【アリエル・シャロン】

第11代イスラエル首相。2006年選挙直前、脳卒中で倒れ、現在入院中。

―――

60年代から70年代にかけて、軍事的に活躍した後、1973年リクード党設立に貢献し、同年12月に国会入りする。翌年、辞任。75年ラビン内閣で、国防顧問を務める。

77年にはベギン内閣で、農林大臣を務め、ヨルダン川西岸地区</a>とガリレア地方の入植地建設活動に携わる。

1981年には、第2次ベギン内閣で国防大臣に任命される。1982年4月には、エジプトとの平和条約の条件の下、シナイ半島撤退の為に、入植地撤去を指揮し、徹底的に破壊した。

レバノン戦争開始時から終結まで関わった。戦争中、PLOをベイルートまで後退させ、その後チュニスまで退かせる。その後、戦争中にサブラとシャティーラで起きた虐殺を調査したコヘン委員会は、シャロンは虐殺を無視した責任があると断定。これにより、シャロンは国防大臣辞任を余儀なくされる。


1984年に政界に復活。連立政権では通産大臣を務め、90年のシャミール政権では建設大臣に任命される。この間、旧ソ連からの移民を受け入れの為の建設ラッシュ、ヨルダン川西岸地区の入植地建設などに力を入れる。

95年には、オスロ合意に携わったラビン首相(当時)とペレス外相(当時)を痛烈に批判。

96年のネタニヤフ政権では開発大臣に、98年には外務大臣に任命される。ネタニヤフ政権崩壊後は自らリクード党党首になり、野党党首を務める。

2000年9月28日には、ユダヤ・イスラム双方に神聖な神殿の丘を訪問。エルアクサ・インティファーダ勃発の原因となる。

2001年の首相選挙では62%の票を得て、現役のエフード・バラク首相を破り、首相となる(本来、イスラエルには首相の直接選挙は無いのだが、この年は特別に首相のみの選挙となった)。



シャロン政権下、テロの数は頂点に達する。パレスチナ武装組織のテロと、イスラエル軍の軍事行動の応酬が続く。テロが続く中、シャロン首相は元々建設反対派で、壁建設を遅らせていたことで非難を浴びるが、2002年には建設賛成派になる。

分離壁は、ユダヤ人入植地をイスラエルの中に取り入れる形で、占領地の中に建設が進められていた為、世界中で非難を浴びる。

2003年の総選挙で勝利を収めた後、占領地からの撤退及び入植地の撤去を含む「分離計画」を発表。撤退を実行するに当たり、入植地撤去に反対する大臣に辞任を要求。労働党を内閣に取り入れ、連立政権を発足。

撤退と同時期に、ハマスの最高司令官のヤシンやランティシなどを殺害するなどの強硬路線も実行する。

撤退開始は今年8月、右派過激派によるシャロン殺害の恐れがある中、強行される。撤退をめぐり起こったリクード党分裂に伴い、2005年11月、新党「カディーマ」を結成。


2005年12月脳卒中で入院。一時復帰するが、2006年1月再度入院。今まで意識不明の状態。



参考:
http://he.wikipedia.org/wiki/%D7%90%D7%A8%D7%99%D7...
2006年05月03日(水) 07:14:58 Modified by moshejp




スマートフォン版で見る