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ファントム・ペイン 6話 沈黙/告白



――――あつい
――――くるしい
――――いたい

――――なにも、みえない
――――なにも、きこえない

――――たすけて

――――おかあさん
――――おとおさん

――――こえを、きかせてよ
――――つな

――――
――――――――

(――――綱!)
「大丈夫か、結」
渡辺結は目を覚ますと、直ぐ間近で兄の綱が心配そうに覗き込んでいる事に気付いた。
総合病院の待合室。ベンチに座ったまま眠り込んでいたらしい。
見回すと辺りは薄暗く、人気も無い。
時計を見るとすでに10時を回っていた。
「うなされてたぞ。悪い夢でも見たか?」
(うん)
この世にたった一人、綱にしか判らない"声"で結は返答した。
発話障害を負う彼女には、この方法が最も簡単なコミュニケーション手段だ。
(ちょっと昔の夢を、ね)
いつも通り笑顔を出そうとするが、顔が強張る。
喉が渇いていた。
「ほれ」
投げて寄越されたオレンジジュースの缶を受け取る。
タブを開けて一口啜った。
疲れた脳に爽やかな酸味が広がる。
(絵麻さんは?)
「さっき連絡来た。無事だってさ」
結は安堵の息を漏らした。
直ぐに緩めた表情を引き締めて呟く。

(あの代謝速度、普通じゃなかった。
伊綾の御尊父さん、例の会社の系列だよね。
ひょっとすると絵麻さんも……)
「とすると、俺達のふたつ下だから、もう試作段階に入ってた世代か。
じゃあ、多分ウィルス共生型……殆ど処分されたって聞いたけど。
上のほうがバカなせいで、例のウィルスに感染性が有るなんて信じちゃってさ」
結は缶を置いて俯いた。
「どした?」
(これから、あの娘とどう接していけばいいのかな)
弱々しく笑う結。
「いつも通りでいいんじゃね」
さも当然と言った風に、綱は答えた。
(でも、予想が正しければ、彼女そう長くは……)
「んなの、誰だって同じだ」
綱は力強く断言する。
「俺だってお前だって、明日交通事故で死ぬかもしれないし、今日階段で足滑らせて死ぬかもしれない。
隕石が偶然頭直撃して死ぬかもしんねえし、饅頭5コいっき食いして喉を詰まらせて死ぬかもしんねえ」
(最後ので死ぬのは綱だけだと思うけど)
結は緊張がほぐれて苦笑した。
「まあ、とにかく俺達に出来るのは、車に気をつけたりとか、足元を注意したりとか、そんなことだ。
どうしようもない事はどうしようもないし、まして他人の事ならなおさらさ。
絵麻ちゃんの場合、恐らくそのどうしようもない部分が多いってだけだろ」
(私は綱ほど割りきりが良くないよ)
結はジュースを飲み干すと、立ち上がって伸びをした。
(時を見計らって、一度話をしてみる、絵麻さんと。
一応私達の出自も話しておいたほうが良さそうだし)
「そーだな。今日のとこは帰ろうぜ。
おっと、その前になんか食っていこう。
もうハラがへって背中とくっつきそうだ」
(母さん、夕飯作っておいたと電話で言ってたでしょ。
ちゃんと家に帰ってから食べようね)
傍から見ると片方が一方的に話しかけている奇妙な二人。
缶をくずかごに入れて立ち去った後、照明が完全に落ち、待合室は闇に包まれた。



深夜の総合病院。
病室の前で俺はベンチに座る事もせず、絵麻の診療が終わるのを待ち構えていた。
集中治療室ではないが、クリーンルームを丸々一つ貸し切っている。
約20分間の心肺停止。命に関わる程ではないものの、大出血を数点。一部に2度程の火傷。恐らく骨折も多数。
以上を踏まえれば若干物足りない処置では有るが――――。
――――救急車で運ばれて行く直前の彼女の容態を考えれば、余りに物々しい。
そう、あの時点で、彼女は全くの無傷だった。
呼吸停止から救急車がたどり着くまでの間に、全ての症状が回復していた。
脈拍も意識も正常。傷のあった場所には、真新しい皮膚が生え変わっていた。
非常識だ。有り得ない。
プラナリアだか何かなら話は判るが、彼女は人間だ。
人間の、筈だ。
「……判んねえ」
呟いたその直後、病室の扉が横にスライドし、白衣姿の人間が数名廊下に出て来る。
その中に一人、見知った顔がいた。
「親父」
白衣を着た親父は俺の姿に気付くと、一緒に出て来た医者達に頷いて、一人俺の方へ近付いて来る。
「あんた医者だったのか? サラリーマンだとばかり思っていた」
「サラリーマンだよ。製薬会社のね。
医師免許は無いけど、薬剤師の資格ならある」
親父は近くのベンチに座ると、俺にも座る様に促す。
随分と疲れた顔だった。
俺は直ぐには座らずに、ベンチの脇の自動販売機に向かう。
「何か飲むか? 時間があればで良いが」
「ん? ああ、時間なら大丈夫。
そうだね。熱いお茶を頼むよ」
俺は金を入れて、ホットの緑茶と無糖カフェオレを選んだ。
湯気の立つ紙コップの片方を渡す。
「ありがと」
二人少し距離を置いてベンチに腰掛け、飲み物を啜った。
「絵麻は?」
「大丈夫だよ。精神肉体とも平常と変わりない」
予想通りの答えが返って来た。
「……説明、してくれるんだろうな」
今更何を、とは言わない。
親父は溜息を吐いて、手に持っていたクリップファイルを俺に手渡した。
「カルテ……?」
ドイツ語ではなく、有る程度見慣れている英語で書かれたそれには、坊主頭で今より少し幼い絵麻の顔写真が載せられている。
"Patient"の欄に"Ema Kornberg"とあり、その横に"subject No.723"と記されていた。
"実験体第723号"、と。
「実験、動物」
どこかで予想はしていたものの、余りに非現実的で頭の中から閉め出していた可能性。
俺はファイルを握る手に力を込めた。
親父は虚空を眺めながら、話を切り出す。

「話は長くなるよ。いい?」
俺は無言で頷いて先を促した。
「優生学ってのは知ってる?」
「名前だけなら。……あれだろ、ナチスか何か」
親父は頷いた。
「簡単に言えば、『金持ち』とか『犯罪者』とか、社会的な価値観で決定される個人の形質を、単純に遺伝子に依るものと仮定して研究する学問のことだね。
これを階級闘争と結び付けて考えたのが社会ダーウィニズム。
そして偏った民族主義と結び付いた果てがホロコーストになる。
かつてはヨーロッパに限らずアメリカでもありふれた考え方だった。
植民地支配を正当化するには都合の良い考え方だったからね。
何より、自然科学とキリスト教的世界観のギャップを埋める矛盾の無い理論が求められていた。
化石の発掘により判明する、救済なく絶滅した数え切れないほどの種。
彼らはより優れた存在へ至るための、意味の有る尊い犠牲者でなければならなかった。
故に、自分達が進化の頂上にあると言う自尊と共に、優生学は浸透していく。
その結果、精神疾患罹患者、同性愛者、被差別階級、少数民族に対する極端な法律が多数採択された。
やがて、第二次世界大戦を経てナチスのユダヤ人虐殺が明るみになると、優生学者たちは軒並み支持を失う。
けれど一部のパトロンは、その後も彼らの強力な支持者であり続けた」
親父はそこで茶を一口啜り、息をついた。
「……1950年代に入り、DNAこそが遺伝物質であると証明された後も、人間に対する遺伝子の研究は禁忌だった。
かつての優生学者たちの一部、優生的遺伝学者とでも言おうか、そして彼らの支持者たちはそれを怠慢であると見なす。
より高次の存在へ、進化の階段を進むという神聖な義務を怠っている、とね。
彼らは独自のコミュニティの中で、秘密裏にヒトを直接対象にした研究を進めた。
ただ、当初その研究で目に見える成果はなく、実際に"より優秀な"人類を創造するレベルからは程遠いと言わざるを得ない。
まあ、当然なんだけどね。彼らの求める"優秀さ"は主に後天的な社会スキルだったし。
何より閉鎖的な狭いコミュニティの中で、設備は不十分、ろくな対称実験もなく、基礎研究を疎かにしている。
そんな中でまともな成果が出せるはずもない。
何千と言う受精卵、胚、胎児、そして数十に及ぶ死児と未熟児を犠牲にして、彼らが得たものは自己満足だけだった。
けれど、20年ほどして状況が変わる。
強力なスポンサーが付いたんだ。
大きいのが製薬会社。
70年代、公害や薬害に対する認識が広まり、臨床試験に対する規制が厳しくなった上に、動物愛護団体が動物実験に反対し始める。
実験を円滑に進めるためにも、地下に潜った優生的遺伝学者たちのラボは利用のし甲斐があり、学者の方も資金や資材が必要だった。
後は軍隊だね。
ベトナム戦争で、先進国における戦死者が後方に与える打撃を痛感した軍の関係者たちは、機械化を急ぐ一方、それまで以上に"死ににくい兵士"の研究に力を注ぐようになった。
まともな研究資材とバックアップ、そして成果を出さなければならないプレッシャー。
これらによって、優生的遺伝学者たちの研究は、一気に加速した。
そして、ついに彼らの理想を体現した、生後数年は生存できるまともなデザイナチャイルドが誕生する。
最初は身体能力の増強、免疫力の強化、そして"無駄な"遺伝子外DNAの削除が課題だった。
けどね、ヒトの細胞システムは元々上手く出来ていて、しかも極めて微妙なバランスの上に成り立っているものだ。
どれかを動かせば、片方のバランスが崩れる。
彼らが望む"優秀な"子供なんて、一朝一夕には生まれてこない。
"実験体"から"試作"に至るまでに、20年の期間と数百の犠牲者を要した。
彼女は、絵麻は、その"試作"の一人で、生存しているものの中では最も新しい、もっとも完成に近い存在だ」

現実感がなかった。
遠い国での実験。優秀な子供。ヒトの遺伝子操作。
そんなものが、普段生きていく上で必要になるのか。
「信じられないって顔だね」
「当たり前だ。そんなの。
有り得ない。どう考えたって――――犯罪だろう」
親父は、そうだね、と頷いた。
「でも、この国においてすら、優生保護法が改正されたのはつい最近の1997年なんだよ。
積極的消極的の差はあれ、優生思想そのものは世界中にありふれたものだ。
社会をより良いものにして行こうという情熱を、そういう形で実現する人たちはどこにでもいる」
「……」
親父は先を続けた。
「"試作"に採用された機能は、主に二つ。"生体ユニットの神経胚へのインプラント"と"レトロウィルスによるゲノム最適化"だ」
「生体ユニット?」
ゲノムの話をしていたはずなのに、行き成り別の用語が出てきて混乱する。
こちらから話してしまおうか、と親父は呟いた。
「絵麻って、口下手でしょ?」
「ガイジンだし、当然だろう」
「まあ、それもあるけど」
親父は口ごもる。
「彼女は、決まった相手、同じ世代の"試作"と、えーと、テレパシーみたいなことが出来る」
「テレパシーだぁ?」
取り分け胡散臭い言葉に目をしかめる。
「"物理的媒体に拠らない、直接的なコミュニケーション手段"を別の良い言葉で表現できなかったんだよ。
僕の専門じゃないから詳しくないけれど、用いる手段は別に超能力でもなんでもない。
量子的絡み状態に有る分子を核とする生体ユニットを別々に発生初期の神経胚に移植し、そこからマイクロマシンで決まった神経回路を誘導してやるんだ。
披験体の子供たちは、言葉を思い浮かべ伝えたいと念じるだけで、周囲にいる仲間のウェルニッケ野を直接刺激して概念を伝えることが出来る。
限定的とは言え実際にこの手段での意思伝達が達成されたことはチョムスキーらの提唱する普遍文法論を――――」
「……あんたの言っている事は半分も理解できんぞ」
親父は肩をすくめた。
「だから、テレパシーみたいなものと考えてくれていいよ。
どの道、絵麻と同世代の"試作品"は彼女を除いて皆亡くなっているから、もうその能力の使い道はない。
後に残されたのは、友達との言葉による普通のコミュニケーションにちょっと難の有る普通の女の子、と」
テレパシー、という言葉がどこかで引っかかっていた。
どこか、他で似たような物を見たような気が……。
俺は首を振って、頭を切り替えた。
「遺伝子のほうに話を戻すよ。
何百と言う幼児の生育過程を観察し終えて、その殺処分を終えるころには、学者たちもゲノムのどの部分を動かせばいいのかが大体判ってきた。
何かの機能を得れば、別の何かを失う。
全てを選んでいれば複雑になりすぎてシステムがパンクする。
ならば、周囲の環境に応じてゲノムを書き換えれば良い。
たどり着いた一つの解が、レトロウィルスの変種を寄生させて、都度細胞を生存に最適なシステムに作り変えていく手段だった。

彼女の体内で共生している数10種のレトロウィルス。
これら普段は体内にばらばらに分布し、数も知れていて消費するエネルギーは極めて少ない。
そして、環境の変化を感知すると、特定のものが爆発的に増殖し、細胞に入り込んで自身も大量のたんぱく質を合成しながら核のDNAを書き換えるんだ。
例えば、極端に偏った栄養しか取れない状況に置かれても、彼女は健康のままでいられる。
本来人体には合成不可能で体外からの摂取に頼らざるを得ない必須アミノ酸やビタミンなど、これらを合成するよう細胞を作り変えることが出来るからね。
だから、壊血病にも脚気にもならない。
また、今回の様に血中酸素濃度が薄れると細胞が冬眠状態に入り、本来は持ち得ない部位にも無酸素代謝系を作成して最低限のエネルギーを利用し生存を維持する。
そして極浅い呼吸と脈拍を低サイクルで続けて、酸素が戻るのを待つ。
酸素レベルが通常まで回復すると冬眠状態を解除しつつ、幹細胞を発生させて失われた機能を瞬く間に修復。
神経幹細胞まで作り上げるから、普通なら回復しない脳の損傷も、時間さえかければ元に戻る。
実験報告によると、被験者の一人に前頭部から後頭部にかけて拳銃弾を貫通させた所、数ヶ月のリハビリで社会性まで回復したそうだよ。
普通の銃創程度は言わずもがな。
十分なカロリーさえあれば、粉砕骨折だろうが内臓破裂だろうが、どんな怪我でもほぼ1日で元通りになる」
親父は俺の手元に有る資料を捲った。
胸部に大きな傷を負い、胸骨が露出している幼い少女――恐らく昔の絵麻――の白黒写真。
思わず目を顰める。
肺に、多分心臓にも重大な損傷が有るだろう。生きているとは思えない。
その直ぐ隣に同じ少女の白黒写真、こちらは露出している上半身に傷一つ無い。
写真の下には"30 minutes after the wound"と記されていた。
「それは先端を潰した銃弾を直接撃ち込んで、何の処置もせず放置した実験の経過らしいよ。
抵抗力が強いのは、何も怪我に対してだけじゃない。
病原体に対してもいち早く反応し、毒は分解中和され、細菌には抗生物質の分泌、有害なウィルスにはレセプターの不活性化で対応する。
HIVもプリオンも彼女の活動を妨げることは出来ない。
そして特筆すべきは、テロメラーゼが活性であること。
普通の人間の細胞は分裂回数が決まっていてそれ以上は自死を引き起こすけど、"試作品"の細胞分裂には制限がない。
加えて遺伝子異常を修復するウィルスが常に分裂中の細胞の中で働いている。
理論上は、地球上のどんな環境でも適応し、無制限に生きる事が出来る」
相変わらずその話は半分程度しか理解できなかったが。
その話が事実ならば、彼女の体は、余りに違い過ぎる。
「あいつは……」
「ん?」
「絵麻は、死なないのか。永遠に生きる、メトセラなのか」
親父は静かに頭を振った。
「老化のメカニズムについては、まだ判っていないことが多い。
テロメアが修復されても、別の要因で老衰する可能性は十分有り得る。
それに、さっき遺伝子異常を修復できると言ったけど、それは完璧じゃない。
特にレトロウィルスはRNAだからDNAより変異しやすい。二重三重のチェックがあってもいずれは破綻する。
実際破綻したケースも多く、その結果……」
親父は暫し言い淀んだ。

「細胞の癌化率が、同年代で平均的な現代人のおよそ千倍。
彼女と同じ"試作"の約7人に1人が、毎年急性の癌で死亡していた。
楽観的要素と悲観的要素を差し引いて、4年後彼女が生きている確率は五分五分と考えられる」
非現実的な話に付いて行けず、ぼんやりとしていた頭に、一気に血が上った。
4年後は、想像も出来ない程遠い未来では無い。
大体、4年と決まっている訳ではなく、明日にもそれは起こり得るのだ。
「一度ウィルスに異常が生じると、癌は瞬く間に全身に転移し、1日も経たずにあらゆる生体機能が停止する。
止める手段は無い。抗がん剤も放射線も、このウィルスの特性故に無意味だ」
「……予防する手段は無いのか」
絞り出すように声を上げる。
温くなったカフェオレを飲み干しても、喉はカラカラのままだ。
「……なくもないよ。
無菌室に閉じこもり、怪我などのリスクを避け、強い抗ウィルス剤を飲み続ければ、癌化の確率は確実に下がる。
けど、絵麻はそれを選ばなかった。
『普通の場所で、普通に生きてみたい』と言ってね」
あいつらしい、少しだけ笑う。
話に区切りが付いたので、俺はさっきから気になっていた事を尋ねた。
「なんであんたはそんな事を知ってるんだ。
元々あいつやその学者達とどんな関係が有った」
「バックにいた製薬会社はウチの系列でね。
一年前内部告発で事が明るみに出かけ、ラボは閉鎖、関係者は殆ど逃亡。
処分を免れたごく一部の実験体の処遇は、系列の会社に任されることになった」
「……それで終わりかよ。
何とか学者達は今も娑婆の空気吸ってて、バックにいた奴等はのうのうと居座ったままか。
裁判で然るべき裁きを受けるのが筋だろうが!」
親父は目を伏せて静かに答えた。
「そんな事をして、誰が得をするの」
「誰って……」
言葉に詰まる。
「訴える人がいなければ、裁判は成立しない。
誰かの損失を引き起こさない限り、誰も訴えることはない。
被験者の子供達は殆どが既に亡くなっていて、それ以外も大方が閉鎖直前に殺処分されている。
もともと戸籍も身よりも社会的身分もない彼らが誰に知られる事もなくいなくなったとしても、警察は関知できないよ。
絵麻には訴える権利が有るけど、境遇を示す証拠は少ないし、彼女自身が奇異の目に晒されるだけだ」
俺はやり場の無い怒りを抑えながら、拳を強く握り締めた。
「大丈夫だよ。
騒がれるのは嫌だからという理由で、関係者にはちゃんと処分が下った。
実験を指示していた上役は退職金を貰った上で職を辞したし、学者達は社会的に抹殺されている。
同様の事件をこのグループが起こす可能性は低い」
その言葉に少しだけ溜飲を下げる。

「何で絵麻は殺されなかったんだ」
「美奈子さんが庇った」
突然出てきた名前に面食らう。
俺の記憶が正しければ、親父がこの名で呼ぶ人間は、随分前に失踪したあの人しかいない。
「……母さんの事か」
「美奈子さんは児童心理学者だった。
閉鎖環境での社会性の発育を研究していた彼女は、論文を通じて偶然件のラボの存在を知った。
口封じと、専門家の確保の二重の目的で、美奈子さんは誘拐され、実験体の子供たちの制御を強要されていたそうだよ」
一瞬、疑念が俺の頭を掠めた。
「本当に強制だったのか」
あまり言いたくはなかったが、それでも確認せずにはいられない。
「実際には自分から参加したんじゃないのか」
親父は俺の目を見て、強く否定した。
「それは違う。絶対に、違う。
彼女は、そんな人じゃない。自己満足や独りよがりのために、子供を犠牲にするような人じゃない。
もし自分からあんな所に行ったなら、その前に身の回りを整理しておくはずだ」
俺は納得した振りをした。
実際に母さんがどんな人だったかなど、俺は知らない。
「それで、結局母さんはどうなった」
「死んだよ」
感情を押し殺した声で、親父は淡々と答えた。
「ラボの閉鎖直前に、子供達の殺処分に反対して、銃で撃たれた。
何とか絵麻を連れて逃げたけど、ラボの外はずっと砂漠で、歩き続けて1日後に死んだそうだよ」
半ば答えは予想できていたからだろうか、ショックは小さかった。
同時に、自分の親への情が薄い事に動揺していた。
「葬式は」
「6月に済ませたよ。御義父さんも御義母さんも亡くなっているから、僕一人で荼毘に付した。
……黙っててごめん」
「それと絵麻の事もだ。なんでそっちを含めて俺に話さなかった」
「ああ、それは――」
親父は顎に手を当てた。
「話してたらきみ、絵麻に同情したでしょ」
「……そう、かも知れないな」
「彼女、同情は嫌いだからね」
そんな理由でかと思わなくもなかったが、知っていた所で俺に何が出来た訳でも無い。
精々万が一の事態に対する心構え位は出来たかも知れないが、それは俺の問題でしかない。
絵麻の事を"可哀相な奴"と思ってしまったら、接し方も変わっていたのだろうか。
「…………俺は、あいつの事が知りたい。
絵麻にとって重要な事は、知って置きたい」
例え、知る事には責任が伴うとしても。
「知らない方が、幸せなことだってあるよ」
「危なっかしいんだよ、あいつは。
平気な顔して、大事な事は全部自分の中に溜め込みやがる。
今回の事だって、あんな馬鹿をやりかねんと知っていたら、注意位していた。
まあ、まさか火事場に単身で突っ込むとは流石に想像出来なかっただろうが」
命には別状無いかもしれないが、あんな目に遭って苦しかったろうに。痛かったろうに。
言いたい事を見越してか、親父は新たな事実を告げた。

「あの子の痛覚は極めて鈍感だ。
元々は過敏な位だったそうだが、年齢と共に段々と体性痛内臓痛共に痛み刺激に対する反応が低下している。
理由は良くは判っていないけど、多分、体の方が痛覚を"必要ない"と認識してるんじゃないかな。
怪我をしても直ぐ直るんだから、それを忌避するための警告信号も必要なくなる」
「それでか……」
思い当たる節はあった。
絵麻は他人の負傷は大袈裟な位怖がる癖に、自分の怪我に関しては酷く無頓着だ。
「……馬鹿だ、あいつは」
「泰巳……」
「自分が平気なら、どんな目に遭っても良いのかよ。
治るなら、痛く無いなら、どんな怪我しても構わないって言うのかよ。
不死身のハリウッドヒーローにでもなった心算なのかは知らないが、周りがどんな思いで――――」
その時、病室のドアがスライドし、中から看護士らしき男が出て来た。
看護士は親父を見付けると、傍に寄って何事か耳打ちする。
親父が頷くと、男はそのまま部屋とは反対の方向へ去って行く。
「その言葉は、絵麻に直接言うといい」
親父は俺の方へ向き直ると、一寸逡巡してからこう告げた。
「お姫様がお呼びだよ。
きみに会いたいってさ」



クリーンルームの中は、その名の通り清潔で最低限の物しか置かれていない、シンプルな造りだった。
二つのパーティションに分かれ、奥の区画に入るには、防塵服を着込んでエアシャワーを浴びなければならない。
万が一の事態――絵麻の免疫が機能を失ったり、彼女のウィルスが他人への感染能力を得たり――に備えた措置らしい。
大きなガラスの向こう側、絵麻はベッドの上に横たわったままこちらを見ていた。
腕や胸元からチューブとかコードが伸びて、透析装置だの心電計だのに繋がっている。
物々しい医療機器に接続された少女は、しかし元気そうで、俺の姿を認めて微笑んだ。
「体調は如何だ」
『大丈夫』
マイク越しの声。
俺は憮然と頷きながら、部屋の中程、区切りを挟んでベッドと相対する位置に置かれたパイプ椅子に腰掛ける。
そこから上目遣いに絵麻を睨んだ。
少し気圧される絵麻。
『ヤスミ……?
怒って、る?』
「当たり前だ。怒ってるに決まっている。
事情を黙ってた事じゃない。
馬鹿な真似をして、余計な心配を掛けさせた事だ」
行き成り、きつ過ぎる言い方だったかも知れない。
それでも、俺は視線を伏せて繰り返した。
「……心配したんだ」
『…………ごめん』
「お前は別に悪くない。俺が勝手に怒っているだけだ」
我ながら理不尽なことを言っている。
その侭、二人して暫し黙り込んだ。
何故か空気が重い。

「お前の体の事は聞いた」
絵麻は無言で俯いた。
「馬鹿だな、お前は。
何を隠す必要が有った。
癌の事は兎も角、お前が昔どうしていたかなんて、今の俺には関係無い」
『ごめん』
同じ言葉を繰り返す彼女に苛立つ。
「だから、何で謝る。
お前は悪くないと言っているだろう」
『お母さんのこと』
俺は一瞬言葉に詰まった。
それが、勿論彼女の生みの親等ではなく、俺の母親を指している事は明白だった。
『あなたの、お母さんのこと。死なせてしまった。
それなのに、ずっと、言え、なくて――――』
時折、絵麻は声を詰まらせる。
『だから、ごめんなさい』
「そんな事……」
どうでも良い、と続け様として、余りの薄情さに自分で呆れる。
「……お前が気に病む事じゃない。母さんが勝手に、やりたいようにやってくたばっただけだ」
絵麻は俯いたまま首を振った。
『あの人、最期まで平気な振りして、笑ってた。
最近、漸くわかった。本当は物凄く痛くて、苦しくて、怖くて、でも我慢して、心配させないようにって』
気付いていれば、何とか出来たのかもしれない。そう言いたいのだろう。
何故、今更そんな事を言うのか。
家族が、少なく共肉親と言う意味に於いては、いた事の無い彼女に、家族の情は実感し難いものだったのかも知れない。
それを理解し始めたからこそ、今になって俺や親父に罪悪感を感じている。それもあるのだろうが。
「――――怖かったんだな」
絵麻は顔を上げ目を瞬かせた。
「怖かったんだろう。周りは火の海で、手元には助けなきゃいけない奴がいるのに、自分の事は誰も助けてくれない。
幾ら体が頑丈でも、頭が瓦礫に押し潰されれば死ぬ。
そう、お前だって死ぬんだ」
それが判ったからこそ、判ったのだろう、母さんの気持ちが。
自分の身を案じるのは一瞬で、結局この少女は他人の心配ばかりしている。
自分の明日すら、定かで無いと言うのに。
俺は苦笑した。
「矢張り馬鹿だな、お前は。
ガキが年上に気を遣うもんじゃない。
ガキはガキらしく、自分の事を考えてりゃ良い。
怖ければ怖かったって、他人に甘えてりゃ良いんだ。
お前は、お人好し過ぎる」
絵麻は困惑した顔で首を振る。

『違う、よ』
「何が違う」
もどかしかった。
眼前のガラスが邪魔で仕方が無かった。
今すぐ近寄り、彼女を抱きしめたかった。
『だって、私は、……人の痛みが、わからないから』
そう言って彼女は悲痛な表情で自分の体を抱きしめる。
(――――眼球に針を近づけると、人は痛みを想起して反射的に目を閉じる。
けれど検診の時、絵麻は瞬きすらしなかった。
彼女にとって痛覚は、未知の感覚になりつつあるのかもしれないね)
親父が最後に言っていた言葉を思い出す。
もう彼女は、歯を叩き折っても悲鳴一つ上げないそうだ。
『きっと私、いつか痛覚を全部なくす。
そうしたら、人を傷つけても何も感じなくなる。
だんだん、そんな人間になってるのが、判る』
絵麻が自分の事を、自分の苦しみを吐露するのは、俺が知る限りこれが初めてだった。
だから、直ぐにでも否定したい気を抑え、彼女の途切れがちな言葉を待つ。
きっとそれが、彼女にとっての苦痛であると、俺は知っているから。
『周りで誰かが苦しんでいても、気付いてあげれない。
ヤスミが酷いケガしてもきっと無関心で、死んでしまってもどうでも良くなるかもしれない。
ヤスミが、いなくなっても、気にすら留めなくなる。
そんな風になるのが、――――こわい』
「ならねえよ」
黙っていようと決めていたのに、自然と声が溢れる。
「お前みたいなお人好しの馬鹿が、そんな風になる訳ないだろう。
自分の苦痛が判らないと、他人の苦しみに共感出来なくなるだ?
お前は刻んできたんだろうが。母さんの苦痛と、死んじまった同輩の苦痛を、全部。
それは10年やそこらで風化しちまう程度の物なのかよ。
お前は只、忘れたいだけなんだろうが!」
いつの間にか、俺は立ち上がってガラス窓に詰め寄っていた。
絵麻は僅かにたじろいだが、俺からは逃げない。
その場で弱々しく首を振った。
『……わから、ないよ』
「断言してやる。お前は、忘れない。
忘れたくても、絶対に忘れやしないさ。
もし忘れそうになったら、その時は――――」
一瞬だけの逡巡。
何の保証も無い、根拠も無い事を俺は言おうとしている。
けれど、そうしなければならない。
そうするのだと、俺は決めた。

「――――俺が、思い出させてやる」
絵麻は目を丸くした。
無言のまま、秒針の進む音が響く。
「……あー、言って置くが、別に暴力を振るうとか、そう言う事じゃないぞ」
頭を掻き毟って、言葉を選ぶ。
「ただ、俺はお前が苦しんで来た事とか、お前が辛いと感じた事とか、それが何なのか、少しは理解している心算だ。
お前の代わりにそれを感じる事も、それを肩代わりする事も、俺には出来ない。
けれど、お前がもしそれに耐えられなくて、忘れたいと思った時は、取り敢えず俺にぶつけろ。
愚痴位聞いてやるし、ストレスで暴れるんならそれでも良い。
俺が全部受け止める。
俺がいなくなるのが不安になったら、何時でもお前の傍に行く。
だから、もう、一人で抱え込むな」
後で思い出したら、恥ずかしさの余り穴に入りたくなるであろう事は、自分でも容易に想像が付く。
だがそれを自覚しつつも、今の自分は大真面目だった。
(まるでプロポーズみたいだな……)
絵麻は呆気に取られていたが、段々と顔がその顔が赤くなって行った。
『え……う、あ…………、
ほ、ほん、とう?』
「本当だ」
絵麻は相当混乱している様で、首を上げたり下げたり横に振ったり、時折ブツブツと呟いたりと、挙動不審だった。
『で、でも……』
結局、顔を紅くしたまま俯いて、絵麻は呟く。
『私、ヤスミに何もしてあげれないよ』
「そんな事はない。
お前は自覚して無いんだろうが、俺は随分お前に助けられている」
以前の俺は、意味も無く遣り場も無い苛立ちを抱えながら、日々を過ごしていたように思う。
分別の付かない時分では、それを暴力で発散しようと、不良を相手に荒れていた事もあった。
他人に期待されるのが怖くて、周囲に嫌われるような事ばかり言っていた。
今もそうなのかも知れない。
でも、あれから少しでも変われたのだとしたら、それは少なからぬ割合で彼女のお陰なのだと思う。
「俺にはきっと、お前が必要だ。
俺自身の為にも、お前が望む限り、お前の支えになりたい」
『…………』
絵麻は暫く顔を伏せていたが、ゆっくりと俺に向き直った。
『……約束、して』
小さな声で囁く。

指きりでもするのか? この状態で。
そう冗談めかして答えようとした俺は、彼女の目を見て息を呑んだ。
微かに上気した頬。潤んだ瞳。薄く戦慄く唇。
それらが、余りに目の近くに存在している。
心臓が何故か高鳴っていた。
顔が熱くて、冷静な判断が出来ない。
何時の間にか、絵麻はガラス窓の間近に寄って来ていた。
何時の間にか、俺もまたガラスの直ぐ近くまで詰め寄っていた。
絵麻が更に身を乗り出して来る。
俺も若干身を屈めて、顔に近付いた。
絵麻がそっと目を閉じる。
異様な雰囲気に呑まれ、俺も釣られて目を瞑った。
ガラス戸越しに、互いの口を寄せる。
近付く熱と熱。
数ミリの距離を隔てて、唇と唇が重なる。
その直前、プチンと何かが切れる音がし、続けて耳障りな警音が響いた。
慌てて目を見開くと、絵麻の襟元から伸びたチューブの一つが外れている。
「あ……」
『……』
二人、呆然と静止したまま。
突然ノブが回る音。
「伊綾さん。面会の時間過ぎてま――――」
看護士が姿を現す迄の僅かの間に、俺と絵麻は脱兎の如く元居た場所に戻った。
「伊綾さん?」
「大丈夫です。判りました」
チューブを付け直す絵麻から目を逸らし、俺は看護士の人に返事を返した。
動揺を押し隠しながら、俺は肩越しに絵麻の姿を確認する。
彼女は背中を向けていたが、その首筋が真っ赤に染まっているのが見えた。
「済まん。先に帰るぞ。
明日も見舞いに行く」
『……』
無難な言葉を掛けるが、返事は無い。
俺は看護士に促され、病室を辞した。



それから、家に帰る迄の事は良く憶えていない。
一応真っ直ぐ帰った筈だが、玄関に辿り付く頃には、もう深夜を回っていた。
余りに、考える事が多過ぎた。
真っ暗な我が家に入る。
他には誰もいない。
親父は絵麻の健康状態について調べなければならない事があるらしく、病院に泊り掛けになった。
絵麻本人については言わずもがな。
俺に出来る事は、何も無い。
「……寒いな」
暗闇の中でも、息が白く染まっているのが判る。
ドアを閉め施錠し、電灯を点け、そのまま玄関に倒れ込む。
カラン、と乾いた音が手元から響き、手提げバッグの中からシアンの四角い箱が転がり出て来た。
今日の、否既に昨日の、昼に母さんの部屋から出て来たトイカメラだった。
絵麻がアパートの前に置いて来た荷物を受け取っていた事を、今更思い出す。
カメラを拾い上げる。
結局、こんな物が遺品となってしまった。
バッグの中にカメラを仕舞おうと身を起こすと、他にも何かが入っている事に気付く。
現像済みの写真が、40枚程封筒から覗いている。
「もう現像終わってたのか……」
最初の一枚に目を落とす。
真っ白だった。
電灯にかざして見ても、何も写っていない。
次の一枚。
また一面白。
次も同じ。
一枚一枚確認しながら、俺は写真を捲って行った。
何か写っていないかと、祈るような気持ちで。

最後の一枚。
恐らく最初に撮られたものなのだろう。
一番奥にあったから感光を免れたのだろうか。
そこには微かに、誰かの姿が写っていた。
桜の木の下、スーツを着た大人二人と小さな子供一人。
子供は小学校の頃の俺だと直ぐに判った。
着慣れぬ正装姿で、はにかんでいる。
その右隣で、今よりずっと元気そうな親父が笑っていた。
そして、左隣では背の高い長髪の女性が微笑んでいる。
見えるのは口元までで、目より上は白く霞んで見えない。
目を凝らしても、何も見えない。
目を閉じれば、今でも、彼女がどんな顔をしているか頭の中で描くことが出来るのに。
もう、その姿を証明してくれるものは、なにもない。
不意に、目の奥から何かがこみ上げてきた。
再び床に崩れ落ちる。
あたたかい滴が、何も写っていない写真を濡らす。
涙が止められなかった。
玄関の隅で、靴も脱がぬまま、俺は一人嗚咽を抑える。
悲しかった。
母さんはもういない、その事実が悲しかった。
そして、怖ろしかった。
絵麻もやがていなくなる。
4年後、10年後、あるいはもっと早く、きっと俺より先に死んでしまう。
写真の中にしか残らない、想い出になってしまう。
その事がただ、ひたすら怖ろしく、俺は身を震わせた。

俺は、絵麻が好きだ。



痛い。
痛い。
いたい。
彼が去り、もう夜を回って大分経つのに。
あれからずっと、胸の奥のどこかが締め付けられている。
とうに失くしたと思っていた場所が。
『絵麻、調子は変わらな……って、
ど、どうしたの!』
様子を見に来たヤスシさんが慌てている。
ベッドの隅でうずくまり、胸を押さえている私を心配しているようだ。
私は無言で首を横に降った。
『……どこか悪いところでもあるのかい?』
只、首を振る。
どこも悪くはない。
悪いのは、きっと私だ。

私は、馬鹿だ。
家族が亡くなれば、誰だって心が痛む。
判り切っていた事だ。
なのに、私は家族を求めた。
事情を知っているヤスシさんは、私と適度な距離を取っていたと思う。
ヤスミは知らなかった。
知って欲しくなかったから、教えなかった。
私の体について知らないのを良い事に、ヤスミの内側に踏み込んでしまった。
家族以上にまで、踏み込もうとした。
彼の寂しさに、付け込んで。

自分が死ぬのは怖くなかった。
私にとって、死は日常の一部だった。
一日一日を精一杯生きていれば後悔なんてない、そう思っていた。
今は、怖い。
こわくてたまらない。
私はきっと、いなくなることで、ヤスミを悲しませてしまう。
彼の心を、傷つけてしまう。
その傷は、酷く痛むことを初めて知った。
私は、馬鹿だ。
胸の奥深く、失くしたと思っていたなにか。
そこがいつまでも、幻痛の様に軋みをあげている。
2011年08月24日(水) 11:12:06 Modified by ID:uSfNTvF4uw




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