リクード

イスラエル第3政党。1977年から2006年までは、ほとんどリクードが政権を握っている。

1973年に右派と中道の党が合併して設立。これを先導したのが、同年に軍から退役した後の首相のアリエル・シャロン。党首としては、元エツェルの隊長メナヘム・ベギンが選ばれた。党が掲げている目標は、社会的平等、自由市場、ユダヤ的伝統や文化の保護などである。

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ベギン内閣:
ベギン率いるリクード党は1977年初めて、政権を手にした。労働党以外の首相が選ばれるのはこのときが初めて。この勝利は、それまで続いていた労働党の時代に終止符を打ったとして、今でも「大逆転」の名で知られている。


ベギン内閣が最初に行ったのは、エジプトとの平和条約調印、西岸地区及びガザ地区での入植地設立の大幅な支援、イラクの原子炉爆破などである。又、東エルサレムを含むすべてのエルサレムをイスラエルの首都とする、「エルサレム法」もこのとき作られた。

1981年には48対47の僅差で選挙に勝利し、レバノン戦争に突き進む。1983年、ベギンは首相と党首を辞任し政界を離れる。


シャミール内閣:
1984年の左右の引き分けにより、連立政権が成立し、リクード党と労働党の2年ずつのローテーションとなる(この方法は、現在のドイツの選挙の解決法としても浮上している)。この連立政権の主な特徴は、400%にもあったインフレ停止の努力と、南レバノンにおけるイスラエル軍の強化だ。

1990年に、リクード党と労働党は決別し、選挙で勝利したリクード党と宗教党の小さな内閣が成立する。この内閣の主な特徴は、マドリード和平会議への参加、湾岸戦争不参加(ミサイル攻撃に反撃しなかった)、旧ソ連とエチオピアからの大規模な移民などだ。

1992年の選挙でリクードは大敗し、シャミールは辞任する。



ネタニヤフ内閣:
1996年の選挙では、初めて首相の直接選挙が行われた(党に1票、首相に1票)。この結果、有力候補のシモン・ペレスを破り、ビンヤミン・ネタニヤフが首相に就任した。しかし、リクード党は32席しかとれず、小さな内閣となる。

この内閣の特徴は、テロの縮小、インフレの減少、財政赤字など。

1999年の選挙で、リクード党は歴史的大敗(19席)。これにより、ネタニヤフはリクードから辞任。


シャロン内閣:
2001年の選挙(首相のみ)で、シャロンは現役のバラクを破って首相に就任。連立政権を成立。2002年の、労働党の内閣離脱を受け、2003年に選挙が決まる。2003年の選挙では(この選挙から直接選挙は廃止になった)、40席を取るという、リクードの大勝となる。

2004年シャロンは「分離計画」を発表。リクード党内選挙の結果、分離計画は否決。シャロンは、これを内閣に持ち込み、「分離計画」は承諾される。


この「分離計画」の結果、リクードは賛成派と反対派の衝突により、党は分裂。シャロン首相(当時)はリクードを離党し、カディーマを立建てる。シャロンは入院したものの、オルメルト率いるカディーマは2006年総選挙で勝利。ネタニヤフ率いるリクードは、13議席しか取れず、大敗した。


参考:
http://he.wikipedia.org/wiki/%D7%9C%D7%99%D7%9B%D7...
2006年05月03日(水) 02:42:32 Modified by moshejp




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