縁の切れ目 言霊の約束(2)
朝食を終え、依子は遠藤宅に向かった。
庭を抜けるとき、昔馴染みのお手伝いさんに出会い、少しだけ話をした。親しげで温かい口ぶりがこちらを受け入れてくれてるようで、嬉しかった。
屋敷から二百メートルほど離れたところにある小さな二階建ての家に依子は向かった。裏の方により大きな道場があるのが特徴的な、遠藤家の敷地だ。
依子は直接道場に行くために、裏門へと回る。
やや低い塀に囲まれた敷地は広いが豪奢ではない。あくまで家と道場を囲むだけの塀と、華美さに欠けた狭い庭は住人の性格を表しているようだ。
びゅうと吹く木枯らしが、スカートの下の足を縛るように駆け抜けた。依子は軽くスカートを押さえて寒さに耐える。
(寒いなぁ……)
山の中ということもあるのだろう。豊かな自然に四方を囲まれ静謐な空気を湛えた土地は、都会に慣れた依子の肌を粟立たせる。
裏門から道場に近付くと大きな音と奇声が響いてきた。依子は入り口を恐る恐る開けて中を覗き込んだ。
板張りの空間の真ん中で二人の男が対峙していた。道着姿の守と昭宗がじりじりと間合いを測り合っている。
目に飛び込んできた瞬間、その張り詰めた緊張感に当てられて、依子は身をすくませた。
邪魔しないように慎重に扉を閉める。そろそろと忍び足で中に入った。
壁際に守の母、火梁(ひばり)が袴姿で座っている。火梁はすぐに気付いて小さく手招きをした。依子は隣まで寄っていき、同じように座る。道場だからか正座だ。
守が動いた。右足から前に踏み込み、相手の懐に入る。
昭宗は左足を奥に退くように滑らせる。守の体を内側に引き込むような体移動をこなし、上体をやや落とした。
瞬間、昭宗の右足が動いた。そこまでは見えたが、次の動作は依子には見えなかった。
気付いたら守が尻餅をついて倒れていた。
足を払われたのだろうか? そんな依子の疑問を置き去りにするかのように、昭宗がトドメとばかりにサッカーボールキックを放った。
「やっ――」
依子は反射的に叫ぼうとして、途中で止まった。
昭宗が踏み込んだ瞬間を狙って、守が軸足を蹴ったのだ。
座った状態から軽く押す程度の蹴りだったが、昭宗はバランスを崩した。
前のめりに傾ぐ相手の下半身に、守はすかさず組み付く。
同時に引き倒して背後に回り、腕と首を、
「ふっ!」
昭宗の右肘が背後についた守の脇腹に刺さった。
守は怯まず昭宗の首に腕を回し、絞めあげた。
「――」
昭宗の手がバンバンと床を叩いた。降参の合図。
守は慎重に腕の力を緩め、昭宗から体を離す。昭宗は少しだけ残念そうな苦笑いを浮かべた。
(勝った――)
守がまさか昭宗に勝つとは。昭宗は神守家の『盾』を務めるほどの力を持つはずなのに。守はそこまで強かったのか。
(……当たり前か。後継ぎだもんね)
いずれ守は遠藤家の役目を果たすため、神守の『盾』となる。本人もそう言っていたので、それは決定事項なのだろう。
それはつまり、神守依澄の『盾』となるということだ。
(あ……)
不意に昨夜見た夢のことを思い出した。
あれは遠い昔にあった出来事だ。小さい頃の依子と守。
あのときも冬だった。辺りは雪に覆われていて、吐く息が真っ白に消えていくのをよく憶えている。
そして、依子は言った。
――わたし、マモルくんのこと好きだよ。
守はありがとうと言った。依子はそれをマモルくんらしいなと思って、少しだけ寂しく感じた。守は何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。
寒空の下の、小さな思い出。
そのときのことを記憶から掘り出して、依子は気付いた。いや、思い出した。
(……そうか)
あのとき守が浮かべていた顔。あれがすべてを表していて、依子はあのときに知ったのだ。
守は、きっと、
「依子ちゃん?」
急に声をかけられて顔を上げると、すぐ目の前に守の顔があった。
「ひゃっ!」
依子は思わずのけぞる。守は不思議そうに首を傾げた。
「だ、大丈夫? どうしたの?」
「な、なんでもない!」
激しく動揺しながら、そんな説得力皆無の台詞が出てくる。
咄嗟に話をそらした。
「あ、お、おめでとう。勝ったんだね」
「え? ああ、その前に結構ボコボコにされてるけどね」
言われてみると、頬辺りを切っており、手も多少腫れていた。
そのとき、帯を締め直しながら近付いてきた昭宗が笑った。
「いや、強かったよ。向こうでも稽古を続けているのかい?」
「基本稽古くらいしかできないですけどね。どうしても打ち込みとか型稽古ばかりになってしまって」
「それであれだけ動けるならたいしたものだ。ラストの軸足払いにやられたよ」
「いやもうとにかく夢中で」
男同士だと気が合うのか、二人は楽しげに談笑し始める。
「ほう。道理であんなに動きがバラバラだったのか、息子よ」
そんな男二人の会話に火梁が割り込んだ。
「剛法と柔法のバランスが全然なってない。これは私が揉んでやらなきゃダメだな」
「え」
守の表情が固まった。なんというか、嫌いな食べ物が食卓に並んだときのような、露骨に苦い顔だった。
昭宗がそれを見て苦笑を浮かべる。
「おや、兄貴もまだまだ元気みたいだね。じゃあ私が相手してやるよ。最近平和ボケがすぎるみたいだし」
「え」
昭宗の表情も固まった。なんというか、昔からのトラウマに出くわしたような、心底嫌そうな顔だった。
火梁は立ち上がると軽く伸びをした。それから振り返って、依子ににっこりと微笑んだ。
「大きくなったね、依子ちゃん。すごく見違えた」
「は、はい、ありがとうございます」
「本当はいっしょにお茶でも飲んで話をしたいところなんだけど、愚息と愚兄の相手をしなきゃいけないから、ちょっと待ってて」
「「いや、お構いなく」」
重なった男二人の言葉を火梁は軽く睨めつけて一蹴する。
そして邪悪な笑みと共に、気軽な調子で言い放った。
「ま、遠慮するな」
三十分後、道場の真ん中には息を切らして膝をつく男二人の姿があった。
左右を畑に挟まれた小道を、依子と守は歩いていた。
昨日は夜だったので周りもよく見えなかったのだが、こうして見回すとやはり田舎の風景が広がる。
四方を囲む山々は昔から変わらない。家はぽつりぽつりと散らばる格好で、土手や林や野原の方がずっと多い。
懐かしさばかりが込み上げてくる故郷の変わらなさに、依子は軽い心地よさを覚えた。
だが、一晩経ってこうして冷静に見てみると、多少の不安も感じる。
今の自分とこの土地に、縁はあるのだろうか。
「どうしたの?」
守の声に依子は顔を上げた。
首を振る。
「なんでもないよ」
「そう?」
「うん、ぼんやりしてただけ。てかマモルくんの方こそどうしたの? 声に張りがないけど」
「誰かが傷を増やしてくれたからね。脇腹痛い」
「それは……ご愁傷さま」
大きな怪我はないみたいだが、投げられたり転がされたりしたせいか打ち身が多いようだ。依子は苦笑いを浮かべた。
そのとき守が尋ねた。
「……やっぱり見えないと違和感ある?」
え? と依子は思わず固まった。
「ぼくには縁の糸なんて見えないから、それがどういう感覚かわからないけど、それって生まれつきのものなんでしょ? 五感がなくなるような感じなのかな、ってずっと考えてた」
「……ずっと?」
「依子ちゃんが先週ぼくの部屋に来てからずっと考えてた。で、なんとかできないか考えてた」
「……どうして」
何を言っているのだろう。守にできることは何もないのに、何もしなくていいのに、彼はそれをずっと考えていたというのか。
「だって、依子ちゃんがずっと不安そうにしてるから、取り除いてあげたくて」
「……でも、力をなくしたおかげで帰ってこれたんだよ?」
「いや、まあそれはそうなんだけど、それでも不安なのに変わりはないんじゃないかと思ってさ」
守は普段と変わらない口調で呟く。
「……昔からそうだよね」
「え?」
「マモルくんはいつも相手のことを考えてる。相手に合わせるのがうまい。だから、ちょっとかなわないなと思って」
この人はどんなときもお人好しで、気遣いを忘れないのだ。それは性質もあるが意識してのことなのだろう。依子には好ましく映る点だ。
「ありがとう、心配してくれて。でも大丈夫だから」
「……無理しないでね」
「大丈夫だってば。ここに戻ってこれてすごく嬉しいし、不安なんてないよ」
依子はにっこり笑うと、道の先へと駆け出した。
「ほら、先行くよ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。さっきの稽古で体中痛くて」
「どんまいっ」
依子は親指をぐっと立てると、いとこは小さく苦笑を洩らした。
二人が到着した場所は林の奥に流れる小さな川辺だった。
清流が静かに上から下へ。山間を通る水の流れは透明度が高く、底の石々の丸みがくっきりと見えた。
小さい頃、依子たち三人の遊び場だった場所だ。
「さすがに冷たいね」
手を伸ばして水に触れる依子。冬一歩手前の時季。寒さが増せば一面凍りつくこともあるだろう。
「でも懐かしい。ここも変わってないんだね」
夏にはよく川遊びをした。三人で暑い日射しを浴びながら、水をかけあったり魚を捕ったりした。
「……綺麗だね」
微かなせせらぎに耳を傾けながら、依子はぽつりと呟く。
「うん。……座ろうか」
二人は近くの大きな岩の上に腰掛けた。そのままただ何とはなしに遊び場を眺める。
「依子ちゃん」
「ん?」
守が口を開いたので、軽く聞き返した。
「しばらくさ、うちを訪ねてこなかったよね」
「――」
少し不意打ちだった。
「あ、えっと、その、」
慌てふためく依子。その様子を守はじっと見つめる。
その反応に対してか、不意に破顔した。
「……よかった」
「え?」
「少しはぼくのこと、意識してくれてたみたいだから」
嬉しそうに守は頬を緩ませる。
「一番怖かったのは、あの告白をなかったことにされることだったんだ。でも少しは意識してもらえてるみたいだね」
「なかったことって、そんなことしないよ」
「かもしれないけど、人の心は読めないからさ。さっきの反応見るまでびくびくしてたよ」
「は、反応って」
動揺を表に出しすぎたことに依子は赤面した。だって、いきなりあんなこと訊いてくるから。
「本気なんだ、それだけ」
「……わかってるよ」
先伸ばしにしていた答えを、そろそろ明確にしなければならないのかもしれない。依子は小さく深呼吸した。
「……あのとき、すごくびっくりしたんだよ」
「……ごめん」
「いきなりプロポーズなんて、サプライズもいいところだよ」
「……」
小さくなる守。
「……でも、嬉しかったかな」
「っ、」
「初めて人から告白されたし、周りで一番信頼できる人が相手だったから……うん、嬉しかった」
「……」
いとこを横目で見やる。真剣な眼差しとぶつかり、慌てて目を戻した。
微かに逡巡が生まれる。
依子はぐっと歯を噛み締めた。
「……でも私、正直よくわからないの。マモルくんのことは大好きだけど、恋愛なのか親愛なのか、自分でもよくわからない」
「……」
「……私にとってね、マモルくんはずっとお兄さんだったの。ずっと頼れる兄だったから、そういう目で見てこなかった」
「……」
「でも、今は……意識してる。ちょっと不思議な感じだけど、そういう目で見てる」
「……」
胸がどきどきした。自分の素直な気持ちを吐露するのは、少し恥ずかしい。
「でね、今朝夢を見たの。昔の、私がまだ八歳になる前の夢」
あまり順序立てて話せていないのは依子自身の心が波打っているためだろうか。
「マモルくんに私はこう言った。『わたし、マモルくんのこと好きだよ』って」
「……」
「マモルくんはこう言った。『ありがとう』。そのときにね、気付いたの。マモルくん、お姉ちゃんのことが好きだったんだよね」
「……」
守は答えない。
依子は構わず続ける。
「それでね、思ったの。マモルくんには私よりもお姉ちゃんの方が似合ってるんじゃないかなって」
「……え?」
守の顔が変わった。
予想外の言葉だったのか、表情が強張る。
「お姉ちゃんもマモルくんのこと好きなんだよ。多分、私よりもずっと想いは深い」
「いや、それは」
「マモルくんが今でもお姉ちゃんのことを好きなら、私よりもお姉ちゃんの方を優先してあげて。私はいいから」
「依子ちゃん!」
鋭い声に依子は口を閉じた。
守の目が鋭さを増している。少し怒っているようだった。
「依子ちゃんは依子ちゃんで依澄さんは依澄さんだ。比べることじゃない」
依子は怯みかける。だが、自分は、
「言ったはずだよ。私はマモルくんのことを好きかどうかよくわからないって。あのときの言葉は、恋愛とは違うものだったんだよ」
七歳の頃の出来事なのだ。そんなあやふやな心を引っ張り出して応えることなど、依子にはできなかった。
「それよりもちゃんと好きでいてくれる人を大切にすべきだよ。それとも、マモルくんはお姉ちゃんのこと嫌いなの?」
「――」
「そんなはずないよね。マモルくんはお姉ちゃんのこと、私を好きになるよりもずっと昔から好きなはずだから」
守の想いに応えられるかどうか、依子には自信がない。だが、姉にはそれがあると思う。
それに、それだけじゃなくて、
「……お姉ちゃん、昔から優しいんだよ。私、お姉ちゃんと喧嘩したことほとんどない。いつもお姉ちゃんから折れてくれた」
「……」
「あの人はいつもそう。いつだって自分以外の誰かを優先するの。私はそういうお姉ちゃんが大好きだし、憧れてる。マモルくんだってそうでしょ? 誰かに世話を焼くのはお姉ちゃんの影響でしょ?」
「……」
「でも、それっていつだって自分を後回しにしてるってことだよ。多分あの人は、好きな人さえ簡単に誰かに譲ってしまう。そんなの、私は嫌だよ」
「……」
「でも、もしもマモルくんがお姉ちゃんを選んでくれたら、きっとお姉ちゃんは自分を優先してくれると思うの。だから私は……」
「……嫌だよ」
守が苦しげに言葉を吐き出した。
苦い思いが容易に測れるその響きに、依子は気圧された。
「依澄さんのことは好きだよ。でもそれが依子ちゃんに対する気持ちを上回ることは、ない。ぼくは君しか選ばない」
守の目には明確な光があった。強い想いのこもった目だ。
依子は茫然と相手を見つめる。
「……お姉ちゃんはどうなるの?」
「依澄さんは強い人だから、きっと大丈夫だよ。ぼく以外の人に巡り会えるかもしれないし」
「……冷たいよ、マモルくん……」
「かもしれない。でも、誰かを選ばなければならないのなら、ぼくは自分の想いに正直になる」
「……私にはできないよ。自分の気持ちがよくわからないのに、正直になんて」
瞬間、依子の体が傾いだ。
守に肩を抱き寄せられて、依子は相手の体にもたれかかった。
「ちょっと、マモルく、」
慌てて顔を上げると、いとこの顔が目の前にあって、
(え?)
硬直したときには唇を奪われていた。
守の顔が今までにないくらい近くにある。生温かい感触がひどく現実感を伴っていた。
何の反応もできずに、依子はただ固まっていた。
初めてのキスは数秒で終わり、気付いたときにはもう相手の顔は離れていた。
「……依子ちゃん」
「……」
依子は何も言わない。何を言えばいいかわからなかった。
恋愛に疎い依子でも、守の想いの深さは充分感じ取れた。
こんなに好かれてしまっている。こんなに愛されてしまっている。
それはきっと嬉しいことだ。この胸の高鳴りはキスの余韻だけじゃないと思う。
だが、その深さが、依子には辛かった。
「……」
「……」
互いに何も言えず、時間だけが無為に過ぎる。
清流の音がやけに哀しげに聞こえた。冷たい風に体を縮め、空を見上げる。
暗い雲が少しずつ天を覆っていくのが見えた。
雪が降ってきそうだったので、二人は川辺から離れた。そのまま緋水の家へと歩き始める。
気まずさから互いに一度も口を開かなかった。喧嘩ではないが、不用意に何かを言えばより気まずさが増すのではないかという危惧があって、会話を躊躇させた。
こんなに互いの心が乖離したことがあっただろうか。依子は以前を振り返り、寂しくなった。前みたいにずっと兄でいてくれれば、こんなに悩むこともなかったのに。
だが、守はずっと想いを抱えていて、何も感じていなかったのは自分だけだったのだ。いつかは向き合わなければならないことだったはずだ。
縁視の力を持っていたにも関わらず、守の想いに気付かなかった自分は本当に馬鹿だ。何のための力だろう。
想いを受け入れた方がいいのだろうか。このいとこの真剣な想いを、受け入れて、
「……?」
気付くといつの間にか屋敷の前に着いていた。
門の前には、着物を着付けた姉の姿。
「お姉ちゃん」
「……」
依澄は不思議そうにこちらを見つめてきた。小首を傾げて漆黒の瞳を優しく和らげる。
依子には理解できない、優しさを湛えた目。どんなときも色褪せることのない深さを持つ目。
昔から、姉はよくわからないところがあった。
歳が少し離れているせいもあるだろう。いつだって依子の先にいて、依子を守ってくれる存在だった。
誰にも頼らず、弱味を見せない。そして誰かのためにいつも働きかけるのだ。
依子はそれがずっと嫌だった。姉を守りたくて、姉の役に立ちたくて、一生懸命背伸びをしていた。
後継を競ったのもそれが理由だった。才能はなかったが、姉に憧れて、同時に負担を減らしたくて、依子は依子なりに頑張った。
だが、それが報われることはなかった。いつだって依子は助けられる側で、姉は一人違う場所に立っていた。
そんな姉が一つだけ執着するものがあった。同い年の男の子だ。
縁視によってずっと見てきたのだ。姉が他とは違う想いを彼に抱いている様を。そしてそれはきっと今でも変わらない。
なのに、その彼は自分のことを好きだと言う。
応えられるわけがなかった。その想いに応えてしまったら、姉はもう、何も特別なものを持たなくなってしまう。
ずっと守られて、こちらは何も返せなくて、さらには逆に奪おうとしている。そんなことできるわけがなかった。
依子は思う。自分は守が好きなのだろう。恋愛か親愛かはともかく、想いに応えたいと思うから。
だが、姉も同じくらい大好きなのだ。ならばそれに対してどうするかは、もう一つしかないと思う。
依子は気軽な口調で話しかけた。
「お仕事終わったの?」
依澄はこくりと頷く。
「雪降るらしいから早く中に入ろ? 今日はマモルくんもこっちで食べてくって言うし」
できるだけ平静な声で言うと、依澄が口を開いた。
「……何か、ありましたか?」
静かな問いにどきりとした。
口を開いたということは、今の問いかけが依澄にとって重要であるということだろう。何かを感じ取ったのかもしれない。
依子は微笑み、首を振った。
「何もないよ。河原に行って、懐かしい気持ちに浸ってたの」
「……本当に?」
依澄は訝しげな顔で、依子ではなく守を見やった。
「えっと、」
「本当だよ。ね?」
依子は目で守を抑える。守はうまく返せずに黙り込んだ。
「……」
依澄はしばらく不審な顔をしていたが、やがて何も言わずに小さく頷いた。
「どこまで行ってたの? 遠出って聞いたけど」
「少し、東京まで」
「東京……私ほとんど行ったことないなぁ。ディズニーランドには行ったけど……あれは千葉か」
「……」
「でも早く帰ってこれてよかったね。夜から一気に寒くなりそうだもんね。遅くなってたらきっと大変で……」
依子は空々しい会話を続ける。
棘が深く突き刺さるようで心が痛かった。
部屋の襖を閉めて隅の暖房ヒーターのスイッチを入れると、依子は行儀悪く畳に寝転がった。
どっと疲れが出て全身に広がっていく。天井に向かって大きく息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じた。
誰かが前に言っていた。
「お前には誰かいるのか?」と。
いる。依子には大切な人たちが。才能がなく、力も失った自分を支えてくれる、大切な家族。
それは、依子が縁視によって誰かを手助けしていたのとは違うのかもしれない。
それでも依子は救われた。それの一番はやはり姉なのだろう。姉がきっかけを作ってくれたからこそ、依子はここに戻ってこれたのだから。
なのに、自分には何も返せない。
そんな自分にできることがあるとすれば、
思考を巡らせるうちに、依子の頭はゆっくりと眠りに落ちていった。
夢は、見なかった。
「……?」
自室の布団の上で体を休めていた神守依澄は、不意に違和感を覚えて顔を上げた。
外の方で何か妙な気配がするのを感じ取った。外と言っても近くではなく、屋敷から三キロメートルは離れているようだが。
この緋水の土地では依澄の感覚は文字通り『神懸る』。
普段なら絶対に捕捉できない距離だが、土地神の力が憑依するこの地では、依澄の霊感は極限まで研ぎ澄まされるのだ。
依澄は気配の位置を正確に捉えるために意識を集中させた。
「……」
少しだけ驚く。
対象は魂が何にも守られていない、剥き出しの状態のようだ。しかし明確な意思を持たない脆弱な霊とは違い、動きは知能の高い生物のそれである。
珍しい。生霊がこの地に来るなんて。それも二人も。
悪意や殺意は見られないので悪い相手ではなさそうだ。むしろ魂の質は優しい感触を受ける。
なぜかこちらに向かっている。
ゆっくりながら、確かにこちらを目指して来ている。何の用だろうか。少なくとも依澄に心当たりはない。
「……」
屋敷の周囲には結界が張ってある。こちらから招かない限り侵入される心配はない。
依澄は迷う。対処すべきかどうか。放っておいても問題はなさそうだが。
しばらく様子を見よう。依澄は相手の位置を捕捉したまま、再び横になって目を閉じた。
居間の方では両親が守と話をしているようだ。
そして依子は、自分と同じように休んでいる。
「……」
魂が昨日よりもブレている。心が不安定なためだろうが、何か心配事を抱えているのだろうか。
依澄は体を休めながら、意識は一切休まずに周りに気を配っていた。
何かあれば、いつでも飛び出せるように。
声が、聞こえた。
瞬間、依子は驚きのあまり飛び起きてしまった。
「え……?」
周りを見回す。
高い天井に小さな卓。暖房の音は微かで、障子の向こうからしとしとと音が聞こえる。雪が降っているようだ。
何も気にするようなものはない。
(夢だったのかな……)
人はいつも夢を見ているというが、必ず覚えているわけではない。今の依子に夢の記憶はなかった。
ただ、声が聞こえた気がしただけで。
知った声だった。
それに気付いた瞬間、依子ははっとなった。
なんとなく、もう会うことはないのだろうと思っていた。なのにその声を聞いたというのは、不思議な縁を感じる。
(そうか……)
縁を見る能力がなくなったからといって縁そのものがなくなったわけじゃない。
たぶん彼女とはまだ縁が繋がっているのだろう。
あんな別れ方をしたために中途半端になっていたが、心の隅でずっと気になっていた。
(……力はなくなっても、縁は残ってるんだね……)
少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しかった。
それが今の自分なのだ。
「……」
声が聞こえたということは近くに彼女がいるということだ。なぜ彼女がこの地にいるのかはわからないが。
依子は立ち上がると、ハンガーにかかったコートを取り、素早く羽織った。
そして暖房のスイッチを切ると、部屋を出て玄関へと向かった。
その頃守は、緋水夫妻と居間で話をしていた。
依子も依澄も疲れたのか、自分の部屋で休んでいる。夕食までまだしばらくあるので、守は昭宗と火梁に対する愚痴などで盛り上がっていた。
そこに夕食を作り終えた朱音も加わり、三人で談笑していたのだが、途中から朱音が昔の話を始めた。
それは、依子の話だった。
朱音が依子にどんな気持ちを抱いているのか、どれだけ依子を大事に思っているのか、その話からはっきりとした愛情が伝わってきて、守は嬉しくなった。
依子は愛されている。周りにとても恵まれ、大事にされている。
だが依子は、それを素直に受け取ろうとしないところがある。
その理由はわからないが、守はそれが嫌いだった。依子は幸せになっていい人間だし、幸せになってほしいと思う。できることなら自分の手で幸せにしたいと思う。
好意を受け取るのを怖がらないでほしい。それをわかってほしいと切に思った。
「……あれ?」
玄関の方で音がした。足音と、扉が一旦開いてすぐに閉められる音。
「……依子ちゃん、かな」
守の鋭敏な聴覚は靴音の微妙な差異を聴き分けた。依澄の草履の音ではなく、スニーカーの軽い靴音だった。
時刻は七時。外はもう真っ暗だ。加えて雪もちらほらと降り始めているようで、外に出るのは少々危ないだろう。
「ちょっと見てきます」
守が言うと、朱音はにっこり笑ってひらひらと手を振った。
「帰ってくるまでにご飯並べておくから。りこちゃんをよろしくね」
そして立ち上がろうとした昭宗の腕を掴み、台所へと引きずっていく。
「あっくんは手伝い」
「いや、私も依子が心配、」
「『盾』は主に逆らっちゃダメ。それに、まーくんに任せとけば大丈夫よ」
「……」
ずるずる連れていかれる昭宗に、守は苦笑を浮かべた。
「すぐに戻りますから」
守はそう言うと、少しだけ速い足取りで玄関へと向かった。
外に出ると、真っ暗な空から白い雪がさらさらと流れるように降っていた。
玄関の明かりを受けて微かに輝く銀色。寒々とした風が顔を撫で、依子は身震いした。
また、声がした。
(聞こえる?)
聞こえた。はっきりと、頭の中に少女の声が。
依子は庭をそろそろと慎重な様子で渡り、門の前まで近付いた。
いるのだろうか、そこに。
門を開けた。
広がる闇の中、家の前の常夜灯が雪景色を照らしている。
誰もいなかった。
依子は一瞬きょとんとなり、それからため息をついた。白い息が顔にかかるように立ち上る。
気のせいだったのかもしれない。考えてみれば当たり前だった。彼女がここまで来ているわけがない。私がここにいることさえ知らないのに。
(…………依子)
そのとき再び声が頭に響いて、依子は弾かれたように顔を上げた。
門から出て依子は駆け出す。近くまで来ている。なぜかは知らないが、確かに今の思念は、
「――」
白い世界の真ん中で、依子は案山子のように立ち尽くした。
目の前に小さな人影が立っている。その背は依子よりずっと小さくて、依子よりずっと深い目を持っていた。
「……美春さん」
美春という名の少女は、小さく頷いた。
「……どうしてここが?」
依子の質問に思念が返ってきた。
(明良に手伝ってもらったの。明良は魂を感知したり探すのが得意だから)
「あきら……?」
(私のパートナー。この前、あなたも会ったはずだけど)
言われて依子は思い出した。見た目は美春とそう変わらないくらいの歳の少年。彼が明良というパートナーなのだろうか。
「え? でもその人は?」
姿が見えないことに疑問を抱くと、美春が答えた。
(彼も私と同じ生霊。ただ、普段は幽体でいるから今は見えない。でもちゃんとここにいる)
「そう、なんだ」
見えないが、美春がそう言うならそうなのだろう。依子は気にしないことにした。
「えっと、こんばんは」
(うん……)
二人は互いに挨拶を交わし、そして黙り込んだ。
何を言えばいいのだろう。どこかに引っ掛かっていた思いがあったはずなのに、本人を目の前にするとそれが出てこない。
依子は目前の少女を見やる。相変わらず口を開かない。
やっぱり姉に似ていると思った。直接会うとどう接すればいいか迷ってしまうところまで、よく似ている。
美春が微かに身じろぎをした。
(あの)
「う、うん」
(私……あなたに謝りに来たの)
「……え?」
予想外の言葉に依子は戸惑いの声を上げた。
(あの時のことをずっと謝りたかった。あなたの大事なものを壊してしまって、謝りきれないくらい申し訳なく思ったから……)
「……」
依子は絶句した。こちらは美春に対して恨みなど少しも抱いていないのだ。それなのに、
(償いなんてできないことはわかってる。でもこれだけは、改めてきちんと伝えたかった。だから……ごめんなさい)
深々と頭を下げてくる少女に、依子は軽く息を呑んだ。
この人はそのためだけにこんなところまで来たというのか。たった一度しか会っていない人間にただ謝るためだけに。
依子はほう、とたまっていた息を吐き出した。
「いいの、もうそのことは、別に」
(……でも)
「また少し、お話したいけど……いいかな」
雪が弱くなった。寒さは変わらないが、だいぶましになった。
(……うん)
少女の頷きに依子は小さく微笑んだ。
結界が張ってあるため、美春は屋敷内に入れない。依澄に頼めば解いてもらえるだろうが、今は姉と顔を会わせたくなかった。
二人は屋敷から少し離れて、畑道の傍らにぽつりと建っている東屋に入った。
町内にある休憩場所の一つで、畑仕事の合間によく使われている場所だ。寒さはあるが、雪を被らなくて済むのでましといったところか。
木製ベンチに腰掛けると、二人は顔を見合わせた。
(……話、って?)
「あ、うん……」
依子は軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。
別に大層な話をするわけではない。ただ、わだかまりなど一切ないことをちゃんとわかってもらいたかった。
「ここ、私のふるさとなの」
(……そうなんだ)
「うん。でも私は八年間戻ってこなかった。戻れなかったの」
美春が訝しげに目を細めた。
依子は続ける。
「緋水の神様……ここの土地神様に私の魂を受け入れてもらえなくてね、ここから離れなくちゃならなくなったの」
(……?)
「でも美春さんが私の魂の形を変えてくれたおかげで、私はここにまた戻ってこれた。美春さんにそんな気がなかったのはわかってるけど、それでもここに戻ってこれたのは美春さんのおかげ」
(それは……)
「だから、恨むどころかむしろ感謝してるの。美春さんが負い目を感じる必要なんてないんだよ」
(……)
美春は何も言わない。無表情な顔は、話を理解できているかどうかもよくわからない。
ただ、納得はできていないようだ。
(……私の犯した失敗が功名だったと?)
「結果的にね。だから気にする必要はないんだよ」
(……それは、責任を負わなくていい理由には、ならない)
無表情に美春は思い捨てた。
「そんな、頑なにならなくても」
(違う。あなたはもう縁の力を失ってしまったんでしょう? それは決して軽くないんじゃないの?)
「――」
真正面から問い掛けられて依子は息が詰まった。
それは――その通りだった。生まれた時からそれがあるのが当たり前で、今ここにないというのは、強烈な違和を感じて、
何より、怖い。
感覚を失うということがこんなにも怖いとは思わなかった。この一週間そ知らぬ顔をしながらも、ずっと不安だった。
だが、
「……うん、それは確かにそうだよ。でも、何かを失ったわけじゃなかった」
(……え?)
「周りは何も変わっていないよ。友達は普段と同じように接してくれるし、家族は昔と同じように温かい。大切な人たちはみんな変わってないの。変わったのは私だけ」
(……)
「……ううん、本当はみんな変わっていくのかもしれない。でも私はそれに気付かないし、周りも私の変化に気付いて変わるわけじゃない」
(……)
「私がどう受けとめてどう呑み込むか。たぶん……大事なのはそれだけだと思う」
何かが変わるということは、それほど特別なことではない。いつだって世界は変化し続けているし、永遠に続くものなど、ない。
力を失ったこと。それは決して依子の存在や意味を否定するものではないし、うつろいゆく日常の1ページにすぎない。
みんなあらゆる変化の中を生きている。失いたくないものもあるだろうし、失ってしまった者もたくさんいるはずだ。それでもそれを受けとめて生きている。
依子はこれからも生きていくのだ。ならばきちんと受けとめて、日常を歩んでいかなければならない。不安でも、怖くても、生きる気があるなら進まなければならない。
そしてその中で、大切なものを見つけていくことこそが大事なのだと思う。それは変わらない何かかもしれないし、変わってしまった何かかもしれない。
その大切なものが、自分にとっての確かなものになるのなら、不安や怖さを乗り越えられるのではないだろうか。
「もう起こってしまったことを変えることはできないよ。私にできることがあるとしたら、『頑張る』、それだけだと思う」
美春は無表情に思念を飛ばした。
(当たり前のことを当たり前にする……それが一番大事ってこと?)
「地道にまっすぐ進むことでしか人は生きていけないと思うの。劇的な何かを期待してもいいけど、それで何もしないわけにはいかないでしょ」
そして依子は、にこりと微笑んだ。
自分にできることを精一杯するのだ。そうすれば少しは、周りの人たちに何かを返せるかもしれない。
姉にも、きっと。
(そんなこと考えてたのね……)
美春は感心したように囁いた。
「あ、違うの。ずっとこんな考えを持ってたわけじゃなくて、さっきなんとなく思ったことなの」
(……そうなの?)
「美春さんが来るまでずっとうじうじ悩んでた。でも美春さんに会って、ふっきれたというか」
ちゃんと縁は繋がっている。これまでにやってきたことが水泡に帰したわけではないことを再確認して、これを途切らせてはならないと思ったのだ。
「だから、実はちょっと思い付きで言ったところもあるの。ごめんね、偉そうなこと言って」
そのとき、美春が優しげに微笑んだ。
綺麗な笑顔に不意を突かれ、依子はどきりとする。
(強いのね、あなたは)
「……そ、そんなことない、けど」
(でも、もう少し肩の力を抜いてもいいと思う)
「え?」
生霊の少女は笑みを収める。
(さっきから気になってた。無理して明るく振る舞ってるみたいだけど、本当は元気ないのかも、って)
「…………」
依子は言葉を失う。見た目は少女でも中身はずっと大人なのだろう。その鋭敏さは脱帽ものだった。
「かなわないなあ……」
(何かあった?)
依子はごまかし笑いを浮かべながら髪を撫で上げた。
「うん……なんていうか、私は恋愛には向かないなぁ、って話」
(……色事?)
「や、そんなんじゃなくて、ちょっと迷ってるというか」
うまく言えなくて、依子は悩ましげにポニーの黒髪を揺らす。
守は白い息を吐きながら、夜目を凝らして依子を探していた。
そんなに慌てるでもなく、屋敷の外を歩き回る。小降りの粉雪が僅かながらうっとおしいが、常夜灯が視界をかなりクリアにしていた。
しばらくして、少し離れた東屋に人影を発見した。
二つの影が見えた。声から一人は依子と判断する。ただ、もう一方から声は聞こえない。喋っているのは依子一人だ。
誰と会っているのだろうか。
目を凝らすと、依子よりも一回り小さい少女が、依子と共にベンチに座っていた。
邪魔をしてはいけないと思い、守は物陰に隠れたまま待機した。
ぽつりぽつりと呟かれる声が耳に届く。立ち聞きはしたくなかったが、鋭敏な聴力が嫌でも拾ってしまう。
自分にも関係のある話のようだった。
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次話
作者 かおるさとー ◆F7/9W.nqNY
庭を抜けるとき、昔馴染みのお手伝いさんに出会い、少しだけ話をした。親しげで温かい口ぶりがこちらを受け入れてくれてるようで、嬉しかった。
屋敷から二百メートルほど離れたところにある小さな二階建ての家に依子は向かった。裏の方により大きな道場があるのが特徴的な、遠藤家の敷地だ。
依子は直接道場に行くために、裏門へと回る。
やや低い塀に囲まれた敷地は広いが豪奢ではない。あくまで家と道場を囲むだけの塀と、華美さに欠けた狭い庭は住人の性格を表しているようだ。
びゅうと吹く木枯らしが、スカートの下の足を縛るように駆け抜けた。依子は軽くスカートを押さえて寒さに耐える。
(寒いなぁ……)
山の中ということもあるのだろう。豊かな自然に四方を囲まれ静謐な空気を湛えた土地は、都会に慣れた依子の肌を粟立たせる。
裏門から道場に近付くと大きな音と奇声が響いてきた。依子は入り口を恐る恐る開けて中を覗き込んだ。
板張りの空間の真ん中で二人の男が対峙していた。道着姿の守と昭宗がじりじりと間合いを測り合っている。
目に飛び込んできた瞬間、その張り詰めた緊張感に当てられて、依子は身をすくませた。
邪魔しないように慎重に扉を閉める。そろそろと忍び足で中に入った。
壁際に守の母、火梁(ひばり)が袴姿で座っている。火梁はすぐに気付いて小さく手招きをした。依子は隣まで寄っていき、同じように座る。道場だからか正座だ。
守が動いた。右足から前に踏み込み、相手の懐に入る。
昭宗は左足を奥に退くように滑らせる。守の体を内側に引き込むような体移動をこなし、上体をやや落とした。
瞬間、昭宗の右足が動いた。そこまでは見えたが、次の動作は依子には見えなかった。
気付いたら守が尻餅をついて倒れていた。
足を払われたのだろうか? そんな依子の疑問を置き去りにするかのように、昭宗がトドメとばかりにサッカーボールキックを放った。
「やっ――」
依子は反射的に叫ぼうとして、途中で止まった。
昭宗が踏み込んだ瞬間を狙って、守が軸足を蹴ったのだ。
座った状態から軽く押す程度の蹴りだったが、昭宗はバランスを崩した。
前のめりに傾ぐ相手の下半身に、守はすかさず組み付く。
同時に引き倒して背後に回り、腕と首を、
「ふっ!」
昭宗の右肘が背後についた守の脇腹に刺さった。
守は怯まず昭宗の首に腕を回し、絞めあげた。
「――」
昭宗の手がバンバンと床を叩いた。降参の合図。
守は慎重に腕の力を緩め、昭宗から体を離す。昭宗は少しだけ残念そうな苦笑いを浮かべた。
(勝った――)
守がまさか昭宗に勝つとは。昭宗は神守家の『盾』を務めるほどの力を持つはずなのに。守はそこまで強かったのか。
(……当たり前か。後継ぎだもんね)
いずれ守は遠藤家の役目を果たすため、神守の『盾』となる。本人もそう言っていたので、それは決定事項なのだろう。
それはつまり、神守依澄の『盾』となるということだ。
(あ……)
不意に昨夜見た夢のことを思い出した。
あれは遠い昔にあった出来事だ。小さい頃の依子と守。
あのときも冬だった。辺りは雪に覆われていて、吐く息が真っ白に消えていくのをよく憶えている。
そして、依子は言った。
――わたし、マモルくんのこと好きだよ。
守はありがとうと言った。依子はそれをマモルくんらしいなと思って、少しだけ寂しく感じた。守は何も言わずに、ただ立ち尽くしていた。
寒空の下の、小さな思い出。
そのときのことを記憶から掘り出して、依子は気付いた。いや、思い出した。
(……そうか)
あのとき守が浮かべていた顔。あれがすべてを表していて、依子はあのときに知ったのだ。
守は、きっと、
「依子ちゃん?」
急に声をかけられて顔を上げると、すぐ目の前に守の顔があった。
「ひゃっ!」
依子は思わずのけぞる。守は不思議そうに首を傾げた。
「だ、大丈夫? どうしたの?」
「な、なんでもない!」
激しく動揺しながら、そんな説得力皆無の台詞が出てくる。
咄嗟に話をそらした。
「あ、お、おめでとう。勝ったんだね」
「え? ああ、その前に結構ボコボコにされてるけどね」
言われてみると、頬辺りを切っており、手も多少腫れていた。
そのとき、帯を締め直しながら近付いてきた昭宗が笑った。
「いや、強かったよ。向こうでも稽古を続けているのかい?」
「基本稽古くらいしかできないですけどね。どうしても打ち込みとか型稽古ばかりになってしまって」
「それであれだけ動けるならたいしたものだ。ラストの軸足払いにやられたよ」
「いやもうとにかく夢中で」
男同士だと気が合うのか、二人は楽しげに談笑し始める。
「ほう。道理であんなに動きがバラバラだったのか、息子よ」
そんな男二人の会話に火梁が割り込んだ。
「剛法と柔法のバランスが全然なってない。これは私が揉んでやらなきゃダメだな」
「え」
守の表情が固まった。なんというか、嫌いな食べ物が食卓に並んだときのような、露骨に苦い顔だった。
昭宗がそれを見て苦笑を浮かべる。
「おや、兄貴もまだまだ元気みたいだね。じゃあ私が相手してやるよ。最近平和ボケがすぎるみたいだし」
「え」
昭宗の表情も固まった。なんというか、昔からのトラウマに出くわしたような、心底嫌そうな顔だった。
火梁は立ち上がると軽く伸びをした。それから振り返って、依子ににっこりと微笑んだ。
「大きくなったね、依子ちゃん。すごく見違えた」
「は、はい、ありがとうございます」
「本当はいっしょにお茶でも飲んで話をしたいところなんだけど、愚息と愚兄の相手をしなきゃいけないから、ちょっと待ってて」
「「いや、お構いなく」」
重なった男二人の言葉を火梁は軽く睨めつけて一蹴する。
そして邪悪な笑みと共に、気軽な調子で言い放った。
「ま、遠慮するな」
三十分後、道場の真ん中には息を切らして膝をつく男二人の姿があった。
左右を畑に挟まれた小道を、依子と守は歩いていた。
昨日は夜だったので周りもよく見えなかったのだが、こうして見回すとやはり田舎の風景が広がる。
四方を囲む山々は昔から変わらない。家はぽつりぽつりと散らばる格好で、土手や林や野原の方がずっと多い。
懐かしさばかりが込み上げてくる故郷の変わらなさに、依子は軽い心地よさを覚えた。
だが、一晩経ってこうして冷静に見てみると、多少の不安も感じる。
今の自分とこの土地に、縁はあるのだろうか。
「どうしたの?」
守の声に依子は顔を上げた。
首を振る。
「なんでもないよ」
「そう?」
「うん、ぼんやりしてただけ。てかマモルくんの方こそどうしたの? 声に張りがないけど」
「誰かが傷を増やしてくれたからね。脇腹痛い」
「それは……ご愁傷さま」
大きな怪我はないみたいだが、投げられたり転がされたりしたせいか打ち身が多いようだ。依子は苦笑いを浮かべた。
そのとき守が尋ねた。
「……やっぱり見えないと違和感ある?」
え? と依子は思わず固まった。
「ぼくには縁の糸なんて見えないから、それがどういう感覚かわからないけど、それって生まれつきのものなんでしょ? 五感がなくなるような感じなのかな、ってずっと考えてた」
「……ずっと?」
「依子ちゃんが先週ぼくの部屋に来てからずっと考えてた。で、なんとかできないか考えてた」
「……どうして」
何を言っているのだろう。守にできることは何もないのに、何もしなくていいのに、彼はそれをずっと考えていたというのか。
「だって、依子ちゃんがずっと不安そうにしてるから、取り除いてあげたくて」
「……でも、力をなくしたおかげで帰ってこれたんだよ?」
「いや、まあそれはそうなんだけど、それでも不安なのに変わりはないんじゃないかと思ってさ」
守は普段と変わらない口調で呟く。
「……昔からそうだよね」
「え?」
「マモルくんはいつも相手のことを考えてる。相手に合わせるのがうまい。だから、ちょっとかなわないなと思って」
この人はどんなときもお人好しで、気遣いを忘れないのだ。それは性質もあるが意識してのことなのだろう。依子には好ましく映る点だ。
「ありがとう、心配してくれて。でも大丈夫だから」
「……無理しないでね」
「大丈夫だってば。ここに戻ってこれてすごく嬉しいし、不安なんてないよ」
依子はにっこり笑うと、道の先へと駆け出した。
「ほら、先行くよ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ。さっきの稽古で体中痛くて」
「どんまいっ」
依子は親指をぐっと立てると、いとこは小さく苦笑を洩らした。
二人が到着した場所は林の奥に流れる小さな川辺だった。
清流が静かに上から下へ。山間を通る水の流れは透明度が高く、底の石々の丸みがくっきりと見えた。
小さい頃、依子たち三人の遊び場だった場所だ。
「さすがに冷たいね」
手を伸ばして水に触れる依子。冬一歩手前の時季。寒さが増せば一面凍りつくこともあるだろう。
「でも懐かしい。ここも変わってないんだね」
夏にはよく川遊びをした。三人で暑い日射しを浴びながら、水をかけあったり魚を捕ったりした。
「……綺麗だね」
微かなせせらぎに耳を傾けながら、依子はぽつりと呟く。
「うん。……座ろうか」
二人は近くの大きな岩の上に腰掛けた。そのままただ何とはなしに遊び場を眺める。
「依子ちゃん」
「ん?」
守が口を開いたので、軽く聞き返した。
「しばらくさ、うちを訪ねてこなかったよね」
「――」
少し不意打ちだった。
「あ、えっと、その、」
慌てふためく依子。その様子を守はじっと見つめる。
その反応に対してか、不意に破顔した。
「……よかった」
「え?」
「少しはぼくのこと、意識してくれてたみたいだから」
嬉しそうに守は頬を緩ませる。
「一番怖かったのは、あの告白をなかったことにされることだったんだ。でも少しは意識してもらえてるみたいだね」
「なかったことって、そんなことしないよ」
「かもしれないけど、人の心は読めないからさ。さっきの反応見るまでびくびくしてたよ」
「は、反応って」
動揺を表に出しすぎたことに依子は赤面した。だって、いきなりあんなこと訊いてくるから。
「本気なんだ、それだけ」
「……わかってるよ」
先伸ばしにしていた答えを、そろそろ明確にしなければならないのかもしれない。依子は小さく深呼吸した。
「……あのとき、すごくびっくりしたんだよ」
「……ごめん」
「いきなりプロポーズなんて、サプライズもいいところだよ」
「……」
小さくなる守。
「……でも、嬉しかったかな」
「っ、」
「初めて人から告白されたし、周りで一番信頼できる人が相手だったから……うん、嬉しかった」
「……」
いとこを横目で見やる。真剣な眼差しとぶつかり、慌てて目を戻した。
微かに逡巡が生まれる。
依子はぐっと歯を噛み締めた。
「……でも私、正直よくわからないの。マモルくんのことは大好きだけど、恋愛なのか親愛なのか、自分でもよくわからない」
「……」
「……私にとってね、マモルくんはずっとお兄さんだったの。ずっと頼れる兄だったから、そういう目で見てこなかった」
「……」
「でも、今は……意識してる。ちょっと不思議な感じだけど、そういう目で見てる」
「……」
胸がどきどきした。自分の素直な気持ちを吐露するのは、少し恥ずかしい。
「でね、今朝夢を見たの。昔の、私がまだ八歳になる前の夢」
あまり順序立てて話せていないのは依子自身の心が波打っているためだろうか。
「マモルくんに私はこう言った。『わたし、マモルくんのこと好きだよ』って」
「……」
「マモルくんはこう言った。『ありがとう』。そのときにね、気付いたの。マモルくん、お姉ちゃんのことが好きだったんだよね」
「……」
守は答えない。
依子は構わず続ける。
「それでね、思ったの。マモルくんには私よりもお姉ちゃんの方が似合ってるんじゃないかなって」
「……え?」
守の顔が変わった。
予想外の言葉だったのか、表情が強張る。
「お姉ちゃんもマモルくんのこと好きなんだよ。多分、私よりもずっと想いは深い」
「いや、それは」
「マモルくんが今でもお姉ちゃんのことを好きなら、私よりもお姉ちゃんの方を優先してあげて。私はいいから」
「依子ちゃん!」
鋭い声に依子は口を閉じた。
守の目が鋭さを増している。少し怒っているようだった。
「依子ちゃんは依子ちゃんで依澄さんは依澄さんだ。比べることじゃない」
依子は怯みかける。だが、自分は、
「言ったはずだよ。私はマモルくんのことを好きかどうかよくわからないって。あのときの言葉は、恋愛とは違うものだったんだよ」
七歳の頃の出来事なのだ。そんなあやふやな心を引っ張り出して応えることなど、依子にはできなかった。
「それよりもちゃんと好きでいてくれる人を大切にすべきだよ。それとも、マモルくんはお姉ちゃんのこと嫌いなの?」
「――」
「そんなはずないよね。マモルくんはお姉ちゃんのこと、私を好きになるよりもずっと昔から好きなはずだから」
守の想いに応えられるかどうか、依子には自信がない。だが、姉にはそれがあると思う。
それに、それだけじゃなくて、
「……お姉ちゃん、昔から優しいんだよ。私、お姉ちゃんと喧嘩したことほとんどない。いつもお姉ちゃんから折れてくれた」
「……」
「あの人はいつもそう。いつだって自分以外の誰かを優先するの。私はそういうお姉ちゃんが大好きだし、憧れてる。マモルくんだってそうでしょ? 誰かに世話を焼くのはお姉ちゃんの影響でしょ?」
「……」
「でも、それっていつだって自分を後回しにしてるってことだよ。多分あの人は、好きな人さえ簡単に誰かに譲ってしまう。そんなの、私は嫌だよ」
「……」
「でも、もしもマモルくんがお姉ちゃんを選んでくれたら、きっとお姉ちゃんは自分を優先してくれると思うの。だから私は……」
「……嫌だよ」
守が苦しげに言葉を吐き出した。
苦い思いが容易に測れるその響きに、依子は気圧された。
「依澄さんのことは好きだよ。でもそれが依子ちゃんに対する気持ちを上回ることは、ない。ぼくは君しか選ばない」
守の目には明確な光があった。強い想いのこもった目だ。
依子は茫然と相手を見つめる。
「……お姉ちゃんはどうなるの?」
「依澄さんは強い人だから、きっと大丈夫だよ。ぼく以外の人に巡り会えるかもしれないし」
「……冷たいよ、マモルくん……」
「かもしれない。でも、誰かを選ばなければならないのなら、ぼくは自分の想いに正直になる」
「……私にはできないよ。自分の気持ちがよくわからないのに、正直になんて」
瞬間、依子の体が傾いだ。
守に肩を抱き寄せられて、依子は相手の体にもたれかかった。
「ちょっと、マモルく、」
慌てて顔を上げると、いとこの顔が目の前にあって、
(え?)
硬直したときには唇を奪われていた。
守の顔が今までにないくらい近くにある。生温かい感触がひどく現実感を伴っていた。
何の反応もできずに、依子はただ固まっていた。
初めてのキスは数秒で終わり、気付いたときにはもう相手の顔は離れていた。
「……依子ちゃん」
「……」
依子は何も言わない。何を言えばいいかわからなかった。
恋愛に疎い依子でも、守の想いの深さは充分感じ取れた。
こんなに好かれてしまっている。こんなに愛されてしまっている。
それはきっと嬉しいことだ。この胸の高鳴りはキスの余韻だけじゃないと思う。
だが、その深さが、依子には辛かった。
「……」
「……」
互いに何も言えず、時間だけが無為に過ぎる。
清流の音がやけに哀しげに聞こえた。冷たい風に体を縮め、空を見上げる。
暗い雲が少しずつ天を覆っていくのが見えた。
雪が降ってきそうだったので、二人は川辺から離れた。そのまま緋水の家へと歩き始める。
気まずさから互いに一度も口を開かなかった。喧嘩ではないが、不用意に何かを言えばより気まずさが増すのではないかという危惧があって、会話を躊躇させた。
こんなに互いの心が乖離したことがあっただろうか。依子は以前を振り返り、寂しくなった。前みたいにずっと兄でいてくれれば、こんなに悩むこともなかったのに。
だが、守はずっと想いを抱えていて、何も感じていなかったのは自分だけだったのだ。いつかは向き合わなければならないことだったはずだ。
縁視の力を持っていたにも関わらず、守の想いに気付かなかった自分は本当に馬鹿だ。何のための力だろう。
想いを受け入れた方がいいのだろうか。このいとこの真剣な想いを、受け入れて、
「……?」
気付くといつの間にか屋敷の前に着いていた。
門の前には、着物を着付けた姉の姿。
「お姉ちゃん」
「……」
依澄は不思議そうにこちらを見つめてきた。小首を傾げて漆黒の瞳を優しく和らげる。
依子には理解できない、優しさを湛えた目。どんなときも色褪せることのない深さを持つ目。
昔から、姉はよくわからないところがあった。
歳が少し離れているせいもあるだろう。いつだって依子の先にいて、依子を守ってくれる存在だった。
誰にも頼らず、弱味を見せない。そして誰かのためにいつも働きかけるのだ。
依子はそれがずっと嫌だった。姉を守りたくて、姉の役に立ちたくて、一生懸命背伸びをしていた。
後継を競ったのもそれが理由だった。才能はなかったが、姉に憧れて、同時に負担を減らしたくて、依子は依子なりに頑張った。
だが、それが報われることはなかった。いつだって依子は助けられる側で、姉は一人違う場所に立っていた。
そんな姉が一つだけ執着するものがあった。同い年の男の子だ。
縁視によってずっと見てきたのだ。姉が他とは違う想いを彼に抱いている様を。そしてそれはきっと今でも変わらない。
なのに、その彼は自分のことを好きだと言う。
応えられるわけがなかった。その想いに応えてしまったら、姉はもう、何も特別なものを持たなくなってしまう。
ずっと守られて、こちらは何も返せなくて、さらには逆に奪おうとしている。そんなことできるわけがなかった。
依子は思う。自分は守が好きなのだろう。恋愛か親愛かはともかく、想いに応えたいと思うから。
だが、姉も同じくらい大好きなのだ。ならばそれに対してどうするかは、もう一つしかないと思う。
依子は気軽な口調で話しかけた。
「お仕事終わったの?」
依澄はこくりと頷く。
「雪降るらしいから早く中に入ろ? 今日はマモルくんもこっちで食べてくって言うし」
できるだけ平静な声で言うと、依澄が口を開いた。
「……何か、ありましたか?」
静かな問いにどきりとした。
口を開いたということは、今の問いかけが依澄にとって重要であるということだろう。何かを感じ取ったのかもしれない。
依子は微笑み、首を振った。
「何もないよ。河原に行って、懐かしい気持ちに浸ってたの」
「……本当に?」
依澄は訝しげな顔で、依子ではなく守を見やった。
「えっと、」
「本当だよ。ね?」
依子は目で守を抑える。守はうまく返せずに黙り込んだ。
「……」
依澄はしばらく不審な顔をしていたが、やがて何も言わずに小さく頷いた。
「どこまで行ってたの? 遠出って聞いたけど」
「少し、東京まで」
「東京……私ほとんど行ったことないなぁ。ディズニーランドには行ったけど……あれは千葉か」
「……」
「でも早く帰ってこれてよかったね。夜から一気に寒くなりそうだもんね。遅くなってたらきっと大変で……」
依子は空々しい会話を続ける。
棘が深く突き刺さるようで心が痛かった。
部屋の襖を閉めて隅の暖房ヒーターのスイッチを入れると、依子は行儀悪く畳に寝転がった。
どっと疲れが出て全身に広がっていく。天井に向かって大きく息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じた。
誰かが前に言っていた。
「お前には誰かいるのか?」と。
いる。依子には大切な人たちが。才能がなく、力も失った自分を支えてくれる、大切な家族。
それは、依子が縁視によって誰かを手助けしていたのとは違うのかもしれない。
それでも依子は救われた。それの一番はやはり姉なのだろう。姉がきっかけを作ってくれたからこそ、依子はここに戻ってこれたのだから。
なのに、自分には何も返せない。
そんな自分にできることがあるとすれば、
思考を巡らせるうちに、依子の頭はゆっくりと眠りに落ちていった。
夢は、見なかった。
「……?」
自室の布団の上で体を休めていた神守依澄は、不意に違和感を覚えて顔を上げた。
外の方で何か妙な気配がするのを感じ取った。外と言っても近くではなく、屋敷から三キロメートルは離れているようだが。
この緋水の土地では依澄の感覚は文字通り『神懸る』。
普段なら絶対に捕捉できない距離だが、土地神の力が憑依するこの地では、依澄の霊感は極限まで研ぎ澄まされるのだ。
依澄は気配の位置を正確に捉えるために意識を集中させた。
「……」
少しだけ驚く。
対象は魂が何にも守られていない、剥き出しの状態のようだ。しかし明確な意思を持たない脆弱な霊とは違い、動きは知能の高い生物のそれである。
珍しい。生霊がこの地に来るなんて。それも二人も。
悪意や殺意は見られないので悪い相手ではなさそうだ。むしろ魂の質は優しい感触を受ける。
なぜかこちらに向かっている。
ゆっくりながら、確かにこちらを目指して来ている。何の用だろうか。少なくとも依澄に心当たりはない。
「……」
屋敷の周囲には結界が張ってある。こちらから招かない限り侵入される心配はない。
依澄は迷う。対処すべきかどうか。放っておいても問題はなさそうだが。
しばらく様子を見よう。依澄は相手の位置を捕捉したまま、再び横になって目を閉じた。
居間の方では両親が守と話をしているようだ。
そして依子は、自分と同じように休んでいる。
「……」
魂が昨日よりもブレている。心が不安定なためだろうが、何か心配事を抱えているのだろうか。
依澄は体を休めながら、意識は一切休まずに周りに気を配っていた。
何かあれば、いつでも飛び出せるように。
声が、聞こえた。
瞬間、依子は驚きのあまり飛び起きてしまった。
「え……?」
周りを見回す。
高い天井に小さな卓。暖房の音は微かで、障子の向こうからしとしとと音が聞こえる。雪が降っているようだ。
何も気にするようなものはない。
(夢だったのかな……)
人はいつも夢を見ているというが、必ず覚えているわけではない。今の依子に夢の記憶はなかった。
ただ、声が聞こえた気がしただけで。
知った声だった。
それに気付いた瞬間、依子ははっとなった。
なんとなく、もう会うことはないのだろうと思っていた。なのにその声を聞いたというのは、不思議な縁を感じる。
(そうか……)
縁を見る能力がなくなったからといって縁そのものがなくなったわけじゃない。
たぶん彼女とはまだ縁が繋がっているのだろう。
あんな別れ方をしたために中途半端になっていたが、心の隅でずっと気になっていた。
(……力はなくなっても、縁は残ってるんだね……)
少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しかった。
それが今の自分なのだ。
「……」
声が聞こえたということは近くに彼女がいるということだ。なぜ彼女がこの地にいるのかはわからないが。
依子は立ち上がると、ハンガーにかかったコートを取り、素早く羽織った。
そして暖房のスイッチを切ると、部屋を出て玄関へと向かった。
その頃守は、緋水夫妻と居間で話をしていた。
依子も依澄も疲れたのか、自分の部屋で休んでいる。夕食までまだしばらくあるので、守は昭宗と火梁に対する愚痴などで盛り上がっていた。
そこに夕食を作り終えた朱音も加わり、三人で談笑していたのだが、途中から朱音が昔の話を始めた。
それは、依子の話だった。
朱音が依子にどんな気持ちを抱いているのか、どれだけ依子を大事に思っているのか、その話からはっきりとした愛情が伝わってきて、守は嬉しくなった。
依子は愛されている。周りにとても恵まれ、大事にされている。
だが依子は、それを素直に受け取ろうとしないところがある。
その理由はわからないが、守はそれが嫌いだった。依子は幸せになっていい人間だし、幸せになってほしいと思う。できることなら自分の手で幸せにしたいと思う。
好意を受け取るのを怖がらないでほしい。それをわかってほしいと切に思った。
「……あれ?」
玄関の方で音がした。足音と、扉が一旦開いてすぐに閉められる音。
「……依子ちゃん、かな」
守の鋭敏な聴覚は靴音の微妙な差異を聴き分けた。依澄の草履の音ではなく、スニーカーの軽い靴音だった。
時刻は七時。外はもう真っ暗だ。加えて雪もちらほらと降り始めているようで、外に出るのは少々危ないだろう。
「ちょっと見てきます」
守が言うと、朱音はにっこり笑ってひらひらと手を振った。
「帰ってくるまでにご飯並べておくから。りこちゃんをよろしくね」
そして立ち上がろうとした昭宗の腕を掴み、台所へと引きずっていく。
「あっくんは手伝い」
「いや、私も依子が心配、」
「『盾』は主に逆らっちゃダメ。それに、まーくんに任せとけば大丈夫よ」
「……」
ずるずる連れていかれる昭宗に、守は苦笑を浮かべた。
「すぐに戻りますから」
守はそう言うと、少しだけ速い足取りで玄関へと向かった。
外に出ると、真っ暗な空から白い雪がさらさらと流れるように降っていた。
玄関の明かりを受けて微かに輝く銀色。寒々とした風が顔を撫で、依子は身震いした。
また、声がした。
(聞こえる?)
聞こえた。はっきりと、頭の中に少女の声が。
依子は庭をそろそろと慎重な様子で渡り、門の前まで近付いた。
いるのだろうか、そこに。
門を開けた。
広がる闇の中、家の前の常夜灯が雪景色を照らしている。
誰もいなかった。
依子は一瞬きょとんとなり、それからため息をついた。白い息が顔にかかるように立ち上る。
気のせいだったのかもしれない。考えてみれば当たり前だった。彼女がここまで来ているわけがない。私がここにいることさえ知らないのに。
(…………依子)
そのとき再び声が頭に響いて、依子は弾かれたように顔を上げた。
門から出て依子は駆け出す。近くまで来ている。なぜかは知らないが、確かに今の思念は、
「――」
白い世界の真ん中で、依子は案山子のように立ち尽くした。
目の前に小さな人影が立っている。その背は依子よりずっと小さくて、依子よりずっと深い目を持っていた。
「……美春さん」
美春という名の少女は、小さく頷いた。
「……どうしてここが?」
依子の質問に思念が返ってきた。
(明良に手伝ってもらったの。明良は魂を感知したり探すのが得意だから)
「あきら……?」
(私のパートナー。この前、あなたも会ったはずだけど)
言われて依子は思い出した。見た目は美春とそう変わらないくらいの歳の少年。彼が明良というパートナーなのだろうか。
「え? でもその人は?」
姿が見えないことに疑問を抱くと、美春が答えた。
(彼も私と同じ生霊。ただ、普段は幽体でいるから今は見えない。でもちゃんとここにいる)
「そう、なんだ」
見えないが、美春がそう言うならそうなのだろう。依子は気にしないことにした。
「えっと、こんばんは」
(うん……)
二人は互いに挨拶を交わし、そして黙り込んだ。
何を言えばいいのだろう。どこかに引っ掛かっていた思いがあったはずなのに、本人を目の前にするとそれが出てこない。
依子は目前の少女を見やる。相変わらず口を開かない。
やっぱり姉に似ていると思った。直接会うとどう接すればいいか迷ってしまうところまで、よく似ている。
美春が微かに身じろぎをした。
(あの)
「う、うん」
(私……あなたに謝りに来たの)
「……え?」
予想外の言葉に依子は戸惑いの声を上げた。
(あの時のことをずっと謝りたかった。あなたの大事なものを壊してしまって、謝りきれないくらい申し訳なく思ったから……)
「……」
依子は絶句した。こちらは美春に対して恨みなど少しも抱いていないのだ。それなのに、
(償いなんてできないことはわかってる。でもこれだけは、改めてきちんと伝えたかった。だから……ごめんなさい)
深々と頭を下げてくる少女に、依子は軽く息を呑んだ。
この人はそのためだけにこんなところまで来たというのか。たった一度しか会っていない人間にただ謝るためだけに。
依子はほう、とたまっていた息を吐き出した。
「いいの、もうそのことは、別に」
(……でも)
「また少し、お話したいけど……いいかな」
雪が弱くなった。寒さは変わらないが、だいぶましになった。
(……うん)
少女の頷きに依子は小さく微笑んだ。
結界が張ってあるため、美春は屋敷内に入れない。依澄に頼めば解いてもらえるだろうが、今は姉と顔を会わせたくなかった。
二人は屋敷から少し離れて、畑道の傍らにぽつりと建っている東屋に入った。
町内にある休憩場所の一つで、畑仕事の合間によく使われている場所だ。寒さはあるが、雪を被らなくて済むのでましといったところか。
木製ベンチに腰掛けると、二人は顔を見合わせた。
(……話、って?)
「あ、うん……」
依子は軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。
別に大層な話をするわけではない。ただ、わだかまりなど一切ないことをちゃんとわかってもらいたかった。
「ここ、私のふるさとなの」
(……そうなんだ)
「うん。でも私は八年間戻ってこなかった。戻れなかったの」
美春が訝しげに目を細めた。
依子は続ける。
「緋水の神様……ここの土地神様に私の魂を受け入れてもらえなくてね、ここから離れなくちゃならなくなったの」
(……?)
「でも美春さんが私の魂の形を変えてくれたおかげで、私はここにまた戻ってこれた。美春さんにそんな気がなかったのはわかってるけど、それでもここに戻ってこれたのは美春さんのおかげ」
(それは……)
「だから、恨むどころかむしろ感謝してるの。美春さんが負い目を感じる必要なんてないんだよ」
(……)
美春は何も言わない。無表情な顔は、話を理解できているかどうかもよくわからない。
ただ、納得はできていないようだ。
(……私の犯した失敗が功名だったと?)
「結果的にね。だから気にする必要はないんだよ」
(……それは、責任を負わなくていい理由には、ならない)
無表情に美春は思い捨てた。
「そんな、頑なにならなくても」
(違う。あなたはもう縁の力を失ってしまったんでしょう? それは決して軽くないんじゃないの?)
「――」
真正面から問い掛けられて依子は息が詰まった。
それは――その通りだった。生まれた時からそれがあるのが当たり前で、今ここにないというのは、強烈な違和を感じて、
何より、怖い。
感覚を失うということがこんなにも怖いとは思わなかった。この一週間そ知らぬ顔をしながらも、ずっと不安だった。
だが、
「……うん、それは確かにそうだよ。でも、何かを失ったわけじゃなかった」
(……え?)
「周りは何も変わっていないよ。友達は普段と同じように接してくれるし、家族は昔と同じように温かい。大切な人たちはみんな変わってないの。変わったのは私だけ」
(……)
「……ううん、本当はみんな変わっていくのかもしれない。でも私はそれに気付かないし、周りも私の変化に気付いて変わるわけじゃない」
(……)
「私がどう受けとめてどう呑み込むか。たぶん……大事なのはそれだけだと思う」
何かが変わるということは、それほど特別なことではない。いつだって世界は変化し続けているし、永遠に続くものなど、ない。
力を失ったこと。それは決して依子の存在や意味を否定するものではないし、うつろいゆく日常の1ページにすぎない。
みんなあらゆる変化の中を生きている。失いたくないものもあるだろうし、失ってしまった者もたくさんいるはずだ。それでもそれを受けとめて生きている。
依子はこれからも生きていくのだ。ならばきちんと受けとめて、日常を歩んでいかなければならない。不安でも、怖くても、生きる気があるなら進まなければならない。
そしてその中で、大切なものを見つけていくことこそが大事なのだと思う。それは変わらない何かかもしれないし、変わってしまった何かかもしれない。
その大切なものが、自分にとっての確かなものになるのなら、不安や怖さを乗り越えられるのではないだろうか。
「もう起こってしまったことを変えることはできないよ。私にできることがあるとしたら、『頑張る』、それだけだと思う」
美春は無表情に思念を飛ばした。
(当たり前のことを当たり前にする……それが一番大事ってこと?)
「地道にまっすぐ進むことでしか人は生きていけないと思うの。劇的な何かを期待してもいいけど、それで何もしないわけにはいかないでしょ」
そして依子は、にこりと微笑んだ。
自分にできることを精一杯するのだ。そうすれば少しは、周りの人たちに何かを返せるかもしれない。
姉にも、きっと。
(そんなこと考えてたのね……)
美春は感心したように囁いた。
「あ、違うの。ずっとこんな考えを持ってたわけじゃなくて、さっきなんとなく思ったことなの」
(……そうなの?)
「美春さんが来るまでずっとうじうじ悩んでた。でも美春さんに会って、ふっきれたというか」
ちゃんと縁は繋がっている。これまでにやってきたことが水泡に帰したわけではないことを再確認して、これを途切らせてはならないと思ったのだ。
「だから、実はちょっと思い付きで言ったところもあるの。ごめんね、偉そうなこと言って」
そのとき、美春が優しげに微笑んだ。
綺麗な笑顔に不意を突かれ、依子はどきりとする。
(強いのね、あなたは)
「……そ、そんなことない、けど」
(でも、もう少し肩の力を抜いてもいいと思う)
「え?」
生霊の少女は笑みを収める。
(さっきから気になってた。無理して明るく振る舞ってるみたいだけど、本当は元気ないのかも、って)
「…………」
依子は言葉を失う。見た目は少女でも中身はずっと大人なのだろう。その鋭敏さは脱帽ものだった。
「かなわないなあ……」
(何かあった?)
依子はごまかし笑いを浮かべながら髪を撫で上げた。
「うん……なんていうか、私は恋愛には向かないなぁ、って話」
(……色事?)
「や、そんなんじゃなくて、ちょっと迷ってるというか」
うまく言えなくて、依子は悩ましげにポニーの黒髪を揺らす。
守は白い息を吐きながら、夜目を凝らして依子を探していた。
そんなに慌てるでもなく、屋敷の外を歩き回る。小降りの粉雪が僅かながらうっとおしいが、常夜灯が視界をかなりクリアにしていた。
しばらくして、少し離れた東屋に人影を発見した。
二つの影が見えた。声から一人は依子と判断する。ただ、もう一方から声は聞こえない。喋っているのは依子一人だ。
誰と会っているのだろうか。
目を凝らすと、依子よりも一回り小さい少女が、依子と共にベンチに座っていた。
邪魔をしてはいけないと思い、守は物陰に隠れたまま待機した。
ぽつりぽつりと呟かれる声が耳に届く。立ち聞きはしたくなかったが、鋭敏な聴力が嫌でも拾ってしまう。
自分にも関係のある話のようだった。
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作者 かおるさとー ◆F7/9W.nqNY
2008年01月20日(日) 10:58:00 Modified by n18_168