戦後日本の移民政策
1.背景 −戦後日本が置かれた状況−
(1)1945年8月、第二次世界大戦で日本は敗戦[死亡者]210万人
[家を焼け出された者]1000万人
[復員軍人]760万人
[引揚者]160万人
終戦を期に400万人の労働者が解雇され、当時の失業者は1300万人をはるかに超えたといわれる。また、工業生産設備の破壊は30%〜60%に及んだ(戦中に補修しないまま酷使してきたことによる老朽化を考慮すれば、間接的な被害はさらに大きい)
[失業者:新規雇用需要数]1300万:80万
激しいインフレ→実質賃金は1934年〜1936年の賃金の30%以下
(2)食糧問題
食糧問題を担う農村では、
青年、壮年→徴兵
女子供→軍需産業に従事
さらに、農耕馬・農機具までもが徴収された
→田畑は荒れ果て農業生産力は急速に低下した
※1945年の米生産高は600万トン(明治末年以来最低の数字平成17年は900万トン。当時の米食依存度を考慮すると、圧倒的に少ない。1933年〜1935年までの生産指数を100%とすると、1945年は60%に過ぎない。しかも、戦前は国内消費の20%を朝鮮、台湾などから輸入して需給バランスを保っていた。以上の理由から、事実上輸入不可能の状態にあった当時の食糧事情が如何に深刻であったか推測できる)
終戦から2ヵ月後のヤミ米価格は公定価格の132倍に達した。
生活水準のバロメーターであるエンゲル係数は72.2%(1934年は40%弱、現在は20%ほど)に達した
2.移民政策の詳細
(1)政府が打ち出した移民政策以上に説明したように、当時の農民たちは非常に過酷な状況に置かれていた
政府はGHQの指導により、農地改革や緊急開拓政策などを実施し、一定の効果をもたらしたが、問題の根本的解決には至らなかった
→そこで政府が打ち出したのが移民政策である
(2)外務省の思惑
1949年5月13日の衆議院本会議に床次徳二議員ほか23名の議員により、「人口問題に関する決議案」が提出される
世界の福祉増進という部分を別にすれば、この決議文は、移民の目的を国民生活の向上という経済問題と、国民感情の満足感という精神的問題に置いていることがわかる
1955年4月、海外移住促進について閣僚会議が行われる
「最近の日本移民に対する国際情勢の有利なる進展に対応するため、この際速やかに移民の大量送出を可能ならしめる諸政策を実施する」との基本方針に沿い、外務省が移民政策を立案
1958年に外務省が発表し「移住計画5か年」には、次のように移民政策の意義が述べられている
「わが国の生産年齢人口増加率は年19%の高率を示し、新規雇用希望者の平均増加は年80%これらの新規労働率をできる限り吸収するほか、年々増大する農村次三男に移住の機会を与え、同時に農家の経営規模を適正化するために海外移住を国策として強力に遂行する必要がある」
こうして、移民政策は国策のなかでも大きな柱として行われたのである。
3.移民政策の実態
(1)ドミニカ移民外務省はブラジルやドミニカを中心に移民政策を実施した。ここではドミニカ移民を例に、移民たちが現地でどのような状況に置かれたのか説明する
ドミニカへの移民募集に先立ち、政府は政府系移民実施機関である海協連(現JICA)の機関紙「海外移住」や主要マスコミを通じて、ドミニカ移民について大々的な宣伝活動を行う
このような政府発表やマスコミ報道によって、当時の閉塞した日本社会に一気にドミニカ熱が高まり、募集には多くの人々が殺到した
しかし、事前の宣伝により伝えられた情報と、実際の現地の状況は大きく異なっていた。
アメリカ資本の支配するプランテーションが豊潤な土地の大部分を占めており、狭小な国土の中で、日本人には肥沃な土地での開拓のチャンスはほとんど与えられなかった
しかも、日本人に用意された入植予定地は、貧農を対象とした、主に国境地帯の辺境の未開で不毛な土地であり、さらに耕作の自由が許されない「農奴」としての生活を強いられた
4.考察
2006年7月22日、当時の小泉首相が訴訟を起こしていたドミニカ移民に対して謝罪文を発表した※ちなみに、訴訟は除斥期間の経過により棄却された
50年に及んだ移民たちの労苦に対し、今回の日本政府の対応は雀の涙にも及ばない小さなものである。お粗末な現地調査、虚偽宣伝などにより、移民一世はもちろん、二世、三世の人生までも踏みにじった外務省には大きな責任がある。謝罪するにも、謝る相手がいなくなってしまえば後の祭りだ。それとも日本政府、外務省はそれを望んでいるのだろうか。今果たせる責務をを誠心誠意行うこと、それが今政府にできる責任の果たし方だと思う。
2007年01月01日(月) 14:01:07 Modified by momonosato