【アミー・アヤロン】

元海軍長、元対内諜報機関長。労働党議員。運動「ミフカッド・ハレウミー(民族召集・英語名:The People’s Voice)」のリーダーの一人。

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1945年6月、キブツ・マアガンで生まれる。1963年海軍のエリート部隊「第13部隊」に入隊。1979年、同部隊の隊長に任命。1992年、海軍長に任命。1995年、国防軍から除隊。

1996年、ラビン首相暗殺に対し非難を受けていた対内諜報機関(シャバク)を復興すべく、機関長に任命。国民の対内諜報機関に対するイメージを改善する。2000年に引退。期間内で育ったディヒテルの任命を支持する。

アヤロンが引退したのはエルアクサ・インティファーダ勃発の数週間前。「バラク首相(当時)がアラファトにすべてを与えたのに、戦争を仕掛けた」という声が主流の中「バラクにも責任がある」と主張する。アヤロンは、バラクがパレスチナとの交渉を他所にシリアとの和平交渉を始めたこと、またアラファトへの約束をいくつか破りアラファトを困惑させたなどをキャンプ・デービッドの失敗の理由として挙げた。

また、インティファーダの背景に、パレスチナ人の和平交渉への失望や、普段イスラエル人が見ていない、検問所、入植地の拡大、自治政府内の汚職などによる挫折感があるとした。アラファトの支持については「暴力が拡大する中、自分のリーダーシップを維持するには暴力の道を選ばざるを得なかった」と述べた。

イスラエル軍や体内諜報機関の成功は認めていたものの、それらを短期間の解決法であるだけではなく、検問所や入植地拡大など新たな問題を作ると主張。そのため、占領地からの撤退と入植地の撤去を呼びかけ、イスラエルが譲れない外交カードは「パレスチナ人のイスラエルへの帰還」とした。


2002年、パレスチナ人のサリー・ヌスィエバ博士と共に、1967年国境における2つの国家の樹立、エルサレムを両国の首都として承認、パレスチナからの機関権断念などを含む和平企画を想起。

和平企画を推進するため、イスラエル国内で「ミフカッド・ハレウミー」を創立。2003年に集めた署名では、約250,000人のイスラエル人と約160,000人のパレスチナ人のサインを集める。


ガザからの撤退は指示したものの、入植者との対話を呼びかけた。

2004年、労働党党首選への出馬を試みたものの、「出馬するなら議員になるためではなく、首相になるためにする」として断念。しかし、2006年、労働党に入党。同年の総選挙では労働党から国会入りする。
2006年10月26日(木) 18:58:50 Modified by moshejp




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