「ふぅ・・・」
来る日も来る日も単調な生活の繰り返し・・・
とある事件が切っ掛けでほんの100年程前に全能の神力を失ってからというもの、我はただの老いた白竜としてこの地で年明けを迎えることに早くも疲れ切ってしまっていた。
神竜として生まれながら人間達の争いに首を突っ込んだことがまさかこんな救いようの無い結果に繋がろうとは当時の我には全く想像も付かぬことだったのだが、今にして思えば我は己の力に些か驕りを感じていたのだろう。
我の棲む森は東西で接する2つの国境に近い山中にひっそりと広がっていて、この国の住人はそのほとんどが温和で素朴な性格の農民達によって占められていた。
当然山に足を踏み入れる者達も数多く、我はそんな彼らと平和に共生生活を営んでいたのだ。
だが西側の隣国は古来より軍事国家として広く知られており、周辺諸国を武力で威嚇しては戦を起こして領土を拡げることを厭わないならず者であったことがこの平和な国にとって唯一の悩みの種だった。

そして今から100年程前、ついに西の国の魔の手がこちらへ伸びて来ることになる。
元々争い事を好まぬこの国の人間達では人を殺めることにさえ抵抗を感じぬ冷酷な西軍の侵攻に抗する術などあるはずもなく、我は彼らの懇願を受けて神の力を1つの竜玉へと変えることを決心したのだった。
やがて我の竜玉を手にして神の力を味方に付けた農民達は無事に1人の犠牲者も出すことなく隣国の侵攻を防ぐことには成功するのだが、戦後の混乱の中で我の神力が凝縮した竜玉が行方不明となってしまったのだ。
あれから100余年・・・自然の摂理を乱すような通力の乱用を見聞きした覚えは1度も無いから、竜玉は今もきっと何処か人目に付かぬ場所で静かに眠っているのだろう。
そしてそれ以来、我は竜玉がこの手に戻ることを密かに夢に見ながらこの山で暮らし続けていたのだった。

今日は年に1度やって来る、憂鬱な年初めの日。
この山に程近い人間達の町では年明けを祝って盛大な宴や祭りが開かれているのだが、我にとっては何時までも変わり映えのしない退屈な1年の訪れを告げるだけの切ない節目でしかない。
それでも心の何処かではそんな祝いの気分を享受したいという思いがあるのか、山の麓から聞こえて来る人間達の楽しげな笑い声や祭囃子を浴びながら雪の積もった山道を散歩するのが何時の頃からか我の習慣となっていた。
「ぎゃ・・・ぎゃぁ・・・」
「む・・・?」
今、何か聞こえたような気がする。
ヒューヒューと甲高い唸りを上げて吹き荒ぶ風の音のせいではっきりとは聞き取れなかったものの、それがまるで何かの泣き声のように感じたのは我の気のせいだろうか?
だがまさかという思いを胸に声の聞こえて来た方へ更に進んでみると、大桜と呼ばれてこの山の名物となっている1本の巨大な桜の木の根元に白い布で包まれた赤ん坊が打ち捨てられているのが我の目に飛び込んで来た。

「おぎゃぁ・・・あぎゃぁ・・・!」
長時間冷たい冬の風に煽られていたせいか、霜脹れで顔を真っ赤に腫らした小さな小さな人間の男の子・・・
何と憐れな・・・恐らくは厳しい冬の寒さで貧困に喘ぐ両親の手に余り、国全体が目出度い雰囲気に包まれている時期だというのに口減らしの為に山へと捨てられてしまったのだろう。
その証拠に、少なくとも産まれてから数日間は何とか世話をしようとしたらしい痕跡がそこかしこに見て取れた。
狩りの時を除けば滅多に住み処の洞窟から出ることの無い我の目に留まったのも、きっと何かの縁・・・
どうせ獣の少なくなる冬の間は我も住み処で惰眠を貪る以外にすることが無いのだし、この死を待つばかりの不憫な赤子の世話をしてみるのも良い退屈凌ぎくらいにはなるかも知れぬ。

我はしばし迷った末にそう決心すると、寒さと空腹で泣き喚く小さな赤子をそっと抱き上げていた。
その途端ほんのりと温かい熱を放つ白鱗と我の生気に触れて、泣きじゃくっていた幼子が不意におとなしくなる。
「フフ・・・可愛い子だな・・・まるで、この大桜が産み落とした木の精のようではないか」
そう言いながら、我は両手で揺り籠を作ると赤子が眠れるように優しく左右に揺すってやった。
「ん・・・んきゅ・・・すー・・・すー・・・」
「よしよし、良い子だ・・・」
やがて気持ち良さそうに笑みを浮かべて寝息を立て始めた幼子の顔を覗き込みながら、ふと名前を付けてやらなくてはという考えが脳裏に浮かんでくる。
大桜の産み落とした木の精か・・・
だとすればこの子には、竜の言葉で"木"を意味するラブロという名が相応しいだろう。
「さてと・・・お前の名も決まったことだし、早く暖かい住み処に戻るとしよう」
もうすっかりと父親の気分に浸りながら眠った赤子にそう話し掛けると、我は寒風の吹き荒ぶ山道を何処と無く明るい気分で引き返したのだった。

さてと・・・手の内で眠るラブロを伴って住み処まで帰って来たのは良いのだが、これからどうするべきか・・・
竜の仔を育てた経験も無い我に、より脆弱で成長の遅い人間の赤子を育てることなど本当に出来るのだろうか?
水や食料くらいであれば麓の人間達の町まで行けば多少なりとも分けて貰うことは出来るだろうが、ただでさえ寒さの厳しい冬の雪山ではほんの少し目を離しただけでこの子がどんな脅威に曝されるか分かったものではない。
凍えぬように体を温めてやりながら水分を切らさず排泄の世話までしてやらねばならぬのだから、そういう苦労を経験した母親程、自分で育てた我が子を精一杯可愛がるようになるのだろう。
だが・・・スースーと静かな寝息を立てて眠っているラブロの顔を見ているだけで、我はそんな不安や心配事が何処かへ吹き飛んでいくようだった。
100年前・・・人間達に預けた竜玉を失って神竜からただの雄竜へと堕ちてしまったあの日から、長い年月によって薄く引き延ばされた絶望と諦観が何時も我の背に圧し掛かっていたような気がする。
失われた竜玉をこの手に取り戻すことはもう出来ないかも知れないという後ろ向きな思いが、我の悠久とも言える永い生涯から希望の2文字を毟り取ってしまったのだ。
しかし数々の苦難を想像させる人間の子育てという目標が出来たことで、少しは前向きな思考が我の脳裏に芽生えてくれたのかも知れない。

「ん・・・んきゅ・・・ふええぇ・・・」
「おっと・・・どうしたのだラブロ・・・?急に泣き始めるとは・・・」
その不満気な唸り声にもうすぐ大声で泣き始めるのではないかという本能的な危機感が背筋を駆け上がり、我は慌ててラブロの体を両手であやすように揺すってやった。
「ふぎゃああっ!ふぎゃああああぁっ・・・!」
だが却ってそれが逆効果になってしまったらしく、耳を劈くような盛大な泣き声が洞窟の中に反響する。
体に巻いてある布を捲ってみても特に異常があるようには見受けられず、我はどうして良いか分からずに早くも途方に暮れてしまっていた。

「腹が減ったのか?我の生気に満ちたこの住み処の中では、ほとんど空腹など感じぬはずなのだが・・・」
それとも、人間の体には我の生気もそこまで強い影響は及ぼさぬのだろうか?
普通の竜では一睡も出来ぬという神竜の住み処でも人間は眠ることが出来るらしいからその可能性も否定は出来ないのだが、それでも急激に泣き始めたことを考えれば何かがラブロの気に障ったのだろう。
そして試しに仰向けに寝転がって広くて柔らかい腹の上に泣き喚くラブロを寝かせてみると、まるで寝床の硬さを確かめるように小さな掌で我の腹を弄りながら途端にその顔に満面の笑みが浮かんでいた。
「ふぎゅ・・・きゃはは・・・」
「フフ・・・我の腹の上が気に入ったのだな・・・贅沢な小僧め・・・」
内心では大きく安堵の息を吐きつつも、我はラブロの頭をそっと撫でながらそう呟いたのだった。

それから、瞬く間に4年の月日が流れた。
片手の中に収まる程に小さかった赤子は今や我の背に乗って森の散策へと出掛ける程に大きく成長し、人間の言葉も同じ歳の他の子供と比べて遜色の無い程度には話せるようになっている。
もちろんラブロに人語を教えているのは我なのだが、時折麓の町へ連れ出して他の子供達と遊ぶ時間を作ってやったことでより効率的に言葉を学ぶことが出来ているらしい。
昔から町に住む人間達と密接な関わりを持って来た我だからこそ出来る子育ての方法とも言えるのだが、結局ラブロの食事や衣服は大部分を町の人間達に頼っているせいで我は心の何処かで歯痒い思いも感じていた。
まあ、我としてはラブロが無事に育ってくれればそれ以上何も言うことは無いのだが・・・

「父さん、そろそろ帰ろうよ」
やがて町の中で夕焼けの掛かり始めた空を見上げていた我の耳に、長時間走り回って汗だくになったらしいラブロの弾ける声が飛び込んで来る。
「ああ・・・ん・・・それはどうしたのだ?」
だが我が子を背に乗せようと地面に屈み込んだその時、我はラブロが1冊の本を抱えていることに気が付いていた。
「これ、友達に貰ったんだ。この国の歴史の本なんだけどさ・・・」
「それは構わぬが・・・お前は字が読めるのか?言葉はともかくとしても、人間の文字は我には教えられぬぞ?」
「大丈夫だよ、子供向けの本だし・・・それに文字の読み方も、友達から少しだけ教えて貰ったからさ」
成る程・・・一見朝から晩まで好き放題に遊び回っているように見えても、ラブロはラブロなりにそこから何かを学ぼうと努力しているのだろう。

「それにしても・・・お前は何故この国の歴史などに興味を持ったのだ?」
帰りの道中、我は薄暗い森の中で木々の梢から漏れてくる夕日の明かりを頼りに何とか本を読もうとしているラブロにふとそんな声を掛けていた。
「お父さん、前に言ってたでしょ。ずっと昔に、とっても大事な物を無くしちゃったんだって」
「ああ・・・」
「だからさ・・・お父さんにそれを見つけてあげるのが、僕の夢なんだよ」
難しい顔で本と格闘しながらラブロが漏らしたその言葉に、我は辛うじて態度にこそ表さなかったものの大きな衝撃を受けたのだった。

その日からというもの、ラブロは小さな暇を見つけては友人から貰ったという本を真剣な顔で読むようになった。
とは言え、たとえ産まれた時から人間の教育を受けていたとしても不自由無く書物を読めるようになるまでには本来であれば優に数年は掛かるものらしい。
同胞の中には人語を操る者達も決して少なくはないものの、それは曲がりなりにも言語を話す竜族にとっては人間の言葉が単なる異国語の範疇に収まっているからこそ可能になることなのだ。
少なくとも木の幹を爪で引っ掻いて文字とも呼べぬような原始的な記号を意思表示に用いるのがやっとの竜族に、複雑過ぎる人間の文字は仮に習得するにしても数十年から百年以上もの永い時間を要するもの。
悠久の時を生きた古竜や幼い頃から人間達の文化に深く溶け込んで暮らしている竜達の中には極稀に人語で書物を著すことの出来る者がいるというが、それも数にすれば極端に特殊な例に過ぎないのだろう。
そんな我らにとっては生涯の難題にも等しい人間の文字を、この歳になるまで1度としてそれに触れることの無かったラブロが唐突に身に付けることなど出来るはずも無く・・・
大抵は小一時間の沈黙の末に、本を枕にして眠りに落ちてしまうことがほとんどだった。

しかしそれから3ヶ月程が経つと、ラブロの様子が目に見えて変わり始めていた。
町へ遊びに行く度に友人から文字を習っているのか、近頃は途中で眠りこけることも無く洞窟の中で起こした焚き火の横で興味深そうに本を読み耽っているのだ。
初めは1冊だけだった貰い物の本の数も3冊、4冊と少しずつ増えていき、書かれている内容も明らかにより年齢の高い者を対象にしているのだろうことがその表紙の様子から何となく想像が付く。
そのまだ4歳半という年齢に見合わぬラブロの驚異的な知識の吸収率を支えているのは、恐らく失われた我の竜玉を見つけ出したいという強い目的と覚悟なのだろう。

「ねえ父さん、100年前にあった戦って・・・父さんは人間と一緒に戦ったの?」
「む?いや・・・我は直接は関わってはおらぬ。神竜はその立場故に、極力殺生をせぬように努めるものなのだ」
「だから、竜玉を作って人間に与えたんだね」
今となっては当時を知る人間は最早1人も生きていないというのに、過去の歴史を記した書物というものはそんな誰しもが想像に任せることしか出来ない時代の出来事をかくも正確に未来へ伝えることが出来るものなのか。
ラブロには大昔に大事な物を無くしたとは言ったものの、それが竜玉だとは一言も言っていなかったはず。
それなのに、ラブロはもうそれが何なのかを数冊の書物から読み取ってしまったらしかった。

「そうだ・・・」
竜玉・・・人間達の間でそう呼ばれる稀少な宝玉には、大きく分けて2つの種類がある。
特殊な力を持った竜の体の一部が、その身から離れることで結晶化する王竜玉。
多くの場合は眼球が石と化し、その竜の持つ力を手に入れられたり或いは反対に封じる力を持っていたりする。
装飾品として身に着けたり体に直接触れることで効力を発揮するのが特徴で、竜と戦うことを生業とする人間達の間ではしばしば重宝されているという。
もう1つは、神竜や神竜の力を借りた竜が長時間の集中と通力でもって作り出す神竜玉。
石に触れたり体に押し付けることによって体内に取り込むことでより強力な力を手にすることが出来る反面、生体との結び付きは比較的弱く意識を失ったり死を迎えることで排出されてしまうことが多かった。

我が人間達に作ってやった竜玉は、その内の後者に当たる。
神竜としての通力の全てを注ぎ込んだそれを手にした人間は、正に神の力を手にしたも同然なのだ。
この国に住む人間達の平和で温厚な性格を信じていなかったなら、我とてそんな物を彼らには与えなかっただろう。
だが結局のところは、その行為が今日の我の凋落に繋がっていたのだった。
「竜玉を作るのって、大変なの?」
「若かった我でさえ、1週間はほとんど動けなかった。雌竜ならば、何年も仔が産めなくなる程に消耗するらしい」
それを聞くと、ラブロは読み掛けだった本を閉じて我の傍らへとその小さな背を預けていた。
「そんなに大変な思いをして作ったんだから、尚更見つけないとね・・・」
「そうだな・・・だが・・・」
胸の内に思い浮かんだその言葉を、我は寸でのところで呑み込んでいた。
今は、ラブロの熱意を折るようなことを言うべき時ではない。
この幼子が両親に捨てられたという悲しみを微塵も見せずに明るい笑顔を保っていられるのは、我の役に立ちたいという純粋で強い衝動に突き動かされているが故だったのだから。

そんな勉強熱心なラブロとの生活は、我にはこれまでの憂鬱な100年間に比べて実に充実したものに感じられた。
書物から得られる様々な知識と我の口から語られる実体験が幼い少年の中で次々と紡ぎ合わされていき、ラブロはそれから1年も経つ頃には同年代の他の子供達からみても異様な程にこの国の歴史に明るくなっていた。
だがそれでも、竜玉が何処で失われてしまったのかについては有力な手掛かりを見つけることが出来ないらしく、ラブロはかれこれ30冊にも及ぶ程の大量の歴史書を読み漁りながらも未だその顔に落胆の色を滲ませていた。
「ねえ父さん・・・」
何か考え事をするのに丁度良かったのか何時の頃からか住み処の中での定位置となってしまった我の背の上に仰向けに寝転びながら、ラブロが不意にそんな声を漏らす。
「む・・・?」
「この前町に行ったらさ・・・また西の国がこっちに攻め込んで来るんじゃないかっていう噂を聞いたんだ」
「何?」

西の国が、また攻め込んで来る・・・?
それを聞いて、我はフーッと長い嘆息を吐き出していた。
この100年余りの間、両国の間には特に目立った争いは見当たらず平和な時代が続いていたはず。
だが冷静に考えてみれば、前回の侵略が失敗に終わったのは我の竜玉を手にした町の人間達がその圧倒的な奇跡の力を駆使して彼らを追い払ったからに他ならない。
最大にして唯一ともいえる竜玉の脅威が消え去ったと判断したならば、彼の国が何時か再び東征に踏み切る可能性は十分に考えられるというものだ。
「まあまだ噂でしかないんだけどさ・・・もし今度西の国の人達が攻めて来たら、どうしたら良いのかな・・・」
既に竜玉の存在に頼って勝利を収めたという過去の歴史について詳しく知っているラブロには、それがどういう事態を引き起こすのかが良く分かっているのだろう。

「我らだけであれば、何処か戦火の及ばぬ遠い場所に逃げ延びることも出来るのだがな・・・」
「駄目だよそれじゃ・・・あの町は・・・僕が育った町でもあるんだからさ・・・見殺しになんてしたくないよ」
「だが、戦っても勝ち目は無いのだぞ?あの竜玉が取り戻せぬ限り、逃げる以外に一体何が出来るというのだ?」
我がそう言うと、背の上で天井を見上げていたラブロが不意に体を引っ繰り返して我の耳元へと口を近付けていた。
「だからさ・・・僕、15歳になったら王都へ行こうと思うんだ。それで、兵士に志願するんだよ」
「兵士にだと?」
その言葉が耳に届いた瞬間、我はドキリと鋭い痛みが胸を突き上げる感触を味わっていた。
「だがお前の夢は、我の竜玉を探し当てることだったのではないのか?」
「もちろんそうだよ。でももし見つからなかったら、僕達が戦うしか無いじゃないか」
確かに、ラブロの言うことは尤もだった。
100年も前に何処かへ失われてしまった竜玉を探し出すなど、普通に考えれば想像を絶する難業だ。
もちろんそれが叶えば話は早いのだが、そこらの歴史学者などよりもこの国のことを知っているラブロが見つけ出せぬ竜玉を他の人間がたとえ偶然だとしても見つけ出せるとは到底思えない。
ならば何れやってくる脅威に備えて現実的な備えをしておきたいというラブロの主張は、彼の父親としての我の心情を別にしても否定し難い意見であることは間違い無かった。

出来ることなら、ラブロを戦に赴く兵士になどしたくない・・・
そんな我の悲痛な願いも空しく、微かな緊張を孕んだ10年は正にあっと言う間に過ぎてしまっていた。
今日は彼と不穏な噂について話し合ったあの日から、ずっと来て欲しくないと思い続けたラブロの旅立ちの日。
かつての神竜に育てられたという境遇も幾許かは味方したのかも知れないが、町ばかりか遠く離れた王都にも足繁く通って歴史を学んだラブロは今や最年少の歴史学者として国中にその名が知られているのだという。
だが都合十数年間にも及ぶ必死の調査にもかかわらず結局失われた竜玉の在り処を突き止めるまでには至らず、ラブロは15歳を迎えた今日から王都で1人の兵士として国防の任に就くことになったのだった。

「もう行くのか・・・?」
「うん・・・大丈夫だよ。月に1回くらいは、お父さんに会いに来るからさ」
「別に我はお前に会えぬことを嘆いているわけではない。ただ・・・お前のことが心配なのだ」
我がそう言うと、ラブロが何処か申し訳無さそうに少しだけその目を伏せる。
「10年前は噂でしかなかった隣国の脅威が、近頃は随分と現実味を帯びて来ておるからな・・・」
「分かってる。でも、向こうでも竜玉を捜すのは諦めないからさ・・・成功を祈っててよ。それじゃあね」
それだけを言い残して静かに住み処を出て行ったラブロの後姿を見送りながら、我は深い溜息とともに地面へと顎を擦り付けたのだった。
「もちろん・・・祈っておるぞ・・・夢の成就と、お前の無事を何よりもな・・・」

ラブロが城の兵士として王都で暮らし始めてからというもの、我は随分と寂しくなった住み処の中でじっと夜の闇に耳を澄ますことが多くなっていた。
以前この国が隣国の襲撃を受けた時には夜の闇に乗じて斥候の兵士達が森を横断していった気配を確かに感じた記憶があるだけに、またあのようなことが起こるのではないかという不安が今も胸の奥にこびり付いている。
それにもし万が一にも再び隣国が攻め込んでくるようなことがあれば、今度は兵士であるラブロが直接的にその脅威に曝されることになるのだ。
他国を侵略しその領土を掠め取る為に血を流すことも厭わぬとは愚かしい人間達がいたものだが、大切な"息子"の安全が関わっているとなっては我にとっても他人事ではない。
だが何時までも晴れることの無い重苦しい不安をよそに、平穏な時間だけがただただ過ぎて行ったのだった。

「ただ今、父さん」
「ああ、ラブロか・・・久し振りだな・・・王都での暮らしはどうだ?」
兵士として厳しい訓練に明け暮れていたせいか、月に1度は顔を見せに帰ってくるというラブロの言葉とは裏腹にあれから4ヶ月程が経ってようやく彼が我の許へと帰って来た。
ここを出て行った時は決して華奢ではないにしても些か線の細さを感じさせる体付きだったのだが、しばらく見ない間に相当体を鍛えられたらしく、見違える程に逞しい若者が凛々しい兵装を身に纏って佇んでいる。
「うん・・・訓練はちょっと辛いけど、それ以外は割と自由で楽しいよ」
城の兵士ともなれば、王国の中では公務に携わる立場・・・
衣食住を保証されるだけでも生活水準がそれ程高くないこの国では十分に厚遇だというのに、ラブロの場合は歴史学者という肩書きのお陰もあって城の書物を自由に閲覧する権利を認められているのだという。
「でも、やっぱり竜玉の手掛かりは何処を探しても見つからないんだ」
「そうか・・・」

一般の者達には見ることの出来ない城に残された文献にも竜玉の手掛かりが見当たらないのであれば、恐らく当時の王かそれに近い人物が竜玉の存在を文書に残すことを禁じてしまったと考えるのが自然なのだろう。
手にするだけで神の力が扱えるという噂が他国にまで広がったりすれば、今度は竜玉を巡ってより大規模な争いが起こらないとも限らない。
それを考えれば、今もこうして竜玉の在り処が謎に包まれているのはある意味で良い事なのかも知れぬな・・・
「でもさ・・・城の文献の中に、1つだけ気になる記述があったんだよ」
「何だそれは?」
「70年以上前まで綴られていた古い歴史年表の中の幾つかに、"神玉奉還"っていう言葉が出て来るんだ」

神玉奉還・・・恐らく、それが我の竜玉を指しているのだろう。
山の麓に広がる町の者達はともかくとしても、ここから遠く離れた王都に住む人々の間では竜玉の正体ばかりかそれを人間達に与えたのが竜の我であるということさえ一般に知られてはいなかったはず。
故に王都の人々の間では神玉という名で竜玉の存在が広まったのだろうことは何となく想像が付くのだが、問題は"奉還"という言葉の意味の方だった。

もしこれがその言葉通り竜玉を我に返すという意味であるならば、竜玉を持った誰かが我の許を訪れたか、或いは訪れようという動きが起こったことは確かなのだろう。
しかしその途中で何かが起こり、王都の人々にも異変が伝わらぬまま竜玉は何処かへとその姿を消してしまったというわけだ。
「なかなか興味深い言葉だが・・・それでもそこから先はお前にも分からぬのだろう?」
「う、うん・・・」
「ならば、その話はもう良い」
我はそう言うと、長いこと地面の上に沈めていた重い体をゆっくりと持ち上げていた。
「折角久し振りに帰って来たのだ。我はこれから狩りに出掛けて来るが、ゆっくりしていくが良い」
「そうするよ」
だが口ではそう言いながらまたしても焚き火の傍で古い歴史の本を読み始めたラブロの姿に、我は些か感嘆の念を覚えながらも苦笑を浮かべることしか出来ぬまま住み処を後にしたのだった。

心地良い程にすっきりと晴れ渡った空の下、我は獲物になりそうな獣の姿を探して森の中を歩きながらも頭の中ではラブロのことばかり考えてしまっていた。
大桜の下で泣き喚く赤子を見つけた、15年前の年明けの日・・・
あの日から、ラブロを育てることが暗く沈んだ日々を送っていた我の生き甲斐となったのだ。
失われた竜玉を捜し出そうと古い歴史を紐解いては、遠い過去の出来事について我と話し合う毎日の繰り返し。
それがラブロの望んだ生き方なのだと言ってしまえばそれまでなのだが、我は前途ある1人の人間を自身の悲願を成就させる為の駒として扱ってしまったのではないだろうか・・・

幼い時から町へ行っても他の子供達と遊ぶより本を読むことに多くの時間を割いては、なかなか竜玉の在り処について手掛かりを得られぬことに落胆するラブロ・・・
そんな幼子の何処か打ちひしがれた姿を見る度に、我は罪悪感にも似た胸の痛みを覚えてきたものだった。
ガサッ・・・
「む・・・」
だが遠い記憶を辿るように足を止めたまま天を仰いでいた我の耳に、不意に獲物が茂みを揺らした音が届いてくる。
まあいい・・・今はとにかく、早く腹を膨れさせてラブロの待つ住み処へと帰るとしよう。
我はそう心に決めると、不運にも我の風上で立ち竦んでいた1頭の鹿へと足音を殺して近付いていったのだった。

「帰ったぞ・・・」
それから1時間後・・・
我は食いでのある獲物を平らげて満腹になった腹を抱えながら住み処に戻ると、依然として焚き火の明かりで本を読み耽っていたラブロにそう声を掛けていた。
「お帰り、父さん」
「余り無理をするでない。今日くらいは、書物を読み耽るのも休んだらどうなのだ?」
「うん・・・でも、兵士の訓練をしてる間は、ゆっくり本を読む時間なんて無いからさ・・・」
確かに、15歳になって新兵として志願した者には相応に厳しい訓練が課せられるのだろう。
それまでロクに体を鍛えたことも無いような若者を早く一人前の兵士にしたいという意図は理解できるものの、我の目から見てもラブロが兵士より学者に向いている人間であることは明らかだ。
4ヶ月も帰郷の暇を取れない程の過密な訓練によって確かにラブロは以前よりも遥かに丈夫で逞しい体を作ることが出来たのかも知れないが、ラブロを隣国との戦いに巻き込んで欲しくない我からすれば複雑な心境だったのだ。

「それで、ここには何時までいられるのだ?」
「明後日には王都に戻るよ。新兵訓練の期間ももうすぐ終わるから、ようやく城の書物室に篭れそうなんだ」
「そうか・・・」
早く新たな知識と出逢いたいというラブロの本心が滲み出しているかのようなその屈託の無い笑みに、何となく胸の内につっかえていた罪の意識が軽くなったような気がする。
竜玉のことは別にしても、恐らくラブロは勉学というものを心の底から楽しんでいるのだろう。
種族は違えど聡明な息子を育てられたというある種の達成感のような物が胸の内に湧き起こり、我は長い安堵の息を吐きながらラブロの傍にそっと身を横たえたのだった。

その日の夜・・・
我は真っ暗な闇の中で静かに目を覚ますと、地面に蹲った姿勢のままじっと周囲の音に聞き耳を立てていた。
これは・・・人間の気配・・・?
極微かにではあるものの、規則的な足音と話し声の残滓が夜の風に乗って洞窟の中にまで届いてくる。
まさか・・・隣国の兵士達が、森にやって来たのだろうか・・・?
「ん・・・父さん・・・?どうしたの?」
我の微かな身動ぎで気が付いたのか、ラブロが目を開けるなり怪訝そうな声を投げ掛けてくる。
「静かに・・・我は少し外の様子を見てくるから、お前はここから決して動くでないぞ」
「え?う、うん・・・」
そしてラブロが眠そうに目を擦りながらそう応じたのを目にすると、我は漆黒の闇に沈んだ夜の森へと静かに足を踏み出したのだった。

今夜は新月・・・
昼間の快晴とは打って変わって曇り始めた空に大地を照らす光源は1つも見当たらず、しんと静まり返った夜の森が微かなそよ風の音だけを我の許へと運んでくる。
今は何も聞こえないが、さっき洞窟の中で感じたのは確かに複数の人間の気配だった。
もしこの深い夜の闇に乗じて隣国の兵士達が森へ足を踏み入れているのだとしたら、何れ本格的な進軍が始まるまでそう間が無いことを示している。
それも早ければ明日か、明後日か・・・
ラブロが住み処にいる間であればあの子の命だけは我が何としてでも護り抜くつもりだが、王都へ戻ってしまえばもう我にはどうにも手の下しようが無くなってしまう。
それに、ラブロ自身も戦わずに逃げることを是とはしないだろう。
竜玉が無ければこの国は隣国の脅威から身を護ることが出来ないというのに、それを1番良く知っているはずのラブロが自ら無謀な戦いに赴こうとしているのを我はどうやって止めれば良いというのか。

だがそんな苦悩に頭を抱えていたその時、我はふと小声で話しているらしい兵装を纏った2人の男達の姿を茂みの向こうに見つけていた。
あれは・・・やはり隣国の兵士のようだ。
地図を広げて周囲の様子や地形を確認したりしているところを見るに、やはり進軍が近いのだろう。
あ奴らの前に我が出て行って脅かせば多少は進軍を躊躇う動機にはなるかも知れないが、神力を持たぬ竜など所詮数に勝る人間が相手では1匹の獣でしかない。
とにかく・・・しばらく様子を見るとしようか・・・

父さんは、一体何を感じて外へ出て行ったのだろう・・・?
何時に無く緊張した面持ちでここを動くなと言い残して行ったということは、何か僕にとっての脅威がすぐ傍まで迫って来ているということを暗に示している。
もしや、隣国の兵士達がやって来たのだとしたら・・・
そうだとしたら、僕はこんなところで1人だけ安全に隠れていても良いのだろうか・・・?
父さんは僕を危険な目に遭わせまいとしてああ言ったのだろうけど、僕だってこの国を護る為に兵士として厳しい訓練を積んで来たんだ。
幸い王都からは兵装のまま帰って来たから、鎧も武器もここにある。
僕は相変わらず何の物音も聞こえて来ない外の暗闇をしばらく見つめると、やがて意を決して地面に脱ぎ捨ててあった重い鎧を拾い上げたのだった。

ぬぅ・・・あの連中は、一体何時までああしているつもりなのだ・・・?
2人の男達はさっきから同じ場所に立ち止まったまま、もうかれこれ10分が経とうとしている。
この森の様子を偵察に来たのなら少なくとももう少し頻繁に動き回ってもおかしくないはずなのだが、まるで彼らはあそこで何かを待っているかのように見えてしまう。
いや・・・もし、"誰か"を待っているのだとしたら・・・?
その瞬間、我はハッと顔を上げていた。
最初に目に入ったからか我は斥候の兵士があの2人だけだと勝手に決め付けていたのだが、わざわざ星明かりの無い曇った新月の晩を選んで偵察をするのにたった2人でこの広い森を隈なく回るなど余りにも効率が悪過ぎる。
もし他にも兵士達がいて、あそこは単に待ち合わせ場所にしているだけなのだとしたら・・・

ラブロ・・・!
我は自ら住み処を離れてしまった己の愚を呪いながら、素早く踵を返していた。
万が一複数で行動している兵士達があの洞窟を見つけたら、ラブロの身が危ない。
幾ら4ヶ月に及ぶ厳しい訓練で体を鍛えたとは言っても、これまで他人を傷付けたことなど1度として無いラブロと人を殺めることに何の抵抗も無い野蛮な隣国の兵士では最初から戦いに対する覚悟が違い過ぎるのだ。
やがて足音を殺しながら急いで住み処へ辿り着くと、我はもぬけの殻となった洞窟の様子に大きく息の呑んでいた。
「ラブロ・・・あれ程ここを動くなと言ってあったのに、一体何処へ行ったのだ・・・?」
地面に置かれていたはずの鎧や剣が無くなっていることから察するに、恐らくラブロは自ら兵装を身に着けて洞窟を出て行ったのだろう。
だが早くラブロを見つけ出さなくてはという激しい焦燥に駆られると、我は再び闇に沈んだ森の中へと飛び出していったのだった。

一条の光さえ差し込まない、暗闇に包まれた夜の森・・・
これまで15年間もこの森で暮らして来たというのに、僕は日が落ちてから森を歩くのはこれが初めてだった。
歩き慣れているはずの木々の回廊が昼間とはまた変わった姿を見せ、本能が奇妙な危機感を訴え掛けてくる。
父さんは、一体何処にいるのだろうか?
僕は想像以上の心細さに住み処の洞窟を出て来てしまったことを少しばかり後悔したものの、それでもこの国を護りたいという強い意志の力だけで今にも引き返そうとする自身の足を辛うじて引き止めていた。
ガサガサ・・・
「・・・?」
今の物音は・・・?
そう思ってそっと木の陰から物音の聞こえた闇の中に視線を向けてみると、見慣れない兵装を纏った2人の兵士が何やら話しながらこちらに向かって歩いてくるのが微かに見える。

まずい、隠れなくては・・・!
僕は咄嗟にそう判断すると、素早く茂みの陰にしゃがみ込んでじっと息を潜めた。
そんな僕の耳に、横を通り過ぎる兵士達の会話が飛び込んで来る。
「それにしても、本当に俺達が出兵する必要があるのか?今回は、たかが小さい町を焼き払うだけなんだろう?」
「そりゃあそうだが、王都までの間にある町や村で手に入れた物は全部戦利品にして良いそうだからな」
「大半の兵は自ら志願したって言うんだろ。金品は略奪し放題、女は強姦し放題だってんで・・・」
何だって・・・?
「でも昔あの町に攻め込んだ時には、何だか良く分からないことが色々起こって追い返されちまったんだろ?」
「もうあれから120年近く経ってるんだぞ。そう何度も奇跡なんか起きるはずないさ」
「なら、俺も若い娘を1人貰うとしようかな・・・はははっ・・・」
なんて奴らだ・・・平和なこの国を侵略しようとしているだけでも許し難いのに、こいつらは兵士でも何でもない一般の人々まで平気で蹂躙しようとしている。
それに、あの町を焼き払うだって?
実の両親に森へ捨てられた上に竜に育てられていた僕を快く受け入れてくれたあの親切な人々を慈悲も無く皆殺しにして、僕の第2の故郷とも言えるあの町を地図から消してしまうつもりだというのだろうか。

僕はそれを聞いた途端に言いようのない怒りが込み上げて来て、思わず剣を抜くと背後から兵士の1人へ斬り掛かっていった。
バササッ!
「うっ!?」
「わっ!」
突然茂みを揺らして闇の中から飛び出して来た僕の姿に、2人の兵士達がほとんど同時に驚きの声を上げる。
だが兵士としてはそれなりに優秀な連中だったらしく、一瞬早く僕の存在を認識した兵士が虚を衝かれて無防備に立っていたもう1人の兵士を咄嗟に突き飛ばしていた。
ドン!ブゥン!
そのせいで勢い良く振り抜いた剣が空しく空を切ったものの、体勢を崩して地面に倒れ込んでいた兵士に向けてもう1度剣を振りかぶる。

「ま、待て、待ってくれぇ!」
やがて止めの一撃を振り下ろそうとしたその時、悲痛な命乞いの叫び声が僕の耳へと突き刺さっていた。
「うっ・・・」
地面の上にへたり込んだまま、助けを求めるようにこちらへ突き出された震える手・・・
その余りに憐憫を誘う男の姿に、思わず剣を持つ手をほんの数秒だけ止めてしまう。
ドスッ!
だが次の瞬間、僕はもう1人の兵士に背後から剣を突き立てられていた。
「あっ・・・う・・・」
鋭い刃が腹部を貫通し、血に濡れた切っ先が僕の腹から僅かに飛び出している。
ズグッ
更には剣を勢い良く引き抜かれると、想像を絶する程の激痛が鮮血とともに迸ったのだった。

「う・・・あああああっ・・・!」
今のは・・・?
我は静まり返った森の中に突如響き渡った何者かの甲高い悲鳴に、思わずビクッとその身を強張らせていた。
まさか・・・ラブロが・・・?
ラブロの悲鳴などこれまで聞いたことが無かっただけにそれがラブロの声だという確信は持てなかったものの、我は胸の内に燻っていた嫌な予感が急速に現実味を帯びてしまったことに胸の鼓動を早めていた。
そして無数の茂みを掻き分けながら声のした方へ必死に走っていくと、2人の隣国の兵士達が血に塗れたラブロを見下ろしている光景に出くわしてしまう。
「お、おのれ貴様ら!よくもラブロを!」
「うわぁっ!ド、ドラゴンだ!」
「逃げるぞ!早く!」
だが我の顔に浮かんでいた凄まじい怒りの形相に、兵士達は一瞬だけ体を硬直させたものの正に脱兎の如くその場から逃げ出していったのだった。

仕方無い・・・取り敢えず、ラブロの安否を確かめなくては・・・
そう思って兵士達の逃げて行った森の闇を憎々しげに睨み付けると、我は苦しげに顔を歪めて木の根元に寄り掛かっているラブロへと視線を振り向けていた。
「ラ、ラブロ・・・大丈夫か・・・?」
「う・・・と・・・父さん・・・ぐふっ・・・」
声を出した途端に、ラブロが夥しい鮮血を口から吐き出してしまう。
見れば背中から剣を突き刺されたらしく、我は一目でそれが致命傷であることを否が応にも認めざるを得なかった。
「何ということを・・・おのれあ奴らめ、我がこの手で八つ裂きにしてくれるぞ!」
「駄目だよ・・・父さん・・・神様は・・・殺生をしちゃいけないん・・・でしょ・・・?」
「だ、だが・・・あの連中はお前をこんな目に・・・」

苦しげに声を漏らすラブロの様子に、自分でもどうしていいのか分からずに頭の中が真っ白になってしまう。
「ごめんよ、父さん・・・言い付け・・・守らなくて・・・」
自分を刺した敵国の兵士などよりも我の言うことを聞かなかった自分を責めるように、ラブロが悔しげな涙をその両目から溢れ出させていた。
「それに・・・お父さんの大事な物も見つけてあげられなくて・・・僕・・・何の役にも立てなかったね・・・」
「そ、そんなことは無い!」
だが死の間際になって自身を卑下するラブロの言葉を、思わず必死に遮ってしまう。
「我は本当は・・・竜玉などどうでも良かったのだ。お前さえ・・・お前さえ無事でいてくれればそれで・・・」
そんな我の告白に、ラブロがほんの少しだけ笑みを浮かべていた。
「そう・・・なんだ・・・ああ・・・僕・・・まだ、死にたくないなぁ・・・」

痛々しい傷口から止め処無く流れ出していく、ラブロの命の雫。
そんな切ない喪失感を噛み締めながら、ラブロが少しずつその呼吸を荒くしていく。
「ラブロ・・・我は・・・お前を失ったら・・・これからどうすれば良いのだ・・・?」
「じゃ、じゃあさ・・・僕が死んだら・・・何処かに、僕のお墓を建ててくれないかな・・・」
「な、何・・・?」
我がそう訊き返すと、体を支えていることも出来なくなったのかラブロがドサッと地面の上へと倒れ込んでいた。
そして虚ろな目で漆黒の空を見上げながら、擦れた声でゆっくりと先を続ける。
「こんなところじゃなくて・・・景色の良いところにお墓を建ててさ・・・毎日、僕に会いに来て欲しいんだ」
「ああ・・・必ずそうするとも・・・約束だ。だから・・・だ、だから・・・死なないでくれ・・・ラブロ・・・」
「ごめんよ・・・凄く寒いし・・・もう、何も見えないんだ・・・僕・・・父さんに拾われて・・・幸せだったよ」
最後の力を振り絞ったのか、ラブロははっきりとそう言い終えるや否やガクリと息を引き取っていた。
「ラブロ・・・ラブロ・・・頼むから、目を開けてくれ・・・うぅ・・・うあああぁ・・・」
幾ら泣き叫んでも、幾ら天に奇跡を祈っても、静かに目を閉じたラブロが目を覚ますことはもう無い。
その現実を受け止め切れず、我は徐々に冷たくなり始めた愛しい息子の亡骸に突っ伏したまま泣き続けたのだった。

どんなに悔やんでも悔やみ切れぬ、激しい自責の念・・・
自らの不覚が招いてしまったラブロの死に打ちひしがれて、我は翌朝になってからようやく顔を上げていた。
既に冷たくなってしまったラブロが、その顔に屈託の無い笑みを貼り付けている。
何故我は・・・ラブロを護ってやることが出来なかったのだろうか・・・
ずっと彼の傍にいてやれば、少なくともラブロを失うことだけは無かったはずなのに・・・
だがどんなに昨夜の出来事を思い返してみても心の中に浮かんでくるのは自分自身への非難ばかりで、我はその救いようの無い己の愚かさを呪う以外に怒りと悲しみのやり場を見つけ出すことが出来なかったのだ。

"僕が死んだら・・・何処かに、僕のお墓を建ててくれないかな・・・"
それでもやがてそんなラブロの最期の願いが脳裏に思い起こされると、我はゆっくりと彼の体を持ち上げていた。
何処にラブロの墓を建ててやるか・・・彼は景色の良いところにと言ったが、その場所はもう決まっている。
そして気を抜くと再び溢れてしまいそうになる涙を必死に堪えながらも目的の場所までやって来ると、我はそっと天を仰ぐようにして"それ"を見上げていた。
大桜・・・それは15年前の年明けの日、我が捨てられていたラブロを初めて見つけた場所。
あの時は毛布に包まれたまま泣き叫ぶこの子がまるで大桜の産んだ木の精のように感じられたものだが、実のところその印象はあれから15年が経った今でも全く変わっていない。
周囲に数ある桜の木の中でもこの1本だけが突出して大きく育っている理由は分からないものの、ラブロを捨てた人間の両親もきっと何らかの奇跡を信じてこの場所を選んだのだろう。

我はそんなしばしの追憶から我に返ると、大桜の根元を静かに爪で掘り始めていた。
確信は無いものの、ラブロにも本当はこの場所に埋葬して欲しいという願望があったのではないだろうか?
春先になればこの辺り一帯は美しい満開の桜で桃色に染め上げられ、ほんの数週間という短い期間ではあるものの桃源郷とも見紛う程の絶景が視界の全てを埋め尽くす。
実際、ラブロは物心付いた頃からこの場所へ我と花見に繰り出すのを楽しみにしていたくらいなのだ。
だがそれももう・・・我にとっては2度と叶わぬ夢でしかない。
楽しそうにはしゃぎ回る幼いラブロの姿が今も目の奥に焼き付いているが故に、そんな息子を失った悲しみが殊更に我を責め苛んでいたのだった。

それから十数分後・・・
我はようやく人間を1人埋められる程の穴を掘り終えると、そこにラブロの亡骸をそっと横たえていた。
この笑みを目に出来るのもこれが最後だという思いが、土を掛けようとする我の手を必死に引き止める。
だが長い長い葛藤の末に胸の内へ込み上げる悲しみと決別する覚悟を固めると、我は傍らに堆く積み上げていた土の山を一気にラブロの上へと覆い被せたのだった。
更には平らに均した地面の上に一抱えの大きな岩を載せると、その表面に鋭い爪を突き立てる。
そして斜めに交差した2条と4条の線の下に1本の平行線を刻み込むと、我は彫ったばかりのその爪跡をペロリと舐め上げたのだった。
雌雄の邂逅の下に生まれる1つの命・・・それは"我が子"を意味する、数少ない竜の文字の1つ。
この墓を、我は生涯見守ることにしよう・・・
それがラブロと交わしたこの世で最後の、そして唯一の、親子の約束だったのだから。

ラブロの死を境に麓の町の人間達とも関わりを絶ってから数年・・・
我は来る日も来る日も、狩りと夜眠る時を除いて1日のほとんどをラブロの墓を護りながら過ごしていた。
初めの頃はラブロが亡くなったことを知った町の人間達が墓に花や供物を持ってくることがあったのだが、今では極稀に大桜の下を通り掛かった者が我とラブロの墓に短い黙祷を捧げていくだけとなっていた。
だがそれも、もう何年かすれば完全に消えて無くなってしまうのに違いない。
ラブロや我の存在を記憶に留めている人間がいる内はまだ良いのだが、彼らがいなくなればこれが誰の墓なのか、何故我がこの墓を護っているのか、その理由や意味さえ、何時かは忘れ去られてしまうのだろう。
しかし、それでも我は一向に構わなかった。
神竜として遥か昔から人間とは共存の道を歩もうと思って生きてきたものの、我はそれによって何よりも大切なものを2つも失ってしまったのだから。

それから長い・・・長い年月が流れた。
ラブロの眠る大桜がその桃色の花を満開に咲かせるのも、もうこれで何度目になるのだろうか・・・
永遠に癒えることの無い失意の底でもがきながらラブロの墓を見守り続けたこの百と数十余年、何時の頃からか、我は麓の町の人々から墓守の竜と呼ばれるようになっていた。
だが我のことをそう呼ぶ人間達の中にさえ、これが一体誰の墓なのかを知る者はもういない。
"我が子"と刻まれた大きな墓石は長い月日を思わせる深緑の苔が生し始め、まるで古来よりそこに佇んでいるかのような奇妙な一体感を醸し出していた。

我にとって、そして町の人々にとって幸いだったのは、あの運命の日以来隣国の兵士達がこの森に全く姿を見せていないということだ。
恐らくは激しい怒気を撒き散らして現れた我の姿に肝を潰し、この森へ踏み入ることへの忌避感を抱いたのだろう。
大切なラブロを傷付けられて、これまで人間に害意を持ったことの無い我も流石にあの時ばかりは黒々とした殺意を剥き出しにしたものだった。
しかしその怒りの矛先も、結局はラブロを護り切れなかった我自身に向けられることになる。
毎朝大桜の根元に佇むラブロの墓を目にする度、取り返しの付かない己の不覚を否が応にも思い出してしまうのだ。
"僕・・・何の役にも立てなかったね・・・"
それと同時に悔しそうに呟いたラブロの言葉が脳裏に蘇り、15年という短い人生でありながらも何の目標も成し遂げられなかったという彼の後悔が殊更に我を苦しめていく。
せめてラブロの生きた15年間に彼の納得するような何らかの意味が齎されれば、我も少しは救われるのだが・・・

その日の夜・・・
我は住み処の洞窟の中で、漆黒の闇に染まる森の様子をじっと見つめ続けていた。
だが普段は木々の葉や茂みを揺らす風の音しか聞こえて来ないその自然の静寂の中に、今夜は少しばかり別の気配が混じっている気がする。
また西の国の連中が、性懲りも無く侵略の機を窺っているのだろうか・・・?
しかしそれも、今となっては我にはどうでも良いことだった。
この百年余りの間に人間達との交流は完全に立ち消えていて、墓守の竜として我の存在を知っている町の人間達の中にも我に対して恐れの感情を抱く者達が少なくない。
そんな彼らと彼らの住むこの国を護る理由など、もう我はほんの欠片程も持ち合わせてはいなかったのだ。

次の日も、その次の日も、夜の森の中に漂う不穏な人間達の気配が消えることはなかった。
もちろん我としては、この森で今まで通りラブロの墓を見守りながら時を過ごせればそれで不満は何も無い。
だが狩りの為に森の中を駆け回った時に、我はようやく彼らが何をしているのかに気が付いたのだった。
広大な森の中を西から東に向けて真っ直ぐに横断する、行軍の為の広い山道。
無数の木々を切り倒して作られているらしいその道はまだ造成の途中ではあったものの、見たところその延長線上に麓の町が存在している以上連中の目論見は火を見るよりも明らかだ。
百数十年という月日は歴史が忘却の彼方に忘れ去られる一種の区切りででもあるのか、我の存在も忘れ去った彼らは再びこの国をその手中に収めようと夜な夜な山道を切り拓いているのだろう。

全く・・・人間というものは、どうしてこうも救いようが無い程に愚かなのだろうか・・・
あの連中がこの国を攻めようなどという気を起こさなければ、我はきっと竜玉を生み出すことも神の力を失うことも無かっただろう。
それに、ラブロを失うこともきっと無かったに違いない。
全ては我欲に走る醜悪な隣国の連中が、あらゆる悲劇の発端となっているのだ。
いっそあんな国などこの世から消えてしまえば、無益な争いも起こらぬというのに・・・
そんな神竜らしからぬ物騒な考えが脳裏に浮かんでしまう程に、我も心の何処かでは今も隣国の連中を恨んでいるのだろう。
もうあの事件のことを知る人間はもちろんそれを聞いた人間さえほとんど残ってはおらぬだろうに、ラブロを刺したあの兵士の顔が依然として我の脳裏に鮮明に焼き付いているのだ。
いや・・・もう、これ以上考えるのは止めるとしよう。
どんなに過去を思い出してみたところで、結局最後には我自身の過失を悔いる結末になることは分かり切っている。
だが暗澹とした面持ちを浮かべながら狩りを再開したその時、我はまだ気が付いていなかったのだ。
木を切り拓いて作られているその広い山道の向かう先に、一際高く天を衝く巨大な大桜が聳えているということに。

その数日後、我はようやく隣国の兵士達が開発を続けているらしい山道がラブロの墓のある大桜を横切るという事実に気が付くと、もう目と鼻の先にまで迫って来ている広く平坦なその道を昼の間じっと睨み付けていた。
この様子では、今日明日にでも大桜は元よりラブロの墓までこの場所から取り除かれてしまうかも知れない。
今夜はこの場所に留まって、連中の目論見を阻止することに意識を集中することにしよう。
そんなある種の覚悟にも似た思いを胸に、我は少しずつ暮れていく空に切ない視線を向けていた。
たとえ何があろうとも、ラブロの安眠を邪魔させるわけにはいかぬ。
我も今は通力も、希望も、そして人間達との繋がりさえもを失った堕ちた神に成り下がったものの、親子の絆を結んだラブロとの約束は神としてではなく父親として護り通さなくてはならないのだ。
そして暮れなずんでいた空に夜の帳が下りると、いよいよ大勢の人間の気配が西の向こうから近付いて来た。

ガッ・・・ザクッ・・・
暗闇の中で大きな斧や農機具の類を手にした兵士達が、静かに木を切り倒しては大地を平らに整地していく。
目に見えるのは幾人かの兵士達が手にした松明の明かりだけで、我からはほんの15メートルも離れていないにもかかわらず彼らはまだ誰も我の存在には気付いていないらしかった。
だがやがて先の様子を確認しようと松明を持った兵士の1人がこちらに顔を向けた次の瞬間、その顔に微かな恐怖と驚きの表情が浮かんでいく。
「お、おい、ドラゴンがいるぞ・・・!」
そしてラブロの墓の前に静かに蹲っていた我の姿を認めた兵士達の間にどよめきにも似た衝動が伝わると、先頭にいた数人の兵士達が咄嗟に我に向けて剣を引き抜いていた。

「き、貴様!何者だ!?」
「我が何者だろうと、そんなことはどうでも良かろう?我には、お前達に干渉するつもりなど無いのだからな」
「ほ、本当か・・・?」
言葉とは裏腹に、我は恐らくその顔に激しい憎悪の表情を浮かべていたのだろう。
彼ら自身がやったことではないとは言え、最愛の息子の命を奪った隣国の兵士達が目の前にいるのに胸の内に湧き上がる彼らへの殺意と憎しみを押さえ込むのは我にとって容易なことではなかったのだ。
「偽りは無い・・・だが、この大桜にだけはお前達を近付けさせるわけにはいかぬのだ」
そう言いながら、我はゆっくりと地に伏していた巨体を引き起こしていた。
「道を作るのなら他を当たるがいい。そうすれば、我もお前達の邪魔はせぬ」
だがそんな我の精一杯の威嚇にも、兵士の1人が声高に反駁する。
「そ、そうはいかん!この道は行軍の為に、一刻も早く作り上げろとの国王の厳命なのだ」
「そうだ!我々には今更迂回などしている余裕など無い!貴様こそ、さっさとそこを退け!」
「何だと・・・!」

こ奴らは平穏な世を乱し、我から神力を奪い、息子を手に掛け、今度はそのラブロの眠りをも妨げようというのか。
ラブロの言葉に免じてこれまでどれ程憎しみを抱いてもそれを行動に移すことは1度もしなかったというのに、我は公然とラブロの墓を踏み躙ろうとする傲慢な隣国の人間達についに怒りの牙を剥いてしまっていた。
「グオアアアアアッ・・・!」
そして森中に響き渡る程の咆哮を上げながら、剣を構えていた兵士達に向かって飛び掛かっていく。
だが鋭く磨かれた竜爪が眼前の兵士を引き裂こうと振り下ろされた次の瞬間、突然暗闇の中に眩い閃光とともに乾いた破裂音が幾つも轟いていた。

パパァン!パパパパァン!
耳を劈くその轟音に数瞬遅れて、全身に何か熱い飛礫のようなものが突き刺さる感覚がこれまで体感したことが無い程の強烈な苦痛となって襲い掛かって来る。
「ガッ・・・ァ・・・」
こ・・・これは・・・?
百数十年という年月の間に一体如何なる技術が進歩したのか、火薬の炸裂によって撃ち出された無数の金属の弾丸が一瞬にして我の身をズタズタに引き裂いていった。
ドサッ・・・
「ウ・・・ァ・・・」
腹に、胸に、頬に・・・体のそこかしこに小さな金属片が深々と突き刺さった傷口がぽっかりと口を空けていて、そこから真っ赤な鮮血がドクドクと大きな音を立てながら流れ出していく。
それが紛れも無い命の雫であるという冷たい事実に、我は心中に膨れ上がる焦燥をよそにグッタリと全身を弛緩させたのだった。

「よし!やったぞ!」
我は・・・死ぬのだろうか・・・?
目の前で喝采を上げる憎き人間達の姿をぼんやりと眺めながら、我は地面に崩れ落ちたままもうほとんど自由の利かない体を必死に動かそうと儚い試みを続けていた。
だが何処を動かそうとしても返ってくるのはただただ耐え難い程の苦痛ばかりで、最早全身の感覚さえもが少しずつ希薄になり始めているような実感がある。
ラブロの死を嘆いて過ごし続けた長い月日の間に、人間達は巨竜にさえ致命傷を与えられる武器を作り出したのか。
全身に空いた小さな穴から流れ出す真っ赤な血が我の純白の身を紅白に染め上げていて、薄れ行く意識が辛うじて目の前の人間達の姿を捉えている以外にはもうほとんど死という名の忘却が我の全てを覆い尽くそうとしていた。

だが、既に我が虫の息となっていたからだろうか・・・
彼らは我に止めを刺すでもなく、その視界の端でラブロの墓として積んであった大きな石を蹴り倒していた。
まるで動けぬ我に見せ付けるかのように苔生した墓石を大勢で足蹴にした挙句、太い大桜の幹にも躊躇無く次々と斧を振るっていく。
そんな無情な兵士達の姿を目にする内に耐え難い程の悔しさと憎しみ、そして激しい無念さが心中で混じり合い、やがて止め処無い大粒の涙となって我の瞳から溢れ出していった。

ラブロ・・・済まない・・・我はまたしても・・・お前を護ってやれなかった・・・
「う・・・うぅ・・・」
底無しの絶望と悲哀の織り成す力の無い嗚咽が、やがて静かな夜の森に響き渡っていく。
"父さん・・・父さん・・・"
「・・・・・・?」
だが失意の底で死を待つばかりだった我の耳に、何処からかふと聞き慣れた声が届いていた。
これは・・・ラブロの声・・・?
"父さん・・・諦めないで・・・僕・・・見つけたんだよ・・・ほら、顔を上げてよ・・・父さん"
いや、幻聴か・・・いよいよ、我にも本格的に死が迫って来たのだろう。
しかし頭ではそう思いながらも、我は半ば本能的に地に伏していた顔をゆっくりと上げていた。
その眼前で、一際大きく体を反らせた1人の兵士が半分程まで深い切れ込みの入っていた大桜の幹に勢い良く斧の刃を叩き込む。

ガッ
その瞬間、漆黒の闇に包まれていた森中が一瞬真昼のように明るく光り輝いていた。
ピカッ!
「うわっ!?」
「なっ!?」
そして視界を焼き尽くした眩い閃光が収まるのとほぼ同時に、大桜の幹の切れ目から煌々と白く輝く小さな光球がポロリと零れ落ちてくる。
あ、あれは・・・まさか・・・

我は脳裏に浮かんだその疑問を素早く振り払うと、最後の力を振り絞って苦痛に満ちた重い体を引き起こしていた。
そして何が起こったのか分からずに狼狽えていた周囲の兵士達の間を縫って逸早く大桜の下に飛び込むと、地面に転がっていたその純白の光球を掌の中に掴み取る。
ガシッ
その途端全身に漲った凄まじい生気と神の力が迸り、我は激しい銃撃で傷付いた体を瞬時に癒していた。
無限の生気と通力が秘められた、神の竜玉・・・
数百年に亘って失われていたその自身の力の源を再び取り戻し、魂が懐かしい全能感に甘く酔い痴れていく。
「い、一体何が・・・?」
「貴様ら・・・もう許さぬぞ・・・人間の皮を被った邪悪な害獣どもめ・・・神の罰を受けるが良い!!」
やがて天を揺るがすかのような怒気を放ちながらそう叫んだ数分後、我は何一つ動くものの無くなった無数の屍の山の中で静かな溜息を吐いたのだった。

「ラブロ・・・」
さっき聞こえた声は、本当にラブロの声だったのだろうか・・・?
兵士達に蹴り倒されて崩れてしまった墓石の下からラブロの骨の一部が顔を出しているのを目にして、我はふとそんなことを脳裏に思い浮かべていた。
いや・・・あれがラブロの声だったかどうかなど、今となってはどうでも良いことだ。
それよりも・・・ラブロは、本当は気が付いていたのではないだろうか?
周囲の木々よりも一際大きく育つこの大桜が、我の竜玉の影響を受けてその身を肥大化させたのだということに。
恐らくはかつて我に竜玉を返そうと森にやって来た人間がこの木の根元で休息を取る内に眠ってしまい、体外に排出された竜玉が偶然にも桜の木に吸収されてしまったのだろう。

竜玉はそれを手に入れた者が意識を失うか、或いは命を落とした時にのみ体外へ排出されるという特徴を考えれば、この大桜から竜玉を取り戻す為には当然ながら木を切り倒さなくてはならないということになる。
だが当時はそれが出来なかったが為に、竜玉は紛失したという扱いを受けてしまったのだ。
種々の歴史書に通じ15歳という若さでありながらこの国のことなら誰よりも知っていたラブロなら、確信にまでは至らなかったとしてもこの大桜が我の竜玉と何らかの関わりがあることを見抜いていたとしても不思議は無い。
それにこれも我の推測なのだが、ラブロは我がこの場所に墓を建てることも予見していたのではないだろうか?
何一つ言葉にはしなかったものの、彼は確かに我を竜玉の在り処に導いてくれたのだ。

我は土の中から覗いているラブロの白骨に視線を落としながら、そんな淡い想像に身を委ねていた。
ラブロに、事の真相を訊いてみたい・・・
ここに彼の亡骸がある以上、今の我ならラブロを生き返らせることも出来るだろう。
だがそんな強い衝動に駆られながらも、我は寸でのところでそれを思い留まっていた。
ラブロは、竜玉を我の手に取り戻すことで確かに人生の目的を達したのだ。
それにラブロを護るという約束を違えた上に、我は激情に駆られてこの手で大勢の人間達を殺めてしまった。
今更、一体どんな顔でラブロに会えば良いというのだろう。
彼はこのまま眠らせておいてやった方が、きっとお互いに良いのではないだろうか・・・
我はしばしの葛藤の末にそう心を決めると、彼の骨にそっと口付けしてから再びその上に土を掛けてやっていた。
そして地面に打ち捨てられていた墓石を元通りに戻すと、深緑の苔に覆われた"我が子"の文字を指でなぞってやる。

「ラブロ・・・お前が、我の息子で良かった・・・礼を言うぞ・・・」
"僕も・・・父さんの息子で良かったよ・・・ありがとう"
今のは・・・やはりあれは、ラブロの声だったのだろうか・・・?
それとも彼を悼む我の心が、我自身にそう語り掛けただけなのだろうか・・・?
いや、どちらでも良いではないか。
たとえそれがラブロの声であったとしても、或いは単に我の幻聴だったのだとしても、かつて我には胸を張って誇れる素晴らしい息子がいて、その魂は確かに今も我とともに在ったのだから。

その日から、我は再び麓の町の人間達の許へも少しずつ顔を出すようになった。
やはり我は、人間とともに生きていくのが性に合っているらしい。
それにラブロを育ててくれた町の人間達への感謝を忘れぬ為にも、ようやく取り戻した神の力はこの平和な国の発展と存続の為に使いたいと強く願うようになったのだ。
初めの内は我に対して些か恐れの感情を抱いていた人間達もやがて我の存在を受け入れてくれ始め、悲しい事情を知ってラブロの墓を訪れる者達も再び増え始めている。
そして今日も多くの供物や花束で一杯になった息子の墓を見つめながら、我は春先の平和で静かな一時に大きな安堵の息を漏らしていた。

「ラブロ、見えておるか?満開の桜だぞ・・・お前も今、このような桃源郷で過ごしていると良いのだが・・・」
辺りに降り注ぐのは、美しい桃色の桜吹雪。
視界の一面を覆ったその自然の芸術に目を向けながら、傍らに感じる温もりが愛しい息子の存在を微かに仄めかす。
"綺麗だね、父さん"
「ああ・・・そうだな、ラブロよ・・・」
心の中で交わされる親子の会話は何時まで経っても決して尽きることはなく、我は心底からの幸福を感じながら空に舞い散る可憐な桜の花弁をじっと眺めていたのだった。

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