ファントム・ペイン 番外編 出汁巻き/厚焼き
「珍しいやん」
「何がだ」
昼休みの、学園の中ほどに設置されているサロン。
昼食を取る高校生、中学生が散見される中、その一員である北大路侑子は同級生である伊綾泰巳の弁口箱を見て感嘆の声を上げた。
小奇麗なミニおにぎり、鮭の塩焼き、卵焼き、ピーマンのおかか和え、ズッキーニとナスのグリル、プチトマト、そして彩にバジルの葉。
「カラフル。いっつもはじみーな茶色のもんばっかしやのに」
「親父がメタボだからだ。俺の趣味じゃない」
「飯もいつもはべたーって広げてるだろ。今日は手ぇこんでるじゃん」
同席していた快活そうな男子、渡辺綱も侑子に同意する。
泰巳は弁当箱を二人の視線から庇うように横を向いた。
「そういや、今週からずっとだよな。みょーに伊綾の弁当が豪華になったの」
「さては……」
侑子はにやりと笑って泰巳の隣で黙々と箸を運んでいる少女に目を向けた。
短髪の小柄な少女、面々で唯一の中学生、が目を瞬かせる。
侑子のニヤニヤ笑いに半眼を向ける泰巳。
「何が言いたい」
「べっつにー? ただ、ヤスミンも随分絵麻嬢のことが可愛いと見える」
綱は合点がいったと言う風に手を打った。
「ああ、絵麻ちゃんがっこ通い始めたの、月曜だったな」
泰巳はフンと鼻を鳴らす。
「他人の弁当の中身に口出しする馬鹿もいるからな。俺は構わんが、こいつが変な注目を浴びるのは敵わん。
派手な弁当の方が目立たないと言うのも理不尽だとは思うが」
「ヤスミ」
と、黙って弁当を口に運んでいた短髪の少女、伊綾絵麻が口を開いた。
「お弁当、大変だったり?」
「……大した手間じゃない。どれも手抜きだ」
泰巳は憮然としておにぎりを齧った。
「でも旨そうだよなー。伊綾の弁当も。
どれ、一つ味見をば……」
伸びてきた綱の腕を、泰巳の左手が掴んだ。
「ここを血塗られた戦場にしたいか?」
「……トレードでお願いします」
泰巳の卵焼きと綱の豚生姜焼きが交換される。
泰巳は齧ってぼそりと一言。
「……味が濃いな」
『夏場だと傷みやすいですから』
綱の隣で聞き役に回っていた大人しそうな女子、渡辺結が携帯電話に文字を打ち込んで示して見せた。
どうやら生姜焼きは彼女の手によるものらしい。
綱も綺麗に巻かれた出し巻き卵を口に放り込んだ。
「ん――。塩っ辛いんだな、伊綾ん家の卵焼き」
「お前は何を言っている。塩辛くない卵焼きなどあるものか」
綱は目を丸くする。
「え……。卵焼きって普通甘いじゃん」
「甘い……?」
今度は泰巳の方が目を丸くする番であった。
「真逆、お前の家では卵焼きに砂糖でも入れるのか?」
「当たり前だろう?」
「は――!? 何でや。ありえへん!」
今度は侑子までもが声を上げた。
「卵焼きゆうたら、醤油塩だし汁以外調味料としてありえんやろ!」
「こいつと同意権と言うのは不本意だが、全く同感だ。
菓子以外で卵液に砂糖を入れる等、牛乳とレモン汁を混ぜるのと大差無い。
排水溝に流すのと同じ事だ」
「おおお、お前らおかしいぞ!
卵焼きのふんわりした食感を生かすためにも、砂糖はぜってー必要不可欠だ!」
二対一で旗色が悪い綱は、妹の方に助けを求めた。
「結! お前もなんか言ってやれよ!
卵焼きには砂糖入れるよな普通!?」
掌を上に向けて、肩をすくめる結。
人それぞれ。そう言うこと。
「お前は俺の味方じゃなかったんですかー!」
*
それは正しく、起きて然るべき必然の争いであった。
そもそも江戸における卵焼きは、主にデザートに分類されるべきものである。
こちらの卵焼きは砂糖や味醂などで味付けし、しっかり火を入れる事でボリュームを出してふわりとした軽い食感を出す。
白身の加熱による膨張を利用する甘い卵料理はカステラやケーキの概念に通じ、これがデザートと定義されることへの証左となっている。
"甘い"を"旨い"と同一視する当時の江戸庶民にとって、甘く味付けした卵焼きは花見の供や寿司のしめとして重宝すべきものであった。
関東から越してきた江戸っ子の渡辺綱に"卵焼きは甘いもの"と言う固定観念があったとして、誰にそれを責められよう。
対して、上方の卵焼きはオムレツ同様あくまでおかずであり、ご飯と共に食するものとして発達したものである。
半熟の状態で供されるべきこの卵焼きは冷めると当然不味くなり、あまり弁当に向くとは言えない。
夏場故に仕方なく固めに火を入れた泰巳の遣る瀬無い心中は察して余りあるが、別のメニューを選ばなかった彼の落ち度でもあろう。
関西の卵焼きには出し汁による旨みを凝固によって纏め上げつつ、かつ黄身のとろみを生かす絶妙な火加減が要求される。
この火加減を極めるべく血の滲む研鑽を積み上げてきた伊綾泰巳にとって、卵液に砂糖を加えるのは卵焼きに対する冒涜に等しい。
二人にとって互いの見解は全く許容し難いものであり、調理法を巡り相争うことは避け難い宿命であった。
誰も報われる事無い戦いが始まる。
嗚呼、卵焼きを愛する想いは、二人とも同じはずなのに――――。
*
「お前は味覚消失者か? それともゲテモノ好きか。
目玉焼きに蜂蜜をぶちまけるのを想像して見ろ。
別に醤油をかけようがソースをかけようが塩胡椒で味付けしようが個人の勝手だが。
甘い物を上にかけるのは些かマイノリティという言葉で片付けられない程の異常な趣向であると言わざるを得んな」
「目玉焼きは目玉焼き、卵焼きは卵焼きだ! 全く別モンだ!」
「宿屋の朝食で出て来る卵料理の仲間やないか!
卵焼き目玉焼きゆで卵、ついでにオムレツがご飯の供の定番や!
もしここでゆで卵に砂糖添えられてたり、オムレツにイチゴジャムかかってたらわたしその宿出てくで!」
「気色悪ィもん想像させんな!」
「あんたも良くそんな変態的なメニューを思いつくな……。食欲が無くなって来る」
「元はと言えば渡辺の兄貴のせいやないか!」
「俺のせいかよ!」
なおも生産性のない言い争いが続く中。
絵麻は結の弁当箱を物珍しそうに眺めていた。
結は箸を伸ばし、少し焦げ目の付いた卵焼きを一切れ絵麻の弁当箱に添える。
お辞儀をして、先ほど口にしたものと微妙に違う卵焼きを噛み締める絵麻。
「……ふむ」
*
続けてやって来た同級生もまた卵焼きは塩辛くあるべきとの意見で、すっかり打ちひしがれた綱は昼食を終えた後咽び泣くようにその場を去って行った。
ここ某市(なにがしし)は関西の中心地であり、物心付くまで関東に在住していた彼にとって完全なアウェーである。
負け戦になるのは必然であった。
「……虚しい戦いだった」
泰巳は一人呟きながら弁当箱を片付け始める。
つと、絵麻が自分の弁当箱を泰巳に差し出す。
「お願いします」
ぺこりと一礼。
「……預かれ、と?」
「遊びに行く。いい?」
やれやれと首を振りつつも、泰巳はその弁当箱を預かった。
彼としても、絵麻の交友関係が良好であることは望ましいことである。
「夕飯にまでは戻れるのか」
『7時半までにはガード付きでそちらにお送りします』
結が携帯電話を差し出す。
「……遊びに行くって、行き先は渡辺家か」
半眼でうめく泰巳に構わず、絵麻は一礼すると一足先に中学女子棟に戻っていった。
その後姿を見送りながら泰巳は目を細める。
「あいつ……大丈夫だろうか」
何が? と疑問げに泰巳を見る結。
「友人と言えば俺の関係者ばかりだ。
同級生とつるんでいる所を見た事が無い。
クラスで浮いてたりしないだろうな」
結は笑いながら再び携帯電話に文字を打ち込む。
『伊綾が心配性だから、それに甘えているだけでしょう。
彼女も一人のときは、上手くやれてると思います』
液晶を見て、泰巳は目をしかめた。
「俺が絵麻を依存させていると?」
あるいは、その逆か。
結は肩をすくめて見せる。
彼女は彼女で兄への依存が強いことを自覚している。
泰巳は溜息をついて立ち上がった。
「判ったよ」
尻を払い、二人分の弁当箱を手に取る。
「俺は見守って居れば良いんだろ。
取り敢えずは、あいつの好きな様にさせてやるさ。
尻拭いは後でも出来る」
後ろ手に手を振りつつ、泰巳は一人男子校舎へと向かった。
「絵麻の面倒は頼んだ。
くれぐれも兄貴の方の馬鹿が移らんよう注意して置いてくれ」
*
「では! これより伊綾絵麻訓練生に卵焼き調理特別訓練を授ける!」
時所変わって渡辺宅。
制服の上にエプロンをかけて菜箸を手に仁王立ちする綱を、絵麻は凄まじく不安げな表情で眺めていた。
「ん? 反抗的な目だな絵麻上等兵。
だが、俺の作る卵焼きは三ツ星レベルを凌駕する旨さだ。
見ていろ、俺の究極至高ハイパージャパニーズオムレツを……」
『大丈夫ですよ。兄は凝り性なだけで、時間さえかければちゃんと食べられるものが作れます』
自信満々な綱を余所に、結がラップトップPCのテキストエディタで釈明している。
綱は決して料理がヘタという訳ではないが、手を抜くことを知らず細部に拘るため、一品作るだけで異様に時間がかかるのである。
おまけに料理漫画や料亭のレシピを読んで簡単に影響を受けるため、一般家庭では実現不可能なものにまで手を出そうとする。
以前、デュマの料理本に触発され「ちょっとウミガメ獲りに行ってくる!」などとワシントン条約を畏れぬ台詞を放ったこともあった。
勿論、泰巳に張り倒され結に関節を極められ未遂に終わったのだが。
ともあれ、あらかじめ材料を取り揃え、結が監督して置けば、綱も美味しい料理を作ることが出来るのである。
結は兄に向けてそっと目配せ。
頼むから余計なことは何もやってくれるなと目で訴える。
綱は自信満々で頷き、卵のパックを取り上げた。
「えーと、まず材料だけど。卵と砂糖塩みりんは基本として、ダシには冬枯と昆布、炒り子に鰹節これらを適量ずつブレンドし……」
結はにっこりと笑って、保存していたものを凍した即席ダシのパックを差し出した。
「えー、作り置きー? どうせなら直前に一から取り直した方が……」
結はことさらにっこりと、パックを指し示す。
「い、いやだから折角お客様に出すわけだから、俺としても最高のものを作ってやりたいと……」
結は若干笑顔を引きつらせつつ、パックを綱の眼前に押し付けた。
渡辺家の母親が夕飯の支度を始める時間まで、そう長くはない。
「……作り置きでいいです。はい」
折れる綱。
結、鷹揚に頷く。
上手く兄をコントロールしている。絵麻は密かに感心した。
「まあ、材料はこんなとこか。
んじゃ、タマゴ割ってみてくれ」
Mサイズの鶏卵が一つ、綱から絵麻の手に渡される。
絵麻はボールの上でそれをおもむろに握りつぶした。
指の間から滴る卵液。
「割ったよ」
「……なんとお約束な。ひょっとしてこういうのから教えんとあかんのか」
極めて珍しい事に、普段他人を困らせる立場にいる綱が頭を抱えていた。
苦笑する結。
絵麻は何が問題か判らず、首を傾げる。
「これは……長い戦いになりそうだな」
……
「いいか! 油はよーく熱してからタマゴ入れるんだぞ!
そこ! 言ってるそばから別のモン入れようとすんな! それはダシ汁だ!
どけ絵麻ちゃん! ぎゃー! 撥ねる撥ねる! あちー!」
「どーして目玉焼きが出来るんだ! 最初に解きほぐしといただろ!
結! そっちの監視頼む!
なにぃ!? そっちはゆで卵になっただと!? 湯もないのにどーやったんだ!?
しょーがねえ、予備のパックだ!」
「どわー! タマゴが! タマゴが爆発した!」
……………………
*
「……遅いな」
夕飯の支度を終え、泰巳はテーブルの前に腰掛けて頬杖をつきながら、壁に掛かった時計を睨んでいた。
7時27分。
約束の時間が迫る。
勿論、彼が待っているのは普段から9時前の帰宅が極稀な父親のことではない。
「先に食べるか」
一瞬感じた寂しさを誤魔化すように、泰巳は溜息を吐いて立ち上がった。
見計らったかのよなタイミングで鳴る呼び鈴。
泰巳はドアスコープ越しに訪問者を確認すると、ドアを開ける。
「遅かったな」
「ただいま」
走ったのだろうか、絵麻は少し汗ばんだ様子だった。
普段より少し彼女のテンションが高めな事に気付いたが、それより泰巳には気になることがあった。
「送迎は有難いが、妹の方が来るとは思わなかった。兄貴の方はどうした」
絵麻を伊綾家まで送って来た結は、少し疲れた様子で携帯の液晶を示した。
『兄は疲れて伏してます。KO状態です』
「何?」
泰巳は眼鏡を抑えて目を凝らす。
「渡辺兄が? あの万年アドレナリン異常分泌男が? 疲れてる?
有りえんだろう。一体何があった」
結は苦笑しながら一礼すると、踵を返す。
「待て、近くとは言え一人で帰る気か」
頷いて申し出を押し留めようとする結を制し、泰巳は薄手のパーカーを掴んで靴を履き始めた。
「送って行く。夕飯の準備は済んでるからな」
「それ、私が――」
「お前は先にシャワー浴びてろ。行ってくる」
絵麻が本末転倒なアイデアを出す前に、泰巳は立ち上がって結の肩を叩いた。
結は肩をすくめて、携帯電話に何事か打ち込む。
『人の厚意は碌に受け入れないくせに、他人には勝手に自分のルールを押し付ける。
伊綾の悪い癖です』
俺は無視を決め込んで先に進んだ。
*
西の空はまだ僅かに明るいが、茹だる様な暑さはなりを潜め、涼しげな風が首元を流れる。
泰巳は先を行く結の後姿をぼんやりと眺めていた。
シノワズリな刺繍の入ったシャツにサブリナパンツの私服姿は、見慣れない分新鮮だ。
夏の夜、若き男女が二人きり連れ立って歩く。
甘酸いものを連想させなくもなかったが、泰巳は特に気にする様子もなかった。
(そう言えば、俺の初恋はこいつだったな)
とうに昔の話だった。
ふと、結が振り返る。
口を示して、何度か唇を動かす。
泰巳は首を振った。
この暗がりでは、良く見えない。
結は携帯に切り替えた。
『絵麻さん、普段はどんな感じですか?』
「感じ……?」
何を訊きたいのか判らず、いぶかしむ。
「まあ、概ね大人しい方じゃないか?
洗濯やらプライベートの線引きやら難しい所は在るが、苦労してるのは向こうも同じだろう。
それよりも慣れもしない家事を手伝おうとして、あちこちうろつかれるのは迷惑だが」
結は得心が行ったと言う風に頷いた。
「何だ。何が言いたい」
結はただ笑って携帯電話に文字を打ち込む。
『楽しいですよね。誰かにご飯を作ってあげたり、面倒を見たりするのは』
「……」
泰巳は無言だった。
楽しい。
確かにそうかも知れない。
父親に、絵麻に世話を焼くことで、泰巳は寂しさを紛らわし、己の存在意義を見出しているのだろう。
『でも偶には、他人の厚意も受け入れないと駄目ですよ?』
「……今日はやけに説教臭いんだな」
いつの間にか渡辺家の前までたどり着いていた。
結は悪戯っぽく笑いながら一礼して、アーチ門の向こうに消えて行く。
泰巳はその後姿を見送りながら、一人目を顰めた。
「何時も何時も、自分の本心は見せない癖に、人の事は見透かしやがる。
だからあいつは苦手なんだ」
*
翌朝、何時もより僅かに早い時間、自然と泰巳は目を覚ました。
目覚ましはまだ鳴っていない。
寝巻きを着替えながら、泰巳は僅かな異臭に鼻をひく付かせた。
焦げ臭い。
泰巳は嫌な予感に目を顰めると、自室の扉を開けて真っ直ぐと台所へ向かった。
臭いが強くなる。
まだほの暗い朝日を掻き消す様にこうこうと蛍光灯の灯る中、ガスコンロの前で短髪の少女がフライパンを手に悪戦苦闘していた。
テーブルの上の大皿には、焦げ付いた黄色っぽいカタマリが山ほど積み上げられている。
「――――何をしている」
絵麻は目を丸くして振り返った。
「……おはよう?」
「ああ、早いな。今何時だと思っている。
それで、お前は一体何をしているんだ」
「もう、ちょっと、待って」
絵麻は再びコンロに向き直ると、一心不乱にフライパンを振り始めた。
「……おい」
呼び止める間もなく、絵麻は最後に一振りして中の物体をひっくり返すと、そのまま平皿にそれを移した。
そしてその皿を泰巳の目の前のテーブル上に置く。
少し不恰好だが、程よい焦げ目の付いた楕円筒型の黄色いそれは間違いなく――――
「卵焼きか」
絵麻は頷いただけ、何かを期待するような眼差しで泰巳をじっと見詰めた。
食べてみろと、そう言うことなのだろう。
「一体何の心算……」
(――偶には他人の厚意も受け入れないと駄目ですよ――)
ふと脳裏に、昨日言われた言葉、ならぬ書かれた文章が脳裏をよぎった。
泰巳は勝手に台所を使ったことを咎めるのも真意を問い質すのも後回しにし、箸を取って手を合わせた。
「頂こう」
箸で一部を裂いて、断面から湯気の上るそれを口に運ぶ。
「……」
「……」
甘かった。
半熟ではなく、中まで火が通っていた。
今まで口にしたことの無い食感だった。
けれど、
「悪くない、な」
半熟のとろりとした出汁巻きが好みではあるが、ふんわりした優しい甘さの厚焼きも、偶には良い。
少女は恥ずかしそうにはにかむ。
綻びかけた蕾のような笑顔。
普段感情を押さえ気味の彼女が、初めて見せる表情だった。
その笑顔を、若干の驚きをもって見詰めながら、泰巳もまた僅かに微笑んだ。
「ああ」
自然と手が少女の頭に伸びる。
出合った頃と比べると少し長くなった髪を撫でながら、泰巳は繰り返してやった。
絵麻はくすぐったそうに目を細める。
「悪くない」
…………
「で」
約一時間後。
普段伊綾家が朝食を取る時間。
所帯主の伊綾靖士はテーブルの上に置かれた大量の黄色とこげ茶色のペーストを前に息を呑んだ。
「どうして今日の朝食は卵焼きだけなの?
主食は卵焼きでおかずも卵焼き、デザートは言うまでもなく卵焼き?」
「煩え。黙って食え」
泰巳は殊更うんざりした様な顔で、先程の完成品に至るまでに発生した大量の失敗作を口に運んでいた。
「……ごめんなさい」
絵麻もしょげたような表情で、黙々と焦げたスクランブルエッグを咀嚼している。
「ううう。カロリーが体脂肪率がコレステロールが……」
靖士も仕方なく卵焼きを食べ始める。
残りは弁当に詰めて、夕食にも使おう。
頭の中で処分する算段を組み立てながら、泰巳は深々と溜息をついた。
「もう二度と、こいつを一人で台所に立たせる愚は犯さんからな」
「何がだ」
昼休みの、学園の中ほどに設置されているサロン。
昼食を取る高校生、中学生が散見される中、その一員である北大路侑子は同級生である伊綾泰巳の弁口箱を見て感嘆の声を上げた。
小奇麗なミニおにぎり、鮭の塩焼き、卵焼き、ピーマンのおかか和え、ズッキーニとナスのグリル、プチトマト、そして彩にバジルの葉。
「カラフル。いっつもはじみーな茶色のもんばっかしやのに」
「親父がメタボだからだ。俺の趣味じゃない」
「飯もいつもはべたーって広げてるだろ。今日は手ぇこんでるじゃん」
同席していた快活そうな男子、渡辺綱も侑子に同意する。
泰巳は弁当箱を二人の視線から庇うように横を向いた。
「そういや、今週からずっとだよな。みょーに伊綾の弁当が豪華になったの」
「さては……」
侑子はにやりと笑って泰巳の隣で黙々と箸を運んでいる少女に目を向けた。
短髪の小柄な少女、面々で唯一の中学生、が目を瞬かせる。
侑子のニヤニヤ笑いに半眼を向ける泰巳。
「何が言いたい」
「べっつにー? ただ、ヤスミンも随分絵麻嬢のことが可愛いと見える」
綱は合点がいったと言う風に手を打った。
「ああ、絵麻ちゃんがっこ通い始めたの、月曜だったな」
泰巳はフンと鼻を鳴らす。
「他人の弁当の中身に口出しする馬鹿もいるからな。俺は構わんが、こいつが変な注目を浴びるのは敵わん。
派手な弁当の方が目立たないと言うのも理不尽だとは思うが」
「ヤスミ」
と、黙って弁当を口に運んでいた短髪の少女、伊綾絵麻が口を開いた。
「お弁当、大変だったり?」
「……大した手間じゃない。どれも手抜きだ」
泰巳は憮然としておにぎりを齧った。
「でも旨そうだよなー。伊綾の弁当も。
どれ、一つ味見をば……」
伸びてきた綱の腕を、泰巳の左手が掴んだ。
「ここを血塗られた戦場にしたいか?」
「……トレードでお願いします」
泰巳の卵焼きと綱の豚生姜焼きが交換される。
泰巳は齧ってぼそりと一言。
「……味が濃いな」
『夏場だと傷みやすいですから』
綱の隣で聞き役に回っていた大人しそうな女子、渡辺結が携帯電話に文字を打ち込んで示して見せた。
どうやら生姜焼きは彼女の手によるものらしい。
綱も綺麗に巻かれた出し巻き卵を口に放り込んだ。
「ん――。塩っ辛いんだな、伊綾ん家の卵焼き」
「お前は何を言っている。塩辛くない卵焼きなどあるものか」
綱は目を丸くする。
「え……。卵焼きって普通甘いじゃん」
「甘い……?」
今度は泰巳の方が目を丸くする番であった。
「真逆、お前の家では卵焼きに砂糖でも入れるのか?」
「当たり前だろう?」
「は――!? 何でや。ありえへん!」
今度は侑子までもが声を上げた。
「卵焼きゆうたら、醤油塩だし汁以外調味料としてありえんやろ!」
「こいつと同意権と言うのは不本意だが、全く同感だ。
菓子以外で卵液に砂糖を入れる等、牛乳とレモン汁を混ぜるのと大差無い。
排水溝に流すのと同じ事だ」
「おおお、お前らおかしいぞ!
卵焼きのふんわりした食感を生かすためにも、砂糖はぜってー必要不可欠だ!」
二対一で旗色が悪い綱は、妹の方に助けを求めた。
「結! お前もなんか言ってやれよ!
卵焼きには砂糖入れるよな普通!?」
掌を上に向けて、肩をすくめる結。
人それぞれ。そう言うこと。
「お前は俺の味方じゃなかったんですかー!」
*
それは正しく、起きて然るべき必然の争いであった。
そもそも江戸における卵焼きは、主にデザートに分類されるべきものである。
こちらの卵焼きは砂糖や味醂などで味付けし、しっかり火を入れる事でボリュームを出してふわりとした軽い食感を出す。
白身の加熱による膨張を利用する甘い卵料理はカステラやケーキの概念に通じ、これがデザートと定義されることへの証左となっている。
"甘い"を"旨い"と同一視する当時の江戸庶民にとって、甘く味付けした卵焼きは花見の供や寿司のしめとして重宝すべきものであった。
関東から越してきた江戸っ子の渡辺綱に"卵焼きは甘いもの"と言う固定観念があったとして、誰にそれを責められよう。
対して、上方の卵焼きはオムレツ同様あくまでおかずであり、ご飯と共に食するものとして発達したものである。
半熟の状態で供されるべきこの卵焼きは冷めると当然不味くなり、あまり弁当に向くとは言えない。
夏場故に仕方なく固めに火を入れた泰巳の遣る瀬無い心中は察して余りあるが、別のメニューを選ばなかった彼の落ち度でもあろう。
関西の卵焼きには出し汁による旨みを凝固によって纏め上げつつ、かつ黄身のとろみを生かす絶妙な火加減が要求される。
この火加減を極めるべく血の滲む研鑽を積み上げてきた伊綾泰巳にとって、卵液に砂糖を加えるのは卵焼きに対する冒涜に等しい。
二人にとって互いの見解は全く許容し難いものであり、調理法を巡り相争うことは避け難い宿命であった。
誰も報われる事無い戦いが始まる。
嗚呼、卵焼きを愛する想いは、二人とも同じはずなのに――――。
*
「お前は味覚消失者か? それともゲテモノ好きか。
目玉焼きに蜂蜜をぶちまけるのを想像して見ろ。
別に醤油をかけようがソースをかけようが塩胡椒で味付けしようが個人の勝手だが。
甘い物を上にかけるのは些かマイノリティという言葉で片付けられない程の異常な趣向であると言わざるを得んな」
「目玉焼きは目玉焼き、卵焼きは卵焼きだ! 全く別モンだ!」
「宿屋の朝食で出て来る卵料理の仲間やないか!
卵焼き目玉焼きゆで卵、ついでにオムレツがご飯の供の定番や!
もしここでゆで卵に砂糖添えられてたり、オムレツにイチゴジャムかかってたらわたしその宿出てくで!」
「気色悪ィもん想像させんな!」
「あんたも良くそんな変態的なメニューを思いつくな……。食欲が無くなって来る」
「元はと言えば渡辺の兄貴のせいやないか!」
「俺のせいかよ!」
なおも生産性のない言い争いが続く中。
絵麻は結の弁当箱を物珍しそうに眺めていた。
結は箸を伸ばし、少し焦げ目の付いた卵焼きを一切れ絵麻の弁当箱に添える。
お辞儀をして、先ほど口にしたものと微妙に違う卵焼きを噛み締める絵麻。
「……ふむ」
*
続けてやって来た同級生もまた卵焼きは塩辛くあるべきとの意見で、すっかり打ちひしがれた綱は昼食を終えた後咽び泣くようにその場を去って行った。
ここ某市(なにがしし)は関西の中心地であり、物心付くまで関東に在住していた彼にとって完全なアウェーである。
負け戦になるのは必然であった。
「……虚しい戦いだった」
泰巳は一人呟きながら弁当箱を片付け始める。
つと、絵麻が自分の弁当箱を泰巳に差し出す。
「お願いします」
ぺこりと一礼。
「……預かれ、と?」
「遊びに行く。いい?」
やれやれと首を振りつつも、泰巳はその弁当箱を預かった。
彼としても、絵麻の交友関係が良好であることは望ましいことである。
「夕飯にまでは戻れるのか」
『7時半までにはガード付きでそちらにお送りします』
結が携帯電話を差し出す。
「……遊びに行くって、行き先は渡辺家か」
半眼でうめく泰巳に構わず、絵麻は一礼すると一足先に中学女子棟に戻っていった。
その後姿を見送りながら泰巳は目を細める。
「あいつ……大丈夫だろうか」
何が? と疑問げに泰巳を見る結。
「友人と言えば俺の関係者ばかりだ。
同級生とつるんでいる所を見た事が無い。
クラスで浮いてたりしないだろうな」
結は笑いながら再び携帯電話に文字を打ち込む。
『伊綾が心配性だから、それに甘えているだけでしょう。
彼女も一人のときは、上手くやれてると思います』
液晶を見て、泰巳は目をしかめた。
「俺が絵麻を依存させていると?」
あるいは、その逆か。
結は肩をすくめて見せる。
彼女は彼女で兄への依存が強いことを自覚している。
泰巳は溜息をついて立ち上がった。
「判ったよ」
尻を払い、二人分の弁当箱を手に取る。
「俺は見守って居れば良いんだろ。
取り敢えずは、あいつの好きな様にさせてやるさ。
尻拭いは後でも出来る」
後ろ手に手を振りつつ、泰巳は一人男子校舎へと向かった。
「絵麻の面倒は頼んだ。
くれぐれも兄貴の方の馬鹿が移らんよう注意して置いてくれ」
*
「では! これより伊綾絵麻訓練生に卵焼き調理特別訓練を授ける!」
時所変わって渡辺宅。
制服の上にエプロンをかけて菜箸を手に仁王立ちする綱を、絵麻は凄まじく不安げな表情で眺めていた。
「ん? 反抗的な目だな絵麻上等兵。
だが、俺の作る卵焼きは三ツ星レベルを凌駕する旨さだ。
見ていろ、俺の究極至高ハイパージャパニーズオムレツを……」
『大丈夫ですよ。兄は凝り性なだけで、時間さえかければちゃんと食べられるものが作れます』
自信満々な綱を余所に、結がラップトップPCのテキストエディタで釈明している。
綱は決して料理がヘタという訳ではないが、手を抜くことを知らず細部に拘るため、一品作るだけで異様に時間がかかるのである。
おまけに料理漫画や料亭のレシピを読んで簡単に影響を受けるため、一般家庭では実現不可能なものにまで手を出そうとする。
以前、デュマの料理本に触発され「ちょっとウミガメ獲りに行ってくる!」などとワシントン条約を畏れぬ台詞を放ったこともあった。
勿論、泰巳に張り倒され結に関節を極められ未遂に終わったのだが。
ともあれ、あらかじめ材料を取り揃え、結が監督して置けば、綱も美味しい料理を作ることが出来るのである。
結は兄に向けてそっと目配せ。
頼むから余計なことは何もやってくれるなと目で訴える。
綱は自信満々で頷き、卵のパックを取り上げた。
「えーと、まず材料だけど。卵と砂糖塩みりんは基本として、ダシには冬枯と昆布、炒り子に鰹節これらを適量ずつブレンドし……」
結はにっこりと笑って、保存していたものを凍した即席ダシのパックを差し出した。
「えー、作り置きー? どうせなら直前に一から取り直した方が……」
結はことさらにっこりと、パックを指し示す。
「い、いやだから折角お客様に出すわけだから、俺としても最高のものを作ってやりたいと……」
結は若干笑顔を引きつらせつつ、パックを綱の眼前に押し付けた。
渡辺家の母親が夕飯の支度を始める時間まで、そう長くはない。
「……作り置きでいいです。はい」
折れる綱。
結、鷹揚に頷く。
上手く兄をコントロールしている。絵麻は密かに感心した。
「まあ、材料はこんなとこか。
んじゃ、タマゴ割ってみてくれ」
Mサイズの鶏卵が一つ、綱から絵麻の手に渡される。
絵麻はボールの上でそれをおもむろに握りつぶした。
指の間から滴る卵液。
「割ったよ」
「……なんとお約束な。ひょっとしてこういうのから教えんとあかんのか」
極めて珍しい事に、普段他人を困らせる立場にいる綱が頭を抱えていた。
苦笑する結。
絵麻は何が問題か判らず、首を傾げる。
「これは……長い戦いになりそうだな」
……
「いいか! 油はよーく熱してからタマゴ入れるんだぞ!
そこ! 言ってるそばから別のモン入れようとすんな! それはダシ汁だ!
どけ絵麻ちゃん! ぎゃー! 撥ねる撥ねる! あちー!」
「どーして目玉焼きが出来るんだ! 最初に解きほぐしといただろ!
結! そっちの監視頼む!
なにぃ!? そっちはゆで卵になっただと!? 湯もないのにどーやったんだ!?
しょーがねえ、予備のパックだ!」
「どわー! タマゴが! タマゴが爆発した!」
……………………
*
「……遅いな」
夕飯の支度を終え、泰巳はテーブルの前に腰掛けて頬杖をつきながら、壁に掛かった時計を睨んでいた。
7時27分。
約束の時間が迫る。
勿論、彼が待っているのは普段から9時前の帰宅が極稀な父親のことではない。
「先に食べるか」
一瞬感じた寂しさを誤魔化すように、泰巳は溜息を吐いて立ち上がった。
見計らったかのよなタイミングで鳴る呼び鈴。
泰巳はドアスコープ越しに訪問者を確認すると、ドアを開ける。
「遅かったな」
「ただいま」
走ったのだろうか、絵麻は少し汗ばんだ様子だった。
普段より少し彼女のテンションが高めな事に気付いたが、それより泰巳には気になることがあった。
「送迎は有難いが、妹の方が来るとは思わなかった。兄貴の方はどうした」
絵麻を伊綾家まで送って来た結は、少し疲れた様子で携帯の液晶を示した。
『兄は疲れて伏してます。KO状態です』
「何?」
泰巳は眼鏡を抑えて目を凝らす。
「渡辺兄が? あの万年アドレナリン異常分泌男が? 疲れてる?
有りえんだろう。一体何があった」
結は苦笑しながら一礼すると、踵を返す。
「待て、近くとは言え一人で帰る気か」
頷いて申し出を押し留めようとする結を制し、泰巳は薄手のパーカーを掴んで靴を履き始めた。
「送って行く。夕飯の準備は済んでるからな」
「それ、私が――」
「お前は先にシャワー浴びてろ。行ってくる」
絵麻が本末転倒なアイデアを出す前に、泰巳は立ち上がって結の肩を叩いた。
結は肩をすくめて、携帯電話に何事か打ち込む。
『人の厚意は碌に受け入れないくせに、他人には勝手に自分のルールを押し付ける。
伊綾の悪い癖です』
俺は無視を決め込んで先に進んだ。
*
西の空はまだ僅かに明るいが、茹だる様な暑さはなりを潜め、涼しげな風が首元を流れる。
泰巳は先を行く結の後姿をぼんやりと眺めていた。
シノワズリな刺繍の入ったシャツにサブリナパンツの私服姿は、見慣れない分新鮮だ。
夏の夜、若き男女が二人きり連れ立って歩く。
甘酸いものを連想させなくもなかったが、泰巳は特に気にする様子もなかった。
(そう言えば、俺の初恋はこいつだったな)
とうに昔の話だった。
ふと、結が振り返る。
口を示して、何度か唇を動かす。
泰巳は首を振った。
この暗がりでは、良く見えない。
結は携帯に切り替えた。
『絵麻さん、普段はどんな感じですか?』
「感じ……?」
何を訊きたいのか判らず、いぶかしむ。
「まあ、概ね大人しい方じゃないか?
洗濯やらプライベートの線引きやら難しい所は在るが、苦労してるのは向こうも同じだろう。
それよりも慣れもしない家事を手伝おうとして、あちこちうろつかれるのは迷惑だが」
結は得心が行ったと言う風に頷いた。
「何だ。何が言いたい」
結はただ笑って携帯電話に文字を打ち込む。
『楽しいですよね。誰かにご飯を作ってあげたり、面倒を見たりするのは』
「……」
泰巳は無言だった。
楽しい。
確かにそうかも知れない。
父親に、絵麻に世話を焼くことで、泰巳は寂しさを紛らわし、己の存在意義を見出しているのだろう。
『でも偶には、他人の厚意も受け入れないと駄目ですよ?』
「……今日はやけに説教臭いんだな」
いつの間にか渡辺家の前までたどり着いていた。
結は悪戯っぽく笑いながら一礼して、アーチ門の向こうに消えて行く。
泰巳はその後姿を見送りながら、一人目を顰めた。
「何時も何時も、自分の本心は見せない癖に、人の事は見透かしやがる。
だからあいつは苦手なんだ」
*
翌朝、何時もより僅かに早い時間、自然と泰巳は目を覚ました。
目覚ましはまだ鳴っていない。
寝巻きを着替えながら、泰巳は僅かな異臭に鼻をひく付かせた。
焦げ臭い。
泰巳は嫌な予感に目を顰めると、自室の扉を開けて真っ直ぐと台所へ向かった。
臭いが強くなる。
まだほの暗い朝日を掻き消す様にこうこうと蛍光灯の灯る中、ガスコンロの前で短髪の少女がフライパンを手に悪戦苦闘していた。
テーブルの上の大皿には、焦げ付いた黄色っぽいカタマリが山ほど積み上げられている。
「――――何をしている」
絵麻は目を丸くして振り返った。
「……おはよう?」
「ああ、早いな。今何時だと思っている。
それで、お前は一体何をしているんだ」
「もう、ちょっと、待って」
絵麻は再びコンロに向き直ると、一心不乱にフライパンを振り始めた。
「……おい」
呼び止める間もなく、絵麻は最後に一振りして中の物体をひっくり返すと、そのまま平皿にそれを移した。
そしてその皿を泰巳の目の前のテーブル上に置く。
少し不恰好だが、程よい焦げ目の付いた楕円筒型の黄色いそれは間違いなく――――
「卵焼きか」
絵麻は頷いただけ、何かを期待するような眼差しで泰巳をじっと見詰めた。
食べてみろと、そう言うことなのだろう。
「一体何の心算……」
(――偶には他人の厚意も受け入れないと駄目ですよ――)
ふと脳裏に、昨日言われた言葉、ならぬ書かれた文章が脳裏をよぎった。
泰巳は勝手に台所を使ったことを咎めるのも真意を問い質すのも後回しにし、箸を取って手を合わせた。
「頂こう」
箸で一部を裂いて、断面から湯気の上るそれを口に運ぶ。
「……」
「……」
甘かった。
半熟ではなく、中まで火が通っていた。
今まで口にしたことの無い食感だった。
けれど、
「悪くない、な」
半熟のとろりとした出汁巻きが好みではあるが、ふんわりした優しい甘さの厚焼きも、偶には良い。
少女は恥ずかしそうにはにかむ。
綻びかけた蕾のような笑顔。
普段感情を押さえ気味の彼女が、初めて見せる表情だった。
その笑顔を、若干の驚きをもって見詰めながら、泰巳もまた僅かに微笑んだ。
「ああ」
自然と手が少女の頭に伸びる。
出合った頃と比べると少し長くなった髪を撫でながら、泰巳は繰り返してやった。
絵麻はくすぐったそうに目を細める。
「悪くない」
…………
「で」
約一時間後。
普段伊綾家が朝食を取る時間。
所帯主の伊綾靖士はテーブルの上に置かれた大量の黄色とこげ茶色のペーストを前に息を呑んだ。
「どうして今日の朝食は卵焼きだけなの?
主食は卵焼きでおかずも卵焼き、デザートは言うまでもなく卵焼き?」
「煩え。黙って食え」
泰巳は殊更うんざりした様な顔で、先程の完成品に至るまでに発生した大量の失敗作を口に運んでいた。
「……ごめんなさい」
絵麻もしょげたような表情で、黙々と焦げたスクランブルエッグを咀嚼している。
「ううう。カロリーが体脂肪率がコレステロールが……」
靖士も仕方なく卵焼きを食べ始める。
残りは弁当に詰めて、夕食にも使おう。
頭の中で処分する算段を組み立てながら、泰巳は深々と溜息をついた。
「もう二度と、こいつを一人で台所に立たせる愚は犯さんからな」
2011年08月24日(水) 11:13:12 Modified by ID:uSfNTvF4uw