moedra Wiki - 子は三界の首枷
太古の昔・・・まだ世に人間という種が誕生して間も無い頃、広大な大陸の中部に広がる森の中で大きな2匹の雄竜達が互いにその縄張りを争っていた。
これはそんな彼らの間に起こった、世にも奇妙な物語の一節である。

「おのれあ奴め・・・今度遭ったら目に物見せてくれるぞ・・・」
深い森の中に佇む薄暗い住み処の洞窟から明るい光の差し込む外に足を踏み出すと、ワシは心中に渦巻く静かな怒りを憎き同胞へと叩き付けていた。
安定した気候と豊富な食料に恵まれたこの土地に身を移してからの数十年間、ワシはここからずっと西の方に棲んでいるらしい若い成竜とお互いの縄張りを争って激しい対立を続けている。
狩りに疲れて森の中にある小さな湖で喉の渇きを癒そうとすると3日に1度は奴に出くわし、その日は陽が沈むまで互いに爪牙を振るって戦い合うのだ。
しかし互いに成熟した同族同士故か縄張りの大小如きを巡って相手を殺すことには流石に抵抗があり、今以って両者の間に明確な決着はついていないというのが実際のところだった。

ガッ!
「ギャッ!」
獲物に向かって飛び掛かると同時に振り下ろした鋭い爪が、逃げ遅れた鹿の無防備な背に深々と突き刺さる。
そして深手を負って地面に倒れ伏した獲物に容赦無く牙を突き立てると、ワシは顎に咥えたそれを天を仰いでゴクリと呑み込んでいた。
ふむ・・・首尾良く腹も満ちたことだし、今日も水を飲みに行くとしようか・・・
あそこへ行けばまたあの若造と顔を合わせることになるやも知れぬが、仮にも自身の縄張りを主張する以上はあ奴との邂逅を避けて通るわけにもいかぬだろう。
そしてそんな思考に身を委ねると、ワシは昼下がりの陽光に深緑の鱗を煌かせながら狩りで渇いた喉を潤そうと何時ものように湖へと向かうことにしたのだった。

今日も、あの老いぼれはやってくるのだろうか・・・?
冷たく澄んだ水を湛える湖の畔で、我は巨大な黒翼をゆったりと広げながら食後の一時を過ごしていた。
そんな我の脳裏に浮かぶのは、数十年前から続いているある雄老竜との縄張り争い。
これまでにもお互いに相手に止めを刺すことのできる機会は幾度かあったものの、ただでさえ数の少なくなった同胞を殺してまで狩りの為の土地を手に入れることには流石の我も逡巡していた。
とは言えそんな甘さがこの小さな争いをここまで長引かせた原因でもあるだけに、何時かは我かあの老いぼれか、何れかが終止符を打たねばならぬ事案なのは確かなのだろう。

とその時、我は湖を囲む森の方から巨大な何者かの足音が聞こえてきたことに気が付いていた。
最早聞き慣れてしまったその馴染み深い音と震動に、休息に沈んでいた体が一気に沸き立つような感覚が走る。
「来たか・・・」
そして地面に蹲っていた体を起こすと、我は苦々しい顔でこちらを覗いていた深緑の雄竜と目を合わせていた。
「性懲りも無くまたもやワシの縄張りで堂々と羽を伸ばしておるとは・・・今日という今日は許さぬぞ」
「貴様こそ、一体何度我の安息を乱せば気が済むのだ。何時までも我が甘い顔をしているとは思わぬことだ」
そんな脅し文句とともにお互いに一歩も引くことなく睨み合いながら、地面を踏み締めた手足の爪に、固く噛み締めた牙に、怒りの溶け込んだ力が漲っていく。
まるで百年来の敵にでも遭ったかのようなやりとりだが、我らの邂逅は何時もこうして始まるのだった。

「グオアアアァァッ!」
「なっ!?」
だが次の瞬間、普段ならゆっくりと思案しながら間合いを詰めて来るはずの老竜が激しい咆哮とともに突然いきり立って我に飛び掛かってきた。
不意打ち・・・というよりはどうも、余程我の存在が腹に据えかねていたらしい。
とは言え元々この森に棲んでいた我の縄張りを掠め取ろうとする不埒な老竜に遅れを取るわけにもいかず、我は怒涛の勢いで迫ってくる巨竜の体を正面から受け止めていた。

ガッ!
やがて渾身の力を込めて振り下ろされた爪を老竜の懐に入り込んで何とかかわすと、無防備に曝け出されていた首筋へと鋭い牙を剥いて顎を突き出してやる。
しかし向こうもその程度の反撃は予想していたのか、すかさずもう一方の腕が我の顔を叩き落としていた。
バシッ!
「グッ・・・!」
全身を硬い鱗に護られている以上この程度の打撃は大した痛みさえ感じない程に効果は薄いのだが、それでも先手を取られてしまったという感触は否めない。
そしてそんな一瞬の交錯を経て再び雄竜と睨み合うと、息の詰まるような緊迫した時間が流れていった。

「普段は慎重な貴様が、今日は珍しく随分と興奮しているようだな?」
「フン・・・そう言うお前こそ、先程は微塵の躊躇いも無くワシの首を噛み砕こうとしたではないか」
確かに、我も咄嗟のことだったとは言えさっきの咬撃には確かな殺意を込めていたような気がする。
やはり長年続くこの終わり無き対立に、心の何処かでは些か辟易している部分もあるのだろう。
数十年前に謳歌していた安寧に満ちた生活を取り戻せるのなら、我はたとえ数少ない同族であるこの雄竜を殺すことになっても決して後悔はしないに違いない。
「そうだな・・・我らは・・・余りにも長く敵対し過ぎたのかも知れぬ」
「ワシを殺すつもりならそれでも良い・・・ワシも、お前に対する我慢には限界があるのでな」
「何を勝手なことを・・・我の縄張りを横から掠め取ろうとしたのは、貴様の方であろうが!」
我はそう叫ぶと、背に生えた大きな黒翼を羽ばたいてその巨体を宙高く浮き上がらせていた。
そして老竜の頭上から、全体重を掛けた爪撃を力一杯振り下ろしてやる。

ブォン!ドドオン!
大声を上げながら不意に勢い良く飛び掛かってきた若造の攻撃に、ワシは太い尻尾で地面を叩くとその反動を利用して素早く横に身をかわしていた。
それに一瞬遅れて、鋭い爪が空を切る音と巨竜が着地した轟音が連なって聞こえてくる。
「ぬぅ・・・老いぼれの癖に中々敏捷いものだな」
「生意気な口を利くな若造めが」
だが互いに強気な言葉を交わしながら如何に爪牙を振るっても、我らの決着はこれまでのように結局陽が落ちてもつくことはなかった。

「ハァ・・・ハァ・・・」
「フゥ・・・フゥ・・・」
数時間にも亘って休みなく戦い続けた体が、そろそろ休息を寄越せと激しい疲労を訴え始めている。
しかしそれは、相変わらず険しい表情を浮かべてワシを睨み付けている若造もまた同様らしかった。
既にお互いに息は荒く、何処を怪我したわけでもないというのに全身がまるで鉛のように重くなっている。
そして日没とともに湖の周囲に夜の闇が訪れると、ワシと若造はほとんど同時にその場にへたり込んでいた。
「ぬぅ・・・今日はここまでか・・・」
「またしても・・・決着はつかなかったな・・・」
そう言いながら、どちらからともなく疲れ切った体が求めるままに傍にある湖へとお互いに顔を近付けていく。
ゴク・・・ゴク・・・
やがて冷たい湖水が渇いていた喉を潤すと、ワシはようやく息を落ち着けて若造の方へと視線を向けていた。

「それにしても・・・」
そんなワシの声に、若造が湖水に突っ込んでいた顔をゆっくりとこちらに振り向ける。
「結局最後はこうしてお前とともに水を飲んで別れるのでは、ワシらが争うことに意味などあるのだろうか?」
「確かに・・・この湖は我の縄張りだが、我らが争わずに済むのなら貴様と共有するのも良いかも知れぬな」
「何だ、随分とあっさり折れるのだな。もう少し反発するかと思ったのだが・・・」
ワシがそう言うと、若造が大きく息を吐いてその場に体を沈み込ませていた。
「正直、我も貴様との対立には飽いていたところなのだ。ただ、他に良い退屈凌ぎが無かったものでな・・・」
そう言いながら、若造が何処か侮蔑を含んだ表情をその顔に浮かべる。
「もし近くに雌竜でも棲んでおれば、何十年も貴様のような老いぼれになど構ってはいなかっただろうな」
「随分と好き放題言ってくれるではないか。だが、雌竜ということなら出会える可能性が無いわけではないぞ」
だがそんなワシの言葉に、途端に若造がさっきまでとは全く違う興味有りげな視線をこちらに向けていた。

「本当か・・・?」
「保証はできぬがな・・・他の同胞達に出会える可能性のあるところを知っている、というだけの話よ」
「一体何処なのだ?」
ほんの数分前まで殺意を剥き出しにして争い合っていたとは思えぬそんな彼の態度の余りの変わりように、何だか不毛な数十年を過ごしていたのではないかという思いがつい脳裏を過ぎってしまう。
しかしそれを態度に出すことだけは何とか堪えると、ワシは大きく息を吐いてその場に蹲っていた。

「ここから東に広がる海を越えた先に、南北に伸びる大きな島があってな・・・」
そんなワシの話を一言も聞き漏らすまいとしてか、若造がこちらを見つめたままじっと無言を保っている。
どうやら、彼はワシが思っている以上に余程雌竜に飢えているらしい。
「その島の北東部に、とある巨大な鍾乳洞があるのだ」
「鍾乳洞、だと?」
「そこには湖底まで見通せる程の澄み切った7つの地底湖があり、かつてそこに1匹の白龍が棲んでいたという」

だがワシの言った白龍という言葉に、彼は意外な程に大きな反応を示していた。
「白龍ということは、神龍の縁の者だな?だが、かつて棲んでいたとはどういう意味だ?」
「今はもうおらぬ・・・というよりも、その洞窟の最奥で自らの姿を8つ目の白き泉へと変えたのだそうだ」
いまだワシの話の真意が掴めぬのか、若造が怪訝そうな表情を浮かべながらも早く先を続けろという無言の訴えを投げ掛けてくる。
「その白き泉に身を浸した者は、生涯に1つだけ自身の心からの願いが叶うと言い伝えられておる」
「随分と眉唾物の話ではないか・・・それにその話が、一体どうして雌竜との出会いに繋がるというのだ?」
「言っておくが、願いが叶うというのは本当だ。ワシのこの翼も、数十年前にその泉で得たものなのだからな」
そう言って乳白色の翼膜が張った大きな翼を若造の前に広げて見せると、彼が余りの驚きに目を剥いていた。
「な、何・・・?では貴様は・・・元々は翼を持たぬ種族だったのか?」
「そうだ・・・その泉で願を掛け、ワシは800年近い生涯の中で初めて自らの翼を得るに至ったのだ」

老竜の言ったそれは、到底俄かには信じられぬ話だった。
しかしもし本当に彼がその泉で願い叶ってそれまで無かった翼を手に入れたのだとしたら、この歳になってから初めて海を越えて我の棲むこの森にやってきたという事実にも一応の整合性があることになる。
「しかしその話が本当なら、人間達とてその洞窟を放ってはおかぬのではないか?」
「それはそうなのだが、その洞窟は余りにも深く険しいのでな・・・」
確かに、7つもの地底湖があるということは相当に広大で高低差のある険しい洞窟なのだろう。
「闇の中幾つもの湖を越えて最奥まで無事に辿り着けるのは、我ら竜族を除けば精々蝙蝠くらいのものだろう」
「成る程・・・つまりそこは、自然に竜族達の集まる場所になった、ということか?」
「その通りだ・・・それ故かどうかは知らぬが、人間達の間では"龍泉洞"という名で呼ばれておるらしい」

神龍の一族が自らを願いの叶う湖へと変えたという鍾乳洞か・・・
そんな不思議な場所なら、確かに他の同胞達に出会うことができる確率はかなり高いのかも知れない。
数十年間に亘るこの老いぼれとの対立もしばらくは休戦ということなのであれば、それに変わる新たな退屈凌ぎとして雌竜を探してみるのも悪くはないだろう。
「ふむ・・・それなりには面白そうだな・・・案内してくれるのか?」
「良かろう。ならば今夜はここでともに夜を明かし、明朝には東へ向かおうではないか」

我はそんな老竜の提案に小さく頷くと、ゆったりとその場に身を沈めていた。
長らく我の縄張りを奪おうとする敵だと思って接してきた相手と行動を共にするというのに、どういうわけか不思議な高揚感が心中に湧き上がってくる。
世に生まれ落ちて500年以上も孤独に過ごしてきたというのに、もしかしたら番いとなる伴侶が見つかり2匹で仔竜を育てる幸せな暮らしができるのではないかという淡い期待が、我にそうさせるのだろうか?
だがそんな思いとは裏腹に早くも眠りに落ちたらしい老竜の姿を目にすると、我も体を丸めて心地良い眠りの世界へとその意識を落ち込ませていった。

翌朝、我は日の出とともに起き出すと同じように目を覚ましていた老竜とともに東の空へと飛び立っていた。
正面に見える眩い朝日が、寝起きの体には何とも堪える鋭い光の雨を投げ掛けてくる。
「その目的の場所までは、ここからどのくらい掛かるのだ?」
「余程急がぬ限りは、恐らく半日近く掛かるだろう」
半日か・・・
しかし逆に言えば、この老竜もそれだけの遠い旅路の果てにようやく我の森へと辿り着いたのだろう。
それを考えれば、貴重な水場を巡って我と数十年にも及ぶ対立を続けた彼の執念も少しは理解できる。
「まあ、今日はワシらが初めて肩を並べて空を飛ぶのだ。焦らず、のんびりと行こうではないか」
「フン・・・・それもそうだな」
だが早く雌竜に会いたいと思っている心中を老竜に見透かされたようで、我は荒々しく鼻息を吐くと黙って彼とともに真っ青な大海原の上で大きな翼を羽ばたき続けていた。

それから数時間後・・・
「む・・・陸が見えてきたな・・・あれが貴様の言っていた島か?」
そう言った我の目に映っていたのは、遠い水平線の向こうから徐々に近付いてくる新たな陸地の影。
しかし島と聞いて想像していたものよりも遥かに大きなその姿に、我は内心の驚きを隠すことができなかった。
「そうだ。一見広大に見えるだろうが、南北に長いだけの島でな・・・昼過ぎには目的地に辿り着けるだろう」
「そ、そうか・・・」
生まれた時から翼を持ちながら今日まで故郷の森からはほとんど出たことのなかった我にとって、新しい土地に足を踏み入れることは大きな不安と緊張を伴う初めての経験だったのだ。
そして眼下に山林豊かな陸地を望みながら更に数時間飛び続けると、ようやく前方に深い洞窟の入口が見えてきていた。

「着いたぞ。あれが龍泉洞だ」
やがて老竜とともに大地に降り立った我の前に口を開けていたのは、悠久の時の流れの中でゆっくりと形成されていったのであろう自然の大洞窟だった。
自身の住み処とする為に我らが山中の岩地を掘り広げたりして作った平坦な洞窟とは違い、流水の浸食によって削り取られていったらしいゴツゴツとした荒い岩の壁面が延々と奥にまで続いている。
「まだ先は長いぞ。中は一切の光が届かぬ完全な暗闇だ。それに荒い壁や天井のせいで、翼も用を成さぬ」
「つまり、冷たい地底湖を泳いで行くしかないということか」
我はそう言うと、ゆっくりと慎重な足取りでその深い鍾乳洞の入口へと足を踏み入れていた。
勾配の急な坂道をそろそろと下っていくと、次第に周囲を押し包む闇が深く濃くなっていく。
「おお・・・これは・・・」
そしてすぐに地底湖が見えてくると、闇の中でも見える竜眼が我の眼前にその美しい光景を映し出していた。
深い紺碧の水を湛える深い湖はその湖底までがはっきりと見通せる程に澄んでいて、ひんやりとした冷たい空気がまるで暗闇の奥に吸い込まれるかのような静寂を作り出している。
それは言葉では言い表せぬ程に鋭く洗練された、闇と水が作り出す孤独な別世界だった。

「なんと美しい・・・が・・・同時に何処か恐ろしい光景でもあるな・・・」
「ここはかつての神龍の住み処・・・本来であれば、並の生き物には近寄ることさえできぬのだろうな・・・」
以前にここに来た時のことを思い出しているらしい老竜の感慨深げな言葉を背に受けながら、底が見えるせいで見た目以上に深く見える湖の中へと我も静かに体を浸していく。
チャポ・・・
「気を付けた方が良いぞ。周囲の岩肌は鋭く研ぎ澄まされておる。下手に触れれば、怪我は避けられぬからな」
「そんなに危険なのか?」
「ワシも前に来た時は、最奥の泉に辿り着くまでに随分と多くの生傷を拵えたものだ」
確かに、湖底やその周囲を覆っている岩壁は無数の凹凸や尖った穂先で完全に埋め尽くされていた。
如何に竜族と言えど、鱗に覆われていない場所を擦ったら皮膚や皮膜などは容易に切り裂かれてしまうだろう。
そしてそんな危険な岩壁には極力触れぬように慎重に湖中へ泳ぎ出すと、我は刺すように冷たい地底湖の中を老竜とともに闇の奥へと向かったのだった。

時折川のように湖水が流れている細い道や平坦で滑りやすい鍾乳洞の通路を抜けてなおも静かな暗闇の中をそろそろと進んでいくと、やがて天井の高い大きな部屋のような場所が見えてくる。
足元にはやはり冷たい湖水が緩やかに流れていて、この先に続く別の地底湖へと流れ込んでいるようだ。
「この洞窟は、一体何処まで続いておるのだ?」
「詳しい深さはワシにも判らぬ。この深い闇の中では、ワシとて辛うじて岩壁の輪郭が捉えられるだけだしな」
確かに、長年暗い洞窟で暮らしてきた我にもこれ程までに光の遮断された闇に目を慣らすのは至難の業だった。
時折何処かで水の滴り落ちる微かな音が複雑な岩壁と静かな水面に乱反射して、冷たい静寂の中にほんの小さなざわめきにも似た雑音を紛れ込ませてくる。
まるでこの世の物とは思えないその寂しげな光景に、我は生まれて初めて戦慄を覚えていた。

「本当に、こんなところにやってくる同胞がいるのか?」
「必要に迫られればな・・・尤も、1度この闇と静けさを味わった者であれば2度と入ろうとは思わぬだろうが」
まるで地の底へと続いているかのようななだらかな坂道を慎重に下りていくと、ものの数分もしない内にまたしても平坦な水面を湛える新たな地底湖が見えてくる。
そして先程と同じくそっと湖水に身を浸すと、我はその余りの冷たさに思わず背後の老竜を睨み付けていた。
「これだけのことをしてもし万が一にも雌竜に会えなかったら、我は貴様を終生恨むぞ」
「ワシの方こそ、特に用もないのにまたこの洞窟へ足を踏み入れているのだぞ?女々しいことを抜かすでない」
だがそう言われてしまうと、悔しいことに我には反論の余地が無い。
「うぬぅ・・・」
何時まで経っても終わりの見えてこない無限の暗闇に包まれて、我は情けないことに少しずつ自身の心が弱っていくのを感じていた。

それから、一体幾つの湖を越えた頃だろうか・・・
昨日の昼から何も食べていないせいで酷い空腹を訴え始めた腹の虫を抑えようと、我は時折透き通った地底湖の水をゴクゴクと飲んでいた。
あの森の湖のそれとは全く違うまろやかな甘みのある硬水が、空っぽの腹に心地良く染み渡っていく。
「ふぅ・・・それにしても、ここの湖の水は随分と美味いのだな?」
「恐らくは気の遠くなるような長い時間を掛けて、幾度と無く大地に浄化されてきた水なのだろうな」
「成る程・・・神龍の棲んでいた湖というだけあって、水もまた特別というわけか」
そして腹一杯に飲んだ水で何とか空腹を誤魔化すことに成功すると、我はこれまでよりも更に入り組んでいるらしい洞窟の奥の方へと視線を移していた。

「こんな道程が、まだまだ続くのか・・・」
「いや、もう白泉は近いだろう。先程越えたのが7つ目の湖だからな・・・後は、岩地を抜けるだけのはずだ」
それを聞いて、我は疲れ切っていた体に幾許かの精気が戻ってきたのを感じていた。
この老竜と半日戦い合ったとしてもこれ程までに疲労を溜め込んだことは無かったというのに、激しい寒さと静寂と闇の持つ凄まじい負の力に我ももう消耗に消耗を重ねてしまっている。
そして返事をする体力も惜しい思いで少しばかり狭くなった鍾乳石の森の中を抜けていくと、やがてその奥に比較的小さな、しかし不思議にぼんやりと淡く光る真っ白な泉が不意にその姿を現していた。
「お・・・おおお・・・」
何という・・・幻想的な光景なのだろうか・・・
つい先程までの絶望的な漆黒と無音の世界から一転して、ほんのりと包み込まれるような母性的とも言える優しい光が高い天井までをゆらゆらと照らしている。

「他の同胞は・・・おらぬようだな・・・」
「何、気長に待つとしよう。それに、その白泉には神龍の生気が満ちておる。浸かれば疲労も消え去るだろう」
「本当か?」
そんな老竜の言葉に後押しされるように、我は白く輝くその奇妙な泉へそっと身を沈めていた。
「おお・・・」
冷たい地底湖の水とは違い、まるで温泉のようなじんわりとした温もりが冷えた体を程よく温めてくれる。
しかもさっきまで感じていた疲れがまるで嘘のように消えてなくなり、我は余りの心地良さにうっとりと溜め息を吐いていた。
後は、これで雌竜がこの場におれば何も言うことは無いのだが。
そして首尾良くここにやってきた雌竜と番いになることができた暁には、可愛い仔竜を産んで2匹でそれを育てる幸せな暮らしがしたい・・・
だがそう思った次の瞬間、我は自身の体に奇妙な変化が起きたことに気が付いていた。

何だこれは・・・?
我の下半身にある、肉棒を収めた細い股間の割れ目・・・
その中が、異様なまでの熱さと何かが蠢くような感触に包まれていく。
しかも我に続いて疲れを癒そうと白泉に入ってきた老竜の姿を目にした次の瞬間、我は自分でも理由の分からぬ衝動に駆られて彼に飛び掛かっていた。
ザバァッ!
「んなっ・・・何をするのだ!?」
そんな余りにも突然の我の肉薄に、驚いた老竜が素っ頓狂な声を上げる。
だが我は意表を衝かれて硬直していた老竜を半ば力任せに泉の岸へと押さえ付けると、そのまま彼の股間に走った細い割れ目の中へと自らの手を突っ込んでいた。

ズボッ
「くあっ!?よ、止せ・・・止さぬかっ!」
長くて過酷な洞窟を通ってきた疲れを感じて彼と同じく白泉に浸かった途端に、ワシは何の前触れも無くいきなり飛び掛かってきた若造に驚いてほとんど抵抗する間も無く水縁に組敷かれてしまっていた。
そしてあっという間に股間の割れ目へその太い腕を突き入れられると、隠されていた肉棒を硬い鱗でザラ付いた彼の手に容赦無く扱き上げられてしまう。
ズリュリュリュッ!
「がっ!?」
更には無造作に与えられた刺激に膨張を始めた肉棒を半ば無理矢理に外へ引き出されると、何を思ったのか彼が自身の股間をワシの肉棒へと擦り付けていた。
「や、止めぬか!き、気でも触れたかっ・・・」
だがそう叫びながらようやく反撃の意思が固まった次の瞬間、すっかり屹立した怒張が彼の割れ目の中へと潜り込んだ感触が伝わってくる。

ジュブブブブ・・・
「ぐ・・・あ・・・な、何だ・・・これはぁ・・・」
その刹那、予想だにしていなかった快感がワシの全身を包み込んでいた。
まるで雌・・・そう、雌の竜膣に肉棒を突き入れたかのような甘美ながら絶望的な程に心地良い感触が、雄竜であるはずの彼の割れ目に呑み込まれたワシの肉棒をすっぽりと包み込んでいる。
彼の方はというと何処か熱に魘されたような呆けた表情を浮かべていたものの、自身の足に巻き付いた尻尾と太い両腕だけはワシの自由を奪うことに全力を傾けているらしかった。

グジュッ!グジュッ!グジュッ!
「うがががっ・・・」
だが何とか彼の拘束から逃れようと身を捩ったその瞬間、まるで肉棒が押し潰されるのではないかと思えるような凄まじい圧搾が幾度と無く繰り返される。
巨大な雌竜に制圧されて無慈悲に精を搾り取られるかのようなその屈辱的な快感に、ワシは目を剥いて体中を痙攣させながら思わず屈服の証を彼の中へと放ってしまっていた。
ドブッ・・・ドグ・・・ドグ・・・
「あ・・・が・・・ぁ・・・」
射精中の肉棒までもが強烈な蠕動と締め上げに蹂躙され、成す術も無く最後の一滴までもが搾り尽くされる。
そして長い長い快楽の余韻がまるで引き潮のように去っていくと、ようやく若造がワシの体を離していた。

「う・・・うぬ・・・我は・・・一体何を・・・?」
「何をだと?ワ、ワシにあれだけのことをしておいて、まさか覚えておらぬとでも言うのか?」
「わ、分からぬ・・・この泉に浸かった途端に意識が薄れて・・・気が付いたら貴様を押さえ付けていたのだ」
その大層狼狽している様子から察するに、どうやら嘘を言っているわけではないらしい。
となると、さっきの現象はこの白泉が彼の何らかの願いを叶えた結果である可能性が高かった。
「お前が覚えておらぬのなら・・・ワシにしたことはまあいい・・・それよりも、一体何を願ったのだ?」
「な、何?」
「お前は何かを願ったのだろう?この白泉は、浸かった者の願いを1つだけ叶えると、昨日話したではないか」
そんなワシの言葉に昨夜のやり取りを思い出したのか、彼が記憶を辿るようにそっとワシから視線を外す。
そしてその顔に何かを思い出したかのような変化が浮かんだかと思うと、途端に彼が驚愕を滲ませるようにその目を大きく見開いたのだった。

「どうした?何をそんなに驚いておるのだ?」
「い、いや・・・何でもない。気にするな・・・」
「気にするなだと!?先程のあれを・・・いや・・・深入りはせん方が良さそうだな・・・」
恐らくこの若造は、それと知らずに随分と突飛なことを願ってしまったのだろう。
だが彼が正気に戻った今、これ以上追求すれば彼が覚えていないと言った先程の行為を図らずも掘り返してしまう可能性が高かった。
ワシにとっても少なからず屈辱的な出来事だっただけに、このまま知らぬ振りをしておいた方が良いのだろう。
そしてお互いに何処か気まずい思いをしながら白泉に浸かって雌竜の訪れを数時間待ってみたものの、やはりこんな深い洞窟の奥にまでやってくる者はもういないのか誰かが姿を見せる気配はついに無かった。
「結局、雌竜は現れなかったな・・・」
「まあ、そう気を落とすでない。別にここだけが、雌竜と会える場所というわけでもないしな」
「ふむ・・・今日は潔く諦めて住み処に帰るとするか・・・またこの闇の中を戻るのは億劫だがな・・・」

やがて若造とともにまた数時間の険しい道のりを経てようやく外に辿り着いた頃には、既に一夜明けて早朝の薄暗い空が頭上に広がっていた。
「何だか、光を浴びるのも随分と久しい気がするな」
「そうだな・・・だが、一時の暇潰しとしてはなかなか悪くない体験だったぞ」
そう言いながら、彼がバサッという音とともに大きく翼を広げる。
そしてワシもそれに続くと、遠い海の向こうにある故郷目指して晴れ渡った空へと飛び立ったのだった。

それから2週間程が経った頃・・・
ワシは何時ものように昼過ぎの狩りを終えると、森の中の湖でゆったりと食後の一時を過ごしていた。
あの若造とともに龍泉洞から帰ってきて以来、この湖で彼の姿を見掛けたのは最初の数日だけ。
ここ10日程は、何時来ても寂しい湖畔がワシを待っている日々が続いていた。
別に今はもう縄張りを争っている間柄ではないから彼の方もわざわざワシに対抗してここに来ることはしていないだけかも知れないのだが、それにしても頻繁に目にしていた顔を見ないのは調子が狂うものだ。
とは言え彼の住み処の場所も知らぬだけに、ワシの方から彼を訪ねることもできないのではどうしようもない。
だがぼんやりとそんなことを考えていると、夕方近くになってから何処か疲れ切った表情を浮かべたあの若造が不意に深い森の中からのそりとその姿を見せていた。

「お前か・・・どうかしたのか?久し振りに顔を見せたと思えば、随分とやつれた様子だが・・・」
「貴様にもそう見えるか?だが、我の口からでは上手く説明できぬ・・・とにかく、我と来て欲しいのだ」
そう言うだけ言っておもむろに踵を返した彼の後を慌てて追っていくと、湖から10分程歩いたところに聳え立つ岩壁に彼の住み処である深い洞窟があった。
そして彼とともにその暗がりの中へと入ってみると、その奥に奇妙なものが見えてくる。
無造作に枯れ木や土を盛り付けただけの温床のような土台の上に置かれた、薄く灰色掛かった卵型の物体・・・いや、それは正に・・・ドラゴンの卵そのものだった。
「何だあの卵は・・・?一体何処から盗んできたのだ?」
「違うのだ・・・あ、あの卵は・・・この我が産んだ物なのだ・・・」
恐らくは相当に言い難かったであろうその言葉を何とか絞り出すと、彼が普段の尊大な態度からは想像も付かないような弱り切った表情をワシに向ける。

「お前が産んだ卵だと?どういうことだ?」
「つ、つまりだな・・・その・・・我らで龍泉洞に行った時のことを覚えているだろう?」
そしてワシが静かに頷いたのを確認すると、彼がおずおずとその先を続けていた。
「あの時・・・我は例の白泉でとんでもないことを願ってしまったのだ」
「そう言えば、ワシがそれを訊いたときも大層驚いておったな・・・一体何を願ったと言うのだ?」
「仔竜を産んで、2匹でそれを育てたいと考えてしまってな・・・も、もちろん、雌竜とだが・・・」
成る程・・・それがどういうわけか、雄竜であるこの若造が仔を産む方向に叶えられてしまったということか。
だがもしそうだとすると・・・
「それで、まさかとは思うが・・・ワシにお前の子育てを手伝えと言うのではないだろうな?」
「き、貴様と我との間にできた子供なのだぞ?他に一体、誰を頼れと言うのだ!?」
それを聞いた瞬間にワシは何だか気が遠くなるような感覚が脳裏に走ったものの、確かにそう言われてしまうとワシとしても無碍に断るのは心が痛んでしまう。
とは言えワシも実際に仔竜を育てたことは無いだけに、半ば諦観とともに小さく頷いたワシの胸中にはただただ先行きの見えない不安だけが際限無く湧き上がっていたのだった。

「それで・・・このワシに一体何をしろというのだ?」
「取り敢えず・・・その卵を見張っていてくれぬか?ここ10日程、寝ずの番をしていたのでな・・・」
「な、何・・・?」
寝ずの番をしていた・・・だと?
では最近あの湖で彼の姿を見掛けなかったのは、卵を産んでからずっと張り付いて見張っていたからなのか?
「自分で産んだ卵がどうしても気になってな・・・あれ以来狩りにも出掛けておらぬのだ・・・」
「まさか、飲まず食わずで10日も寝ておらぬとはな・・・その憔悴振りはそれが原因か」
如何に竜族とはいえ、飢えや渇きには耐えられても何日も睡眠を取らずにいるのは容易なことではない。

「とにかく・・・後は頼んだぞ・・・」
「お、おい・・・」
若造はそれだけ言うと、ドサッとその場に崩れ落ちた姿勢のまま深い眠りに落ちていた。
10日も見守り続けた卵から一時目を離してでも湖までワシを探しに来たのは、もう眠気と疲労が限界に達していたからなのだろう。
「ぬぅ・・・仕方無い・・・一応、ワシの子供でもあることだしな・・・」
そして大きな寝息を立てている若造の姿を一頻り眺め回すと、ワシは温床の上に安置されている大きな卵にその視線を移していた。
この若造がこれを一体どうやって産んだのかなど想像も付かないが、確かにこの硬い殻の中に息衝く命の鼓動が感じられる。
そう考えると、彼がどうしてこんなに消耗する程の無理をしてまでこの卵を見守り続けたのかがワシにも少しだけ理解できるような気がした。

それから数時間後・・・
ワシはすっかり暗くなった洞窟の中で、心地良いまどろみに身を任せながら夢と現の境を彷徨っていた。
耳に聞こえるのは依然として洞窟内の空気を大きく震わせている彼の寝息だけで、その他は外の風の音さえもが鳴りを潜めて奇妙な静寂を作り出している。
だがそんな静かな世界の中に、不意にピシッという奇妙な雑音が割り込んできていた。
「・・・何だ・・・?今の音は・・・」
そして半ば閉じ掛けていた目を開けて周囲を見渡すと、温床の上に置かれた卵に小さなヒビが入っている。
ピキッ・・・ピシ・・・
更には見ている間にもジグザグの亀裂が大きく広がっていくと、やがてパキッという乾いた音を残して卵が真っ二つに割れていた。
まさか・・・産まれたのか・・・?
明らかにそれ以外考えられないというのに、眠気故かボーッとしていた頭が目の前で起こった現象を理解するのに余りにも長い時間を要してしまう。
「キュウ・・・」
だが続いて聞こえた甲高い仔竜の鳴き声に、ワシはハッとして割れた卵の元へと駆け寄っていた。

「おお・・・何と愛らしい・・・」
次の瞬間、擂鉢状になった枯れ木の温床の中でもがいている小さな仔竜の姿が目に入ってくる。
あの若造に似て真っ黒な鱗を纏っているのが少々癪に触るが、母親代わりのあ奴に似ているのはこの際仕方の無いことなのだろう。
それよりも、早く彼を起こさなくては・・・
そしてそう思い立つと、ワシは相変わらず呑気に眠りこけている彼の顔を尻尾で思い切り叩いてやった。
バシッ!
「あぐっ!」
10日振りの睡眠に心地良く眠れていたところを乱暴に叩き起こされて、若造が如何にも不機嫌そうな表情を浮かべながら顔を上げる。
だがワシの顔が自分ではなく卵の置かれていた温床の方に向いていたことを見て取ると、途端に彼が状況を察して飛び起きていた。

「う、産まれたのか!?」
やがてワシが想像していたのと一言一句違わぬ叫び声を上げながら、若造が弾かれたようにワシの隣へと飛び込んでくる。
そして粗雑な温床の中で転がっている小さな仔竜の姿を目にすると、彼はワシから見ても危なっかしいと思えるフルフルと震えた手付きで自分の娘へと手を伸ばしていた。
「これが・・・我の娘か・・・」
「迂闊に触らぬ方が良いぞ。母竜でさえ、我が子を握り潰さぬように極力抱き上げたりはせぬらしいからな」
「そ、そうなのか?」
もちろん、嘘に決まっている。
だがこんなにも緊張した様子では何をしでかすか分かったものではないから、一応下手に近付かぬように釘は刺しておいた方が良いだろう。

「きゅきゅっ!きゅうぅ?」
目の前でどうして良いか分からずに固まっている2匹の雄竜の姿に、やがて仔竜が怪訝そうな表情を浮かべながら甲高い声を漏らす。
「取り敢えず・・・何をしてやれば良いのだ?まさか、このまま放っておくわけにもいかぬだろう?」
「まあ落ち着け。まだ深夜なのだぞ?黙っておれば直に眠るだろう。腹が減っているわけでもなさそうだしな」
そんなワシの提案に、彼が心底心配そうな視線を仔竜へと注いでいた。
「本当に大丈夫か?」
「見たところまだ自力で温床から這い出すこともできぬようだし・・・取り敢えず、朝まで待つとしよう」
そしてそう言いながら眠りにつこうと温床の傍に身を丸めると、彼もようやく納得したのか自分の寝床ではなくワシと同じように温床のすぐ傍へとその身を沈める。
全く・・・これではどちらが父親でどちらが母親なのか判らぬな・・・
しかし幸いなことに仔竜もワシらの様子を見て今は眠った方が良いことに思い至ったのか、きゅぅ・・・というか細い鳴き声を残して深い温床の底でその小さな体を横たえたのだった。

翌朝・・・
洞窟の外から差し込む朝日の気配に、ワシと彼はほとんど同時に目を覚ましていた。
そしてお互いに一瞬目を合わせると、そのまま反射的に傍にあった温床へとその視線を移す。
果たして、温床の底では真っ黒な鱗を纏った可愛らしい仔竜がスースーと小さな寝息を立てていた。
「おお・・・改めて光の下で見ると・・・この娘の何と愛くるしいことか・・・」
「ふむ・・・そうだな・・・まだ幼い雌とは言え、ワシに似て随分と凛々しい顔付きではないか」
「何だと?この子は我に似たのだぞ!」
半ば予想した通りのその彼の反応に、ワシも思わず含み笑いが漏れそうになるのを必死で堪える。
「お前に似たのは鱗の色だけだ。翼の形も、ワシのにそっくりだぞ」
「貴様は元々無翼の種であろうが。大体我と貴様の翼の形にさえ、見分けなど付かぬというのに何を言うのだ」
「ふ・・・ふきゅ・・・」
だが心地良く眠っていた傍で喧しく口喧嘩をされては流石の仔竜も気分を害したのか、何処か抗議の意思を含んだ小さな鳴き声がワシと彼の睨み合いを一瞬で切り裂いていった。

「む・・・起きたようだな」
「お前が大声で騒ぐからだ」
やがて無意識の内にお互いに牽制しながらも目を覚ました仔竜に目を向けると、小さな牙の生えた口をパクパクさせながら仔竜が物欲しげにワシらを見上げている。
「どうやら、ワシらの可愛い娘は空腹のようだな。美味い餌が欲しいらしい」
「では、我が狩りに行ってくるとしよう」
「お前は10日も飲まず食わずで昨日まで酷く弱っておったであろうが。そんな体で獣が捕らえられるのか?」
だがそう言うと、彼が挑むような目付きでワシを睨みながらも素直に引き下がっていた。

「では、貴様が行くのだな・・・?」
「もちろんだ。何しろ、ワシがその娘の"父親"だからな」
「ぐぬぬ・・・」
雄であることの矜持が些か傷付いたのか、そんなワシの言葉に彼が何処か悔しそうな表情を見せる。
「まあそう不貞腐れることも無かろう?ワシが留守の間に、存分に娘と触れ合えば良いではないか」
「フン・・・貴様が獲ってきた獲物は、"母親"の我が娘に与えるからな!」
「全く、面倒な奴め・・・好きにするがいい・・・」
そして最後まで若造と意地を張り合いながら洞窟の外に出ると、ワシは手頃な獲物を探して明るい森の中に駆け出したのだった。

その日の昼過ぎ頃・・・
ワシは首尾良く仕留めた大きな2頭の鹿と仔竜の為の野ウサギを背に乗せたまま若造の住み処へ戻ると、一体何時からそうしているのか温床の中で眠る娘の姿を満足げに見つめていた彼の背に小さな声を掛けていた。
「戻ったぞ」
「随分と遅かったではないか。娘も空腹に耐え切れずに眠ってしまったぞ」
「娘ばかりで自分の食事も考えておらぬであろうお前の分の獲物も獲ってきてやったのだ。文句を抜かすな」
そしてそう言いながら、彼の目の前に3つの戦利品を並べてやる。
だがまさか自分の分の食料もワシが獲ってくるとは思っていなかったのか、彼の顔には明らかに驚愕の表情が貼り付いていた。
「な、何?」
「明日からは、お前とワシとで交代で狩りに出掛けるのだ。空腹で体が動かぬなどと言い訳はさせぬぞ」

ゴロゴロゴログルルルル・・・
しかしわざわざそんな釘を刺してやるまでもなく、既に空腹も限界に近かったのか大きな獲物を目にした途端に彼の腹が盛大な音を立てて鳴り響く。
「うっ・・・」
「フン、食欲は正直なものだな・・・それ、遠慮せずに食うがいい」
ワシがそう言うと、彼は些か悔しそうな表情を浮かべながらも素直に目の前の鹿に噛り付いていた。
だが時折こちらの動向を窺うように顔を上げる様子から察するに、ワシに対して何かを警戒しているらしい。
やがてしばらく考えた末にその理由に思い当たると、ワシも苦笑を浮かべながら自分の分の獲物に食らい付く。
「そう心配せんでも、娘への餌付けはお前にさせてやると言うのに」
それを聞いて、今度こそ彼が自分の食事に集中し始めていた。
やれやれ・・・生まれたばかりの仔竜よりも手間の掛かる奴だ。
しかしそう思うと同時に、つい最近まで敵対していた生意気な若造の意外な一面に何だか気分が和んでしまう。
そしてお互いに無言のまま食事を終えると、いよいよ娘に餌を食べさせる時間がやってきたのだった。

何処か緊張した面持ちで地面に残っていた野ウサギを拾い上げては温床で眠る娘へと恐る恐る近付いていく彼の余りに滑稽な様子に、思わず顔がニヤけてしまうのは自分でもどうしようもない。
子供への餌付けなど親子の間では特別でも何でもない日常の光景の1つでしかないというのに、何かとても恐ろしいことをしようとしているかのような彼の臆病振りがワシには堪らなく可笑しかったのだ。
そして気持ち良さそうに眠っている娘を起こそうと彼が手を伸ばし掛けた瞬間、ワシの中でつい子供っぽい悪戯心が甚く刺激されてしまう。
「気を付けるのだぞ。眠っている子供を無理矢理起こすと、嫌われることがあるらしいからな」
それを聞いた彼の手が突然ビクッと震えて止まってしまう。
「ほ、本当か?」
だが声を押し殺してクックッと笑っていたところを彼に目撃されてしまい、途端に彼の顔に僅かながら怒りの感情が浮かんでいた。

「き、貴様、我を馬鹿にしているのか!?」
「いや何・・・お前が余りにも臆病なのでつい、な・・・」
「ぬぅ・・・後で覚えておれよ・・・」
しかしお陰で過度の緊張は解けたのか、彼が小さな仔竜の体をゆさゆさと優しげに揺する。
「ふ・・・ふきゅ・・・?」
「それ、お待ちかねの餌だぞ」
そして彼が数回咀嚼して柔らかくした獲物の肉を娘の前に近付けてやると、途端に目を輝かせた彼女がその餌に飛び付いていた。
「きゅきゅっ!」
小さな口で何度も肉を食い千切りながら、美味しそうな笑みを浮かべて娘が空腹を満たしていく。
その何とも平和な光景に、ワシは地面の上に蹲ったまま微かな笑みを浮かべたのだった。

翌朝、若造は目を覚ますなりまだ温床で眠っていた娘とワシとを不安そうな表情で眺め回してから渋々とワシらを洞窟に残して狩りへと出掛けていった。
昨日ワシがわざわざ時間を掛けて彼の分の獲物も獲ってきたことで、あの若造も結局はワシの為の食料も集めなくてはならぬ立場となったのが些か悔しいのに違いない。
しかしそれ以上に、彼がワシと娘だけで長い時間を過ごすことに嫉妬しているのであろうことは明白だった。
恐らくは生涯にたったの1度、雄竜の彼が神龍の奇跡によって産むことのできた娘なだけに、この仔竜に対する彼の入れ込みようは事情を知っているワシから見ても少しばかり常軌を逸している。
まあ、自分の腹を痛めて産んだ子供という本来雄には縁の無いはずの稀有な意識を持ってしまったのだから、ワシとしても彼の気持ちを全く理解できないわけではないのだが。

だがやがてそんなことを考えていると、娘が遅い目覚めにようやくその小さな身を起こしていた。
「きゅう・・・」
そしてゆっくりと顔を上げた娘が、昨日とは違う"父親"の姿に不思議そうな表情を浮かべる。
「ふきゅ?」
微かに首を傾げながら漏らしたそんなか細い鳴き声が余りにも可愛くて、ワシは相変わらず温床の中で蹲っていた娘を両手でそっと抱き上げていた。
ほんのりとした心休まる仔竜の温かさが、優しくワシの指先を包み込んでいく。
考えてみれば、ワシは娘に手を触れるのはこれが初めてだった。
こんなところをあの若造に見つかったら何と言われるか分かったものではないが、紛れも無くワシの娘でもあるが故に文句を言われる筋合いは無いだろう。
それにしても・・・ワシも産まれた当時はこんなにも小さくてひ弱だったのだな・・・
もう遠い昔のことなのでほとんど何も覚えてはおらぬが、比較的寒冷な地方だったせいか母親が熱心にワシのことを温めてくれていたことだけは薄っすらと記憶に残っている。
父親という立場上実際に子供を産んだ彼に比べれば何処か当事者意識が希薄な面があったことは否めないが、円らな瞳でこちらを見つめている仔竜の姿にワシは改めてこの娘を無事に育てたいと思うようになっていた。

それから数時間後・・・
洞窟の外から何やら重々しい足音が聞こえて来ると、ワシはあれからずっと抱いていた仔竜を慌てて温床の中に戻してやっていた。
そして何食わぬ顔で若造が戻って来るのを待っていると、随分と苦労したのか2頭の猪と・・・
2羽の野ウサギをその背に乗せた彼が憮然とした表情を浮かべながら洞窟の中へと入って来る。
「娘に・・・手など出してはおらぬだろうな?」
「ワシはこの娘の父親だぞ。手を出して何が悪いと言うのだ」
だがワシがそう言うと、彼が途端に不安そうな顔をして声を潜める。
「む、娘に・・・一体何をしたのだ?」
「別に何もしてはおらぬ。それよりも、何故野ウサギまで2羽も捕まえてきたのだ?」
彼はそんなワシの返答に一瞬安堵の表情を見せたものの、黙ってワシの前に野ウサギと猪を1つずつ放り投げるとそのままおもむろに自分の食事を始めていた。

成る程・・・今日の娘の餌付けはワシの番だが、後で自分でも餌を食べさせてやりたいのだろう。
別にワシは彼から娘を奪おうなどというつもりは毛頭無いのだが、何とか仔竜の関心を自分に向けさせようと水面下の努力を惜しまない彼の行動が面白くてワシは特に何も言わずに受け取った猪に食い付いていた。
バク・・・
「む・・・」
普段は鹿ばかり追い回して猪などほとんど食べたことが無いのだが、なかなかに美味い。
「お前は普段から猪を獲っておるのか?」
そして思わず彼にそう訊いてみると、食事を中断されて些か不機嫌そうな表情を浮かべながら彼が顔を上げる。
「そうだ・・・鹿に比べれば数が多いとは言えぬが、味は悪くなかろう?」
「確かにな・・・」
まさかワシの獲っている鹿より美味かったなどとは口が裂けても言えぬものの、何処か得意げなその彼の言葉にワシは静かに頷くより他に無かった。

やがてお互いに食事を終えると、ワシはじっとりと刺すような視線を投げ掛けてくる彼の前で幾分か咀嚼して柔らかくした野ウサギの肉を娘に与えていた。
「きゅっ!きゅきゅ!」
ワシから貰った餌を嬉しそうに食べる娘の様子に、彼がまるで湯気のように激しい嫉妬心を燃やしている。
「そんなに険しい顔で睨んでいては、娘に嫌われるぞ」
だがボソッと呟いたそんなワシの言葉に、彼は目を丸くするとフイッとワシらから目を背けていた。

そんな何処かぎこちない生活が3日程も続くと、生まれた時よりも1回り大きくなった娘がいよいよ自分の力だけで温床から這い出せるようになったらしかった。
よもや勝手に洞窟の外に出て行くようなことはないだろうが、ますます子供から目が離せなくなったのは間違い無いだろう。
彼も流石にその辺りのことは理解しているのか、狩りに出掛ける前の様子にも変化が見られるようになった。
以前までは"我の娘に手を触れるな"とでも言わんばかりだった警戒心剥き出しの顔が、ここ最近は"我の代わりにしっかり面倒をみておれ"という依頼のそれに変わっているのだ。
そしてワシの方もそれに素直に頷くと、生意気な彼との間にほんの少し柔和な雰囲気が流れるようになった。

「今日でもう、この娘が生まれて2週間か・・・」
「うむ・・・随分と体も大きくなったし、そろそろ外で遊ばせても良い時期なのかも知れぬな・・・」
夕食を終えて眠る仔竜を並んで見守りながら、そんな会話がどちらかともなく流れていく。
「それにしても、我らは何処までいっても反りが合わぬな。娘が生まれてからも、貴様とは争ってばかりだ」
「ほとんどはお前が勝手に波風を立てているだけではないか。娘への独占欲に駆られおってからに・・・」
しかしワシがそう言うと、彼が少しばかり不機嫌そうにワシを睨み付ける。
「まあ・・・とは言え、ワシらは元々そういう星の下に生まれ落ちたのだろう」
「確かに・・・湖の覇権でも争って対立しているのが、我らには相応しいのかもな」
「ワシはそれでも一向に構わぬぞ」
それを聞いて彼は一瞬だけ好戦的な表情を浮かべたものの、すぐにその視線が仔竜へと向いていた。
「我もそれは望むところだが・・・今はこの娘を無事に育てる為に互いに協力すべき時だろう?」
「フン・・・望むところか・・・お前も、案外ワシとの決闘の日々を楽しんでおったのだな」
「まあ、な・・・良い退屈凌ぎだったことは間違い無い」
彼はそれだけ言うと、可愛い娘の寝顔を見ながらじっと押し黙っていた。
そして突然何かを思い付いたように顔を上げると、その視線が再び隣にいたワシの方へと戻って来る。

「そうだ・・・良いことを思い付いたぞ」
「何だ?」
「娘がもう少し大きくなったら、貴様は娘に鹿の獲り方を教えるのだ。我は、猪の獲り方を教えるとしよう」
そう言った彼の意図をしばらく考えてから、ワシは合点が行ったとばかりに声を弾ませていた。
「成る程、それでどちらの狩りが上達するか競おうというのか。面白い・・・受けて立とうではないか」
「尤も、味に劣る鹿など娘は見向きもせぬだろうがな・・・」
「言うではないか。鹿に比べて数に劣る猪の狩り方など、お前に教えられるのか?」

お互いにそう言って睨み合ったワシらの間には、もう以前のような険悪な雰囲気は微塵も無くなっていた。
奇跡の娘が、そんなワシらの間に横たわっていた深い溝を埋めてくれたのだろう。
どんなに仲の悪い夫婦も愛する子供の為には力を合わせると言うが、犬猿の仲であったはずのワシらもまたそのご多分には漏れていなかったらしい。
そしてお互い相手に注いでいた視線が相変わらず可愛い寝息を立てている娘の方に吸い寄せられると、ワシらは大きく安堵の息を吐き出して静かな眠りについたのだった。

これは太古の昔に起こった、2匹の雄竜達の奇跡の物語。
彼らに邂逅の為の翼と和解の為の娘を授けた神秘的な神龍の白泉は、今も深い龍泉洞の最奥で淡い光を湛えながら誰かの訪れを待っているのだろう。
冷たい美しささえ感じられる闇と澄んだ湖水に満ちた魅惑の鍾乳洞が、今度はどんな奇跡を起こすのか・・・
それは、そこに辿り着いた者だけが知る永遠の秘密なのだった。