日本の周辺国が装備する兵器のデータベース


▼中国航空博物館所蔵のJ-12試作機(初期型)。

▼1996年に南昌飛機製造公司で復元されたJ-12試作機(初期型)

▼J-12試作機(初期型)三面図。

▼中国航空博物館所蔵のJ-12(後期試作型)。胴体下部の様子を確認できる。

▼ショック・コーンを設け、主翼形状を変更するなどの改良を施した後期試作型。カラー写真の機体は南京航空航天大学収蔵のもの。



性能諸元
重量通常離陸重量4,450kg、最大離陸重量5,295kg、空虚重量3,100kg
全長7.192m
全幅10.664m
全高3.706m
エンジン渦噴6乙ターボジェットエンジン(WP-6B)ドライ30.4KN、A/B39.716KN×1
最大速度M1.472
航続距離1,385km(増槽付き)
上昇限度17,410m
武装30mm機関砲×1、23mm機関砲×1
 PL-2赤外線誘導空対空ミサイル×2
乗員1名

J-12(殲撃12)は、南昌飛機製造公司(現洪都航空工業集団)が文化大革命中に開発した小型軽量戦闘機である。

中国空軍は1967年4月、「小殲(小型戦闘機)」に関する研究開発計画を提示した。この計画では、毛沢東の人民戦争論に基づき、「人民戦争の需要に適応し、空中遊撃戦を展開する」戦闘機が求められた。つまり空軍は「空のゲリラ戦」を行うための戦闘機を要求したのである。空軍が提示した開発目標は、機動力が高く、短距離離着陸能力を有し、整備・維持に手間がかからず、低コストで生産可能な小型戦闘機というものであった。上記の記述から明らかなように、これは文化大革命当時の政治的傾向の影響を強く受けた計画であった。

J-12の開発は南昌飛機製造公司によって1969年7月から着手された。開発主任は、Q-5攻撃機の開発を担当し「中国攻撃機の父」と呼ばれた陸孝彭が担当した。しかし同時期の文化大革命による混乱はJ-12の設計にも影を落とすこととなり、開発主任の陸孝彭が「反革命」の罪状で投獄・虐待を受ける事態も発生している。陸孝彭は、周恩来首相の働きかけで3日後に出獄、体調がある程度回復した3日後からJ-12の設計作業に復帰した。

1969年8月には設計案が完成し上部機関での批准を受けた。以後、細部設計、風洞試験、機体の製造、強度試験などを経て、1970年12月26日には、試製1号機の初飛行に漕ぎ着けた。開発着手から初飛行まで、わずか1年5ヶ月という短期間であった。

J-12の設計においては、機体の小型化と良好な空中機動性の確保に配慮が払われた。J-12のエンジンである渦噴6乙ターボジェットエンジン(WP-6B)は、J-6(MiG-19)戦闘機に搭載されていたWP-6の改良型であった。ただし、J-6はWP-6を2基搭載しているのに対して、J-12は1基のみを搭載している。J-6の半分の推力で良好な機動性を確保するため、機体重量はJ-6の半分(空虚重量4.5t程度)に抑えることが定められた。そのため、機体のサイズを小型化することに意が払われ、機体規模は小型戦闘機であるJ-5(MiG-17)よりもコンパクトに纏められた。軽量化のため機体構造や素材について新技術が多数盛り込まれた。主翼には中国の戦闘機としては始めてインテグラルタンクが採用、機体各部にハニカム構造が取り入れられて軽量化に勤めている。陸孝彭技師は、超音速飛行時における空気抵抗減少のためエリアルールを設計に採用しようとしたが、「J-5やJ-6に採用されていない技術を採用する必要は無い」とする設計局の「革命領導幹部」による根拠の無い反対にあってエリアルールの採用は葬られた。

J-12の機体形状は、低翼の単発機で、主翼には後退翼が採用されている。機体サイズは、全長7.192m、全幅10.664m、全高3.706m。軽量化が図られた重量については通常離陸重量4,450kg、最大離陸重量5,295kg、空虚重量は目標の4.5tよりも軽量な3,100kgに抑えられた。機体の小型化により、J-12は良好な機動性能と加速性を得ることに成功した。J-12の海面高度からの上昇率は、180m/sとJ-7戦闘機の160m/sを上回り、高度5,000mでの最小旋回半径は1,140mとJ-6戦闘機の1,200mよりも良好な性能を得ている。加速性については、高度5,000mでマッハ0.9からマッハ1,2に加速するまで65秒を要するが、これはJ-6の85秒、アメリカのF-5Aの140秒を上回る数値である。

空軍が要求した短距離離着陸性能については、離陸距離500m、着陸距離510mを確保した。これはJ-5戦闘機の離陸距離590m、着陸距離825mよりも短くすることに成功した。また、草原など不整地からの離着陸に備えて異物吸入防止装置が機首部に装備している。

J-12の最高速度は高度11,000mでマッハ1.472。巡航速度はマッハ0.95。ただし、エリアルールを採用しなかったことから超音速飛行時の空気抵抗が大きく、マッハ1.2以上の飛行を維持するのは困難であった。燃料搭載量は、機内に1,250kg、400Lの増加燃料タンク2基を搭載可能。航続距離は増加燃料タンク搭載の状態で1,385km。

エンジンは、推力ドライ30.4KN、A/B時39.716KNの渦噴6乙ターボジェットエンジン(WP-6B)単発。空気取り入れ口はJ-5やJ-6と同じく機首に配置されている。改良型では超音速飛行における空気吸入効率を向上させるためにインテークにショック・コーンが設置された。

兵装は、固定武装として、主翼付け根左部に30mm機関砲1門(装弾数80発)、同右部に23mm機関砲1門(装弾数120発)を装備しているほか、PL-2赤外線誘導空対空ミサイルを2発搭載する。ただし、機体が小型のため、高度な火器管制システムやレーダーを搭載することは出来ず、これは後にJ-12の欠点として問題となる。

J-12の試作機は、1973年9月10日に政府高官の前で展示飛行を行った。この席でJ-12の空中機動性能は高く評価されることとなった。ただし、同時に最高速度をマッハ1.5に向上することが求められた。これは、超音速飛行時に空気抵抗の大きなJ-12にとっては困難な課題であった。

この時期から次第にJ-12を取りまく状況は厳しくなっていった。「小殲」計画の推進者の1人であった林彪が、1971年に失脚、亡命中に墜落死を遂げたことにより、「小殲」計画自体が、林彪の個人計画であると見なされるようになり、批判の対象とされるようになった。その過程で、機体設計時には求められていなかった短い航続距離や、レーダーの未搭載、貧弱なアビオニクス、火力不足などが問題視されることとなった。

南昌飛機製造公司での開発作業においても、開発を急いだためかJ-12の試作機ではさまざまな不具合が発生していた。開発陣は12項目にわたる大規模な改修を施し、インテークにショック・コーンを追加装備し、主翼上反角を減少させるなどの改称を実施して、1975年7月1日から飛行試験を再開した。J-12の試作機は合計7機が製造されている。しかし、1978年、小平の経済開発優先政策に基づき国防事業の大幅な整理再編が行われ、J-12は事業見直し対象とされ開発中止が決定された。

J-12の開発経緯を振り返ると、その全ての段階において政治的動向に左右され続けた戦闘機であったことが分かる。最終的には、「空中遊撃戦」という当初の見積もり自体が時代状況に適合しなくなり、J-12は、搭載力や航続距離に劣り、貧弱なアビオニクスしか有さず、機体の発展余地も少ないとして廃案とされるに至った。陸孝彭技師はその後もJ-12の発展型の研究を継続しており、1980年には海軍航空隊に対して、J-12をベースとした離島防空戦闘機を提示した。これは、戦闘機の支援を行うのが困難な洋上の島嶼部において、J-12改良型の離着陸が可能な小規模な航空基地を作り、その地の拠点防空任務に当たるという計画であった。この案は採用されることは無かったが、1990年代初めには再びJ-12の艦載機型を海軍に提案している。これは、J-12のエンジン推力を向上させ新たな改修を行う余地を作り、新型レーダーと火器管制システムを搭載しBVR-AAMの運用能力を付与させる。機体には電波吸収塗料を塗布してステルス性能を向上させ、空中受油装置を付与して航続距離の延伸を行うという野心的なプランであった。こちらの案も海軍の採用するところとはならず、ペーパープランに終わった。

【参考資料】
彭子強「殲-12設計鮮為人知的故事」所載:『航空週刊増刊B-中国空軍空戦実力掲秘』(航空週刊雑誌社)
程昭武、沈美珍、孟(昔+鳥)鳴『中国名機珍蔵』(中国民航出版社/1998年)

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