやく彼女が静かにその体を起こす。
「グルルゥ・・・」
その途端想像以上に逞しい彼女の肢体が体の下から現れ、俄かに我の目を釘付けにしていった。
空を駆ける我ら雄の火竜とは異なり、彼女達は主に大地を走り回ることで獲物を仕留め、広大な縄張りを制圧する。
それ故に雌火竜の足腰は雄のそれとは比べようもない程屈強に鍛え上げられていて、その重量感のある健脚が言葉などでは到底表現出来ない不思議な魅力を醸し出していた。
何と美しい雌なのだろうか・・・
砂漠という過酷な環境の中でこれまで懸命に生き抜いてきたのだろう彼女の双眸に宿る、何処か静謐な孤独感。
突如目の前に現れた雄に対して、彼女が強い警戒心を抱きながらも一定の興味をそそられているのが我にも分かる。

そしてしばらくお互いに見詰め合うと、我はゆっくりと彼女の様子を探るように脚を前へ踏み出していた。
だが・・・
「グオッ・・・!」
そんな我の突然の接近に、彼女が明らかな拒絶の意思を露わにする。
"それ以上私に近寄るな!貴様、一体何者なのだ・・・?"
そう言いながら僅かに細められた彼女の眼には、敵意とも殺意とも取れる黒々とした負の感情が滲み出していた。
"我は・・・番いを求めてはるばるやって来たのだ。お主も・・・そうではないのか・・・?"
"確かに私も雄との出逢いは望むところだが・・・その尾は一体どうしたのだ?"
"これか・・・"
つい先日10年振りに再会した、奇妙な愛しささえ感じる1人の人間の若者。
この先彼が立派なハンターとしてやっていけるかどうかを試す為に彼に戦いを挑み、反対に尻尾を斬り落とされてしまったなどとは流石に彼女にも言うわけにはいかぬだろう。
こういう結果になったことについては一片の不満も無いものの、それを同族の雌に打ち明けるのはまた別の・・・そう、雄としての自尊心の問題だったのだ。

"これはとある人間との戦いで負った傷だ。これがどうかしたのか?"
"フン、あんな卑小な人間風情に尾を斬り落とされるような間抜けな雄と、私は番いになるつもりなど無いぞ"
"グヌヌ・・・言わせておけばこの小娘が、調子に乗りおって・・・"
だが確かに、彼女の言い分にも全く理が無いわけではない。
子孫を残すという目的においては、交尾の承諾も含めて全ての主導権が雌にあるというのが我ら火竜族の間での不文律となっているのだ。
それは秩序の維持という名目で誰もが暗に認めている掟なのだが、実際の理由は地上では強靭な足腰を誇る雌の方が雄よりも強い為に、雌の望まぬ交尾を試みた結果として手酷い報復を受けた雄が続出したからなのだという。
より強い子孫を残そうとする雌の本能も手伝ってか、傷物の雄を交尾の対象から外すことは彼女達にとってある意味で当然の権利ということなのだろう。
とは言え紛れも無く彼女に一目惚れしてしまった我としては、このままおめおめと引き下がるわけにもいかないというのが正直なところだった。

彼女との間に開いた、ほんの数メートルの距離・・・
警戒心というよりは嫌悪感に近い感情を我に叩き付けながら、彼女がそれを広げるべくじわりと後退さっていく。
やがて何時までも出口の見えない膠着状態を打ち破ろうとでもしたのか、彼女は突然その大きな翼を広げるとバサリという力強い羽ばたきとともに大空へと飛び上がっていた。
「グオッ!」
我も慌ててその後を追おうとしたものの、自身よりも一回り大きな彼女に上空からギロリと怒りの混じった眼で睨み付けられて不覚にもその身を硬直させてしまう。
そしてその場から動くことも出来ぬまま彼女が何処かへと飛び去ってしまうのを見送ると、我は唐突に襲って来た苦い敗北感に打ちひしがれてその場に崩れ落ちていた。
「グル・・・ウゥ・・・」
恐らくこうなるであろうことは心の何処かで一応予期はしていたものの、いざ実際に雌から蔑むような視線を突き刺された心が想像以上の痛みに呻いている。
仕方が無い・・・今日は取り敢えず、ここから程近い何処か別の場所で夜を明かすとしようか・・・
我はそう思ってまだ明るい空を恨めしげに見上げると、未だ疲労の癒えぬ翼を力無く開いたのだった。

それから1時間程が経った頃・・・
遥か彼方まで続く砂丘を越えて内陸の奥地へと向かいながら、我は胸を締め付ける悲しみに牙を食い縛っていた。
少なくともこの尾の傷が完治するまでは、彼女には相手にもして貰えぬことだろう。
幸い飛竜の高い治癒力をもってすれば後ほんの一月程で尾は再生するものの、彼女に番いとして認めて貰うためにはそれだけでは不足なのに違いない。
人間のハンター相手に傷を負ったという事実をも覆す何らかの功を立てなければ、彼女の我に対する印象を変えるのが相当に難しいだろうことは容易に想像が付く。
とは言え一体何をどうすれば良いのかについてはこれと言った妙案が浮かばず、我はやがて見えて来た紅蓮の炎を噴き上げる火山の姿にとにかく心身の疲れを取ろうと翼を伸ばしたのだった。

あの若き雌火竜との苦々しい出逢いの日から6週間後・・・
我は予想よりも完治の遅れた新たな尾の感触を確かめるように軽く振り回すと、再びあの雌に逢いに行ってみようと気力に満ちた翼を羽ばたいていた。
彼女の中に芽生えてしまった我に対する負の感情を払拭する材料はまだ見つからぬものの、とにかく完全な姿となった自身の姿をもう1度彼女に見て貰いたいという思いの方が強かったのだ。
冷たい言葉を投げ掛けられて逃げられるよりも、彼女に忘れ去られる方が辛かったというのも正直なところだろう。
雄としてはそんな自分の姿が何とも情けなく感じられてしまうのだが、火竜に限らず雌雄の間に交わされる心情というものは得てして甘酸っぱい痛みを伴うのが常というもの。
けんもほろろに我を袖にした彼女の関心を得ようともがくのも、今の我には手応えのある難題の1つという認識でしかなかったのだった。

"ふぅ・・・"
突如空からやって来た奇妙な蒼い雄火竜を見掛けてから、今日でもう40日余りになるのだろうか・・・
私はあれからずっと飛竜は元よりハンターの襲撃すらない平和で退屈な日々を送りながら、自身のしてしまった行為に些かの後悔を感じるようになっていた。
あの雄が、この私に好意を抱いていたのはまず間違い無いだろう。
あの時私が細かいことなど気にすることなく素直に彼の求愛を受け入れていれば、彼と番いになってずっと念願だった子供を授かることも出来たかも知れない。
雄との出逢いを求めて彼らの生息域に足を伸ばす気力も覚悟も持ち合わせていなかった軟弱な私にとって、あれはもしかしたらそんな夢を叶える千載一遇の好機だったのではないだろうか・・・
一旦雄火竜と顔を合わせてしまったが故に募る寂しさがそんな思いを胸の内に膨れ上がらせ、ほんの一時の感情に流されて愚かな判断をしてしまった自分自身に嫌気が差してしまう。
もしまた彼が私の前に現れてくれたら・・・
それが自分でも都合の良い想像でしかないことは重々分かり切っているものの、私はこの砂漠に住み処を移してからの5年余りで感じた最も辛い孤独感にただひたすら胸を痛めていたのだった。

その日の夜・・・
私は不意に何者かの気配を感じて、住み処で眠りに就こうと地面へ横たえていた体を静かに起こしていた。
どうやら、誰かがこの地域にやって来たらしい。
もしやあの時の蒼い雄火竜が、また私に逢いに戻って来てくれたのでは・・・?
そんな何とも都合の良い想像に、まだその気配の正体も定かではないというのに微かな興奮が胸の内に沸き起こる。
ともかく、わざわざ夜中にこんな僻地へやって来る以上はそれが誰であれ目的はこの私なのに違いない。
やがてほとんど確信に近いそんな予感についさっきまで失意に萎れていた翼を大きく広げると、私は気配の主がいるらしい広大な砂漠地帯を目指すべく澄み渡った夜空へと舞い上がったのだった。

「グルッ・・・?」
その数分後、私は延々と地平線の彼方まで続く砂の海を空から見下ろしている内に、ようやく気配の主らしき目的の存在をその眼下に捉えていた。
あれは・・・人間だろうか・・・?
淡い月の光のせいか青っぽく見える砂丘の真ん中に立っていたのは、白っぽい鎧竜の甲殻で出来ているらしいゴツゴツとした無骨な防具を身に纏い、背中に巨大な真紅の爪で出来た大槌を担いだ1人の人間の男・・・
他に仲間を連れている様子は無いものの、その物騒な身形を見る限りあの人間はまず間違い無くハンターだろう。
特に何を探すでもなくじっと空を見ていたお陰で夜の闇の中を飛んでいたはずの私とはすぐに目が合ったものの、逃げる素振りも無く背中の武器を取り出したところを見るとやはり彼の目的はこの私のようだった。
愚かな・・・この私に雄火竜の再来などという空しい期待を持たせて裏切っただけでも到底許し難いというのに、仲間も連れずにたった1人で私の命を狙うつもりなのであれば望み通り我が怒りの炎で消し炭にしてくれる。
私はほとんど逆恨み以外の何物でもないそんな怒りに任せて人間からは少し離れた砂地に着地すると、開戦の狼煙代わりに砂漠中へ響き渡るかのような激しい咆哮を周囲に迸らせたのだった。

「グオアアアアアアァァァッ!」
だが普通の人間ならば耳を覆ってその場で動けなくなってしまう程の激しい大音響だというのに、ハンターがまるで何も聞こえていないかのように平然と赤い槌を振り上げる。
ガッ!
「グッ・・・!」
そして素早く走り込んで来た男が掬い上げるように放った槌の一撃に顎を跳ね上げられると、私はその衝撃とともに全身に走った痺れるような痛みに目を剥いていた。
あれが一体何で出来ているのかは分からないものの、もし私の頭程もあるあの巨大な爪が何らかの巨竜の物であるとしたら、私にとって危険な未知の力を秘めている可能性は十分にある。

私は痛みに呻きながらも素早く体勢を立て直すと、小さな人間に向けて勢い良く尾を振り回していた。
ブォン!
だが大きな得物を持っている割に素早く地面に転がった人間にその尾撃をかわされてしまうと、今度は私の足元に力一杯重い槌が振り下ろされる。
ズドン!
「グガァッ!」
その瞬間脚の爪が全て拉げ潰れたのではないかと思えるような激痛が走り、私は立っていることが出来ずに冷たい砂の地面に倒れ込んでしまっていた。
そして腕が無いせいで無防備となっていた私の頭を目掛けて、凶悪な槌を大きく振り被ったハンターが迫ってくる。

「ヒッ・・・」
このままでは・・・こ、殺される・・・!
これまで出遭ったどんなハンターよりも優秀な、それでいて鬼気迫る気迫に押され、私はのた打つようにして頭を捩ると全力を込めて叩き付けられた槌の直撃を辛うじて避けることに成功していた。
ドゴォッ!
だが砂の地面が抉れる程の重撃に頭を打ちのめされ、フラリと眩暈がしてしまう。
早く・・・逃げなければ・・・
そんな危機感にハンターが距離を取った隙を突いて何とか体を起こすと、私はフラフラとよろめきながら両翼を大きく広げていた。
バサッ!
とにかく、このハンターと戦うにしても一旦体を休めて態勢を整えなくては・・・
そして"獲物"を逃がすまいと猛然と追走してくるハンターの手から間一髪空に逃れることに成功すると、私は住み処のオアシスに向かうべく疲れ切った体を引き摺るようにしてゆっくりと翼を羽ばたいたのだった。

バサッ・・・バサッ・・・
「グゥ・・・・グォッ・・・」
やがて痛みと疲労に消耗した重い体を何とかオアシスの真ん中に着地させると、私は周囲に誰もいないことを念入りに確かめてから少し窪地になった自身の寝床の上にそっと蹲っていた。
良し・・・少しでも眠ることが出来れば、あのハンターに対抗する心と体の準備も整うことだろう。
だがようやく周囲の安全に満足して静かに眼を閉じたその数秒後、しんとした静寂の中に何処からとも無く風を切るような不穏な音が響き渡る。
「・・・?」
そして地面に寝そべったままその音の正体を確かめようとして顔を上に向けてみると、見たことも無い黄金色の飛竜が円を描くように私の住み処へと降りてくるのが目に入った。

ゴオォッ!
一体何が・・・?
視界を過ぎったその影は私の体よりも一回り程小さく見えるものの、余りの素早さに全貌がなかなか捉えられない。
だが明らかに私に対して敵意を放ちながら飛び掛かって来た飛竜の青緑色に輝く竜眼を見た瞬間、私は尾を丸めるようにして地面に横たえていた体を素早く起き上がらせていた。
"何者だ!?"
そしてそんな誰何の声に応えることも無く、鋭利な両脚の爪を剥いた飛竜がその速度を生かして蹴り掛かって来る。
私は咄嗟に首を捻るようにしてその不意打ちを振り払うと、なおも宙に浮かびながら繰り出される鋭い蹴りを丸めた背中の甲殻で弾き返していた。

やがて翼を振り回すようにして頭上を飛び回る不埒者を振り飛ばすと、ようやく月光に照らされた闖入者の正体が私の眼に飛び込んで来る。
「グオアアァッ!」
「ゴアアアアァッ!」
と同時にお互いの短い咆哮が岩壁で囲まれたオアシス中に反響し、私はこちらに向き直った飛竜と殺意の漲る視線を絡ませ合っていた。
全身を金色の鱗に包んだ、小柄な雄の飛竜・・・
だがその鱗や大地を掴んだ黒い翼爪、更には鼻先から後頭部に向けて伸びた大きな鶏冠のような角が、全て研ぎ澄まされた鋭利な刃物のように危険な煌きを宿している。
まるで全身を刃で包んだかのようなその物騒な飛竜の姿に、私は内心言いようの無い不安を感じながらもこれから戦場となるであろう足元の感触を確かめるように地面をザザッと踏み鳴らしていた。

やがて私の上げた怒りの叫び声に呼応するように、飛竜が小さく飛び上がる。
そしてそのまま素早く飛び掛かって来た敵に反応して私も強く地面を蹴ると、グルリと曲線を描いて低空を飛びながらその渾身の初撃をかわしていた。
だが一旦は私に背を向けて着地したはずの飛竜が一瞬にしてこちらに向きを変えたのを眼にすると、私は接近戦では分が悪いことを悟って大きく息を吸い込んでいた。
ゴオオォッ!
その数瞬後、巨大な火球が飛竜に向けて凄まじい勢いで吐き出される。
しかし飛竜はその素早さを生かしてあっさりと右方向に身をかわすと、そのまま小さな岩の上に飛び乗って私を見下ろしていた。

「グゴアアアアッ!」
更にもう1発灼熱の火球を吐き出してみるものの、それが飛竜の飛び退った岩に当たって盛大に爆発する。
激しい爆炎の陰に一瞬先程私を襲って来たハンターの姿が見えたような気がするものの、仮にあのハンターがやって来たのだとしても今はあ奴に構っている場合ではないだろう。
そして飛び上がった飛竜がそのまま体を横に倒しながら鋭い2段蹴りを繰り出して来ると、私は鼻先を直撃したその強烈な一撃に苦痛の呻き声を上げながら宙へと飛び上がったのだった。

「ガグアアァッ!」
やがて決定的な隙を見せてしまった私に更なる追撃を掛けようと、敵意を漲らせた飛竜が大きく舞い上がる。
だが再び顔を目掛けて振り下ろされた凶悪な鉤爪から逃げるように精一杯翼を羽ばたくと、全体重を乗せた蹴りのせいで落下の勢いを制し切れなかったのか攻撃を空振った飛竜が僅かに態勢を崩しながら地面へと着地していた。
今はとにかく、この場から逃げなくては・・・!
私はその隙に激しい痛みと疲労に悲鳴を上げる体に鞭打って大きく翼を広げると、岩地の天井に開いた穴から澄んだ夜空に向かって力の限り舞い上がったのだった。
幸い向こうは小柄な体のせいか、それとも翼の形状が空を飛ぶことに特化していないからなのか、一旦は私の後を追おうと地面から大きく跳躍したもののそのまま飛び上がることは出来なかったらしい。
或いはあの場にいた人間のハンターの存在に奴も気付いていて、追撃を逡巡しただけなのかも知れないが・・・
だがその理由が何であれ、私は冷たい冷気の満ちた空に飛び出すと辛うじて窮地から脱することが出来たのだった。

今日もすっきりと晴れ渡った空の下を飛び続けること1時間余り・・・
我はようやく目的の砂漠地帯が見えてくると、例の雌火竜の姿を探しながらあちこちを飛び回っていた。
だが彼女の住み処であるオアシスに足を運んでみても、あの美しい緑鱗の煌く気配は何処にも見当たらない。
「・・・?」
彼女は、一体何処に行ったのだろうか・・・?
周囲を見回してみれば、人間の物らしき小さな足跡と砂の地面を抉った深い爪痕、それに岩を焼き焦がした黒ずんだ炎の痕跡がそこかしこに残っている。
もしや彼女は・・・ハンターに襲われたのでは・・・
しかしその割に、彼女の姿が見えないのは一体どういうことだろう。
この場所で彼女が何者かと戦ったことはまず間違い無いのだが、肝心の彼女は何処に行ったというのか。

我はしばらくそんな答えの見えない疑問に頭を悩ませていたものの、やがてもう少し彼女を探してみようと再び空へと舞い上がっていた。
住み処以外で彼女が行きそうな、それでいて外からは姿の見え難い場所となると、東の方にある海の見える入り江の辺りだろうか・・・
そしてそんな根拠の薄い想像を頼りに東へと向かってみると、我は水辺の地面に力無く蹲りながら眠っている彼女の姿を見つけたのだった。

バサッ・・・バサッ・・・
心地良い音とともに波の打ち寄せる小さな海岸で度重なる戦いに疲れ切った体を休めていた私の耳に、ふと聞き覚えのある翼の羽ばたく音が染み込んでくる。
「グゥ・・・?」
そしてゆっくりと顔だけを持ち上げて音のする方へ視線を向けてみると、以前私が酷い言葉を投げ付けてしまったあの蒼い鱗を纏った雄火竜が空に浮かんでいた。
あれ程逢いたかった彼が目の前にいるという俄かには信じ難い光景に、一瞬これは夢なのではないかという思いが脳裏に過ぎる。
"久し振りにお主に逢いに来たというのに、一体どうしたのだ?そんなに疲れ切った顔をして・・・"
だが続いて投げ掛けられた彼の心配そうな声に、私はぼんやりと霞の掛かっていた意識を急激に覚醒させていた。

"き、貴様は・・・"
ハンターに全身を打ち据えられ、初めて見る飛竜に住み処を追い出されてしまったという、情け無い敗北者。
そんなボロボロに打ちひしがれた屈辱的な姿を見られてしまったことで、以前彼に向かって放った自身の心無い暴言が私の胸をきつく締め付けていく。
"あんな卑小な人間風情に尾を斬り落とされるような間抜けな雄と、私は番いになるつもりなど無いぞ"
今にして思えば、私は何故彼にあんなことを言ってしまったのだろうか・・・
特に理由も無く彼の雄としての自尊心を傷付けてしまった生意気な雌に、やがて彼から投げ掛けられるであろう辛辣な言葉が幾つも幾つも私の脳裏に浮かんでは消えていく。
"何があったのかは知らぬが、その様子では食事もロクに摂っておらぬのだろう?どれ、そこで少し待っておれ"
バサ・・・バサッ・・・
だが想像していたのとは余りにも懸け離れた優しげな言葉を残しておもむろに何処かへと飛び去っていった彼の姿に、私は熱い衝撃が胸の奥を叩いたかのような奇妙な感覚を感じて行き場の失った視線を宙に泳がせたのだった。

彼はこの私の為に・・・食料でも獲りに行ってくれたのだろうか・・・?
6週間前のあの日、彼は酷い言葉を投げ付けた私に対して明らかに怒りの感情を表していた。
その上私の後を追って来ようとした彼を侮蔑の表情で見下したのだから、本来ならば身も心も弱り切ったこんな私の姿は彼にとって怒りの溜飲を下げる甘露でしかないはずなのだ。
それなのに、向こうから私に逢いに来たばかりかこんな私の身を気遣ってくれるとは・・・
そんな心優しい彼の姿を目にしたことで些細なことに囚われて意固地になっていた自分が恥ずかしくなり、私は小さな溜息とともに地面の上に鼻先を擦り付けると自己嫌悪の入り混じった呻き声を漏らしていた。

バサッ・・・バサァッ・・・バサァッ・・・
それから10分後、私は遥かな上空から再び近付いて来た羽ばたきの音に顔を上げると、1頭の草食竜をその両脚の鉤爪で捕らえた彼がゆっくりとこちらに舞い降りてくるのを目にして歓喜の唸りを漏らしていた。
生きたまま中空から背中を掴み上げられたのか巨大な爪に掴まれた憐れな獲物はまだ息があるらしく、バタバタと手足を暴れさせながらもその顔に激しい恐怖と絶望の表情を浮かべている。
そして低空から弱り切ったその草食竜をポイッと私の眼前に投げ落とすと、続いて着地した彼が落下の衝撃に悶えていた獲物をドスッと片足で踏み付けていた。
「グオオオン!グオッ、グオオオゥッ・・・」
巨大な雌雄の火竜の狭間に縫い付けられた草食竜が必死に逃れようと抵抗していたものの、凄まじい体重とともに猛毒を備えた彼の鉤爪を強く押し付けられては力無く吼える以外に出来ることは無かったらしい。

"そ、その獲物はまさか・・・この私の為に獲ってきたのか・・・?"
"それ以外に一体何があるというのだ。それとも、その憔悴し切った表情の割に腹は減っておらぬのか・・・?"
私はそれを聞くと、微かな驚きの表情を隠せぬままそっと体を起こしていた。
手練のハンターに容赦無く叩き潰された脚が、謎の飛竜に力一杯引っ掻かれた顔が、あれから一夜が明けた今頃になってようやくズキンと鋭い痛みを訴える。
「グゥ・・・」
だが何とかそれを堪えて立ち上がると、私は彼の足元ですっかり怯え切って最早震えることしか出来なくなってしまったらしい獲物の潤んだ目をじっと覗き込んでいた。
「グオッ・・・グオゥ・・・」
そして諦観に打ちのめされたのか彼が脚を離した後も暴れる素振りを見せない草食竜に素早く食い付くと、私は食べ慣れているはずのその肉の味に普段とは違う奇妙な感情が昂ってくるのを感じたのだった。

ガッ・・・ガブッ・・・モグ・・・
怪我の痛みと疲労に空腹、更にはあれ程見下していた人間と正体も判らぬ飛竜に追い立てられたという屈辱感。
そんな幾重にも重なり合った心身への苦痛が、心優しい雄火竜のお陰で見る見る内に癒されていくような気がする。
やがて興味深げな表情を浮かべている彼の前だというのに無我夢中で獲物を平らげてしまうと、私は口元の血を舌で拭いながらも彼と目を合わせることが出来ずに俯いていた。
"その・・・う、美味い食事だった・・・"
"それは良かった・・・それで・・・お主の身に、一体何があったのだ?"

我を前にして恥じらっているのか、それとも以前出逢った時の苦い記憶でも思い出しているのか、そう問い掛けてもなかなかこちらを見ようとしない彼女の様子が何ともいじらしく見えてしまう。
"そ、その前に、貴様には謝らねばならぬな・・・あの時は、心にも無いことを言ってしまって済まなかった・・・"
あの時・・・恐らくは6週間前に彼女から投げ掛けられた、あの刺々しい拒絶の言葉を指しているのだろう。
確かにあの時は我も彼女に対して些かの怒りを感じたことは否定出来ないものの、より良い種の保存という自然界の本能に従って生きる彼女の言葉を責められる道理は我には無い。
それに謝罪の言葉は何の抵抗も無く出るのに礼は素直に言えないらしい彼女の心境を考えるに、我に対して自身でも整理の付かぬ何らかの感情を抱えているのだろうことは容易に想像が付いた。
"そんなことはもう良いのだ。我の方こそ、お主を小娘だなどと・・・"
だがそう言った次の瞬間、何の前触れも無くこちらに首を伸ばした彼女が我の胸元にその頭を強く擦り付けてくる。
"と、突然どうしたのだ・・・?"
"済まない・・・だ、だが・・・少しの間だけ・・・そのままでいて欲しいのだ・・・"
そして今にも消え入りそうなか細い声でそう呟いた彼女の頭が微かに震えているのを感じると、我は彼女の胸の内にこびり付いた拭い難い感情の正体が紛れも無い恐怖であることを悟ったのだった。

こんなにも気丈で誇り高い彼女が、一体どんな修羅場を経験すればこれ程までに怯えた表情を浮かべるのだろうか。
我の胸の中で無心に熱い甲殻の感触を貪っている彼女の姿を目にして、ふとそんな疑問が脳裏を駆け巡っていく。
無残に爪が砕け散った痛々しい脚の傷は住み処に足跡の残っていたハンターの襲撃で負ったものなのだろうが、彼女の顔の甲殻を引き裂いた6条の爪痕は明らかに人間ではない何者か・・・恐らくは飛竜の仕業なのに違いない。
だが今は取り敢えず、彼女を落ち着かせてやることの方が先決だろう。
我は両翼で包み込むようにして彼女の頭を抱き抱えると、その首にそっと舌を這わせていた。
母から聞いた話では、火竜の首筋には延髄という興奮作用を誘発するある種のツボのようなものがあるのだそうだ。
交尾の際に雄が雌の首筋を軽く噛むことでその発情を促進するというのが本来の目的らしいのだが、同時に恐怖や不安などといった精神的な負担を和らげる効果も期待出来るのだという。

"うぅ・・・"
やがてそんな我の介抱が功を奏したのか、彼女は小さな嗚咽を漏らしながらもようやく恐怖の震えが収まったらしく静かに我の懐から頭を引き抜いていた。
"大丈夫か?"
"あ、ああ・・・もう大丈夫だ・・・お前は、優しいのだな・・・"
我を呼ぶ言葉が変わったのは、彼女が我に気を許したことの表れなのだろうか・・・
ほんの数分前とは明らかに異なる彼女の柔和な雰囲気に、そんな憶測が胸の内に湧き上がる。
"お主がそれ程までに怯えるとは、相当に手練の人間に襲われたのだろうな?"
"そ、そうではない。確かにあの人間は手強い相手だったが・・・見たことも無い飛竜が、突然私を襲って来たのだ"
やはり、彼女の顔の傷は飛竜の襲撃によるものか・・・
だが如何に血気に逸る竜族でも、同族を相手に殺意を持って襲い掛かることは滅多に無い。
広大な砂漠に棲むという気性の荒いあの角竜達でさえ、縄張り争いで対立した際には互いの角を折り合うだけで命まで脅かすような怪我を相手に負わせることは稀なのだという。
見たことも無い飛竜というからには彼女を襲ったのは同じ火竜ではないのだろうが、少なくとも彼女が命の危険を感じた以上我らに対して殺意を持った危険な存在がいるということには違い無い。

それから1時間後・・・
我は彼女を襲ったハンターと飛竜のことを詳しく聞き出すと、ともに彼女の住み処へと戻っていた。
彼女を追い出しておきながらここ棲み付いていないということは、例の飛竜は縄張りを奪う目的で彼女を襲ったわけではないのだろう。
そしてそれはつまり、明確な理由も無く他種族を脅かしているということでもある。
あちこちの地域を転々としながら目に付いた者達を見境無く襲っているのだとしたら、その飛竜が何時か我にもその爪牙を向ける可能性は否定出来ない。
彼女の仇を討つという意味でも、そ奴に出遭った時にどうするのかを今の内に考えておいた方が良いだろう。

我は流砂の落ちる窪んだ寝床に身を横たえた彼女の傍に蹲ると、フーッと長い息を吐き出しながら安堵の表情を浮かべた彼女の顔をじっと見つめていた。
"それで・・・お主はこれからどうするつもりなのだ?"
"私にも、どうして良いか分からぬのだ・・・またあ奴に襲われるかも知れぬと思うと、夜も眠れるかどうか・・・"
確かに正体不明の敵が何時襲ってくるかも知れぬというのに安心して眠れる程、野生の世界は甘くは出来ていない。
食物連鎖の頂点に君臨する飛竜だとて、突然の襲撃者に命を狙われる心配と無縁の存在ではないのだ。
"では・・・今夜は、火山にある我の住み処でともに夜を明かさぬか?砂漠の夜は、我には堪えるのでな・・・"
"ほ、本当に・・・良いのか・・・?"

私は彼にそう訊き返しながら、昨夜の恐怖とは別の理由で心臓の鼓動を僅かばかり早めていた。
自身の塒に自ら異性を誘うことは、どんな言葉や仕種よりも雄弁な求愛行動なのだ。
今のように謎の襲撃者に怯える私が住み処へ帰るのに彼が付き添ってくれたのとは違い、その提案を受け入れることは私が彼を番いとして認めるということをも意味している。
もちろん私としてはこの雄火竜を生涯の伴侶に選ぶことに一片の迷いも無いのだが、彼の方はこんな私を本当に妻として迎え入れてくれるのだろうか・・・
彼は私の吐いた酷い暴言を許してくれた上に弱った私の為に食料を獲って来たばかりか、恐ろしい記憶を洗い流す為の温かい胸さえ快く私に貸してくれた。
それに今も、彼はその蒼い翼で私を護るように傍らへと佇んでくれている。
そんな優しくも逞しい彼と番いになることがこの私に許されるのだろうかという不安が、私の口から零れ出そうとしている肯定の返事をあと一歩のところで塞き止めてしまっていたのだった。

地面に体を横たえたまま我の方へと向けられた彼女の顔に、何処と無く不安げな表情が貼り付いている。
"我の住み処ならば、仮に誰かがやって来ても我がお主を護れるからな"
"そ、そうではない!お前はこの私を・・・番いとして認めてくれるのかと訊いているのだ"
我はそう言われて、ようやく彼女の抱えていた不安の理由を悟っていた。
強気な物言いとは裏腹に、恐らく彼女は自分に自信が持てなくなったのだろう。
我から持ち掛けた提案なだけに我に拒絶される心配は無いはずだというのに、どういうわけか彼女自身が我の番いとしては相応しくないと思い始めてしまっているのだ。
"何を言っているのだ・・・我は6週間前に初めてお主に逢ったその日から、ずっとそのつもりだったというのに"
"あ・・・ぅ・・・"

真正面から何の迷いも無く言われたその告白の言葉に、思わず言葉が詰まってしまう。
覚悟が出来ていなかったのは自分だけという焦燥感が胸を満たし、私はどうして良いか分からずに眼を伏せていた。
"以前はあんなにも勝気だったお主が、一体どうしてしまったというのだ?"
"お、お前は・・・何故そんなにも私に優しくしてくれるのだ?私は・・・わ、私は・・・それが分からぬのだ"
初めて彼と出逢った6週間前のあの日・・・もし仮に彼がこんな私に恋心を抱いたのだとしても、本来誇り高いはずの雄火竜が果たして雌を相手にこれ程までに尽くしてくれるものなのだろうか?
少なくとも私は、雄というものは子孫を残す為に交尾することだけを目的として番いを探すものだと思っていた。
だが我らの内に雌だけが交尾を承認する権利を持つという暗黙の掟があるが故に、雄は仕方無く雌に対して媚び諂うというのがかつて私が目にしてきた雌雄の在り方だったはず。
それなのに彼からは、そんな雄なら誰もが持っているはずの下心がまるで感じられない。
寧ろ最悪とも言えるあの最初の出逢いの印象から考えれば、仮に私に対してどんな熱心な求愛をしたところで拒絶される可能性の方が遥かに高いことは彼も知っていたことだろう。

"お主にはまだ言っていなかったが・・・我の母は人間の、それもハンターの男との間に子供を儲けたのだ"
"な、何・・・?"
"我のこの蒼い体色は、そんな人間の血による突然変異の一種なのだろうな"
私はそんな彼の秘密に、それまで地面に落としていた視線を彼に振り向けていた。
"母は毎日のように人間の父と逢瀬を繰り返しては、我さえもが羨む程に楽しく笑っていたものだった"
"何故・・・人間などとの間に・・・"
"両親の馴れ初めは我にも分からぬ・・・だが我は人間の父から、打算無く他者を慈しむ心というものを学んだのだ"
つまり彼が何の見返りも求めることなく私の身を案じてあれこれ尽くしてくれるのは、彼の父親である人間のハンターの影響だというのだろうか・・・?
"だから我の行動に、お主が負い目を感じる必要は何も無い。さあ・・・返事を聞かせてくれぬか・・・?"
"おのれ・・・ひ、卑怯だぞ・・・そんな話を聞かされてしまったら・・・こ、断れるはずがないではないか!"
私は精一杯の照れ隠しに語気を強めてそう言いながら地面に横たえていた体を起こすと、相変わらず柔らかな微笑を浮かべていた彼の顔に自身の頬を擦り付けたのだった。

それから1時間後、私は彼の住み処がある火山に向けて眩い太陽が照り付ける空の下で懸命に翼を羽ばたいていた。
流石は空の王者というべきか、私の少し前を飛ぶ彼は大きな蒼い翼を広げながら実に華麗にその身を翻している。
そんな彼の曲芸飛行を楽しみながら更に飛び続ける内に、やがて前方に白煙を噴き上げる地底火山が見えてきた。
雄火竜の住み処があると知っていながら、まだこれまでほとんど足を踏み入れたことの無い灼熱の大地。
だが子育てのことを考えなければ、火竜である私にとって火山は別段棲み難い土地ではない。
外敵の侵入し難い過酷な環境であればある程、そこに適応出来る者にとっては最適な住み処となり得るのだ。
そして彼について真っ赤な溶岩が流れる広大な洞窟へ降りていくと、私は熱く焼けた岩の上にそっと着地していた。
"ここが、我の塒だ"
"成る程、思ったよりも良い場所なのだな。これで獲物の数が足りているのなら、何も言うことは無いのだが・・・"
"それは仕方が無いだろう。卵を産む時は、我ら揃って天高く聳える岩山の頂上にでも移り住めば良いではないか"
確かに、それもそうだな。
私はそんな彼の言葉に納得すると、砂漠からここへ辿り着くまでの間中ずっと彼に言おうと心の中で念じていた言葉をようやく吐き出す決心を固めていた。
"では・・・その・・・そ、そろそろ夫婦の契りを交わさぬか・・・?"
"もちろんだ"
私はすぐさま返って来たそんな彼の返事に緊張の度合いを高めると、両脚でしっかりと大地を踏み締めたまま恐る恐る身を低めて彼を受け入れる心の準備を整えたのだった。

やがてそんな私の背後から、彼がゆっくりと覆い被さってくる。
そして地面に垂らした尻尾を跨ぐようにして興奮にそそり立つその雄々しい肉棒を私の股間へ近付けると、クチュリという淫靡な水音とともに左右へ開いた秘裂にそっとその先端が触れていた。
そして数秒の沈黙が流れた次の瞬間、太い雄槍が私の体内を勢い良く突き上げる。
ズグッ・・・!
「グァオッ・・・!」
生まれて初めて感じる、熱い雄の感触。
ねっとりと蕩けた愛液を帯びる無数の襞を押し分けて徐々に奥深くへと侵入してくる彼の肉棒から、えもいわれぬ快楽と興奮がまるで稲妻のように全身を駆け巡っていった。
「グゥッ・・・グオッ・・・ゴアアァッ!」
だが彼もまた断続的に締め付ける私の責めに甲高い咆哮を上げると、次第次第にその抽送が激しくなっていく。

ズブッ、ズグッ、ドスッ・・・
"う・・・ぁ・・・こ、これ以上は・・・ぁ・・・"
膣内を滅茶苦茶に掻き回す肉棒の刺激に、弛緩した口元から唾液が溢れ出してしまう。
火竜に生まれたが故なのか生来熱いという感覚を感じたことなどほとんど無いというのに、私は正に体中が燃えるような熱を帯びていく感触を確かに味わっていた。
カプ・・・
「グガッ!?」
だが今にも達してしまいそうだった私に追い打ちを掛けるかのように、背後から首を伸ばしてきた彼が私の首筋をその牙で軽く咥え込む。
その瞬間それまで感じていた刺激が数倍にまで増幅され、私は薄れ掛けた意識で桃源郷の縁を彷徨い歩いていた。

これで、良いのだろうか・・・?
我は極限にまで昂った雄の本能に任せて幾度と無く彼女を貫きながら、先程も落ち着かせようとして舌を這わせた彼女の首筋にほんの少しだけ牙を突き立てていた。
と同時にビクンという衝撃が彼女の体を突き上げ、絶頂の予兆が激しい震えとなって我の肉棒へと伝わってくる。
もう少し・・・もう少しだけ、力を入れてみても良いだろうか・・・?
そして最早悪戯心とさえ呼べる小さな好奇心に打ち負けて咥え込んでいた彼女の首を更にギュッと噛み締めると、肉棒を締め付ける彼女の膣が力強い蠕動とともに我の雄を吸い上げる。
ジュプッ!ギュグッ!グジュブッ!
「グオァッ!?ゴアッ!ガアアアッ!」
まるで自身を打ち倒した敵を道連れにするかのような、断末魔の如き凄まじい搾動。
彼女同様既に限界寸前だった我がその強烈な責めになど耐えられるはずも無く、屈服の脈動に震える肉棒から大量の白濁が彼女の体内へと吐き出されたのだった。

「アガ・・・ガゥ・・・」
「グウ・・・ゥ・・・」
そして数十秒にも亘る長い絶頂の快楽に燃え尽きると、我は彼女に凭れ掛かるようにして地面に崩れ落ちていた。
"だ、大丈夫・・・か・・・?"
"お、お前の方こそ・・・最早虫の息ではないか・・・"
熱を帯びた荒い息が交錯し、結合の解けた互いの秘部から糸を引く雄汁が零れ落ちていく。
"な、何分・・・雌との交尾はこれが初めてなのでな・・・これ程の疲労が伴うものだとは想像も出来なかったのだ"
我はそう言うと、我以上に濃い疲労の色を浮かべている彼女の頬をそっと舐め上げていた。
"さあ、今日はもう休むと良い・・・今日の食事は、我が獲って来るとしよう"
"あ、ああ・・・そうだな・・・では、お言葉に甘えさせてもらうとしようか"
やがて心底疲れ切ったという様子で地面に横たわった彼女の様子に安堵の入り混じった大きな息を吐きながら、我は洞窟の天窓から覗いているまだ明るい空をじっと見上げていた。
この時間なら、まだ草食竜達も外を出歩いていることだろう。
そしてそんな期待を胸に大きく翼を広げると、我は一気に空に向かって飛び上がったのだった。

それから数日後・・・
我は依然として、彼女とともに地底火山の奥地で平和な一時を過ごしていた。
交尾から凡そ1週間足らずで卵が産まれるとあって今日明日にでも産卵の為に天高く聳える岩山へと住居を移そうかと考えているのだが、やはりまだ彼女の中には未知の飛竜に対する恐怖心が焼き付いているらしい。
この火山にもその飛竜が現れる可能性はもちろんあるのだが、少なくとも彼女にはただの岩山に比べればまだこの場所の方が安全に思えるのだろう。
だがどうしたものかと思って隣で体を休めている彼女を見つめている内に、我はふと異質な気配を感じ取っていた。
どうやら、我の縄張りであるこの火山に外から足を踏み入れた者がいるらしい。
何処ぞのハンターが我の命を狙ってやって来たのかも知れないが、彼女を護らなければならない立場上侵入者の正体は早い内に確かめに行った方が良いだろう。
"ど、どうかしたのか・・・?"
やがて不安げな表情を浮かべて空を見上げていた我に気付いたのか、彼女が怪訝そうな声を我に投げ掛けてくる。
"誰かは判らぬが、外敵がやって来たようだ。少し狭いが、お主はそこの崖上にでも身を隠しているといい"
我はそう言って住み処の隅にある高台を目で指し示すと、おずおずと頷いた彼女を残して空へと飛び上がっていた。

"これは・・・やはり・・・"
先程までは我もハンターがやって来たのではないかと思っていたのだが、西にある地底火山の入口へと向かうに連れて明らかに人間とは異なる不穏な気配が色濃くなっていく。
実際に姿を見るまでは我も確信を持てないものの、これは恐らく飛竜の気配だろう。
一体誰に向けてのものなのかは分からないが、この気配の主が凄まじい殺気を放っていることだけは分かる。
そしてようやく長い縦穴の下に佇む広大な地下空間へと降り立つと、我は何処からとも無く飛来した黄金色の飛竜の姿に心臓の鼓動を早めたのだった。
奴だ・・・!
初めてその姿を目にしたのにもかかわらず、そんな確信めいた予感が瞬時に脳裏を過ぎる。
彼女から聞いた特徴とこの身に突き刺さる黒々とした殺意、それに小柄な体躯でありながら禍々しささえ感じるその危険な気配に、我は全身の鱗が逆立つような緊張感に身を震わせていた。

「グオアアアアァァッ!」
やがて怒りの篭った我の威嚇に応じるかのように、正面に舞い降りた黄金色の飛竜がまるで刃の如く研ぎ澄まされた全身の鱗を逆立たせながら甲高い咆哮を上げる。
だがそんな我らの一触即発の睨み合いの最中に、突然何処からかフラリと1人のハンターが姿を現していた。
その両肩に頑強な鎧竜の甲殻をあしらった白い防具を纏い、背に真っ赤な巨竜の爪を模した大槌を担いだ屈強な人間の男・・・
彼女から聞いた通りの姿をしているということは、正にこのハンターが先日彼女を襲った張本人なのだろう。
とはいえ、今は人間よりも眼前の飛竜の相手をする方が先というものだ。

我はそう思って一時的に眼前のハンターの存在を意識の外に追い出すと、我と同じく突如として現れた乱入者の姿に微かな動揺を示していた飛竜へ向けて猛然と突進していった。
やがてその怒涛の勢いに驚いたのか寸でのところで身をかわしたハンターには目もくれずに、飛竜に向けて大きく振り被った牙を勢い良く振り下ろしてやる。
だがそんな必殺の噛み付きが中空に飛び上がった飛竜の足元を掠めると、我は背後に回った敵が崖の上に着地したのを見て翼を羽ばたいていた。
それを受けて、飛竜もまたフワリとその身を浮き上がらせる。
生意気な・・・空を統べるこの我に、空中戦を挑もうとでも言うのだろうか?
身の程知らずとも言えるそんな飛竜の行動に触発され、我はバサリと翼を翻すと素早く飛竜へと飛び掛かっていた。
しかし流石に安直な攻撃だったのか、唸りを上げて振り回された剣山の如き尾が我の顔を横殴りに打ちのめす。
「グアッ!」
流石の我もその強烈な一撃には体勢を保っていられずに一旦地面へ着地すると、間髪入れずに弧を描いて蹴り掛かって来た鋭利な爪を小さく飛び上がって避けながら慎重に相手の動きを見定めたのだった。

やがて隙を突いたはずの奇襲をかわされた飛竜が微かな驚きの表情を浮かべながら再び宙に舞い上がると、その動揺が次の攻撃の予兆をこれ以上無い程にはっきりと我に伝えて来る。
そして予想通り低空飛行で飛び掛かって来た飛竜をお返しとばかりに力一杯振り抜いた尾で迎撃してやると、派手に吹き飛ばされたその巨体が轟音とともに太い岩壁へと勢い良く激突していた。
更には何時の間にそこに逃げ込んだのか岩の陰で先程のハンターが身を伏せたのが一瞬目に入ると、目障りな敵を纏めて焼き尽くしてくれようとすぐさま空中から巨大な火球を吐き出してやる。
だが一旦は地面の上に倒れ込んだはずの飛竜は次の瞬間には体勢を立て直すと、驚くべき俊敏さで飛び上がって迫り来る業火から身をかわしていた。
ついでに仕留めようと思っていたハンターも寸での所で飛び退り、標的を外してしまった火球が大きな爆発とともに荒れた岩地を黒く焦がす。

その段になって、我はようやくこの小柄な飛竜の力を侮っていたことに気が付いていた。
確かに体は我と同じかそれよりも少し小さい程度なのだが、空中での機動力は少なく見積もっても我と五分以上、地上での敏捷さに至っては比べるまでもなく奴の方が上だろう。
話を聞いた限りでは空を飛ぶのはやや苦手な種なのかとも思っていたのだが、彼女がこ奴から逃げ切れたのはやはりあのハンターの存在による影響が大きかったのに違いない。
やがて強敵と認めた飛竜とお互いに円を描くようにして空中に舞い上がると、我はもう1度火球を吐き出そうと大きく息を吸い込んでいた。
だがそんな我の機先を制するように、一瞬にして距離を詰めてきた飛竜がその両脚から生え伸びた長い鉤爪を剥いて素早く掴み掛かってくる。
「ゴアアァッ!」
そして空中で揉み合うようにして揚力を失った2匹の巨体が落下し始めると、我は地面に激突する寸前で飛竜を引き剥がすことに成功していた。

バサァッ!
体が自由になった瞬間に大きく翼を羽ばたいて何とか墜落は逃れたものの、相手も同じように平然と体勢を立て直したことが再び我の自尊心を激しく傷付ける。
空で我に敵う者など誰もいないと高を括っていただけに、我はなかなか決定的な一撃を与えられないことに些かの焦燥を感じ始めていた。
彼我の距離が近付くにつれて緊張と興奮の度合いが加速度的に上昇し、やがて眼前に迫った飛竜の首筋に目掛けて怒りの篭った牙を振り下ろしてやる。
だがそれすらもがヒラリと華麗にかわされると、我は一瞬だけこちらに向けられた飛竜の背を蹴り飛ばしていた。
そして空中で僅かながらよろめいた飛竜に向けて高空から毒爪を構えて急降下攻撃を仕掛けてみたものの、やはり驚異的な身軽さで身を翻した相手が今度は我に向けて強烈な2段蹴りを敢行する。
"おのれ小癪な!"
如何にこ奴がその並外れた俊敏さを武器にしているのだとしても、空中戦でこんな新参者に遅れを取っているようでは空の王者としての我の沽券に関わるというものだ。
我はそんな激憤に背後から空を切って襲い掛かってくる鋭い爪の一撃を潜るようにして回避すると、岩壁を蹴ってなおも我の頭上を取ろうとする飛竜を追って洞窟の外へと飛び出していた。

朝方の晴れ渡った空の下で、蒼と金の巨竜が険しい表情を浮かべて相対する。
高度が高いせいかかなり風が強く、我に比べて翼の小さな飛竜は体勢を維持するのにより激しく翼を羽ばたく必要があるらしい。
時間にすればほんの2分足らずという短い戦いではあったものの、お互いの心身に溜まった疲労がそろそろ限界を迎えようとしているだろうことは我にも分かる。
体力だけは我の方に分があったのか険しい表情を浮かべている飛竜は明らかに息を荒げていて、我はずっと不利だった形勢がようやくこちらに傾いてきたことを感じ取っていた。
今なら、この敏捷な飛竜を捉えることも難しくはないはず・・・
だがそう思って再び両翼に力を入れようとしたその刹那、飛竜が自身の劣勢を悟ったのか微塵の躊躇も無くその場から逃げ出してしまう。
"貴様、逃げるのか!"
やがて咄嗟に背後から浴びせたそんな罵声も空しく・・・
我の縄張りを荒らした不埒な飛竜はあっと言う間に我の視界からその姿を消してしまったのだった。

冷たい強風の吹く空に独り取り残されて、しばしの静寂が興奮に滾っていた我の体を冷ましていく。
そして遥かな眼下で我らの戦いを見守っていたハンターと一瞬だけ目を合わせると、我は小さく息を吐いて彼女の待つ住み処へと帰るべく身を翻したのだった。
あの人間とも近い内に相見えることがあるかも知れないが、今はとにかく住み処に残してきた彼女の様子を確かめる方が先というものだろう。
たった一晩・・・それも1度だけしか体を重ねていない彼女のことを果たして妻と呼んでも良いのかは分からないものの、妻を護ることだけが我の成すべき唯一の使命だったのだから。

やがて火山の最奥にある住み処の洞穴に降りていくと、我は言い付け通り長い縦穴の岩壁に張り出した狭い足場の上で窮屈そうに縮込まっていた彼女の姿に不覚にも苦笑を漏らしてしまっていた。
"帰ったぞ"
"ああ・・・ま、待っていたぞ。もう危険は無いのか・・・?"
初めて彼女と出逢ったあの日、鋭く我を睨み付けた気丈な陸の女王は一体何処へ行ってしまったのか・・・
余りにも落差の激しいその変貌振りに、微かな落胆とそれ以上の愛着が湧いてきてしまう。
"一先ずはな・・・だが、例の飛竜とお主を襲ったハンターが両方とも姿を現したのだ"
"うっ・・・"
我のその言葉に、彼女の顔に渋い表情が浮かび上がっていた。
だがそれはどうやら、同時に出現した2つの脅威に対しての狼狽ではないらしい。
"お、お前も、怪我をしているではないか"

そう言われて、我は彼女とともに地面に降り立つと自身の顔を長い舌でなぞっていた。
あの刃の塊のような尾を思い切り顔に叩き付けられたのだから確かに鱗や甲殻が多少傷んでいたとしても不思議は無いのだが、自分では特に異常は感じられない。
"別に何も問題は・・・"
やがて彼女を安心させるように微笑を浮かべながらそう言い掛けた次の瞬間、そっと伸びて来た彼女の舌が我の頬を優しく舐め上げる。
ペロッ・・・
その微かにくすぐったい刺激の中に確かに鱗の欠けた場所があることを感じ取ると、我は優しい妻の介抱にしばらくの間身を任せていたのだった。

"それで・・・これからどうするのだ・・・?"
"そうだな・・・このまま岩山へと向かっても良いが、流石にあの連中を野放しにしておくわけにもいかぬだろう?"
言いながら同意を求めるように彼女の顔へ視線を向けると、その先に夫の身を案じる妻の表情が貼り付いている。
"そ、それはもちろんだが・・・私は、お前が心配なのだ・・・"
殺意を振り撒く凶暴な飛竜と、巨竜をものともしない屈強な人間のハンター・・・
そのどちらにも煮え湯を飲まされてしまった彼女にとって、唯一の心の拠り所が我の存在なのだろう。
"それは我とて同じこと・・・だからこそ、お主を護る為にもあ奴らとは何らかの決着を見ておかねばならぬのだ"
広大な地底火山の中に交錯する、侵入者達の不穏な気配。
それが再び色濃くなってきたことを感じ取り、我はそっと彼女から身を離して蒼鱗の翼を広げていた。

"我の妻に、こそこそと逃げ回るような姿はやはり相応しくない。お主は、そこで堂々と我の帰りを待っていてくれ"
"あ、ああ・・・"
宙に舞い上がる我の後姿を、妻の心配そうな視線が追い掛けて来る。
戦場に向かう夫の姿を見送るその悲壮な思いの詰まった眼差しに、我は決死の覚悟を胸の内に固めて更に翼を羽ばたいていた。
ハンターの脅威に関しては、正直なところ何処に移り住んだ所で大した違いは無いことだろう。
奴らは我ら飛竜を狩り出す為だけに存在する、いわば我らにとって唯一とも言える天敵なのだ。
だがあの飛竜は・・・他者の縄張りを荒らし、周囲の者を見境無く傷付け、自身が不利と感じたならば躊躇無く逃げることを選ぶ卑劣な害虫だ。
あ奴だけでも我らの前から除かなければ、妻の心労が癒えることは無いだろう。
そして2つの気配が乱れている山頂付近の岩棚へ向かうと、我はそこで信じ難い光景を目の当たりにしたのだった。

「ゴアアアアァッ!」
高温の熱気に満ちた地下空間とは異なる何処か寒々しささえ感じられる山頂の岩地に、殺意と憤怒の入り混じった飛竜の咆哮がこだまする。
だがその矛先は上空に浮かんでいた我に対してではなく、巨大な槌を振り上げながら飛竜の周囲を機敏に走り回るあのハンターに対して向けられているらしかった。
ここからでは距離があるせいでその戦況を詳しく読み取ることは難しかったものの、ハンターの振るう巨竜の爪を模った大槌を打ち当てられる度に飛竜の刃のような黄金色の鱗が勢い良く弾け飛ぶ。
とは言え全身が鋭い刃物とも言えるあの飛竜との戦いで無傷を保っていることは流石に難しかったのか、強靭な鎧竜の甲殻に護られているにもかかわらず人間もまたその全身に無数の裂傷を負っているらしかった。

ゴッ!
やがて空から人と竜の熾烈な戦いを見守っていた我の耳に、重々しささえ感じられる鈍い打撃音が届いて来た。
遠心力を利かせて力一杯振り上げた大槌が見事に顎を捉えたらしく、首を大きく撥ね上げられた飛竜が苦悶の表情を浮かべながら大地に卒倒する。
あんな一撃を食らっては、激しい眩暈を起こしてしばらく体を起こすことが出来ないに違いない。
経験豊富なあのハンターもそれは十分に承知しているらしく、苦しげに悶える飛竜に止めを刺そうとまたしても重い槌を振り被っていた。
そして全身の力を注ぎ込むかのように意識を集中すると、高々と振り上げたその凶悪な鈍器を飛竜の頭に目掛けて振り下ろす。

その直後、思わず傍で見ていただけの我が身を竦めてしまう程の凄まじい震動と轟音が周囲を揺らしていた。
「ゴア・・・ァ・・・」
固い岩の地面と巨大な槌に挟まれて、無惨に拉げ潰れた飛竜の頭がピクピクと痙攣している。
まさか・・・この我さえもが梃子摺ったあの手強い飛竜を、あんな小さな人間が仕留めてしまうとは・・・
だが眼前で起こった衝撃的な出来事に驚きの表情を浮かべたまましばらく様子を見ていると、人間が仕留めたはずの飛竜に今度は腰から取り出した小さなナイフを突き立てていた。
恐らく、ああして自身の身に纏う武具の素材を切り出しているのだろう。
我も以前渓流で出会ったあの赤髪のハンターに切断された自分の尾から掘り出した玉石を渡したことがあったが、彼の喜びようを見るにハンターにとって飛竜の素材というものはそれ程価値が有り重用されるものらしい。
やがてあの苛烈な死闘を経ても奇跡的にまだ無傷のままだった幾つかの部位から飛竜の素材を剥ぎ取ると、立ち上がった人間が空に浮かんでいた我の方を真っ直ぐに見据えていた。

切り刻まれた鎧のあちこちから深い裂傷による出血が続いているというのに、あのハンターはその満身創痍とも呼べる体でこの我をも相手にするつもりらしい。
恐らく彼がこの火山へとやって来た本来の目的は、最初からこの我の討伐だったのだろう。
だがその目的の遂行の邪魔になるという理由で、彼は危険を冒してまであの飛竜に先に戦いを挑んだのだ。
そしてその挑戦に応えるべく勇敢なハンターの前にゆっくりと舞い降りると、我は血塗れの鬼気迫る表情で我を見据える鋭い眼光を正面から受け止めてやった。
敵は我の体長に比してもほんの1割程にしか満たぬ、小さな小さな人間・・・
それなのに、胸の内にあの飛竜との戦いの時以上に熱い興奮が湧き上がってくる。

「グル・・・グルルルル・・・」
やがて精一杯の殺気を漲らせたそんな唸り声にも動じることなく大槌を構えると、人間が意外にも正面から我に向かって飛び掛かって来ていた。
ブオン!
次の瞬間、力一杯振り下ろした槌の重さを利用して瞬時に我の鼻先に飛び込んで来たハンターが更に体重の乗った返しの一撃を我の顎目掛けて振り上げる。
「グオッ!?」
だがその重量を生かした強烈な打撃力以上に槌自身が放っている危険な雰囲気を感じ取ると、我は咄嗟に首を捻ってその振り上げを正に紙一重でかわしたのだった。

チッ!
唸りを上げて顔を掠めた槌の側面が、完全には避け切れなかった我の頬に微かに掠る。
「グッ・・・!?」
その瞬間まるで痺れるような激痛が全身に走り、我は先日聞いた妻の言葉を思い出していた。
このハンターの持つ槌に打たれると、奇妙な衝撃が体内を駆け巡るのだという。
まだその痛みの正体が一体何なのかまでは我には分からぬものの、迂闊に触れぬ方が良いことは間違い無いだろう。
我は近付き過ぎた彼我の距離を一旦離すべく大きく翼を羽ばたきながら後方へ飛び退くと、猛烈な風圧に煽られて動きを止めていたハンターに向けて灼熱の火球を吐き出していた。
だが一瞬早く体の自由を取り戻したハンターが素早くその場から飛び退き、空しく空を切った巨大な火球が岩壁に当たって盛大に爆発する。
まともに食らえば人間など一瞬にして灰と化すであろうその凄まじい威力には難を逃れたハンターも流石に驚愕の滲んだ表情を浮かべていたものの、すぐに気を取り直して槌を構えたまま走り出していた。

これだ・・・このハンターの凄まじいところは、己の危険も顧みず自身の10倍近い巨躯を誇る飛竜にも臆することなく飛び込んでいける無謀と背中合わせの大胆さなのだ。
そしてゆっくりと地面に降り立った我の背後に素早く回り込むと、ハンターがそちらを振り向こうと振り回した我の顔に向けて正面から大槌を振り下ろす。
ガッ!
「グガァッ!」
勢いの付いた顔に迎撃の形で叩き込まれた大槌の想像以上の破壊力に、我は圧し折られた数本の牙を視界の端に捉えながら再び体中に走った奇妙な痛みを懸命に堪えていた。
何という恐ろしい威力なのだろうか・・・
初め妻の話を聞いた時は原種の火竜よりも遥かに頑丈な我の甲殻にそれ程の被害を受けることは無いだろうと高を括っていたのだが、こんなもので脚を叩き潰されたら確かに我とてこの巨体を支えていられる自信は無い。

やがて流れるように重い槌を振り被ったハンターを咄嗟に振り回した尾で追い払うと、我は小さく飛び上がりながら眼前の"獲物"に向かって素早く蹴り掛かっていた。
ガスッ!
「うあっ!」
あの黄金色の飛竜との戦いで体力を消耗していたことがここにきて響いているのか、回避の間に合わなかったハンターの体を捉えた我の毒爪に確かな手応えが返ってくる。
距離が近かったせいか十分な速度が乗らず頑強な防具を貫いて猛毒をその身に打ち込むことは出来なかったものの、我は派手に吹き飛んだ人間を捕らえるべく巨体を躍らせてハンターに飛び掛かっていた。
我に楯突いた小賢しい人間め・・・その手足を踏み潰し、内臓を食い破ってから骨も残さず焼き尽くしてくれる!
バフッ!
「ウガッ!?」
だがそんな嗜虐的な思惑とともに人間の体を踏み付けたと思った次の瞬間、我は鼻先に凄まじい異臭を放つ糞の塊を投げ付けられて思わずよろめいてしまっていた。
その隙に、地面に転がっていた人間が体勢を立て直してしまう。

「グ・・・グガゥ・・・」
おのれ・・・あと少しで仕留められたというのに、恐ろしく機転の利く人間だ。
だが強烈な爪撃を受けたことで、あの人間も大分弱っているらしい。
その証拠に、さっきまでこの人間が纏っていた巨竜をも射竦める必殺の気迫が今はほとんど感じられない。
我は依然として悪臭を漂わせる自身の体に深い嫌悪感を覚えながらも、次こそ確実に人間を仕留めるべく今度は空高く舞い上がっていた。
そして眼下で息を荒げている標的に慎重に狙いを定めると、両脚の毒爪を構えて勢い良く急降下する。
ゴオオォッ!
ハンターも流石に防具だけではその我の攻撃を防げぬと確信したらしいものの、あの重い槌では眼前に翳したところでロクに身を護る役には立たないはず。
だとすれば、あのハンターがこれから取る行動は1つしか無い。

やがてそんな我の予想通り素早くその場から飛び退こうとしたハンターの姿を目で追うと、我はほんの少しだけ翼を傾けて激しい降下の軌道を修正していた。
愚か者め・・・そんな浅知恵で空の王者たる我の爪から逃れられるとでも思ったか!
ズガガッ!
「ぐああぁっ!」
そして飛び転がった姿勢でこちらに向けられていたハンターの背中に力一杯体重を乗せた毒爪の一撃を叩き込むと、我は紙屑のように吹き飛んだままピクリとも動かなくなった人間にゆっくりと近付いていった。
「か・・・はぁ・・・」
余程鎧竜の甲殻が頑丈なのか、或いは日頃の鍛錬によって強靭な肉体を鍛えているからなのか、我の全力を込めた爪撃を受けたにもかかわらず驚くべきことにまだ息があるらしい。
だが全身に回った猛毒で最早体が動かないらしく、我は仕留めた人間の様子をしばらくじっと見つめていた。

「ぐ・・・がふ・・・」
"ふむ・・・"
このまま止めを刺してやっても良いのだが、我は1つ妙案を思い付くとぐったりと弛緩した人間の体を片足の鉤爪でそっと掴み上げていた。
そして大きな翼を広げて天高く舞い上がり、妻が待つ我の住み処へとその鼻先を向ける。
「う、うわぁ・・・ぁ・・・」
巨竜の爪に捕らえられたまま遥かな高空からの景色を見せられた人間が恐怖の悲鳴を漏らしたものの、我はフンと小さな鼻息を吐いてそんな獲物の狼狽の声を涼しく聞き流していた。

バサッ・・・バサッ・・・
胸の内に湧き上がる不安を懸命に押さえ付けながら辛抱強く夫の帰りを待っていた私の耳に、何処からか散々に待ち焦がれた翼を羽ばたく音が届いて来る。
彼が・・・帰って来た・・・!
そしてそんな嬉しさと安堵を胸に天井に開いた長い縦穴から空を見上げていると、しばらくして1人の人間をその脚の爪に捕らえた彼がゆっくりと舞い降りてくるのが目に入っていた。
所々真っ赤な血に染まってはいるものの、ゴツゴツとした白っぽい防具を身に着けているところから察するに恐らくあれはこの私を襲った例のハンターなのだろう。

"帰ったぞ"
ドサッ
「う、うぐ・・・ぅ・・・」
やがて彼が掴んでいた人間をポイッと私の眼前に放り投げると、受け身も取れずに岩の地面に激突した人間が苦悶の声を上げる。
"この人間は・・・一体どうしたのだ?"
"お主もこ奴への復讐を望んでいるだろうと思ってな・・・息のある内に連れて来たのだ"
グッ・・・
そう言いながら、彼が地面に這い蹲っていた人間の両脚を逃げられないようにそっと踏み付ける。
"さあ・・・お主の好きに料理してやると良い"

私はそんな彼の言葉に歓喜を覚えると、目の前に縫い付けられた憎きハンターをじっくりと眺め回していた。
「ひ・・・ひぃ・・・」
人間も私の顔を見て自身の置かれている絶望的な状況を悟ったのか、激しい恐怖の滲んだ情け無い悲鳴を上げる。
「た、助けて・・・うわああぁ・・・」
著しい体力の消耗か、或いは彼の毒爪を受けて体の自由が利かないのか、必死に命乞いの言葉を漏らしているらしい人間が緩慢な動きで熱い岩の地面を掻き毟る。
そんな無力な獲物の姿を見ている内に心の奥底に眠っていた嗜虐心が蘇り、私は人間の体をゆっくりと焦らすように大顎で咥え上げていた。

カプッ
そして持ち上げたハンターの胴体をしっかり咥え直すと、じわじわとその身を噛み締めてやる。
メキ・・・ミシミシ・・・バキッ・・・
「ああ・・・い、嫌だ・・・たす・・・け・・・」
岩のように硬い鎧竜の甲殻には流石に牙がほとんど刺さらないものの、凄まじい咬合力で噛み潰されていく防具の破壊音と徐々に強くなる絶望的な圧迫感に人間が無様に泣き叫んでいた。
グシ・・・メリメリメリ・・・ミキ・・・ゴギッ・・・
「ひいいぃ・・・」
人間の骨が砕ける音か、或いはその身に纏う防具が拉げただけなのか・・・
口内に弾ける小気味良い歯応えに、人間の悲鳴が心地良い彩りを加えていく。

やがて咥え込んだ人間を存分に甚振って溜まりに溜まっていた溜飲を下げると、私は唾液塗れになった岩の塊の如き人間をペッと地面に吐き出していた。
ドシャッ・・・
「あ・・・ぅ・・・」
お陰でこの人間に顔を殴られ脚を叩き潰された怒りは大分和らいだものの、まだ息のある獲物を黙って見逃す程私は慈悲深い存在ではない。
そしてほとんど原形を留めぬ程に拉げ潰れた防具のお陰で最早芋虫のように地面に転がることしか出来なくなった瀕死の人間に冷たい笑みを向けると、私は地面を踏み締めていた巨大な健脚をゆっくりと持ち上げていた。
「あ・・・あぁ・・・」
それを見てこれから何をされるのかを悟った憐れな獲物が、動かぬ体を必死に揺すっては恐怖に震えている。
私はそんな無様な仇敵の姿を心行くまで堪能すると、大きく持ち上げた脚を人間の上に振り下ろしていた。

グシャッ!
「ぎゃっ・・・!」
一応は潰さぬように手加減したものの、巨大な脚に背中を踏み付けられた人間の体が僅かにくの字に折れ曲がる。
「グルルルル・・・」
「あが・・・は・・・ぁ・・・」
そして興奮の唸り声を上げながら地面に押し付けたその体をグリグリと踏み躙ってやると、今にも消え入りそうなか細い声が人間の口から零れていた。
何という心地良さなのだろうか・・・
心中に燻っていたこの人間に対する怒りが途中から獲物を弄ぶ残酷な遊び心に変わり、緩んだ口元から唾液が糸を引いて垂れ落ちてしまう。

"我の贈り物は気に入ってくれたようだな"
"ああ・・・もちろんだ。それにしても、よくこの手強いハンターを仕留められたものだな"
"例の飛竜との戦いで大分疲弊していたようだからな・・・万全の状態であれば、我も苦戦を強いられただろう"
だが彼から返って来たその言葉を聞いて、私は人間を踏み躙る脚の動きをピタリと止めていた。
"な、何・・・?この人間が・・・あの飛竜と戦っていたのか・・・?"
"そうだ・・・あ奴を仕留めたのは、我ではなくその人間なのだ。図らずも、お主の仇を討ったということになるな"
その俄かには信じられない事実に、最早意識も朦朧としているらしい弱り切った人間の上から脚を退けてやる。
"どうした?憎い人間なのだろう?止めは刺さぬのか?"
"確かにこ奴は憎くて憎くて堪らぬが・・・"
あの恐ろしい飛竜を打ち倒した・・・
その一事が、私の中に自分でも説明の付かないある種の異変を引き起こしたらしかった。
"私の仇を討ってくれたことと・・・お前を育ててくれたというハンターの父親に免じて、命だけは見逃してやろう"

我は半ば予想していたはずのそんな妻の言葉に驚きながら、虫の息で浅い呼吸を繰り返していた人間の顔をそっと舐め上げていた。
「うっ・・・うぅ・・・」
怪我の痛みと猛毒で酷く衰弱はしているものの、まだしばらくは意識がもつだろう。
それに先程から崖の上でチラチラとこちらの様子を窺っている白い猫達も、我らがここから立ち去るのを今か今かと待ち侘びているらしい。
"では・・・後顧の憂いも断ったところで、新たな住み処を目指すとしようか?"
"ああ、そうだな"
そしてそんな妻の返事に翼を広げると、我は彼女とともに鮮やかな夕焼けに染まった空へと舞い上がったのだった。

それから約1時間後・・・
我はすっかり暗くなった夜の帳の向こうに見えてきた天を衝くような岩山の姿に、身重の体で懸命に翼を羽ばたいている背後の妻へと視線を振り向けていた。
夕方頃に地底火山を出発した時はまだ空も綺麗に晴れていたというのに、今はどんよりとした厚い雲が月明かりや星の光を完全に覆い隠してしまっている。
岩山の頂上は雲の中に隠れているせいでそれがどれ程の標高を誇っているのかは分からないものの、我は遥か上空から零れ落ちた岩の欠片が降り注ぐその何処か幻想的な光景を一目で気に入っていた。
願わくば彼女も、そうであって欲しいのだが・・・

やがて眼前に立ち塞がる巨大な岩壁にそって更に高空へと舞い上がると、我はその途中に見つけた塒に適していそうな窪地へと降り立っていた。
全体の標高から考えればここでもまだ5合目にさえ達していないのかも知れないが、それでも地上は遥かに遠い。
身軽な人間のハンターであれば険しい岩地やツタを攀じ登ってこんな場所へもやって来れるのかも知れないが、少なくとも翼を持たぬ竜や獣達には到底近寄れぬ飛竜の聖域とでも呼ぶべき立地なのは間違い無い。
"ここに・・・住み処を構えるのか?"
"それが良いだろう。ここより上は空気も薄く飛び上がるのに苦労するし、子供達の体にも良くはないだろうからな"
妻はそんな我の言葉に納得すると、枯れ木や獣の骨などで設えられた丸い寝床の上にそっとその身を横たえていた。
"おお・・・なかなか良い寝心地ではないか"
恐らくは他の飛竜達が作った寝床なのだろうが、適度な温もりと柔らかい感触に彼女も満足しているらしい。

"お主が気に入ったようで何よりだ。では、我は何か獲物を獲ってくるとしよう"
"そう言えば、結局今日はお互いまだ何も食べていなかったな・・・"
そう言いながら、彼女が空腹の唸りを上げているのだろう自身の腹を一瞥する。
"お主の分も我に任せるが良い。山の麓には大型の草食竜が生息しているようだし、食料に困る心配は無いはずだ"
"そうか・・・何だかお前には世話を掛けてばかりのような気がするが、子供達の為にも頼んだぞ"
子供達・・・その彼女の言葉に、我ははっと顔を上げていた。
恐らく彼女の腹の中には、1つだけではなく複数の卵が出来上がりつつあるのだろう。

確かに我も姉とともに元々は3つあった卵から産まれたということだから、雌火竜が1度に複数の卵を産むのは別段珍しいことではないのかも知れない。
だが自分の子供が大勢産まれてくるのだという実感が言い知れぬ喜びの興奮に変わると同時に、我はもう間も無く妻が迎えるのだろう産卵という名の試練の過酷さにもまた想像を巡らせていた。
"どうしたのだ?呆けたような顔をして・・・"
"いや・・・何でもないのだ"
そして怪訝そうな面持ちで問い掛けられた彼女の言葉に首を振って誤魔化すと、我は獲物を求めて漆黒の闇夜へと飛び込んでいったのだった。

それから更に数日が経った頃・・・
「グ・・・グゥ・・・ガゥッ・・・」
「・・・?」
我は朝方早くに目を覚ましたらしい妻の苦悶の声に、まだ眠気の残る目をそっと開けていた。
見れば産まれてくる卵の為に新たに設えた温床の上で、彼女が必死に息んでいる。
だが思った以上に卵が大きいのか、もう数分が経っているというのになかなか卵が出てくる気配が無い。
"大丈夫か・・・?"
「ウグ・・・グアッ・・・ガゥアッ・・・」
そんな呼び掛けにも返事どころかくぐもった呻き声が返って来るだけということは、恐らく懸命に痛みを堪える余り我の声もほとんど聞こえてはいないのだろう。
とは言えこれは雌に与えられた至上の権利であり、同時に生涯で最大の試練なのだ。
我に出来ることは、妻と卵の無事を祈りながら命を生み出すその偉業を黙って見届けることだけ・・・
そして彼女の苦しむ声を聞きながら気の遠くなるような数分間をじっと耐え忍んでいると、ようやく灰色掛かった大きな卵の一部が彼女の腹部から顔を覗かせたのだった。

ズ・・・ズズズ・・・
徐々に徐々に卵管を通り抜けていく大きな異物の感触が、耐え難い苦痛となって全身に飛び火する。
「グ・・・グゥ・・・アゥ・・・ア・・・」
だが必死に牙を食い縛って今にも裂けてしまいそうな下腹部にゆっくり力を込めていくと、3割程顔を出していた卵が更に中程まで迫り出していた。
そんな私の産卵の様子を傍らでじっと見つめている夫の視線にも深い苦悩の気配が滲んでいて、絶えず流れ込んでくる言外の励ましが半ば折れ掛けてしまっている私の心を懸命に後押ししてくれる。
「ウグ・・・グウゥ・・・」
メリ・・・メリ・・・メリメリ・・・
だ、駄目だ・・・余りの苦しさに・・・これ以上力が・・・

そして延々と続く痛みと息苦しさがついに限界を迎えてしまうと、私は一休みしようと体の力を抜きながらフーッと大きな息を吐き出していた。
ズリュッ
「グオッ!?」
だがほんの少し股間の力を緩めた次の瞬間、折角半分程排出出来ていた卵が再び体内に押し戻されてしまう。
そ、そんな・・・
気を抜いた拍子に産まれそうだった卵がまた引っ込んでしまい、私は一瞬にして落胆のどん底に叩き落されていた。
そしてその一部始終を見守っていた夫に涙目になった顔を振り向けてみると、彼も深い落胆と私に対する同情の入り混じった表情をその顔に浮かべている。

突如としてこちらに向けられた妻の余りに情けない顔に、我も表面上は彼女への同情の念を表しながらも内心では噴き出しそうになるのを必死に堪えていた。
だが我の子供を産み落とそうと懸命に励んでくれている彼女を笑ったりすれば、後で一体どんな悲惨な報復が待っているか分かったものではない。
それに妻のあの疲れようを見る限り、激痛を堪えながら長時間息を止めて力むのは相当に辛い難業なのだろう。
"そう焦るでない。もう少しの辛抱ではないか。さあ、落ち着いてもう1度やってみるのだ"
そんな月並みな励ましの言葉に、妻がゆっくりと頷いて再び息み始める。
「クッ・・・グガッ・・・グゥッ・・・」
ズズ・・・ズズズズ・・・
先程1度は外まで出掛かったお陰か、今度は比較的抵抗無く卵を押し出すことが出来ているらしい。
だがどういうわけかやはり後一歩というところで卵が引っ掛かると、拡張され切った卵管がメリメリという耳を覆いたくなるような不穏な音を漏らし始めていた。

せめて、彼女の痛みだけでも和らげてやることが出来れば良いのだが・・・
そんな思いとともに激しい苦悶に顔を歪めている彼女を見つめている内に、我はふとあることを思い付いてそっと地面から体を起こしていた。
交尾の性感を増幅し心身への負担を和らげることの出来る、火竜の延髄・・・
つまりは彼女のそれを我が噛んでやることで、多少は鎮痛効果も見込めるのではないだろうか?
そしてそんな想像とともにじっと身を固めている妻にそっと鼻先を触れてみると、予期していなかったのだろう我の突然の接触に彼女がビクンとその身を震わせる。

"ど、どうしたのだ?"
"少し、我に考えがあるのだ。お主は、そのまま力を抜くでないぞ"
やがて事情を察した妻が再び股間に力を込め始めると、我は硬直していた彼女の首筋をそっと噛み締めていた。
カプッ
「グガアアッ!」
ググ・・・ポンッ!
その瞬間、まるで断末魔のような甲高い悲鳴を上げた彼女の下腹部から大きな大きな卵が勢い良く飛び出してくる。
更にはそれに続いて最初の卵よりも僅かに小さな卵が3つ程ポポポンと小気味良い音を立てて排出されると、重責を全うして力尽きた彼女がぐったりとその場に崩れ落ちたのだった。

「ウグ・・・アゥ・・・」
心底消耗した様子で息を荒げている彼女が、心配そうな顔で産んだばかりの卵へと視線を向ける。
"大丈夫だ、割れてはおらぬ。それにしても・・・まさか四つ子とは思わなかったぞ"
"子を産むのは確かに喜ばしいことだが・・・こんな苦しみはそう何度も経験したいものではないからな・・・"
確かに地面にへたり込んだまま首を動かすのも辛そうな妻の様子を見る限り、その言葉が本心から出たものであろうことは我にも容易に想像が付くというもの。
"お主は少し休んでいると良い。まだ少し早いが、我は狩りに行ってくるとしよう"
そしてそんな我の提案に妻から深い感謝が込められた視線が返ってくると、我は厚い雲の向こうにも存在が感じられる早朝の太陽を見上げながら外へと飛び出していったのだった。

それから数日後・・・
初めての産卵の疲労が相当に堪えたのかなかなか寝床の上から動こうとしない妻の世話を続けている内に、我は温床の上に置かれた卵からピシッという小さな音が聞こえてきたことに気付いてふと動きを止めていた。
"どうかしたのか?"
"いや・・・我にも詳しいことは分からぬのだが、そろそろ卵が孵化する頃合ではないのか?"
それを聞いた妻が、さっきまで放っていた酷く気怠そうな雰囲気がまるで嘘だったかのようにガバッと体を起こす。
・・・もしや・・・我は今の今まで彼女の仮病にまんまと騙されていたのでは・・・?
"お、お主・・・もう起き上がってもへい・・・"
だがそんな我の疑問の声を遮って、卵の1つに入っていたヒビ割れを見つけた妻が歓喜の声を上げる。
"おお・・・見ろ!産まれそうだぞ!"
まあ良いか・・・産卵に苦しむ妻の顔を見て思わず笑いそうになってしまったという負い目があるだけに、この程度の甘えは大目に見てやるのが夫としてのせめてもの務めなのだろう。
そして彼女の視線を追うようにしてヒビの入った灰色の大きな卵を見つめていると、やがてその小さな亀裂が一瞬にして全体に波及していた。

パキッ・・・
その数秒後、細かなヒビ割れに覆われた卵が突然内側から小さな鼻先で突き破られる。
「ピィ・・・?」
我や姉の例もあるだけにすぐに断定は出来なかったものの、微かに赤み掛かったあの顔は恐らく雄の子竜だろう。
更にはそれに続いて他の2つの卵にもほとんど同時にヒビ割れが走ると、それぞれの中からほんのりと緑掛かった雌の子竜達が這い出して来ていた。
「ピィッ!」
「ピピィッ!」
やれやれ・・・折角兄として産まれたのに、雌が2匹ではきっとこの子も妹達の尻に敷かれるのだろうな・・・
産まれた時間がほんの数秒違っただけで終始姉に頭の上がらなかった自身の経験があるだけに、そんな何処か自虐的とも言える嘆息が思わず零れてしまう。
だがけたたましいとさえ感じるような子供達の泣き声の中で妻とともに喜びを分かち合っていた我は、ふと最後に残った1番大きな卵がまだ割れていないことに何処と無く興味をそそられていた。
産卵の際に卵管に引っ掛かり、母親を大いに苦しめた一際大きな卵。
だがあれが最初に産まれたからこそ、後に続いた他の卵が苦も無く排出出来たというのもまた事実なのだろう。
"まだ卵が1つ割れておらぬようだが・・・大丈夫なのか?"
"それは私にも分からぬが・・・そうかと言って我々が割るわけにもいかぬだろう?"
確かにそれはそうなのだが・・・我としてはせめて雄が産まれて兄弟の均衡が取れてくれることを祈るばかりだ。

やがて最初の子供達の誕生から約1時間程が経った頃、我は楽しげに娘達を綾す妻の代わりに独りぼっちの息子を頭の上に乗せたまま最後の卵をじっと監視し続けていた。
ピシッ・・・
"ピッ!"
"むっ・・・やっと卵にヒビが入ったようだぞ"
"ようやくか・・・私はもうとうに待ち草臥れたぞ"
口ではそう言いながらも、散々にもったいぶった末っ子のことが気になるのか妻が地面に寝そべったままその長い首を巡らせて卵へと視線を向ける。
ピキピキッ・・・ペキッ
そしていよいよ卵が割れると、我は殻を破った子竜の鼻先を見て思わずゴクリと息を呑んだのだった。

これは・・・一体何なのだ・・・?
"どうかしたのか?何を固まっているのだ?"
妻の方からは殻の陰になっていたせいでまだ子竜の姿が見えなかったらしく、彼女が衝撃を受けて硬直していた我の様子に怪訝な声を投げ掛けてくる。
パキャッ・・・
だが更に殻の上部が大きく破り取られると、彼女もすぐに我が子に起こっている異変に気が付いたらしかった。
凛々しくも小さな子竜の下顎から、雌火竜の象徴とも言える細い突起が生え伸びている。
だがその体を覆う鱗や甲殻は母親のような緑色でも我の姉のような桜色でもなく・・・
美しく陽光を反射する金色に光り輝いていた。

"これは・・・雌・・・なのか?"
"顔は確かに雌のそれだが・・・何故金色の鱗を纏っているのだ?"
やがてそんな両親の驚きと狼狽をよそに、コロンと転がった卵から全身金色の子竜が這い出してくる。
「ピィッ!ピィッ・・・?」
これも、何らかの突然変異の成せる業なのだろうか・・・
同時に産まれた3匹の兄弟達に何の変化も無かったということは、恐らくは卵が出来上がった後にこの子だけが偶然にも母親から何か特別な刺激を受けたのに違いない。
それが一体何なのかまでは我には分からぬものの、とにかくこうして産まれた以上は大切に育ててやるべきだろう。
"何が何やら分からぬが・・・取り敢えず雌なのは間違い無いようだ。この子は、雄とともに我が育てるとしよう"
我がそう言うと、不思議な金色の子竜がまだ言葉も理解してはおらぬだろうにピィッと甲高い喜びの声を漏らす。
そしてその金色の小さな翼をファサッと羽ばたくと、ヒラリと空中で宙返りして我の背中へと飛び乗っていた。

"なっ・・・!?"
"これは驚いたな・・・翼の使い方を覚えるのは、まだ数週間は先のことだと思っていたが・・・"
母親が舌を巻く程の早さで翼の使い方を覚えたという我も、自由に空が飛べるようになったのは生後2週間頃のことだった。
空を飛ぶことに関してだけは姉よりも優れていただけにその事実は我の誇りでもあったのだが、産まれてすぐにこうも見事に宙を舞った娘の姿に何とも言えないむず痒い気分を味わわされてしまう。
他の子供達もそんな末娘の姿に感化されたのか小さな翼を広げて妹の真似をしようと試みたものの、3匹が3匹とも小さく跳ねただけの上に着地を失敗してコテンと地面の上に転がってしまっていた。
「ピピィッ!ピピッ!」
そんな子供達の姿に、我の背に乗った娘が愉しげな笑い声を上げる。

"フフ・・・何とも、成長の楽しみな子供達ではないか"
"そうだな・・・後はこれで十分な餌があれば、何も言うことは無いのだが・・・"
そう言いながら、妻がチラリと我に視線を振り向ける。
だが普段なら何の迷いも無く狩りに出掛ける我も、この時ばかりは妻に逆らっていた。
"お主、卵を産んでからというものまだ1度も狩りに出ておらぬではないか"
"うっ・・・"
まるでバレていたかと言わんばかりに、彼女が俄かに渋い表情を浮かべていく。
"そんなに怠けてばかりいては体も鈍るし、子供達も頼りない母親には懐かぬぞ?"
"わ、分かった分かった。私が行けば良いのだろう!?"
そして寝床の上に寝てばかりいた体をスクッと起こすと、彼女が出掛け際に我の方をキッと睨み付ける。
"その代わり、子供達の世話は頼んだぞ!"
"もちろん、そのつもりだ"

やがて妻が遥か眼下の地上へ向けて飛び込んで行ったのを見届けると、我は随分と温まった寝床の上で4匹の子供達とともに蹲っていた。
"全く・・・随分と手の掛かる母親だな・・・お前達もそう思わぬか?"
そんな我の静かな呟きに、金色の妹が真っ先に鳴き声を上げる。
「ピピィッ!」
"フフフ・・・このことは妻には内緒だぞ"
そう言って可愛い子供達の顔を順番に舐め上げてやると、我は心地良い昼下がりの陽気に誘われて幸せな夢の世界へと落ちて行ったのだった。

このページへのコメント

この小説に出会えて良かった

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Posted by 名無し(ID:tE2WAaxpHw) 2018年02月13日(火) 03:58:00 返信

ありがとうございます!

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Posted by SS便乗者 2018年01月25日(木) 21:44:12 返信

すごいなぁ…本当に、素晴らしい作品をありがとう!!

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Posted by 名無し 2017年12月07日(木) 19:50:58 返信

便乗氏は素晴らしい。この名作を作り上げるとは

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Posted by 名無し 2016年01月16日(土) 02:31:57 返信

便乗氏は素晴らしい。この名作を作り上げるとは

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Posted by 名無し 2016年01月16日(土) 02:31:50 返信

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