木々の合間を縫うように走る、紫色の影。
その影に追い立てられて、ジュウは行けども行けども終わりの見えない森の中を、必至の形相で逃げていた。
普段決して足を踏み入れてはならないとされている、村の北に広がる森。
村に住む若き薬師、ジュウは、ふと珍しい薬草を見つけて安易な気持ちでそこに入ってしまい、不用心な事に迷い込んでしまったのだ。

胸に深々と切り付けられた爪痕からは、とめどなく血が流れだしていた。
痛みと恐怖をこらえながらジュウは、おそらく奴は遊んでいる、と思った。
ただ仕留めるならば、遭遇時の一撃で十分ジュウを死に至らしめることが出来たはずなのだ。
それだけではなく、奴の脚とジュウの脚は比べるまでもない。
本気で仕留めるつもりがあれば、とっくに追いついてジュウは襤褸切れのようにされている。
奴は確実に、ジュウを弄んでいる。
そんな事を考えると、自分がいかに凄惨な末路を迎えるかと言う想像が次々脳裏に現れ、ジュウの中で更に恐怖が膨らんでいく。

突如、ジュウの目の前から木々と地面が消え去った。
足元には大地の裂け目が広々と口を開けており、その遥か下には猛然と川が流れている。
そこにはジュウの運命をあざ笑うかのような、断崖絶壁が広がっていた。

「おや‥‥もう諦めるか?」

絶望の表情を浮かべるジュウの背後に、勿体ぶるような重々しい足音が聞こえてくる。
ジュウが振り向くと、金色の視線がその胸元を射貫いていた。
ぎらついた歯の隙間から飛び出したおぞましい青紫の舌が、下あごに溢れ出た涎を舐め取っている。
そして闇には溶け込み光には美しく輝く、深い紫色のなめらかな鱗と翼が、木々の影から顔を見せた。

「我が縄張りに足を踏み入れた愚か者め‥‥楽には殺さん」

怒りを含んだかのような物言いとは真逆に、その紫色のドラゴンの口角は獲物を目の前にしてギリリと上がっている。
にじり寄って来るドラゴンは、ついにその鋭い爪をジュウの身体に向けた。

――――

「うわあああああぁぁぁぁぁーっ!!!」

布団をはね上げ、ジュウは飛び上がるのようにして起き上がった。
高鳴る心臓の上に刻まれた傷がじくじくと痛む。
その傷を指でなぞりながら、ジュウは辺りを見渡して、ここが見慣れた自分の家だと言う事を確認した。

「‥‥ま‥‥またあの時の夢‥‥」

ジュウは一月前、北の森でドラゴンに襲われ、追い込まれた崖に飛び込んで辛うじて命を拾った。
だが、あの時の恐怖は物理的な傷と一緒に心に深く刻まれてしまったらしく、未だに悪夢としてジュウに纏いついていた。

ジュウはベッドから起き上がり、窓の外を見る。
村の広場の向こう側に太陽が昇っているが、まだ低い位置にある。
その手前にある、広場の中央に建てられた木の柱の上にはためく村のシンボルを見て、ジュウはため息をついた。
森を象徴する緑の地色に、紫色のドラゴンの図章。
それがこの村を象徴する旗印だった。

「ジュウ。今日は早いね」

もう一度眠れる気もせず外に出ると、農作業具を背負った、近所に住む壮齢の女性が声を掛けてきた。
似たような格好をした村人が二〜三人、その背後で既に各々の畑に向かい始めていた。

「おはようございます‥‥おばさんは農作業ですか?精が出ますね」
「精も何もありゃしないよ、朝が涼しいからやってるだけで昼間は寝てるんだから。あんたは何かい、またあの夢でも見たのかい」
「その通りだよ‥‥参るよ本当に‥‥」

ジュウは顔を覆ってやや大げさにうつむいた。

「散々ドラゴンが居て危険だって言われてる北の森に入ったあんたも悪いだろ。命があるだけで感謝しなきゃ。何人やられてると思ってるんだい」
「もうその説教は聞き飽きましたよ!二度と入りませんって」

好奇心――ジュウ自身は薬草に対する探求心としているが――に負けた自業自得と言うのは理解しているが、流石に彼はうんざりしていた。
傷が治って起き上がれるようになってから、何度となく何人もの古老やら年長達に聞かされた文句である。

「そう言えば‥‥ドラゴンと言えばあの旗なんですけど‥‥」

ジュウは広場の中央に建てられた旗を指さした。

「あれがどうかしたかい?」
「どうして北の森の紫のドラゴンが描かれているのか知りませんか?」

そう聞いたジュウに、彼女は首をかしげながら答えた。

「‥‥そういやなんでだろうねえ、あんたみたいなうっかりものとはいえ、村の人が何人も犠牲になってる筈なのに、それをシンボルに掲げてるなんて言われてみれば不思議だね」
「俺の話はもういいですって」

ジュウはうなだれる。

「村長なら知ってるんじゃないかね。それじゃああたしはもう行くよ。のんびりしてたら日が暮れちまう」
「はい、お気をつけて」

陽気に笑いながら畑仕事に向かう彼女を見送って、ジュウは村のシンボル旗に向かって大きく背伸びをした。

「村長か‥‥聞きに行ってみるか」

ジュウは村長のところへ向かおうとしたが、今はまだ早朝だ。
老人は朝が早いとも言うが、念のためだ、ジュウはとりあえず昼まで待つことにした。

――――

朝日を浴びて、紫色のドラゴンは目を覚ました。
夜、住処にしている洞窟の外で星を眺めていたら、そのまま外で寝てしまっていたらしい。

「グ‥‥アアアッ‥‥」

あくびをした後、大きく身体を捩らせて、睡眠によって固まった関節をほぐす。

「‥‥水を飲むか」

この雌のドラゴンは名をディレンと言った。
ディレンはすっくと四足で立ち上がり、水場に向かって歩き出す。
洞窟と川は少し離れており、ディレンは歩きながら、どうせ外で寝るならばあの川の近くで寝た方が良かった、などと考えていた。

暫く歩くと、激しい川の流れが聞こえてくる。
そう言えば少し前、この川で人間を逃したな、と思い返しつつ、ディレンはその崖下にある、やや開けた場所を見定めて翼を広げた。
崖を器用に飛び降りると、川岸に歩み寄り、鼻先を水に突っ込んでがぶがぶと水を飲む。
のどを潤して一息ついたディレンは、再び翼を広げて崖の上に戻った。

(さて、今日はこれからどうしようか‥‥)

考えを巡らせても、今度は洞窟の中で本格的に惰眠を貪るぐらいの情けない結論しか出ず、自然と足は住処に向かう。
そんな事を考えていた折、ディレンは突如歩みを止め、周囲を見渡した。

――匂いは感じる物の、足音はしない。
おそらく向こうもこちらに気付いて歩みを止めているのだろう。

まだ獣臭に甘みが混じる、とディレンが感じる独特のにおいは、おそらく子鹿だ。
彼女は舌なめずりをするが、それは味を想像しての事ではなかった。
若い動物特有の弱弱しい肢体、拙い抵抗、か細い声。
そしてそれを蹂躙する快楽を想像しての事である。

木々と風、大地、森を構成する全てに身をゆだねるように、ディレンは目を瞑る。
それは音に集中するためであったが、同時にディレンの全身が森に溶け込むようにその気配までもが消えていく。
しかしディレンは無心ではない、ただ一つの思考だけが脳を支配していた。
――動け、動け、早く動け。

――動いた。
草を踏む僅かな音を聞いて、ディレンは身をひるがえし、半ば飛ぶようにして大地を蹴った。
突如現れたその巨大な殺意を感じ取った子鹿は、恐れを抱いて逃げだす。
しかし猛然と木々の隙間を駆け抜けるディレンは、子鹿をも飛び越えてその眼前に現れ、愉悦の表情で子鹿を睨みつける。
その睨みに一瞬で身体の自由を奪われた子鹿は次の瞬間、脚を折られて地に倒れ伏していた。

(全く、どうして我はこのように荒々しいのか)

まだ足掻いている子鹿に嬉々として爪を抉り込みながら、どこか冷静にディレンはそう思った。
昨晩星を愛でていた自分とは真逆の、ただいたぶるだけの殺意。
頭の片隅ではそのような己の性分を恥じてはいたが、もう片隅ではこのような一方的な行為よりも更なる激しい闘争を求むる自分が居る。
この性分に身をゆだねる旅にでも出ようかと考えたこともあったが、それほどこの森に不満を持っているわけでも無い。
ディレンの心の内では恥ずべき己と見栄えのいい己が常に天秤の上で揺れていたが、結局のところ選んでいるのはどちらでもない楽な道だ。

最早動かなくなった子鹿の腹部に牙を立て、口腔内に広がった血の匂いに悶えながら、彼女はこの後、どうやって洞窟の壁に突き出した岩のこぶを数えるかを考えていた。

――――

「村長、在宅ですか」

昼過ぎ、ジュウは村長の家の古い扉を叩いていた。
ガタガタともたついた足音が聞こえ、しばらくして長いひげを蓄えた老人がゆっくりと扉を開ける。

「ジュウか。なんぞ用か」
「少し聞きたいことがあるんですが‥‥お時間よろしいですか」
「構わんよ、入りなさい」

概ね暇を持て余していると言う事もあり、村長は快く家に入れてくれた。
迎え入れられたジュウは年季の入った椅子に座らせられると、さっそく質問をぶつける。

「それで聞きたい事なんですが‥‥この村のシンボルは、どうして北の森に住む紫のドラゴンが描かれているんですか?」
「ふむ‥‥お前を襲ったドラゴンの話か‥‥そうか、もう知らん者も多いのだな。わしがまだ乳飲み子だった頃のことだから、仕方無いか‥‥」

ドラゴンがこの村のシンボルとなっているその理由。
村長が乳飲み子だった頃というと、もうジュウの生きてきた何倍も前の話と言う事になる。

「‥‥この村の北、あの森を抜けた場所にある国と、この村が属する国は、昔、戦争をしていたのは知っているな」

ジュウは頷いた。
一応、ジュウもこの国に生まれ育った者として、その話は村の教会の小さな教室で習っていた。
ただ短い戦争であったため、聞いた話と言えばなぜ戦争が起きて終わったか、であり戦争中の話はジュウはほとんど知らなかった。

「この村は丁度国境付近にあるだろう。戦争に巻き込まれればひとたまりもないが、今でもこうして存続しておる。それはあの森のドラゴンのおかげなのだ」
「ドラゴンのおかげ‥‥?」

今でこそ被害と言えばジュウのような無防備なが殆どとはいえ、ドラゴンによって命を落としたらしい村人は昔から何人も居るという。
そんな凶暴なドラゴンが、一体どのようにしてこの村を存続に関わったのだろうか。

「戦争の初期にはこの村を狙って森に入った北の国の兵士の一軍もあったそうだ。しかしあのドラゴンは縄張り意識がことさらに強い奴でな、森に入る者には容赦せん」
「それは‥‥つまりドラゴンが北の軍を?」
「その通りだ。ドラゴンは北の国の兵士をそれは無惨に殺し、この村にまでその悲鳴が聞こえた事もあったという」

ジュウの脳裏に、あのドラゴンの、毎日のように夢で見る恐ろしい牙と爪が鮮明に浮かび上がった。
背筋に冷や汗が流れるのを感じ、ジュウは椅子の上で身じろぎした。

「‥‥やがて戦争は終わり、国境のこの村は、戦争とは無関係でいられたと言う訳だな。もしも戦争が長引いていれば、国境を守ったドラゴンとして小さな村の昔話ではなく国全体の歴史となっていたかもしれんよ」

村長は髭を撫でながら、遠い目をして言った。

「それであの紫の竜がこの村のシンボルなんですね」
「うむ。それにいくら恐ろしい怪物と言えど、人と言うものはああいう力ある存在に憧れを抱くものだ。‥‥お前も恐怖を憧れに変えてみたらどうだ?」

急に言われて、ついジュウはびくりと肩を震わせる。

「からかわないで下さいよ‥‥」
「すまんな、まだ冗談に出来るほど癒えてはおらんか」

申し訳なさそうにする村長に、ジュウは苦笑いで返した。

――――

数日後、薬師であるジュウは、自分が管理している小さな薬草園を手入れしていた。
殆ど野草をそのまま植えたような薬草園は、多少放置しても勝手に育つため、ジュウは普段近所の畑を手伝う事の方が多いのだが、全く手を掛けない訳にも行かない。
好き勝手に育ち過ぎるものもあり、増えすぎた薬草や香草等を間引く必要もある。

間引いたものや手入れで切り落としたものの中にも、使えるものはある。
そんな草の仕分けにひと段落がつくと、ジュウはしゃがみ作業で痛んだ腰を伸ばして背伸びをした。

「いつつ‥‥」

ゆっくりと肩を回すと、また胸の傷が突っ張って痛む。
ため息をついたジュウは、太陽の傾き加減を見てそろそろ切り上げようと考えた。

「‥‥ん?なんだあれ‥‥」

その時ジュウは、ふと太陽の右側に黒い点を見つけた。
その点を見定めようと眺めていると急速に大きくなり、色は黒から緑に変わっていく。

「な‥‥あれは‥‥」

近づくにつれて、緑の影に羽ばたく巨大な翼の形が露わになっていった。

緑のドラゴンだ。
北に住む紫のドラゴンとはまた別のドラゴンが、この村めがけてまっすぐと飛び込んできていた。

「ど、ドラゴンだ!!」
「うわあああああっ!!!」

人の多い中央広場から、村人たちの悲鳴が聞こえる。
その声に導かれるようにドラゴンは急降下し、中央広場に降り立つのがジュウには見えた。
ジュウは一瞬駆けだそうとしたが、一体村に行ったところで何が出来ると言うのか。
しかし、ジュウには何となく、ある一つの予感がしていた。
ズキズキと痛む胸の傷を押さえて、ジュウは走り出した。

「ふん、丁度良く人が群れていたか‥‥悪くない村だ」

ドラゴンは逃げ惑う村人たちを一瞥すると、声を張り上げた。

「‥‥この俺の前に一人寄越せ!そうすれば今ここで皆殺しにすることは許してやる」

それを聞いて、村人たちは慄いて逃げ足もしどろもどろになる。
何人かの村人は、とっさに同じく立ち止まっていた村長に縋りつくような視線を移した。
その時、民家の隙間からバタバタと走りながら叫んだ男が居た。

「俺が行く!」

緑のドラゴンへ向けた言葉か、村人達への宣言か。
どちらともつかない一言を、そこに駆け付けたジュウはとっさに叫んでいた。
降り立ったドラゴンがそう言う事を確信して走っていたわけではない。
だがしかし、ジュウはドラゴンが村人を皆殺しにしたところで腹に全員を入れれるわけではない、と思っていた。
頭で意識していたわけではないが、もしかするとその直感から導き出されたものが、ジュウを動かしていたのかもしれない。

「俺が身を差し出せば‥‥みんな助けてくれるんだな?」
「今はな。だがそうだな‥‥最早この村は俺の物だ!俺はそこの森に住ませてもらう、そこに毎週一人、生贄を捧げろ!」

ジュウはそう吼えたドラゴンを見据えながら、村の中央を指さして言った。

「‥‥あっ‥‥あれを見ろ!」

ジュウの指の先にあるのは、村のシンボルたる紫のドラゴンの旗。

「森は既にあの紫のドラゴンのものだ!お前が森に一歩でも足を踏み入れたら、奴が黙ってないぞ!」
「ならば貴様を食って腹ごしらえをした後、そいつを殺すのみだ」

挑発として示しては見たものの、そんな言葉が返ってくる可能性は解っていた。
しかし、ジュウがドラゴンに食べられれば少なくともこの場だけは抑えることが可能だ。
どうせ一度はドラゴンに食われかけた身だと思えば、ジュウは足を踏み出すことができた。

「そうと決まれば、もっと怯えて俺を楽しませろ、人間」

近くで見ると、緑のドラゴンは紫のドラゴンよりも二回りほども大きいような気がする。
舐めるように見下ろしてくるドラゴンに、ジュウは拳を握りしめて睨み返した。
なお恐怖に染まらないジュウを見て、ドラゴンは何かの予備動作のように首をすくめ、ぐるぐると喉を鳴らすと彼に向かって口を開く。

「グオオオオオォォォォォ!」

周囲の住居を丸ごと震わすような轟音が、ドラゴンの喉から放たれる。
住民たちは耳をふさぎ、ジュウも耐えるようにうつむき加減で目をぎゅっとつぶった。

「あ‥‥あの森のドラゴンに比べれば、お前なんか怖くもなんともない‥‥!」
「何‥‥?」

ジュウのそんな精一杯の虚勢を聞いて、緑のドラゴンは牙をむき出しにした。
ドラゴンが鋭い爪の生えた腕を振りかぶった瞬間、森の方から甲高い叫び声、いや、咆哮が聞こえてきた。

「ギャオオオオオォォォォォォ!!!」

近くではない、かなり遠くの方から聞こえた声だった。
緑のドラゴンも、ジュウから目を背けて森の方を向き直る。

「‥‥あれが貴様の言うドラゴンか?奴の方から挑戦状を叩きつけるとはな‥‥それも雌とは‥‥面白い!」

あっさりと興味の矛先を変えたドラゴンは、翼を広げて飛び上がり、森へ向かっていく。
ジュウはそれを見届けてへなへなと座り込むと、彼の周りに村人たちが駆け寄ってきた。

――――

その日、ディレンはいつものように洞窟の奥で丸まっていた。
三日ほど前より一歩も洞窟から出ることなく、ただ時折寝相を変えるために起き上がるだけの昼下がり。
外の天気も解らないが、晴れているならば流石にそろそろ太陽の光でも身体に教えてやろうか、と考えた時だった。

「グオオオオオォォォォォ!」

突如森の南側から、地鳴りにも似た轟音が届けられた。
それを聞いたディレンは、一瞬聞き間違えたかと思い唖然とする。
しかし、少し遅れて森の鳥たちが一斉に鳴き声を上げながら飛び立ったのを察すると、跳ね起きるようにして洞窟の外に飛び出した。

「ギャオオオオオォォォォォォ!!!」

木の葉を散らす程の咆哮をしたディレンの顔には自然と笑みがこぼれていた。
突如やってきた闘争の匂いに胸を高鳴らせ、北の空を見つめる。

やがて、木々よりも深い緑色の鱗の塊が、目の前に降り立った。
見ると己よりも体躯が大きいようだが、そんな初めての相手にも、ディレンは下がろうとは思わなかった。

「我が縄張りに足を踏み入れた事がどういうことか解っていような」

先に口を開いたのはディレンだった。

「貴様からこの森に呼んだ癖に随分と無礼な物言いだな。目が血走っているぞ」
「呼び声に応じてきたのは戯言を言うためか」

ディレンは昂る己を制するように、妙に冷静に言い放った。

「ククク、威勢の良い奴だ。参るぞ!」

飛び掛かる緑の巨体に、ディレンは地を蹴りその下を潜り抜ける。
背後を取ったディレンは、その場で回るようにして尾に遠心力を付けると、相手に向かって横薙ぎに叩きつけた。
直撃の手ごたえを感じるディレンだったが、緑のドラゴンは顔を苦痛にゆがめながらも一歩たじろいだだけであった。

――体躯で劣る相手に打撃戦は不利か。
ディレンはそう考えると、体内の熱を喉元に送り込み、大きく首を引く予備動作の後、青色の炎を吐き付ける。
緑のドラゴンはそれを予想していたかのようにディレンの横に回り込み、その回避の勢いを利用して身体をひねりながら爪の一撃を叩き込んでくる。
ディレンの横腹の鱗がめくれ上がり、肉が深々とえぐり取られた。

「グウゥ‥‥ッ」

初めて感じる強さの痛みにうめき声をあげながらもディレンは後ずさりし、緑のドラゴンを睨みつける。
大昔、北から森に入ってきた重装の人間たちを食い散らかした時に剣、槍、矢、様々な刃を身に受けはしたが、そのどれもがこれほど深くこの身に突き刺さったことは無かった。
息荒く構えるディレンに対し、緑のドラゴンは身体を震わせて先ほど尾を叩きつけられた痛みを誤魔化しながらも言った。

「こんな森で王のように振舞っていたのかもしれぬが、俺には通用せん」
「ふん、大方貴様もその森に君臨しようと我の戦いに応じたのだろうっ‥‥!」

ディレンは強気に笑いながらもそう返すと、緑のドラゴンがディレンに襲い来る。
身体を捩ったディレンの回避は、緑のドラゴンには、痛みによって行動が一拍遅れたようなひどく不完全なものに見えた。
ディレンは辛うじて頭部への直撃は避けたものの、今度は首元から肩口にかけて大きな傷が刻み込まれてしまう。

だがディレンは、互いが接近したその一瞬にとっさに爪を振りかぶっていた。
いや、ディレンの最小限の回避行動は、初めからその一瞬の接近を狙っての事だった。

「ガアアァァッ!!!」

爪を振りながらの咆哮は、相手が狙いに嵌ったことの愉悦か、それとも首に受けた傷の苦痛故か。
しかし、ディレンはその攻撃が確実に当たるべく胴体を狙っていたのだが、すれ違いざまのごく一瞬の出来事である。
ディレンの大ぶり過ぎた攻撃は本来の狙いを大きく逸れ、ディレン自身にとっても不意の一撃となり、緑のドラゴンの右目を掻いていた。

「グアアアアァァァァッ!!!」

それは殆ど撫でただけのような一閃だったが、いくらドラゴンと言えども眼球に鋭い爪を受けると言う事は想像を絶する痛みである。
だが、ディレン自身も渾身の勢いを付けた攻撃が殆ど空ぶり同然の形になってしまったためにバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。

「ゆ‥‥許さんぞ‥‥」

緑のドラゴンは、ディレンを適度に痛めつけた後に己の雌としてねじ伏せてやることも考えていたのだが、まさか片目を奪われて冷静でいられる道理はない。
立ち上がろうとするディレンを踏みつけ、そのまま爪をその背中に刺し入れた。

「ガッ‥‥グアアァァッ‥‥」

ディレンは地面を掻きながら抵抗するが、傷だらけの身体では自らよりも大きな相手を押しのけることなど出来ない。
それはうめき声をあげるだけの結果にしか終わらなかった。

――――

ドラゴンが去った後、ジュウは村人たちに囲まれていた。
ジュウに向かって謝辞を送る者もおり、本当に食われたらどうするつもりだったのかと怒る者もいる。
紫のドラゴンが敗北すればこの村の危険は変わらないと絶望する者も、紫のドラゴンが勝つはずだと根拠のない楽観視をする者もいた。

「とりあえず、今この時、村に被害がなかった事は喜ぼう」

村長がそう言って、今後の事を考えるべく村の有力者に村長宅に来るように告げると広場は解散することになった。
何しろ紫のドラゴンと緑のドラゴンの決着がつくまでに身の振り方を決めなければならないのだ。
もしも緑のドラゴンが勝てば、この村は依然として危険に晒されたままなのである。

ジュウは自宅に戻ると、鏡の前で胸元を開いてみた。
傷跡は変わらないままそこにあり、時折思い出したようにズキリと痛む。

「‥‥ガアアアァァァ‥‥ッ!!!」

森の方から不意に響いてきたその声に、ジュウは窓の外を見た。
驚いた鳥たちが、森の木々からバサバサと羽ばたいている。
ジュウには今の声が緑のドラゴンの物か紫のドラゴンの物かは解らなかったが、彼は家を飛び出していた。

ドラゴン同士の戦いが人間と同じように体格が大きく関わるものなのかはジュウは知らないが、少なくとも緑のドラゴンは紫のドラゴンよりも大きかったように見える。
それを知るのは、村では実際に紫のドラゴンを目の当たりにしたジュウだけだ。

そんな事実に起因する不安を感じ、ジュウは人目に付かない場所から、二度と入らないと言っていたはずの北の森に分け入っていた。
遠くから声の聞こえた方向、という大雑把すぎる感覚を頼りに、鬱蒼と生い茂る木々の間を歩いていく。

「くっ‥‥ちゃんとした靴を履いてくればよかったな‥‥」

深い考えも無しに森に入ったおかげで、靴は土や草にとられ、時折こけそうになってしまい、ジュウは少し後悔したが、今更引き返す気も起きなかった。

ジュウが暫く歩くと、どちらかのうめき声と思しきうなりが聞こえた。
そろそろ進行方向に不安を覚えていたジュウは、喜んでいいものか、と思いながらもつい早歩きになってしまう。
やがて木々の向こうに開けた空間を発見すると、ジュウは木に隠れるようにして覗き込んだ。

(‥‥あれは‥‥)

ジュウが目にしたのは、倒れた紫のドラゴンの首筋に、緑のドラゴンが噛みついている所だった。
紫のドラゴンは息も絶え絶えの状態で時折身体を震わせており、その首はミシミシと音を立てている。

(‥‥このままじゃ‥‥村は無事じゃすまない‥‥)

あれほど恐れていた相手が、こうまであっさりと組み敷かれている光景をみて、ジュウは歯をかみしめた。
このままでは村が無事では済まないのは確かだが、それ以上に真っ先に食べられるであろうは、あの時宣言をしたジュウ自身である。

しかし、今組み敷かれている紫のドラゴンにすら手も足も出せない人間である己に、それよりも大きな緑のドラゴンに対して一体何が出来ると言うのか。
今ここにいること自体が相当無計画かつ無鉄砲な行動ではあるものの、村の中央でドラゴンに向かって啖呵を切った己が随分と滑稽に思える。
そんなことを考えながらも、ジュウは二体のドラゴンを見ていてある事に気が付いた。

(あいつ‥‥右目が‥‥)

緑のドラゴンには殆ど負傷が見られないものの、右目からは血を流している。
それを目の当たりにしたジュウの脳裏に、更なる無謀とも言える一つの決断が生じた。

ジュウは倒れ伏している紫のドラゴンの背後に回り込むと、その血塗れの影に隠れるようにして、緑のドラゴンの顔に近づく。
緑のドラゴンが紫のドラゴンに噛みつき、頭の位置が低い今でしかこれは出来ない。

「‥‥グル‥‥グルルル‥‥」

近くで聞けば、先ほどから紫のドラゴンだけがうめき声をあげているばかりと思っていたが、そのうめき声には緑のドラゴンの恨みのこもったうなり声も混じっていた。
なるほど、目に食らった痛みで激昂し、だからこそ忍び寄る自分にも気づいていないのだろう、とジュウは思った。

「グア‥‥ア‥‥」

ディレンは意識が薄れ始めていたものの、緑のドラゴンはそれを許さず、絶妙な力加減で首筋を噛み締め、可能な限り苦痛を伸ばそうとしているらしい。
怒りに狂いつつもよくもそんな加減が可能なものだ、と半ば客観的過ぎる己が居る。
首からは己の命が流れ出しているのを感じはじめていたが、蹂躙と闘争を好む性分を持つ己がこのような終わりを迎えることを内心ではどこか予想していたのだろうか。
ディレンは痛みに悶えながらも、どこか死に対して安楽な気分ですらあった。

だが、その思いのほか穏やかな心中に、何か雑音のようなものが混じっていた。
己の身の傍らに、小さな何かがまとわりついているような、そんな感覚だ。
その何かは、突如ディレンの傍らから、まるで緑のドラゴンの顔に体当たりをするかのように飛び出した。

「ギャオオオオォォォォーッ!!!」
「グガッ‥‥カハ‥‥ッ!」

一瞬きつく首が絞められたかと思うと、首元に突き刺さっていた無数の牙が外れ、緑のドラゴンが叫んでいた。
それと同時にディレンは大きく息を吸い込むと、半ば酸欠状態で頭の中にかかっていた靄が一気に晴れた。
少し遅れて、痛む身体に鞭打ち立ち上がる。
徐々にはっきりし始めた視界で緑のドラゴンを見ると、その目からは血が流れ出していた。
先ほどディレンが掻いた右目からだけではない、両目である。

「グッ‥‥グアアアアアァァァァァーッ!!!」

緑のドラゴンは泣き叫ぶかように天に向かって吼えていた。
ディレンは緑のドラゴンの両目に疑問を抱くよりも先に、本能という弓につがえられた矢となって、そのむき出しの喉笛に向かって飛び込むようにして噛みついた。
いたぶろうなどといった手加減は一切無い、決死の力を込めた牙が緑のドラゴンの鱗を破る。
そして、飛び込んだディレンの全体重がその首筋に掛ると同時にゴキリと鈍い音を立てた。

「や‥‥やった‥‥!」

二体のドラゴンはもつれあいながらも、その場に地響きを立てて倒れ伏したのを見て、血塗れの木の枝を握りしめながらその様子を見ていたジュウは、思わずそう叫んでいた。
正直ジュウは、ここまでの結果を期待していたわけではなかった。
ただ緑のドラゴンが両の目を失えば村になにか有利に働くだろうと、そんな大雑把な打算だけでかのドラゴンの左目に木の枝をねじ込んだのである。

「‥‥グ‥‥ググ‥‥」
「あ‥‥」

ジュウがようやく安堵のため息をつこうとすると、大切な事を忘れているのを思い出した。
紫のドラゴンが、唸り声を上げてその身を起こしたのである。
そうなれば、紫のドラゴンの次なる狙いは、当然――。

「グガッ‥‥」

もたついた足並みで緑のドラゴンの骸の上から下り、二歩、三歩と進んだところで、ずしゃり、と血の水音を含んだ音と共に、紫のドラゴンは再び倒れた。
その視線は恨めしそうにジュウを見ているようにも見えるが、何処も見えていないようにも思える。

「おっ‥‥おい‥‥」

ジュウはドラゴンがかつて自身を襲った相手にも関わらず、その悲壮なドラゴンの状態に、つい声をかけてしまう。
だがドラゴンは血混じりの荒い呼吸音を上げるのみである。
恐る恐るジュウはドラゴンを回り込み、傷口の状態を見た。

「‥‥こりゃ‥‥酷いな‥‥」

一番ひどいのは首の噛み痕であるが、わき腹と肩口の傷もまだ血が止まっていない。
次から次へと流れだす血を見て、ジュウは思わず息を飲んだ。
ジュウはドラゴンを見ながら後ずさりすると、踵を返して村の方に駆けだした。

――――

ジュウは、自ら作った傷薬をありったけ、そして衣服やカーテンなどを含む目に付くだけの布を籠に詰め込み、ドラゴンが倒れるこの場所に戻ってきた。
それなりの重さになってしまったため遅くなってしまったが、どうやらドラゴンはまだ息をしている。

まずは最も傷が深い首からかだろうか。
じっくり考えていると日が暮れてしまうため、悩んでいる暇もない。
ジュウは布を手に巻き付けて、首元に付いた塵、砂利を丹念に、しかしなるべく時間を掛けないように取り除いていく。

「ドラゴンの‥‥それもこんな深い傷に効くかはわからないけど‥‥」

壺を開け、粘ついた傷薬を取り出すと、ドラゴンの首筋に塗り込んでいく。
べたつきが傷を塞ぎ、完全ではないが止めどなく流れる血流がやや鈍くなる。
その上からジュウは持ってきた布を折りたたんで押し当て、締まりすぎない程度にきつく結び付けた。
とりあえず、今できることはこれぐらいで、後は同じように全身を手当てするしかない。

「‥‥馬鹿みたいだよな‥‥全く‥‥」

ジュウは肩の傷に薬を塗りながら独りごちる。
巨体に手間取りながらも身体の下に無理やり布を入れ、こちらは渾身の力で締め付ける。
鬱血も心配だが、ドラゴンの身体ならばこのぐらい強く締めた方が丁度良いのかもしれない。
そんな願望混じりにジュウは作業を進めた。

「自分の胸に傷をつけた相手の手当てをするなんて‥‥」

今可能な限りの手当てを済ませると、既に空は暗くなり始めてきた。
ジュウは急いで周囲から枯れ枝を拾い集め、ドラゴンの近くに積み上げて火をつける。
重症の身体に夜の寒さは障るだろうと考え、簡単なたき火を、ドラゴンからつかず離れずの距離で、囲むようにいくつか作った。
今の自分に可能な一通りの作業を済ませると、ジュウはドラゴンの近くに座り込み、膝を抱える。
後はドラゴン自身の生命力が頼りだ。

「‥‥死ぬんじゃないぞ、村の救世主」

そう呟いたジュウの目には、ドラゴンの顔が酷く安らかに見えた。

――――

身体の上に、何かが這いまわっているような気がする。
初めは虫かと思ったが、それよりも大きく重い何かだ。
それに、這いまわっていると言うのもどうやら間違いらしい。
何かこすったり、擦りつけたりしているような間隔が、首や腹部、肩からピリピリと伝わってくる。

身体が上手く動かない。
ひりつく首はもとより手足、翼は痺れ、尻尾すら全く持ち上げることがかなわない。

そもそも、自分は今どこに居るのだろうか。
周囲は暗闇に包まれ、寒さも暖かさも感じない。
五感は全く働かず、嗅ぎ慣れた森の匂いもしない。

いや、先ほど体の上に何かが居たはずだ。
五感は働いている、問題があるのは認識の方だ。

そうだ、このような奇妙な感覚がまかり通るのは夢の中ではないか。
夢からは目覚めなければならないが、どうやら我はその方法を忘れてしまったからここに居るのだろう。

夢から目覚めるにはどうすればいい。
夢から目覚める――目――そうだ、目を開けてみよう。
なぜこんな簡単な事が解らなかったのか。

目を開けて、あの森に帰ろう。

――――

数日後、ジュウは何度かドラゴンの下を訪れて、今回もまたべりべりとドラゴンの傷口から布を剥がしていた。
あれほど流れ出していた血は当然のように止まり、傷口には新しい皮膚が出来始めている。
その生命力の高さに、ジュウはもしかすると放っておいても勝手に治ったのではないか、とすら思っていた。

布を取り換え、きつく縛る。
ジュウは一仕事終え、汗をぬぐってため息をついた。

「‥‥ふう、いつまでこうすればいいかな‥‥目覚めたら俺が危ないし‥‥」

そう呟き、ジュウは一向に目覚める気配の無かったドラゴンの顔を見た。
そう、目覚める気配は、今まで全くなかったのである。

「‥‥」

しっかりと見開かれた金色の視線が、ジュウを射貫いていた。

「‥‥あ‥‥」
「‥‥グ‥‥グオォ‥‥!」

唸りながら、ドラゴンは目の前の人間に牙を剥き、立ち上がろうと身体を捩らせる。
だが、ドラゴンは全身に走った痛みに再び地面に這いつくばった。

「ま、待て!血は止まってるとはいえ傷に響くぞ!」

ジュウは後ずさりしながらドラゴンに言った。
ドラゴンは身体を動かすことを諦め、ゆっくりと首を持ち上げる。

「‥‥ぐっ‥‥」
「首は一番ひどいんだよ、無理するな!」

言われた通り首は酷く痛んだが、そんな忠告にドラゴンは命令されたような気がして反発心を抱く。
無理に首を持ち上げ自らの身体を見ると、肩や腹部に布の塊が押し当てられて、身体の下の土と草が赤黒く染まっていた。
周囲には、地面に焦げ付いたような痕と灰がいくつか散らばっている。

(‥‥そうか、我は自らよりも大きなドラゴンと戦い‥‥それから‥‥?)

ディレンは力尽きたかのように首を落す。
それを見たジュウはこの場から逃げ出そうとゆっくりと後ずさりを続行した。
だが、そんなジュウが恐れる様子を気にも留めないように、ディレンは声を掛ける。

「‥‥これは、貴様が?‥‥いや、あの時奴のもう片方の目をやったのも‥‥貴様だったか」

ディレンはあの時、ジュウが血に塗れた木の枝を持って立っていた姿をおぼろげながら思い出していた。

「え‥‥その‥‥うん」

ジュウは話しかけられて、全身を硬直させながらも生返事気味に答えた。

「何故だ‥‥放って置いても良かったものを、何故助けた」
「え‥‥?」

ディレンは緑のドラゴンとの戦いで命を散らしても別に構わないと思っていた。
己は所詮生き物の命を弄ぶことを好む野蛮で無為な化け物でしかない。
ここまではっきりとその終わりを望んでいたとは今まで気づかなかったが、ディレンはその思いの一端をジュウに吐きつけていた。

「その、緑のドラゴンが勝つと、俺の村も大変なことになってたから‥‥」

なるほど、緑のドラゴンは村に生贄でも要求していたのだろう。
ディレンが村にそれをしなかったのは、森には十分に獲物があった事もあるが、ただ捧げられた獲物よりも、逃げ惑う獲物に恐怖を与えながら食らう事を好んでいたからだ。

「それならば我を治療する理由は無かろう‥‥我が死ねばこの森に貴様の村のものは自由に出入りできるだろう」
「二度も村を救ってくれたってのに、あのまま放っておくのは俺が忍びなかったんだよ」
「二度‥‥?どういう事だ‥‥」

ディレンがそう聞くと、ジュウの口からかつて南北の国で戦争が行われていた時代が語られた。
村長から聞いたそっくりそのままの話を、ディレンの前で。

「だからお前は、俺の村では恐れられてはいるけど‥‥憧れのシンボルでもあるんだ」

俺も先日知ったところだけど、とジュウは最後に付け加えた。

「‥‥確かにそのような事はあったが‥‥あの時も今回も、我に誰かを救おうとした意思はない。ただ己が欲のままに闘いを求めただけだ」
「‥‥感謝の気持ちぐらい汲んでくれてもいいじゃないか‥‥」

最近まで知らなかったジュウではあったが、かつて先人が村のシンボルに紫のドラゴンを採用したその気持ちを軽んじられているかのような気がして、少し強い語気になってしまう。
それを聞いたディレンは、ほんの僅かだけ、その金色の目を見開いた。

「感謝‥‥」

長く一人で生きていたディレンには、馴染みの薄い言葉である。
一瞬、その言葉の意味をディレンは取り落としかけて何とか拾い、ディレンは手元の灰に目を落していた。

「じゃ‥‥じゃあ俺、行ってもいいか?」

ディレンの様子が変わったのを見て、ジュウは流れで誤魔化すようにこの場を離れようとする。
しかしディレンは痛む身体をゆっくりと起こしつつジュウを呼び止めた。

「何度もここに来ていたようだが‥‥また来るのか?」
「え‥‥あ、ああ。うん‥‥」

急に体を動かしたディレンに、ジュウは慄き半分、心配半分で答える。
ディレンが目覚めない限りは通うつもりではあったが、目覚めた今ははっきり言って彼女への恐怖が再び胸にくすぶっている。
だが面と向かって再訪を否定するのもはばかられていた。

「安心しろ、襲いはせぬ、一つ聞きたいだけだ。‥‥我はディレンと言う、貴様は?」
「お‥‥俺?」

不意に名を尋ねられて、ジュウは面食らう。

「俺は‥‥ジュウ」
「そうか、また会おう。手当てに感謝するぞ、ジュウ」

そう言うと、ディレンは身体が痛むのかどこか不器用に踵を返し、住処にしている洞窟に向かう。
最後に述べられた感謝の言葉にジュウは面食らいながら、ディレンが立ち去るのを見つめていた。

――――

それからジュウは、幾度かディレンの下を訪れた。
ジュウも村の畑を手伝うためずっと暇と言う訳ではなく、空いた時間で布と薬を取り換えて別れるだけの訪問。
薬を変える間は二者は他愛もない会話をしていたが、ディレンにとっては会話と言う事自体が余り経験のない行為であったことは言うまでもない。

村はその後、緑のドラゴンが襲ってくる様子も無かったため、領主への形式的な報告があった程度で殆ど変わりないと言う事だった。
場合によっては国の兵士による、森に侵入しての詳しい調査も考えられたが、あくまでディレンは今まで森の外での問題を起こしたことは無かったため、調査隊の危険も考えてそう言った話も無くなったらしい。
二〜三度目の訪問で、ややなれなれしい口調となったジュウはディレンはそれらの経緯を大まかに話していた。

ディレンの傷口が真新しい皮膚に覆われた頃の、ある雨の日の事である。
昼過ぎ、突如前触れも無しに降ってきた大雨の音を聞きながら、ディレンは洞窟の奥で丸まっていた。
首をはじめとして身体を動かすと常にどこかが若干痛むことがあるが、ディレンの一日は緑のドラゴンとの戦い以前の気ままなサイクルに戻り始めていた。
もちろん時折ジュウが訪れることは除いてである。

不意に、雨音に混じってバシャバシャと無遠慮に泥水をはね上げる足音が、洞窟に近づいてくる。

「わったたた‥‥!ふー‥‥ディレン、入るぞ」

次いで呑気に慌てふためいた声が洞窟に響き渡った。
片目を開けると、全身がびしょ濡れになったジュウが入り口付近で荷物を降ろしていた。

「‥‥雨の中を無理をして来ずとも良かったものを」
「降ってきたのが家出てからだったんだよ。やー参った参った」

ジュウは手で雨粒を髪や服から払おうとするが、濡れ方はそんな軽微なものではなく、やがて諦めて服を脱ぎ、丸めてぎゅっと絞る。
そんなジュウの背中を見ながら、ディレンはそっけなく言った。

「鱗はまだ生えそろってはいない薄皮だが、完全に塞がっているのだぞ。そう頻繁に来ずとも良い」
「塞がっててもまだ動かすと痛むらしいじゃん、湿布持ってきたんだけど効くかなあ」

雨にやられてないかな、と呟きながら、ジュウは持ってきた籠の中身を除いた。

「ディレン、飯はちゃんと食ってるか?」
「うむ、食事を取るにはもう影響は無い。‥‥まるで往診だな」
「俺は医者じゃなくて薬師なんだけどな」

少し前は獲物を捕るのも一苦労で、肉が喉を通るだけで首の傷に障っていた。
今は身体は痛むものの、とりあえず獲物を取るには支障は無くなっている。

「‥‥雨か‥‥良く降るな」

ディレンはそう言いながらも、その視線の先は外の雨ではなくジュウの背中にあった。

「そうだな、帰りどうしようか‥‥」

ジュウはディレンを振り向きもせずにそう答える。
そんな、ドラゴンにとっては紙細工のような、ジュウの若々しく雨に塗れた素肌に、ディレンはある一つの感情を抱いていた。
その感情に従って、ディレンは物音も経てずにゆっくりと立ち上がる。

「今日は畑仕事は無いのか」
「ああ、雨の日はまず手伝いは無いよ。急がなくていいのだけは救いだな」

ジュウの背後に歩み寄ったディレンは、その背中を見下ろしていた。
ディレンの感情は、ディレンが獲物に対して抱く嗜虐的な食欲にも似ていたが、決して交わらないものでもある。

全くどうして自分ともあろう者が、幾度となく手にかけたはずのこんな小さな生き物を、愛しさと情欲の目で見ているのか。

(殺されそうなところを助けられ、怪我を世話され、今までドラゴンとも人間ともろくにしてこなかった"会話"を多少しただけ‥‥きっかけとしては十分か)

ディレンはそう自問自答しながらも、その感情が脳を支配することに、抵抗のかけらも見せずに身を任せていた。

「‥‥ジュウ」
「ん?なんだ?」

声を掛けられて振り向いたジュウのその身体を、ディレンは地面に押し倒す。

「いっ!?‥‥いたた‥‥。な、なんだよディレン‥‥?」

地面に押し付けられて狼狽する彼のその表情がたまらなく愛おしく、少しの力を入れただけで失われる命を握っているという支配感が懐かしい。
困惑するジュウの様子を堪能するのも適当に、ディレンはジュウの下半身に手を出そうと視線を下げた。

その時、ディレンはジュウの胸に刻まれた大きな爪痕を発見した。
ジュウが以前、紫のドラゴン――すなわちディレンに付けられた、あの傷痕である。

「‥‥これ‥‥は‥‥」

ディレンがそれを見た瞬間、彼女の喉の奥に何か苦々しいものがこみ上げ、背筋に怖気が走った。

「‥‥ジュウ‥‥お前は以前‥‥我と‥‥」
「え‥‥?」

ジュウはディレンの視線を追い、自らの胸の傷に触れる。

「あ、ああ‥‥これか。まさかこれが付いた時にはこんなことになるとは‥‥」

ジュウが紡ぐ言葉は、ディレンの耳に入っていなかった。
ディレンが今まで忘れていたのだ。
かつて戯れに森の中を追いかけまわし、崖の淵に追い込んだ一人のちっぽけな人間を。
その人間の怯えた顔と、ジュウの顔がディレンの頭の中で重なった。

考えたくもない一種の"もしも"がディレンの脳裏に浮かんでは消えていく。
今まで彼女は幾多の人間を引き裂いた。
踏み潰し、炭に変え、そして喰らった。
その犠牲者の記憶から無意識にコラージュされる、無惨な姿のジュウ。
ディレンにそんな幻惑が絡みつき、彼女は操られるかのようにその腕をどけて後ずさりしていた。

「‥‥ディレン?」

ジュウは立ち上がり、突然目を見開いて離れたディレンに歩み寄る。

「‥‥来るな」

彼女の異変にジュウは、胸の傷を見下ろし、そして彼女の顔と交互に見比べる。
ディレンが傷を見て何を思ったのか、ジュウはようやく察した。

「‥‥お、おい。俺はこの傷の事でお前を恨もうなんて‥‥」
「‥‥」

無言の圧力が、ジュウを襲い、言葉が続かなくなる。
ジュウはディレンのドラゴンとしての重圧を感じてたじろいだ。
しかし、息をのんでディレンに駆け寄ると、そのうなだれた顔に自らの額を叩きつけるように押し当てた。

「‥‥聞けよ、俺がお前を恨んでるわけないだろ!」

ふりほどこうとされる前に、ジュウは叫んだ。
その声が洞窟の中に反響し、雨音を引き裂くように響き渡る。

「ディレン、お前が助けた奴の顔を見ろ。お前にその気はなかったかもしれないけど、俺がここにいるのは、お前が緑のドラゴンから俺を救ってくれたからだ」

ディレンは今すぐ逃げ出してしまいたい己を制し、震えながらもゆっくりを目を開けた。
金色の目がジュウの視線と合わさる。

「‥‥まだはっきり言ってなかったよな、ディレン。村を‥‥俺を助けてくれてありがとう」
「‥‥ああ」

ディレンはジュウの胸元に手を添え、傷口を見た。
傷口に向かってゆっくりと瞬きをすると、ディレンは何かを決意したように金色の目が鋭くなる。
そして、ジュウの胸に添えた手にぐっと力を込めた。
彼を突き飛ばしたのではない、先ほどのように、やはりその場に引き倒すように。

「‥‥ご、ごめん‥‥怒ってるのか?」
「いや‥‥謝るべきは我の方だ。今の事と‥‥そして、これからの事を‥‥」
「‥‥え?」

ディレンは右腕でジュウの胸元を踏みつけ、左腕で彼の下半身、そのズボンに手を掛け、一気に引き下ろした。
ジュウは突然の事に驚きながら抵抗するが、その甲斐なくズボンははぎとられてしまう。

「ディ‥‥ディレン‥‥!何を‥‥!」

太ももの間に、ディレンは強引に鼻先をねじ込んでくる。
ジュウはそれを押さえつけようとするが、柔らかいペニスにぬるりとした青紫色の舌が絡みついた。

「や‥‥やめ‥‥!」

下半身を這いまわる無数の柔突起の刺激にジュウは身体をのけぞらせる。
あっという間にその股間は涎にまみれ、ぶ厚い肉塊に竿と玉が弄ばれた。

刺激から逃げ出そうとジュウは腰を引いたが、ディレンは更に鼻先を突き出して追い立てた。
徐々にいきり立ってきた肉棒は完全に口の中に納められてしまう。
そのままぎゅうぎゅうと口内全体を密着させるように吸い付いてくるディレンに、ジュウは完全に腰が抜けてしまい、早くも力なく彼女の頭に震えながらもたれかかった。

「‥‥う‥‥あ‥‥」

そんなジュウの様子に、ディレンは先走り液を啜りながら嬉しそうに口角を上げた。
その表情は正に、彼女自身が難色を示していた、獲物をいたぶる己の性をむき出しにしたときのそれである。
ただ異なるのは、今の彼女が欲しているのが赤い液体では無いと言う事だ。

ついにジュウは、彼女の口の中に白い液体を吐き出した。
ディレンは笑顔をそのままにジュウの精液を吸い上げ、喉の奥に流し込んでいく。

「‥‥ディレン‥‥こ‥‥こんな‥‥」

ちゅぽんと音を立ててジュウのペニスから口が離れると、大きな影がジュウに降りかかる。
ディレンは僅かに口から溢れた精液を見せつけるように舌なめずりをしながら、跨るようにしてジュウに覆いかぶさっていた。

「‥‥その胸の傷にあえて意味を見出そう。それは我が付けたもの‥‥いわばサイン‥‥」

ディレンは自らの足の間にある、一筋の線に指をあて、左右に開いて見せた。
青紫色のおどろおどろしげな花が、とろりとした糸を垂らしながら咲いている。
ジュウはまさしく人外さながらである恐ろしい色の秘所が己の肉棒のすぐ上にあるのを目の当たりにし、慄きを隠すことは不可能だった。

「ジュウ‥‥お前は我の物だ」

ディレンはゆっくりと腰を下ろし、雄と雌との距離が縮まる。
彼女の内部は呼吸をするように膨張と収縮を繰り返しており、その色も合わさってまるで海の底を這う軟体動物がひしめき合っているかのような様相を呈していた。

「や‥‥やめ‥‥」

ジュウのその口ぶりに反し、彼のペニスは先ほど射精したばかりにも関わらず血流が集まっている。
おぞましくも肉感溢れる洞穴を見せつけられ、それに反応してしまった情けない男の性を見て、ディレンは愉悦に顔をゆがませながら、魔性の器官にジュウの物を丸ごと飲み込んでしまった。

「‥‥くあ‥‥あ‥‥」

ドラゴンの悪魔的な女性器に挿入しているという背徳感と、見た目を裏切る事のない熱烈な快感に挟み撃ちにされ、ジュウの全身が震えあがる。
ディレンはそんなジュウに太い腕を絡め、半ば押し潰すように、しかし慈愛を込めて抱きとめた。
その鱗の中に溺れるジュウは、藁にも縋る、と言った様子で無意識に腕を絡め返す。

ペニスに柔肉と愛液がまとわりつき、強烈に吸着してくる。
前後左右から締め付ける肉壁が脈動し、ジュウはそれに懸命に耐えようと、心の中で意識と言う名の糸を手繰り寄せていた。

突如ジュウはディレンの腕から解放され、その顔に生温かく湿ったものが擦りつけられる。
視界が青紫色に染まり、まるでディレンの内部の動きが目の前に映し出されているかのような錯覚を見せた。
ディレンの舌が顔中を撫でまわし、そして顎の下をくすぐるように下りていく。
そして、ジュウの首筋は固いものに挟まれた。
ディレンの牙が、その喉仏に絶妙の力で噛みついていたのだ。

恐怖を感じてわずかに抵抗しようとしたジュウだったが、その両腕はディレンの手に捕らえられ、彼は大の字に地面に磔にされてしまう。
ジュウの身体に完膚なきまでに上位性を叩き込んだディレンの欲望はいよいよ頂点に達し、その膣は暴れるように上下し肉棒を扱き上げる。
散々蹂躙され貪りつくされたジュウは、ディレンの熱い肉がひしめいたその奥深くに、ついに精を解き放った。

「うあああぁぁぁっ‥‥!!!」

同時に大きく収縮した秘所が、射精中のペニスを強烈に圧搾する。
ディレンも首筋から牙を離し、瞼をぎゅっと締め、味わうようにジュウの奔流をその内部に受け止めた。

ペニスが引き抜かれると同時にディレンはビクンと身体をはね上げ、そして直後ぐったりを全身を弛緩させる。
ディレンは息も絶え絶えになったジュウを囲うようにして丸まった。
そしてその胸の傷痕をべろりと舐め、首を伝って頬をなぜる。

「‥‥今日は時間を気にする必要は無いのだろう。このままここに居ろ」

ディレンはあくまで冷静にそう耳元で囁くと、まるでジュウを宝箱にしまい込むようにその上から翼をかぶせた。

――――

数時間後、ジュウはディレンから少し離れた場所で背を向けるようにして胡坐をかき、自分の手の爪をいじっていた。
洞窟の外からはまだザーザーと音がしており、雨脚は一向に弱まりそうにない。

「ジュウ」
「‥‥」

ディレンはジュウの名前を呼んだが、彼は返事をしない。
しかしディレンは平然とした顔、と言うよりもむしろ、どこかすがすがしさすら感じられる。

「‥‥やっぱりお前は人"食い"の化け物だよ‥‥」

少し大げさな口調でジュウはそういうと、ガリガリと頭を掻いて大きくため息をついた。

「‥‥ディレン、お前さえよければ今度、村に顔を出してみないか?」

そう言ったジュウに、ディレンは地面に置いた手足を組み直す。
ジュウはディレンの方を向き直った。

「二度も村を救ってくれたんだし、旗の事だってある、皆そんなに悪い印象を持ってないと思うんだ」

ディレンはジュウに見つめられて視線を少し落とすと、呟き気味に口を開いた。

「‥‥だが、我に家族を食われた者もいる。そういった者の反感を危惧して、お前は村人に頼らずに我を治療していたのだろう」

そう言われたジュウは少しためらいがちに頷いた。

「それに‥‥我はお前以外の人間だと、やはり己を制御できず手にかけてしまうのが今は恐ろしい」

ジュウの傷跡を発見したとき、あれほど取り乱したのは人間に対しての意識が変わり始めていた証拠だろう。
しかし、取り乱したからこそゆっくりと事を進めていきたいという事だろうか。

「我もずっとこのままで、という気は無い。だが今しばらくは‥‥このままにしておいてくれぬか」

その言葉を聞いて、ジュウは立ち上がると、ディレンの身体の隙間にすっぽりと収まるように座り込んだ。

「‥‥お前が自分を変えたいと思うなら俺は手伝うよ。でももしお前が変わりたくなかったとしても‥‥お前は俺の‥‥友達‥‥いや、じゃ、なくて‥‥うわっ」
「その言葉の先は、我が変われた時に‥‥」

しどろもどろな言葉を吐き出すジュウに、ディレンは尾を摺り寄せて、ゆっくりと首を地面につけるのだった。

おわり

このページへのコメント

ありがとうございます
「グロテスクな色」は見どころの一つとして書いていたので
注目していただいて凄くうれしいです

1
Posted by sou 2017年03月27日(月) 21:33:20 返信

ちょっとグロテスクな色合いのスリットのがドラゴンフェチにはたまりません!
素敵な作品をありがとう!応援してます!

0
Posted by 名無しのドラゴンフェチ 2017年03月25日(土) 01:48:44 返信

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