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純情プレパラート

 満員電車に乗るとき私はドアの傍にいく。
 ドアの収納口近くに取り付けられた手摺りが私のお気に入り。
 都心に向かう電車は毎朝混んでいて、人見知りな私は周りの人と視線を合わせたくなく
て、ずっと窓の外を見てる。
 窓から見える田圃とか通過する踏み切りの音も好き。
 痴漢にあっても一駅我慢して、乗車口を変えればやり過ごせる。

 でもその日はドアの傍にいけなかった。
 人身事故のせいで人が多くて、ドアの傍に行こうとする私のわがままな動きは人の波に
押し流された。吊革にも掴まれない一番嫌いな場所。煙草くさい。俯いて前の人の鞄を見
てる。見慣れた鞄。うちの学校の人。
「かや……相原さんじゃん、おはよ」
「ぁ、相川くん……」
 相川くん。男子の出席番号一番の人。私は女子の一番。入学式から最初の席替えまで隣
の席だった人。人見知りの私に構ってくれる人。「かや」ってなんて言おうとしたんだろ。
かやこ? なんで相川くんが私を名前で呼ぶんだろ。学校で誰にも名前で呼ばれたことな
い。
「今日、人多いな」
 相川くんが私を見てる。私は相川くんのネクタイの結び目を見てる。いつも綺麗な形。
器用な人なんだ。返事しなきゃ。
「ぇ……あの、今日……人身事故で」
 だから電車が遅れてて、人が多くて。私はドアの傍行けなくて、そしたら相川くんがい
て。

「相原さんって駅までチャリ?」
 チャリ……自転車。
「ぇ……うん。自転車」
「今日チャリ乗ったらさ、ギッタンバッタンいうわけ」
「パンク?」
「そうそう。漕ぐとギッタンバッタンってなるじゃん。しょうがないから走ってきた」
 相川くんの顔を一瞬だけ見る。汗びっしょり。髪が汗で張り付いてる。タオル貸したほ
うがいいのかな。
「足、速い……」
 相川くん足速いよね。速いよねって言ったら偉そうかな。でも私が走ってきたらきっと
遅刻してる。
「そうでもないって。チャリ使わないと近道できるし」
 私は目を泳がせて相川くんを見る。右手で吊革に掴まって、左手で鞄。ちょっと大きい
口。唇が荒れてる。髪が張り付いてる。目が私を見てる。どこ見てるんだろう。他の子み
たいにブラウスの第二ボタンを開けてたら相川くんも見たりするのかな。
「近道?」
「ん、ああ、うちって駅から直線で近いんだけど、道路通ってないから」
「遠回り?」
「神社抜けてショートカット。階段あるからチャリ通れないんだよな。ていうか神主に怒
られそうだし」
「……うん、怒られそう」
「だよなー」

 電車が揺れますのでご注意ください。
 いつものアナウンス。
 相川くんと話すのに一生懸命で、車内放送を聞き流す私。
「相原さん、揺れ――」
 彼がぼーっとしてる私に注意しようとしたとき、がくんっ。揺れた。
 今日はドアの傍じゃないから掴まる場所ない。ヤダ倒れる。周りの人に迷惑かける。脇
から強い力でひっぱられて止まった。倒れてない。強い力が肩甲骨の辺りを鷲掴みにして
私を引き寄せる。制服が引き攣る。相川くんの手だ。電車が逆に揺れた。彼の胸に飛び込
む形になる。車内がざわめいて落ち着いた。
「ぇ、ぁ……」
「あ、ごめん、相原さん倒れそうだったから」
 お礼言わなきゃ。
「ぁ……うん……」
 ありがとう。言葉が出ない。私はいつもそう。
 背中がもぞもぞしてる。
 相川くんが私の後ろの人と私の背中の間から手を抜こうとしてる。でも車内は混みすぎ
るほど混んでて、それ以上したら私はともかく後ろの人が怒りそうだよ相川くん。手の動
きが止まった。
 彼の手は結局そこに留まることにしたらしい。ちょっと気まずい。相川くんは左手がお
かしい動きにならないように気を使ってくれてるけど、でもそこブラの紐だよ。恥ずかし
すぎる。
 それから駅に着くまで二人とも黙ってた。左手が私の背中をしっかり支えてくれて、ま
た電車が揺れて、吊革、相川くん、私が一塊で揺れて、身体が触れて、耳まで赤くなって
た私はずっと俯いて、早く到着して欲しかったけど、このままでいたかった。
 相川くんはその間ずっと私を見てた。と思う。

 相川くんに抱えられるようにして電車を降りて、左手が自然と離れた。彼に触れられて
いた場所が急に涼しくなった。気恥ずかしくて彼の後ろについてホームを歩いていく私。
 そのとき彼のシルエットが不自然なことに気づいた。
「ぁ、あの、相川くん、鞄」
 そうなのだ。私が倒れそうになったとき、彼は左手の鞄を放して支えてくれた。降りる
まで彼の左手はずっと私の背中にあったから、彼の鞄はまだ電車の中。乗客の足元で踏ま
れてるかもしれない。
「あ、ちょ、やばいって」
「どうしよう」
 二人とも慌てまくって、ホームを右往左往して――相川くんも私も電車の中に大事な物
を置き忘れるのは初めてだったのだ――駅員さんに聞いたら、忘れ物は三駅先の終点で車
内点検のときに回収されることを教えてくれた。
 終点まで取りに行くと私たちは完全に遅刻だ。私も一緒に行くと言うと相川くんは言っ
た。
「相原は先行っててよ。二人とも遅刻したら家に電話来そうだろ。先生に事情話しといて」
「でも……」
「ほんと気にしないでいいって。つか楽しかったし」
 そう言って、相川くんはにこにこしながら、左手をにぎにぎさせた。
 私が思わず笑ったら彼も笑いだした。

 結局、相川くんの鞄は無事に戻ってきた。少し汚れていたけれど、親切な人が網棚にあ
げてくれたおかげで、ひどく踏まれたりもしていなかったみたい。
 それからどちらともなく電車の時間と乗車口を合わせるようになって、私たちは一緒に
登校するようになった。

作者 2-587
2008年01月20日(日) 18:50:07 Modified by n18_168




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