【ガザ地区】

地中海沿岸、イスラエルとエジプトの間にある土地。ガザ撤退後の現在、ガザ地区の管理はパレスチナ自治政府に委ねられている。

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ガザ地区の主な都市は、ハン・ユニスや。この他にも大きな難民キャンプがいくつかある。人口は1,376,289人(2005年現在)で、その多くは難民。全パレスチナ難民の20%がガザ地区で暮らしている。

ガザ撤退前は、8、000人のユダヤ人がガザ地区に住んでいた。その多くは南部のグシュ・カティーフで暮らしていた。これらの入植地は撤退に伴い、イスラエルによって破壊された。


ガザ地区では失業が大きな問題。ガザ地区での仕事は少なく、撤退後はさらに減少した。パレスチナ人の多くは、イスラエルによって経営されていたエレズ産業地帯で働いていたが、撤退により閉鎖された。また、ガザ地区に住んでいたユダヤ人も、パレスチナ人を雇用していた為、これらの職もなくなった。

90年代前半までは、ガザ地区住民の多くはイスラエル国内で働いていたが、インティファーダ勃発、旧ソ連からの移民、外国人労働者の流入などにより、イスラエル国内でのパレスチナ人の職は90年代以来減少する一方。

また、昔は農業が主な職業だったが、水問題や、人口問題の結果農業地帯を町に変えたため、農業も衰退する。



ガザ地区は、独立戦争(1948年)後、エジプト領となり、軍制が実施される。ユダヤ人の町クファル・ダロムは戦争前に撤去される。20年ほどエジプトによる統治が続くが、エジプトがガザ地区を自国の領土だと主張した事は無く、エジプトの法律もガザでは適用されなかった。

イスラエルは、シナイ作戦(1956年)の結果ガザを占領するが、休戦協定により、シナイ半島と共にエジプトに返還する。六日戦争(1967年)の結果、ガザ地区はイスラエル領となる。これにより、パレスチナ自治政府が発足するまで、イスラエル軍政が実施される。

オスロ合意でガザは自治政府の管轄となるが、グシュ・カティーフ、グシュ・カティーフへとイスラエルを結ぶ道、ネツァリーム、ガザ北部のエリ・スィナイ、フィラデルフィア・ルート</a>などはイスラエル領として残る。


2004年10月、イスラエル国会はシャロン首相の分離計画を受理。2005年8月、ユダヤ人入植地の撤去が開始する。ガザ撤退は、2005年9月に終了した。


ガザ撤退から一ヶ月が経つ現在、自治政府の完全な統治はまだない。国家建設の最大のポイントとなる、国による武器の独占も、いまだない。ハマス、エルアクサ殉教旅団、イスラム聖戦、パレスチナ反抗委員会、ファタハのタカ派などが、やりたい放題やっているのが現実。

今のところアッバス議長は、武力は使わず交渉のみによる武装組織解体を試みている。しかし、治安は悪化し、武装組織による軍事行進、パレスチナ人や外国人の誘拐、イスラエルへの発砲などが続いている。



参考:
http://he.wikipedia.org/wiki/%D7%A8%D7%A6%D7%95%D7...
2006年05月03日(水) 06:32:20 Modified by moshejp




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