「では行って参ります、セレナ姫」
「ええ、どうか気を付けて・・・結婚の準備を整えて、あなたの帰りを待っておりますわ」
ここは周囲を深い森に囲まれた、とある小国・・・
私は城の中心に聳え立つ荘厳な王城の前で美しい王女と静かな口付けを交わすと、長い剣を腰に携えて颯爽と己が愛馬に跨っていた。
そしてそんな我々の様子を何処か羨望の眼差しで見守っていた他の兵士達と合流し、徐々に緊張の度合いを増し始めた心を落ち着けるように1度だけ深呼吸する。
「よし・・・ではこれから、奴の住み処があるという東の森へ向かう。皆、覚悟はいいな?」
「おう!」
やがてその一糸乱れぬ統制の取れた掛け声に満足すると、私は20人程からなる屈強な兵士達の先頭に立って勢いよく馬を駆り始めていた。

この国では、ここ数年頻繁に巨大なドラゴンの襲撃を受けている。
よく晴れた日の夜に突然東の森から姿を現しては、家々を破壊し無辜の民を次々とその手に掛ける残酷な巨竜。
それはこの平和な国の王が抱えていた、唯一にして最大の悩みの種だった。
これまでにも幾度かそのドラゴンに討伐隊を差し向けたことはあったそうなのだが、総勢100名以上にも上る討伐隊の兵士達が生きて帰ってきた例はこれまで1度として無いのだという。
そして今回、王族を護る騎士だった私がその腕を買われて初めてドラゴンの討伐へ加わることになったのだった。
「ところでグラム殿・・・これまでドラゴンと戦った経験はお有りなのですか?」
「いや・・・流石にドラゴンの相手は私も初めてだ。正直、不安が無いと言えば嘘になるだろうな」
行進の途中で不意に兵士の1人から掛けられたその言葉に、偽らざる本音がついつい漏れてしまう。
「しかしあなたはセレナ姫との結婚を間近に控えた身・・・余り無理をされてはなりませんぞ」
「分かっている。しかし剣の腕を見込まれて討伐隊に抜擢された以上、その務めは果たさなくてはならぬだろう」
凶暴なドラゴンという未知の敵と相対することへの緊張からか、寡黙なはずの兵士達が今日だけは妙に饒舌だ。
だがそれも日光の届かぬ薄暗い森の中へ入る頃には、再び張り詰めた静寂が我々の周囲を支配し始めていた。

「油断するなよ・・・この森は既に奴の庭だ・・・何時何処から襲い掛かってきても、不思議ではないからな」
「不気味な森だな・・・馬達も、まるでドラゴンの存在に怯えているようだ」
厚い木々の梢を擦り抜けた細長い陽光が、落ち葉の降り積もった地面にゆらゆらと疎らな明かりを落としている。
それはともすれば心の落ち着く平和な自然の風景にも見えたはずなのだが、何時恐ろしいドラゴンの襲撃を受けるかも知れないというこの状況ではそれも嵐の前の静けさを演出する役割しか与えては貰えなかったらしい。
そしていよいよ明るい出口が見えなくなる程にまで深い森の奥へと足を踏み入れた丁度その時、薄明かりに覆われていた頭上に不気味な蝙蝠の翼を模った巨大な影が翻っていた。

「ヒヒヒーン!」
「上だ!」
「武器を構えろ!襲ってくるぞ!」
突然何の前触れも無く姿を現した襲撃者に肝を潰し、兵士達の乗っていた馬が次々と激しい恐怖の嘶きを上げる。
だが何とか馬達を落ち着けて武器を構えようとした次の瞬間、赤鱗を纏った想像以上に大きなドラゴンがバキバキと盛大な音を立てて木々の枝を折りながら空から飛び降りてきていた。
ベギッグシャッ!
「ぎゃっ!」
「ヒン!」
更には運悪くその真下に居合わせた1人の兵士を、乗っていた馬ごとドラゴンが跡形も無く踏み潰してしまう。

「フン・・・何かと思えば、また懲りずにあたしを倒しにやってきたのかい、この馬鹿どもが」
やがて足元で拉げ潰れた1人と1頭のことなど毛程も気にしていない様子でそう呟くと、ドラゴンが不意にその巨体を大きく跳ね上げていた。
背に生えた翼で大気を煽るバサリという羽ばたき音が1回だけ聞こえ、軽く飛び跳ねただけに見えたドラゴンの巨体が驚く程の飛距離と滞空時間を伴って虚を突かれた別の兵士へと浴びせ掛けられる。
「うわあっ!」
そして剣を抜く暇も無く馬諸共ドラゴンに地面の上へ押し倒されてしまうと、その不運な兵士は間も無く己の頭を握り潰すことになる恐ろしい死神の手に掴まれて悲痛な断末魔の声を上げていた。

「うわああっ!」
「ひぃっ!」
「ぎゃああああっ!」
気が付けば、辺りから聞こえてくるのは大勢の兵士達の悲鳴と逃げ惑う馬達の声だけになっていた。
半数以上の兵士達が武器を構えることも忘れ、ただただ襲い掛かってくる巨大な赤竜から逃れようとパニックに陥っては立ち上がった馬の背から放り出されていく。
そして地に落ちた者達に恐ろしいドラゴンの爪が、牙が、尻尾が、更にはその見上げるような巨体が、ちっぽけな命を刈り取る凶器となって振り下ろされていった。
まだ生への執着を宿していた馬達は自らを縛り付けていた背の上の兵士達を振り落として逃げ出したものの、阿鼻叫喚の喧騒に呑まれた者は人間も馬も絶望的な表情を浮かべて暴れ狂うドラゴンの猛威に巻き込まれていく。
私も辛うじて鞘から剣を抜くことはできたものの、大勢の兵士達を次々と捻り潰していく残虐な魔物に恐れをなして馬上でただただ凍り付いていることしかできなかった。

ドオォン!
「ぎゃっ!」
やがて私を除いて最後に生き残っていた1人の兵士が、ドラゴンから逃げようと地面を這っていたところを極太の尾で背後から容赦無く叩き潰された。
周囲に見えるのはドラゴンによって無残に引き裂かれた無数の骸と、木々や地面を彩る真っ赤な血の紅だけ。
そしてその非日常的な地獄の景色の中で、自らを獲物の返り血で深紅に染めたドラゴンがゆっくりと体を起こす。
「う・・・うぅ・・・」
最後まで私が取り乱さなかったせいかこれまで幾多の戦場をともに駆けてきた愛馬は依然として私を乗せたままその場に留まっていたものの、ギラリという殺気のこもったドラゴンの視線についに我慢の限界が訪れていた。
次は我が身という絶対的な死の予感を前にして、本能に生きる動物達が逃走を選択するのは自明の理というもの。
「ヒッ!ヒヒヒィーン!」
ドサッ
「うあっ!」
だが彼はあろうことか悲鳴にも似た嘶きを上げて私をその場に振り落とすと、軽くなったその身をドラゴンから遠ざけることに全力を注いだらしかった。

「あ、ああ・・・」
遠く背後に消えていく愛馬の蹄の音が、独り凶暴なドラゴンの前に取り残された私に逃れようの無い黒々とした絶望を幾重にも塗り込めていく。
「フフフフ・・・己の愛馬にさえ見放されて、お前も随分と憐れな人間だねぇ・・・」
そしてそう言いながらドラゴンがまるで見せ付けるかのようにたっぷりと血の付いた指先の爪を舐め上げると、私はいよいよこれから自分が辿るであろう最悪の結末を実感して体を震わせ始めていた。
手にはまだ長い剣が握られたままになっていたものの、たとえ今の私が10人いたところでこの悪魔には到底勝ち目など無いことは試すまでもなく分かり切っている。
その上地面に強か打ち付けられた背中と腰がジンジンとした痺れるような熱さを送り込んできて、死の運命を受け入れた体が地面にへたり込んだ姿勢のままこれ以上動くことを完全に拒絶してしまっていた。

「さてと・・・お前には、一体どんな最期が相応しいかねぇ・・・」
私の心中に抑えようもない恐怖が膨れ上がるのを待つかのように、ドラゴンがユラリユラリと左右に身をくねらせるようにして静かに近付いてくる。
その地面を踏み締めている屈強な手足に、巨大な顎の端から覗いた長い牙に、背後で鎌首を擡げている太い尾に、大勢の獲物達を叩き潰した際に浴びたらしい返り血がべっとりとこびり付いていた。
明らかに無駄だと分かり切っている助けを求める声が、喉の奥のすぐそこまで競り上がって来ている。
だが終ぞ一言の喘ぎ声さえ上げられぬまま成す術も無く深紅の巨竜の腹下に組み敷かれてしまうと、私は首筋に宛がわれた血に濡れる冷たい鋭爪の感触にゴクリと息を呑んだ。
「そぉら・・・恐ろしいだろう・・・?」
まるで弱り切った獲物を弄ぶように尖った爪先が喉元に触れ、その度にチクチクとした鋭い痛みが跳ね回る。
全身を襲う震えは更に激しさを増し、私は薄っすらと目に涙を浮かべたまま惨たらしい止めを刺される瞬間をただひたすらに待ち続けることしかできなかった。

やがてツツツッ・・・という音無き音とともに、刃の如き4つの爪先がいよいよ私の胸元へと移動していく。
「あ・・・はぁ・・・」
「これからゆっくりと八つ裂きにされるのは、一体どんな気分だい?ええ・・・?」
だがズッシリと全身に預けられる巨竜の凄まじい体重が、その背筋の凍る一言に反射的に捩った体を無慈悲に押さえ付けていた。
恐怖を紛らわせるべく発せられるはずの悲鳴までが、底の見えない漆黒の闇の中へと飲み込まれて消えてしまう。
「フフフ・・・おやおや・・・もう声を上げる気力さえ無くなっちまったのかねぇ・・・」
やがて独り言とも取れるそんな声が聞こえたかと思うと、突然ズブリという鈍い感触とともにドラゴンの指先に生えた槍のような爪先が私の胸元に食い込んだ。
「う・・・あああっ・・・!」
メリメリという肉の裂けるような音が聞こえ、かつて味わったことの無い激痛が全身に跳ね回る。
そして必死に両拳を握り締めてその地獄の苦しみに耐えようと身を固めると、苦悶に歪んだ私の顔を愉しげに眺めながらドラゴンが弾んだ声を漏らしていた。

「ほらほら、早く泣き叫びな!それとも、体中を引き裂かれるまでそのままだんまりを決め込むつもりかい?」
違う・・・想像を絶する恐怖と苦痛の余り、声が上手く出て来ないのだ。
だが私が思い通りに悲鳴を上げないのが面白くないのか、宛ら拷問にも似たドラゴンの残酷な責め苦が更にその苛烈さを増していく。
ズブ・・・ズ・・・バリバリバリ・・・
「う・・・ぐ・・・ああああっ・・・!」
そしてゆっくりと時間を掛けながら胸元から脇腹に向けて真っ赤な血に染まった4条の爪痕が刻まれると、私はロクに動かぬ体をバタバタとのた打ち回らせて激しく悶え狂っていた。
痛みとも熱さとも付かない耐え難い衝撃が、胸に走った痛々しい裂傷を幾度と無く焼き焦がす。

助けて・・・助けてくれ・・・!
最早騎士としての矜持も人間としての意地もかなぐり捨てて、無意味と知っているそんな命乞いを吐き出してしまいたい。
それなのに・・・どういうわけか私は自ら命を投げ出すその服従の声だけはついに上げることが出来なかった。
もし町へ帰ることが出来れば、私にはセレナ姫との結婚が待っている。
これ以上無い程に満ち足りた幸福な人生が、もうすぐ手の届くところにまでやって来ているというのに・・・

その瞬間、まだ死にたくない、生きてここから帰りたいという生存本能が、私の体から痛みを消し去っていた。
そして死の苦しみから解放された私の顔に幾許かの落ち着きが戻って来たのを目にすると、ドラゴンが少しばかり驚愕の表情を浮かべながらじっと私の顔を覗き込んでくる。
「ふぅん・・・これでも堕ちないなんて、随分と生意気な人間だねぇ・・・」
「ぐ・・・ぅ・・・」
だがそんなドラゴンの顔に次第に悪戯っぽい不気味な笑みが広がっていくのを目にすると、私は先程まで感じていた死への恐怖とはまた違った不吉な予感に思わず身を竦めていた。
「フフフフ・・・まあいいさ・・・あくまでもあたしに逆らうのなら、お前には永遠の後悔をくれてやるさね!」
そしてそう叫びながら無数の牙が生え揃った巨大なドラゴンの牙口を目の前に突き付けられると、私は今度こそ確実となった己の死を覚悟してギュッときつく目を瞑っていた。


それから、120年程の時が経った・・・


「アリシア、早く支度をしろ。式典の開始までもう間が無いぞ」
「は、はい、ただ今」
部屋の外から扉越しに掛けられた父の微かな焦燥を伴ったその声に、私は束の間空想の世界へと旅立たせていた意識を慌てて現実に引き戻していた。
今日は4年に1度開かれている、平和への感謝祭の日。
しかも今年はかつてこの国を脅かしていた恐ろしい赤竜が退治されてから丁度100年目の年に当たるらしく、人々の興奮にも殊更に熱が入っているのだという。
だが城下の町に住む人々にとってはいざ知らず、王女という身分の私にとってこうした国の行事はただただ退屈な時間の浪費に感じられることの方が遥かに多かった。
やがて何とか身支度を整えて城の外に出て行くと、確かに例年以上に大勢の人々が城の前に集まっている。
そして式場に設けられた王族や大臣などの重臣達が居並ぶ席に静かに身を沈めると、私は感謝祭の始まりを告げるべく演壇に向かっていく父の後姿をぼんやりと目で追っていた。

余り大きな声では言えないが、正直なところ私は一国の王女として相応しい人間ではなかったのだと思う。
母は数年前に病気で他界し、父はたった1人の子供だった私に女王として自らの跡を継がせようと考えていた。
だが勉強も人付き合いもさして得意ではなかった私にとって、その重圧は苦痛にしか感じられなかったのだ。
もし王女という身分に生まれていなかったなら、きっと私は世界中を旅して回ることを夢見ていたに違いない。
しかし所詮は籠の中の鳥でしかない今の私に、その夢が夢のまま終わるであろうことは既に分かり切っていた。
今日も、この式典が終わったら森へ散歩にでも出掛けるとしようか・・・
そんなとても王女らしからぬ緩んだ思考が、微かに眠気を催し始めた私の脳裏を過ぎっていく。
とは言え流石に国を挙げての式典の最中に居眠りをする度胸などあるはずもなく、私は父の演説が終わるまで城下に見える家々の屋根に取り付けられたバリスタと呼ばれる大きな弩へとその視線を泳がせることにした。

平和な町中にあって如何にも場違いな雰囲気を醸し出しているそれらは、100年前の当時としては最先端の技術を駆使して作られた近代兵器なのだという。
そしてこの感謝祭が行われるようになった発端であるドラゴン退治も、正にあの物騒な兵器の登場によって成し遂げられたものだった。
私自身そのドラゴンと言うものが一体どのような生き物であったのかについては全く想像さえ付かないものの、町を襲ってきた際の犠牲者や討伐隊として派遣されて命を落とした人々の数は優に千人を超えるという。
その話からだけでもさぞや凶暴で手の付けられない魔獣であったことは間違いないのだろうが、それさえあのバリスタによって打ち倒されたと言うのだからその威力は想像を絶するものだったのだろう。

そしてそんな波乱の歴史についての想像を巡らしている内に、ようやく長かった父の話が終わりを迎えていた。
「ではこれより、感謝祭の幕を開けるとしよう。皆も、存分に楽しんでくれることを願っている」
やがて静寂の中に響いていたそんな父の声が途切れるや否や、再び辺りを轟々とした歓声が押し包んでいく。
これから1週間、この町は何処もかしこもお祭り騒ぎになることだろう。
だが庶民の立場だったなら楽しめたであろうこの喧騒も、私には何処か遠い世界で起こっている出来事も同然に感じられてしまうのだった。

「どうしたアリシア、浮かぬ顔をして・・・感謝祭なのだぞ?お前も、町でゆっくりと楽しんでくるがいい」
「え、ええ・・・そうしますわ」
依然として何か悩み事でも抱えているかのように暗い表情を浮かべたままそう答えたアリシアの様子に、ワシは娘がまたしても森へ出掛けるつもりなのであろうことを読み取っていた。
とは言え、今更それを咎めたところで別に何がどうなるわけでもないだろう。
男子に恵まれぬまま妻を失ってしまったワシにとってはアリシアだけが唯一の跡継ぎなのだが、彼女自身が王位の継承を望んでいない以上ワシとて流石にその重責を無理強いすることはできなかったのだ。
こんな不安定な状態では、ワシや娘の命を狙って政権を乗っ取ろうと考える者さえ何時かは出て来るかも知れぬ。
だが新たな妻を娶って子を産ませること以外に現状を打破する方法が見付からず、ワシは何時まで経っても出口の見えそうにない悩みに密かに頭を抱えていたのだった。

それから10分後、私はようやく心落ち着く自分の部屋に戻ってくると素早く外出用の服に着替えていた。
先程の遣り取りから察するに、恐らくは父にもまた私が森へ行こうとしていることは分かっているのだろう。
以前はそれについて何かと小言を言われることが多かったのだが、近頃はもう諦めているのか父には私を引き止めようとする気配さえ微塵も窺うことはできなかった。
そして傍目にも何処か浮かれていると見える兵士達の間を抜けて城の外に出てみると、未だ興奮冷めやらぬと言った様子で大勢の人々が町のあちこちで陽気に騒ぎ立てている。
それは確かに平和で心休まる光景には違いないのだが、父子ともども出口の見えぬ人生の迷宮に迷い込んでいた私の興味を引くには余りにも頼り無いものだった。

やがて町を行き交う人々の群れに揉まれながら国の東側に広がる森の入口へとやってくると、ようやく自分だけの静かな時間を手に入れられるとばかりについつい大きな安堵の溜息が漏れてしまう。
そして美しい光の筋が落ちる薄暗くも幻想的な森の中へ足を踏み入れると、私は突如として辺りに広がった澄み切った森の空気を胸一杯に吸い込んでいた。
かつて巨大がドラゴンが幾度と無くその姿を現し、再三に亘って大勢の討伐隊が送られたという東の森。
ここはそんな人竜の往来が激しかったせいなのかあれから100年経った今でも広い回廊のような通り道が幾つも張り巡らされていて、道に迷う心配無く歩き回るには打って付けな私のお気に入りの場所だった。
流石に夕暮れ前には帰らなければならないのでまだ森の奥深くまで入って行ったことは1度も無いのだが、感謝祭の式典の為に朝早くから起こされたお陰で今日はまだまだ時間がある。
この機会に、まだ見ぬ未踏の地へと挑戦してみるのもいいかも知れない。
そしてそんなふとした思い付きに空を見上げて天気が崩れそうにないことだけを確かめると、私はワクワクとした期待感に胸を膨らませながら鬱蒼と木々の生い茂った森の奥へと体を滑り込ませていった。

やがて歩を進める内に何度も歩き慣れて見知った森の景色が徐々に徐々に未知のそれへと変貌を遂げていき、幅の広い回廊のような散歩道が何時の間にか密集し始めた木々の群れの中に埋もれ始めていく。
だが次第に原始の森の風景を取り戻していく周囲の様子に、私は相変わらずの期待に満ちた思いとは別に微かな不安のようなものを感じ始めていた。
ここから先の森には、恐らく100年以上もの長い間に人間の出入りがほとんど無かったのだ。
つまり遥か昔あの町を脅かしていた赤竜を討伐に向かった者達は、例外無く私が今いるこの場所までしか辿り着くことが出来なかったということになる。
まだ戦いの準備さえ十分に整ってはいなかったであろう道中でドラゴンに不意打ちを仕掛けられて、彼らのほとんどはここまで辿り着く前に反撃の間も無く全滅していったのに違いない。

しかしそんな激動の時代に対するまるで根拠の無い勝手な想像は、私の中にある1つの仮説を生み出していた。
件の赤竜が自らを討伐にやってきた者達に悉く不意打ちを仕掛けた理由は、恐らく数で勝る人間達を有利に迎え撃つことが出来るからだけではなかったはず・・・
つまり赤竜は、己の住み処の場所を人間達に知られることを徹底的に避けようとしたのだ。
そしてもし住み処を見つけられることを避けようとして森に踏み込んだ人間達を急襲していたとするならば、この深い森の奥にその赤竜の住み処が存在している可能性は非常に高いと言えるだろう。
今は主のいなくなったそのドラゴンの住み処を見つけることが出来れば、ほんの退屈凌ぎのつもりだった軽い散歩はもう十分過ぎる程にその役目を果たしたと言っていいかも知れない。
だが所詮は全て想像の範疇を出ていないことに半ば苦笑を浮かべながら密集した樹や茂みを掻き分けていくと、行く手を遮るように聳え立っていた大きな樹の向こうに不意に広大な岩の丘に掘られた洞窟が姿を現していた。

まさか・・・?
余りにも想像通りの、しかし同時に全く予想だにしていなかった巨洞の突然の出現に、ついついその場に足を止めてなおも激しく暴れ始めた心臓を落ち着けようと胸に両手を当ててしまう。
実物のドラゴンはおろかその住み処さえ1度も見たことの無い私が一目でドラゴンの住み処だと結論付け、そして微塵も疑いの余地を持たぬまま納得してしまったもの・・・
その漆黒の闇に染まる洞窟が、今や私の好奇心を一手に引き寄せながら訪問者の訪れを辛抱強く待ち続けていた。
そしていよいよ深い洞窟の前にまでやってくると、緊張とも興奮とも付かない胸の高鳴りが更にその勢いを増す。
別に、中に何がいるわけでもないだろう。
だが伝説でしか聞いたことの無いドラゴンの存在を証明する洞窟の存在が、奇妙な高揚感を私にもたらしていた。

試しに中を覗いてみるが、真っ暗な闇に沈んだ洞窟からは生き物の気配は微塵も感じられない。
やがて足元に注意しながらそろりそろりと洞窟の中へ足を踏み入れてみると、私はふと奥の方から微かに明かりが漏れて来ていることに気が付いていた。
何処かの天井から、光が差し込んでいるのだろうか・・・?
そんな想像を巡らしながら更に奥へと進んでいくと、程無くして洞窟の最奥に突き当たってしまう。
だが肝心の明かりは天井から漏れていたわけではなく、不思議なことに厚い岩壁の向こう側から漏れているらしかった。
「この光は何処から差しているのかしら・・・?」
そしてそう呟きながら光の漏れている壁の穴から奥を覗いてみると、そこにも岩壁で囲まれた別の空間が広がっているのが見えてくる。
まるで、この壁の奥にももう1つ閉じられた広い部屋があるかのようだ。

これは一体、どういうことなのだろうか?
光の漏れている穴は小柄な私にであれば辛うじて通り抜けられそうな大きさがあるものの、先が行き止まりであることを考えると、服を汚してまでこの先を調べる決心は中々つくものではない。
それに、時刻もそろそろ夕暮れに差し掛かろうとしている。
今日はここまでにしようか・・・
だがそう考えて踵を返そうとした正にその時、私は穴の奥から漏れてきたらしい今にも消え入りそうな微かな呻き声に気が付いてビクンと体を硬直させていた。

「うぅ・・・」
「ひっ・・・!」
今のは・・・誰かの声・・・?
いや・・・それはあり得ない。
この洞窟は、かつて恐ろしいドラゴンの住み処だったのだ。
少なくともこの100年間は、人間はもちろん野生の獣だってこの場所には決して近寄らなかったことだろう。
それにさっき私が入って来た時は、生き物の気配や息遣いなどはまるで感じなかったはず。
しかし聞き間違いで片付けるには余りにもはっきりと聞こえてしまっただけに、私はその声の主を確かめずにここを立ち去る気にはどうしてもなれそうになかった。

「誰か・・・誰かいるのですか?」
だが震える声で穴の奥へ誰何したその私の声に、返事が返ってくる様子は無い。
仕方ない・・・少々服が汚れることになるかも知れないが、穴を潜ってみるとしようか・・・
この先に何があるのかは分からないが、私は何としてでもさっきの声が誰のものなのかを確かめたかったのだ。
そしてゴツゴツとした岩で手足を擦り剥いたり切ったりしないように細心の注意を払いながら、胸の高さに空いていたその直径40センチ程の穴の中へと細い体を滑り込ませていく。
「う・・・んっ・・・んんっ・・・」
やがてグリグリと肩で這うようにして穴の向こうへコロンと転げ落ちると、私は何処にも怪我をしていないことを確かめてからグルリと周囲を見回していた。
そこに広がっていたのは、1辺が約15メートル四方の広い部屋。
天井に空いた幾つかの小さな穴から、微かに夕焼けの朱に染まった斜陽が何とも言えない物悲しい光の筋を残しながら洞内の壁を優しく照らし出している。
しかし、幾ら辺りに視線を巡らしてみても特にこれと言って誰かがいるわけではなさそうだった。

「ひ、姫・・・」
「え・・・?」
だが今度は間違い無くすぐ近くから聞こえたその謎の声に、声のした方向へとその視線を振り向けてみる。
そしてさっきはただの黒っぽい岩壁の一部だと思ったゴツゴツとした黒い山が、ゴソリという低い音とともに緩慢な動きを見せていた。
「なっ・・・」
それは・・・紛れも無く何かの生き物だった。
黒い鱗に巨大な体、そして背に垂れ下がる1対の翼に、後頭部へと伸びている乳白色の短い双角・・・
色が黒であることを除けば、その特徴は歴史書で読んだかつての赤竜のそれと見事に一致していた。
ということは、この生き物がドラゴン・・・なのだろうか?

だが子供の頃から恐ろしい魔物だというイメージを植え付けられてきたドラゴンが目の前にいると言うのに、私は何故か身の危険や恐怖心などといった負の感情をほとんど全くと言っていい程に感じていなかった。
その理由は恐らく、自力で体を起こすことも出来ない程に弱り切ったそのドラゴンの虚ろな眼にまるで懐かしいものを見るかのような優しげな光が宿っていたからだろう。
そして相手は自身よりも遥かに巨大な怪物だというのに、私はつい反射的にその巨竜の許へと走り寄っていた。
やがて私の姿をその視界に捉えると、ドラゴンがホッと安堵の息を吐いてうわ言のように声を絞り出していく。
「あ・・・あ・・・セ、セレナ・・・姫・・・」
セレナ姫・・・?
もしかして、あのセレナ王女のことを言っているのだろうか?

歴史が苦手だった私にも、悲しい死を遂げたセレナ王女の名前だけはすぐに思い出すことが出来ていた。
彼女は今から120年程前、婚約者だった騎士グラムを結婚の直前に駆り出された赤竜の討伐で失ったのだそうだ。
そして全滅した討伐隊の無残な骸の山から見つかったグラムの長剣を見せられると、セレナ王女は悲しみの余りその剣で自らの胸を刺し貫いて命を絶ったという。
しかし、もしそうだとすればこのドラゴンはどうして彼女の名を知っているのだろうか。
それに、何故こんな牢獄のような洞内の一室に閉じ込められていたのだろう?
次から次へと胸の内に湧き上がってくる疑問が、混乱した頭の中を更に滅茶苦茶に掻き回していく。
だが意識もおぼろげと見えるドラゴンの酷く衰弱した様子に、私は何よりもまず彼を介抱することが先だという結論に達して踵を返していた。

やがてグッタリと岩壁に凭れ掛かったまま動こうとしないドラゴンを残して洞窟の外に出てみると、いよいよ真っ赤に染まった夕焼けの向こうに暗い宵闇の気配が迫り始めている。
流石に今日はもう城へ帰らなければならないが、明日は持てるだけの水と食料を持ってまた来ることにしよう。
そしてそう心に決めると、私はあの寂しい洞窟の奥で今も飢えと渇きに苦しんでいるのであろうドラゴンに思いを馳せながら渋々城への帰路へとついていた。
あのドラゴンは、一体何者なのだろうか・・・?
当然のことながらその全てを覚えているわけではないものの、少なくともこの国の歴史を学んだ過程で黒いドラゴンのことについて書かれた書物の類は1つも無かったように思う。
確かに先程のドラゴンからはとても人間に仇を為すような邪悪な印象は全く受けなかったのだから、その存在自体がこの国の人間達に知られていなかったという可能性も一応考えられないわけではない。
実際あの洞窟が例の赤竜の住み処と思われる場所からずっと離れたところにあったのであれば、私もここまであのドラゴンのことを気に掛けることは無かったことだろう。

「ふぅ・・・ふぅ・・・」
徐々に西の彼方へと沈んでいく夕日を追い掛けるようにして走り続けること数十分・・・
ようやく城の前に辿り着いた時には、既に満点の星々が澄み切った夜空一杯に輝いていた。
そして肩で息をしながら城門の前で激しい疲労を癒していた私の姿に気が付くと、門番が少しばかり慌てた様子で駆け寄ってくる。
「アリシア姫!随分と帰りが遅いので、お父上が大変心配されておりましたよ」
「え、ええ、ごめんなさい。父は食堂に?」
「はい。もう既に、他の重臣の方達と食事を始めております」
私はそれを聞くと、門番に礼を言って城内の大食堂へと向かうことにした。
帰りが遅くなったことで父には多少叱られるかもしれないが、今は国を挙げての感謝祭の最中なのだ。
恐らくは、父もそれ程大事にはしないことだろう。

やがてそんな思考に身を委ねながら大食堂の扉を開けると、その場にいた十数人の人々の視線が一斉に私へと向けられていた。
「アリシア、遅かったではないか。心配したのだぞ?」
「ごめんなさい・・・つい時間を忘れてしまって・・・」
だが私のその言葉に、不意に父がその顔に浮かべていた険しい表情を崩す。
「ほう、何か楽しいことでもあったのか?」
「え、ええ・・・それについては、後でまたゆっくりとお話ししますわ」
そして半ば強引に話を切り上げると、私は大きなテーブルの端にある空いた席にそっと座っていた。

それから、20分程の時間が経っただろうか・・・
遅れて食堂にやってきたせいか何処と無く居心地の悪い思いをしながら何とか眼前の食事を平らげると、私はそそくさとその場から逃げるように自分の部屋へと舞い戻っていた。
そして大きなベッドに横になりながら、明日の予定について考えを巡らせていく。
あの洞窟に水と食料を持っていくにしても、城の厨房から持ち出したのでは流石に目立ち過ぎてしまうだろう。
幸い感謝祭の今は町の中でも水や食事が振舞われているから、ドラゴンへの差し入れはそちらで調達した方がよさそうだ。
もし他に残る問題があるとするならば、それは今夜無事に寝付くことが出来るかどうかというところだろう。

あのドラゴンは一体何時からあそこに閉じ込められているのか。
どうしてセレナ王女の名前を知っていたのか。
かつて人々を脅かしていた例の赤竜とは、一体どのような関係があるのか。
そんな尽きぬ疑問が次から次へと湧き出してきては、早く明日を迎えたくて眠りに就こうとしている私の意識を覚醒させていく。
だがベッドに寝そべったまま1時間程も経つ頃には、ようやく睡魔が私の意識を夢の世界へと導いてくれていた。

翌朝、私は窓の外から差し込む朝日の気配を感じてベッドから飛び起きると、周到に昨夜から傍に用意してあった新しい服に着替えて自分の部屋を飛び出していた。
そして父や数人の重臣達が大食堂で朝食を摂っていることを確認すると、そっと人目に付かないように城の裏門から城下の町へと早足で歩いていく。
知らぬ間に私が部屋から消えていれば父はまた怒るかも知れないが、一刻も早くあのドラゴンの正体を確かめたい今の私にとってはそんなことなどどうでもいいことだった。

やがて感謝祭の活気に満ちた露店の列を見つけると、無料で振舞われる水やワインを飲みながら軽食とともに大勢の人々が歓談している様子がそこかしこに見えてくる。
あれらの飲み物や食べ物は全て、城から町の人々に提供しているものだ。
感謝祭の間は医者や農家などを除いたほとんど人々が仕事を休み、4年に1度の自由な時間を精一杯楽しむのが通例となっていた。
そして余り目立たないようにその喧騒の中へそっと紛れ込むと、食いでのありそうな大きな肉の串焼きを数本手に取る。
「おや、アリシア姫じゃないか!今日は森には遊びに行かないのかい?」
とその時、唐突に背後から時折私が立ち寄っている服屋のおばさんが声を掛けてきた。
城にある高級な生地の服では流石に森に行って汚すわけにはいかないので、町で"散歩用"の服を探していた時に知り合った気さくな奥さんだ。
「え、ええ、これから行くところです。そうだ、よかったら、大きな水筒を1本貸してもらえないかしら?」
「はは、今日は長居するつもりみたいだね。いいよ。お得意様のアリシア姫の頼みとあっちゃ、断れないからね」

彼女はそう言うと、近くにある自分の店から持ってきた大振りの水筒を私に貸してくれた。
「ほら、こいつでいいかい?」
「ありがとうございます。後でお返しに上がりますわ」
「急がなくてもいいよ。旦那が使っている奴だけど、どうせ感謝祭の間はそこらで飲んだくれてるだけだからさ」
そう言って私から外された彼女の視線の先を追ってみると、成る程確かに彼女の夫が他の友人達と愉しげにワインを酌み交わしている。
「気を付けて行っといでよ」
「はい!また、お店に寄りますね」
私はそう言って彼女に別れを告げると、近くにあった水樽から水筒一杯に冷たい水を汲んでいた。
そして何とか無事に水と食料を手に入れ、いよいよ東の森を目指して歩き始める。

静まり返った薄暗い森の風景は、つい先程まで騒々しい喧騒の最中にいた私にとっては実に心の落ち着く尊いものにさえ感じられた。
だが広い木々の回廊から狭い茂みを抜けてまたあの洞窟を目にすると、昨日とは違って様々な感情が胸の内に溢れ出して来る。
それは幼い子供がずっとずっと長い間楽しみにしていた日の前夜に感じるような、興奮と期待に胸が張り裂けそうな心地良い息苦しさにも似て・・・
私は手汗が滲む程の長時間握っていた重い串焼きと大きな水筒をギュッと握り直すと、いよいよ真っ暗な闇に覆い尽くされた洞窟の中へと入っていった。
そして最奥から差し込んでくる淡い日の光に導かれるようにしてドラゴンの部屋の前まで辿り着くと、荷物を持ったまま狭い岩の穴を何とか潜り抜ける。

ドサッ
「あうっ」
だが流石に両手が塞がったままでは上手く穴の向こうへ着地することが出来ず、私は肩口から地面の上に落下すると体中に走った鈍い痛みに小さな呻き声を上げていた。
そして昨日ドラゴンがいた場所に視線を向けてみると、あれから全く身動きしていないのか昨日と寸分違わぬ姿勢で黒いドラゴンが岩壁に凭れ掛かっている。
やがてようやく体の痛みが引いてくると、私は両手に持っていた差し入れが無事なことを確認してドラゴンの許へと静かに近付いていった。

「う・・・うぅ・・・」
「大丈夫ですか?」
私の接近にも特にこれと言った反応を返すことも無く、ドラゴンが相変わらず苦しげな呻き声を漏らしている。
だがその半開きになっていた大きな口の中へ私がそっと水筒の水を垂らしてやると、ドラゴンは唐突に与えられたその刺激にカッと眼を見開いていた。
「は・・・あ・・・」
しかし別段暴れるような様子も無く、ドラゴンが黙って口の中に注ぎ込まれる冷たい水をゴクゴクと飲み下す。
やがて大きな水筒に入っていた大量の水を1滴残らず飲み干すと、それまでおぼろげに霞掛かっていたドラゴンの眼にはっきりとした生気が蘇ってきたのが私にも見て取れた。

「セ・・・セレナ・・・姫・・・?」
「いいえ・・・私の名はアリシア。あなたの言うセレナ王女は、今から120年程も前に亡くなりました」
それを聞くと、ドラゴンがガクリと力を失った様子で深く頭を垂れてしまう。
「そんな・・・」
「あなたは一体・・・何者なのです?それに、どうしてこんな洞窟の奥底に閉じ込められているのですか?」
「私はかつて・・・グラムという名の人間でした。この国の王族を護る、騎士の1人だったのです」
グラム・・・いや、まさかそんなはずは・・・
「その名前なら私も知っています。確かセレナ王女の婚約者で、赤竜の討伐に赴いて命を落としたと・・・」
「確かに、兵士達は全てあの赤竜に殺されました。しかし奴は私に・・・死よりも残酷な運命を課したのです」
ドラゴンはそう言うと、まるで忌まわしい過去を思い出すかのように光の差し込む洞窟の天井を見上げていた。

120年前・・・
私はいよいよ恐ろしい牙の生え揃う赤竜の顎を眼前に突き付けられて、最早決して逃れようの無い絶対的な死の予感に全身を硬直させていた。
だが私の頭を噛み砕こうと迫ってきたはずのドラゴンの巨口が突如として私の口を塞いだかと思うと、抗う間も無くドロリとした液体を口内へと流し込まれてしまう。
そして引き裂かれた胸元をドンっと勢いよく踏み付けられると、私は押し潰された肺が欲した空気とともにその液体・・・ドラゴンの血をゴクリと飲み込んでしまっていた。
「がっ・・・あっ・・・な、何・・・を・・・」
「フフフ・・・そんなに心配しなくてもすぐに分かるさ・・・今はゆっくりとお休みよ・・・フフフフフ・・・」
何かを飲まされた・・・
既に死を覚悟していた私にとってはたとえそれが何であろうと特に気にする程のものではなかったはずなのだが、先程から愉しげな、それでいて嗜虐的な笑みを浮かべている赤竜の態度がどうしても頭に引っ掛かってしまう。
だがそんな赤竜の真意がまるで読めぬまま数秒の時が流れると、私は突然襲ってきたドクンという激しい衝撃に気を失ってしまっていた。

「それから・・・どうなったのですか・・・?」
「次に気が付いた時、私は裸のままこの部屋で寝かされていました。そしてその傍に、あの赤竜がいたのです」
得体の知れないものを飲まされて気を失い、何時の間にか逃げ場の無いドラゴンの住み処へと連れ込まれる・・・
それは恐らく、彼に筆舌に尽くし難い未曾有の恐怖をもたらしたことだろう。
これから一体何をされるのか・・・どうしてまだ殺されていないのか・・・
だがそれを赤竜に問い質す勇気など湧くはずも無く、彼はただただ恐ろしさに震えていたに違いない。
「ただ・・・変化はすぐに起こりました。赤竜の眼を見つめた途端、私の体が崩れ始めたのです」
「崩れ始めた・・・とは・・・?」
「皮膚が裂け、骨が砕け、肉が割れ、凄まじい苦痛とともに私の体が徐々に異形のそれへと変わっていきました」
その結果は、聞くまでもなく明らかだった。
彼は・・・グラムは、ドラゴンの血を飲まされて人間からドラゴンへとその姿を変えられてしまったのだろう。
「そんなことが・・・」
「痛みが治まった時、私は既にこの姿になっていました。そして奴は私を・・・」

「う・・・ぐぅ・・・あっ・・・はぁ・・・」
やがて全身を跳ね回っていた地獄の苦痛がようやく消え去ると、私は自身の体に起こった変化に愕然としていた。
陽光を跳ね返す漆黒の鱗、鈍らだが恐ろしく硬い手足の爪、長い舌に触れる鋭い牙、背に感じる翼の感触・・・
紛れも無い1匹の雄のドラゴンが、その下半身を私の視界に映し出している。
「ふぅん・・・流石は歴戦の勇士様だねぇ・・・随分と逞しい体じゃないか」
「わ、私に何をしたのだ!?」
「なぁに、大したことじゃないさね・・・お前にはあたしの・・・玩具になってもらうのさ!」
やがて当然とも言うべき私の問いに赤竜が大声でそう叫んだかと思った次の瞬間、私は自分より2回りも大きなその赤竜に固い岩床へと荒々しく押し倒されてしまっていた。

ドオオン・・・
「ぐ・・・あ・・・や、止めろ・・・離せぇ・・・」
その突然の赤竜の行動に、本能的な危機を感じた体が必死な抵抗を示す。
だが赤竜は腹下で激しく暴れもがく私の様子に半ば嬉々とした様子で眼を細めると、おもむろに鋭い刃のような爪を生やした巨腕を高々と振り上げていた。
そしてブオンという風切り音さえ聞こえる程の勢いで振り下ろされた赤竜の爪が、私の頭を力一杯跳ね飛ばす。
バキッ!
「ぎゃっ!」
顔と言わず頭と言わず・・・全身をまるで高圧電流の如き速さで駆け抜けた激痛・・・
だが人間の身であったなら間違い無く即死を免れなかったであろうその渾身の痛撃にも掠り傷1つ負わなかったことが、逆に私の不安をこれでもかとばかりに煽り立てていた。

見上げるような巨竜の全力の殴打にさえビクともしない、極めて頑丈な竜の体。
しかしそれは同時に、この赤竜が私を痛め付けるのに一切の手加減を必要としないことを示している。
「さてと・・・これで少しは従順になったかねぇ?それとも、まだ躾が足りないのかい・・・?」
そして再び腕を振り上げながら寧ろ私の抵抗を望んでいるかのような口振りでそう呟いた赤竜に恐れをなすと、私はガタガタと震えながら必死に左右に首を振っていた。
頑強な体を得たお陰か不思議と死に対する恐怖心は薄れ始めていたものの、私を甚振ることに喜びさえ感じているこの赤竜をこれ以上刺激する勇気は流石に持ち合わせていなかったらしい。
それを見た赤竜は悲愴な表情で恭順を示していた私を改めて地面の上に縫い付けると、やがて自らの股間に走った長い割れ目をそっと左右に花開いていった。

ズ・・・グジュッ・・・
その瞬間、ムンと鼻を突く濃い雌の匂いが一瞬にして閉じられた部屋の中に充満する。
「なっ・・・あ・・・よ、止せ・・・ぎゃはっ!」
ベギャッ!
だがこれから自分がどんな目に遭わせられるのかを悟って思わず漏らしてしまったその拒絶の声に、まるでそれを予期していたかの如く即座に強烈な殴打が浴びせられていた。
「五月蠅いねぇ・・・玩具がいちいち口を利くんじゃないよ・・・」
「はう・・・ぅ・・・」
またしても与えられたその凄まじい痛みが、私から抵抗の気力をごっそりと奪い去っていく。
そしてゆっくりと焦らすように迫ってくる赤竜の煮え滾った獰猛な竜膣から目が離せなくなると、私は心底恐ろしいにもかかわらず何故か屹立してしまった己の立派な肉棒を恨みながら全身をギュッと固めていた。

「フフフフ・・・いいねぇ・・・その絶望的な顔・・・あたしもゾクゾクしちまうよぉ・・・」
やがてねっとりと長い尾を引くような粘着質な赤竜の声が脳裏に響き、いよいよ私の雄が灼熱の愛液滴る凶暴な肉洞に咥え込まれてしまう。
ジュッ・・・グブ・・・グチュッ・・・
「ひっ・・・あぁっ・・・ぐああ・・・あっ・・・!」
その瞬間、まるでマグマの海にでも肉棒を浸したかのような想像を絶する熱さが私の雄槍を押し包んでいた。
呑み込んだ獲物を焼き尽くす煉獄の竜膣が一斉に凶悪な牙を剥き、蕩ける程に濃厚な愛液を纏った無数の肉襞と柔突起が憐れにもその犠牲となった私のモノを根元から無慈悲に扱き上げていく。

ズギュッ、グギュッ、グジュッ
「うあがっ・・・助け・・・て・・・ぐああああああああっ・・・!」
だが入れているだけでも意識が遠退いてしまう竜膣の凄まじい威力につい助けを求める声を口走ってしまうと、赤竜があろうことか私を黙らせようと激しく前後に腰を振り始めていた。
「全く、仕方が無いねぇ・・・どうしても黙れない聞き分けの無い雄には、このまま派手に果ててもらうよ」
更にはそう言いながら、赤竜がその巨体を躍動させて無情な腰の動きを更に加速させる。
グシュッ!ズチュッ!ジュブッ!グチャッ!
そんな一片の慈悲の欠片も無い苛烈な責め苦には流石に強靭な雄竜の精神力を以ってしても耐えることができず、私は間も無くして荒れ狂う柔肉の海に溺れた自らの肉棒から屈服の証である大量の白濁を放ってしまっていた。

ドグッ・・・ドグッ、ドグッ・・・
「がっ・・・はぁっ・・・かはっ・・・」
人間だった時のそれとは遥かに規模の異なる、余りにも激し過ぎる射精の快感。
全身を戦慄かせて吐き出した白濁は1滴残らず赤竜の体内へと吸い上げられ、私は1分近くも続いた精の噴出に体中の力が抜けていく感触を味わっていた。
ドサッ・・・
「あ・・・あぐ・・・うぅ・・・」
生まれて初めて感じる限界を超えた甘美な刺激が、私から正常な思考力と声を奪っていく。
今の私に出来るのは、断続的な荒い息を吐きながら時折襲ってくる快楽の余韻に身を震わせることだけだった。

「フフフ・・・中々いい顔で果ててくれたじゃないか・・・もう、指先にさえ力が入らないんじゃないのかい?」
確かにこの赤竜の言う通り、しばらくは自力で起き上がることさえできそうにない。
だがそれを肯定する返事を絞り出すのさえ、今の私には途方も無い重労働のように感じられていた。
「その様子じゃあ喋るのも辛いようだねぇ・・・だけど、これであたしが満足したと思うのなら大間違いだよ」
な、何だと?この赤竜は、一体何を言っているのだろうか?
私にはもう、抵抗する気力はおろかその意思さえ欠片も残ってはいないというのに・・・
そしてそんな私の不安を読み取ったのか、赤竜がその顔に元の意地悪な薄ら笑いを取り戻していく。

「さてと・・・それじゃあそろそろ、続きを再開するとしようかねぇ・・・フフフフフ・・・」
「な・・・あ・・・そ、そん・・・な・・・」
「おやおや、何だいその意外そうな顔は?まさか、このあたしに文句があるわけじゃないだろうねぇ・・・?」
い、嫌だ・・・もう、止めてくれ・・・助けて・・・ひいぃ・・・
だがそんな心中の懇願が実を結ぶはずもなく、私は再びゆっくりと振られ始めた赤竜の腰の動きに翻弄されながら終わり無き灼熱の責め苦をただひたすらに耐え忍ぶことしかできなかった。

「何て惨いことを・・・」
ほんの少しでも逆らえばその怪力と巨体に物を言わせて容赦無く痛め付けられ、毎日毎日体力が尽き果てるまで赤竜の慰み者にされるという苛烈極まりない地獄の日々。
しかも彼はそんな想像するのさえ憚られるような悲惨な生活を、赤竜に囚われの身になってからの20年間正に1日の休みも与えられること無く続けたのだという。
「ですがある時を境に、町を荒らしに行った赤竜が突然帰って来なくなったのです。奴は、死んだのですね?」
「赤竜は今から100年前、新たに登場した兵器によって倒されました。ではあなたは、それ以来ずっとここに?」
「そうです・・・私はずっとこの部屋で、時折天井から滴る雨水だけを頼りに細い命を繋ぎ続けてきました」
その話を聞いて、私は目の前のドラゴン・・・グラムの悲運を心の底から憐れんでいた。

強靭なドラゴンの生命力が味方したとは言え、彼が100年もの長い間僅かにしか手に入らない雨水だけで何とか今日まで生き延びることが出来た理由はたった1つしかない。
飢えと孤独に心身ともに激しく衰弱し、最早死を待つばかりにまで弱り切った彼の唯一無二の心の支え・・・
それは恐らく、結局再会することが叶わなかったセレナ王女への未練に他ならないだろう。
何年、何十年掛かったとしても、再び生きてセレナ王女と出会うことが絶望という名の暗闇の中で彼が縋り付くことの出来た最後の弱々しい灯火だったのに違いない。

「ですが、セレナ姫は・・・もう、この世にはいないのですね・・・」
やがて力無くそう呟いた彼の声には、まるで底が見えない程の深い深い落胆の色が現れていた。
だがそうは言っても、彼をこのまま失意の底に沈めたままにするわけにはいかないだろう。
「それでも、あなたはまだ生きています。セレナ王女の為にも、元気を出してください。さあ、これを・・・」
私はそう言うと、ずっと手に持ったままで冷めてしまった肉の串焼きをそっと彼の口元に差し出していた。
それを見て、彼が心底嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ああ・・・ありがとうございます・・・アリシア姫・・・」
そして100年振りに与えられた食事を美味しそうに頬張る目の前のドラゴンにすっかり気を許してしまうと、私は天窓から見える小さな空が夕暮れの気配に染まるまでずっと彼の傍に寄り添っていた。

「アリシア姫・・・そろそろ、帰らなくても良いのですか?」
その大きくて太い腕の厚い鱗越しにさえ伝わってくるドラゴンの温もりを感じながらウトウトと心地良い眠気を咀嚼していたその時、不意に空を見上げた彼がそう言いながら私の体を静かに揺すってくる。
それに気付いて私も洞窟の天井に空いた小さな穴から外を覗いてみると、何時の間にか青々と輝いていたはずの空に早くも夕焼けが掛かり始めていた。
「ああ、もうこんな時間に・・・」
昨日も遅く帰った上に今朝もこっそりと城を抜け出してきた手前、流石に今日は早く帰らないと父に大目玉を食らってしまうだろう。
そして名残惜しい思いでドラゴンの顔に視線を移すと、彼はその大きな口元に優しげな笑みを浮かべていた。
「また、明日来ますわ」
「はい・・・私は何時でも、ここでアリシア姫を待っています」
だがそんな遣り取りを終えて背後を振り向こうとした時、私はふと思い立ってずっと気になっていたことを彼に訊ねていた。

「そう言えば・・・あなたにはまだまだ聞きたいことがたくさんあるのですが、1つだけ教えて頂けませんか?」
「何をですか?」
「かつて赤竜がここに棲んでいた頃、赤竜はどうやってこの部屋と外を行き来していたのですか?」
この100年間、赤竜という主を失ったにもかかわらず彼を縛り続けたこの閉じられた石室・・・
外に通じているのは天井に空いた小さな穴と私が潜り抜けてきた小さな穴だけで、その他の壁は全て完全に分厚い岩に覆い尽くされているのだ。
見上げる程に大きな彼よりも更に巨大な体躯を有していたという赤竜が一体どうやってこの部屋に出入りしていたのかは、彼にその素性を聞いた時から1番気になっていた謎だと言ってもいいだろう。
「そこの壁に元々大きな穴があり、赤竜が出て行くときは大岩でその穴を塞いでいったのです」
確かに彼の指した場所をよく見てみると、比較的平坦な周囲の壁面に比べてそこだけが歪に盛り上がっている。
だが流石にこれ程までに大きな岩塊で蓋をされてしまったら、連日の赤竜の責め苦に体力を消耗し切った彼には退かすことができなかったのに違いない。

「では、この穴は・・・?」
そして今度はこれから私が通ろうとしている小さな穴を指し示すと、彼が微かな苦笑を浮かべて答えてくれる。
「それは覗き穴です。赤竜はその穴からこちらに首を突き出して、事ある毎に私の様子を窺っていました」
成る程・・・元人間の非力なドラゴンとは言え彼を姿の見えぬ密室に監禁していたのでは何時どんな反撃を受けるか分からないから、赤竜はそうやって彼の動向に常に目を光らせていたのだろう。
ただでさえ力では到底敵わぬ巨竜にこうも徹底してその身動きを封じられてしまっては、彼が20年もの間ここから逃げ出す術を全く見つけられなかったことにも納得がいくというものだった。
「さぞや・・・辛い思いをされたのでしょうね・・・」
「昔の話です。あなたのお陰で、私は救われたのですから」
私は深い感謝の込められたその彼の言葉に、何とも複雑な思いを抱きながら別れの挨拶を口にしていた。

彼は・・・本当にこれで救われたと言えるのだろうか・・・?
町へ帰るべく深い森の中を歩く間・・・私はずっとそんなことばかりを考えていた。
確かに100年間も彼を苦しめ続けた飢えと渇きは癒され、彼は一見して元の元気を取り戻したかのように見える。
だが彼は、依然としてあの石室に閉じ込められたままで外に出る方法さえまだ見つかってはいないのだ。
彼を取り巻いている極めて絶望的で救いの無い状況は、特に変化していないというのが正直なところだろう。
それに仮に外へ出ることが出来たところで、彼の居場所はここには無い。
例の赤竜が町を荒らしていたのは今はもう誰も知らぬ昔のこととは言え、この国の人々がドラゴンという生き物に対して抱いている印象は決して良いとは言えないはず。
咄嗟に逃げることの出来ない石室の中でじっと彼の様子を窺わざるを得なかった私には図らずも彼の優しさのようなものを感じ取れたものの、あの見る者を竦ませる巨体と風貌を恐れる者は大勢いるに違いない。
とにかく・・・城へ帰ったら、このことを父に相談してみようか・・・
私1人だけではどうやっても彼を救うことが出来そうにないし、私が話せば父ならきっと協力してくれるだろう。
今も暗い密室の中で孤独を噛み締めているであろうグラムの為に、私は密かにそんな決意を固めていた。

やがて昨日よりは幾分早く城に帰り着くと、私はまだ大食堂に誰もいないことを確かめて安堵の息を吐いた。
そして先に席に着いて他の人達が来るのを待っていると、しばらくして父や大臣達が大食堂の中へと入ってくる。
「おお、アリシア。今朝は随分と早く出掛けて行ったようだが、もう帰っていたのか」
「はい。あの、お父様・・・後で、少しお話があるのですが・・・」
「ん・・・?どうしたのだ、急に改まって・・・まあいい。今は、共に食事を楽しむとしよう」
内容が内容なだけに、できれば父以外の者には聞かれたくない・・・
そんな私の心情を知ってか知らずか、父は私の言葉をそれとなく受け流すと続いてやってきた重臣達が席に着いていくのをじっと見守り続けていた。

それから数分後、まるで全員が大食堂のテーブルに着いたのを見計らったかのように次々と豪華な料理が厨房から運び込まれてきた。
まあ豪華とは言っても、どちらかと言うとそれは食材の貴重さと言うよりも料理人の盛り付けや調理の巧みさによるところの方が大きいだろう。
感謝祭の今の時期は城に納められる良質な食材の多くを町の人々に提供している分、城での料理は対照的に少しばかり質素なものとなるのが暗黙の了解となっている。
普段から町に出掛けて庶民の食事にも慣れている私にとっては寧ろこちらの方が食べやすいのだが、豪勢な食事に舌の肥えてしまっている父や重臣達には少し物足りなく感じてしまうのかも知れない。

だがいざ食事が始まると、私はそんな料理に対する不満とはまた別の理由で何処か奇妙な空気がその場に流れていることに気が付いていた。
昨日は遅れて晩餐にやってきたせいで何となく後ろめたい気分を感じていたからそれどころではなかったのだが、今日は明らかに普段の食事の光景とは雰囲気が違っているのが分かってしまう。
具体的に何処がどう違うのかと言われれば答えに窮してしまうのだが、一言で言えばそう・・・極端に会話が少ないような気がするのだ。

もちろん普段は彼らも国王とその家臣という絶対的な序列に基いて接しているから、互いに無駄口を叩くようなことはほとんど無いと言ってもいいだろう。
しかし食事時、それも晩餐の時間ともなれば、父自身が無礼講だと言って彼らにも気安い言葉を掛けていたはず。
それなのに今日は皆が皆黙々と自分の料理に手を付けているだけで、食器の鳴るカチャカチャという音以外はほとんど人の声が聞こえて来ない。
父自身もそんな周囲に張り詰めた奇妙な空気を感じ取っているのか、誰に声を掛けるともなく静かに料理を食べ続けていた。
そう言えば・・・こうなったのは一体何時頃からなのだろうか・・・?
少なくとも昨日今日の話でないことだけは、おぼろげな記憶を辿って行くだけでも確信が持てる。
以前は誰もが明るく歓談しながら夕食を楽しんでいたというのに、何が彼らを変えてしまったのか・・・
そしてそんな疑問を頭の中で転がしながら料理を食べ終えると、私はまだ食事の途中だった父と一瞬だけ目を合わせてから自分の部屋へと戻ることにした。

それから、30分程が経った頃・・・
私は部屋の扉を叩くコンコンという乾いた音で、眠気に揺らいでいた意識を一気に覚醒させていた。
「アリシア、いるか?」
「はい、お父様」
その返事を聞いて、父がゆっくりと扉を開けて部屋の中へと入ってくる。
「何か話があるそうだな」
「ええ・・・他に、相談できそうな方が誰もいなかったものですから・・・」
「一体何の話なのだ?」
やがて良くない話だと思ったのか微かに身構えながらそう訊いてきた父の声に緊張の度合いを高めると、私は1度だけ大きく深呼吸してから静かに口を開いていた。
「昨日感謝祭の式典が終わった後、私は東の森の奥にある洞窟で1匹のドラゴンを見つけたのです」
「ド、ドラゴンだと・・・?」
その私の告白に、父の顔が俄かに引き攣っていく。
だがその先に続けられた私の言葉に、父は不安に引き攣っていた顔を激しい驚愕の色で塗り潰されることになったのだった。

「危険な存在ではありませんの。彼は今、かつての赤竜の住み処の奥に閉じ込められているのです」
「で、では・・・お前は今日もそのドラゴンの所へ行っていたのだな?」
私があのドラゴンのことを"彼"と呼んだことで、父は私がただドラゴンの姿を見掛けただけではないということを敏感に感じ取ったらしい。
「ええ・・・しかも彼の正体は120年前、赤竜の討伐に赴いて死んだとされていた騎士グラムだと言うのです」
「馬鹿な・・・つまりそのドラゴンは、元々人間だったとでも言うのか?まさか・・・有り得んことだ」
だが言葉ではそう否定しながらも、父はまるで何か考え事でもしているかのように床に視線を落としていた。

120年前の騎士グラム・・・確か当時の王女セレナの許婚で、卓越した剣の使い手だったと聞く。
そしてその腕を買われて結婚直前に赤竜退治へと駆り出されたものの、討伐隊は赤竜に敗れ無惨に全滅。
しかし大勢の兵士達の亡骸の中にグラムの遺体は見つからず、ただ彼の長剣だけがその場に残されていたという。
更にはグラムの剣を見せられてその死を知らされたセレナは激しい悲嘆に暮れ、周囲の者達が止める間も無くその剣で己が胸を突き刺して命を絶ったのだそうだ。
赤竜に町が荒らされていたことを除けばさして大きな戦も無く比較的平和に続いてきたこの国の歴史の中でセレナの自害は一際目立つ悲劇であり、それ故に多くの人々が知っている事実でもある。
だが娘の話を信じるならば、グラムは赤竜に殺されたのではなく・・・何らかの方法で竜に姿を変えられて囚われの身になっていたというのか。

とは言え幾ら信じ難い事だとは言っても、ワシの顔を真っ直ぐに見つめている娘の目には確かな真実があった。
それに普段であればワシが起こさぬ限り昼過ぎまで寝ているような怠け者の娘が今朝は珍しく早起きをして出掛けていったことを考えても、娘がそのドラゴンに会うのを楽しみにしていたのであろうことは想像が付く。
そして今日もこうして無事に帰ってきたのだから、そのドラゴンに危険は無いというのも本当なのだろう。
「まあいい・・・仮に、お前のその話を信じるとしてだ・・・お前はワシに一体どうして欲しいのだ?」
「彼を、あの洞窟から救い出して欲しいのです。私だけでは、とても彼を助けられなくて・・・」
「しかし、それでどうなるというのだ?この国の者達は、そのほとんどがドラゴンを忌み嫌っているのだぞ?」
娘も、それは重々承知しているはずのことだった。
娘に直接話を聞いたワシですらが完全にはそのドラゴンのことを信用し切れないというのに、何も知らぬ町の人々なら尚更そんな得体の知れない存在など受け入れられるはずが無い。
しかも、今は邪悪な赤竜が退治されてから100周年を祝う感謝祭の真っ最中なのだ。
こんな時に新たなドラゴンの話を聞かされたところで、要らぬ不安を煽る以上の効果は何も望めないことだろう。

「分かっています。しかしかつて国に尽くした人間が苦しんでいるのを、黙って見過ごすことなどできませんわ」
もちろん私にも、父の抱えている不安は痛い程よく分かる。
大勢の国民の生活に責任を負っている国王だからこそ、ドラゴンを解き放つなどという私の提案を軽々に支持できないのはある意味で当然のことだと言っていいだろう。
それでも私は、100年間もあの寂しい洞窟で儚い希望に縋り続けたグラムをどうしても救ってやりたかったのだ。
そしてそんな私の必死な訴えにようやく意を決してくれたのか、父がフゥーと長い息を吐いてから先程よりも幾分かトーンの落ちた声を絞り出す。
「そうか・・・しかし、流石にそれはワシの一存で決められる問題ではないだろう。少し、時間をくれぬか」
「ええ・・・分かりました」
やがて暗い面持ちで部屋を出て行った父を見送ると、私はベッドの上に寝そべって明日のことを考え始めていた。
感謝祭はまだしばらく続くし、父にも断りを入れた以上明日も朝早くから彼の許へ出掛けて問題は無いだろう。
そして明日は彼とどんな話をしようかと想像を巡らしている内に、私は何時の間にか深い眠りに落ちていった。

翌朝、私はまたしても目を覚ますなりベッドから素早く這い出していた。
朝を迎えるのがこんなに楽しみなことだと感じたのは、恐らく生まれて初めてのことだろう。
やがて昨日と同じく父達が朝食を摂っているのを確かめると、私はふとこちらを振り向いた父と一瞬だけ目を合わせてから颯爽と明るい城の外へと飛び出していった。
腰に身に着けた空の水筒が時折カランカランという乾いた音を立て、自然と活気に満ちた町に向かう私の足を早めていく。
そして首尾よく水筒一杯の水と大きな袋一杯の果物を手に入れると、私は彼の待つ東の森へと勢い良く駆け込んでいった。

「ふぅ・・・」
大食堂での側近達との食事を終えて玉座に戻ったワシは、ふと昨夜の娘の話を思い出して深い溜息を吐いていた。
それを見て、傍にいた大臣が興味深げに疑問の声を上げる。
「どうかなさいましたか、国王?溜息などを吐かれるとは」
「いや何・・・実は昨夜娘から、少しばかり困った問題を持ち掛けられてしまってな・・・」
「はて・・・その、困った問題とは一体どのようなものなのです?」
果たして娘が見つけたというドラゴンのことを、大臣に話してしまってもよいものだろうか?
だが何れにしてもワシ1人で決断を下すには余りに難しい問題なだけに、誰か信用できる者にでも相談した方が良い結論を出すことが出来るかも知れぬ。
ワシはしばらく迷った末にそう決心すると、慎重に言葉を選びながら大臣に密かな悩み事を打ち明けていた。

「実は、アリシアが東の森の洞窟で1匹のドラゴンを見つけたと言っておるのだ」
「ド、ドラゴンですと!?そ、それで、討伐隊でも結成なさるおつもりなのですか?」
「それが娘が言うには、そのドラゴンの正体はかつてこの国の騎士だったあのグラムなのだそうだ」
その言葉に、大臣も史実に語り継がれるセレナとグラムの話を思い起こしたらしい。
やがて彼の口から、昨夜ワシが抱いたのと全く同じ疑問が溢れ出していた。
「まさか・・・グラムが生きていたのは120年も前なのですぞ?それに、人間がドラゴンに姿を変えたとでも?」
「ワシも俄かには信じられなかった。だがここ数日、娘はそのドラゴンの許へと足を運んでいるらしい」
王族を護る騎士という身分でありながら、美しいセレナ王女との結婚を特別に認められたグラム・・・
その凄まじい剣の腕は3人の射手によって10メートル足らずの至近距離から次々と放たれた3本の矢を全て斬り落としたことがあるという逸話がある程で、殊に剣同士の戦いで彼に並ぶ者は誰もいなかったという。
そんな豪傑が姿を変えたドラゴンならば、理性が保たれている限り人間に危害を加えるようなことは無いはずだ。
そして今初めてワシの話を聞いた大臣にもその辺りの勘は十分に働いたらしく、娘がドラゴンに会いに行っているという事実に関しては特に問題視はしていないらしかった。

「それで・・・アリシア姫は国王に一体何を望まれたのですか?」
「そのドラゴンは、どういうわけかかつての赤竜の住み処の奥に囚われているのだそうだ」
「つまり、それを解放して欲しいと・・・?」
流石に長年ワシの下に仕えているだけあって、大臣はそんなワシの思考を見事に読み取っていた。
「う、うむ・・・だが如何に害が無いとは言え、町の者達は恐らくそのドラゴンに恐れを抱くに違いない」
「成る程、国王のお悩みは良く分かりました。しかし、慎重な検討が必要なのも確かなこと」
そしてそう言うと、大臣が大きく胸を張ってワシの顔を見つめ返してくる。
「一両日程頂ければ、他の者達とも相談して良い結論を出しましょう。我々に、任せて頂けますか?」
「そうだな、そうしてもらえるとワシも助かる。頼りにしておるぞ」
やがてようやく難題が1つ片付いたとばかりにそう言うと、大臣は深々と頭を下げてから他の者達の話を聞きに階下へと降りていった。

「う・・・くっ・・・んんっ・・・」
分厚い洞内の岩壁にぽっかりと空いた、彼の部屋へと続く細い穴。
私は果物の詰まった袋と水筒を先にその穴の中へ押し込むと、自らも些か窮屈な思いをしながら何とか向こう側へと潜り抜けることに成功していた。
ドサッ
「ああ、アリシア姫・・・今日も、わざわざ来てくださったのですね」
そして長い散歩と穴潜りで疲れた体を静かに起こすと、そんな彼の嬉しそうな声が聞こえてくる。
「はい・・・それと昨夜、あなたをここから出してもらうように父に相談してみました」
「国王は何と・・・?」
「私の話は信じてもらえたようでしたが、返事は少し待ってくれと・・・」

それを聞いて、私はフゥと大きな息を吐いていた。
まあとは言え国王にも姫の言葉は信じてもらえたということだから、少なくとも国王自身は私に対してそれ程悪い印象を持っているわけではないだろう。
流石にドラゴンを解き放つなど国王でも即決できる事案ではないだろうし、今は私の存在をあの国の人々に知らせることができただけでも大きな前進だと考えることにするとしよう。
「さあ・・・まずは水をお飲みになって・・・」
そしてそんな私の胸中を慮ってか少しばかり申し訳無さそうな表情を浮かべながら冷たい水の入った水筒を差し出してくれたアリシア姫の姿に、私は深い感謝を抱きながらそっと口を開けていた。

コク・・・コク・・・
やがて冷たく澄んだ水を美味しそうに飲み下す彼の様子を一頻り眺めると、私はあっという間に空になってしまった水筒を地面の上に置いて彼の傍らに寄り添うように座り込んでいた。
「あなたのことを・・・グラムと呼んでもよろしいですか?」
「もちろんです、アリシア姫・・・またその名で呼ばれる日が来るとは、夢にも思っていませんでした」
だがそう言いながら、グラムが心底嬉しそうだった表情を戻して私の顔を覗き込んでくる。
「それにしても、どうして姫は1人でこんな場所へ?それに、何故この私をそれ程心配してくださるのですか?」
そして唐突に投げ掛けられたその質問に、私は微かな驚きとともに一瞬だけ言葉を詰まらせていた。
120年もの長い間ずっと孤独で日々を生き抜くだけでも精一杯だった彼も、ようやく救いの手が差し伸べられたことで物事を冷静に考えられるようになってきたのだろう。
確かに王女が供も付けずにこんな森の奥地にいるというのは、彼の常識では考えられないことなのに違いない。

「私の母は、数年前に病気で亡くなりました。子供は私1人で、他に父の跡を継ぐ者がいなかったのです」
「では、アリシア姫が女王に・・・?」
「はい・・・ですが私にとって、王族の生活は決して居心地の良いものではありませんでした」
その私の言葉に、彼が神妙な顔をしたまま小さく頷いてくれる。
かつて王族の護衛を務めていた彼にも、庶民達が思う程貴族の生き方が楽ではないことは理解できるのだろう。
「母が亡くなった悲しみも癒えぬ内に国民の生活を担うという重責を背負える程、私は強くはなかったのです」
「分かります。私も一庶民だった頃は貴族の生活に憧れていた時期がありましたが、やがて現実を知りました」
「ですが、責務を投げ出した私にとって他の人々の視線は痛いものでした」
そこまで聞くと、彼は私を安心させようとそっとその黒い鱗に覆われた大きな手で私を抱き寄せてくれていた。
「そして何時しか私は・・・誰にも見咎められず1人になれる森を訪れるようになったのです」
「しかし、それなら何故私を・・・?」
「それは・・・初めてあなたを見た時に感じたからです。孤独と絶望に彩られた、私と同じ深い悲しみを・・・」

ふと気が付けば、彼の為にと袋に大量に持ってきていたはずの果物は既に底をついていた。
洞窟の天窓から見える空は再び夜の訪れを告げる物悲しい赤紫色に染まり、西に傾いた太陽が橙色の斜陽を薄暗い洞内へと注ぎ込んでいる。
「アリシア姫・・・そろそろ・・・」
「分かっています・・・ですがその前に、何時かここを出ることが出来たら、私と共に暮らして頂けますか?」
「こんな姿の私で良いのなら、何処へなりとも姫の望むところへ参りましょう」
私はそんな彼の快い返事に満面の笑みを返すと、軽くなった水筒と袋を持って帰路へとついていた。

その日の夜・・・
僅かな衛兵以外はその住人のほとんど全てが寝静まった深夜に、城の地下にある小さな部屋で密かな会合が行われていた。
「一体どうしたと言うのだ大臣?こんな夜中に突然我々を呼び集めるとは・・・」
「我々が集まる理由が1つしかないのは、そなたも十分にご存知のはずだが?」
「それはそうだが・・・例の件に、何か進展でもあったというのか?」
初老の重臣の1人がそう食って掛かったのも意に介さず、大臣が一堂に会した5人の男達をグルリと見回していく。
彼らは全員国王の家臣であり、そして同時に王政の乗っ取りを企んでいる謀反者達でもあった。
「皆も知っての通り、我が国には跡継ぎがおらず、アリシア姫も放蕩状態にある。それに、国王ももうお歳だ」
その大臣の言葉に、全員が小さく頷く。
「近い将来、この国の王政は崩壊するだろう。我々が引き継がなければ、その地位も地に落ちることになるのだ」
「もちろんそれは分かっているが、国王は民衆にも支持を得ている。どうやって我らが王政を継ぐというのだ?」
「そうだ。その結論を見出せなかったから、これまで我々は何もできずにきたのではないか」

次々と上がる、家臣達からの疑問の声。
だが大臣は彼らを静めるように右手を翳すと、ようやく話の本題に入っていた。
「皆の疑問は尤もだが、方法は1つしかないだろう。国民達に怪しまれぬ手段で、国王と姫を亡き者にするのだ」
「それについて、何か良い案でもあるというのか?」
「今朝、国王に興味深い話を聞いた。上手くすれば、目的を達せられるばかりか我らも英雄扱いされるだろう」
その大臣の言葉に、全員が酷く緊張した様子でじっと聞き入っている。
「先日アリシア姫が、東の森で1匹のドラゴンを見つけたというのだ」
「ドラゴンだと?しかし、それが一体・・・」
「成る程・・・」
理解した者とそうでない者の反応が分かれる中、大臣が更に先を続ける。
「つまり・・・ドラゴンが我が国の国王と姫を殺すのだ。そして我々が、そのドラゴンを討ち取れば良い」
「それで、真相は全て闇の中か。具体的な方法を聞くとしよう」
やがて勘の鈍かった他の者達にも悪意に満ちた大臣の計画が飲み込めると、彼らは明け方近くまで薄暗い密室で国王殺しの算段を練り続けていた。

翌朝、私は部屋一杯に広がる明るい朝の気配にそっと目を覚ましていた。
窓の外に目を向けてみると、雲1つない快晴の空が燦々と降り注ぐ太陽の光を存分に城下の町へと注いでいる。
私は昨日とは打って変わって静かにベッドから起き上がると、そっと深呼吸しながら出掛ける準備を整えていた。
父は、彼をあの洞窟から助け出すことに賛成してくれるのだろうか?
少し時間をくれと言われただけに無闇に返事を急かすわけにもいかず、私は心中に抱えたモヤモヤとした不安のようなものをどうしても拭い去ることが出来なかったのだ。
だが、とにかく今日もグラムに会いに行くとしよう。
そして連日の疲れのせいか中々抜け切らなかった眠気をようやく振り払うと、私は空の水筒だけを持って部屋を後にしていた。

やがて父や大臣達が大食堂で朝食を摂っていることを確認し、今日も出掛けるということを目だけで父に伝える。
そんな父の視線につられたのかその隣にいた大臣も私の方をちらりと一瞥したものの、私が森に出掛けていることは知っているのか特にこれといった反応は何も示さなかった。
そして今回は城の表門から堂々と町に繰り出すと、何時ものように水と食料を調達する為に露店のある通りへと足を向ける。
今日はグラムに何を持って行こうか・・・
そのちょっとした庶民的な買い物感覚に身を浸しながら、私は朝も早いというのに既に大勢の人々で賑わい始めていた町の様子に胸を躍らせていた。

「姫が出掛けたぞ。準備はいいか?」
「ああ、大丈夫だ。まあこの調子なら、途中で気付かれることはないだろうが・・・」
「しかし、大臣も不思議な命令を出したものだな。姫の行き先を突き止めて来いだなんて」
兵装を解いて一般の服に着替えた2人の兵士達が、遠巻きにアリシアの様子を窺いながら喧騒に満ちた町の中でそんな会話を交わしている。
事の詳細を何も知らされずに下されたその奇妙な命令には、流石の兵士達も微かな疑問を抱かずにはいられなかったらしい。
だが町での立ち回りに慣れているのか手際良く水と食料を手に入れたらしいアリシアが東の森に向かって歩き始めると、彼らの間にも小さな緊張が走り始めていた。
「お、姫が移動するようだ。俺達も行こうか」
「森に入ったら、少し距離を空けるとしよう。幾ら大臣の命令とは言っても、姫に見つかったら面倒だからな」

明るい陽光の届かぬ薄暗い森の中は、今日も平和で静かな雰囲気に包まれていた。
一昨日は洞窟で見掛けたドラゴンに対する純粋な好奇心が、昨日は初めて見つけられたかも知れない心の許せる友達にでも会いに行くかのような期待感が私の胸を満たしていたものだ。
しかし今日は、そのどちらとも違う不思議な高揚感が心中に湧き上がっている。
これはもしかして互いに心を通じ合わせた恋人・・・いや、恋竜に会いに行くことに対する昂りなのだろうか。
人間の身でドラゴンを愛するなどということが果たしてあるのかは私には分からないが、元人間だったからかどうかは別として、確かに私はあのドラゴンに、グラムに深い恋心を抱いていた。

そしていよいよ木々の向こうに彼の待つ深い洞窟が見えてくると、ドキドキとした昨日までとは質の異なる緊張感が漲ってくる。
だがそんな張り詰めた私の感覚が、不意にガサッという奇妙な物音を私の耳に届かせていた。
「・・・?」
何の音だろうか?
確かに静かな森とは言え風に揺れる茂みや草木が微かな囁き声のような音を出すのはよくあることだが、普段から森に入り浸っている私には今の音がそう言った自然の作り出した音ではないことがすぐに判ってしまう。
とは言え背後を振り返ってみても人や獣の姿が見えるわけでもなく、私はしばらくキョロキョロと辺りを見回した後に早く彼に会おうと洞窟の中へ駆け込んで行った。

「ふぅ・・・危うく気付かれるところだったな」
各々大きな木の陰に身を潜めた2人の尾行者達が、最後の最後で破綻し掛けた任務の達成に安堵の声を上げる。
「しかし、こんなところにこれ程大きな洞窟があったとはな・・・」
「もしかしたらあの洞窟、100年前に退治されたっていうあの赤竜の住み処なんじゃないのか?」
「まさか・・・いや、仮にそうだとしても、姫がどうしてこんなところに来るって言うんだ?」
その率直な問いに、もう一方の兵士が肩を竦める。
「さあな。とにかく、俺達の役目はここまでだ。姫が中で何をしているかは知らないが、入るのは止めておこう」
「そ、そうだな・・・水と食料を持って行ったってことは、きっとあの中でしばらく過ごすつもりなんだろう」
そしてそんな会話を最後に、2人の兵士達はアリシアの行き先を大臣に伝えるべく踵を返していた。

トサッ
グラムの部屋へと続く狭い穴を潜り抜けるのにも大分慣れたのか、私は相変わらず両手に水と食料を持ったままだというのに軽やかに穴の向こう側へと降り立っていた。
それを見て、部屋の奥の方で静かに佇んでいた彼が何処か安心したような表情を浮かべる。
「ああ・・・今日は無事に降りられたようで良かった」
そしてそう言いながら持ち上げていたらしい長い首を再び丸めると、彼はホッと短い息を吐いていた。
「何時か怪我をされるのではないかと心配しておりましたよ」
「大丈夫ですわ。私はこれでも、毎日のように森を歩き回って幾分かは鍛えられておりますから」
「いや・・・しかし・・・」
だが困惑気味に言葉を詰まらせたグラムの喉元にそっと手を這わせてやると、彼は大人しく私の指先にその身を委ねることにしたらしかった。

「それにしてもアリシア姫・・・こんな私などの為に、連日城を抜け出してきてもよろしいのですか?」
「気にすることはありませんわ・・・今は例の赤竜が退治されてから丁度100年を祝う、感謝祭の最中ですから」
「感謝祭・・・ですか?」
自分の知らぬ内に大きく移り変わったのであろう時代と国の様子に興味を惹かれたのか、彼が少しばかりその瞳を大きく見開いて私の方へと視線を向ける。
「4年に1度のお祭り騒ぎです。町の人々も城の兵達も、1週間を自由気ままに飲んで歌って楽しく過ごすのです」
「それでは、町の中もさぞ賑やかなのでしょうね」
「ええ、それはもう・・・あなたにも、是非ともあの心地良い喧騒を味わって頂きたかったですわ」
そう言いながら部屋の中央に蹲った彼に背を預けて地面に座ると、私は心休まる彼の温もりを背中に感じながらまだ明るい空を見上げていた。

「しかし残念ながら、父はあなたをここから救い出すことに対してまだ結論を出せずにいるようです」
「それは仕方の無いことでしょう。国王には大きな責任と責務があるのです。お父上を、責めてはなりませんよ」
「もちろん分かっています。ですがあなたという人を知れば知る程に、私はどうしようもなく胸が痛むのです」
そんな私の告白に、彼が長い尻尾でそっと私の体を包んでくれる。
「今の私は、ただの1匹の竜でしかありません。人として残っているのはグラムという名前と、その心だけです」
そう言う彼の声には、何処か深い悲しみにも似た自嘲的な響きが含まれていた。
「この尾も、翼も、黒い体も、爪も、牙も・・・人々の目には、ただの脅威としか映らないでしょうから・・・」
確かに・・・それはそうかも知れない。
こんなにも優しい心根を持っているというのに、ただその恐ろしげな外見だけで、或いはかつての残虐な赤竜の所業に照らして彼の存在を快く思わない人々はあの町にも大勢いることだろう。
もしかしたら竜に姿を変えられた彼にとって最も辛いのはこうして寂しい洞窟に取り残されたことではなく、自分という存在を受け入れてくれる場所がこの世から消えてしまったことなのかも知れなかった。

「報告申し上げます、大臣。アリシア姫の行き先を調べたところ、東の森の奥にある洞窟に入っていかれました」
「うむ、ご苦労だった。それではその洞窟の場所を地図に記して、ドイル師団長に渡してくれ」
「はっ、かしこまりました」
やがてアリシアの行き先を告げた兵士が大臣の部屋を出て行くと、彼はすぐさま使いを遣って他の家臣達を自分の部屋に呼び集めていた。
そして昨夜城の地下室で密会を行っていた者達が一堂に会すると、家臣の1人が小声で話を切り出す。
「いよいよ決行か?」
「うむ。姫の通っている洞窟が判った。そなたの息が掛かったドイルに、その場所を伝えるよう命を出してある」
それを聞いて、初老の家臣が大きく頷く。
「よし、そちらはすぐに出発させよう。我々は国王を部屋に足止めしておく。大臣は例の物の準備を」
「もちろんだ。それと、宝物庫の鍵も用意しておいてくれ。ドラゴンに罪を着せる為に、グラムの剣が必要だ」

ふと上を見上げると、洞窟の天井から覗く空が今日も彼との別れの時間を告げる美しい夕日に染まり始めている。
「ああ、もうこんな時間に・・・あなたといると、本当にあっという間に時間が過ぎてしまいますのね」
「私も同じ気持ちです。明日もまた、いらして頂けるのですか?」
「もちろんそのつもりです。あなたと過ごすのが、今の私にとっては何よりの楽しみなのですから」
だがそれから数分後、何時ものように洞窟を出てみると、突然森の中に数人の武装した男達が姿を現していた。
「きゃっ・・・」
頭に巻かれた黒布で彼らの顔は全く見えないが、少なくとも静かに剣を抜いたその身のこなしを見る限り戦いに関して良く訓練された者達のようにも見える。
だがその正体が何であれ、彼らの周囲には明らかに私の命を狙っていると確信させる程の濃い殺気が漂っていた。
早く逃げなければ!
しかしそうは言っても、私のすぐ背後にはグラムのいる洞窟の入口が広がっているばかり。
逃げる場所があるとするならば、彼のいるあの部屋しかない。
その思いに私は一瞬混乱と恐怖に竦み掛けた足を何とか地に付けると、咄嗟に手に持っていた水筒をその場に捨てて洞窟の中へと駆け込んでいった。

カッカッカッカッ・・・
最早ほとんど外からの光が差し込んでいない真っ暗な洞窟の中を、ここ数日の記憶と勘だけを頼りに駆け抜ける。
そして何とか1度も躓くことなく無事に彼の部屋の前まで辿り着くと、私は確かに後を追って来ている男達の気配を感じながら狭い穴の中に体を捻じ込んで必死に這い進んでいた。
ドドサッ
「あうっ!」
「ア、アリシア姫・・・?一体どうされたのですか?」
余りに慌てていたせいか穴から転げ落ちて打ち身の痛みに呻いた私に気付き、グラムが大層驚いた様子で素っ頓狂な声を上げる。
「な、何者かが・・・私を殺そうと・・・」
だが疲労と恐ろしさに荒くなった息が、私の声を細かく途切れさせてしまう。

「こっちだ!」
「そこの穴に逃げ込んだぞ!」
やがてあの男達も部屋の前までやってきたらしく、穴の奥からそんな彼らの声が漏れ聞こえてくる。
「どうして・・・?どうして私が命を狙われるのですか・・・?」
「と、とにかく・・・ここにいれば安全です。彼らが誰であれ、ここには入ってくることができないでしょう」
とは言え流石のグラムも余りに突然の事態に多少は落ち着きを失ってしまったのか、私を宥めようとして発したその声が微かにだが上ずっている。
「くそっ、火薬を持ってこい!壁に発破を掛けるぞ!」
そして再び穴の向こうからそんな不穏な言葉が言葉が聞こえてくると、私は思わずグラムの懐でギュッと身を縮めてしまっていた。
「そ、そんな・・・彼らは・・・どうあってもこの私を殺すつもりですわ」
「心配要りませんよ姫・・・もし彼らがここに入ってきた時は、私が姫を護ります」
そんな彼の言葉はもちろん私にとってはこの上もなく心強いものではあったのだが、この岩壁の向こうで火薬を仕掛けているのであろうゴソゴソという物音が耳に届く度に、私は隠し切れぬ不安にブルブルと震えていた。

「あったぞ、これだ・・・」
その頃・・・城の地下にひっそりと佇んでいる大きな宝物庫の中で、大臣が無数の財宝の山に紛れて飾られていた1本の長剣を手にしていた。
スラリと伸びた白い刀身に、金の装飾が施された美しい騎士グラムの剣。
かつてグラムの死を知らされたセレナ王女が自らの胸に突き立てて命を絶ったこの剣は、あれから120年近くもの間この国で起こった悲劇の象徴として密かに保管され続けていた。
だが今日、黒い野望を抱く大臣の手によってこの剣は再び新たな役目を与えられようとしている。
それは王族を護る為に国に尽くしたグラムの意思を、最も残酷な形で踏み躙ることになるのだった。

「よし、発破の用意が出来たぞ。全員この場を離れるんだ」
やがて壁の向こうに火薬を仕掛け終わったらしい男達の声が聞こえてくると、私は彼女の不安を幾らかでも和らげようとその頭をそっと抱え込んでいた。
「姫・・・爆音が鳴ります。耳を塞いでください」
「ええ・・・」
そして姫が両手で自らの両耳を押さえた次の瞬間、凄まじい音と衝撃が部屋中を大きく揺らしていく。
更には壁を貫通したと見える激しい爆風が細かな岩の破片と砂埃を周囲に巻き上げ、それが収まった時には長年閉じられていた分厚い岩に私にも通り抜けられそうな大きな大きな風穴が開いていた。

「おお・・・」
だが100年振りに外界への脱出口が開いたという深い感慨に耽る間も無く、姫を殺そうと企む数人の男達が一斉に部屋の中へと雪崩れ込んでくる。
私はそれを見て素早く伏せていた身を起こすと、剣を振り翳して迫ってきた人影を力一杯突き飛ばしていた。
バシッ!ドガッ!
「ぐあっ!」
「ぎゃっ!」
私が大きく腕を振るう度に、男達が1人、また1人と派手に吹き飛ばされて岩壁に叩き付けられていく。
そして5、6人はいたはずの襲撃者達が何とか全員気を失ったのをこの目で確認すると、私は相変わらず胸元で震えていた彼女の背中をそっと摩っていた。

「アリシア姫、もう大丈夫ですよ」
そんなグラムの声が、必死に彼の大きな胸元にしがみ付いていた私の耳にゆっくりと染み込んでくる。
そして恐る恐る顔を上げてみると、私を襲ってきた男達は全員岩壁に叩き付けられて気を失っているらしかった。
「い、一体誰がこんなことを・・・?」
訳もわからぬ内に刃を向けられた理由がどうしても理解できず、彼らの正体を暴かなくてはという思いが沸々と胸の内に湧き上がってくる。
だが1番近くにいた男の顔に巻かれた黒布をそっと取り去ってみると、私は激しい驚愕に打ちのめされていた。
「これは・・・ドイル師団長・・・?」
まさかという思いに、フラフラとよろめくような足取りのまま他の男達の顔も全て確認してみる。

「そんな・・・この人達は、全員私の国の兵士ですわ」
「どういうことです?」
「我が国の兵が、私を殺そうとしたのです。きっと、内乱が起こったのですわ・・・」
しかしそこまで考えが至った次の瞬間、私はハッと顔を上げていた。
彼らがここまで私を殺しに来たということは、父は・・・?
「大変!グラム、私を城まで連れて行ってください。恐らく父の身にも危険が」
「分かりました。ここを出ましょう」
そして壁に大きく空いた穴から何とかグラムの巨体を引っ張り出すことに成功すると、私は洞窟の外で彼に促されてその背の上に攀じ登っていた。
「姫、しっかり掴まっていてください」
「あなた・・・空を飛べるのですか?」
「ええ、恐らくは・・・竜になってから、まだ1度も翼を広げたことはありませんが・・・」

私はそう言うと、アリシア姫の両手がしっかりと首に回されたことを確かめてから大きく左右の翼を広げていた。
やがてバサッという大気を煽る音とともにそれを振り下ろしてみると、たったそれだけの動作で体がほんの少しだけフワリと浮き上がる。
これなら、姫を背負ったままでも十分に飛び上がることができるだろう。
「では、行きますよ」
「はい」
そして両脚で力強く大地を蹴って一気に空高くまで飛び上がると、私は森の上空から西に見える町を目指して力一杯翼を羽ばたいていた。

120年振りに見る、懐かしい町並み。
あの頃よりも町は栄え、領土は広がり、純白に近かった城の壁は時代の流れに従って微かなくすみを帯びていた。
空から町を見下ろすのはこれが初めてなのだが、その光景にもう忘れ掛けた遠い記憶が次々と蘇ってくる。
かつてセレナ姫と婚約を誓った城の前の広場にも今は色取り取りの花が植えられ、大勢の人々で賑わっていた。
「真っ直ぐに父の部屋へ向かってください」
「もちろん、そのつもりです」
そして背後から掛けられたアリシア姫の声にそう返事を返すと、私は城の南側に面した国王の部屋を目指してなおも翼に力を入れていた。

「国王、大臣から話を伺いました。森で見つかったというドラゴンを、本当に解き放つおつもりなのですか?」
「それについては、ワシもまだ決めかねているところだ。大臣にも、そう伝えていたはずだが」
数人の家臣達に突然自室へと押し掛けられて、ワシは正直困惑の色を隠せずにいた。
大臣は、一体彼らにどう説明をしたというのだろうか?
だが次々と浴びせられる糾弾にも似た質問責めに窮していたワシの目に、ようやく救いとなるであろう大臣が部屋に入ってくる様子が飛び込んでくる。
「おお、大臣、待っておったぞ。この者達にも納得できるように、お主からも説明してやってくれんか」
「もちろんです、国王。丁度1つ、この件について良い案が浮かびましたもので」
「ほう、と言うと?」
ワシのその問いに、大臣が開いたままにしてある大窓に面していた南の森を静かに指差す。
「あれです」
しかしそんな大臣の言葉につられるようにして窓の外へと目を向けた次の瞬間、ワシは何の前触れも無く突然背後から背中を斬り付けられていた。

ザグッ!
「ぐああっ!?」
熱さとも痛みとも判別の付かない凄まじい衝撃が、背中から全身に飛び火する。
だが混乱した頭が何が起こったのかを理解した時には、ワシの胸元から血に塗れた鋭い剣先が突き出されていた。
ドスッ・・・!
「う・・・うぐ・・・ぅ・・・」
やがて背後から心臓を貫かれたという死の苦しみにドサリと床の上へ崩れ落ちると、その視界にワシを刺した大臣の落ち着き払った顔が揺れていた。
「国王、あなたの役目はもう終わりです。これからは、我々がこの国を引き継いでいきますので」
「が・・・は・・・ぁ・・・」
や、やはり・・・謀反を企てている者がおったのか・・・
しかし、それがよもや長年ワシを支えてくれた大臣や重臣達であったとは・・・

そしてそんな死に際の緩慢な思考が、やがて娘のアリシアの安否へと辿り着く。
娘は・・・アリシアは無事なのだろうか・・・?
幾ら娘が心の中ではワシの跡を継ぎたくないと思っていたとしても、娘が生きている限りは王位の相続権が他の者の手に渡ることは無いはずだ。
だがこやつらが今後この国の政治を取り仕切るつもりだということは、まさか娘の命も・・・?
「ぐふっ・・・ワ、ワシのことはいい・・・何時かは・・・こう・・・なると思っていた・・・だが・・・」
次々と喉の奥から込み上げてくる血を吐きながら、ワシは最後の力を振り絞って掠れた声を押し出した。
「む、娘にだけは・・・手を・・・」
しかしそのワシの懇願に、非情な大臣の声が返ってくる。
「ご心配無く・・・アリシア姫も、すぐに国王の後を追う手筈となっておりますから」
「な、なん・・・だと・・・」
そして激しい憤怒の形相で大臣を睨み付けた数瞬後、ワシはフッと意識を失ってその場に倒れ伏していた。

父の部屋の大窓が視界の中で大きくなっていくにつれて、何とも言いようの無い胸騒ぎが胸の内に湧き上がってくる。
多くの生き物がその本能に刻み付けられている肉親の危機に対する予感のようなものが、先程から頻りに私の鼓動を早鐘のように忙しなく打ち続けていた。
そしていよいよ大きな窓から父の部屋に飛び込むと、瞬時に私の目の前に信じられない光景が広がっていく。
「そ、そんな・・・お父様!」
真っ赤な絨毯をその血で更に濃い紅へと染めている、変わり果てた父の姿。
2度に亘って背後から斬り付けられるという卑劣な手段で命を奪われた父は、その顔に苦悶というよりはただただ無念の表情を浮かべていた。
だが父の亡骸を見たグラムが、ふと首を傾げてその傍らに落ちていた長い剣へと手を伸ばす。

「こ、これはまさか・・・私の剣ではないか。しかし・・・どうしてここに・・・?」
美しい陶磁器のように透き通った白い剣先に、意匠の凝らされた金色の彫り細工。
それは間違い無く、120年前まで私が使っていた愛用の剣だった。
その王族を護る為に振るわれるべき剣がアリシア姫のお父上の命を奪ったという事実に、まるで騎士としての誇りを踏み躙られたかのような悔しい思いが溢れ出してくる。
「いたぞ!ドラゴンだ!」
「国王が殺されたぞ!」
だがその直後、まるで私が剣を拾い上げるのを待っていたかのように大勢の兵士達が部屋の中へと雪崩れ込んできていた。

この状況では、事情を知らぬ者には私がこの剣で国王を殺してしまったかのように映ることだろう。
つまり私は・・・謀反を企てた者達に陥れられたのだ。
謀反の首謀者を隠蔽する為に、大勢の兵士達に私が国王を殺したように見せ掛けるのが彼らの本当の目的だったのだろう。
「姫、とにかく今はこの場をすぐに離れましょう!」
「はい!」
そしてアリシア姫の方も自分の置かれている極めて危機的な状況に気が付いたのか、彼女は咄嗟の呼び掛けにも機敏に反応して私の背中へと素早く攀じ登っていた。

やがてアリシア姫の細い腕が首の周りにしっかりと回されたことを確かめると、私を殺そうと剣を抜いて飛び掛ってくる兵士達から逃れるように大窓の外へと勢い良く体を投げ出す。
そして不意に自由落下を始めた竜の巨体を引き止めるように翼を広げると、私は静かに町の上空へと舞い上がっていった。
バサッ・・・バサッ・・・
「ふぅ・・・危ないところでしたね・・・」
「ええ・・・でも、お父様が・・・」
だが悲嘆に暮れる姫に慰めの声を掛けようと背後を振り向いた次の瞬間、突然ヒュッという風を切る音とともに大きな木製の槍が私の脇を掠めて飛び去っていく。

「うっ・・・?」
そしてふと槍の飛んできた方向に目を向けてみると、これまで見たことも無い程に大きな弩のような装置に兵士の1人が先程の槍を装填していた。
見たところ凄まじい勢いで大槍を撃ち出す装置らしいのだが、よくよく周囲を見回してみると同じ物が町のあちこちに設置されている。
「あれは一体・・・?」
「あのバリスタが、かつてこの町を荒らしていた赤竜を打ち倒したのです。竜鱗さえ貫く威力があるそうですわ」
そしてそんな姫の言葉が終わらぬ内に、2本目の槍が今度は別方向から飛来する。

「うおっ!」
「きゃあっ!」
だが槍を避けようと体を捻った拍子に危うく姫を取り落としてしまいそうになり、私は慌てて体勢を立て直すと傷を負う覚悟で彼女の体を尻尾で支えてやっていた。
ズバッ!
「うぐっ!」
その瞬間、槍が掠った左脚から鋭い痛みが流れ込んでくる。
槍は木製でもその鏃の部分は硬い鋼で補強されているらしく、確かにこの重量と速度を以ってすればあの赤竜の鱗を貫いたというのも十分に頷ける話だった。

「グ、グラム!大丈夫ですか?」
そして私の上げた声で槍が当たったことに気付いたのか、姫が心配そうな面持ちを浮かべてそう訊ねてくる。
「ええ・・・ほんの掠り傷です。大したことはありませんよ」
とは言え、まともにあの槍を受ければ無事には済まないのも確かなことだった。
だがそうこうしている間にも、町のあちこちから私を狙って次々と大槍が飛んでくる。
恐らく連中は、アリシア姫諸共私を殺して全てを闇に葬るつもりなのだろう。
「ですが、早く逃げないと危険ですわ」
「分かっています。しかし町を離れるまでしばらくの間は、あの槍に狙われ続けることになるでしょう」
それを聞くと、姫は自分の為すべきことを理解したといった表情で私の首を力一杯抱き締めていた。
やがて町から離れるべく最も森が近い東の方角に顔を向けた私の前に、3本の大槍が一斉に迫ってくる。

「ああ、危ない!」
「姫、しっかり掴まっていてください」
次の瞬間、私は悲鳴にも似た姫の声にそう返事を返すと先程からずっと持ったままだった愛用の剣を構えていた。
更には大きく息を吸い込むと、それを目にも留まらぬ速さで3度振り回す。
ズバッ!ザクッ!ドシュッ!
元々からあったまるで手に吸い付くかのようにさえ感じられる馴染み深い感触に人並み外れた竜の腕力が加わり、小枝のように軽々と振るわれた長剣によって襲い掛かってきた3本の大槍は全て真っ二つに斬り落とされていた。
これでいい・・・槍の装填には少しばかり時間が掛かるだろうから、しばらくは逃げる時間も稼げることだろう。
そして予想通りに攻撃の手が休まったことを確かめると、私は姫とともに無事町を離れることに成功していた。

バサッ・・・バサッ・・・
「う・・・うぅ・・・」
やがて広大な森の上を飛ぶ私の耳に、翼を羽ばたく音に混じってアリシア姫のすすり泣く声が聞こえ始める。
ようやく危機を脱して元の落ち着きを取り戻した今になって、お父上を失った悲しみがぶり返してきたのだろう。
「姫・・・大丈夫ですか?」
「ええ・・・ですが、一体どうしてこんなことに・・・昨日までは、とても平和な国でしたのに・・・」
私はそんな姫の嘆きの声を聞くと、背後に向けていた視線をそっと前に戻していた。

「それが、人間の持つ野心や欲望の恐ろしさというものなのでしょう」
「人間の野心や欲望・・・ですか・・・?」
「かつてあの町を荒らしていた赤竜は、確かに凶暴で残酷なとても人間の手には負えない恐ろしい魔物でした」
その私の言葉に、姫がじっと耳を傾けている気配が確かに伝わってくる。
「ですが、その赤竜とて所詮は1匹の獣。退治されてしまえば、その脅威はいとも簡単に消え去るものです」
私はそのグラムの言葉に聞き入ったまま、極めて平穏無事に過ごしてきた自分の人生を振り返っていた。
確かに何時町を襲ってくるか分からない赤竜の脅威に怯えて暮らしていた人々にとって、赤竜の死によって訪れた平和な時代は何物にも代え難い尊いものだったことだろう。

「しかし野心や欲望という魔物は、時にどんな猛獣よりも危険で恐ろしい存在へと人間を変えてしまいます」
「それが、大臣や他の重臣達を狂わせてしまったと・・・?」
「恐らくは・・・ですから本当に醜悪な魔物が棲んでいるのは、もしかしたら人の心の闇なのかも知れません」
グラムのその言葉は、恐らく数日前までの私にはまるで実感の湧かない空虚な物言いに感じられたことだろう。
だが長年父を支えてきてくれた大臣達の信じ難い裏切りを目の当たりにした今となっては、それがまるでこの世の真実のようにさえ感じられてしまう。
そんな私にとっての唯一の救いは、心優しいドラゴンとなったグラムが傍にいてくれることだけだった。

「それで・・・姫はこれから一体どうなされるおつもりなのですか・・・?」
「私はもう、あの国には戻れないでしょう。王家の血を引いている以上、また命を狙われないとも限りませんし」
私はそう言うと、グラムの背に跨ったままそっと晴れ渡った空を見上げていた。
「ですがあなたは・・・私を王家という小さな鳥籠から解き放ち、大空を舞う翼まで与えてくださいました」
かつて子供の頃に思い描いた、決して叶うことは無いと諦めていた儚い夢・・・
その広い世界を思う存分旅したいという欲求が、やがて自由になった私の心を一杯に満たしていく。
「このまま、世界中を旅して回るというのはどうでしょうか?その・・・グラムさえよければの話ですが・・・」
「もちろんです。私は姫を護る従者・・・あなたの行くところなら何処へでも、喜んでお供致しましょう」
「ああ、よかった!」
そのグラムの返事に、私はまるで願い事が叶った子供のように満面の笑みを浮かべながら喝采の声を上げていた。

だがその数秒後、不意に姫が何かを思い付いたかのように私の首を抱き締めてくる。
「あ、でもその前に・・・1つだけ、私と約束してください」
「何でしょうか?」
「今から私は、もう王女の身分ではありません。だからこれからは姫ではなく、アリシアと呼んで頂けますか?」
成る程・・・今は落ち着きを取り戻した彼女も、きっと姫と呼ばれるとお父上のことを思い出して辛いのだろう。
私はそんな彼女の繊細な心情を理解すると、一際大きく翼を羽ばたきながら声高らかに叫んでいた。
「分かりました、アリシア。私もかつて人間であったことへの未練を捨て、あなたの為の翼となりましょう」

その日から、アリシアとグラムは気の向くままに様々な町や村を渡り歩くことになった。
巨大な黒いドラゴンを従えた美しい娘の行く先々では誰もが皆その訪問を諸手を上げて歓迎し、宴の席で語られる奇想天外な彼らの身の上話を聞いて多くの人々が手に汗握り胸を高鳴らせたのだという。
そして長い長い年月の末にようやく世界中を巡り終えると、彼らは人里離れた静かな山奥で幸せな生涯を送ることを共に誓い合ったのだった。

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