【イラクの原子炉爆破】

1981年、イスラエル空軍により、イラクの原子炉が爆破された事件。

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1970年代後半、イラクは核開発を開始。イスラエル軍諜報部は、イラクが核兵器を開発しようとしていると判断。イラクの原子炉の名にちなみ「タムーズ作戦」と呼ばれた作戦には、アメリカから購入した戦闘機F-16が使用されることになった。

1980年、サダム・フセインは「イスラエル滅亡」を呼びかけ、アメリカから非難を浴びる。この時点で、原子炉攻撃が確実となり、空軍でもパイロットらにも理由を秘密にしたまま、訓練が重ねられる。


攻撃は1981年6月7日早朝に行われた。この作戦には、後にイスラエル人発の宇宙飛行士となり、「コロンビア事件」で死亡したイラン・ラモンも参加していた。

作戦は原子炉のみを破壊し、死者は爆破時原子炉にいたフランス人技術者1人だった。原子炉はその後再開される事は無く、パイロットは皆無事に帰還した。


原子炉爆破は、国内外から大きな非難を浴び、普段は国連安保理会議でもイスラエルよりのアメリカも、イスラエルを非難する立場を取る。

イスラエル国内の左派は、爆破の時期は選挙のために選ばれたとして非難。実際に、世論調査で確実に勝つといわれていた労働党は、僅差でリクードに敗北。しかし現在では、もし爆破が遅れていたら放射能噴出という大惨事になっていたと言われている。


湾岸戦争後の今では「サダム・フセインは核兵器開発を目指していたので、ベギン首相(当時)の決断は正しかった」という見方と、「原子炉爆破が大量破壊兵器開発につながった」という見方がある。



参考:
http://he.wikipedia.org/wiki/%D7%9E%D7%91%D7%A6%D7...
2006年05月03日(水) 22:04:54 Modified by ka1003




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