moedra Wiki - Love is not enough
どこまでも続く木漏れ日の中を、彼は一心不乱に駆け抜ける。
大きな音を上げて地面を蹴る度に、落ち葉や苔が宙に舞う。
かわしきれず身体を樹木や岩に掠り、藍色の鱗に傷がつく。
彼は振り返りもせず走り続ける。
奴らが追ってきているのは間違いない。
今は奴らを振り切ることだけを考えるべき。
空に逃げることはできない。
彼の背に生えた一対の巨大な翼は、奴らの闇討ちにより無残にも引き裂かれてしまった。
仮に飛行することができたとしても、奴らは彼より二回りほど小柄で、なおかつ集団である。
その身軽さと数に弄ばれて、あっさりと墜とされることは目に見えている。
全く以って腹立たしい。
「小癪な…」
彼の顔が憤怒で歪む。
個々の力は矮小あることを自覚し、徒党を組み楯突いてくる奴らが。
自慢の翼を、吹雪に晒される枯れ木のような姿にした奴らが。
奴らに対して為す術もなく、逃走することしかできない自分が。
ひた走っているうちに、静かに水が沸く泉へと出た。
泉の淵で彼の足が止まる。
いくら彼が人間の上に君臨する最強の生物、ドラゴンだとしても疲労を知らないわけではない。
彼が水面に激しく口づけする。
無色の液体が歯に当たり、喉を通り、胃に溜まっていく。
それだけで、僅かながらも心と身体が癒されていくことを感じる。
しかし長居は出来ない。
奴らもまた彼と同じく、ドラゴンである。
こうしている間にも奴らは確実に近づいてきている。
もう行かなければ。
彼が泉から顔を上げた。
目の前には彼に向かって跳躍し牙を向く無数の黒い鱗に覆われた竜がいた。
何もできなかった。
最初の一頭が彼の首筋に噛み付く。
「ギャッ!」
彼が短く悲鳴をあげた。
二頭目は右の前肢に。
「ガァァ!」
体勢を大きく崩し、彼は地面に倒れこむ。
彼の身体から泉に赤い筋が流れる。
三頭目は尻尾に。
四頭目は左のわき腹に。
「お願いだ…やめてくれ…」
彼の懇願を、黒竜たちは聞きもしなかった。
次々と彼の身体に鋭い牙が突き立てられる。
「はっ…あふぁ…!」
もう呼吸さえままならない。
苦痛と恐怖だけが彼の心を独占していた。
いの一番に彼の首に牙を立てたドラゴンが顔を大きく振りかぶり、彼の頭が持ち上げられる。
風を感じた後に、衝撃。
黒竜が彼の頭を地面に打ちつけたのだ。
「……」
地濡れの頭部からさらに鮮血が噴き出す。
さらにもう一度、今度は地面に転がっていた岩の上に叩きつけられる。
鈍い音がした。
彼は知る由もなかったが、それは頭蓋骨が砕ける音だった。
こうして彼は絶命した。


確かに絶命した。
黒いドラゴンたちがそっと牙を放し、仰向けになった彼の骸を囲むように佇む。
しかし彼にはそれが、見えた。
聞こえた。
自分は死んだはずだ。
彼は左前肢に力を入れる。
しかし、彼の意思に反して左肢はぴくりとも動かない。
ほかの肢や尻尾も同様で、瞬きさえも出来なかった。
動かせる部位を探しているうちに、先ほどまであれほど心を乱していた痛みが消えていることに気づく。
しかし、藍色の身体のいたる所から未だに赤黒い液体が流れている。
「どういうことだ…」
とっさの呟きが漏れた。
どうやら口は動くようだ。
この不可思議な現状が彼の理解の範疇を軽々と超えていた。
「どうだ?気分は?」
黒いドラゴンの一頭が、薄気味悪い笑みを浮かべ、彼を見下ろしていた。
一頭だけではない。
よく見ると、黒竜全員が三日月のように口を歪ませていた。
もし身体が正常であったら、彼の背筋に悪寒が走っていただろう。
そんな表情だった。
「何だ、これは!?私に何をした!?私をどうするつもりだ!?」
彼が自分を見下す者たちに向かって立て続けに問いをぶつける。
その勢いは徐々に増していく。
「貴様らの目的はなんだ!?私にこのようなことして許されると思っているのか!?答えろ!答えがはっ!!」
黒竜の牙が彼の首を貫く。
その瞬間、消えていた全身の痛みが再び彼を蝕む。
「黙れよ」
別の黒竜がぽつりと呟いた。
「ぐがっ…がっ…!」
身体の自由が利かず、のた打ち回ることさえできない彼の息は荒い。
「こいつ、自分がどういう状況か分かってないぜ?」
「いつもそうだろ、俺らの獲物は」
さらに別のドラゴンたちが彼を指しながら、談笑している。
彼にそれを問いただす余裕などない。
現在彼の世界は、彼の内で暴れまわる痛覚が全てである。
「おい、ズタボロ。よーく聞けよ?」
ほかの者より若干大柄なドラゴンが彼の耳元で囁く。
このドラゴンこそグループのリーダーである。
「今自分がどうなっているのか知りたいか?知りたいだろう?俺らはな、死霊術が使えるんだよ。人間に習った、な」
痛みと戦いながらも、彼は頭領の言葉を耳を通し頭に入れる。
そこから湧き上がる屈辱。
死してなお奴らに弄ばれるとは。
「貴様…らの玩具にされるくらいなら…」
「『されるくらいなら』?今のお前に何が出来る、ズタボロ?生きる屍となって地面に寝そべるお前が?」
見るからに鋭い爪が生えたリーダーの右前肢が、彼の腹部を踏みつける。
「ぐうっ…!」
苦しさは感じない。
ただただ、痛い。
「知ってるか?俺は経験したことがないが、行き過ぎた痛みってのは気持ちいいらしいぞ?こんな感じに」
一閃。
リーダーの爪が、彼の蛇腹を縦に引き裂いた。


「ああああああああああああああああああああっ!!!」
彼の絶叫が森に響く。
驚いた鳥たちが、一斉に空へと飛び立った。
もう痛みは感じなかった。
熱い。
焼けるように熱い。
縦に割れた傷口から、紅色の内臓が見え隠れする。
「あああああああああああああ!!、ああ!、ああああああ!、ああああああああああ!!」
彼の断末魔は止まらない。
「あー、悪かった。こんなに気持ちいいのに、勃たないなんて可哀想だよな。おい、お前ら」
仲間に手伝わせ、リーダーが持ち上げられた彼の後頭部に牙を突き刺す。
おそらく死霊術の類だろう。
その効果はすぐに現れた。
彼の股間から雄の象徴が伸び、盛大に精をぶちまける。
子孫を残すべく、生物としての本能がそうさせるのだ。
しかし雌という受け皿が不在の為、彼の種は宙に舞った後、血で濡れた藍色の鱗に降り注ぐ。
その光景を、黒竜たちは同情あるいは侮蔑の笑みをもって見つめる。
「淫乱な悪い子にはお仕置きしないとな」
黒き竜の一頭が、肉棒の先端にそっと爪を当てる。
勢いは弱まりつつあったが、いまだにそこから白い液体が湧き出している。
「うわー可哀想」
別の一頭が笑いながら顔を背ける。
だがその双眸は、しっかりと彼の竿を見つめている。
「があああああっ…がめっ…ば…あっ…べっ…!」
『やめて』と叫んだつもりだった。
彼の言葉にならない言葉が、残虐なドラゴンたちの心をさらに昂らせる。
「ほら、もったいぶるなよ」
「やっちまえやっちまえ」
「じゃあいきますか。やっ!」
仲間に囃し立てられたところで、ついに黒竜の爪が彼の雄に光る。
「がああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
尿道口から彼の肉棒を二分した。
まるで元からそうであったと思えるほど綺麗な二等分だ。
「うわ、見てるこっちも痛くなりそう」
黒いドラゴンの一頭が、自らの股間を擦る。
根元から白と赤の液体が混ざり合ったものが溢れ出る。
楽になりたかった。
救われたかった。
だが死霊術の呪縛が、彼の魂を許しはしない。
「ぐああああああああぅ…へがっ、あああああああ!」
涙を流せない瞳が、絶望の色を浮かべる。
「そろそろ飽きてきたな」
リーダーがそう言うや否や、彼の腹部にもう一度鋭利な爪が走る。
先ほどの切り口に対して垂直になるように裂かれる。
ちょうど十字になるように。
さらに黒いドラゴンにとって邪魔な蛇腹を剥がしていく。
息絶えて間もない者の新鮮な臓物が露となる。
「くふふふふ」
残忍な黒竜たち口腔から、涎が糸を引いて落ちていく。
「兄貴、もう待てねえよ…」
「そうだな、じゃあまず俺から…」
彼は純白に染まりかけた思考を働かせ、理解した。
奴らが自分を襲った理由。
それが食欲であったことを。
リーダーが彼の心臓に食いつき、身体から引きちぎった。


それからはあっという間だった。
黒き捕食者により、彼の内臓はすぐに消え去った。
残飯として捨てられたのは、ドラゴンが持つ毒袋と便がこびり付いた腸の一部のみ。
次に狙われたのは、四肢だった。
肢を構成するのは筋肉と言う名の御馳走。
あらぬ方向に捻られ引っ張られ、四本の肢全てが彼から永遠の別れを告げる。
そこから何頭かのドラゴンによる争奪戦。
「おい、俺にも肢の肉よこせよ」
「お前肝食べたろ。この肢は俺のだ」
小競り合いの横で、残りは彼の身体に群がった。
尾を齧る者、丁寧に鱗を剥がし皮を貪る者、肉棒を噛み千切る者、背に付いた僅かな肉を求める者、骨を口にする者。
されるがままの彼の心が二つの答えを導き出す。
一つ目は諦観。
二つ目は愉悦。
先ほど黒竜の頭が言った通りだった。
いままで感じたことがないほどの膨大な快楽が絶え間なく押し寄せてくる。
まだ彼の雄が健在であったら、間欠泉のように白濁液を噴き出していただろう。
いつしか彼は黒き同族に対して、この喜びを教えてくれたことに感謝すらしていた。
「ずいぶんとすっきりしたな」
「まったくだ」
ついに彼の身体は首元から上を残すだけとなった。
「ふ…う…」
彼の口から艶めいた吐息が漏れる。
いまや身体の大部分が失われたことなど、どうでもいい。
この快楽がいつまで続くかが重要なのだ。
リーダーが彼の首を噛み付き、持ち上げる。
彼の頭がだらしなく垂れ下がった。
「しばらくは俺の非常食として連れてってやるよ。嬉しいか?嬉しいよなあ」
事実、彼は喜んだ。
この狂おしい感覚がまだ味わえることに。
「行くぞ、お前ら」
黒い竜たちは大空へと舞い上がる。
彼の口から血が一滴、眼下に見える森へと落ちていった。


後日、彼は喜悦に包まれながら、この世から消滅した。