【ハイム・ラモン】

法務大臣。カディーマ議員。元労働組合委員長。

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1950年、ヤッフォで生まれる。テルアビブ大学で法律を学ぶ。1983年、第10代内閣労働党から国会入り。第13代内閣では、厚生大臣に任命。


1994年、労働党議員らを「海から陸へ上がり自殺しようとする鯨だ」として批判。この後、労働組合の選挙に出馬する。

労働組合委員長就任時、労働組合と健康保険基金は数十億シェケルの赤字で、崩壊寸前だった。健康保険基金の労働組合からの切り離し、労働組合の一部の民営化などにより、赤字を減らすが、崩壊危機は数年続く。

厚生保険が得られなかった数百人に保険を与えた、厚生保険法の推進に力を入れる。ラモンは、この法律が出来る前、保険に入っていても、全体の60%しか保険に含まれていなかったことを強調している。しかし、この法律により、医者に行くたびにいくらか払わなければいけなくなった。



ラビン首相暗殺後の1995年、ペレス内閣にはいるため、ラモンは労働組合を離れる。1999年のネタニヤフ内閣崩壊を呼んだ議員の1人でもある。

1999年のバラク内閣では首相府大臣になり、エルサレム問題に取り組む。その後、内務大臣に任命され、改革を始めるが、バラク内閣崩壊と共に改革は中止にとなる。2001年には、シャロンの連立内閣には参加しなかった。2002年には、労働党党首選挙に出馬するが、アムラム・ミツナに敗北。


ラモンは、一方的撤退を考えた最初の1人とされている。その後、一方的撤退案は労働党に採用される。また、後にシャロンの分離計画につながり、ガザ撤退に発展する。

ラモンは、パレスチナ主要人物との関係を続け、アッバスには「イスラエルではじめての友人」と称される。

シャロンの「カディーマ党」結成に協力し、2005年11月にカディーマ党に入党する。


2006年総選挙では、カディーマから国会入り。法相に任命される。



参考:
http://he.wikipedia.org/wiki/%D7%97%D7%99%D7%99%D7...
2006年05月03日(水) 07:14:17 Modified by moshejp




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